『イップ・マン外伝 マスターZ』

 ブルース・リーの師としても知られる葉問(イップ・マン)の生涯をモデルしたカンフーアクション『イップ・マン』シリーズのスピンオフ。シリーズ3作目の『イップ・マン 継承』でドニー・イェン演じるイップ・マンと激闘を繰り広げた詠春拳の達人チョン・ティンチ(マックス・チャン)が今作では主人公になる。  『イップ・マン 序章』から今作までストーリーは毎回一緒だ。家族や市井の人達とささやかながら幸せに暮らす主人公が、トラブルに巻き込まれ、生活を失う。その背後には街を牛耳る外国人(『序章』では旧日本軍、『継承』ではアメリカ人、『葉問』『マスターZ』ではイギリス人)と、彼らの言いなりになっている地元の警察やチンピラがいる。映画の前半でチンピラとの大立ち回りがあり、主人公と家族が絆を深める描写があり、やがて誰かが死ぬ。ついに立ち上がった主人公が詠春拳の技で悪い外国人に一騎打ちを挑む。主人公に感化され、地元の警察も反旗を翻す。だいたいこんな流れである。  このシリーズの魅力は何と言っても、主役を演じるドニー・イェン、今作ではマックス・チャンの、超絶技巧の詠春拳と、手を変え品を変え物量を変えて繰り出されるア...

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映画『バーニング 劇場版』

『バーニング 劇場版』  村上春樹の短編小説『納屋を焼く』のイ・チャンドンによる映画化である『バーニング劇場版』はいくつかの点で原作から大きく変更されている。  その一つが主要な登場人物の設定だ。村上春樹の『納屋を焼く』では語り手は作者を連想させる小説家だが、映画『バーニング』の主人公ジョンスは20代前半の若者である。金も仕事も無く、小説家志望と言いつつ何を書いたらいいのかわからずにいる。「彼女」にあたるヘミはジョンスの幼馴染であり、一見華やかではあるが境遇的には彼とそう変わらない位置にいる。  借金に追われる母親、起訴された父親、ヘミ。ジョンスの周りは成功者であるベンと対称的な人たちだ。  菓子パンを歩き食いするジョンスと、スポーツジムでランニングするベン。軽トラの車内でコンビニ飯?を飲み食いするジョンスと、パスタを作り、ソウルで一番美味いもつ鍋屋に誘い、高級ワインを持参し、ホームパーティーを開くベン(列挙してみたら思ってた以上に食の対比が多かった)。  「僕」=ジョンスと、「彼」にあたるベンを非対称な存在として描き、韓国の現代社会における階級間の対立を作品に持ち込んでいるように見え...

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映画『ROMA/ローマ』

 聞いていた通り冒頭のシーンがまず凄くて、床の掃除を延々と映す映像で美しさを感じさせられることに驚いた。床を洗う水が起こす波と、水に映る上空の飛行機が結末と呼応していた。  『ゼロ・グラビティ』が宇宙飛行であるのに対して『ROMA』は時間旅行なのか。この作品は(カメラの視点を借りた)語り手の記憶や回想というよりも、その裏側で起きていたこと、当時は知り得なかった出来事の別の顔を、過去に戻って眺めている印象を与える。  固定された視点による長回しは、懐かしい人に触れることも目の前の悲劇を止めることもできずにただ見ていることしかできないもどかしさがあり(いくつかのシーンは早くカメラを止めてあげてと思った)、決定的に過ぎ去ってしまった時間だということが強く感じられた。  主人公の恋人のフェルミン(クソ男)や武術のコーチの芸人やその門下生たちや武力抗争を引き起こした男たち等、「マッチョなもの」に対する批判、戯画化する視線を感じた。フェルミンが全裸で棒術を披露するシーンは色んな意味で面白い。  悲痛な出来事が映し出される一方で愉快なところもある。一家の父親が高級車を車庫入れする場面の妙に凝った演出...

