柄谷行人と村上春樹-デカルト、フッサール、サルトルと構造主義からの批判

デカルトのコギトにしても、フッサールの超越論的自我にしても、サルトルの無の自由にしても、それらは超越論的主観である。
そして、それは形式的であり人間中心主義だと構造主義から批判される。

超越論的主観による形式化に対する批判が構造主義からなされたのだとすれば、なぜ、フランス現代思想はある種文学的な文体を持つ文章なのかということは確かに理解できる。

他方で、日本のポストモダン文学史の中での柄谷行人による村上春樹批判はその超越論的主観を問題視した。
また、フランス文学者の蓮實重彦もサルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』の翻訳を15年に渡り放置した言われ、そこにはある種のサルトルフォビアがあったのではないかと考えられている。
そう考えてみると、文壇における村上春樹批判というのはむしろ文芸批評家による哲学的コギト批判にも思える。

だが、他方で柄谷行人はデカルトを評価している。デカルトは哲学界の悪役でコギト的であると評価されているが、しかし、常に共同体の外で考えようとした人間だと評価するのだ。
この共同体は言語ゲームを互いに共有する人々であろう。であるならば、柄谷行人による村上春樹批判は何を意味したか。

それは、大きく言えば全共闘世代、つまり、解放区を共有した者同士の共同主観性を前提とした主観を超越論的主観として他者との関係を考慮する意思のないインポになった新左翼への批判でもあったのではないか。

だが、問題は、むしろ他者を持たないはずの超越論的主観の作家である村上春樹の作品が世界中の人々に救済として受容されていることだろう。
その意味を、ポップなファストフードとして消費されていたとしても、また、問わねばならないのではないか。

投稿者プロフィール

CoMA
CoMA
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

1 Comment

  1. […] […]

    返信

コメントを残す

Scroll to top
%d人のブロガーが「いいね」をつけました。