『Sounds of the City』

写真は、被写体がかつて確かにそこにいたこと、そして同時に(少なくとも当時の姿では)もういないことを絶対的な事実として突きつける。 このことは、小説、少なくともバルトにとって重要なプルースト的な小説に似ている。 何かが語られるのは、それが終わった後にしかありえない。 語られた出来事は、取り返しようのない距離で隔てられた過去として表れる。 言ってみれば、小説の始まりにはいつも写真がある。...

『音楽が終わった、その後で』

誰かに気持ちを許すことは油断すると甘えてしまうことに繋がりやすい。甘えは芯の方からじわじわと蔓延し、やがて全てを食い尽くす。なんてね。 思いやりを持った自立した人間でありたいと思うよ。一応は。未来を思うと吐き気がするし、今を思っても寒気がする。思考を捨てて過ごすのが精神衛生上は宜しいというのはわかるんだけど、それもちょっとちがう。 一生戯言を抜かしたいので、そのために精一杯体裁を整えよう。 “小さな旅”のはじまり、「ぼくらが旅に出る理由」 魔法がかかる、という表現についての聴覚的回答 病院 W.G.ゼーバルト『アウステルリッツ 』について ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』について IN THE CITY River’s Edge アナログ・ミュージック 山田かまちを巡って 村上春樹について 〈知覚の扉〉を叩いて 絶対的な瞬間について 滝口悠生『愛と人生』を読んで考えること あの頃、僕らが夢中になったのはこんなレコードだった。 “小さな旅”のはじまり、「ぼくらが旅に出る理由」 2017年3月9日 by 宝田 とまり これは何度も懲りず無謀な旅に出る前の“小さな旅”のはじま...

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古市憲寿『平成くん、さようなら』を読む。

『平成くん、さようなら』読み終わり。 安楽死というテーマに対する社会学である著者のアプローチと、それを平成という時代を絡めて小説というコンテンツで見事に表現する構成力はデビュー作としては見事。著者を思わせる平成くんという主人公を恋人の一人称から描く距離感も著者らしい。 著者の来歴や作風も含め田中康夫の『なんとなく、クリスタル』は比較されうる作品であるが、『なんとなく…』は恐らく当時あの作品を読んで共感できる人が多くいたからこそ、現在でも80年代の時代の空気を切り取ったという評価が一般化されているのだろう。 だが、その事を踏まえると『平成くん…』は果たして平成という時代の映し鏡のような作品だろうかということを考えると必ずしもそうでない気がする。逆説的にはそれこそが平成という時代の多様性や格差の象徴なのかもしれないが、僕にはほぼ同時代を生きてきた平成くんと愛ちゃんの2018年の日常は想像し難い。 東京湾に面した家賃130万のタワーマンションや特殊な労働環境、移動手段はほぼタクシーで身につけている服は俗に言うハイブランドものとという彼ら。その彼らの寂しさや辛さにいまいち共感が持てなかった。も...

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あの頃、僕らが夢中になったのはこんなレコードだった。

10年弱前のmixiの日記に大学4年間で刺さった10枚みたいなものを書いていたのを偶然見つけた。ほぼ全てインディーロックで時代を少し感じたのと自分可愛いかったなと暖かい眼差しで読んだ。 どうも!今日は僕が大学4年間に聴いたアルバムの中から特に素晴らしかった10枚をピックアップして紹介します。 興味のない方は僕の牧場に虫でも入れてお引取り下さい。 それなら公開しなきゃいいじゃないか?もっともです。でもあえて公開するのはちょっと見てもらいたい気持ちもあるからです。笑 スタートする前に注意事項を!今回は70’s~2000’sの中から10枚を選びました。 なぜ、60’s(50’sはともかく)を外したのか。かのピッチフォーク(アメリカの音楽サイト)も60’sはアルバムのランキングを公開せずに、曲のランキングだけに留めてあります。おそらく音楽基地外の集団であろうピッチフォークでも「ごめん、60sはアルバムで順位はつけれねーわ。わかるだろ?」的なことが英語で書いてありました。それをたかだか4年間音楽をかじった程度の僕が安...

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柄谷行人と村上春樹-デカルト、フッサール、サルトルと構造主義からの批判

デカルトのコギトにしても、フッサールの超越論的自我にしても、サルトルの無の自由にしても、それらは超越論的主観である。 そして、それは形式的であり人間中心主義だと構造主義から批判される。 超越論的主観による形式化に対する批判が構造主義からなされたのだとすれば、なぜ、フランス現代思想はある種文学的な文体を持つ文章なのかということは確かに理解できる。 他方で、日本のポストモダン文学史の中での柄谷行人による村上春樹批判はその超越論的主観を問題視した。 また、フランス文学者の蓮實重彦もサルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』の翻訳を15年に渡り放置した言われ、そこにはある種のサルトルフォビアがあったのではないかと考えられている。 そう考えてみると、文壇における村上春樹批判というのはむしろ文芸批評家による哲学的コギト批判にも思える。 だが、他方で柄谷行人はデカルトを評価している。デカルトは哲学界の悪役でコギト的であると評価されているが、しかし、常に共同体の外で考えようとした人間だと評価するのだ。 この共同体は言語ゲームを互いに共有する人々であろう。であるならば、柄谷行人による村上春樹批判は何を意味...

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