『ダンケルク』をもう一度劇場で

クリストファー・ノーランの監督作品をそんなに観たわけではないけれど、一部の映画ファンのように強い反発を覚えるわけでもなく、すごく好きというわけでもなく。特に思い入れはなかったので、この映画をまさか4回もリピートするとは思わなかった。

遠いな、と思った。揺れる(響く)な、と思った。それから、追われてるな、と思った。

遠さが最初の印象だった。カットされたバージョンでしか観ていないので広さについてはなんとも言えないが、常にはるか向こうが映っている画面の奥行に何か異様なものを感じた。風通しが良すぎて息が詰まりそうだった。冒頭の、無音で紙が降ってくるひと気の無い市街地。そこからいきなり銃撃が始まり、路地を抜けた先は大勢の兵士が並ぶ砂浜だった。このシーンの鮮烈さで映画に引き込まれていた。

空の奥行、浜辺の奥行、広さというか、向こうがずっと先まである。このスケール感と、船の中の密閉感の怖ろしい落差。

「大きさと小ささは瞬時に入れ替わる。細部を意識した眼で広い空間が描かれ、広い空間を意識した眼で細部が描かれるのだ。この反復が勤勉なため、映画はけっして雑にならない」(芝山幹郎『大きな映画を、マイナーポエットの眼で』)

画面の大きさもさることだがら、音の大きさも重要で、銃声や爆音がとにかくよく響く。追いつめるように音が繰り返される。劇場ごとびりびり揺さぶられる。                              最初の浜辺の爆撃で、だんだん戦闘機が近づいてくるのだがこれが長い。そこからいきなり高音になって爆弾が降ってくるのがとても怖い。
『ダンケルク』は音が映画を動かしている。爆音の振動が物理的に体を揺さぶってくる。敵の姿は見えず、銃弾や爆弾の音と、撃たれた人間の反応によってのみ表現される(人の身体的な反応で語るのもこの映画の特徴だ)。兵士を救出するため船を出したドーソン氏がエンジンの音で自軍の飛行機だと言い当てていたシーンも印象に残る。

そもそもこの作品は、2Dという枠内において(IMAXフィルムを使用したことで限られた劇場でしか本来の映像を観られない事態を引き起こしてはいるが)三次元的な体験を生み出そうとしているのではないか。スクリーン(平面)に映し出された映像と音響、これらによる詐術が映画なのでは?

近年の『シン・ゴジラ』や『マッドマックス 怒りのデス・ロード』といった多くのリピーターを生んだ映画にも共通するのは、このような身体的な体験性ではないかと思う。そこで語られている物語を越えて、もっと身体に近いところで快感を与えているから何度も繰り返し観たくなるのではないか。

この映画の特徴はまた、可視化できないものの可視化にもあると思う。この映画の人物描写は、音と音に対する反応が大半を占める。外面(表情、肌の)の反応。これが、見えない敵の存在を示し、言葉の代わりに人物の内面を語っている。

『ダンケルク』の時間は可視化された時間だ。「見えるほど近い」祖国と戦場を隔てている海は、人間には越えられない時間の比喩に思える。兵士たちを何度も跳ね返す海を突っ切って船と飛行機がやってくるのも示唆的である。
時計のイメージも付き纏う。劇中ではなんども時限装置のような音が聞こえる。時間の流れ方が異なる3つのパートは時計の3つの針を表しているようだ。
短針と長針と秒針という異なる時間の流れが入れ子になっている。1時間(空戦)が1日(ミスター・ドーソンたち)に、1日が1週間(浜辺)に包含される。時間の前後がある。3つの針が重なる一点に向けて物語が進行する。追いついたら、またそれぞれの速さで別々の時間が進んでいく。時間の遠近法は『インターステラー』を思わせる。              現在に追いつこうとする時間の競走。この海を突き抜けて桟橋の1週間に追いついた1日の航海と1時間の飛行は、映像の詐術で実現した時間旅行だ。
映画は(小説もそうだが)時間のフィクションであり、そしてフィクションが操作できる最たるものは時間だということを考えさせられた。

 

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文学、映画など ゴジラとガメラも好きです
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