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gu

文学、映画など ゴジラとガメラも好きです

2019年12月25日

映画『象は静かに座っている』フー・ボー監督

日頃そんなに長い映画を観ていないので、4時間の映画に率直な感想を言うのは難しい。長い小説を読んだときもそうだけど、そのために費やした時間や労力、そしてある種の愛着が影響して簡単に面白いとか面白くないと言えなくなる。

この映画は四人の登場人物の群像劇として描かれる。彼らの置かれた境遇や、身に起こる出来事が少しずつ重なりあい、全体として一つの絵になるような作りをしている。

比較されるであろう牯嶺街少年殺人事件はいくつものエピソードや時間が圧縮されて上映時間以上の密度を感じる映画だった。一方こちらは映画の中の4時間がそのままこちらの現実の4時間として表れているように感じた。それは単に作中で経過している時間が短いというだけなのか。

何の本に書いてあった言葉なのかどうしても思い出せないのだけれど、短編小説とは闇の中から現れてまた闇の中に消えていくものだとどこかで読んだ。暗闇の中で一瞬灯がともり、また元の暗闇に消えていくように、人生の一断片が映し出され、またスクリーンの向こう側へ去っていく。上映時間の長さにかかわらず、この作品から受ける印象は短編小説を読んだときのものに近い。

名もない登場人物の発した「世界は一面の荒野だ」という台詞が記憶に残っている。少年は父親に罵られ、少女は母親に詰られる。青年は友人を死に追いやり、老人は家庭を追われる。いじめっ子に抵抗した拳で人生を失い、教師との交際が晒され、心の拠り所だった飼い犬を殺される。「世界は一面の荒野だ」この台詞の主は教師の虐めで笑いものにされる。この世界は荒れ地だ。この世界はクソだ。映画を観ている間、そんな言葉が何度も頭に浮かんだ。

そんなクソみたいな世界は壊してしまいたい。しかし世界はあまりにも堅固だ。

『ジョーカー』に『天気の子』と、今年は“世界を壊す”映画が大ヒットした。どうにもならない現実を、叩き壊したその先の光景を、はっきりと映像にしてしまっていた。『ゴジラキングオブモンスターズ』も、話としてはキングギドラを倒して秩序を取り戻すものだけど、作中の世界は怪獣出現以後として決定的に変化している。

とはいえこれらの映画はファンタジーだ。私たちの住む世界は、少なくとも誰かの願う通りには、変えることも壊すこともできない。こちらの現実に近い水位で進行する『象は静かに座っている』も同様だ。だからこの映画の主人公たちは”ここではないどこか”へ行こうとする。満州里の動物園の座る象。どうして彼らはそんなものが見たいのか、作中で理由は語られない。神の隠喩だとしたら、終盤の動物園へ向かう夜行バスは巡礼の旅か。いやむしろ、どこかに行けば何かが変わるというような当てさえ無く、ただただこのどうしようもない”今、ここ”から消えてしまいたいという絶望した願いに思える。

この映画は撮り方がとても独特だ。被写界深度が非常に浅い。場面の主人公の顔だけがアップでくっきりと映されて、その向こう側はぼやけている。何かをしているシーンでもカメラは顔に固定されて手元は映さない。隣にいて喋っている相手の姿すらぼんやりしている。固定された対象の周辺で、ぼやけたまま(時には重大な)出来事が同時に進行している。俯瞰の描写が全くと言っていいほど無い。
日光は射さない灰色がかった画面の中、人物の肩越しに見える世界は常に不透明だ。世界が狭いとは感じないが閉塞している。どこにも行けない感じがする。

だからこそ、ラストシーンが印象深い。
夜行バスが停車する。満州里はまだ遠いが、主人公たちが降りてくる。この映画でおそらく唯一のロングショット。しかもそこに映っているのは3人の主人公だけではない。無関係であろう乗客たちも意外なくらい大勢下りてくる。どこかを眺めたり羽根蹴りに興じたりする彼らの姿がくっきりと見える。肩越しの不透明な世界ではない。この光景は何かの救いを表しているのか。

象は静かに座っている|gu|note https://note.com/ikneg_u/n/nf72315a13b16

2019年9月1日

『ダンケルク』をもう一度劇場で

クリストファー・ノーランの監督作品をそんなに観たわけではないけれど、一部の映画ファンのように強い反発を覚えるわけでもなく、すごく好きというわけでもなく。特に思い入れはなかったので、この映画をまさか4回もリピートするとは思わなかった。

遠いな、と思った。揺れる(響く)な、と思った。それから、追われてるな、と思った。

遠さが最初の印象だった。カットされたバージョンでしか観ていないので広さについてはなんとも言えないが、常にはるか向こうが映っている画面の奥行に何か異様なものを感じた。風通しが良すぎて息が詰まりそうだった。冒頭の、無音で紙が降ってくるひと気の無い市街地。そこからいきなり銃撃が始まり、路地を抜けた先は大勢の兵士が並ぶ砂浜だった。このシーンの鮮烈さで映画に引き込まれていた。

空の奥行、浜辺の奥行、広さというか、向こうがずっと先まである。このスケール感と、船の中の密閉感の怖ろしい落差。

「大きさと小ささは瞬時に入れ替わる。細部を意識した眼で広い空間が描かれ、広い空間を意識した眼で細部が描かれるのだ。この反復が勤勉なため、映画はけっして雑にならない」(芝山幹郎『大きな映画を、マイナーポエットの眼で』)

画面の大きさもさることだがら、音の大きさも重要で、銃声や爆音がとにかくよく響く。追いつめるように音が繰り返される。劇場ごとびりびり揺さぶられる。                              最初の浜辺の爆撃で、だんだん戦闘機が近づいてくるのだがこれが長い。そこからいきなり高音になって爆弾が降ってくるのがとても怖い。
『ダンケルク』は音が映画を動かしている。爆音の振動が物理的に体を揺さぶってくる。敵の姿は見えず、銃弾や爆弾の音と、撃たれた人間の反応によってのみ表現される(人の身体的な反応で語るのもこの映画の特徴だ)。兵士を救出するため船を出したドーソン氏がエンジンの音で自軍の飛行機だと言い当てていたシーンも印象に残る。

そもそもこの作品は、2Dという枠内において(IMAXフィルムを使用したことで限られた劇場でしか本来の映像を観られない事態を引き起こしてはいるが)三次元的な体験を生み出そうとしているのではないか。スクリーン(平面)に映し出された映像と音響、これらによる詐術が映画なのでは?

近年の『シン・ゴジラ』や『マッドマックス 怒りのデス・ロード』といった多くのリピーターを生んだ映画にも共通するのは、このような身体的な体験性ではないかと思う。そこで語られている物語を越えて、もっと身体に近いところで快感を与えているから何度も繰り返し観たくなるのではないか。

この映画の特徴はまた、可視化できないものの可視化にもあると思う。この映画の人物描写は、音と音に対する反応が大半を占める。外面(表情、肌の)の反応。これが、見えない敵の存在を示し、言葉の代わりに人物の内面を語っている。

『ダンケルク』の時間は可視化された時間だ。「見えるほど近い」祖国と戦場を隔てている海は、人間には越えられない時間の比喩に思える。兵士たちを何度も跳ね返す海を突っ切って船と飛行機がやってくるのも示唆的である。
時計のイメージも付き纏う。劇中ではなんども時限装置のような音が聞こえる。時間の流れ方が異なる3つのパートは時計の3つの針を表しているようだ。
短針と長針と秒針という異なる時間の流れが入れ子になっている。1時間(空戦)が1日(ミスター・ドーソンたち)に、1日が1週間(浜辺)に包含される。時間の前後がある。3つの針が重なる一点に向けて物語が進行する。追いついたら、またそれぞれの速さで別々の時間が進んでいく。時間の遠近法は『インターステラー』を思わせる。              現在に追いつこうとする時間の競走。この海を突き抜けて桟橋の1週間に追いついた1日の航海と1時間の飛行は、映像の詐術で実現した時間旅行だ。
映画は(小説もそうだが)時間のフィクションであり、そしてフィクションが操作できる最たるものは時間だということを考えさせられた。

 

ダンケルクをもう一度劇場で|gu|note

2019年9月1日

『港町』で観察映画に初めて触れた

想田監督作品では『選挙』が一番好きだが、監督の作品で初めて観たのは『港町』だった。渋谷のイメージフォーラムでの上映だった。観終えて出てきたら渋谷の街が静かで、全然違う場所なのにまだ映画の中に居るような不思議な感覚を今も覚えている。

観察映画というジャンルに触れること自体、この作品が初めてだった。

牛窓という瀬戸内の漁師町。映されるのは人々の生活する姿。本当に、ただ生活を撮っている。にもかかわらずそれが美しく見える瞬間がある。

現在という感覚を喪失させるモノクロの画面。時間のグラーデションというか、いくつもの時制を行き来している感じがする。撮っている人間が、撮りながらその光景に入り込んでいるからか、映画の見え方が違う。横にも後ろにも牛窓の光景が広がっている気がしてくる。機械が作動しているのを見るのが気持ち良くて、いつまでもぼーっと眺めてしまう。そして魚の経済。漁師から、卸売りから、魚屋から、近所への配達から、買って帰る人たちから、猫へ。牛窓の営みの終着点が猫のような。人間が居なくなった後も猫がいるんじゃないか、猫に生まれ変わっていくんじゃないかと思わされる。モノクロの日光は終末の後の光にも思える。

劇場内でよく笑いが起きていたのも印象的だった。競りもよくテレビで出るような業者が沢山いて活気のある(殺気だっている?)感じじゃなくて、近所の人が五六人、いつもの顔触れがいつものように集まっているようだった。
高祖鮮魚店の奥さんが受けた電話、相手の耳が遠いのか何度も繰り返しているのが面白かった。ドキュメンタリーとはいえこれほど自然な映像なのもすごいしあれだけ入り込める監督もすごい。人はどこまで観ることが可能なのか、という問題。種々選択がなされるなかでどれだけ豊かに切り取れるか。という風なことも考えさせられた。

美しいと思う瞬間があり、いつまでも眺めていたいと思う心地よさもあり、その一方で不穏さに息をのむシーンもある(聞こえていないと思って本人の横で家庭内の不和をべらべら喋る老婆よりもその横で嫌そうな顔をしている話題にされている本人に焦点を当てた映し方など)。フィクションとノンフィクションとを問わず、作品の枠を食い破ってしまうそれ独自の時間を持ったカットが存在する。

だが、そういう風に鑑賞してしまうこと自体に恥ずかしさも覚える。あんまり異界だ失われた共同体だと自分と関係の無いよそ事として鑑賞するのもどうかと思う。あまりにも、現代の、都会人の目線であることに無自覚なのも。ドキュメンタリーの暴力性というか。普通に生きている人を被写体にして作品に登場させそれを鑑賞することの傲慢さ。この作品や作者はそのことに対して配慮しているのかもしれないが、「都会」の「文化人」たちから寄せられた大量のコメントにはまさにそういうものが臭ってきて気まずくなる。見世物じゃねーんだよ。自分と別世界の出来事にしてんじゃねーよと。

港町』で観察映画に初めて触れた|gu|note

2019年8月22日

天気の子

何もかもが間違っていて、それゆえに正しいと思わせる映画だった。平成最後の夏も過ぎた後にこんな堂々としたセカイ系をぶつけられるとは思わなかった。最初から最後まで瑕疵が目につくのに不思議と嫌いになれなかった。

そもそもの印象はマイナスから。元々新海誠の作品は好きではなかった。甘い感傷に浸っているように思えたし、東京(都会)の過度な美化にいちいち引っかかってしまった(特に『君の名は』に出てくる高めの価格設定のカフェで駄弁る男子高校生たちの描写が嫌いだったのだけど、これについては他人から賛同を得たことがないので私の感覚がおかしいのかもしれない)。
なので『天気の子』についても最初は「また東京に出てくる話かよ・・・」と思っていた。
あと非常にどうでもいいことだけど少年を「少年」呼ばわりするフィクション特有のアレも居心地が悪かった。オタク的なサービスシーンのあれこれも一般向け大作で良くやるなあと感心もしつつ気恥ずかしくなった。

しかし、にもかかわらずこの作品は面白かった。
一言で言えばそれは開き直りだ。世界を壊してしまっても構わないという開き直り。プラス、壊れた世界を受け容れること。
ヒロインが異能を持ち、その力が世界の命運に直結し、逃避行があり、世界と彼女を天秤にかけた決断を迫られる。セカイ系の定義をそのままなぞったような展開に、今時こんなベタな話をやるかと驚くが、そのベタは一周回ったベタである。

この作品に対する印象が変わったのは夏に降る雪や、東京を襲う異常気象を見てからだ。
この作品は『君の名は』をひっくり返していると感じる。主人公は離島から出てきた男の子で、東京に住むのはヒロインの方。そして東京は(ストレートな意味では)憧れの都会ではなく、そのうえ、主人公たちの選択によって最期は水に沈む。
新海誠の背景画に関心はしないのだが、この作品で描かれる東京の景色はあまりにも今ここを再現していて、クライマックスでそれらが失われることを考えると、地誌的な価値が、やがて失われる現在の記録としての価値が浮かび上がってくることに気付いた。
(思い返してみると『君の名は』の時点ですでに東京もいつか天変地異で失われてしまうかもしれないと示唆されていたのだが、観た当時は東京だけ無事なのに何言ってるんだと思ってしまった・・・)

ヒロインを空から取り戻したことで、天気を鎮める巫女という物語が断ち切られた。選択の結果、元々あった世界は壊れてしまうが、それすらも是としてこの映画は受け入れる。
作品の終盤、水没した東京で、江戸時代は海だったという話を主人公は聞かされる。誕生以来地球の姿は何度となく変わっていて、宇宙的な時間の中では地球温暖化も東京水没も些細な問題とする観点。恋愛のために世界を壊して何が悪いと開き直られたようで清々しかった。
神話とセカイ系という二つの物語の底が抜けていると思った。

世界を選んで喪失感に浸るのではなく、世界より自分たちを優先した代償の苦さを味合わされるのでもなく、世界よりも自分たちの関係性を選ぶことを、その結果を含めて作品が全力で肯定している。
世界の形を変えてしまうこと、(今ある形での)世界の終わりを本当に起こしてしまったこと、そしてそこに突き進む視野狭窄にむしろ救いを感じた。

村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の意味がいまいち読み取れなかったのだけど、「キャッチャー」が見守るライ麦畑を映像化したら劇中描かれる雲の草原みたいになるのかなと思った。

気候に対する人類の責任とか人新世とかアースダイバーとか現代思想を匂わせる要素がけっこう目についたので、そういうものを齧っていれば色々ツッコミができたかもしれない。

記事引用元:天気の子|gu|note

2019年8月22日

スタニスワフ・レム『短篇ベスト10』について

星新一がエッセイで、ミステリとSFの違いについて、前者は収束を志向し、後者は拡散を志向すると書いていた。拡散という言葉はまさにレムの作品にぴったりではないかと、この本を読みながら思った。

