誰かに気持ちを許すことは油断すると甘えてしまうことに繋がりやすい。
甘えは芯の方からじわじわと蔓延し、やがて全てを食い尽くす。なんてね。

思いやりを持った自立した人間でありたいと思うよ。一応は。
未来を思うと吐き気がするし、今を思っても寒気がする。
思考を捨てて過ごすのが精神衛生上は宜しいというのはわかるんだけど、それもちょっとちがう。

一生戯言を抜かしたいので、そのために精一杯体裁を整えよう。



“小さな旅”のはじまり、「ぼくらが旅に出る理由」

2017年3月9日 by 宝田 とまり

これは何度も懲りず無謀な旅に出る前の“小さな旅”のはじまりについてのことだ。

先日突如として、小沢健二の19年ぶりとなるニューシングルが発売された。
発売を機にテレビなどメディアへの出演も果たし、近年表舞台での活動を控えていた小沢健二のカムバックに歓喜するファンの声がネットを中心に話題となった。
言わずもがな、僕もその一人である。

彼の代表曲の一つに「ぼくらが旅に出る理由」という歌がある。のちに数多くのアーティストにカバーされテレビCMにも使用されるなど、発売から20年以上が経つ現在もその人気は絶えない。
僕がこの曲に深い思い入れを抱くきっかけとなった出来事がある。それは2010年2月にとあるラジオ番組が行った「小沢健二とその時代」という放送だった。

当時まだ大学生だった僕は就職活動も終わり4月から新社会人として働くことが決まっており、残りわずかな大学生活でやり残したことはすべてやってしまわねばと焦燥感に駆られていた。内定していた会社は希望していた業界や職種とはかけ離れているにも関わらず、大学時代のようにいくらでも自分の好きなことに時間や労力を割ける生活が望めないことは自明だった。毎日一緒だった友人たちと離れることを考えると、焦りというより絶望的な気持ちの方が強かったかもしれない。本当にぼくらに旅に出る理由などあるのだろうか。誰か理由くらい教えてくれてもいいだろうと「ぼくらが旅に出る理由」の歌詞を追った記憶がある。

遠くまで旅する人たちに あふれる幸せを祈るよ
ぼくらの住むこの世界には 旅に出る理由があり
誰もみな手をふっては しばし別れる

上記は、「ぼくらが旅に出る理由」の歌詞の一部の引用だ。
歌詞を最後まで読めば明らかなのだが、この曲の中で「旅に出る理由」というのは明示されない。
具体的な理由に触れられないものの、人は旅に出ることがあるし旅に出ることは即ち“しばし”の別れが訪れるものだということが象徴的に歌われている。
答えのないこの歌詞に当時はもどかしさを感じていたかもしれない。

あれから8年、社会に出て働くことや転職に伴ういくつかの旅と別れを経験してきた。
時間が経つにつれ、旅についての心境の変化があったようにも思う。当たり前のことなのだが、旅に出ることは視野や行動範囲を格段に広げ、一方で永久の別れを生み出すようなことはない。理由についてもそうだ。旅に出る瞬間にはこれといった具体的な理由にこだわる必要はなく、振り返った時初めてその理由を見出せたりするのも旅の面白さなのかもしれない。そう考えると当時の自分が可愛らしくもあり、これからの旅にも思いを馳せることができる。

今日は良く晴れている。天気読みの必要はなさそうだ。


魔法がかかる、という表現についての聴覚的回答

2015年4月27日 by Heiwagokko

よく耳にする言葉だけれど、はっきりとした定義がわからないもの。

特に音楽を言葉で表す時にそういうものに出くわすケースが多い。(のではないかと)
グルーヴ、メロウ、スウィング、アーバン…

(”アーバン”に関しては山下達郎がmm…oh! Honey!
と歌う時に感じるキラキラとした感覚がそれだとベイビーキッズ達に伝えるようにしています。)

今回の主題は”魔法がかかった”という表現について。

2015年現在僕達一般の人間にとって、意図して何かに魔法をかけることはできません。
ただ、ある偶然や必然の事情が絡まることで初めて意図せず”魔法がかかる”ことがあります。

今回紹介するレコードは1963年のミラクルズのライブ盤、”The Miracles On Stage”
(魔法と言っておきながら、ミラクルズ・オン・ステージというタイトルに齟齬は感じますが笑)

タイトルで検索にかけても日本語ページがあまりヒットせず、youtubeでも音源が出てこないので一般的には評価を得ているアルバムでは無いと思うのですが、是非ご一聴を。
ブートでは無くきちんとTamlaからリリースされています。

録音環境も悪く、演奏も歌もそれぞれ出来が良いわけではないのですが、観客の声、演者の息遣いがあいまって見事にライブというものの一回性を閉じ込めた素晴らしいアルバムに仕上がっています。
B面の終わり、おなじみ”抱きしめたい”からの”Way Over There”の流れには音楽の心地よさや空間芸術性(言い過ぎかな)が詰まっています。

”魔法がかかる”

お解り頂けるでしょうか?

mp3では無く、ノイズ混じりのアナログでご賞味下さい。


病院

2017年2月1日 by Heiwagokko

‪病院に行った。彼女の名前を伝え病室を聞き出して訪ねると、ベッドの四方にはぴったりとカーテンが張り巡らされていた。‬‬‬‬‬
‪恐る恐るカーテンを捲ると、眠っている彼女の身体にいくつも管が下がっていた。‬‬‬‬‬
‪自分が普段眼を瞑っていた事が急に表出したかのような光景に呆然として暫く立ち竦んだ。‬‬‬‬‬
勿論大した病気では無い。
しかし否応にも無くイメージが湧いてくる。
死のイメージ。

15年程前に祖父が亡くなった。
自分にとっては近しい人が去った初めての事だった。
末期癌で、最期には苦しむ事が無い様にと薬が投与された。
普段関わりの薄い、親等の近い者だけが最期に病室に通され言葉を交わしに行った。

自分は祖父を愛していた。祖父も自分を愛していた。これは揺るぎの無い事実だったと思う。
子供だから、孫だから、まして血が繋がっていないからという理由で遠ざけられることの意味が全く分からなかった。それは今も分からない。

死のイメージ。

これから歩行訓練がある。見られたくないから帰って、と彼女は意思の強い眼で僕に言った。分別のある大人を演じて病室を出た。

初めて結婚しようと思った。


W.G.ゼーバルト『アウステルリッツ 』について

2017年7月16日  GU

歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。
彼は顔を過去の方に向けている。
私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつの破局だけを見るのだ。
その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。
きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。

ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。
この嵐が彼を、背を向けている未来の方へと引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。
私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。

ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」

不可知の暗闇、ぽっかりと空いた大きな穴を迂回する小説という印象もある。
避けているし、そもそも近づこうにも近づけない。
アウステルリッツがたびたび披露する建築にまつわる考察や薀蓄は、自分自身の歴史・あるいは現在から目をそらすための時間稼ぎ、方便だと感じた。
それが、避けているということ。

しかしそれだけではなく、自分の歴史と向き合い、探求を始め、今度は自分から近づこうとしても、決して近づけない真っ暗で巨大な穴の存在を思い知らされる。
そうして、ひとまずこの作品は終わる。

ゼーバルトの作品を読んでいると、幽霊を見るとはどういうことかと考えさせられる。
幽霊とは、当人の人格から切り離された残留想念、あるいは人の記憶や場所に残った痕跡から再生される映像のようなものだと思う。
そしてそれは時間にも関係する。
古い建物やがれきの山を歩いて、積もった歴史を紐解く、それは一種の時間旅行だし、幽霊に出会うことでもある。

ゼーバルトは幻視者だが、その幻視は、幽霊・過去・歴史そのものではなく、それが刻まれた廃墟・瓦礫であるところが面白い。
いつどこにいても、彼の眼前には記憶の刻まれた廃墟が姿を現す。


ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』について

2017年7月12日 by GU

『ロラン・バルト』(中公新書)を読んで最も印象に残ったのは小説を書こうとして書けないバルトの姿だった。
この『明るい部屋』は、ひとまずは写真論であるが、同時に小説論であり、小説に踏み出そうとして踏み出せないバルトの逡巡の跡であることが読み進むにつれて明らかになっていく。

この本でバルトはストゥディウムとプンクトゥムという2つの概念を提示する。
ストゥディウムは文化的なコードで読み解ける、言うなればタグ付け可能なものである。
それに対してプンクトゥムはストゥディウムを破壊して、見る者を突き刺す。

それは、1つは写真の意味をかき乱す細部であり、もう一つは、被写体がかつてあったという時間の感覚である。
写真は、被写体がかつて確かにそこにいたこと、そして同時に(少なくとも当時の姿では)もういないことを絶対的な事実として突きつける。

このことは、小説、少なくともバルトにとって重要なプルースト的な小説に似ている。
何かが語られるのは、それが終わった後にしかありえない。
語られた出来事は、取り返しようのない距離で隔てられた過去として表れる。
言ってみれば、小説の始まりにはいつも写真がある。


IN THE CITY

2018年3月18日 by CoMA

週末の夜は、大学時代からの友人たちと飲んだ。
彼らと会うのはだいたい渋谷だ。学生の頃はよく渋谷に来た。HMV、TOWER RECORD、ディスク・ユニオンを巡り、宝探しのように中古のCDやレコードを掘り当てていた。それから、すこし原宿方面に歩いて古着屋を巡り歩いて、あれも宝探しのようだった。あとは、なにかがありそうな期待感からCLUBに行って、でも結局、そんなところに出会いなんてぼくらにはなにもなくて、夜明けまで飲んで過ごして、目に刺さるような朝焼けの太陽を見ながらぼくらは始発の井の頭線に乗ったんだ。

結局、ぼくらが〈渋谷〉に求めているのはなんなのだろう。
ショップの店先で流れるサウンド、流行のマジックナンバー、街角に溢れるシーン、アルコールで漂う中飛び込んでくる電飾、深夜の交差点を行き交う人波、誰かのクラクション。

「また会おう、それじゃ」
「すこし歩こうか」
「もう一軒、飲み直そうよ」

人波の中で聞こえてくる、そんな会話の断片。

渋谷も、もう若者の街ではないかもしれない。
ストリートはInstagramに、古着屋やファッションはメルカリやZOZOTOWNに、レコード屋はYouTubeやApple MusicやSpotifyに取って代わられてしまった。
もちろん、ぼくらももう若者じゃない。この10年のあいだに、政権だって二回も変わった。

だけど、それがどうしたって言うんだ?
時代が変わったってなにも変わらないじゃないか。時と共に、人間も変わるものだろうか? すくなくとも、ぼくは、人間はそんなに変わるものじゃないという立場を取るし、そんな変わらない人間を大事に思いたい。変わらずに人間の心の奥にある柔らかいところを愛しているから。それから、もしも、そんな風に考える人と人が出会い理解し合うことができたならば、と。

「最近は、なにを聴いているの?」
出版業界から広告代理店に転職した友人にたずねた。
彼はいまでもディスク・ユニオンに通ってレコードを発掘していた。Mr.digg。

「レコードはもう古いのばかり聴いているよ。ファラオ・サンダースとか、アフリカン・ファンクとか。最近のものは、そうだな、カニエ・ウェストの新譜とか。あとは、すこし前だけどコーチェラ・フェスのビヨンセ観た?」

「観てないな。今度、観てみるよ」とぼくは言った。

「だけどね、最近の新譜はけっこう良いんだよ。音楽業界って1999年に売り上げがピークになって、それ以降、売り上げが落ちているんだよ。これは国内のデータだけどね。世界的に見たら、1999年というのは、Napsterが登場した年でもある。その後、2005~2007年のあいだにYouTubeが登場してさ。ちょっと違うけれど、『ラジオ・スターの悲劇』みたいな話だよね。ちなみに、2003年にMySpaceがはじまって、2006年にはmixiミュージックが開始した」

「mixiミュージック。あれ、良かったよね。みんなで、あいつはなにを聴いてるんだろう? このアルバム知らないぞ! やばい! 聴かなくちゃ! みたいにね」

「そうだった」と言ってぼくらは笑った。

「けどさ、音楽業界の失速とか再編が原因で、それで音楽活動やめちゃった人も多いんじゃないかな。残念だけど。
けど、考えてみたらほんとうに音楽をやりたい人たちはもう手元の楽器とiMacなんかでDIY的に作っちゃってYouTubeなんかで流通できるんだよね。TofubeatsとかDAOKOも最初はインターネットで活動して出てきたもの。
だけど、もっと大きいのはほんとうに音楽が好きな人は、結局、音楽業界に残ったってことだね。最近の若いバンド、ceroとかSuchmosなんか、かっこ良いものね」

「だからさ、俺はこれからも音楽というカルチャーの未来については、楽観的なんだ。ずっと、いい音楽聞き続けられるかもね」
そう彼は笑った。


River’s Edge

2018年3月18日 by CoMA

現在から当時を遡行しつつ若者の心理を描いた作品として良かった。
ケータイ(PHS)の普及以前(1995年PHSサービス開始)、インターネットの登場以前(1995年が日本におけるインターネット元年といわれる)、オウム事件以前(日本社会のうわべとその精神病理が暴かれた1995年)の物語。

僕は近年のある種の映像には生々しさが欠けていると感じていたのだが(ここでいう映像はアダルトな意味でのAVも含む)、『リバーズ・エッジ』の映像には生々しさがあった。そこには、デジタルやPhotoshopやフォトジェニック以前の生々しさが描かれていた。生のコミュニケーション。生きてる感じ。

80年代は浮かれた時代だったと言われる。『なんとなく、クリスタル』、ポスト・モダン、MTV。
しかし、90年代、世相は大きく変わる。消費社会の神話と構造、社会システムのマンダラが切り裂かれ、破壊的な人々の生の感情(生と死が隣接したものであるというヒリヒリした感情)が溢れ出た時代だった。

当時は現在よりも清潔でない時代だった。川は臭く、タバコはポイ捨てし、空き缶を川に投げ入れた時代。公害やオゾン層の破壊が問題として語られた時代。そんな時代だった。(現在の方が実際にはより深刻なのかもしれないが。)
グランジ(薄汚い)シーンの、カート・コバーンが死んだ年。1994年。

このドラマは、そんな時代の若者たちが描かれる。むき出しの生の欲動、生の不安。若者たちのSEXも今とは異なる描き方をされる。Xvideosなどはない時代だ。ネットを介さない欲望の露出。タナトスと一体化したエロス。もちろん避妊もしない。生の性体験。

「生きてるって感じする?」インタビュアーに聞かれた二階堂ふみ演じる主人公は答える。「どちらかと言えば、生きてない。」
登場人物はみな生きづらさを抱えている。生きることは、SEXすること、食べること、愛し愛されて生きること。
いじめ、性的マイノリティ、摂食障害、家族の不和、届かぬ愛。

文字通りの生のコミュニケーション、ヒリヒリした関係、傷を感じ人を傷をつける状況はトラブルを生む。
それを通して、ある者は死に、ある者は生き残り、ある者は場所を変え、ある者は留まる。
もちろん、みなに避けがたく傷跡は残る。

しかし、時代は変わった。このドラマの設定された時代から、24年。およそ四半世紀が経つ。状況は変わった。
若者ですら、当時ほどのヒリヒリした感覚で生きているかはわからない。とはいえ、愛し愛されて生きることに飢え満ち足りない気持ちは今でも変わりはしない。たとえ、デジタルに容易につながれても。

あるいは、インターネットの普及以降発展したネット文化やバーチャルな価値観。例えば、多くの承認を集めるネット上の各種システムとプラットフォーム上のアイドル群。そのシステムの欺瞞と精神的な空虚さが暴かれ明らかにされるのは現在これからであろう。

