映画『芳華 Youth』

中国という国は、いままさに激動の時代を駆け抜け興隆の頂点にあるといってもよいだろう。
激動を駆け抜けた中国では、また現在から過去を遡行し、そこから現在を見つめるといった物語が描かれるようになっている。たとえば、90年代以降の社会主義市場経済以来の大河を描いた『山河ノスタルジア』や『后来的我们(僕らの先にある道)』がそうだろう。

過去を振り返るときにどうしても胸につかえるような出来事の記憶というものがある。
日本にとっては、かつての第二次世界大戦や左翼的闘争の記憶というものがそうであるように、中国にもしこりのような記憶となっているものがある。文化大革命がそのひとつである。
文化大革命を行使した毛沢東の評価も現在では両価的なものとなっている。それは周恩来が国民のだれからも愛される人物として記憶されていることと対象的である。

過去を振り返るときに、どうしても見返さなければならない問題としての文化大革命。近年、その時代を描いた作品も多く作られるようになった。たとえば、チャン・イーモウ監督の映画『サンザシの樹の下で』『妻への家路』あるいは同じくチャン・イーモウ監督が現代の中国を代表する作家 余華の作品を映画化した映画『活きる』。そして、余華の大作『兄弟』は文化大革命の時代から元禄の中国ともいえる現代までを描いている。

本作、『芳華 Youth』もまた文化大革命の時代から現代までの大河を群像劇として描いた作品である。
青春=大河的群像劇と映像美で、まちがいなく最高の映画のひとつだろう。

また、この映画は中国の近代における農村共同体の喪失=国民国家の形成=資本制社会の成立の歴史とそれに翻弄される人びとの姿でもある。

主人公の農村出身の少女は国家により家庭を破壊された過去を持つ。もうひとりの主人公の青年は国家のあり方が変容する中で自分の生き方を見失う。
激動の中で、彼らの精神は変容し、いくつかの交流は失敗する。が、最後に既存の関係をこえた連帯にいたる者もいた。

しかし、献身的な生き方というのは互助的な農村共同体的な生き方なのだろうか。
あるいは、近代資本制的な自由な商品交換を重視する側面が強くなった社会の中では、それはむしろ野暮ったく下心を感じさせる不潔なものなのだろう。誠実なものこそが不条理の中に投げ出される。その姿は人をひきつける。それゆえに、人は過去を振り返り、そこにこそ本来的に大切なものがあったのだとノスタルジーを感じる。そして、どうして人はそれを回復できないのかと。

余談であるが、現在中国人に人気の日本の観光地は大分であるということだ。その農村や田園の姿が、中国の人々には喪失とノスタルジーをくすぐるものであるらしい。同じく、日本のバブル期にジブリの『となりのトトロ』が人気であったように、現在トトロは人気であるようだ。

印象的であったのは、素朴で学級委員的で優等生の模範兵が、ギャル的な丁丁に惚れて気持ちを抑えられなくなっったシーン。彼は告白するけれどギャル的に擦れた少女にはむしろ「え、、キモっ。(性的な目で見るとかありえない.. 怖いわ…. )」というような感じでフラれる。しかも、その上でそれを誇張して暴露される姿。うーん。なるほどな〜と思った。

『イップ・マン外伝 マスターZ』

 ブルース・リーの師としても知られる葉問(イップ・マン)の生涯をモデルしたカンフーアクション『イップ・マン』シリーズのスピンオフ。シリーズ3作目の『イップ・マン 継承』でドニー・イェン演じるイップ・マンと激闘を繰り広げた詠春拳の達人チョン・ティンチ(マックス・チャン)が今作では主人公になる。

 『イップ・マン 序章』から今作までストーリーは毎回一緒だ。家族や市井の人達とささやかながら幸せに暮らす主人公が、トラブルに巻き込まれ、生活を失う。その背後には街を牛耳る外国人(『序章』では旧日本軍、『継承』ではアメリカ人、『葉問』『マスターZ』ではイギリス人)と、彼らの言いなりになっている地元の警察やチンピラがいる。映画の前半でチンピラとの大立ち回りがあり、主人公と家族が絆を深める描写があり、やがて誰かが死ぬ。ついに立ち上がった主人公が詠春拳の技で悪い外国人に一騎打ちを挑む。主人公に感化され、地元の警察も反旗を翻す。だいたいこんな流れである。

 このシリーズの魅力は何と言っても、主役を演じるドニー・イェン、今作ではマックス・チャンの、超絶技巧の詠春拳と、手を変え品を変え物量を変えて繰り出されるアクションシーンの数々である。
繁華街の看板の上を飛び回りながら繰り広げられる1対多の立ち回り。上体が全くぶれずに高速で打ち出されるショートパンチ。酒のグラスの譲り合いから流れるように移行する組み手。志を取り戻したティンチの名乗り。ドラマがベタというよりもアクションがドラマでありカンフーで人物を描いている。
やられたら即倍にして返す荒っぽさといい、人格者のイップ・マンの端正な演技とはまた異なる、ある種ダークヒーロー的なティンチのキャラクターがアクションに反映されている。

