原風景としての郊外

都市に生きるというのは根なし草として生きることなのかもしれない。人波に流され根なし草として彷徨い、それでも心の底にある邂逅への淡い期待。ぼくはやり直せるかもしれない。また、あたらしくはじまるものがあるかもしれないという淡い期待。

あるいは、ぼくらがアーバン・リベラル・アーツとかポストモダンなシティ・ボーイらしくどんなにうそぶいてみても、きみは根なし草で、きみの原風景は風の吹く乾いた地方の郊外じゃないか?という事実を友人と共有したことから2019年のはじまった。

他方で、郊外に残された者、戻った者。そこにはかつて存在したという神話のような共同体は存在しない。血縁だってほとんどないかもしれない。 そこにあるのは記憶だけだ。商店街は死に絶え、駅前のレコード・ショップや古着屋や雑貨屋はもうない。ティーン・エイジャの頃のイノセントな記憶と気配。

人々は国道沿いのモールに車を走らせ、日常性を補充する。食品(パンや牛乳あるいは冷凍食品)や日常雑貨(歯磨き、トイレットペーパー、LEDの蛍光灯)あるいはZARAやGAPなどのファッション、家電、自転車、ペット用品。休日のレジャーもそこにある。映画館、ヨガスタジオ、カフェ、フードコート。

年に何度かぼくらはその地に足を運ぶ。両親の顔を見て、ぼくはあと何日間一緒に過ごすのだろうかと思うこともある。 地元の友人たちとの飲み会。子供と住宅ローンについて話す大人になった友人たち。人妻になったかつての同級生。 そこで何日か過ごし、それからぼくらは湘南新宿ラインで日常に戻る。

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CoMA
CoMA
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

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