レムの作品においては、科学技術であれ、法律であれ、電化製品の販売競争であれ、一度何かが生じると、否が応でも拡大・発展が始まり、窮極の破綻にぶつかるまで加速は止まらない。物語はとめどなく飛び散っていき、不可知の領域は際限なく広がり続ける。宇宙のインフレーションを連想させるこのイメージは、未知の天体の謎をめぐる『ソラリス』や『天の声』に現れる。

その一方で、複雑化すること自体が目的となったかのような機械・仕組みの迷宮化も本書に収録された作品には見られる。権力構造・政治体制。人間を越えたシステムの恐ろしさ。際限なさ。「超システム」化。『浴槽で発見された手記』に象徴される。

常に拡散・拡大を目指す、科学・学問・知性、の恐るべき可笑しさ。極端までインフレしてしまえばどんなものでも喜劇(笑いもの)になってしまう。いずれにせよこれらは、非人間的というか、人間の外側にあるものである。それら無際限な宇宙・システムに対し、レムの作品に登場する人間たち(の認識能力)は常に限界にぶつかって挫折している、という印象がある。惑星ソラリスを理解することはできず、官僚制の迷宮を彷徨い、誤謬の理論のドタバタに飲み込まれる。

レムの作品にはよく宇宙飛行士が登場する。彼らは往々にしてとんでもないトラブルに巻き込まれる。レムの作品を読むということは、どこまでも不可解な宇宙(というシステム)の中で、翻弄され、挫折する宇宙飛行士になることなのではないか。

記事引用元:スタニスワフ・レム『短篇ベスト10』について|gu|note

2019年7月18日

いまさら『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』

公開から1ヵ月以上経ってしまったがやはり感想は書いておこうと思った。なんであれ2年間待ち続けた映画だから。
正直に言うとこの映画を初めて観た時、少なからず戸惑ってしまった。これが観たかった!という満足感と同時に、観たかったのはこれだった?という違和感もあった。

唐突だが、怪獣映画はファーストコンタクトと怪獣バトルの大きく2つに分けられる。
ファーストコンタクトの古典ははたとえば第1作目の『ゴジラ』で、この作品は怪獣という未知との遭遇によって起きた変化を描いている。
だがゴジラ映画が語ってきたのはそれだけではない。第二作の『ゴジラの逆襲』から現在に至るまで、ゴジラと敵怪獣の戦いが何度も何度も繰り返されてきた。

近年の作品で言えば『シン・ゴジラ』は前者について様々な先行作品を引用しアップデートした。それに対して『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は後者の最新型だ。
この映画は怪獣の出番を出し惜しみしない。冒頭のモスラの誕生から南極でのゴジラ対ギドラ、メキシコでのラドン・ギドラ・ゴジラの交戦、ゴジラ復活、そして最終決戦へ。人間ドラマなど知るかと言わんばかりに、話がダレる間もなく怪獣が現れる。
前作にあった「怪獣とのファーストコンタクト」という要素は薄れた分、怪獣バトルが前面に押し出されている。
すでに怪獣と出会ってしまった世界を描く以上、この怪獣バトルへの開き直りは潔い。

この映画の魅力はなんといっても怪獣たちの圧倒的なビジュアルだ。生頼範義の描くゴジラのポスターがそのままスクリーンに現れたかのように、1カット1カットが美しく、迫力に満ちている。
特に好きなのは噴火口でギドラが雄叫びを上げるシーンだ。画面手前に映る十字架、偽の王の目覚めという状況も相まって、宗教的と言いたくなるような荘厳さと不気味さが同時に感じられる。
そんな凄い絵が自由自在かつパワフルに暴れ回る。カメラも怪獣も目まぐるしく動く。怪獣映画という以上に「怪獣のアクション映画」だと思った。

個人的な印象だが、怪獣映画は多かれ少なかれ引き算の表現で成り立っている。
何かを十分に見せないことで、その見えない余白によって怪獣の存在を大きくさせる。
あるいは、着ぐるみ・ミニチュアというニセモノっぽいニセモノを、演出によって「ニセモノが本物らしく見える」という手続きを経ることで独特なリアリティを生み出す。
たとえば『シン・ゴジラ』は「ゴジラがただ歩いているだけ」と言われることもあるが、歩いているだけで大都市を瓦礫の山に変え、ビル街に佇むだけで景色を一辺させる、その見せ方に凄さがある。
とはいえ、予算やCG技術の制限によってそういった表現を取らざるを得ないところもあるのだろう。『シン・ゴジラ』もゴジラをもっと動かしたかったと聞いたこともあるし。

それに対して、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』はほとんど足し算だけで作品を成立させてしまった。驚くべきことに。
ニセモノが本物らしく見えるという手続きを経るまでもなく、本物と見まがうCGが圧倒的な物量で展開される。それによって、これまでの怪獣映画が持ち得なかったリアリティを獲得した。

また、怪獣のキャラクター性、擬人化の強さも特徴的だ。
この映画では怪獣の顔にフォーカスするカットが印象に残る。モスラの幼虫、ラドン、ゴジラ、ギドラ。彼らの登場シーンでは見得を切るように顔への寄りが挟まれる。(しかも専用の登場曲まである)
人間の視点という制約が取り払われ、怪獣というキャラクターをいかに印象付けるか、という方向に映し方が変化している。

地球上で発見された17体の怪獣をモナークが監視しているという設定、彼らの科学力、唐突に出てくる超兵器「オキシジェンデストロイヤー」、地球空洞説や海底に沈んだ超古代文明など、全作と比べて現実離れした設定が増え、作品のリアリティラインが上がった。登場人物も芹沢博士やエマ・ラッセル、アラン・ジョナなどキャラの主張が強い。VSシリーズっぽいという感想をよく見かけたが、専門用語やネームドキャラが飛び交うフィクション度の高さが理由だと思う。

描かれているのは怪獣という非日常をすでに受け容れている世界だ。ここでは怪獣は現実に侵入する異物ではない。ゴジラの(怪獣の)出現によって世界が変化した、ということが映像と作劇の両面で表現されている。
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』はいわば、「『シン・ゴジラ』が選ばなかったゴジラ映画」だ。

というわけで、基本的にはとても楽しめたが、いま一つ乗り切れないところもあった。
怪獣のCGは想像で補う必要がないくらい「本物」なのだが、それに加えて登場人物のキャラが濃く、背景となる世界もフィクション度高いとなると、何が当たり前で何が驚きなのかが分かりにくい。なんというか、世界に濃淡が欠けているという印象を受けた。

ゴジラは色んな顔を持っている。水爆の犠牲者も、太古の巨神も、巨大化したイグアナも、植物由来の怪獣王も、みんなゴジラだ。
ゴジラは着ぐるみで生まれた。それ自体は空っぽの器である。どんな意味も飲み込んでしまう。こういうのがゴジラだとかこれはゴジラではないという議論はそもそも意味が無いのだろう。
今はとりあえず、新たなゴジラ映画が作られ続けているという状況に感謝しながら『ゴジラvsコング』を待ちたい。

記事引用元:いまさら『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』|gu|note

2019年6月20日

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の予習の記録 ―― ゴジラ作品総レビュー

『ゴジラ(1954)』

「現実」に初めて侵入してきたゴジラ。小さい頃は苦手だったけど、何度も観返すにつれて良さがわかった。今ではオールタイムベスト。哀しく怖ろしく格好いい、怪獣のすべてがある。燃える都市の向こうに巨大な影が見えるどこか夢の中を思わせる不思議な情景が印象的。

このゴジラは古代生物と伝説上の怪物と人間の手によるミュータントという三つの異なる顔(出自)を併せ持っている。栄光丸が沈み、探査に向かった船も沈み、それを救助した漁船も沈み、そこから一人生き残った大戸島の若者もゴジラに踏み潰される。誰も生き延びられない連鎖が怖い。

『ゴジラの逆襲』

1作目よりも手探り感が強く、歪で、それゆえに意外な面白さもある怪作にして快作。怪獣プロレスが存在しなかった時代の怪獣バトルは、意図しない早回しや、噛み付きなどの動物的なリアルな格闘、クライマックスではなく中盤に持ってくる構成など、怪獣映画のフォーマットが確立された現代では見られない描写が新鮮。前作の映像が無音でただ上映される会議室や、やけに時間をかけて描かれる宴会など、必要性のわからないシーンが妙に面白い。乱杭歯が不気味なゴジラの造形や凍結による決着など、シン・ゴジラを先取りしているように思える要素もある。

怪獣の登場しない怪獣映画も意図せずに実現されている。最初のゴジラの日本接近は緊急放送と管制室の地図の上を動く手の映像に終始し、一度もゴジラが映らないまま新聞記事で危機が去ったことが示される。

脱獄集達の起こした騒動で灯火管制が失敗したり、廃墟から立ち上がる様が描かれたり、主要登場人物のドラマだけでなく、良くも悪くも人間臭さが物事を(映画を)動かしている。東京を破壊した前作から、破壊からの復興までを描いたのが「逆襲」だ。また、余談だが地下鉄構内の水没シーンが圧巻。

『キングコング対ゴジラ』

怪獣プロレスを確立した作品。ミレゴジの先祖と言えるキンゴジの造形が素晴らしい。大きい手足も独特の魅力。そして多湖部長のキレ味。前二作から趣向をがらりと変えてコメディに寄せているが、それでも成り立つゴジラというジャンルの懐の深さを感じる。

『モスラ対ゴジラ』

冒頭の台風のシーンから心を掴まれる。今作のゴジラは明確に悪役なのに、砂をふるい落とす仕草や尻尾がタワーに引っかかるところがなんか可愛くて(そのうえ段差を踏み外してお城に激突したりする)、でもちゃんと怖いという不思議。

それにしても干潟から登場するゴジラってなかなか思いつけることじゃない。ガイガーカウンターを使うくだりは1作目の足跡を思い出した。ドラマパートは新聞記者が映画の花形だった時代を感じさせる。

『シン・ゴジラ』の第一形態登場シーンは、干潟から飛び出したゴジラの尻尾を連想する。

作品の意図とは全然関係ないんだけど、コンビナートを襲うゴジラの合成が黒沢清の『回路』の幽霊表現っぽくて面白い。

『三大怪獣地球最大の決戦』

怪獣たちの出現の前触れとして異常気象や天体の異変が起き、「地球の箍が緩んでいる」という台詞が発せられる導入部。KOMの設定はこの辺も踏まえているなら嬉しい。群像劇風にストーリーが進行しながら主役たちが姿を現し始めるのがわくわくする。

キングギドラが異星人の手先ではない貴重な作品。ギドラの登場シーンは全部格好いい。三体が協力して反撃に出る場面は怪獣たちを善玉として感情移入させるところだけど、一方で避難した住民たちが悲嘆にくれているのが印象的だった。怪獣プロレスは怪獣プロレスでありながらあくまで怪獣災害だった。

『怪獣大戦争』

ゴジラ初の宇宙進出。UFOに連れ去られたり人類のコントロール下にあったりとこの時期の怪獣の扱いには思うところもあるのだが、例のコスチュームのX星人たちが登場するとテンションは上がる。

この作品で一番好きな画は後半の市街地で暴れるキングギドラ。怪獣映画の感動は風景と怪獣の相互作用にあると思う。

『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』

海外版のタイトル『EBIRAH 〜HORROR OF THE DEEP〜』がかっこいい。嵐の中に現れるエビラは凄かった。正直エビラをナメていた。島から逃げ出してエビラに襲われたインファント島民が、初代ゴジラの政治(ゴジラに殺された新吉の兄)役の人に見えた。

敵に追われる水野久美を助けるゴジラは、キングコングの役を演じているだけと言えばそうなのだが、『ゴジラ(1954)』でゴジラが初めて姿を見せた場面を登場人物の立ち位置をずらして反復しているようにも見えて面白い。そもそもこの映画自体、平田昭彦と宝田明が役割をずらして共演している。

戦闘機がゴジラを爆撃するシーンやモスラが降り立つシーンの、ゴジラ映画ではあまり聞かない軽快だったりファンタジー調だったりする音楽が印象的だった。

『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』

擬人化の進むゴジラ。そして流暢なカタコト日本語のヒロイン。ブラックな職場で精神を病んだ登場人物(土屋嘉男)がいるのが面白い。この作品の魅力はクモンガ、カマキラスの(怪獣というより)巨大生物としての実在感と、ゴジラの熱線描写だと思う。人間と怪獣の距離が近く、木々の間から見上げるアングルが多い。登場人物の目線で怪獣の巨大さを感じる。海中から背びれをのぞかせながら島に接近してくるゴジラが格好いい。そしてカマキラスがなかなかに怖い。巨大化する前はメガヌロンを彷彿とさせる不気味さ。この辺の節足動物モチーフはデストロイアに繋がると思う。

ミニラの成長を熱線で表すためゴジラが熱線を撃つ機会が多い。飛びかかってくるカマキラスに放射熱線が直撃して、ちぎれた前脚が燃えながら落下してくる演出は平成ガメラを連想した。怪獣プロレスでは投石のダメージ>>熱線のダメージになりがちだったので、この作品での熱線描写は満足度が高い。

『怪獣総進撃』

怪獣がたくさん登場すれば楽しいのは怪獣映画の1つの真理。凱旋門を地中から突き破るゴロザウルス、モノレールにからみつくマンダ。各地に現れる怪獣は、地球がヤバいというより夢の中の光景のようなシュールさがある。ラストシーンは人間(観客・作り手)の世界から去っていく怪獣(映画)という意味合いが感じられて寂しい。正直言うと小さい頃は「人間が怪獣を管理している」という設定が嫌だった。怪獣ランドから世界中に解き放たれても宇宙人に操られていることにモヤモヤして、理想の『怪獣総進撃』をよく想像していた。

『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』

怪獣が実在しない怪獣映画。登場人物にとってもゴジラやミニラは映画の中の存在だ。大半の特撮シーンが過去作の使い回しだったり、メインの敵がガバラだったりするせいか、あまり人気はないが、ゴジラ映画を通して現実とフィクションの関係を描いているのが面白い。この時期の『怪獣総進撃』~『オール怪獣大進撃』~『ゴジラ対ヘドラ』という流れは中々に前衛的。主人公の一郎が反映しているのは怪獣映画の観客であった当時の子どもたちだ。(実際これを今やられたらたまったものじゃないというのは置いといて)使い回しの映像は、一郎がこれまでに観たゴジラ映画の記憶であり、ミニラとの冒険は一郎を(子どもたちを)スクリーンの向こう側に連れて行ったと言えるのではないか。この作品をただの夢オチと捉えるのは寂しい。天本英世の台詞で「一種の信仰みたいなものですな。大人の世界に神様があるように、子どもの世界にミニラ大明神があってもおかしくないでしょう」とあるように、夢というより想像力。空想の冒険で強くなって現実に帰ってくる。

『ゴジラ対ヘドラ』

唯一無二のサイケデリック前衛怪獣映画。ゴジラ映画とは思えない画が次から次へと繰り出されるのが凄い。冒頭のゴジラのおもちゃで遊ぶシーンから既に不穏である。クラブでラリって人の顔が魚になるなんて子どもの頃に観たらトラウマ必至だと思う。