 主人公が現代に生きる詠春拳の達人という設定なので、一介の刑事が突如アクロバティックな蹴り技を披露するSPLシリーズのようなアクションシーンとシリアスなドラマの乖離が起こらないのもいい(SPL2『ドラゴン×マッハ!』は大傑作だけど)。

 「友情出演」トニー・ジャー演じる謎の黒づくめの男(本当に謎だった)も見どころ。

映画『バーニング 劇場版』

『バーニング 劇場版』

 村上春樹の短編小説『納屋を焼く』のイ・チャンドンによる映画化である『バーニング劇場版』はいくつかの点で原作から大きく変更されている。

 その一つが主要な登場人物の設定だ。村上春樹の『納屋を焼く』では語り手は作者を連想させる小説家だが、映画『バーニング』の主人公ジョンスは20代前半の若者である。金も仕事も無く、小説家志望と言いつつ何を書いたらいいのかわからずにいる。「彼女」にあたるヘミはジョンスの幼馴染であり、一見華やかではあるが境遇的には彼とそう変わらない位置にいる。

 借金に追われる母親、起訴された父親、ヘミ。ジョンスの周りは成功者であるベンと対称的な人たちだ。

 菓子パンを歩き食いするジョンスと、スポーツジムでランニングするベン。軽トラの車内でコンビニ飯?を飲み食いするジョンスと、パスタを作り、ソウルで一番美味いもつ鍋屋に誘い、高級ワインを持参し、ホームパーティーを開くベン(列挙してみたら思ってた以上に食の対比が多かった)。

 「僕」=ジョンスと、「彼」にあたるベンを非対称な存在として描き、韓国の現代社会における階級間の対立を作品に持ち込んでいるように見える。

 もう一つ、原作と決定的に異なるのが後半の展開である。ここで映画の作り手は原作のある有名な解釈に従ってストーリーを展開させる。

 それは、ベンが若い女性を狙った連続殺人犯であり、「ビニールハウスを焼く」とは彼の犯行の隠喩だというものだ。ベンが実際に殺人犯であれジョンスの思い込みであれ(その答えは曖昧にされている)この解釈を基に映画の後半部が展開する。

 これらの相違の果てに映画は原作とは異なる「衝撃的」な結末にたどり着く。
 この作品にはリトルハンガーとグレートハンガーという言葉が出てくる。ヘミがアフリカ旅行中に出合った部族の言い伝えだという。

 この映画の人物設定で言えば、ジョンス達餓えた層(=ハンガー)とその対極としてベンのような富裕層が存在する。

 「リトル」な餓えた者から「グレート」な餓えた者になること。それを、個人的な不満が社会的な怒りに変わること?と解釈するとラストのジョンスの行動は「持たざる若者」から「ギャツビー」への復讐という象徴的な性格が強くなる。ジョンスがベンを刺すことに何重もの含みを持たせているのだろう。ヘミ(を奪われたこと)の復讐だけでなく。この二人は持たざる者と持つ者にはっきり分けたのは原作との大きな相違点だから。

 小説を書き始めたのはベンが殺人犯だと確信したのと同時に見えたが、この二つのことはどう関係しているのだろうか。

 ラストシーンの炎に包まれるベンと寒空の下全裸のジョンスの対比も非常に印象的だった。この映画では焔の存在感がとても強い。父親が出て行った母親の衣服を燃やしたことがジョンスのトラウマになっている。また彼は、おそらくヘミが姿を消した(殺された)と同時刻、燃えるビニールハウスの夢を見ている(その時の主人公は少年の姿をしている。おそらく母親の衣服を焼かされた時と同じ年齢である。燃えるビニールハウスに惹かれているような表情をしている)。そしてベンを燃やしている。

 ヘミの記憶と周りの人達の記憶の食い違い(または彼女の虚言癖)はこの映画に一定の曖昧さ、不確かさの存在する余地を残してはいるが、ラストの展開も含め後半はオリジナルと言っていいほど作り手の解釈が強く出ている。

 同時存在といった村上春樹的なキーワードを散りばめつつ、韓国の現代劇として再構築している。それは原作を70年代ドイツの時代劇・政治劇として解釈したリメイク版『サスペリア』に似たアプローチかもしれない。

 良い悪いではなく、「村上春樹の『納屋を焼く』の映画化」というよりも「イ・チャンドンの『バーニング劇場版』」だ。

映画『ROMA/ローマ』

 聞いていた通り冒頭のシーンがまず凄くて、床の掃除を延々と映す映像で美しさを感じさせられることに驚いた。床を洗う水が起こす波と、水に映る上空の飛行機が結末と呼応していた。