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映画『バーニング 劇場版』/『THE GUILTY』を見る。

今月、見逃してはいけない映画は『バーニング 劇場版』と『THE GUILTY』だろうかと考え両作品を観た。 『バーニング 劇場版』 いかにも映画っぽい瞬間しかなくてとても面白かった。 村上春樹的なメタファー会話や世界の中にぽっかり口を開けた空虚の存在と、村上春樹っぽくない非モテ属性の主人公や韓国の社会問題や田舎の土の臭いが、相反せず作品を肉付けしている。韓国の今・ここの物語でありながら、不可知の暗闇も感じさせる。 姿の見えない飼い猫も夜中の無言電話も映画の結末も一見現実的な説明が与えられているが、決定的な瞬間は一度も描写されない。ヘミが幼い頃井戸に落ちた話のように真相は宙ぶらりんで、未来と同じくらい過去も現在も不確かなものとなっている。 納屋(ビニールハウス)を焼くという隠喩がビニールハウスで韓国の農村に結びつく。そこから貧富の格差が描かれ、主人公に対比されるベン=ギャツビー(=何で稼いでいるのかわからない金持ちの若者「韓国にはギャツビーがたくさんいる」)を通して、韓国の社会問題とアメリカ文学両方に連想が繋がるのが面白い。 同時存在の意味はよくわからないけど、Aであると同時にBである、...

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映画『ア・ゴースト・ストーリー』を観る。

『ア・ゴースト・ストーリー』これは、なんと言ったらいいのか、「死んで幽霊になった男が残された妻を見守る話」ではあるけれど、もっと広い意味で、去っていくものと後に残されるものの話である。ただし去っていくのは生きている人間の方だ。幽霊は後に残される。ここでは生者と死者が逆転している。 事故で死んだ男はシーツを被った幽霊の姿になって家に帰る。幽霊は生きた人間に触れることはできない。過ぎていく時間の中で、かつての妻をただ見守り続ける。生きている人間と幽霊の一番の違いは時間の流れ方だ。幽霊になった人間の時間は止まる。 印象的なのは、彼が幽霊になった少し後、一人で床に座り込んで食事する妻を長回しで映した場面だ。彼女は食べる。食べ続け、そして吐く。壁に反射する光や外の物音は少しずつ変化する。しかし横で見ている幽霊だけは微動だにしない。動いている生者の時間と止まった死者の時間。 男が作った歌の歌詞にもある通り、彼女は去っていく。旅立って、それっきり物語から退場する。その後も見知らぬ人間たちが次々とやってきてはいなくなる。去っていくのはいつも生きている人間であり、それを見送る幽霊は独りで取り残される。 ...

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『判決、ふたつの希望』を観る。

『判決、ふたつの希望』を観る。歴史的であり局地的であり普遍的でもある問題。それに観る者の目を開かせ、葛藤を共有させ、そして希望を提示する。多面的な描写、平板ではない物語の進行、様々な人物のぶつかり合いによる変化、ハリウッド的に洗練された構図等、テーマとエンタメ性が巧みに絡み合っている。 裁判シーンの言葉の応酬はこの映画の見どころだ。一方で、自体を引き起こし人々を振り回すのも、言葉というものが本質的に持っている過剰さである。言葉は、それを発した本人の意思を超えて力をふるってしまう。「クズ野郎」「シャロンに抹殺されていればよかった」言葉を発端にした争いは、言葉を武器にする弁護士を介し、言葉でやり合う法廷に持ち込まれたことで、国を巻き込む一大事になってしまう。二人の主人公、夫と妻、息子と父、弁護士と弁護士(父と娘)、民族と民族、男性と女性、右派と左派、老人と若者、様々な対立が飛び火し、拡散し、露見する。 誰にも歴史があり否が応でもそれを背負わざるを得ない。裁判は歴史と傷と罪が暴かれる場でもある。主人公二人だけでなく、関わった者は皆痛みを負い、変化していく。始まりの地点と同じ場所に居る者はいな...