この作品の時代は1995年にひとつのパラダイムを終える。
その後は、ケータイとネットと、ある種の相対主義とマイノリティに対するリベラルさが普及した時代だった。同時に哲学や精神性は死に、社会学と統計学的な思考が普遍化した時代でもある。

ところで、この作品の1995年までのパラダイムは1972年からはじまった。
大きな物語の終焉の終焉、ポスト・モダンのパラダイムの終焉が1995年であった。
1972年から23年。
なお、1972年にまでのパラダイムは1950年朝鮮戦争からの復興と高度成長までのパラダイムであろう。
そして、1995年から23年が経った。

とはいえ、あらためて思ったのは、この四半世紀に(ここ数年くらいかもしれない)性的マイノリティ(LGBT)に対する理解は相当変化したのではないか。

主人公二階堂ふみがゲイの少年山田に「入れる方?入れられる方?ローションとか塗るの?」と質問すると「クリトリス舐められるのと、中に指入れられるのどっちが好き?ゲイだからってSEXの質問するの失礼でしょ。」と返される場面にはハッとさせられた。

それはともかく、映像として熱かったのは、主人公二階堂ふみの彼氏が浮気相手のあそことあそこにヘアスタイル用のムースの缶を入れるという場面。劇場に響くカラカラという音。
まじか。ドン・キホーテとそのアダルト・コーナーが普及して良かった。


アナログ・ミュージック

2017年3月19日 by CoMA

村上春樹の『騎士団長殺し』を読み、その中で音楽を聞くことの描写に関心を抱いた。
それは、主人公や友人がレコードやカセットテープといった時代遅れのメディアで音楽を聞くことが描かれている点である。
村上春樹は、そこに(”時代遅れのメディアで音楽を聞くこと”)どんな意味を込めて描いたのだろうか。そう感じたのだ。

ここ数年、レコードの復権やカセット・リバイバルがささやかれてはいる。
しかし、今さら、時代遅れのレコードやカセットテープで音楽を聞いてどんな意味があるのだろうか。

そこには、僕らがいつの間にか失ってしまった何か、なくしてはいけない何かがあるのだろうか。
あるいは、レコードやカセット・テープで音楽を聴くというのは、ある意味何らかの価値観の提示・アティテュードの表明だろうか。
では、それはどのような価値観・アティテュードの表明なのだろうか。

そして、最近、僕自身思わずカセット・プレイヤーとカセット・テープのライブラリを購入してしまった。
これはどんな意味を持っているのだろうか。

ゆらぎ性を持つレコードやカセット・テープの音の響き

まず、カセットについていえば、聴き始めてわかったのだが、カセット・テープの音の響きにはどこか絵画的な印象がある。そこには、ある種二次元的でありつつ、現実を浮遊した、いわば印象派の絵画のようなフィーリングがある。
レコードは臨場感があり生々しく写実的な絵画なのだが、カセットは中音域の音にフォーカスし背景は多少ぼやかされているので“印象派”的な印象を得るのだろうか。
そこに独特の柔らかさやスムースさを感じる。

あるいは、レコードがフィルム・カメラによる写真で、MP3がデジタル・イメージだとしたら、カセットはフィルム式のトイ・カメラやポラロイド・カメラに近い質感のフォトグラフだといえる。
トイ・カメラやポラロイド・カメラの質感をデジタルに再現して、若者に人気があるのがInstagramなどのiPhone/Androidアプリだが、そのような感覚で現在ではカセットが注目されているのかもしれない。

ところで、レコードやカセットの音とデジタル音楽では、何が異なるのであろうか。
その違い、メディア毎の音の響きの差は、記録の方法(方式)によるものが大きいのではないだろうか。

レコードやカセットは、音の波をそのまま記録する。
レコードは、音の波を物理的な溝として、カセットは電磁的なコードとして記録する。
それらは、音そのものを描画するという点でアナログなメディアである。
この音そのものが描画されていることが、音に豊かさを持たせているのだ。

他方、デジタルメディアは音そのものを描画するのではない。
音の波を、切り取り棒グラフに変換して描画して、その数値を01で記述する。
この音の波を切り取り棒グラフに変換するときに多くの周縁的な隙間が抜け落ちてしまうことが問題であり、さらに01への変換は全てを有と無に変換することであり、ゆらぎ性が失われることが問題である。

こういった記録の方法によって、“やわらかさ”や“ゆらぎ”に違いが出るのだ。

A面・B面の物語性
もうひとつ重要なのは、物語性である。

かつて、音楽は物語を持っていた。若者は、音楽で社会を変えられると信じていた。
しかし、現代の音楽にかつてのような物語性・思想的な意味が内包されているかは疑問がある。

現代はクラウドにある音楽をシャッフルで再生するような時代、
あるいは提供されたプレイリストの音楽を気分に合わせて聞く時代である。
そのような文脈に物語は成立しえない。
それはファスト・フードのように、何らかの欲求を満たすための、ファストな何かにすぎないだろう。

あらゆるものをデータベースからピックアップしてキュレーションする社会。
キャピタリズムとエンジニアリングの成れの果て、物語を失い真実の喪失に動揺する社会。

そういった状況の中で、レコードやカセット・テープで音楽を聴くことは、カウンターとしての意思の表明である。
つまり、それは「動物化するポストモダン」化した社会へのアンチテーゼではないだろうか。
それは、物語の喪失への異議申し立てであり、コンテンツのデータベース消費へのNoであり、全てが相対主義化した社会への批判だ。

もちろん、音楽は曲自体がひとつの物語を描いているものかもしれない。
しかし、レコードやカセット・テープは、シャッフル再生することはできないメディアである。
そして、そのことがより大きな意味を描き出している。

それらにはA面とB面があり、それぞれがその作品全体の前半と後半の構成として展開されていて、
作品全体として、その中に大きな物語が描かれているのだ。

2015年のグラミー賞を覚えているだろうか。
プレゼンターを務めたプリンスのスピーチが評判を呼んだ。

‟Albums, Remember Those? Albums still matter. Like books and black lives, albums still matter. ”
(アルバムって皆覚えてるかい? アルバムはまだ大事だ。本とか黒人の命と同じようにアルバムって重要なんだよ)

僕はいまカセットテープでプリンスの音楽を聴いている。

なぜ、音楽はデジタルであっては、十分ではないのか。
それは、音楽の本質によるものだ。

音楽はつねに超越を希求し体感するものであり、聴くものにとっては超越性との合一が快楽となる。
それは、現象からの解放であり、意識を溶解させ音楽の流れに身をまかせることだ。

では、なぜ、音楽は超越を希求するものなのだろうか。
音楽の役割は、経験的日常からの解放であり、日常を超えたところを体感することにあるからだ。
現実をある種の意味で否定し、超現実を体感すること、それが音楽を聴くことの意味だろう。

音楽が超越を希求してきたことは、キリスト教やインド哲学やチベット密教や浄土教の残してきたものを見れば明らかだ。
神の絶対性や神への愛を表現するものとして、すべてを包み込むような賛美歌があり、バッハの旋律があり、主への歓喜としてのベートーヴェンの第九がある。
あるいは、輪廻転生する生命体のブラフマンへの合一として、インド哲学やチベット密教における身体的な発生音としてマントラの音律があり、浄土教の極楽浄土への夢想として念仏や鳴り響く鐘の音があるのだ。

しかし、現在の音楽マーケットでの音楽は、そうではないといえるだろうか?
例えば、若い子たちが聴くラブソングなどは、現実における愛の不十分さに満たされない心境が超越的な愛を求め、それを満たすものとして震えるようなラブソングがある。
そういった意味では、ある種の夢想、非現実を想起し体感することを目的に音楽があるというのは変わらない。