 『ゼロ・グラビティ』が宇宙飛行であるのに対して『ROMA』は時間旅行なのか。この作品は(カメラの視点を借りた)語り手の記憶や回想というよりも、その裏側で起きていたこと、当時は知り得なかった出来事の別の顔を、過去に戻って眺めている印象を与える。

 固定された視点による長回しは、懐かしい人に触れることも目の前の悲劇を止めることもできずにただ見ていることしかできないもどかしさがあり(いくつかのシーンは早くカメラを止めてあげてと思った)、決定的に過ぎ去ってしまった時間だということが強く感じられた。

 主人公の恋人のフェルミン(クソ男)や武術のコーチの芸人やその門下生たちや武力抗争を引き起こした男たち等、「マッチョなもの」に対する批判、戯画化する視線を感じた。フェルミンが全裸で棒術を披露するシーンは色んな意味で面白い。

 悲痛な出来事が映し出される一方で愉快なところもある。一家の父親が高級車を車庫入れする場面の妙に凝った演出とその結果。同じ車を運転してド派手な傷を拵える母親。

 一家にある変化が起きた後の母親の車庫入れの場面。その出来事を乗り越えて小型車に買い換え、古い車で最後に家族旅行に行く。主人公を病院に運ぶのもこれらの自家用車だ。車は出来事を見届け、登場人物の心理状態を表す、『ROMA』のもう一つの語り手に思えた。

 「識者が絶賛してるからきっと難しい作品なんだろうな…」と観る前は身構えていたけど(実際よく読み解けてはいないけど)、良い映像作品を観たな、という充実感があった。

 自宅のテレビやPC画面だと集中が途切れる怠惰な観客なので、ネット配信の話題作を劇場公開してくれるのはありがたい。

 余談だが、観始めて真っ先に浮かんだ言葉は「犬を散歩に連れていってあげればいいのに…」だった。

Q&A

応援しててもいいですか!!

ありがとうございます!
ぼくも応援してます!

最近怒ったことはありますか?

うーん。そうですね。いつも怒ってますよ。
自分が満たされないからといって、当然のように他者や世界にそれを満たすことを要求するのはよくないです。

引越しの時って新生活の期待よりも悲しみの方が大きいよね・・・

引っ越し、新生活。そうですね。
ぼくにとっても、新生活のはじまるこの時期は心踊るような希望の季節というよりも、どこか底冷えのするような、新しい部屋でひとりどこか空虚な違和感を感じるような時期だという印象があります。

新生活。人生の季節の切断。
これまで一緒にいた人たちとの別れ、捨てるものへの負い目、離れて遠くへいってしまった人への想い。喪失感。

一方で、これからの大きく変化した生活で果てしなく続いていくだろう日々への不安。希望的なヴィジョンを描くことはできず、けれど、強制的な力で強いられる新しい生活への移行。

新しい生活。新たな環境の文化、新たな共同体のコード、新たな土地の風土。それに適応することの難しさ。まさに言語ゲーム的な飛躍に馴染むことの困難。
そこで、世界と自分のあいだに感じる不調和。世界と自分の身体が、そして私の意識がつながっていないかのような離人症的な気配。

たしかに、ぼくも適応できない方ですね。
もう、同じ部屋に8年住んでいるし、社会人になってから転職もしたことがないのは、そういった変化があまり得意ではないからかもしれません。

後から考えれば、すべて時間が解決してくれるのですが、それはいまこの瞬間の悲しみには何の解決も与えませんね。

新しい街は散策してみましたか? 散歩をして街を歩き、お茶を飲みながら人びとをながめると、新生活とこれからの日々もこんなものかなと思えるかもしれません。良き新生活を!

1日スマホ使えない代わりに1万円貰えます。何日スマホ我慢できる?

そうしたら、小型のタブレットを使うので一生スマホ使いません。

Youtuberの生き方について賛成ですか?反対ですか?

Youtuber がやりたかったことが Youtuberとして生きることであったなら、自分のやりたいように 自由に生きることはいいことなので、いいのではないでしょうか。

とはいえ、人のまなざしを受けて生きることを選択する以上、いつも人のまなざしの中で生きることの覚悟は必要だと思います。

まなざしを向けられることは他有化といって 他者の評価によって生きることになりますし(自己疎外)、PVや広告で稼ぐ必要がある以上 本来的にはやりたくのない企画をやったり やりたくないことを(稼ぐ)ためにしたり 話さなければいかなくなるでしょう。

個人的には、そもそもプロとして なにかクリエイティブなことをする生き方というのは、自分自身の探求と 他者からの評価という 矛盾するものを同時に求めなければいけないので、生き方としてはあまり評価できないです。
けど、それが自分のしたいことならYouTuberもいいかもしれないなと思います。

うーん。だけど、やっぱりぼくは 人の注目を集めるような生き方はストレスがあるし、自由だとは思えないからやりたくないですね!

怖い話って嫌いじゃない?