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『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観る。

『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観る。ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』を現代にアップデートして映像化したかのよう。イメージの洪水に悪酔いを起こす、凄まじい迷宮映画だった。しかしながらそこには歴史も対抗文化ももはや無く、自ら築いた迷路には消費とポップの悪夢だけが広がっている。 街中の看板、テレビ番組、流行曲、お菓子の景品、壁の落書き、動物の死骸、シンクロニシティ。氾濫するメッセージに「真相」などなく、解読は誤読にしかなり得ず、読み取った物語は自身の映し鏡である。意味も黒幕も限りなく空虚だ。 そこには、あたかも身体性は無いけど生理的というのだろうか、肉体を持たないまま五感だけが鋭敏になっているような感覚がある。 作中で言及される大衆文化についての知識合戦や隠喩についての考察合戦がおそらく繰り広げられるのだろうけど、撒かれたピースから各々が解釈を組み立ててしまうこと自体が作品と相似している。...

映画『レディ・プレイヤー1』を観る。

この作品は「私小説」ならぬ「私映画」だ。スピルバーグとハリデーの、大きな大きな「私」の物語だ。 VRが文字通りもう一つの現実と化した未来でありながら、この世界を彩るのは特定の年代の特定のカルチャーばかり。 オアシスの世界は言わば一冊の自伝で、それを読み解くプレイヤーは、この『レディ・プレイヤー1』を読み解こうとする観客と重なる。丹念に読み、行間に隠されたヒントを拾う。主人公のハリデーオタっぷりはテクストを精読する研究者のよう。 この映画を観て感じるのは、小さく、狭い方向に向かう力が大きなものを生み出しているということ。 世界と上手く繋がれなかったオタク少年がもう一つの世界を創造し、作り手の私的な記憶が多くの観客の記憶と結びつく。 「私」という小さな人称にとてつもない広さがある。 「私」への埋没こそが世界を創造し、つながりをもたらすということ。 あるいは、オアシスは仮想現実というよりも、むしろ「もう一つの」現実と呼んだ方がしっくりくる。 あちらも現実、だがこちらも現実。どちらか片方が本物なのではなく。 それは、ある意味では世界の多元的存在構造を示すこと、僕らが「いまここ」で見ているのはひ...

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映画『ちはやふる -結び-』を観る。

『ちはやふる 結び』瑞沢の三年間と真島太一の成長物語に最高の決着を付けた完結編。 超絶技巧で描かれるかるたの格好良さ。名人の言葉と、もがき続けた先の太一の姿に胸が熱くなる。 青春という「一瞬」から継承という「永遠」へ、部活映画の枠を越えたスケールの着地に心が震えた。 『上の句』で「青春全部懸けたってあいつには敵わない」と言っていた太一は『結び』で「原田先生や周防さんが懸けているものは、青春どころか(人生すべて)」だと気付く。 太一とともにこの作品の視野も、高校三年間から人生そのもの、そしてそれすら包み込む大きな時間へ開けていく。 千年前の思いを百人一首が今に伝える、というモチーフは『上の句』からあったけど、『結び』では今を未来へ伝えるという視点が加わった。 自分の強さを周囲へ分け与えること、先輩から後輩へ部の記憶を伝えていくこと。 千早が後輩二人に「素敵なことが始まったと思った」と言ったのは、自分たちがいなくなった後にも残るものができて、かるた部で過ごした時間が、奏の言う「千年先に残る歌」になったと感じたからではないか。 『結び』に強く感動させられるのは、この作品が時を越えることについ...