ヘドラを振り回すゴジラと麻雀牌をかき回すサラリーマンの動きがシンクロして、投げ飛ばされたヘドラに呑まれてサラリーマン達が死亡する流れはヤバい。

主題歌をバックに工場の煙突にのしかかるヘドラ。排気ガスに覆われ太陽の光が届かず、画面は終始暗く煙っている。何もかも手遅れになってしまったような終末感が基調にある。映画の奇抜な表現だけじゃなく、怪獣としてもヘドラはとても魅力的。こんなのと戦うならゴジラも飛ぶしかないよなと思う。

『怪獣少年の〈復讐〉』でも指摘されていたジェットコースターの場面の奇妙さ。主人公の少年が一瞬ゴジラの影を目撃するが「こんな天気の良い日に来るわけない」と否定される。警報も出ていないし街は平穏なまま。その後ゴジラが出現するのだが、あの影が現実のものだったのかはわからない。ゴジラは少年の夢に現れ、おもちゃが存在し、しかし現実に石油コンビナートを破壊し、ヘドラと戦う。空想と現実の間で揺らいでいる。

『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』

キングギドラとガイガンは華がある。オープニングクレジットがちょっと格好いい。チャンピオンまつりは流血と火炎。とにかく燃やすし血を流す。後半はずっと戦ってた気がする。それにしてもアンギラスの鳴き声ってなんであんなに悲しそうなのか。

『ゴジラ対メガロ』

人生で最初に観たゴジラ。ジェットジャガーの手話を真似した記憶がある。今観返すとゴジラ映画もここまで来たか…と少し戸惑う。昭和ガメラのノリを逆輸入したというか。とはいえメガロはけっこう好きだし、ダム破壊は名場面。あとは戦車隊を空中から捉えた画が印象に残った。

『ゴジラ対メカゴジラ』

新怪獣あり爆発あり活劇あり昭和歌謡ありのメカゴジラの装備並みに盛りだくさんな作品。微妙に頼りないキングシーサーに何かを深読みしそうになる。この映画はなんと言ってもメカゴジラと火薬。記憶にある以上に強かったし燃やしていた。

『メカゴジラの逆襲』

『オール怪獣大進撃』以来にして最後の本多猪四郎監督ゴジラ。怪獣対決路線を継承しつつシリアスなドラマを作ろうとする苦心が伺える。容赦なく爆発を合成してくるメカゴジラⅡとチタノザウルスの都市破壊シーンは久々に凄かった。怪獣たちが異様に大きく見える瞬間があるのと、チタノザウルスの鳴き声がすごく印象に残っている。セピア色の海に去っていくラストが物寂しい。

『ゴジラ(1984)』

何度となく言われてきただろうけど惜しい作品だと思う。リアルさを志向しながらスーパーXという超兵器を登場させたり、避難命令が下っているはずの新宿でゴジラの足元に大勢の人達(どう見ても当時のゴジラファンの方々)がのこのこ集まってきたり、メロドラマ要素と妙に長い脱出劇があったり、色んな方向を向いていて「怖いゴジラ」「政治劇を盛り込んだリアルな怪獣映画」というコンセプトがブレている。でもそういうチグハグさも嫌いじゃないというか、放っておけない。

この作品が目指したことは後に『シン・ゴジラ』で達成されるし、カドミウム弾の使用に見られるようにゴジラを「放射能に動かされる生物」と捉える描き方はそのままVSシリーズの基調になっていく。平成ゴジラの礎になった作品であることは間違いない。武田鉄也とかまやつひろしについてはノーコメント。

『ゴジラvsビオランテ』

4代目ゴジラの格好よさ。「第~種警戒体制」や平成ではおなじみの「G」といった用語、ハリウッド映画を意識したようなアクションや掛け合いなど、(個人的な好き嫌いはあるけど)新しいものを、軽快で現代的なエンタメを作ろうとする意志は強く伝わってくる。

顔が映るだけで面白いサラジアのエージェントはずるい。あの最期は何回観ても爆笑する。

ストーリーは前作の直後、廃墟と化した新宿から始まる。ゴジラに破壊された場所にはゴジラの生体情報が残されているという観点が新しい(初代でも足跡の描写はあったが)。ゴジラの体温に言及していたり、ゴジラを生物(驚異的ではあるが)として再構築する流れは前作から続いている。オープニングも含めて「バイオ」の時代だ。このシーンは『シン・ゴジラ』にも響いている。

最後の方の「バットマンみたいだった」云々の台詞とか、ついさっき顔見知りが殺されたばっかりやぞと言いたくなる。こういう80~90年代のノリは苦手。でも「ヤングエリート」という言い方は妙に好き。超能力開発センターやGエスパーはオウム前夜だなあと思う。

大人しい描かれ方をしながら実は一番ヤバい人という点で山根博士に通じる白神博士。ビオランテが逃げ出した時の他人事ぶりに笑った。それにしてもゴジラシリーズは「父と娘」のドラマが本当に多い…。

芦ノ湖のビオランテのように異形のオブジェの周りで人間たちが右往左往している図は好き。全体の印象として、対象年齢は上がっているが大人向けというのも座りが悪い。怪獣バトル路線とも前作のリアル志向とも異なる独特の立ち位置である。若さというか、背伸び感。

平成ゴジラの芸能人のカメオ出演は好きじゃないけどデーモン小暮の入れ方は凄かった。権藤さんの部屋にあったゴジラ像はキンゴジだろうか。

『ゴジラvsキングギドラ』

映画館で観た初めての映画。経済大国日本!にバブルの匂いを強く感じる。しかし(未来人を除けば)人間パートに意外と浮ついた印象はなく、むしろ新堂会長とゴジラのドラマは良い線いってるんじゃないかと思った。ゴジラのオリジンが語られたことはとても価値がある。

ゴジラザウルスに命を救われた日本兵(=日本経済)が戦後の繁栄を経て、ゴジラによって最期を迎える構図は悪くないし、両者が向き合い容赦なく熱線が放たれるシーンにはおお!と思わず声が出た。 VSシリーズの好きなところはゴジラの熱線が強いこと。新宿を蹂躙するゴジラが素晴らしくて、だからゴジラ好きになったんだと思い出した。人間側もメーサー戦車が執拗に頭部を攻撃し続けていたのがポイント高い。海の泡に消えた初代ゴジラに対比させるように、泡の中で新生ゴジラが目を覚ますエンドロールが印象的。

ターミネーター、エイリアン、BTTF、ジュラシックパーク等ゴジラを観ればその時代の流行がわかる。未来人周りのチープさは昭和ゴジラの宇宙人たちの変奏と思えば許容できなくもない。霧の中でUFOを自衛隊が取り囲む画は悪くないし。とはいえ、ドラットが可哀想という視点がいくらなんでも無さ過ぎる。個人的には三大怪獣やGMK、キング・オブ・モンスターズのような人間に操られていないキングギドラが好きだ。

『ゴジラvsモスラ』

インディ・ジョーンズをお安くした感じのアクションや20世紀末特有の説教臭さなどドラマパートはしんどいが、モスラとバトラの幼虫は怪獣として面白いし、光線と粒子が飛び交う特撮は確かに「極彩色の大決戦」だ。モスラ成虫のぬいぐるみが欲しい。あと宝田明の英単語の発音が好き。

内容はともかくとしてVSシリーズは作り手がオタクじゃない感じがする。荒唐無稽な話でも一般向け映画を作っているんだという意識があるというか、あまり「引用」を感じさせない。

『ゴジラvsメカゴジラ』

VSシリーズの当初の完結編だけに、ストーリーも特撮も集大成の熱気を感じる。人造物(メカゴジラ・ガルーダ)に対して生命(ゴジラ・ラドン)を善とするのは当時のエコロジー的な流行りもあったのではないかと思う。

『ゴジラvsスペースゴジラ』

肉弾戦に光線・爆発・ビル破壊全部乗せの怪獣バトルはvsシリーズ最高だと思う。スペゴジの頬の辺りから生えてる牙はビオランテの名残りか。無人島で独りゴジラに戦いを挑み続ける柄本明には『終着の浜辺』辺りのJ・G・バラードの登場人物みを感じる。

超能力開発センターがサイキックセンターに名称変更していた。『vsビオランテ』の予知夢の絵は名シーンだったが、今作のピラミッドの中で瞑想する子供たちはなかなかヤバい絵面(しかも国の機関)。Mobile Operation Godzilla Expert Robot Aero-type略してMOGERAとかいう無理やりなネーミングは好き。

『ゴジラvsデストロイア』

赤熱し、凍結し、溶けて骨になる。これまでにない姿を見せるゴジラとそれを実現させた特撮が凄い。着ぐるみの仕掛けで窒息しかけたこともあったという文字通り命がけの演技。前作までは敵怪獣を描くためのゴジラだったが今作はテーマがゴジラ自身で、敵怪獣はそのためにオキシジェンデストロイヤーの化身として現れる。デストロイア幼体はまんまエイリアン(とはいえ劇場で観た当時はガチで怖かった)だけど『空の大怪獣ラドン』のように原因不明の事故が前触れとして描かれるとわくわくする。

冒頭から緊迫した展開、初代「ゴジラ」の文字が弾けて本作のタイトルが出る演出、そして1作目の出演者が40年後の本人役で登場。これで最終回という雰囲気が全編に漂っている。山根博士オマージュの台詞や1作目の映像が情緒に訴えかけてくる。

ラストの警句は蛇足だが、ゴジラの死と共に登場人物達が白い光に包まれる瞬間の時間が止まったような荘厳さに、何か(ゴジラだろうか)が向こう側に去ってしまったことを強く感じた。

雰囲気の暗さもあってvsで一番好きな作品。前作との間に阪神大震災と地下鉄サリン事件が起きていることも作品の終末感に影響しているんだろうか。

『GODZILLA(1998)』

特撮ファン・ゴジラファンはこの作品をきちんと評価していたという風潮があるので言いにくいが、子どもの頃はこの作品が嫌いだった。好き嫌い抜きに観れるようになってようやくこの作品がまぎれもない優れた怪獣映画だと納得できた。

ゴジラのキャラクター性を度外視して(ゴジラの名を冠する以上それはやっぱり問題だとは思うのだが)巨大な生き物=怪獣が現れる面白さ不思議さをこの映画では描いている。

この作品の魅力は何と言っても「大きいものが大きく見える」という怪獣映画の根源的な快感にある。トンネルの向こうから覗く眼、漁港を闊歩する爪先、木っ端微塵にされる桟橋と逃げる釣り人、マディソン・スクエア・ガーデンから突き出した顔。視点や対比を駆使して描かれる巨大さに何度も目を瞠る。

だからこそ後半のジュラシック・パークもどきの脱出劇には感心しなかったのだが。あと流石にあの巨体がマンハッタンを隠れ家にするのは無理があるのでは。水中に帰った方がゴジラ的ではある。

とても面白い作品ではあるのだが、ゴジラ映画はゴジラのキャラクター性と切っても切り離せないものだと思うので造形や解釈に対する戸惑いは残る。「ゴジラと思わなければ」なのか「こういうのも含めてゴジラ」なのかいまだに態度を決めかねている。

『ゴジラ2000 ミレニアム』

ミレゴジ雛形という最高に格好良いゴジラを生み出すきっかけとなった功績は大きい(スーツ版も好きですが)。冒頭の根室上陸はそれだけで元が取れる素晴らしさ。大きく恐ろしく驚異的なものがそこに居る、ということが信じられる特撮だった。・・・のだけれど、ゴジラを追いかける主人公3人がノイズになってしまっている。道楽に巻き込んだ娘をパートナー呼ばわりする父親も苦手だし、わざわざ同行しながら不貞腐れてばかりの記者もなんだかなあと思う。

「ゴジラとは何か」をテーマに掲げながら途中から宇宙人を追いかけ始め、微妙に歯切れの悪い怪獣バトルに持ち込まれる。VSシリーズから脱却しようとして、或はエメゴジに対して日本独自のゴジラ像を示そうとしてし切れない感じがフルメタルミサイルという兵器にも表れているのではないか。

『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』

ゴジラを撮りたくて映画監督になった人の作品はなるべく称賛したいのだけど・・・個人的には厳しいところが多かった。一応リアルタイムでも観ている。チャラい谷原章介が新鮮。超小型ロボットでカレー作るって十分凄いのに、手品のネタが割れて子どもにがっかりされる登場シーンの流れが納得いかなかった。こういうやり取りにしたいという型があってそこにディティールを流し込んでいるようなぎこちなさが全体的にある。登場人物のドラマとゴジラを結びつけた点や、ゴジラ襲撃による首都移転、水没した渋谷、メガヌロンを敵怪獣としてリメイクするなど面白いアイデアはいくつも見られるのだが。

とはいえG対策本部がなんとなくテレビの特撮っぽいノリだったり、戦闘機のデザインと機動性が現代日本の景観から浮いてたり、怪獣バトルでコマ送りやブレや不自然な加速を多用するのが(アニメ的な演出を意図しているのかもしれないが)個人的にはうーんとなってしまった。

『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』

ミレニアムで一番好きな作品。ゴジラ戦没者説を取り込んだオカルト風味の異色作(ゴジラには異色作しかない気もするが)。Jホラーを思わせる仄暗い画面と大谷幸の音楽が緊迫感を高める。伝奇的なバックグラウンドの怪獣に現実感を与えようとした(特に前半の)描写が素晴らしい。不鮮明な明かりの中に一瞬姿を現す海底のゴジラやトンネルのバラゴン、いつの間にか姿を変える景色、格子から覗く巨大な目、逃げ切れない生存者など、まるで幽霊のように怪獣を表現している。

GMKのゴジラ自体は怖いというより狡猾で、なんとなく人間臭い(戦没者の思念の集合体という設定だからかもしれない)。護国聖獣に殺される人間がことごとくチャラい若者なのも怪獣描写に感情が出ているようで気になる。

ゴジラ英霊説を採るとして、戦没者の怨霊と日本の風土の守護神が戦う構図はどうなんだろう、という疑問も浮かんでくる。それはともかくとしてこの作品の魏怒羅がキングギドラ一族で一番好き。あまり強くないけど。

主人公の職業にゴジラ映画におけるマスコミの立場の変遷を感じる。かつては新聞記者がゴジラ映画の花形で、政府や自衛隊の意思決定の場に(なぜか)堂々と顔を出していたのが、今作ではケーブルテレビの零細局。『シン・ゴジラ』ではとうとうSNSに追いつかれる。

『ゴジラ×メカゴジラ』

×メガギラスと話の骨格は同じだが洗練された印象。冒頭の嵐の中のゴジラが素晴らしい。暗闇と雨と爆発が着ぐるみに生命を吹き込み、住宅街を走るメーサー戦車という小さな驚きがゴジラという大嘘への橋渡しをする。雨で兵器の威力が落ちる設定は渋い。