ものにも依るのですが、未解決事件系の話は本当に怖いです。事実が多いと思うのですが、人間は、その温かさの一方で一瞬の狂気やあるいは深淵や闇を持つものなんだなと。

怖い話でも、心霊現象系の話は唯物論者なのでそんなに怖くはないです。あ、幽霊の話?怪談?エンターテイメントと思えるからでしょうか。

とはいえ、むかし大学生の時に何人かで心霊スポットに行って、ほんとうは存在しないらしい鳥居の前で写真を撮ったりした記憶もあるので、すべて心つがいやさかいとも思います。

とりあえず、やさしい世界を期待していきたいです。

お金が足りない時はどうしてますか?

何人かで飲みに行って、支払い係をやってクレジットカードで支払い、現金をもらいます。

それから、クレジットカードでビタミン剤とオリーブオイルと塩と安いパンと紅茶のティーバッグを買います。
しばらくはそれを食べて、青空文庫を読んですごします。

まあ、困った状況なら親に頼んじゃうな。

LINEスタンプなんこ持ってる?

5個くらい持ってます。「ひもっくま」とか「あしたのジョー」とか。

「携帯少女 ミム」がいちばん使いやすくて好きです。

ものすごく疲れたときやイライラしたとき、どうやって気分転換しますか?

ものすごく疲れたときはKREVAの『愛・自分博』を聴いて(ティーン・エイジャの頃に聴いて勇気づけられた音楽)、お風呂に入り、マッサージ・クッション(首肩用と肩甲骨用と腰用の3つを持っています)でマッサージして、アルコールを飲んで(翌日大丈夫そうな場合は)、寝ます。ヘパリーゼを飲んでも良いかも。
本当に落ち込みそうなら、ミューズを求めてアイドルの曲を聴いてみるのも男女問わず常套パターンです。お笑いでも良いですね。

イライラしたときには、セロトニンを出すために散歩し、それから呼吸法を意識するために口先からヒューっと息を吐きます。クソくらえみたいなことを言っているバンドの曲を聞いたりもします。パンクとかポスト・パンクとか、まあ、なんでもよいです。

それから、問題を直視して、本当の問題なのは何なのか?をよく見つめます。
だいたい、構造的な問題や誤解であったりすることが多いので、自分を責める必要はないです。
怒りを抑えてひとつひとつ言語化していき、まとめて体系化していきます。
結論が出ればシンプルだし大したことなくなります。虫歯が痛くても、神経抜いたり、治療したら大したことなくなるのと同じです。

もちろん、事実からそれをもとに反省したり教訓を学ぶことも大事です。とはいえ、てめー 俺の人生にお前文句あるならお前の人生 俺によこせよ??できるよね???です。

無理せず、落ち着いて、できる限り素直に、けれど エレガントに生きられたら良いですね。

口癖はありますか?

口癖というか、文法がかなり定形化されているので語彙とか驚くほど少ないです。

ぼくの真似をする牧瀬まきを氏というのが、かなり的を射てます。

「あ〜、完全に理解した。〇〇的〇〇な人たちと〇〇的〇〇な人たちとがあって、完全に自分はこっち側で、もはやそれはパターンなわけ」

みたいな感じです。かなり言文一致しているので、まきを氏いわくぼくのツイートは声が聞こえるそうです…!

あとは「〇〇感がある」「ふつうに考えて」「それが意味するのは〇〇というよりも、むしろ〇〇」とかみたいなパターンがあります。

何歳から何歳までストライクゾーンですか!

上下 5歳くらいなので26〜36歳くらいかな。だいたい、上下10歳差以内ならそれほどの違和感はないのでは。
年齢のギャップみたいのとか 大人になると そんなにないと思うんですよね。ある年齢をこえると、人間そんなに成長しない。

ちなみに17才とか18才とか16才とか違和感ないと思うんですよね。
けど、28才はなんとなく違和感があって28歳のほうがいい気がする。
そんな風な感じがあります。

スマホ何もってます?

スマホはチープなAndroidと通信契約のないiPhone6sの2台持ちです。iPhoneすこし高すぎませんか?あれ、部屋の中の何より高いと思うの。洗濯機や冷蔵庫、ダイソンの掃除機やTiffanyのアクセサリーもあれより安いと思うのです。少しついていけないな。幻想力強すぎるのでは。

むかしは、ぼくもボール・グレアムの『ハッカーと画家』とかジェフ・ジャービスの『グーグル的思考』を読んだり、Evernote使ってIT礼賛だったんですよ。

けど、みんな”Think different”って覚えてる?”Don’t Be Evil”って覚えてる?
マルクスとエンゲルスがやったような革命的なことをガレージでやったんじゃなかったのかな?