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読書ノート

『不安定な時間』ミシェル・ジュリ 「われわれの時代に、人類はついに内的宇宙を征服することができたんだ」「だが、部屋には悪魔がはいっていて、あんたがたはドアに鍵をかけなくちゃならないのだ」 ディックの『ユービック』を連想する。主観的な時間旅行あるいは死後の世界。人格と場面が唐突に目まぐるしく変転し、変奏を加えて何度も何度も繰り返される。この反復がどういうわけか愉しくてしかたない。どこにもたどり着かずに跳躍し続けてくれてもいいくらい。SF文学史にボリス・ヴィアンやレーモン・クノーの名前が出てくるあたりがとてもフランス。 『神曲 地獄篇』ダンテ 建築物としての全体も神学も歴史的背景もわからないなりに、パオロとフランチェスカの恋愛、ウゴリーノ伯の餓死、農耕詩的な比喩、といった細部の造型を美しいと思う。と同時に作者の自我の強さというのか同人誌的というのか、自らを偉大な叙事詩作者として数えたり、オウィディウスの『変身譚』にも勝ると自負したり、嫌いな相手を(存命であっても!)地獄に落としたり、大好きなウェルギリウスを登場させてイチャイチャしたり、作品の緻密さや幻視の凄まじさと合わせて、文学者の業に感...

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映画『15時17分、パリ行き』​を観る。

考えれば考えるほど変な映画だ。こんな、テレビの再現ドラマみたいな話がどうしてこんなに面白くて、泣けてしまうか。​ 「実話を基にした映画」というジャンルを揺さぶる仕掛け、最高の一発ネタである。しかし再観賞に耐える。むしろ観る度に感動が強くなる。 「実話を基にした」という謳い文句が好きになれず、この作品もまあ、無差別テロに遭遇した人達をドキュメンタリータッチで描いた作品、とかその類いだろうと思っていた。 あるいは、実話を基にしていようがそれ自体で完結できる強度を持った面白い作品はいくらでもあるけれど、そういう作品でも最後に当時の映像だのモデルになった人物だのが出てきてしまうのが嫌だった。そういうのを見ると本編があくまで現実の再現でしかないような、フィクションとの上下関係を感じてしまう。 しかし、考えてみると『15時17分、パリ行き』はずいぶん実験的なことをやっているのに、それをまるで感じさせないのが凄い。映画ともドキュメンタリーともつかない、現実と呼ぶしかない時間が映りこんでいる。 始まって早々、三人組の一人の語りとともに、映画はいきなり彼らの過去に飛ぶ。軍隊オタな子ども時代、パラレスキュ...

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映画『エンドレス・ポエトリー』を観る。

『エンドレス・ポエトリー』とてつもなく変な映画だが、話は至ってシンプルだ。 ホドロフスキーの青年期、サンティアゴに移住してから、友人や恋人を得て、別れも経て、詩人としての自己を確立し独りパリに旅立つまでの「若い芸術家の肖像」を奇想天外な登場人物とシュルレアリスティックな映像で語る。 『エンドレス・ポエトリー』を観て連想したのはラテンアメリカの作家たちの小説だ。 例えばアレナスの『夜明け前のセレスティーノ』やボルヘスの『ボルヘスとわたし』。前者は幻想の入り乱れる少年期の回想、後者は詩人の過去と未来の対話という点で似ているが、それだけではなく、 現実と幻想をシームレスに描く、出来事を主観的に大袈裟に語る、といったこの映画の表現方法は、いわゆる南米マジックリアリズムの特徴として挙げられるものだ。特に近いのは、自伝的な作品を遺し、記憶や詩人としての自己を爆発的な幻想で描いたレイナルド・アレナスではないかと思う。 この映画はずいぶんと奇妙な自伝だ。視覚的イメージや人物が奇抜なだけではない。現在のホドロフスキー本人が登場し、昔の自分に語りかける。父との別れの場面に割り込んで、本当はこうするべきだっ...