ゴジラの影が薄いというより機龍がゴジラであり主役。八景島での暴走は『メカゴジラの逆襲』を思い出す。ゴジラとゴジラを戦わせる人間側の残酷さや、クライマックスのアイロニーにどの程度自覚的なシナリオだったのかが気になる。

『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』

機龍二部作の後編かつミレニアムの実質的な完結編。シリーズの疲弊と集大成の両方を感じる。機龍は存在が矛盾の塊。ゴジラと戦う兵器でありながらゴジラを呼び寄せる原因で、ゴジラにとっては敵であると同時に同族であり、二体の殺し合いは(親子の)抱擁でもある。モスラは蛇足感があるが、幼虫が糸を吐く場面はゴジラを弔うかのようだった。 モスラとゴジラの対決は本筋に関わらない脇役同士の戦いのようで感情移入に困る。全体として、マンネリというかオマージュというか、何かが何かをなぞっているような、怪獣映画を演じる怪獣映画という印象を受ける。

そもそもゴジラの骨は1作目で溶けてなくなっているはずなのだが、骨格が残り兵器として再利用される設定は2作目以降リブートし続けられるゴジラ映画の隠喩に思える。オチは正直蛇足に感じた。

VSと比較したミレニアム期の特徴はゴジラの上陸をきちんと描いているところだ。エメゴジの桟橋シーンの衝撃はそれだけ大きかったのか。

『ゴジラ FINAL WARS』

良かった点:生頼範義版のポスター、ゴジラの熱線の射程距離、カイザーギドラ、北村一輝 平成版チャンピオンまつりというか怪獣映画の着ぐるみを被ったアクション映画。マグロ云々の台詞に喜んだことを今は反省している。

人間パートと怪獣特撮が連動してないからって人vs人の格闘とシンクロさせればいいってものじゃないだろう、と公開当時は思っていたが、監督が描きたいのはむしろ人間同士のアクションで怪獣は添え物、とは言わないまでもその延長で怪獣を撮っているのだとわかった。理屈の上では許容しにくいけど意外と楽しめたのはノリがハイローっぽいからか。生頼範義ポスター版のFWゴジラが見たかったという思いはある(まあアレはミレゴジですが)。

『GODZILLA(2014)』

平成ガメラに通じる守護神ゴジラ。「ゴジラが目覚める、世界が終わる」ではなく「世界が終わる、ゴジラが目覚める」なのだからキャッチコピーでも実は示唆されていた。『キング・オブ・モンスターズ』もそうだけど、レジェンダリーのゴジラは1カット1カットがとても絵になる。

今作の一連の事態は人類の罪というよりミスや不手際と言った方がよく、その尻拭いをゴジラがやる形になっている。神話的存在=怪獣に対する人間の無力さの表現なのだろうけど、制作に板野義光が関わっているので『ゴジラ対ヘドラ』的な皮肉か?とも思ってしまう。

暗くて良く見えなかったり美味しいところを省略したりすることに欲求不満を感じなくはない。ただ、それらの見づらさは登場人物から見えるものだけを見せているからだとも思う。視点によって人間を描こうとしているというか。

空港の爆発で悲鳴を上げる人間たちがゴジラの出現で静まり返るシーンが好き。

『シン・ゴジラ』

ゴジラの脱構築かつ再構築。怪獣はそこにいるだけで、ただ歩くだけで世界を一変させることを再発見させてくれた。60年以上に渡って積み重ねられたキャラクター性を一旦脱ぎ捨て、ファーストコンタクトに立ち返ってゴジラ的なものを(ゴジラとは何かを)再び作り上げた。

いかようにも深掘りできるが、表面的には過去のゴジラ映画の文脈が可能な限り排除されている。ゴジラをゴジラと解釈したうえで、新たに出会い直すことを可能にしている。歴代のゴジラ映画や怪獣映画を踏まえつつ、それらの文脈に依らない強度を持ち得たことが凄い。

人間パートはすべて手続きの問題として描かれる。組織に属する個々の人物の描写はあれど、あくまでゴジラという事象への対処に一切は集約される。

面倒な手続きを、形式的な会議を繰り返し描き(この作品の凄いところはそれすらエンターテインメントにしていることだが)現実の地歩を固めていったからこそ、ゴジラが東京を焼き尽くす光景が夢の中のような幻想性を帯びる。

『空の大怪獣ラドン』

炭鉱町の怪事件が世界規模の災害に繋がるスケール感。連続殺人のミステリーから人類対ラドン、そして彼らの最期までを描いて80分に収める完成度が凄い。メガヌロンは怪獣の不思議さを、ラドンは怪獣の哀しさを体現している。

『モスラ(1961)』

モスラ幼虫の特撮は怪獣映画の最高峰だと思う。そこにいるだけで世界を一変させてしまうのが怪獣だと教えてくれる。話の骨格は『キング・コング』と同様だが、モスラを制御できない自然の象徴として描いた点が日本の特撮映画からのアンサーか。

記事引用元:『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の予習の記録|gu|note

2019年4月14日

『イップ・マン外伝 マスターZ』

 ブルース・リーの師としても知られる葉問(イップ・マン)の生涯をモデルしたカンフーアクション『イップ・マン』シリーズのスピンオフ。シリーズ3作目の『イップ・マン 継承』でドニー・イェン演じるイップ・マンと激闘を繰り広げた詠春拳の達人チョン・ティンチ(マックス・チャン)が今作では主人公になる。

 『イップ・マン 序章』から今作までストーリーは毎回一緒だ。家族や市井の人達とささやかながら幸せに暮らす主人公が、トラブルに巻き込まれ、生活を失う。その背後には街を牛耳る外国人(『序章』では旧日本軍、『継承』ではアメリカ人、『葉問』『マスターZ』ではイギリス人)と、彼らの言いなりになっている地元の警察やチンピラがいる。映画の前半でチンピラとの大立ち回りがあり、主人公と家族が絆を深める描写があり、やがて誰かが死ぬ。ついに立ち上がった主人公が詠春拳の技で悪い外国人に一騎打ちを挑む。主人公に感化され、地元の警察も反旗を翻す。だいたいこんな流れである。

 このシリーズの魅力は何と言っても、主役を演じるドニー・イェン、今作ではマックス・チャンの、超絶技巧の詠春拳と、手を変え品を変え物量を変えて繰り出されるアクションシーンの数々である。
繁華街の看板の上を飛び回りながら繰り広げられる1対多の立ち回り。上体が全くぶれずに高速で打ち出されるショートパンチ。酒のグラスの譲り合いから流れるように移行する組み手。志を取り戻したティンチの名乗り。ドラマがベタというよりもアクションがドラマでありカンフーで人物を描いている。
やられたら即倍にして返す荒っぽさといい、人格者のイップ・マンの端正な演技とはまた異なる、ある種ダークヒーロー的なティンチのキャラクターがアクションに反映されている。

 主人公が現代に生きる詠春拳の達人という設定なので、一介の刑事が突如アクロバティックな蹴り技を披露するSPLシリーズのようなアクションシーンとシリアスなドラマの乖離が起こらないのもいい(SPL2『ドラゴン×マッハ!』は大傑作だけど)。

 「友情出演」トニー・ジャー演じる謎の黒づくめの男(本当に謎だった)も見どころ。

2019年4月14日

映画『バーニング 劇場版』

『バーニング 劇場版』

 村上春樹の短編小説『納屋を焼く』のイ・チャンドンによる映画化である『バーニング劇場版』はいくつかの点で原作から大きく変更されている。

 その一つが主要な登場人物の設定だ。村上春樹の『納屋を焼く』では語り手は作者を連想させる小説家だが、映画『バーニング』の主人公ジョンスは20代前半の若者である。金も仕事も無く、小説家志望と言いつつ何を書いたらいいのかわからずにいる。「彼女」にあたるヘミはジョンスの幼馴染であり、一見華やかではあるが境遇的には彼とそう変わらない位置にいる。

 借金に追われる母親、起訴された父親、ヘミ。ジョンスの周りは成功者であるベンと対称的な人たちだ。

 菓子パンを歩き食いするジョンスと、スポーツジムでランニングするベン。軽トラの車内でコンビニ飯?を飲み食いするジョンスと、パスタを作り、ソウルで一番美味いもつ鍋屋に誘い、高級ワインを持参し、ホームパーティーを開くベン(列挙してみたら思ってた以上に食の対比が多かった)。

 「僕」=ジョンスと、「彼」にあたるベンを非対称な存在として描き、韓国の現代社会における階級間の対立を作品に持ち込んでいるように見える。

 もう一つ、原作と決定的に異なるのが後半の展開である。ここで映画の作り手は原作のある有名な解釈に従ってストーリーを展開させる。

 それは、ベンが若い女性を狙った連続殺人犯であり、「ビニールハウスを焼く」とは彼の犯行の隠喩だというものだ。ベンが実際に殺人犯であれジョンスの思い込みであれ(その答えは曖昧にされている)この解釈を基に映画の後半部が展開する。

 これらの相違の果てに映画は原作とは異なる「衝撃的」な結末にたどり着く。
 この作品にはリトルハンガーとグレートハンガーという言葉が出てくる。ヘミがアフリカ旅行中に出合った部族の言い伝えだという。

 この映画の人物設定で言えば、ジョンス達餓えた層(=ハンガー)とその対極としてベンのような富裕層が存在する。

 「リトル」な餓えた者から「グレート」な餓えた者になること。それを、個人的な不満が社会的な怒りに変わること?と解釈するとラストのジョンスの行動は「持たざる若者」から「ギャツビー」への復讐という象徴的な性格が強くなる。ジョンスがベンを刺すことに何重もの含みを持たせているのだろう。ヘミ(を奪われたこと)の復讐だけでなく。この二人は持たざる者と持つ者にはっきり分けたのは原作との大きな相違点だから。

 小説を書き始めたのはベンが殺人犯だと確信したのと同時に見えたが、この二つのことはどう関係しているのだろうか。

 ラストシーンの炎に包まれるベンと寒空の下全裸のジョンスの対比も非常に印象的だった。この映画では焔の存在感がとても強い。父親が出て行った母親の衣服を燃やしたことがジョンスのトラウマになっている。また彼は、おそらくヘミが姿を消した(殺された)と同時刻、燃えるビニールハウスの夢を見ている(その時の主人公は少年の姿をしている。おそらく母親の衣服を焼かされた時と同じ年齢である。燃えるビニールハウスに惹かれているような表情をしている)。そしてベンを燃やしている。

 ヘミの記憶と周りの人達の記憶の食い違い(または彼女の虚言癖)はこの映画に一定の曖昧さ、不確かさの存在する余地を残してはいるが、ラストの展開も含め後半はオリジナルと言っていいほど作り手の解釈が強く出ている。

 同時存在といった村上春樹的なキーワードを散りばめつつ、韓国の現代劇として再構築している。それは原作を70年代ドイツの時代劇・政治劇として解釈したリメイク版『サスペリア』に似たアプローチかもしれない。

 良い悪いではなく、「村上春樹の『納屋を焼く』の映画化」というよりも「イ・チャンドンの『バーニング劇場版』」だ。

2019年4月14日

映画『ROMA/ローマ』

 聞いていた通り冒頭のシーンがまず凄くて、床の掃除を延々と映す映像で美しさを感じさせられることに驚いた。床を洗う水が起こす波と、水に映る上空の飛行機が結末と呼応していた。

 『ゼロ・グラビティ』が宇宙飛行であるのに対して『ROMA』は時間旅行なのか。この作品は(カメラの視点を借りた)語り手の記憶や回想というよりも、その裏側で起きていたこと、当時は知り得なかった出来事の別の顔を、過去に戻って眺めている印象を与える。

 固定された視点による長回しは、懐かしい人に触れることも目の前の悲劇を止めることもできずにただ見ていることしかできないもどかしさがあり(いくつかのシーンは早くカメラを止めてあげてと思った)、決定的に過ぎ去ってしまった時間だということが強く感じられた。

 主人公の恋人のフェルミン(クソ男)や武術のコーチの芸人やその門下生たちや武力抗争を引き起こした男たち等、「マッチョなもの」に対する批判、戯画化する視線を感じた。フェルミンが全裸で棒術を披露するシーンは色んな意味で面白い。

 悲痛な出来事が映し出される一方で愉快なところもある。一家の父親が高級車を車庫入れする場面の妙に凝った演出とその結果。同じ車を運転してド派手な傷を拵える母親。

 一家にある変化が起きた後の母親の車庫入れの場面。その出来事を乗り越えて小型車に買い換え、古い車で最後に家族旅行に行く。主人公を病院に運ぶのもこれらの自家用車だ。車は出来事を見届け、登場人物の心理状態を表す、『ROMA』のもう一つの語り手に思えた。

 「識者が絶賛してるからきっと難しい作品なんだろうな…」と観る前は身構えていたけど(実際よく読み解けてはいないけど)、良い映像作品を観たな、という充実感があった。

 自宅のテレビやPC画面だと集中が途切れる怠惰な観客なので、ネット配信の話題作を劇場公開してくれるのはありがたい。

 余談だが、観始めて真っ先に浮かんだ言葉は「犬を散歩に連れていってあげればいいのに…」だった。

2019年2月26日

映画『バーニング 劇場版』/『THE GUILTY』を見る。

今月、見逃してはいけない映画は『バーニング 劇場版』と『THE GUILTY』だろうかと考え両作品を観た。

『バーニング 劇場版』

いかにも映画っぽい瞬間しかなくてとても面白かった。

村上春樹的なメタファー会話や世界の中にぽっかり口を開けた空虚の存在と、村上春樹っぽくない非モテ属性の主人公や韓国の社会問題や田舎の土の臭いが、相反せず作品を肉付けしている。韓国の今・ここの物語でありながら、不可知の暗闇も感じさせる。

姿の見えない飼い猫も夜中の無言電話も映画の結末も一見現実的な説明が与えられているが、決定的な瞬間は一度も描写されない。ヘミが幼い頃井戸に落ちた話のように真相は宙ぶらりんで、未来と同じくらい過去も現在も不確かなものとなっている。

納屋(ビニールハウス)を焼くという隠喩がビニールハウスで韓国の農村に結びつく。そこから貧富の格差が描かれ、主人公に対比されるベン=ギャツビー(=何で稼いでいるのかわからない金持ちの若者「韓国にはギャツビーがたくさんいる」)を通して、韓国の社会問題とアメリカ文学両方に連想が繋がるのが面白い。

同時存在の意味はよくわからないけど、Aであると同時にBである、連続殺人犯であると同時に無実の女たらしである、妄想に駆られた狂気の人間であると同時にルサンチマンを抱えた不遇な凡人であるというような、虚実が並行して存在する感覚は、フィクションを通してしか描けないものだと思う。

北朝鮮との国境近くの農村って韓国ではどういう位置付けなんだろうか。フォークナーにおける「南部」と重ねられているのだろうか。

『THE GUILTY ギルティ』

これは面白かった。ほとんど警察のコールセンターのやり取りだけでドラマが進行するのだが、「限られた情報で事件を解決する」というよりも「限られた情報しかないから真実を取り違える」要素が強く、見えないことがひたすら怖かった。暗闇の中でもがき続ける話だった。

