『港町』で観察映画に初めて触れた

想田監督作品では『選挙』が一番好きだが、監督の作品で初めて観たのは『港町』だった。渋谷のイメージフォーラムでの上映だった。観終えて出てきたら渋谷の街が静かで、全然違う場所なのにまだ映画の中に居るような不思議な感覚を今も覚えている。

観察映画というジャンルに触れること自体、この作品が初めてだった。

牛窓という瀬戸内の漁師町。映されるのは人々の生活する姿。本当に、ただ生活を撮っている。にもかかわらずそれが美しく見える瞬間がある。

現在という感覚を喪失させるモノクロの画面。時間のグラーデションというか、いくつもの時制を行き来している感じがする。撮っている人間が、撮りながらその光景に入り込んでいるからか、映画の見え方が違う。横にも後ろにも牛窓の光景が広がっている気がしてくる。機械が作動しているのを見るのが気持ち良くて、いつまでもぼーっと眺めてしまう。そして魚の経済。漁師から、卸売りから、魚屋から、近所への配達から、買って帰る人たちから、猫へ。牛窓の営みの終着点が猫のような。人間が居なくなった後も猫がいるんじゃないか、猫に生まれ変わっていくんじゃないかと思わされる。モノクロの日光は終末の後の光にも思える。

劇場内でよく笑いが起きていたのも印象的だった。競りもよくテレビで出るような業者が沢山いて活気のある(殺気だっている?)感じじゃなくて、近所の人が五六人、いつもの顔触れがいつものように集まっているようだった。
高祖鮮魚店の奥さんが受けた電話、相手の耳が遠いのか何度も繰り返しているのが面白かった。ドキュメンタリーとはいえこれほど自然な映像なのもすごいしあれだけ入り込める監督もすごい。人はどこまで観ることが可能なのか、という問題。種々選択がなされるなかでどれだけ豊かに切り取れるか。という風なことも考えさせられた。

美しいと思う瞬間があり、いつまでも眺めていたいと思う心地よさもあり、その一方で不穏さに息をのむシーンもある(聞こえていないと思って本人の横で家庭内の不和をべらべら喋る老婆よりもその横で嫌そうな顔をしている話題にされている本人に焦点を当てた映し方など)。フィクションとノンフィクションとを問わず、作品の枠を食い破ってしまうそれ独自の時間を持ったカットが存在する。

だが、そういう風に鑑賞してしまうこと自体に恥ずかしさも覚える。あんまり異界だ失われた共同体だと自分と関係の無いよそ事として鑑賞するのもどうかと思う。あまりにも、現代の、都会人の目線であることに無自覚なのも。ドキュメンタリーの暴力性というか。普通に生きている人を被写体にして作品に登場させそれを鑑賞することの傲慢さ。この作品や作者はそのことに対して配慮しているのかもしれないが、「都会」の「文化人」たちから寄せられた大量のコメントにはまさにそういうものが臭ってきて気まずくなる。見世物じゃねーんだよ。自分と別世界の出来事にしてんじゃねーよと。

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文学、映画など ゴジラとガメラも好きです
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