ITは人びとのライフスタイルを豊かにしたとともに、同時にかなりクリティカルなレベルで人びとを疎外し貧しくしたと思います。たとえば、SNSはあるべき姿ではないと思う。マルチチュードな”ソーシャル・ネットワーク”こそが本来的なSNSの可能性の中心だったのでは? 少なくとも、ぼくは最近はITよりカセットテープやレコードで聴く音楽にこころを動かされています。

とはいえ、EvernoteもDropboxもAmazon PrimeもApple MusicもAudibleも契約してますよ? NetflixとHuluは時間泥棒なので一時解約中。
いんたーねっつ最高!!

独楽ということは、独楽がくるくる回り続けるための紐が最初にあったと思うのですが、CoMAさんにとっての紐とはなんだったのでしょうか?

ぼくはけっこう大人しくて優しくて誠実そうに見えるらしいのです。
それってダサいじゃないですか?

そう思われたりするのに イラッとムカッとして、そうゆう周りからの目線や期待に応えようとなんか絶対にしない。自由にふざけてやるぜと、小学2年生の時にこころに決めたのを覚えています。

_人人人人人人人人人_
> 成長していない <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄

CoMAの由来ってなんですか?

独楽(こま)です。ひとりでくるくる。MoMAっぽくしようとふざけてCoMAです。もだーんでしょ?

ジェイ・マキナニーの『Bright Lights , Big City 』という小説にcoma babyというのが出てきます。どうしようもない小説だけれど、こころにぐっときます。よいです。

Guns N’ Rosesの曲にComaという曲があります。『Use Your Illusion I』というアルバムに入ってます。ただ長いだけの曲かもしれないけれど。

アメリカ文学科卒ですか?

文学部は落ちちゃいました!あこがれてたんだけどな~
なので、都市教養学科卒です。

今まで誰にも言ってない秘密を教えて!

たぶん ないです..!

映画『THE GUILTY』を観る。

映画『ギルティ』を観た。
劇中の会話の95%が主人公と誰かとの電話によるものという、とても特徴的な映画。
視覚を完全に奪った中で観客を欺くオチとその後に残る嫌な感じ(後述するが主人公と観客の共犯関係)は、この映画でしか成し得ない体験だと思う。
その点に関しては見事だった。

映画を観ながら視覚情報について考えるということは、例えばキューブリックや最近で言うとウェス・アンダーソンみたいな完璧な構図を前にしてという時が常だと思うが、今回のように完全に情報を遮断された時に、如何に人間が視覚に頼っているかということを改めて感じさせてくれた。

例えば、少し前に視覚障害者の方のために映画に音声解説を入れるという特集をタマフルでやったときに感じた、音声のみから映像を想像する際の聴覚の研ぎ澄まし方や、より広義に捉えれば小説を読みながら映像を想像するという体験に近い。
その中でこの映画は嫌らしく観客のミスリードを誘う。

大半の人間はこの映画のオチが分かったときに、絶句するはず。その後に如何に自分がありふれた範囲までしか想像が及んでないか、限られた情報で決めつけの判断を下してしまうかというところに自己嫌悪する。もちろん主人公もこの錯誤にはまっており、ここで主人公と観客の共犯関係が成立する。

映画のタイトル『ギルティ』にちなんで、主人公はラストで事件とは無関係の完全に個人的な罪について告白する。物語は終息を迎え、主人公は初めて物語中に居た部屋から出る。
個人的にはここは少し甘かったと思う。受け手のミスリードや手を差しのべられない不能感による共犯関係でいえば、『こちらあみ子』に代表される今村夏子の諸小説のどぎつさには及ばなかった。

ただ、緊迫感の演出や一定のリズムで鳴り続ける音のバリエーション(電話の着信音、電話越しの雨やサイレンの音、水に薬が溶ける音まで)の不気味さなどは、普段は無意識に排除される事で、映画体験としては斬新だった。

映画『女王陛下のお気に入り』を観る。

映画『女王陛下のお気に入り』を観た。
前作『聖なる鹿殺し』でランティモスに期待外れな部分があったけど、今回は余りにシンプルにとても面白かった。
ざっくり言うと、『寝ても覚めても』と同じく、ヤバい監督がありふれたテーマの商業映画を撮ったときに起こるおかしくなる感じが要所にあった。

ストーリーはシンプルで、宣伝では‘’海外版大奥‘’と言われてるみたいだけど、まさにそう。政治音痴の女王ゆえ、政治の話も本題には全く絡まず、シンプルに女王をめぐる女官の争い(しかも争うのはたった2人の一騎討ち)に終始する。なのに余りに面白い。魚眼レンズを使ったカメラでの撮影や当時の豪華絢爛な美術セットや衣装など楽しめる要素は多々あるが、やはりこの映画は女優たち名演に尽きる。
オリヴィア・コールマンが主演女優賞を取ったときはグレン・グロース前世で映画冒涜したとしか思えんと確信したけど、この映画見たら正直解らんでもないと思えた。

腹グロのエマ・ストーンと真っ直ぐなレイチェル・ワイズの2人のやりあいも見応えがあった。
僕は男子だからこのテーマをファンタジーとして楽しめたし、これからもずっと好きな映画でいられることが嬉しい。
女子は他人事としては見れない部分もあるだろうなと。