子どもを装い犯人の情報を聞き出す場面や管制室とのやり取り等、通話音声だけを頼りに誘拐犯を突き止めるサスペンスに前半は引き込まれる。だが解決に焦る主人公の独断専行が増えるにつれ、事件の真相も彼の人格も別の顔が見えてくる。そして後半のある会話で、あまりにも痛ましい過失が明るみになる。何が起きていて誰に罪があるのか二転三転するストーリーの中で、裁かれることを受け入れた者同士がわずかながら救われるクライマックスにタイトルの意味が示される。傑作。

2018年12月1日

死者=家の時間と生者の時間『A GHOST STORY  ア・ゴースト・ストーリー』

これは、なんと言ったらいいのか、「死んで幽霊になった男が残された妻を見守る話」ではあるけれど、もっと広い意味で、去っていくものと後に残されるものの話である。ただし去っていくのは生きている人間の方だ。幽霊は後に残される。ここでは生者と死者の立場が逆転している。

事故で死んだ男はシーツを被った幽霊の姿になって家に帰る。幽霊は生きた人間に触れることはできない。過ぎていく時間の中で、かつての妻をただ見守り続ける。生きている人間と幽霊の一番の違いは時間の流れ方だ。幽霊になった人間の時間は止まる。

印象的なのは、彼が幽霊になった少し後、一人で床に座り込んで食事する妻を長回しで映した場面だ。彼女は食べる。食べ続け、そして吐く。壁に反射する光や外の物音は少しずつ変化する。しかし横で見ている幽霊だけは微動だにしない。動いている生者の時間と止まった死者の時間。

男が作った歌の歌詞にもある通り、彼女は去っていく。旅立って、それっきり物語から退場する。その後も見知らぬ人間たちが次々とやってきてはいなくなる。去っていくのはいつも生きている人間であり、それを見送る幽霊は独りで取り残される。時間も去っていく。やがて家は失われ、見知らぬ未来で幽霊だけが取り残される。それでも幽霊は家から離れることができない。

この映画では幽霊と家は切り離しては語れない。英米の怪談では幽霊屋敷ものが1つのジャンルとしてあるが、この映画にはそういう家に憑りつく幽霊というモチーフも感じられる。
生者に触れることのできない幽霊なので、黙って何かを見つめている場面が多くなるのだが、幽霊のその目線は家そのものが持つ目線なのではないか。見守る視線というか、固定された視点からの長回しが多い。男が幽霊になるより前から、廊下の向こうから誰かが見つめているような映し方をしている(それは実際幽霊になった男の視点だったのだけど)。廊下からの視点、床に座って食事する妻を見つめる視点、離れたところから家を映す視点。長回しは幽霊の視線を代弁しているようだ。固定されたカメラの視点の中で、人間が生き、時間が流れる。見ている側の時間は止まっている。生者と死者で流れる時間が違うことはシームレスな省略で表されている。幽霊はリアルタイムで動いているように見えながらその目の前で何日、何年もの時間が早回しで経過している。

この映画では個人的な物語が、もっと大きな感覚と結びついている印象がある。星空が映される冒頭のような、宇宙的な時間感覚。人間の尺度を越えた時間感覚。それは歴史であり、終末に向けて進み続ける時そのものである。人間の時間から切り離された存在を主人公にしたことで、それを観るものに認識させることができる。
病院を抜け出して家に帰りつくまでの、遠景から映した野原をゆく幽霊の姿にとても感動した。今ここの世界であるはずなのに誰もいない地球に思えた。宇宙的な孤独。

終盤、未来の世界から土地に最初の移住者が現れた時代(開拓期のアメリカ?)へ跳んで現代に戻るまでの一連の展開に『HERE』というグラフィックノベルを連想した。これはアメリカのある一軒家が建つ場所の、地球誕生から人類滅亡後の遠い未来までを同じページの中で同時的に描いた作品なのだけれども、それは幽霊の目線というか、限られた空間の中で過去未来を行き来する者が見る光景に思える。
あの家が建つ前に、一組の一家がそのやってきて、家を建てる前に原住民に殺されていた。歴史。家を通り過ぎていった者たち。あの家の歴史のそもそもの始まりに血なまぐさい死があった。言ってみればこの世のすべての土地は事故物件だ。
生者たちはメッセージを残して去っていく。妻は壁の隙間に手紙を埋め込んで、先住民に殺された一家の娘は石の下に紙きれを隠して。冒頭で主人公の妻が話していたことでもある。子どもの頃、自分にあてた手紙を家の中に隠していたこと。読めばその時に戻れるから、と。手紙(物語も、映画も、あらゆる表現も)は書かれた時点で過去のものになり、現在からは無限に遠ざかり続ける。これらは常に過去から未来の誰かに向けたメッセージになる。手紙は、幽霊と違って限られた時間にしか存在できない人間がそれを越える手段であり、別々の時間に存在する生者と死者を繋ぐものだ。

家が取り壊されて、隣家の幽霊は全て諦めて消滅した。男は、家を失っても、かつて家のあった場所に居続けた。そして未来の、馴染みのない高層ビル群に、見知ったものの何もない世界に絶望して身を投げて、気が付くと開拓期のアメリカにいた。
時間遡行をどう解釈するのか。未来で自殺した幽霊はなぜ過去に戻るのか。そもそもあれは本当に過去なのか。あの世のあの世、幽霊が見る走馬燈なのか。本当にループしているのであるならばなぜ自分の死を止めようとはしないのか。物には触れる。メッセージを伝えようとしたことはある。しかし家に越してきた日から死んで妻が家を去るまで(ピアノを鳴らすことはできたのに)何もしない。
愛と言い切るにはあまりにもざらついた感情。あるいは、彼の執着は壁に挟まった手紙を読むことだけで、それ以外の自分の生き死になど思考の外だったのか
究極には全ては消えると(異様に長く、誰だかわからない人物に)語らせた後に、家が取り壊され、未来になって、しかし過去にループして終わる。終末に向けて無機的に進み続ける線的な時間に対して物語は環を描く。

死者=家の時間と生者の時間『A GHOST STORY  ア・ゴースト・ストーリー』|gu|note

2018年10月25日

『判決、ふたつの希望』を観る。

『判決、ふたつの希望』を観る。歴史的であり局地的であり普遍的でもある問題。それに観る者の目を開かせ、葛藤を共有させ、そして希望を提示する。多面的な描写、平板ではない物語の進行、様々な人物のぶつかり合いによる変化、ハリウッド的に洗練された構図等、テーマとエンタメ性が巧みに絡み合っている。

裁判シーンの言葉の応酬はこの映画の見どころだ。一方で、自体を引き起こし人々を振り回すのも、言葉というものが本質的に持っている過剰さである。言葉は、それを発した本人の意思を超えて力をふるってしまう。「クズ野郎」「シャロンに抹殺されていればよかった」言葉を発端にした争いは、言葉を武器にする弁護士を介し、言葉でやり合う法廷に持ち込まれたことで、国を巻き込む一大事になってしまう。二人の主人公、夫と妻、息子と父、弁護士と弁護士(父と娘)、民族と民族、男性と女性、右派と左派、老人と若者、様々な対立が飛び火し、拡散し、露見する。

誰にも歴史があり否が応でもそれを背負わざるを得ない。裁判は歴史と傷と罪が暴かれる場でもある。主人公二人だけでなく、関わった者は皆痛みを負い、変化していく。始まりの地点と同じ場所に居る者はいない。踏み出した一歩が思ってもみなかった遠い場所に辿り着く。

2018年10月25日

『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観る。

『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観る。ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』を現代にアップデートして映像化したかのよう。イメージの洪水に悪酔いを起こす、凄まじい迷宮映画だった。しかしながらそこには歴史も対抗文化ももはや無く、自ら築いた迷路には消費とポップの悪夢だけが広がっている。

街中の看板、テレビ番組、流行曲、お菓子の景品、壁の落書き、動物の死骸、シンクロニシティ。氾濫するメッセージに「真相」などなく、解読は誤読にしかなり得ず、読み取った物語は自身の映し鏡である。意味も黒幕も限りなく空虚だ。

そこには、あたかも身体性は無いけど生理的というのだろうか、肉体を持たないまま五感だけが鋭敏になっているような感覚がある。

作中で言及される大衆文化についての知識合戦や隠喩についての考察合戦がおそらく繰り広げられるのだろうけど、撒かれたピースから各々が解釈を組み立ててしまうこと自体が作品と相似している。

2018年4月29日

映画『レディ・プレイヤー1』を観る。

この作品は「私小説」ならぬ「私映画」だ。スピルバーグとハリデーの、大きな大きな「私」の物語だ。

VRが文字通りもう一つの現実と化した未来でありながら、この世界を彩るのは特定の年代の特定のカルチャーばかり。
オアシスの世界は言わば一冊の自伝で、それを読み解くプレイヤーは、この『レディ・プレイヤー1』を読み解こうとする観客と重なる。丹念に読み、行間に隠されたヒントを拾う。主人公のハリデーオタっぷりはテクストを精読する研究者のよう。

この映画を観て感じるのは、小さく、狭い方向に向かう力が大きなものを生み出しているということ。
世界と上手く繋がれなかったオタク少年がもう一つの世界を創造し、作り手の私的な記憶が多くの観客の記憶と結びつく。
「私」という小さな人称にとてつもない広さがある。

「私」への埋没こそが世界を創造し、つながりをもたらすということ。

あるいは、オアシスは仮想現実というよりも、むしろ「もう一つの」現実と呼んだ方がしっくりくる。
あちらも現実、だがこちらも現実。どちらか片方が本物なのではなく。

それは、ある意味では世界の多元的存在構造を示すこと、僕らが「いまここ」で見ているのはひとつのゲシュタルトひとつの現実に過ぎないと言うことを明らかにするものでもある。
ひとつのゲシュタルトを構成するものこそが現実なのだ。

映像について特筆すれば、CGはあくまで手段の一つで、それを使ってどう見せるかということこそが表現なんだということがよくわかった。
レースの場面である裏技を使った主人公の視点からの世界の見え方が、ちょっと信じられないくらい気持ち良かった。

2018年4月7日

映画『ちはやふる -結び-』を観る。

『ちはやふる 結び』瑞沢の三年間と真島太一の成長物語に最高の決着を付けた完結編。
超絶技巧で描かれるかるたの格好良さ。名人の言葉と、もがき続けた先の太一の姿に胸が熱くなる。
青春という「一瞬」から継承という「永遠」へ、部活映画の枠を越えたスケールの着地に心が震えた。

『上の句』で「青春全部懸けたってあいつには敵わない」と言っていた太一は『結び』で「原田先生や周防さんが懸けているものは、青春どころか(人生すべて)」だと気付く。
太一とともにこの作品の視野も、高校三年間から人生そのもの、そしてそれすら包み込む大きな時間へ開けていく。

千年前の思いを百人一首が今に伝える、というモチーフは『上の句』からあったけど、『結び』では今を未来へ伝えるという視点が加わった。
自分の強さを周囲へ分け与えること、先輩から後輩へ部の記憶を伝えていくこと。

千早が後輩二人に「素敵なことが始まったと思った」と言ったのは、自分たちがいなくなった後にも残るものができて、かるた部で過ごした時間が、奏の言う「千年先に残る歌」になったと感じたからではないか。

『結び』に強く感動させられるのは、この作品が時を越えることについて語っているからだと思う。
部活の伝統や青春を扱っているけど、そこからもっと普遍的なものへと拡がっている。
千年前から今この時へ、今この時から千年後へ。

歌の内容が物語に深く関わってくるのだけど、本来の意味を尊重しつつ登場人物なりの解釈が加わっているのが面白い。(「今の私には「ちは」しか見えない」とか、「「しの」を獲るのは私や」とか)。競技かるたという存在が歌に新しい命を与えている。

「私達はどんな歌を千年先に残せるんでしょうね」
「この歌が千年の時を越えて今に残ったように、私達には一瞬を永遠に留める力が確かにある」
奏と周防名人の言葉がこの映画の主題を語っている。
部活という一瞬と、歌という永遠。

名人としての強さが、部の伝統が、かるたに関わる人の繋がりが、千年先に残るものとして何度も示唆される。
かるたで過ごした時間が、登場人物達にとっての「歌」になっている。
普遍的だけど、競技かるたでしか描けないテーマ。

物語と人間関係の変化を端的に示しているのが掛け声だ。
なかなか揃わない「瑞沢ファイト」がチームの状態を表していた。
部活紹介(太一)→地区予選一回戦(千早・筑波)→地区予選決勝(筑波)→全国一回戦(花野)いつも誰かが欠けていた。

瑞沢の掛け声が揃っていくのと並行して、新たち藤岡東が未成熟なチームとして描かれる。
「瑞沢の三年間に負けた」という新の言葉がはっきり表れるのは、まるで揃わない「藤岡東ファイト」の掛け声だ。あの場面の空気がいたたまれない。

ただ、新も藤岡東メンバーも団体戦を甘く見ていた訳ではない。
千早と太一が羨ましくて始めた団体戦を手探りで学んでいる感じがある。あの掛け声も、準決勝の北央を見て(ヒョロの、それ自体は声が裏返って情けない掛け声だけど、それを見て新ははっといていた)「発見」したものだ。

送り札と札合わせ。送り札は個人の物語。千早と伊織の、太一と新の。
札合わせは、一人の意思や葛藤や決断にチームで運命を共にすること。
太一と千早の物語と、瑞沢かるた部という群像がここで結び付いている。

2018年3月30日

読書ノート

『不安定な時間』ミシェル・ジュリ

「われわれの時代に、人類はついに内的宇宙を征服することができたんだ」「だが、部屋には悪魔がはいっていて、あんたがたはドアに鍵をかけなくちゃならないのだ」 ディックの『ユービック』を連想する。主観的な時間旅行あるいは死後の世界。人格と場面が唐突に目まぐるしく変転し、変奏を加えて何度も何度も繰り返される。この反復がどういうわけか愉しくてしかたない。どこにもたどり着かずに跳躍し続けてくれてもいいくらい。SF文学史にボリス・ヴィアンやレーモン・クノーの名前が出てくるあたりがとてもフランス。

『神曲 地獄篇』ダンテ

建築物としての全体も神学も歴史的背景もわからないなりに、パオロとフランチェスカの恋愛、ウゴリーノ伯の餓死、農耕詩的な比喩、といった細部の造型を美しいと思う。と同時に作者の自我の強さというのか同人誌的というのか、自らを偉大な叙事詩作者として数えたり、オウィディウスの『変身譚』にも勝ると自負したり、嫌いな相手を(存命であっても!)地獄に落としたり、大好きなウェルギリウスを登場させてイチャイチャしたり、作品の緻密さや幻視の凄まじさと合わせて、文学者の業に感動する。解説『ダンテは良心的な詩人か』がためになった。

『アウトライナー実践入門 ~「書く・考える・生活する」創造的アウトライン・プロセッシングの技術~』Tak.