音楽はデジタルであっては十分ではない、その問題は、この体感、音楽のフィジカル性にあるだろう。
仮に、グラフィック映像や電子ブックを考えてみる。
現代のグラフィック映像が多用された映画を見たときに、誰が臨場感を憶えないだろうか。
あるいは、電子ブックでテクストを読み、物語を想起するときに、そのデジタルさがどんな不具合をもたらすだろうか。
もちろん、そのデジタル技術の発達度にもよるが、ラディカルな問題としてはなんら支障は発生しないであろう。
なぜならば、それらは直接的に表象や観念に飛び込んでくるものであるからだ。
人間の論理の生み出したデジタルは表象や観念との親和性は低くないのだ。
問題は、それがフィジカルとの接触を持つときである。
デジタルのゼロイチの音は親和性のある響き、フィジカルな経験をもたらすことが難しいのだ。

音の波には、多くの周縁的な意味が含まれており、そこにはゼロイチあるいは有と無に変換することのできないゆらぎ性が含まれている。
それは、自然といわれるネイチャーの性質であり、ある種のヒューマニズムと似ているものだろう。
そういった意味では、人間の論理を超えた自然の摂理、生成消滅を繰り返す流転しつづける唯物論的な球体の論理こそ人間にとっては超越的なものなのかもしれない。

そして、その超越的な経験をするために必要なものとして、ゆらぎ性のある音があるのだろう。


山田かまちを巡って

2017年1月5日 by CoMA

山田かまちについて考えるとき、僕は抗いようもなく、17才の自分に戻ってしまう。

彼は、繊細で傷つきやすい、17才の青年だった。
そして、今でも17才のまま、その一瞬のかがやきを残している。

山田かまちの名前を知ったのは、まだティーンエイジャーになったばかりの頃だったと思う。僕は山田かまちと同じ高崎市で生まれ、育った。

記憶の中の高崎は、いつも風が吹いていた。
耳をすませば、ウォークマンのイヤホンを外した耳に、ヒューという風の音が響いて聞こえた。
ときおり思いがけず吹く風で砂ぼこりが目に入り、涙がにじんだ。
烏川をまたぐ長さ400メートルばかりの橋梁の上を、横風にあおられながら前のめりになって自転車で走り抜けた。
とにかく、乾いた強い風の吹く街だった。

13才~15才の抑圧されたむず痒い時期を中学校でやり過ごし、高校受験をなんとか切り抜けると、高校は山田かまちと同じ高崎高校に進学した。
そこは、かつて旧制中学だった男子校でバンカラな風土で有名だった。
たまらないくらい自由な日々だった。
まるで、すべてが許されているような気がした。
授業をエスケープして、図書館や市営のプラネタリウムで時間をつぶしたり、コパトーン(ココナッツの香りのサンオイル)を用意してプールサイドで日焼けをしたり、今はなき真下商店で駄菓子を齧りながら猥談ばかりしていた。
今思い返すと、あれは何だったのだろう。(もちろん留年しかけた。)
井上ひさしに『青葉繁れる』という小説があるが、あんな高校だった。
(余談だが、東京の大学に進学すると周囲のソフィスティケートされた立ち振舞いに、当初だいぶ戸惑いを感じた。)

三島由紀夫がどこかで「本当の卒業とは、『学校時代の私は頭がヘンだったんだ』と気がつくことです。」と語っていたように思う。いま思うと、確かに、当時は少しおかしかったように思う。

当時の僕は、タナトスの欲求に突き動かされていた。
死への欲求は、生の欲求である。
死を覚悟することによって、生の実感を得るのだ。
それはスリルの欲求であり、逆説的な快楽の衝動である。

一瞬一瞬の刹那的な生の実感を、限界まで求めていたように思う。

それは、美と超越の探求だった。
観念的で形而上学的な、存在と本質の追求だともいえる。

当時の僕を、友人は「躁鬱病みたいだった」というし、ある人は「あたまのおかしなチンピラだった」という。
おそらく、そうだったのだと思う。

ある時は女の子にどうしようもなく恋をしてライバルの男子を殴り飛ばしたり、
ある時は街のチンピラに目をつけられて追いかけまわされ必死に逃げ回っていた。

それは、刹那的な生の実感を得るための即物的な方法だった。
そして、そうすることによって実存の不安を解消していたのだ。

とにかく、当時、山田かまちの描いた絵と詩に、どうしようもなく共感してしまう自分がいた。

山田かまちは高崎高校に通う17才の時に自宅の2階でエレキギターに感電して亡くなった。
ビートルズに憧れて、ロックのサウンドに惹かれ、水彩画を描き、恋をして、詩を書いた。
そして、死んだ。

彼が17才の自分に向けたメッセージ。

感じなくちゃならない
やらなくちゃならない
美しがらなくちゃならない

当時、僕は焦燥感を抱いていた。
理由はわからない。
たぶん、そういう年齢なんじゃないかな。

あらゆる可能性があるように感じ、同時に、将来はまったく見えなかった。
エゴの肥大化と、実際の行動とのあいだには、大きな裂け目が存在した。

とにかく、何かしなくちゃいけなかった。
そうでなければ、ディオニュソス的な狂気に呑み込まれそうだった。
なにをすべきかは、わからなかったけど、とにかくエネルギーがあふれそうだった。
興奮して身体と心が震えてしょうがなかった。

もっともっと一瞬一瞬の感覚を鋭くしなければ、
もっとすべてに感動しなければ、
そしてこの瞬間を絶対的なものに純化しなければ、と感じていた。

実をいえば、いまでもこの感覚は忘れていない。
もしかすると、あの頃よりも、少しは慎重に、ほんの少しは大人らしくなっているとは思うけれど。
それでも時々、こみ上げてくるものがある。

だから、これは僕のためのメッセージでもあるんだ。

感じなくちゃならない
やらなくちゃならない
美しがらなくちゃならない


村上春樹について

2017年1月7日 by CoMA

『ノルウェイの森』をはじめに読むと、村上春樹が苦手になるといわれる。

ある空間への「入射角」というのは大事だ。
角度が浅ければ反射してしまうし、角度が深すぎるとすぐに失速してしまう。
乱反射するのも悪くはないが、できればスッと屈折することなく進むのが理想的だ。

その意味で、村上春樹の作品を『風の歌を聴け』から読み始めたのは幸運だった。
個人的には、小説を読む場合には、デビュー作から入り、次に代表作を読む、という流れがベストだと思う。村上春樹でいえば、『風の歌を聴け』から入り、『ノルウェイの森』を読んで、それから『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』と読んでいくのがいいと思う。

実をいえば、村上春樹の作品は大体読んでいる。
「ハルキスト」という言葉があり、熱狂的な信者を冷笑する人もいるが、それもあながち誤った解釈ではない。

聖書の膨大なテクストを、創世記、ヨシュア記、ルツ記、サムエル記、イザヤ書、エレミヤ書、詩篇、箴言と読み込んでいくように、気がつけば大体の作品は読んでいた。
同じような友人とは、冗談半分でこんな話をすることがある。
「もう村上春樹の新刊は慌てて読む必要はないよね。だいたい何が書いてあるのかわかるから。」

おそらく村上春樹の作品を初めて読んだのは、高校2年生の夏のはじまり、6月の文化祭のすぐ後だったと思う。
いつもどおり授業をエスケープして、高校の裏山の高台にある駐車場のベンチで、コカ・コーラを飲みながら、ケータイの電子メールで女子校の生徒とデートの約束を取り付けると、キャメルのタバコを吸いながら『風の歌を聴け』を読んだ。
強い日差しが文庫の白い紙の表面で反射し少し目にしみた。
駅ビルのスターバックスでの待ち合わせまで2・3時間ひまを持て余していた。
「まずデニーズで軽く腹を満たして、その後はホテルSUNに行こう。今日は彼女、何色の下着だろう。部屋で、冷蔵庫のビールで乾杯するのもわるくないな。」
そんなことを考えながら、軽く文章に目を通していた。やれやれ。

ところで、『風の歌を聴け』をはじめに、次に『ノルウェイの森』を、そしてその後で『1973のピンボール』という順で読んだことは、
村上春樹は1960年代の革命闘争・学生運動とその終焉を経験し、その後で喪失感の中を生きていく生活を描いたポスト・モダンな作家という印象を強く抱かせた。