2019年1月期ドラマ時評 2月末進捗

1話完結の連ドラは型が見えた段階でいつでも切れるし、逆にその型での最上の回が突然来たりする(大げさかもしれないがこのドラマはこの回のためだと思える)ので、簡単には切れないし、その回でドラマの評価を決めたい。
5話の『アタル』や6話の『イノセンス』がまさにそうだった。

もちろん1話ごとに型の中でのバリエーションを作り、その蓄積から神回と呼ばれる回は生まれる。つまり、回を重ねるごとに良い回が来る可能性が上がるのが一般的。ただ、最近の傾向としては中盤あたりに一度完成形を見せ、その精度を基準としてドラマ自体の質が担保されるケースが多い気がする。

『イノセンス』6話

初回から言ってる弁護士が無罪を勝ち取り続けるという設定自体が非現実的なので、そこの解釈を如何に広げるかというのがこのドラマの鍵だが、本作はそこに極めて明確にアプローチをしている。
今回もまさにそうで、結果だけを見れば被告人は無罪判決を受けた。

ただそこに複数の事件を絡め本件では無罪だけど別件では裁かれるべきという被告人の中の二面を用意した上で、無罪を勝ち取った弁護士の正しさという尺度を揺さぶるというというこのドラマの型の一番のテーマが見事に描けていたと思う。ゲストの吹越満・須賀健太の演技も素晴らしかった。

『スキャンダル専門弁護士 QUEEN』6話

今クールの民放ゴールデンでは間違いなく最も完成度の高いドラマだが、視聴率が悪いらしく、全くと言っていいほど話題になってない。
この完成度の高さを言語化(記事として取り上げる)しにくいのも分かるし、受け手にも伝わりづらいのも分かる。

敢えてここで少し解説すると、ドラマのテーマである昨今社会を騒がせている謝罪会見とその元ネタ(アイドル、企業のセクハラ/パワハラ、スポーツ界、都議会野次、夫/妻のDV、電子決済)についてはリアルタイム性を兼ね備えつつ丁寧に扱われているが、注目すべき点は正直そこではない。

実はこのドラマの凄さは1話完結を支える型の構成自体にある。
まず、主要4人のキャラクターと配置のバランス。コメディに寄りすぎない程度に無駄話を交えじゃれ合いながら、お仕事チームもののような団結力をほぼ感じさせない。
あくまで仕事上の付き合いというリアリティが体現できている。

それを支えているのが、アドリブに近い脚本(実際アドリブも多いと思うが)を書く倉光泰子。ストーリー上の重要な場面では差別を煽りかねない強い言葉を敢えて使い緩急を付けている(後述する氷見の危うさ)部分もさすがだと思う。
後は、何度も言及しているが関和亮の演出・撮影が一目で分かる新しさ。

WOWや去年だと『dele』はなんかは頑張っていたが、まだ民放ドラマでここまでしっかりと画面を作り込んだ作品は少ない。
これからラストに向け、主人公・氷見の素顔が暴かれていく。
1話から徹底して白と黒以外の服を着ていない氷見紅は、シロかクロか。
最後まで目が離せない。
あと泉里香やっぱ好き

映画『半世界』を観る。

映画『半世界』を観た。
39歳という人生の折り返しを迎えた3人の幼馴染みの話。
タイトルの半世界に込められた意味に注視して観ていたが、特に前半は徹底的に救いのないストーリーが展開される。
余りにも無慈悲で一種の純文学的な物語だと気づいたときから、全てがそう見えてきた。

独り釜で炭を焼く職人、後輩の殉職がトラウマで田舎に戻ってきた元自衛官、地元の中古車販売店店員、息子とのコミュニケーション不全、不健全な父性、田舎の狭い人間関係、陰湿な苛め、漁村の風景、拭いきれない血の力など、小説だったらお手本のような土着文化を扱った文芸作品になっていただろう。

田舎ならではの荒廃した街の描写と自然の豊かさは現代における半世界(反世界)と呼べるものだろう。その他、半分が強調された世界の描写も多くあり、特にラストの日が射しているのに雨が降っている中でのシーンは強く印象に残った。

映画の中で主に描かれるのは3ヶ月という短い期間たが、物語以前もこうやってダラダラと光の見えない毎日が続いてきたこと、そしてこの先も好転することなく日々が続いていってしまうんだろうという事が窺える。この長く苦しい毎日から抜け出した主人公をどう見るか、また世界を知った出戻りの彼の「ここもまた世界」という台詞をどう捉えるか。