死ぬほど苦手だった、文章を書くということの仕組みを初めて体感できた気がする。今まで目にしたどんな文章技術の本よりも実践的でわかりやすい。

『挑戦者たち』法月 綸太郎

ジョジョやノベルゲーやTwitterのネタからボルヘスや稲垣足穂、カフカにベケットにレムにナボコフにカルヴィーノまでパロった本格ミステリ版「文体練習」。元ネタの多彩さが楽しい。特に『幻獣辞典』が笑えた。「〈読者への挑戦〉とは書物の中にひそむ妖魔で、(F・R・ストックトンの疑わしい報告によれば)女と虎が半分ずつ混じり合った姿をしている」って何だ。

2018年3月18日

映画『15時17分、パリ行き』​を観る。

考えれば考えるほど変な映画だ。こんな、テレビの再現ドラマみたいな話がどうしてこんなに面白くて、泣けてしまうか。​
「実話を基にした映画」というジャンルを揺さぶる仕掛け、最高の一発ネタである。しかし再観賞に耐える。むしろ観る度に感動が強くなる。

「実話を基にした」という謳い文句が好きになれず、この作品もまあ、無差別テロに遭遇した人達をドキュメンタリータッチで描いた作品、とかその類いだろうと思っていた。
あるいは、実話を基にしていようがそれ自体で完結できる強度を持った面白い作品はいくらでもあるけれど、そういう作品でも最後に当時の映像だのモデルになった人物だのが出てきてしまうのが嫌だった。そういうのを見ると本編があくまで現実の再現でしかないような、フィクションとの上下関係を感じてしまう。

しかし、考えてみると『15時17分、パリ行き』はずいぶん実験的なことをやっているのに、それをまるで感じさせないのが凄い。映画ともドキュメンタリーともつかない、現実と呼ぶしかない時間が映りこんでいる。

始まって早々、三人組の一人の語りとともに、映画はいきなり彼らの過去に飛ぶ。軍隊オタな子ども時代、パラレスキュー隊に志願するもうまくいかず落第を繰り返す青年時代、そして幼なじみ三人が久しぶりに再会したヨーロッパ旅行。三人の過ごしてきた時間が様々な話法で描かれながら、肝心の「事件」にはいつまで経っても辿り着かない。

作中でけっこうな時間を割いているヨーロッパ旅行なんて、ほんとに普通の人々のロードムービー(「ムービー」かどうかすら怪しい、ただの観光を映しているだけ)なのに、なんだかすごく良い。

気の良い普通の若者が、ただ旅行を楽しんでいる、という、物語から投げ出された現実の時間がポンと目の前に示されるだけ。​実話であることの重しと、現実そのままを投げ出す軽やかさの違いを感じた。しかし同時にこれら一連のシーンは過去の出来事の再現でもあるという、目眩のするような二重性。

ある意味最大のクライマックスが勲章授与のシーンだ。「ラストに流れる実際の映像」「エンドロールに本人登場」みたいな実話映画の定番を逆手に取って、虚実をひっくり返す大仕掛けを打っている。それもきわめてさりげなく。この場面の異様な感動に思わず笑ってしまった。

この映画では英雄の定義がだいぶ変わってきている。英雄的な人物がいるのではなく、人生の中で英雄に「なる」瞬間があるということ。そういう意味で、普通の人々が映画の登場人物に「なる」このキャスティングもテーマに沿っていると言えるのかも。

2018年3月10日

映画『エンドレス・ポエトリー』を観る。

『エンドレス・ポエトリー』とてつもなく変な映画だが、話は至ってシンプルだ。
ホドロフスキーの青年期、サンティアゴに移住してから、友人や恋人を得て、別れも経て、詩人としての自己を確立し独りパリに旅立つまでの「若い芸術家の肖像」を奇想天外な登場人物とシュルレアリスティックな映像で語る。

『エンドレス・ポエトリー』を観て連想したのはラテンアメリカの作家たちの小説だ。
例えばアレナスの『夜明け前のセレスティーノ』やボルヘスの『ボルヘスとわたし』。前者は幻想の入り乱れる少年期の回想、後者は詩人の過去と未来の対話という点で似ているが、それだけではなく、 現実と幻想をシームレスに描く、出来事を主観的に大袈裟に語る、といったこの映画の表現方法は、いわゆる南米マジックリアリズムの特徴として挙げられるものだ。特に近いのは、自伝的な作品を遺し、記憶や詩人としての自己を爆発的な幻想で描いたレイナルド・アレナスではないかと思う。

この映画はずいぶんと奇妙な自伝だ。視覚的イメージや人物が奇抜なだけではない。現在のホドロフスキー本人が登場し、昔の自分に語りかける。父との別れの場面に割り込んで、本当はこうするべきだったんだと抱擁を促す。思い出すのではなく、生き直している。まるで過去が現在進行形であるかのように。

詩に理解を示さず、抑圧的で生前は和解することのできなかった父親とフィクションの中で再会する。自分の作品の中で甦らせ、乗り越え、受け入れる。自分の詩人としての資質を育てたのは(逆説的にではあれ)あなたという障害・束縛だったのだと。最後、父の仮面(毛髪)を剥がし、抱擁する。
ここは非常に感動的な場面だ。現実には起こりえなかった父との和解は、こうあってほしかったという願望を描くのではなく、取り返しのつかない過去を理解し読み替えるという行為によって為される。

この映画で印象に残った表現の1つは大袈裟に語る、ということで、オペラ歌手のように喋る母親や、2lのビールを一気飲みし人前で胸を見せつけたかと思えば言い寄ってきた男をぶん殴り恋人のホドロフスキーに「一緒に歩く時はあなたのイチモツを握っておく」と言い放つ怪女ステラ(なんと実在の人物) も、おそらくホドロフスキーの主観ではまさにそういう印象だったのだろう。体験・記憶・感情にとって真実だということを表現する時、語りは本当らしさから逸脱する。それは単に誇張とは言い切れない。自伝的作品とマジックリアリズムの相性が良いのは記憶と主観がテーマになるからだろう。

もう1つは、隠喩や象徴が肉体を持ち、何もかもが目に見える姿で現れるということだ。仮面を付けた群衆、姿を隠さない黒子、骸骨たち、皆何かの喩でありながら、登場人物として、画面の構成要素として臆面もなく存在を主張する。比喩が比喩でなくなっている。僕は道化だと言えば突如サーカスが始まる。
息子が演じる青年期のホドロフスキーと現在のホドロフスキー本人、書割と現実の土地、実際の出来事と誇張された心象風景、夢、生と死、出会うはずのないもの達が、等しいリアリティで1つの画面の中に顔を揃える。虚構であることを曝け出すことで生まれるこの作品独特のリアリズムに戸惑い、感動する。

改めてわけのわからない映画だったが、表現の鮮烈さと、どぎついまでの肯定を感じることはできた。老いを肯定する。芸術への衝動を肯定する。生きることを肯定する。

「幸せに死ぬことを学ぶ」

「自分を生きるのは罪じゃない。他人の期待通りに生きることの方が罪だ」

「意味など無い、生きるだけだ」

「老いはなんら屈辱ではない。すべてを手放せる。セックス、財産、名声、自身をも手放せる。お前は1匹の蝶になる、自ら発光する蝶に。その存在は、完全な光」

2018年3月5日

映画『霊的ボリシェヴィキ』を観る。

どことも知れない施設に集められた外見も年齢もばらばらな男女。車座になり、中の一人が語る話に耳を傾けている。語られているのはある囚人の死刑の間際に起きた不気味な出来事だ。語り終わると、参加者のうちの若い男がつまらなそうに「結局、人間が一番怖いとしか思えない」と言う。するとすぐさま、会の中心人物である霊媒師が彼を殴り飛ばす。霊媒師の相方の眼鏡の男が「それは禁句です」と言う。不用意な発言でせっかく集まってきた霊気が散ってしまったのだという。それから、眼鏡の男は参加者たちに向かって「こういう時はボリシェヴィキ党歌を歌いましょう」と呼びかけ、その場の人間は皆立ち上がり、スターリンとレーニンの肖像の前でボリシェヴィキ党歌を合唱し始め、『霊的ボリシェヴィキ』というタイトルが画面に現れる。
正直爆笑した。
なんだこの映画は、と思った。わけがわからない。しかしながらこの映画、とても面白いのだ。

この映画について考えようとした時、まず頭に浮かんだのは「怪を語れば怪に至る」という言葉だ。
この作品は文字通り、「怪を語る」映画である。なんといっても、登場人物がただ座って怪談話を聴かせているだけの場面が大半を占めているのだ。これは映画でやることなのか?と戸惑うくらいに、とにかく語る。
作中では、非常に限定された簡素な空間で、登場人物がそれぞれ自らの体験した怪談を語っていく。集められた人たちは皆、何らかの形であの世に触れたことがあるのだという。会を主催している霊媒師と眼鏡の男は、参加者に自らの心霊?体験を語らせることで、何かこの世ならぬものを呼び出そうとしているらしい。映画は、それから色んな怪奇現象が起こり、何やかんやあって破滅があり、新たな「霊的ボリシェヴィキ」の誕生を見届けて幕を下ろす。概ねこんなあらすじだったような気がする。書いてみてもよくわからない話だが、ストーリー自体は、怪を語ることから始まって、怪の出現で終わるという、非常にシンプルな構造だ。
集まった人間が一人一人怪談を語り、最後の話が終わった時に怪異が起きる。これは言ってみれば百物語である。
パンフレットによれば、当初のプロットでは語りの要素はなく、監禁・拷問によって霊を呼び寄せようとする話だったらしい。つまり、何かを召喚する儀式、というのが元からのコンセプトだった。
そのうえで、完成形であるこの映画は、百物語を儀式として活用した。怪を語って怪を呼び出そうとしたのだ。
しかも、それはストーリーに限ったことではなく、この映画における映像・音の表現や、映画の外側まで巻き込んだメタな仕掛けも含めて、作品そのものが怪を語り怪を呼ぼうとしている。

ではこの作品における怪とは何か。
生きている人間が怖いという常套句は真っ先に拒絶されている。また、物陰から突然に何かが飛びかかってきたり急に大きい音がして驚かせる類いの演出も、この映画では極力排除されている(個人的にはそれが非常にありがたかった…)。そもそも作中でやっていることが降霊会みたいなものなので、純粋に、超自然の恐怖を扱おうとしているのはわかる。スターリンとレーニンの肖像が掲げられているのも、いかにも彼らの霊を呼び寄せようとしているかに見える。
しかしこれがちょっと曲者だ。作中で死後の世界からのメッセージが話題に出た時、浅野(霊媒師の相方の眼鏡の男)は、化けて出ることがあの世の実在の証明にはならない、現世に浮遊する残留思念の可能性もあるのだからとこれを否定している。さらには終盤で、霊媒師があの世なんて存在しない、化け物を呼び出すしかない、とこれまでの話をすべてひっくり返すようなことを言い放ってしまう。
思うに、死んだ誰かの幽霊が出るというのも、ある意味では合理的で説明のついてしまう話なのだ。本当に得体が知れないのは、幽霊ですらない。
そう考えると、参加者たちが語った話にも、死者の霊だけではない何かの存在が感じられてくる。
特に面白いと思ったのは霊媒師の話で、山でわけのわからないものに遭遇して障りを受けるというありがちな話なのだが、山の稜線を這うものというスケール感、土俗的な禁忌、そういう魅力が短くシンプルながらも感じられた。目撃した「何か」をドイルの妖精写真に喩えたのも興味深い。この世と異なるレイヤーに貼り付けられた存在ということなのか。
ここで、杉浦日向子の漫画の次のような台詞を思い出した。「正体など見きわめる必要もあるまい。あれは、わからぬものなのだ」。こちらも『百物語』というタイトルである。
つまり、この映画が扱っているのは「人間が一番怖い」の対極にある人知を超えた恐怖、「あの世」ですらない異界の、「わからぬもの」の恐怖なのだと思う。

では、この映画はどうやって怪を語り、怪を呼び出しているのか。
観ていて感じたのは、この映画における怪異は何かに紛れてやってくるということだ。
舞台となる建物は、鳥の鳴き声、機械の作動音、街の生活音、といった、さまざまなざわめきに包まれている。語りに集中し、聞き手が静まれば静まるほど、それらの音が意識される。単調で無機質な音、囁くような音、ひたひたと猫の歩くような音。聴いているうちに、それらが皆本当に自然な音なのかと違和感を覚えてくる。足音に聞こえるのは一体何なのか。生活音と言ったが、設定では人里離れた場所のはずだ。ではなぜ雑踏のようなざわめきが聞こえるのか。さらにこのざわめきが、画面の中のものなのか、劇場内の音なのかはっきりしないのも不安をかきたてる。
また、一人目の参加者が語っている時、監視カメラのようなアングルで実験の様子が映されるのだが、舞っているホコリに紛れて光の粒が時折飛び交っているのだ。これ、心霊写真でおなじみのオーブというやつではないのか。
きわめつきは、参加者たちが皆して笑っている時に混ざって聞こえた男の野太い笑い声だ。それにしても、いきなり笑いだした霊媒師はなんなんだろう…。
ついでに言えば、たびたび姿を見せる「裸足の女」も、停電や夜の暗闇に紛れてやってくる。
このような、何かに紛れさせる表現は、怪異により実在感を与えている。それに加えて、画面の隅々に目を凝らし、些細な物音にも耳を澄まして恐怖を探し求めるという楽しみも生まれる。
ホラー映画が魅力的であるかどうかは、語りたいシーンがどれだけ多いかによると思う。視覚の芸術である以上、何かこの世ならぬもの、異常なもの、恐ろしいものをどれだけ画面上に表現できるかが重要だ。
この映画では、何かが現れそうな、潜んでいそうな画面の配置がとても多い。鏡、暗闇、物陰。長尾と話している由紀子の目線だけで裸足の女の存在が仄めかされる。三田(最初に話した男)がトイレで独りごとを言うシーンは、鏡を覗き込むというだけで怖い(「押入れにいたのは本当に人形だったんですか?」と鏡に問いかけるのも不思議な感じだ)。至るところに怪異の居場所がある。
画面の端っこで何かが起きている、というのもこの映画の特徴だと思う。これは恐怖演出に限らなくて、冒頭のボリシェヴィキ党歌斉唱の際に初参加の由紀子に歌詞カードを見せている長尾、という笑えるシーンもある。片岡(浅野の弟子の女の子)が終盤、拳銃で参加者全員を粛正して回るシーンでは、射殺する相手に近づく彼女の姿が何か金属板らしきものに映っていた。また、終盤の由紀子が何かに憑りつかれたように豹変する場面では、画面の中心はスターリンとレーニンの写真と他の参加者たちに固定されたまま、スタスタ歩き去っていく由紀子が画面の端に映されていた。その時の由紀子の顔に光が強く当たって顔がぼやけていたのも興味深い。夢に出てきた女の顔がどれだけよく見てもどうしてもぼやけていたという長尾の話とつながるのか。幽霊は顔がはっきり見えないという話も思い出す。(ちなみにこの後の由紀子の高速ヒヨコ歩きはかなり面白い)
ホラー映画を観る時は極力目を瞑り耳を塞ぎたいのだが、この作品は、ホラー映画こそ目を瞠いて耳を澄まして楽しむものだと教えてくれる。