フランス現代思想の旗手であるフーコーやアルチュセール、ドゥールーズが5月革命を経験して登場したように、日本のポストモダン作家の村上春樹もあの革命闘争・学生運動を経験して登場したんだというのが僕の感じ方だった。

たしかに、最近の著書には、ノンセクト・ラジカルであったことが示唆されている。
上記の順で本を読むと、その当時の作者の心象が、より鮮やかに想起されると思う。

日本におけるポストモダン。
80年代、浅田彰は『構造と力』や『逃走論』で「シラケつつノル」姿勢や「逃走」を提示した。
田中康夫は『なんとなくクリスタル』ですべてが商品・ブランド化した資本主義社会のライフスタイルをコマーシャルでビビットな表現で皮肉った。
法政大学の中核派だった糸井重里は「スカッと爽やかコカ・コーラ」「おいしい生活」というコピーを量産し、資本主義の内部で新たなライフスタイルの改革を試みた。

一方、村上春樹は、ただ社会とシステムに拒否をした。
新しいシステムに飲み込まれながら、社会については沈黙した。
そして、1995年の阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件まで、社会とのデタッチメントをつらぬいた。

デタッチメント、沈黙、それは強烈な否定だ。
作家の仕事は語ることである。その作家が語らないことを選択した。
それは単に、距離を置くというのとは違う意味を持っていたはずだ。

デートの最中で、彼女が黙ることがある。
昨日まで上目遣いで話しかけてきた後輩がある日、突然無視してくることがある。
そこには、怒り、嫌悪感、いきどおりが満ちている。

『風の歌を聴け』にはこんな文章がある。

それにもかかわらず、文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単だからだ。
十代の頃だろうか、僕はその事実に気がついて一週間ばかり口も聞けないほど驚いたことがある。少し気を利かしさえすれば世界は僕の意のままになり、あらゆる価値は転換し、時は流れを変える…そんな気がした。
それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。僕はノートの真ん中に1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったも のを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっくに見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの…僕はそれらを最後まで書き通すことはできなかった。

1960年代~1970年代、時代は大きな変化を見せた。
「意味」に大きな転換がおこり、あらゆる価値や世界観を書き換えたのだ。
人間の理性を信頼してきた近代が終わり、ポストモダンに時代は転換した。

ベトナム戦争を横目にニクソンは周恩来と握手を交わし、学生集会に集まった学生たちは就職が決まって髪を切った。
もう若くはないさと言い訳をしながら。

モダンは自ら滅んでいった。
三島由紀夫は天皇万歳を叫んで自決し、学生たちは山岳ベースの内ゲバを通して自滅した。

社会主義の神話は崩壊し、マルクスの権威は失墜した。
「革命」は希望から虚構になった。神は二度死んだ。

世界はコード(意味)を書き換えていた。
そして1980年代に、新たな価値体系である高度資本主義というシステムは完成する。

そのあいだ、村上春樹は、ただシステムを拒否し続けた。
変化する社会とのデタッチメントが村上春樹のノンだった。

そして、作り出された「価値」から形成される社会に「言葉」と「物語」を武器に一人で闘争/逃走を開始したのだ。

『ノルウェイの森』にはこんなエピソードでソサエティへの不信感があきらかにされている。

夏休みの間に大学が機動隊の出動を要請し、機動隊はバリケードを叩きつぶし、中に籠っていた学生を全員逮捕した。(‥‥中略‥‥)大学は解体なんてしなかった。大学には大量の資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくらいで「はい、そうですか」とおとなしく解体されるわけがないのだ。そして大学をバリケード封鎖した連中も本当に大学を解体したいなんて思っていたわけではなかった。(‥‥中略‥‥)
ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように教室に出てきてノートをとり、名前を呼ばれると返事をした。これはどうも変な話だった。なぜならスト決議はまだ有効だったし、誰もスト終結を宣言していなかったからだ。大学が機動隊を導入してバリケードを破壊しただけのことで、原理的にはストはまだ継続しているのだ。そして彼らはスト決議のときには言いたいだけ元気なことを言って、ストに反対する(あるいは疑念を表明する)学生を罵倒し、あるいは吊るしあげたのだ。(‥‥中略‥‥)彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。そんな連中が大学解体を叫んでいたのかと思うとおかしくて仕方なかった。そんな下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ。
おいキズキ、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ。

この後、村上春樹はセカイ系に影響を与えたという『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『ねじまき鳥のクロニクル』まで、社会とデタッチメントの関係を保ちながら、無意識/意識と自己/世界との境界線の物語を描いてくことになる。

そして、ある時、革命闘争・学生運動の反転したラジカル、超越と聖を求める倒錯した狂気の集団と交差するのだ。
そして1995年の事件以降、村上春樹はコミットメント(アンガージュマン)に向かっていくことになる。

重要なことは、二つある。

ひとつは、ずっと村上春樹がシステムへの拒否の姿勢を示し続けているということだ。
村上春樹はひとりで闘争/逃走を続けていた。
それが、沈黙という暗示であるか、明らかなかたちであるかを問わず、システムへの抵抗を続けていた。

そして、もうひとつ。
いずれコミットすべき時は来るということだ。


〈知覚の扉〉を叩いて

2017年1月8日 by CoMA

オルダス・ハクスリー(1894 – 1963)は『すばらしい新世界』で知られるイギリスの作家だ。

僕が、オルダス・ハクスリーについて知ったのはドアーズ(The Doors)を介してだ。
それは、大学に入学した年だったと思う。だから、18か19の時だ。もう10年以上前の話だ。

大学に入り、ひとり暮らしをはじめると、時間軸から開放される。
それがたった4年間の話だったとしても、開放された空間を楽しむのが学生の特権だ。

当時は、iPodが広く普及しはじめた時期だった。
誰も彼もが、iPodで音楽を聞いていた。
当時のiPodは今のiPhoneやAndroidのような通信系のモバイル端末ではなかった。
僕が持っていたのはiPod Classicで、それは60GBの記憶装置を持つ小さなジューク・ボックスだった。

バーに入りカウンターのマスターにシャンディー・ガフを注文する。
一服しながら空間の隅っこにあるジューク・ボックスをながめる。
ジュークボックスに近づき、お気に入りのナンバーを探す。
クリームのWhite Room、ディープ・パープルのsmoke on the water、レッド・ツェッペリンのStairway to Heaven、そしてドアーズのLight My Fire。

そんな風に僕らは、喫茶店でマクドナルドで駅のプラットフォームで下北沢の商店街で、どこでもiPodで音楽を聞いていた。
当時、音楽を聞いていない友人がいただろうか。
”NO MUSIC NO LIFE.”
”DIVE INTO MUSIC.”
そんな言葉が、まだ生き生きして見えていた。

iPodは音楽の聞き方を変えた。TSUTAYAでCDを借りると60GBの記憶装置にあらゆる音楽を詰め込んだ。
60’s~00’sのロック、ヴィレッジヴァンガードで知ったジャズの名盤、映画の影響で聞きかじってみたストラヴィンスキーやマーラー。
あらゆる音楽の波に呑み込まれて楽しんだ。

不思議なのだけれど、音楽を集中して聞いていると、目の前に音の色をした光が現れたり、音の球体がひだまりの猫のように目の前で遊び飛び跳ねるように見えることがある。
音楽というのは直接的に、フィジカルに僕らに何かを見せてくれることがあるのだ。

オルダス・ハクスリーについて知ったのは、そんな頃だった。
ドアーズ(The Doors)の名前の由来は、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』だ。

『知覚の扉』というのは、もともとは詩人ウイリアム・ブレイクの以下の一説からの引用のようだ。

知覚の扉澄みたれば、人の眼に ものみなすべて永遠の実相を顕わさん

昔から、10代の頃から「存在」や「本質」を見たいと思っていた。
人々のいう「常識」や法律の授業に出てくる「社会通念」に強烈な違和感を感じていたからだ。

オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』はそんな疑問を解くための、方法論として僕にとってヴィヴィッドなものだった。