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映画『霊的ボリシェヴィキ』を観る。

どことも知れない施設に集められた外見も年齢もばらばらな男女。車座になり、中の一人が語る話に耳を傾けている。語られているのはある囚人の死刑の間際に起きた不気味な出来事だ。語り終わると、参加者のうちの若い男がつまらなそうに「結局、人間が一番怖いとしか思えない」と言う。するとすぐさま、会の中心人物である霊媒師が彼を殴り飛ばす。霊媒師の相方の眼鏡の男が「それは禁句です」と言う。不用意な発言でせっかく集まってきた霊気が散ってしまったのだという。それから、眼鏡の男は参加者たちに向かって「こういう時はボリシェヴィキ党歌を歌いましょう」と呼びかけ、その場の人間は皆立ち上がり、スターリンとレーニンの肖像の前でボリシェヴィキ党歌を合唱し始め、『霊的ボリシェヴィキ』というタイトルが画面に現れる。 正直爆笑した。 なんだこの映画は、と思った。わけがわからない。しかしながらこの映画、とても面白いのだ。 この映画について考えようとした時、まず頭に浮かんだのは「怪を語れば怪に至る」という言葉だ。 この作品は文字通り、「怪を語る」映画である。なんといっても、登場人物がただ座って怪談話を聴かせているだけの場面が大半を占...

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映画『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』 を観る。

物語を語ることの意味を真摯に語り切った物語に、日本文化の死生観と情緒を再発見させる映像の美しさに、音楽に、何度も泣かされてしまった。 こんなにも夢中になれる映画に出会えるとは。 主人公のクボは、三味線を鳴らして折り紙を操ることのできる不思議な力を持った隻眼の少年だ。 彼は三味線の演奏と動く折り紙の人形で「月の帝に立ち向かったサムライの物語」を語って村の人々の人気を博していた。 しかしクボはいつも結末まで語らずに物語を中断して帰ってしまう。 実は、クボ自身もその物語の結末を知らないのだ。 それは、彼と二人暮らしの母親からいつも聴かされていた、彼の一族にまつわる物語だった。 月の帝はクボの祖父でその娘であるクボの母親とクボを守るために戦ったサムライがクボの父親だった。 クボの片目がないのは生まれてすぐに祖父に奪われてしまったからだという。 クボは母親から物語を聴かされるのが大好きだったが、母親は夫を失ったショックからかその結末が記憶から失われていて最後まで語ることができなかった。 クボの物語が大きく動き出すのは村の祭りの晩、日が沈んでから外に出てはいけないという母親との約束を破ってしまった...

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読書好き必見!インドア派におすすめする10冊の本

読書週間は過ぎてしまったが、読書好きにおすすめする10冊の本を紹介。 紅葉の季節でもあり、クリスマスの季節が近づいている現在、街や公園には人が溢れています。 しかし、充実した生活とはなんだろうか。 この秋冬インドア派におすすめしたい10冊の本を紹介。 『トリストラム・シャンディ』(ロレンス・スターン/岩波文庫) 語り手が自分の一代記を語ると言いながら出生にすら辿り着かずに終わる小説。本文の九割以上が関係ない話をしている。いきなり自作解説を始めたり、真っ黒なページやまだら模様のページが次々挟まれたり、粗筋を線で表現したり。 『エンジン・サマー』(ジョン・クロウリー/扶桑社海外文庫) 文明崩壊後の地球を叙情的かつ象徴的な文体で描くボーイミーツガール。この作品そのものが物語を語る物語であり、メタフィクションという形式でしか表せない恐怖と悲しみと切なさがある。物語と語り手は絶望的に隔てられている。 『ロクス・ソルス』(レーモン・ルーセル/平凡社ライブラリー) マッドサイエンティストが自分の発明品を見せびらかすだけの幸福な小説。手品をやるそばから種明かししていくような話なのに、それがひたすら愉し...