この映画は、工場の一室という狭い空間で話が完結している。この空間は結界であり、参加者は全ての儀式が完了するまで外に出ることが許されない。観客は怪談話をする登場人物の姿を映画館の暗闇の中で眺めている。そうしていると、ふと奇妙なことに気付くのだ。怪談話を聞く登場人物と、それを眺める私たち観客。どちらも語りを聞いていることに変わりはないのではないかと。ここに来て、怪談話を語る映画という試みの意味が解ってくる。観客と登場人物の置かれた状況をシンクロさせ、画面の内側と外側の垣根を取り払おうとしているのだ。というより、映画館を結界の内側に取り込もうとしている。その結果、観ている私たちも否応なく怪異の場に立ちあわされることになる。画面内のざわめきと映画館内の音の区別がつきにくいのもこの印象を強めている。だとするなら、上映が終わって映画館内が真っ暗になる瞬間は、百物語の最後の蝋燭が吹き消される時なのかもしれない。

正直ボリシェヴィキ等の思想・歴史的なことは全然わからないので触れられなかったが、映画の最後に現れ、歩き去って行ったアレの姿には、恐怖以上に不思議な解放感を覚えた。頑張って世の中に怪異をまき散らして欲しいものである。

2017年12月10日

映画『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』 を観る。

物語を語ることの意味を真摯に語り切った物語に、日本文化の死生観と情緒を再発見させる映像の美しさに、音楽に、何度も泣かされてしまった。
こんなにも夢中になれる映画に出会えるとは。

主人公のクボは、三味線を鳴らして折り紙を操ることのできる不思議な力を持った隻眼の少年だ。
彼は三味線の演奏と動く折り紙の人形で「月の帝に立ち向かったサムライの物語」を語って村の人々の人気を博していた。
しかしクボはいつも結末まで語らずに物語を中断して帰ってしまう。
実は、クボ自身もその物語の結末を知らないのだ。

それは、彼と二人暮らしの母親からいつも聴かされていた、彼の一族にまつわる物語だった。

月の帝はクボの祖父でその娘であるクボの母親とクボを守るために戦ったサムライがクボの父親だった。
クボの片目がないのは生まれてすぐに祖父に奪われてしまったからだという。
クボは母親から物語を聴かされるのが大好きだったが、母親は夫を失ったショックからかその結末が記憶から失われていて最後まで語ることができなかった。

クボの物語が大きく動き出すのは村の祭りの晩、日が沈んでから外に出てはいけないという母親との約束を破ってしまったクボを母親の妹たち(闇の姉妹)が攫いに来た時だ。
もしかしたらこの瞬間までは、母親に聴かされていた物語はクボにとってはまだ絵空事にすぎなかったのではないか。というか、現実と物語が未分化で、月の帝も父親も真実性は疑わなくとも現実という実感はなかったのではないか。
闇の姉妹の襲撃は物語が現実との隔てる境界を食い破って侵攻してきたとも言える。
そのきっかけが昔話や童話でおなじみの「禁忌を破ってしまったために報いを受ける」というあらすじをなぞっているのも面白い。

闇の姉妹に捕まりそうになったクボは母親が命を振り絞って使った力で「最果ての国」へと逃がされる。
その場所は見渡す限り雪に覆われた、人間の気配すらない異郷だった。
クボは月の追手から身を守るため、母親の最後の力で木彫りの人形から変身したサルと、クボの父親の家臣だったという確信以外何の記憶も持たないクワガタの三人で不思議な力の込められた三つの武具を集める旅に出る。
クボが物語と現実を行き来するキャラクターであることは冒頭から示唆されている。
彼が母親と暮らす小島?と村は海で隔てられている。
クボに物語を教え、自身も月の帝から逃れてきた(物語側の人間である)母親が村の住人と顔を合わせることはない。
村と小島、二つの世界の境界線である橋を渡ってクボは毎日、母親から聴いた物語を村に届け、村で見聞きしたものを母親に届けている。

この作品はファンタジーだ。

クボの不思議な力も最果ての国での冒険もみな映画の中では現実である。
だが一方で、こんな風にも考えてみたくなる。
木彫りの猿が化けた喋る猿、クワガタと人間がくっ付いた武者、月の都の不死人、そんな存在がこの映画の現実に本当に存在しているのだろうか。
この映画の世界はクボの育った村と最果ての国しか描かれない。
さらに、最後の武具を求めて村に帰ってきた時、村人たちは家も建て直さずに隠れていた。
村は焼き討ちにあってからあまり時間が経っていないようだった。
クボが長い旅から戻ってきたにもかかわらず。
それに、一行が探している三つの武具はクボが母親から教えられ、村の人たちに語って聴かせていた物語に登場するものだ。

なんというか、虚構と現実の遠近法が崩れていく印象がある。
物語と現実に不思議なねじれがある。この旅は夢の中の出来事に近いのではないか。最果ての国は現実の場所ではないのではないか。
もしくは、虚構と現実の境目が限りなく薄れ、クボは自分が語ってきた物語の中で冒険をしていたのでは。そんな風に感じた。

「語り継ぐ」こともまたこの映画のテーマである。

物語はそれだけで独立して在るのではなく、それぞれの物語が繋がったり重なったり、時に対立したりする。
三つの武具を集め月の帝と対決するクボの冒険は、中断していた両親の物語を受け継いで結末を付けたとも言える。
人は死んでも思い出を語る者がいる限り生き続ける、とは残された時間を悟ったサルにクワガタがかけた言葉だ。
その話を聞いた誰かが別の誰かに語り、それをまた別の誰かに…(以下繰り返し)という具合に。語り継ぐことはいなくなった人の思い出を生かし続けること。
語り部は、いなくなった人の思い出を残された人に届ける。
あの世とこの世をつなぐ。最後の戦いでクボがシャーマン的な力を見せたことにもそれは表れている。

クボにとってこの冒険は、両親を心の中で生き続けさせるための思い出作りでもあったのであろう。
というのは、村の祭りの日、クボが墓(に見立てた石)に語りかけても何の反応がないのに(ないに決まっているが)、祖母に会えたとはしゃぐ子どもがいるという描写があったからだ。
その子どもは心の中に祖母との思い出があったから声が聞こえたという気持ちになれたのではないか。
それに対してクボには父親との思い出が無い。母親に聴かされる物語の勇敢なサムライとしての姿しか知らない。戦っていない時の本当の父上はどんなだったの?と尋ねても母親は答えられない。
だからこの不思議な旅は、既に喪われていた家族が異形(物語のキャラクター)の姿を借りて初めて得ることのできたつかの間の幸せな時間だった。

それにしてもこの物語は11歳の少年にとってあまりに過酷だ。
生まれてすぐに片目を祖父に奪われた。叔母たちとの戦いは容赦のない殺し合いだ。
そして、冒険のさなかで両親を再び喪い、仇である祖父を赦して共に生きていくしかない。
月の帝との決着は賛否ありそうだ。
物語でけじめをつけるという考え方は素晴らしい。村人たちの対応は無理があるような気がするが…。
死ぬ直前の祖父に「真実」を語って聞かせるという復讐もありえるのではないか。
クボはきっと最後まで嘘の物語を貫き通すのであろうが。

そういえば、クボの夢に現れた月の帝は盲目の琵琶法師だった。
語り部のモチーフはここにも表れている。月の人間は月の人間で、地上とは異なる美意識の物語を奏でていたのかもしれない。
最後の戦いで三つの武具が役に立たなかったのは、それがあくまで「三つの武具を集めた侍が月の帝と戦う」という祖父に支配された物語の産物でしかないからであろう。
クボはその物語の外に出て、語り部として人々の思い出(=何よりも強い物語)で立ち向かったから祖父の物語を破ることができたのだ。
 

メモランダム

・折り紙について。同じ正方形の紙なのに鳥にも武士にも蜘蛛にもなる。扱い方さえ熟知していればどんな形も表現できる。言葉と同じだ。
・闇の姉妹は、雪女モチーフだそうだけど、和風な意匠と西洋の魔女をうまく重ねている気がする。
・実物の人形を動かしているところを映したエンドロールは衝撃だった。CGとの兼ね合いも含めて、あれこそまさに特撮だと思った。

2017年11月26日

読書好き必見!インドア派におすすめする10冊の本

読書週間は過ぎてしまったが、読書好きにおすすめする10冊の本を紹介。

紅葉の季節でもあり、クリスマスの季節が近づいている現在、街や公園には人が溢れています。
しかし、充実した生活とはなんだろうか。

この秋冬インドア派におすすめしたい10冊の本を紹介。

『トリストラム・シャンディ』(ロレンス・スターン/岩波文庫)

語り手が自分の一代記を語ると言いながら出生にすら辿り着かずに終わる小説。本文の九割以上が関係ない話をしている。いきなり自作解説を始めたり、真っ黒なページやまだら模様のページが次々挟まれたり、粗筋を線で表現したり。

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『エンジン・サマー』(ジョン・クロウリー/扶桑社海外文庫)

文明崩壊後の地球を叙情的かつ象徴的な文体で描くボーイミーツガール。この作品そのものが物語を語る物語であり、メタフィクションという形式でしか表せない恐怖と悲しみと切なさがある。物語と語り手は絶望的に隔てられている。

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『ロクス・ソルス』(レーモン・ルーセル/平凡社ライブラリー)

マッドサイエンティストが自分の発明品を見せびらかすだけの幸福な小説。手品をやるそばから種明かししていくような話なのに、それがひたすら愉しい。馬鹿丁寧さが非現実を現実に変えていく。

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『黒い時計の旅』(スティーヴ・エリクソン/白水Uブックス)

ここにはすべてがある、と思わせる作品は貴重だ。一人の人間の愛と憎悪が一つの世紀をまるごと飲み込む。「読むこと」と「書くこと」が歴史を切り裂いてもう一つの宇宙を生み出す。情念と知性が奇跡的に調和した小説。

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『重力の虹』(トマス・ピンチョン/新潮社)

わからなくても、読めなくても問題ない。この小説を体験するのは言葉の通じない国で迷子になるようなもの。読み解くカギが多すぎるせいでかえって読解困難になり、読者は「パラノイア」に陥らざるを得ない。その混乱が不思議な熱を生む。

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『魔女の子供はやってこない』 (矢部 嵩/角川ホラー文庫)

スプラッターなジュブナイル&魔法少女。全編異化と言わんばかりに俗語と堅い紋切り型の入り乱れる文体。悪趣味を通り越して馬鹿馬鹿しいグロを連発しながら、意味のわからないタイミングですごくまともなことを言う。刺さる人には泣く程刺さる

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『影を踏まれた女』(岡本綺堂/光文社文庫)

端正な語り口と不可解さが魅力の怪談集。怪異と因縁が繋がらない。何かが欠けていたり、何かが余計だったり。語り終えても暗闇は暗闇のままそこに残される。

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『阿房列車』(内田百閒/新潮文庫ほか)

どうでもいいことを言い、曖昧な返事をし、なんとなく会話が途切れる。グダグダであることをこれだけ愉快に書いた文章をほかに知らない。

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『クラゲの海に浮かぶ舟』(北野勇作/徳間デュアル文庫)

これも物語が語る物語。おかしくて、かなしくて、ぶよぶよしている。怪獣(映画)の夢も詰まっている。

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『奇々耳草紙 呪詛』(我妻俊樹/竹書房文庫)

我妻俊樹の作品は実話怪談というジャンルからはみ出た変な話ばかりなのだけど、この本に収められている『歯医者へ』は特に凄い。読んでいるこちら側の現実すらぐらつかせる。これが恐怖だとして一体何の恐怖なんだろうと戸惑う。

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2017年11月23日

映画『ローガン・ラッキー』を観る。

このお話は欠けたところから始まっている。
主人公のローガン兄弟の兄ジミー(チャニング・テイタム)は工事現場で働いていたが、膝のケガを理由に解雇されてしまう。
一人娘も別れた妻の新しい家族と暮らしている。
彼の弟クライド(アダム・ドライバー)戦地で片腕を失い、今はバーテンダーをやっている。
ローガン一家は不運の家系だというのがクライドの口癖になっている。

仕事をクビになり、娘のコンテストの日にちも間違えてしまう、悪いこと続きのジミー。
弟の店で飲んでいるといけ好かない経営者と喧嘩になる。
騒ぎの中、彼は弟に「カリフラワー」と告げる。これは強盗計画決行の合言葉だった。

ジミーの家には彼が考えた強盗計画10か条が貼ってある。
弟は言う、もうこんなことからは足を洗いたい、でも兄が苦手な知恵を絞ってこの計画を立てたのはわかるし、朝食を作ってくれた、自分好みの焼き加減にしてくれた、だから話は聞くよ、と。ここの場面が好きだ(そしてジミーの焼いたベーコンが美味しそうだ)。優しくて、なんというか「キュート」な、この映画の性格が現れているようだ。

ここから、今は服役中の爆破のプロであるジョー(ダニエル・クレイグ)や彼のバカ兄弟とチームを組み、現金強奪作戦が始まる。
ジミーとクライドとメリー、そしてジョーと彼のバカ弟2人。2組の3兄弟で構成されたチームというのが面白い。
皆家族のため、誰かのために何かをやろうとしている。とんでもなく頭の悪い登場をしたジョーの弟たちだって、彼らなりの「倫理」がないと動かない。たとえジミーとクライドの「エロい妹の復讐」でも。

この映画は「家族」と「お仕事」の話だ。そして、なんというか、一見何もなかったように元に戻るけど、何かが少し違っている、少しだけ、良いものを手に入れている、そういう話でもある。
彼らの計画は成功するが、手に入れた金を「ほぼ」全額返してしまう。
脱獄していたジョーとクライドは、何事もなかったように刑務所に戻る。なにも変わらないじゃないか、そんなことはない。彼らが手に入れたものを種明かししていくラストが心憎い。

冒頭でジミーが娘に語って聞かせる『Take Me Home, Country Roads (故郷へ帰りたい)』にまつわるエピソード、指を骨折して演奏ができないジョン・デンバーが贈られて、感激して朝まで歌っていたというこの曲のように、何かを失った人達に向けたささやかな贈り物なのだ。この「犯罪のプロ集団」とは程遠い素人たちがやってのけた事件は。

2017年11月23日

映画『GODZILLA 怪獣惑星』を観る。

映画『GODZILLA 怪獣惑星』を観る。
「人間ドラマ」偏重の作劇も、ハルオのキャラクターも、アニメ特有の演技も、予想していたほど気にはならなかった。
登場人物のバックボーンを省略する語り口は『シン・ゴジラ』以降の物語だと感じる。
とはいえ、地球に降り立つまで数十分は、狭い場所で動きも少なく、間延びした印象は否めない。

3部作の1作目というよりは、2時間映画の冒頭を89分に引き伸ばした感じだ。
「怪獣」が登場するのは後半、ゴジラに至っては終盤も終盤でようやく姿を見られる。
だが、どういうわけか、待ちに待ったという気がしない。
気が付いたらそこにいた、という感じで、背景の中の異物になっていない。