『知覚の扉』は、幻覚剤メスカリンをオルダス・ハクスリーが実際に体験した、エッセイであり体験記である。
その中で、幻覚剤メスカリンを使用した意識状態での、芸術の見え方、人との関係のあり方、存在の仕方が描かれている。

オルダス・ハクスリーは、身体に刺激を与えることで人間固有の認識のフィルターや社会的なバイアスのフィルターを除去し、知覚の拡大をできるのではないかと考えていた。

イマニュエル・カントがいうように、人間は外部の物自体の存在を知覚しているのではなく、悟性や理性のフィルターを通して認識を行っているとすれば、人は事象そのものを把握することはできない。
つまり人は客観には到達しえないし、あらゆる人は主観で語るにすぎない。
そうした状況での「常識」・「社会通念」に不信感と欺瞞を感じるのは、どうしても避けられないのではないかと思う。

しかし、もし物理的な刺激により、人間固有の認識のフィルターや社会的なバイアスのフィルターを除去することができるのであれば、本質を体験することができるのではないか。そして、それは理想的な話に思えた。

歴史的に見れば、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』は、60年代の西海岸のヒッピーやハーバード大学教授だったティモシー・リアリーやジョン・C・リリーが行った運動、LSDによって意識の拡張を追求した社会的ムーブメントに、大きな影響を与えている。
意識の拡張は、個人のあらたな意識への変革と他者への共感を意味する。彼らは、新しい物語として、あらゆる人々の意識の変革を未来の社会の希望としていた。
おそらく僕はそのパロディを個人的な体験として求めていた、あるいはサイキック・ボリシェヴィキを夢想していたのだろうか。
iPodから流れる音楽と一緒に。

オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』や西海岸のヒッピーのムーブメントは、その後もニュー・エイジなど様々な運動の起点となっている。
日本においてはその影響が、東洋思想と反資本主義の感情に結びつき、80年代~90年代前半に強烈な負の側面を露呈してしまったが。

しかし、フィジカルな体験、しかも内的な経験は、実は強烈な力を持っている。
世界のシステムはいま完全にバーチャル化した。
今あらためてフィジカルなカウンターへと歴史の振り子は向きを変えるのではないかと考えている。


絶対的な瞬間について

2016年12月18日 by CoMA

最近、年上の女性と仲良くなり、お酒を飲みながら古典について話をするようになった。

たとえば、カントやヘーゲル、ハイデガーやサルトル、フロイトやユング、プラトンやマルクス、三島由紀夫などについてだ。

つまり、本質や存在あるいは弁証法について居酒屋で雑談するのだ。
きわめて正しいお酒の飲み方であるように思う。
さらに言えば、形而上学自体がある種の人間にとっては、アルコールのようなものなのだけど。

ただ、エリートではなく、アカデミックな世界でもなく、普通のビジネスマンとして生きていく中で、このような友人ができるというのはきわめてまれなことだと思う。
一般的に言えば、哲学・思想というのは、鼻持ちならないもの、いかがわしいもの、敷居が高いもの、その実価値のないものと見られがちだからだ。
現代においては、アナクロニズムにも過ぎる。

彼女と話していて感じたことだが、やはり哲学や思想に夢中になる人には、論理や日常における価値をこえた何かに出くわしてしまったと感じる経験「絶対的な瞬間」というのが往々にしてあるらしい。そこから、形而上学的な本質をさらに追求したいと感じるようになるのだ。

たとえば、ソクラテスがデルフォイのアポロン神殿で「ソクラテスがギリシャ一の賢人だ」というお告げを受けたことがそうだろう。

あるいは、ヘーゲルがイエナ・アウエルシュタットの戦いに勝利したナポレオンの凱旋を目撃し「世界精神が馬に乗って通る」と表現したのも、現象をこえた何らかの意味に出くわしたということだろう。

作家の三島由紀夫は、1945年の終戦の詔勅を親戚の家の庭で聞いたという。
そして、家族との日常の中で、終戦という絶対的な非日常の終焉を聞き、そこに不思議な感動を通り越した様な空白感を感じたという。
三島にとっては、それが何かに出くわしてしまった瞬間であったのであろうし、終戦後はそれを問い続けたと自らが語っている。『豊穣の海』の最終巻『天人五衰』のラストシーンはその超越的な瞬間を明晰に記したものだろう。

彼女にとっての「絶対的な瞬間」は、タイを旅行中にメコン川をボートでくだっている時だったらしい。その濁流の水面が太陽できらめく一瞬を目にして、彼女は愛を感じるという神秘体験を経験したという話を語ってくれた。
自然というのは、人になんらかのメッセージを示唆するものであるようだ。

その話を聞いて、僕もある瞬間を思い出した。
僕は、その「絶対的な瞬間」に、大学時代20歳の頃に出くわしてしまった。

その頃の僕は、東京の端にある国公立大学に通っていて、調布の安アパートにひとり暮らしていた。

おそらく、秋だったと思う。大学にはなかなか通わず、多摩川の河原沿いをiPod classicでボブ・ディランを聞きながら、CAMELのタバコを吸って散歩ばかりしていた頃だ。当時は絶望的に未来が見えなかった。単位取得や卒業について考えるのは憂鬱だったし、はじめから関心などなく諦めていた。社会人になることなど考えるのも嫌だった。とにかくいつまでも自由でいたかった。

日が暮れると家に帰り、ウォッカにナツメグを溶かして一口に飲むと、ソファーに横になり乾燥させたアジサイを混ぜたタバコを吸った。当時は、オルダス・ハクスリーやジョン・C・リリーなどの60年代のヒッピーに傾倒していた。憂鬱な気分もいくらか穏やかになり、あるいは高揚した。

ある日、明かりを消したバスルームでチャンダンのお香を焚きながらウォッカを飲んでいると、不思議なイメージが現れた。目の前にあるのは宇宙だった。無であり混沌とした形而上学的な宇宙だった。
あたりを見回すと、その宇宙の中で、人々が回し車の中を歩き続けていた。まるで、車輪の中のハムスターと同じだった。どれだけ歩き続けても決して前進することはない。虚空の上で車輪が回り続けるだけなのだ。それなのに、人々は絶えず歩き続けていた。なぜ人々が歩き続けるのか僕には理解できなかった。歩き続けても意味などないのに。僕は、みんなになぜ歩き続けるのかと尋ねた。誰も答えはしなかった。

すると太陽が現れた。狂おしいほど眩しい、真っ白な太陽だった。
太陽は膨張しはじめた。熱量を大きくしながら、さらに巨大になり続けた。
すべては太陽に包まれた。すべては太陽に焼かれていった。
風が吹いた。その時、僕は生きるとはこういうことなのだと思った。

僕がその体験について話を終えると、「それは多分、悪魔のささやきね。」と彼女は笑った。

けれども、僕はなんとなくすっきりした気持ちになっていた。
ようやく気づいたのだ。
このイメージは、誰かのストーリーをなぞっているだけだと。

それは、フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』だった。

ニーチェは、19世紀の終わりに活躍し、20世紀が訪れる前年1900年に亡くなった。
「ニヒリズムが、来るべき2世紀の最大の問題であり、これは、文明の『病』だ。」と語って。

今は、2016年だ。
あれから10年近くたってしまった。
ボブ・ディランはノーベル文学賞を受賞した。
僕は社会人になってまがいなりにもコンサルタントを名乗っている。
いまだに安アパートにひとり暮らしだ。

文明は「病」を克服するだろうか。
確かに相対主義の時代が終える気配はある。
けれど、それは反動に過ぎないのかもしれない。


滝口悠生『愛と人生』を読んで考えること

2015年3月11日 by 宝田 とまり

3月11日ですね。
あれから4年、早いのか遅いのかその判断が遠のく辺りに震災の風化を現実のものとして感じてしまいます。(個人の意見です)