映画『バーニング 劇場版』/『THE GUILTY』を見る。

今月、見逃してはいけない映画は『バーニング 劇場版』と『THE GUILTY』だろうかと考え両作品を観た。

『バーニング 劇場版』

いかにも映画っぽい瞬間しかなくてとても面白かった。

村上春樹的なメタファー会話や世界の中にぽっかり口を開けた空虚の存在と、村上春樹っぽくない非モテ属性の主人公や韓国の社会問題や田舎の土の臭いが、相反せず作品を肉付けしている。韓国の今・ここの物語でありながら、不可知の暗闇も感じさせる。

姿の見えない飼い猫も夜中の無言電話も映画の結末も一見現実的な説明が与えられているが、決定的な瞬間は一度も描写されない。ヘミが幼い頃井戸に落ちた話のように真相は宙ぶらりんで、未来と同じくらい過去も現在も不確かなものとなっている。

納屋(ビニールハウス)を焼くという隠喩がビニールハウスで韓国の農村に結びつく。そこから貧富の格差が描かれ、主人公に対比されるベン=ギャツビー(=何で稼いでいるのかわからない金持ちの若者「韓国にはギャツビーがたくさんいる」)を通して、韓国の社会問題とアメリカ文学両方に連想が繋がるのが面白い。

同時存在の意味はよくわからないけど、Aであると同時にBである、連続殺人犯であると同時に無実の女たらしである、妄想に駆られた狂気の人間であると同時にルサンチマンを抱えた不遇な凡人であるというような、虚実が並行して存在する感覚は、フィクションを通してしか描けないものだと思う。

北朝鮮との国境近くの農村って韓国ではどういう位置付けなんだろうか。フォークナーにおける「南部」と重ねられているのだろうか。

『THE GUILTY ギルティ』

これは面白かった。ほとんど警察のコールセンターのやり取りだけでドラマが進行するのだが、「限られた情報で事件を解決する」というよりも「限られた情報しかないから真実を取り違える」要素が強く、見えないことがひたすら怖かった。暗闇の中でもがき続ける話だった。

子どもを装い犯人の情報を聞き出す場面や管制室とのやり取り等、通話音声だけを頼りに誘拐犯を突き止めるサスペンスに前半は引き込まれる。だが解決に焦る主人公の独断専行が増えるにつれ、事件の真相も彼の人格も別の顔が見えてくる。そして後半のある会話で、あまりにも痛ましい過失が明るみになる。何が起きていて誰に罪があるのか二転三転するストーリーの中で、裁かれることを受け入れた者同士がわずかながら救われるクライマックスにタイトルの意味が示される。傑作。

映画『バハールの涙』

『バハールの涙』を観てきた。凄かった。
世界のこういう実録ものを見るたびに自分の無知を痛感する。
作り手の伝えなければという責任感があまりに強すぎて、受け手の想像力を奪いかねない箇所がいくつかあったように思えるが、それでもあそこまで真正面からテーマを描いた力強さと勇敢さは他に換え難い

単に女性が自らの尊厳のために戦うという通り一辺倒なストーリーではなく、戦士の長となり戦うバハールとそれを間近で記録し続ける女性ジャーナリストの視点のバランスなどには計算が感じられ、物語の終わりに用意された残る(続く)戦士と還る(広く伝える)記者の信頼とそれぞれのその先を感じられた。

パターソンの時もいたく記憶に焼きついたけど、改めてゴルシフテ・ファラハニの神々しさに終始釘付けだった。
美しい彼女の砂埃で汚れた頬を伝う涙の跡を忘れてはならないと思った。


話は逸れるが、婚姻届を提出した当日に一人で映画館で映画を観た人間っているのだろうか。
極寒の小雨降りしきる中、晴れて結婚した。

2019年1月期ドラマ時評

昨日、新年会を兼ねて先輩と会って話したが、1月期のドラマは今のところあまり豊作ではないかもしれないという印象。『3年A組』『トレース』『刑事ゼロ』『人生が楽しくなる幸せの法則』『メゾン・ド・ポリス』『私のおじさん』『さすらい温泉』『デザイナー渋井直人の休日』あたりは、初回でもう特に言うこともないという感じ。

今日までで初回放送済みで残すのは『ゆうべはお楽しみでしたね』『スキャンダル専門弁護士』『フルーツ宅配便』『グッドワイフ』『初めて恋をした日に読む話』『ハケン占い師アタル』『トクサツガガガ』かな。
これプラス今週始まるのもいくつかあるから十分なんだけど。

『ゆうべはお楽しみでしたね』

『ゆうべはお楽しみでしたね』は本田翼とオンラインゲームの親和性(ほんだのばいく)と深夜ドラマのゆるさ、『フルーツ宅配便』は風俗嬢の有象無象を不能の男性の目線から見守る視点で描く点と地方都市(Uターン)、『初めて恋をした日に読む話』はラブに寄り過ぎない(希望)落ちこぼれ塾講師とヤンキー高校生のバディーものの側面が光った。

『スキャンダル専門弁護士』


今のところ一番は『スキャンダル専門弁護士』かな。
初回見た時にラストがあまりにコテコテでいただけないなと思ったけど、2話ではストーリーに抑制が効いて本来このドラマの売りである撮影・演出・脚本などが際立っていた。