これがアニメでゴジラをやるということなのかなと思う。
現代SFアニメのフォーマットに、ゴジラという記号(巨大で、熱線を放つ人類の敵)を乗っけた物語を語りたいのであって、特撮を再現することは考慮に入っていないのか。

じゃあ特撮っぽいとはどういうことなのかと考えた時にまず思いついたのは、現実にあるわけがない(≒作り物)という異物感と、同時にそれが本物に見えてしまう現実感を行ったり来たりする、虚実のあわいの表現だ。
怪獣は作品世界から多少は浮いていなければいけないというのだろうか。

『怪獣惑星』では、大きいものが大きく感じられないのはゴジラだけでなく作品世界にも言えることで、宇宙をさまよい地球を奪還する話がハルオ個人の執着だけで語られて、とてもスケールが小さくなってしまっている。
ただ、生き残った人類の総数やゴジラに支配された地球という環境を考えれば、物語の狭さはそんなにおかしいとは思わないし、衰退しきったさらに先、いわゆるポスト・アポカリプスという趣もあるので嫌いではない。

アニメならではの良いところといえば人間対ゴジラの接近戦闘を違和感なく描けることだ。
核弾頭100発以上喰らって無事なゴジラに単身突っ込んでどうするんだというツッコミにもちゃんと答えを用意している。(とはいえ、ゴジラ×メガギラスの方が、ゴジラに人間が飛びつく描写で巨大感を出せていた気がするのだが。)

グダグダ言ってしまったけどゴジラと戦うことすらできずに捨て去られたメカゴジラを2万年ぶりに起動して再戦するのはめっちゃ熱いので続編は楽しみにしてます。
地球脱出時のゴジラを基にしているだろうからサイズ差が大変そうだが。

2017年11月23日

映画『全員死刑』を観る。

すっげえの観た。『全員死刑』ここまで面白いとは。『悪魔のいけにえ』を思い出させる禍々しさと笑い。どう考えても笑う場面じゃないところで恐ろしくくだらないギャグをかます。凶悪なまでにシームレスで未知の感情が喚起される。センスの塊だよ。

なんていうか戸梶圭太の小説の「激安」って概念を思い出すな。人命も思考も行動も、人生として想像できる範囲にあるもの何もかもが安い。

被害者宅の庭の手入れされてない感じとかモーターボートとかリアル過ぎるんだよなあ…。皆だいたいワゴン車だしコンビニはヤマザキショップだし。地元で撮ったのかと思うくらい。

「洗練されてない」ってことをセンス良く撮るのがヤバい。そもそも題材が題材だし。ひたすら安くて愚かで酷いのに、しかしこれは純然たるエンタテインメントなのだ。それもコメディである。

ハイローファン的には一ノ瀬ワタルが「鬼邪高の関ちゃん」としか形容できない役で出演しているのもポイント高い。「良くない就職先」潰せなかったんだね…。

2017年11月23日

映画『予兆 散歩する侵略者 劇場版』を観る。

映画『予兆』を観てきた。
『散歩する侵略者』の裏面であり、侵略の物語は当然こういう顔も持っているということを思い出させられた。
前作のオフビートな愉快さは鳴りを潜め、人間の弱さと、得体が知れないことを画面に映し出す表現に比重が置かれている。
体温を奪われる、あの世が侵入してきたような映像に目が離せない。
終末の、光りも熱も遮る曇り空を見て、やはり黒沢清の怪獣映画を観たいと思う。

それはそうと宇宙人は天野くん達のチームだけじゃなかったんだな。当たり前か。
歩くだけで人がバタバタ倒れていくのが東出真大のオーラに圧倒されているみたいで面白かった(『散歩する侵略者』の怪しすぎる神父とは全く関係なかった)前作の「概念を奪う」行為は、加瀬真治という人間の人格や鳴海との関係の再構築をもたらすものとして、ある意味肯定的にも描かれていた。
今作でのそれは、奪うことの恐ろしさと、どうしようもなく弱い人間の悲しさを浮き上がらせるものになっていた。
「愛の概念」は今作でも重要な存在だが、こちらも人間の弱さと残酷さの源、という性格も帯びている。

概念の扱いには必ずしも納得のいくものばかりではないのだけれど、「死の恐怖」を奪った真壁がビルの屋上の柵を越え、存分に恐怖を楽しんでいる場面(奪った概念を純粋に楽しむ描写ってここだけじゃなかろうか)は、ホラーというジャンルに対する自己言及のようで気に入っている。
人間は恐怖という情動に快感を覚えることができる、だから観客のあなたもこの映画を観ているのだ、と。

また、粒子の粗い空の不穏さと、鏡やガラスやカーテンなど何かを介して見せる画が印象に残った。
何かを通過して観る光景は、そこに何かいるかもしれないという感覚を引き起こす。
それは幽霊と同質のものかもしれない。
真壁がすぐに来るわけないのに玄関の扉に怯える二人の姿はとても納得がいく。

2017年11月23日

『ブレードランナー2049』を観る。

『ブレードランナー2049』を観る。
立派な続編だと思うが「ブレードランナー」ではないというか、前作にそれほど強い思い入れは無いので、これはこれで素晴らしかったのだが、やっぱり上映時間は長く、もうちょっとやりようがあったのではと思ってしまう。
主演のライアン・ゴズリングは『ドライヴ』の次くらいに好きなゴズリングだった。

『ブレードランナー』と『ブレードランナー2049』の決定的な違いは湿度だ。
雨に煙る猥雑な電脳都市に対して、灰が降る曇天の荒れ地。
『2049』では、水分も生命も感じさせない白茶けた大地の美しさに比べて、雨や波といった水気の多いシーンが奇妙に嘘臭かった。

むしろ、『ブレードランナー2049』は殺菌乾燥した画づくりが指向されているのだろう。
だから前作を模した雨の街の情景が作り物めいて見える一方で、砂と灰の積もる人気も水気も無い空間がたまらなく美しかった。

だから、この作品には「雨の中の涙のように」という言葉はなく、代わりにあの場所でのラストシーンがある。

とはいえ、『2049』はディック的に良いところもあって、ラストの自分がニセモノでしかないと知りつつもデッカードを娘の元へ送り出し独り死を待つKの姿は、自分自身や世界に対する諦めと肯定の入り混じった「もういい」という声が 聴こえてきそうな美しいシーンだった。

Kの部屋にナボコフの『青白い炎』が置かれていたのがすごく気になった。ジョイがこの本嫌いと言うのも。 『青白い炎』は架空の長編詩に(狂人とおぼしき)語り手が好き勝手な注釈を付けて荒唐無稽な自分語りを始めてしまう小説(なんて要約したら怒られるかな)で、この語り手のキンボート氏は思い入れのあまり作品を歪めて解釈してしまう読者を皮肉ったような人物なのだけど、これは『ブレードランナー』という正典に対する『2049』からの謙遜や自虐なのか。

あるいは、『青白い炎』における作者と読者の関係を人間とレプリカントに置き換えれば、読者の読みが作品から作者の地位を奪ってしまうこの小説は、被造物が生命を生み出す「奇跡」を起こした『2049』のバックストーリーを暗示しているのか。

 

 

2017年9月21日

映画『散歩する侵略者』を観る。

『散歩する侵略者』を観た。うまくないんじゃないか、というところと、観たこともないものを観ているという感じが、それぞれはっきりして。
だが、自分の中では『散歩する侵略者』は今年観た映画で10作選んだら必ず入ると思う。

とりあえず、とても好きな映画だ。笑いがある。何の面白さかわからない、曰く言い難い感じがある。
それでいてストレートに愛の話(セカイ系とすら言えそうな)でもある。何より世界の終わりを見ることができる。
しかしこれは一体何の話なのか

この映画は2つのパートと2つのテーマに分けられる。
加瀬夫妻(松田龍平と長澤まさみ)のパート、記者と宇宙人たち(長谷川博己と高杉真宙と恒松祐里)のパート。
前者は愛、後者は侵略。
その両方に共通するのは人間の「概念を奪う」という設定。
この「概念を奪う」というのがちょっと扱いに困る。

これが言葉に寄りかかりすぎていて、映画という表現にうまく合っていない気がする。
この辺は舞台と映画の違いに原因があるのか。
映画と舞台の違いについては、パンフレットのインタビューに監督と原作者がそれぞれ言及している箇所がある。

黒沢清は「加瀬夫婦の話に関しては原作に近い流れ、日常を中心にして起こる夫婦の疑心暗鬼を描くことにし、一方で桜井側は最初から日常とは切り離された世界で起きていることを描いている。舞台ではそうあちこちに移動していくのは難しいですから、そこを映画では広げていきたいとも思いました。侵略SFというジャンルの、娯楽性の高い部分を桜井側で可能な限り表現していこうと」と語っている。
確かに、映画としての動きの大きい桜井側の話は観ていてひたすら楽しかった。
しかし、舞台の表現方法が映画に合わなかっただけかというとそうでもないと思う。

面白いと思ったのは原作者の前川知大の以下の発言。
「見た目ではなく意味で宇宙人を見せる、ということをまずやりたかったんです。たとえば舞台では生身の俳優たちが観客の目の前で動くので、嘘はすぐにバレてしまう」
「舞台上で俳優が宇宙人のメイクをして演じても、それは特殊メイクをした人でしかないので、観客にとってのリアルではありませんよね?」
「映画ならばディティールを詰めていけば日常での違和感も作れるのですが、そこが舞台だと陳腐に見えてしまう」
「人間と姿かたちは同じだけど中身が違う。それが、見た目ではなく意味で宇宙人を見せるということです」

「意味で宇宙人を見せる」が、意味を変えて違うものを見せることだと考えると、この映画でやっていることにも当てはまる気がする。
物語の違う顔を見せる、あるいは、見慣れた話が全く違うものに姿を変える。
冷え切った夫婦関係、記憶喪失の男、バラバラ殺人、侵略者を自称する妙な少年、これらが、SFな小道具も(まがい物感あふれる通信機を除いて)CG表現もなくても宇宙人の侵略の話になり、反対に侵略SFが関係の再構築の話に、愉快なロードムービーに、愛や概念が云々の話になる。

概念を奪う設定については、むしろこれは物語上の装置というか、括弧に入れて脇に置いておくものなのかもしれない。
というのは、これをSFや何かの寓話として捉えようとすると綻びが目につくからだ。
概念を一つの独立したものとして好きにやり取りできるのは、SFとしては緩すぎるだろうし、「人間はいろんな概念に縛られている」という寓意に持っていくのは安易に思える。

言葉の多さは逆説的に言葉を宙づりにする。
侵略、宇宙人なんてベタなフレーズは、括弧が付いていて中身は空っぽなんじゃないかと思えてくる。
下手な喩えだが都市伝説のメン・イン・ブラックを連想する。
見た目は人間なんだけど言動が不自然だったり、硫黄の臭いがして地球外生命体というよりは悪魔に近かったり、何かと考証が緩い存在。
そういえば概念を奪うときの暗転と光は昔のUFO表現みたいだ。
観る人皆の記憶の中の宇宙人という感じ。
それでいてベタに宇宙人の侵略SFであり愛の話でもある。不思議だ。

2017年9月20日

古川 日出男『非常出口の音楽』を読む。

もう一冊の掌編集である『gift』とは似ているようで全然違う。
あちらはアイデア集というか、小説が萌す瞬間に焦点を合わせた作品だった。

この本が語ろうとしているものは、もっと掴みがたく、もしかしたらもっと切実なものかもしれない。
それは、現実というフィクションに立ち向かい、生き延びる助けになるフィクションがあるとしたらどんな姿をしているのか、ということだ。
その点で、古川日出男の小説は坂口恭平の『現実脱出論』と接続することができるのではないかと思う。

否定や逃避では現実をより強固にしてしまうだけだから、個々人の思考(空間認識)に還る=脱出という考え方は、古川日出男の作品にも見出せる。

たとえば本書の『アップルヘッド、アップルヘッド』。
ある建物にいる人間が被っていたヘルメットを脱ぐ。
同時に別の建物の人間が同じ色のヘルメットを被る。
それを「ほら、アップルヘッドが移動した。宙から、宙に!」と言われても、何だそりゃと思う。
でも、これは一つの発見ではある。
あるいは『聖家族』で東北の田舎道に山手線を見出す子供たちや、街中の猫を数える競技にしのぎを削る『LOVE』の登場人物たち。

古川日出男はこのようなやり方で「奇蹟」や「救い」を語ってきたのではないか。
何かが何かを演じている、とも言えるし、違う地図で空間を読む、とも言えるし、これが小説の描くべき「本当のこと」なんじゃないかとも言いたい。

2017年9月20日

古川 日出男『ルート350』を読む。

短篇小説は長篇に較べ、作家の核となるものがより表れやすい。
多彩なスタイルに見えて、その実(あとがきで触れているように)同じモティーフを変奏のように繰り返し語り続けている古川日出男のような作家は特に。

この短篇集では「レプリカ」という単語が何度も使われている。
小説は、現実のレプリカなのか。
そうだとしたら、人はなぜ、わざわざ模造品を作って、読むのか。
ここに収められた8篇は、そんな問いを読者に突きつける。

『お前のことは忘れていないよバッハ』 三軒並んだお隣同士が不倫しあって父母シャッフルというとんでもない状況で共同生活を始めた三人の子どもたち、それからハムスターのバッハ。
家の中を世界地図に見立てる空間の想像力、「生き延びろ」という著者の作品で繰り返されたメッセージ、物語る=距離をつくる・カッコに入れることの救い、語りの裏に隠された切実な感情。
古川日出男のエッセンスが半分。もう半分は『カノン』に。

『カノン』 男の子、女の子、それからザ・マウス。
現実自体が何かのレプリカとしか思えない姿をとるようになった時、どんなフィクションがテロになり得るのか。
「女の子」の過剰な優秀さと、啓示に対する迷いの無さがとても古川的。文章のノリがちょうどいい。
『ストーリーライター、ストーリーダンサー、ストーリーファイター』 幽体離脱した「僕」が語る、3人の同級生たち(そういえば、鏡に映らない語り手の姿は『物語卵』の「鏡を見るとそこにはいつも僕がいません」という一文を連想させる)。
「戦闘的に」書き、踊り、闘う彼らの物語が始まる寸前で幕を引くこの作品は、爽快な、小説以前だ。
『飲み物はいるかい』 いくつかの点で『サマーバケーションEP』の原型だと感じる。想像力のある歩行。著者の書く散歩はとても魅力的だ。
『物語卵』 映画『スプリット』の多重人格者を連想してしまった…のはともかく、入れ代わり立ち代わり表れて物語を語っていく彼らは一体何なのか。

語り手たちは階層を持ち、それはさらに樹形図のように枝分かれしているのだという。
各々が語る物語は、「生き延びる」というただ一つのことを語っているようにも聞こえる。
物語は、何かを生かし伝えていくものであり、その過程で姿を変えていく(べきな)のだということか。

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