今日ある小説を読み終えました。
とても偶然にその本の最後には、それまでとは何の脈絡もない形で震災を思わせる記述がありそれによって今僕はこれを書いています。
だから、今日僕がその本を読み終わらなかったらここにこれを書くことはなかったでしょう。

今日、地震が起こった14時46分に黙祷を捧げたり自身のSNSに書き込みをした人が多くいたと思います。
その中に一つ興味深いツイートを見つけました。
呟いた人(ある文芸批評家の方です)の名は伏せて転載させて頂きます。

2万人近くの死、というのも、よくわからない。交通事故であれなんであれ、人が死ぬのは哀しいだろう。しかし、知らない二万人よりも、家族とか親しい一人の死の方がつらくないかね。(中略)
集団の死を、集団で慰霊するということの意義が、リアリティを持った形で想像できないというか、それは一体どういうことなのか? っていう本質が未だにわからない。親しい人を喪った人の気持ちを想像する。これはわかる。それが数万人分。これ、脳の容量超える。そして、普段、その辺でやっている知らん人の葬式にもそう感じなきゃならんのか、でも現にそう生きていない。では、日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞやってのが、わからなくなる。

死んだ人間に黙祷を捧げるのに、何故、加害者である地震の側のタイミングに皆が合わせなければならないのか。納得ならん。

ここまでです。
僕も純粋にそうだなーと納得してしまう部分もありました。
テレビではテレ東を除きキー局は半ば義務的にワイドショーの枠を拡大し震災4年に合わせた報道番組をやっていました。
ただ僕はこのツイートへの答えってこういう事じゃないかなと思ったのです。

滝口悠生『愛と人生』(講談社)
中編が3つ載った作品集です。
その中の3つ目『泥棒』という作品の最後で、今までご近所だった伊澤さんという人物がなんの前触れもなく引っ越しをし、元あった家や庭が業者によってまたたく間に更地にされてしまうという部分があります。
突然お隣さんがいなくなったり、解体までの描写には「水」や「川」「流れ」といったワードが吹き出すように現れ、これはまず間違いなく震災での被害を表していると言えます。
話はさらに少しだけ続き、そして最後にこんな文章で締められています。
(途中出てくる“熊”というのは登場人物のあだ名であり人の事です)

私も驚きがおさまらぬまま、慌てて、ありがとう、と早口で言った。自分も何かを取り繕っているみたいな気持ちになって、振り返ると、熊を見る時にはたいてい冷たく醒めた顔つきの妻が、珍しく私と一緒に熊に礼を言いそうな柔らかな笑顔をしていた。これまでにほんの何度かだけ見たことのある、私の好きな、忘れられない表情だった。妻もびっくりしてつくる表情を間違えたのかもしれなかった。私はこれからもこの瞬間のことと、その妻の表情を忘れないが、妻の表情を覚えることはできなくて、だから自由に思い出すこともできない。(滝口悠生『泥棒』)

なぜ、誰しもが誰しもに倣ったかのように同じ時間に黙祷を捧げる(意地悪な言い方をすれば自己顕示的)のか。
それは4年前の東日本大震災の被災者やその関係者でない人間の方が日本には圧倒的に多いからです。その人たちは、どうなるか。
“震災”のことを忘れまいと誓うが、次第に
「覚えることはできなくて、だから自由に思い出すこともできない。」
ようになってしまうのです。

なので半ば機械的なタイミングを利用せざるをえなくて、こうやって祈ったり思い出したりするのです。
人間は弱く不自由で特に自然になんて勝てっこなく、圧倒的に無力です。
しかし、一人ではなく多くの人が集まって一緒になることで生まれる力もあるのかもしせません。いや、実際はそんなシーンばかりでしょう。
震災の被災者の方、今も苦しみながら毎日生活されている方にとって少しでも良い未来が訪れればと思います。


あの頃、僕らが夢中になったのはこんなレコードだった。

2018年11月2日 by Heiwagokko

10年弱前のmixiの日記に大学4年間で刺さった10枚みたいなものを書いていたのを偶然見つけた。ほぼ全てインディーロックで時代を少し感じたのと自分可愛いかったなと暖かい眼差しで読んだ。


どうも!今日は僕が大学4年間に聴いたアルバムの中から特に素晴らしかった10枚をピックアップして紹介します。
興味のない方は僕の牧場に虫でも入れてお引取り下さい。
それなら公開しなきゃいいじゃないか?もっともです。でもあえて公開するのはちょっと見てもらいたい気持ちもあるからです。笑

スタートする前に注意事項を!今回は70’s~2000’sの中から10枚を選びました。

なぜ、60’s(50’sはともかく)を外したのか。かのピッチフォーク(アメリカの音楽サイト)も60’sはアルバムのランキングを公開せずに、曲のランキングだけに留めてあります。おそらく音楽基地外の集団であろうピッチフォークでも「ごめん、60sはアルバムで順位はつけれねーわ。わかるだろ?」的なことが英語で書いてありました。
それをたかだか4年間音楽をかじった程度の僕が安易に優劣をつけることはできません。70’s以降なら多少なりとも詳しい人とある程度は会話できるんですが、60’sの話になると、「それは何ですか?」の嵐です。60’sは奥が深いし、いちいちクオリティが高いので、それを含めたものは5年後なり10年後なりにでも書けたらいいと思ってます。
一応一つのバンドでアルバム一枚までっていう制限をつけました。それじゃあ、スタート。

No.10
I Can Hear the Heart Beating as One/Yo La Tengo <1997>

アメリカの良心!ってよく言われるバンドだけども、ホントにその通りでコンスタントにいいアルバムを作るし、どれをベストに挙げるかはすごく難しい。これと近い時期にでたエレクトロオピューラっていうのも大好きで迷ったんだけどアルバムとしての完成度の高さからこっちを。

このバンドの何がいいかって、音に人柄がすごくよく出てる。得意の3分ポップス系(ストックホルムシンドロームとか)なんかは、家庭生活の延長線上にこの音がありそうだし、長尺系の曲にしてもギターの音はすごくひしゃげてるんだけどどこか暖かい。ロックバンドっていうと、自分達とは離れた世界の存在をイメージしがちだけど、この人たちはふつうのおじさんとおばさん。(おじさんはギター持つと、ノイズおじさんに変身するけど。)すぐ隣に住んでそうな。そこにどこかひとつのクッションがあるというか、だからライブでお遊戯みたいなダンスをしても許されるんじゃないかなんて思う。

No.9
Entertainment!/Gang of Four<1979>

ニューウェーヴ、ポストパンク期の名盤として取り上げられることが多いこのアルバムだけど、時代が偶然に生んだ音かっていうとそうじゃなくて、このキレキレでジャキジャキの音は、ドクターフィールグッドから受け継がれてきたものらしい。去年フジでウィルコジョンソン見た時にはギターの音にそこまでキレを感じなかったんだけど、当時の映像を見てみると、面白いくらいにジャキジャキした音を出しててびっくりした。この音をニューウェーヴの解釈でより無機的にしたのがギャングオブフォーだって考えるとすごくしっくりくる。

このアルバムについてだけど、もうひたすらカッコよくて踊りださずにはいられない程のキレと勢い。序盤から中盤にかけての勢いがとまらずに爆発していくような感じがたまりません。映画のマリーアントワネットを見た時に、オープニングでこの曲がフルに近いくらい流れてて、ちょっといじらしい気持ちになった。ソフィアコッポラはずるい。おれも好きな曲あーいう風に使いたい。笑 ちなみにソフィアが映画で使った音楽で一番上手だなと思ったのが、ロストイントランスレーションでのマイブラのサムタイムズ。あれはぞくっとした。

No.8
Marquee Moon/Television<1977>

このアルバムが出た頃はちょうどピストルズがイギリスでわいわいやってた頃で、アメリカではちょっと前からニューヨークドールズなんかがやいやいやってた影響もあって、テレビジョンもニューヨーク・パンクのジャンルでくくられることが多いんだけど、これはパンクか?笑