倉光泰子のオリジナル脚本はアドリブのようなセリフがテンポ良く交わされ、1話完結のストーリーにも王道を与えず、バラバラに用意した要素を帰納法的に集めて解決するスピード感・整理力が素晴らしい。

関和亮の演出・映像も冴えていて、全体の撮り方もそうだけどカットが変わる前に意図的に竹内結子初め役者のアップを抜いたり、2話の最後の背面からのショットも良かった。

ネット記事を見ると昨今の芸能人の不祥事における謝罪や1話でアイドル2話で社内セクハラやパワハラを扱ったセンセーショナルさを讃える記事も散見されるが、別にその部分に新しさはまるでなくて、見るべきは脚本・演出・映像の3つ。
年上の3人の女性とチームを組む最年少の中川大志も素晴らしい。

今クールは『グッドワイフ』『スキャンダル専門弁護士』『イノセンス 冤罪弁護士』と弁護士ものが3つも。幾ら作りやすいからといってあまりにも専門職ものに拘泥するのは個人的には危険だなと思うが、まだ始まったばかりだし静観。

『イノセンス 冤罪弁護士』初回


弁護士ドラマとしてはあまりにもオーソドックス過ぎる作りだが、丁寧に作られているとは思う。
冤罪というテーマで毎回無罪を勝ち取るという展開には現実味が無いので、今後は真実を究明しても事実は覆せないといった挫折の展開も予想できる。

その時に、警察も検察も被告の証言をも鵜呑みにせず、しっかりと証拠を集め事実確認を行い真実を明らかにするという行為がいかに重要かを今の時代状況と向き合った上で主張することには十分に意義がある。
寡黙な主人公の静かな情熱にもう少し付き合ってもいいかなと思った。

『ゾンビが来たから人生見つめ直した件』初回

初回に関して言えばこれは物凄く良く出来てた。
今ゾンビものを真正面から作るリスク(『カメラを止めるな!』の二番煎じ)を完全に逆手に取って、ゾンビを非日常の意味的なメタファーとしてのみ使い、そこに地方のアラサー女子をぶつける狙いが素晴らしい。

いつの時代もゾンビは不安や危機のモチーフであり、物語のテーマはあくまで一つ屋根の下で暮らさざるを得ないアラサー女子3人の現状。彼女たちが抱える三者三様の問題を30分という短い尺の中で見事に解説しきっていた。
終わりなき日常に亀裂が生じた今後の彼女たちのあられもない生命力に期待。

『トクサツガガガ』初回


特オタを隠しながら日々を過ごす女の子の苦悩や奮闘をコメディタッチで描く。今でこそ世間のオタクに対するイメージはかなり軟化したが、それでも特殊な趣味趣向は特に職場において、未だにどの程度までオープンにするかと悩む人も多いはず。

会話の流れでたまたま発覚し意気投合したり、はたまた思い切って打ち明けたら死ぬほど盛り上がらかったりと、誰もが経験したことのあるようなあるあるで今後物語が安定して進んでいくのだろうと予測できた。
小芝風花のコメディエンヌぶりと特撮的な演出も嫌味がなく好感を持った。

原風景としての郊外

都市に生きるというのは根なし草として生きることなのかもしれない。人波に流され根なし草として彷徨い、それでも心の底にある邂逅への淡い期待。ぼくはやり直せるかもしれない。また、あたらしくはじまるものがあるかもしれないという淡い期待。

あるいは、ぼくらがアーバン・リベラル・アーツとかポストモダンなシティ・ボーイらしくどんなにうそぶいてみても、きみは根なし草で、きみの原風景は風の吹く乾いた地方の郊外じゃないか?という事実を友人と共有したことから2019年のはじまった。

他方で、郊外に残された者、戻った者。そこにはかつて存在したという神話のような共同体は存在しない。血縁だってほとんどないかもしれない。 そこにあるのは記憶だけだ。商店街は死に絶え、駅前のレコード・ショップや古着屋や雑貨屋はもうない。ティーン・エイジャの頃のイノセントな記憶と気配。

人々は国道沿いのモールに車を走らせ、日常性を補充する。食品(パンや牛乳あるいは冷凍食品)や日常雑貨(歯磨き、トイレットペーパー、LEDの蛍光灯)あるいはZARAやGAPなどのファッション、家電、自転車、ペット用品。休日のレジャーもそこにある。映画館、ヨガスタジオ、カフェ、フードコート。

年に何度かぼくらはその地に足を運ぶ。両親の顔を見て、ぼくはあと何日間一緒に過ごすのだろうかと思うこともある。 地元の友人たちとの飲み会。子供と住宅ローンについて話す大人になった友人たち。人妻になったかつての同級生。 そこで何日か過ごし、それからぼくらは湘南新宿ラインで日常に戻る。