歌詞はまともに読んだことないけど、詩的で知的な印象まで受ける。
もちろんアルバム全体を通してすごく完成度が高い。音はとてもシンプルな構成なのに名曲のオンパレード。
でもなんといってもそこはやっぱりタイトル曲のマーキームーンが群を抜いて素晴らしい。ギターが絡む絡む。そりゃもう官能的なまでに絡む。こんな名曲が生まれた時の気持ちを是非聞いてみたい。
ちなみに一曲目のSee No Evilには「足、足のー、いぼー」っていう空耳もあります。

No.7
The Lonesome Crowded West/Modest Mouse<1997>


はいきた。モデストマウス!僕はこのバンドに関しては断然初期派でこれかファーストかどっちかで迷った。ファーストはアメリカの労働者階級のことを主に詞にしてて、ギターも一貫してヒリヒリした音を鳴らしてるんだけど、どこか救いがない感じがするのでこっちを選んだ。今回えらんだこのセカンドは曲の強弱がハッキリしてるし、音にも柔らかさが出てきたのがファーストよりも進歩してるんじゃないかな。ちょっと前にジョニーマーが加入したけど、正直このバンド自体にものすごくパワーがあるから、あまりプラスには働かなかったんじゃないかな。クリブスに移って正解だと思う。

モデストマウスはアルバム一枚の時間が長いものが多くて、1枚40分推進党の僕としては強く推せないところもあるんだけど、それは抜け出せないアメリカの貧富の差や汚い言葉でのメッセージを伝える為にあるんだと思って目を瞑ります。
あ、下手糞なのにすごくいい声、歌い方してますこのボーカル。

No.6
Y/Pop Group<1979>


気をつけて下さい。全然ポップじゃありません。
この人達はホントはジャズとかファンクとかそういう音楽がやりたかったみたいなんだけど、技術が追いつかなくて、なんとかうまくやれないかってことでこういう形でアルバムを作ったとのこと。

これもやっぱりニューウェーブ期のミックス感のなせる業じゃないかな。このアルバムがきっかけでダブとかレゲエのアルバムも何枚か聴いてみたけど、うまく雰囲気をそこから持ってきてるのがよくわかった。実際解散後にダブに寄せたアルバムも何枚か作ってるし。

でもそういうテクニック云々な話は抜きにしても、この衝動的な音はなかなかだせるもんじゃないと思う。パンクの形容でよく使われる、初期衝動のような~とは一線を画す本当に衝動的な音。ぜったい需要はあるはずなのにセカンドが廃盤なのが謎。CD1枚に5,000円は出せません。再発を強く希望。

No.5
Crooked Rain,Crooked Rain/Pavement<1994>


このときのアメリカはグランジ全盛、太いでかい音が暴れ回ってるような時代。そんな中、うらでひっそりとヘロヘロ、ローファイムーブメントが!ベックなんかもローファイで括られるんだけど、僕に言わせるとベックはローファイじゃない。弱気なこと歌ってればそれはローファイか?違う。笑

このペイブメントこそ、弱気、無気力、ダサい、三拍子揃った真のローファイバンドじゃないだろうか。曲もどこかつかみ所が無くて、ふわふわしてる感じなんだけど、多分それをあえてやってるところが恐ろしい。耳慣れないリズムで進んでいく曲が多いんだけど、下手糞が間違ってたどりつけるようなものではない気がする。ファーストかこのセカンドかで迷うところだけど、生活にフィットしやすく、春に向かうこの時期にうってつけなセカンドを選んだ。
捨て曲無し、感涙必至のアルバムです。

No.4
Closer/Joy Division<1980>


最近やたらとジョイディビジョンのTシャツ着てる人がいて嫌だ。おれが着れなくなるじゃねーか。笑

首吊って自殺したとか、そんなことばっかりが取り上げられてロックのファッションアイコン化してるイアンカーティスだけど、音は間違い無く本物です。このアルバムに関してはは隙みたいな部分が一切無く、文句のつけようがないです。うねるギターあり、絡むギターあり、ベースの音もたってるし、印象的なのはファクトリー的なキシッというドラムの音。24アワーかコントロールか忘れたけど、ファクトリーはドラムの音にものすごく気を使っていてドラマーにドラムを何回も何回も叩かせていたシーンがあった。それの結晶がこの音、じゃないかな。

もちろんニューオーダーも12インチ買うくらい大好きなんだけど、アルバムで選ぶんだったらジョイディビジョンになっちゃうね。他に代わりのきかない凛としたカッコよさ、美しさがすごくよく出てるアルバム。偏見を捨てて、音量高めで、さあどうぞ。

No.3
Future Days/CAN<1973>


CANっていうのはドイツのバンドで、ボーカルは日本人のダモ鈴木さんが担当しております。
去年の後半から僕がジャーマンロックの世界に迷い込んだのはこのバンドのせい。

CANの何がいいって、延々と続く反復リズムにいろいろ音が乗っかっていくときのあの感じ!
今のミニマルミュージックの起源はこの時期のドイツにあって、なるほど頷けるものがこのCANにもあります。これはダモ期最後のアルバムで、独特の浮遊感がたまりません。バンドとしてのピークはやっぱりダモがいた3作とその後のババルーマまでだと思うんだけど、他の作品もまだ僕の耳が追いついてないだけかもしれない。約40年前、みんながロックに走る中で、現代のポストロックとでもいうべきこんな音楽を、ふざけたくらいの高レベルでやっていたCAN。もはや笑うしかない!天才!

No.2
Remain In Light/Talking Heads<1980>


このアルバムはCDでも持ってるし、レコードでも持ってます。そのぐらい好きな一枚です。
トーキンヘッズはもうほとんど全部のアルバムが好きなんだけど、とりあえず選べと言われたらこれかな。ファーストの曲のような完璧なポップセンス、サードでのアフリカに若干寄せた感じ、スピーキングインタンズのエレポップ路線、どれも捨てがたい。ただ、このアルバムはその中でも際立って完成度が高い。3枚目から継続してバーンはアフリカンミュージックを取り入れたアルバム作りをこのアルバムでも行ったわけだけど、多分イーノの力も多分にあるんじゃないかな。

バーンとイーノがこのアルバムを作る前に、ソロの共同作として、これよりも幾分実験的なアルバムを一枚つくってるんだけど、それが3枚目のフィアオブミュージックをより奥に押し進めたようなもので、その時点でこの名盤、4枚目に繋がるものがある程度見えていたんじゃないかと思う。このアルバムでのファンクともどこか違う、もっと血沸き肉踊るような独特なサウンドは唯一無二の一言。体が自然に動き出します。このアルバムリリース後にはゲストメンバーを迎えて世界ツアーをしてたみたいでその頃のライブも必見!

No.1
Hatful of Hollow/The Smiths<1984>


ありがとうございます。スミスです。なんでクイーンイズデッドじゃないのか?理由は単純で初期スミスこそが僕の中では本当のソフィスティケイトされてないスミスだと思うから。グズグズでダメダメなスミス。メロディーが痛いくらいに沁みる。最高。

こんだけ書いといてあれだけど、そもそもロックなんていうのはそもそもが騙し、騙されの存在であって、歌詞に共感したり、優しいメロディーなんかに心惹かれても、こちらの問題は何にも解決してないわけで。そんな事実には10代を超えれば大抵の人は気づくし、理解もちゃんとできる。でもなんで古いレコード集めるおっさん達がいなくならないか。単純に騙され続けていたいから、はじめて聞いたときの感傷的な気分を忘れたくないから、そんな理由だと思います。僕もスミスが騙しだってことには気づいてるんだけど、それでもこうして一番上に持ってきてるし、外そうなんて思いません。2万でヨレヨレのスミスTシャツ買ったりします。笑

似てるとこではウィーザーなんかも騙しだと思うんだけど、繰り返し聞いたことは全然恥ずかしくないしむしろ良かったと思う。騙すこともある種の力だと思うし、これからもできることならどんどん音楽に騙されたい。頑張って60年代掘り進めよう。

2010年02月11日07:20

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