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映画『ローガン・ラッキー』を観る。

このお話は欠けたところから始まっている。 主人公のローガン兄弟の兄ジミー(チャニング・テイタム)は工事現場で働いていたが、膝のケガを理由に解雇されてしまう。 一人娘も別れた妻の新しい家族と暮らしている。 彼の弟クライド(アダム・ドライバー)戦地で片腕を失い、今はバーテンダーをやっている。 ローガン一家は不運の家系だというのがクライドの口癖になっている。 仕事をクビになり、娘のコンテストの日にちも間違えてしまう、悪いこと続きのジミー。 弟の店で飲んでいるといけ好かない経営者と喧嘩になる。 騒ぎの中、彼は弟に「カリフラワー」と告げる。これは強盗計画決行の合言葉だった。 ジミーの家には彼が考えた強盗計画10か条が貼ってある。 弟は言う、もうこんなことからは足を洗いたい、でも兄が苦手な知恵を絞ってこの計画を立てたのはわかるし、朝食を作ってくれた、自分好みの焼き加減にしてくれた、だから話は聞くよ、と。ここの場面が好きだ(そしてジミーの焼いたベーコンが美味しそうだ)。優しくて、なんというか「キュート」な、この映画の性格が現れているようだ。 ここから、今は服役中の爆破のプロであるジョー(ダニエル・ク...

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映画『GODZILLA 怪獣惑星』を観る。

映画『GODZILLA 怪獣惑星』を観る。 「人間ドラマ」偏重の作劇も、ハルオのキャラクターも、アニメ特有の演技も、予想していたほど気にはならなかった。 登場人物のバックボーンを省略する語り口は『シン・ゴジラ』以降の物語だと感じる。 とはいえ、地球に降り立つまで数十分は、狭い場所で動きも少なく、間延びした印象は否めない。 3部作の1作目というよりは、2時間映画の冒頭を89分に引き伸ばした感じだ。 「怪獣」が登場するのは後半、ゴジラに至っては終盤も終盤でようやく姿を見られる。 だが、どういうわけか、待ちに待ったという気がしない。 気が付いたらそこにいた、という感じで、背景の中の異物になっていない。 これがアニメでゴジラをやるということなのかなと思う。 現代SFアニメのフォーマットに、ゴジラという記号(巨大で、熱線を放つ人類の敵)を乗っけた物語を語りたいのであって、特撮を再現することは考慮に入っていないのか。 じゃあ特撮っぽいとはどういうことなのかと考えた時にまず思いついたのは、現実にあるわけがない(≒作り物)という異物感と、同時にそれが本物に見えてしまう現実感を行ったり来たりする、虚実の...

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映画『全員死刑』を観る。

すっげえの観た。『全員死刑』ここまで面白いとは。『悪魔のいけにえ』を思い出させる禍々しさと笑い。どう考えても笑う場面じゃないところで恐ろしくくだらないギャグをかます。凶悪なまでにシームレスで未知の感情が喚起される。センスの塊だよ。 なんていうか戸梶圭太の小説の「激安」って概念を思い出すな。人命も思考も行動も、人生として想像できる範囲にあるもの何もかもが安い。 被害者宅の庭の手入れされてない感じとかモーターボートとかリアル過ぎるんだよなあ…。皆だいたいワゴン車だしコンビニはヤマザキショップだし。地元で撮ったのかと思うくらい。 「洗練されてない」ってことをセンス良く撮るのがヤバい。そもそも題材が題材だし。ひたすら安くて愚かで酷いのに、しかしこれは純然たるエンタテインメントなのだ。それもコメディである。 ハイローファン的には一ノ瀬ワタルが「鬼邪高の関ちゃん」としか形容できない役で出演しているのもポイント高い。「良くない就職先」潰せなかったんだね…。...

映画『予兆 散歩する侵略者 劇場版』を観る。

映画『予兆』を観てきた。 『散歩する侵略者』の裏面であり、侵略の物語は当然こういう顔も持っているということを思い出させられた。 前作のオフビートな愉快さは鳴りを潜め、人間の弱さと、得体が知れないことを画面に映し出す表現に比重が置かれている。 体温を奪われる、あの世が侵入してきたような映像に目が離せない。 終末の、光りも熱も遮る曇り空を見て、やはり黒沢清の怪獣映画を観たいと思う。 それはそうと宇宙人は天野くん達のチームだけじゃなかったんだな。当たり前か。 歩くだけで人がバタバタ倒れていくのが東出真大のオーラに圧倒されているみたいで面白かった(『散歩する侵略者』の怪しすぎる神父とは全く関係なかった)前作の「概念を奪う」行為は、加瀬真治という人間の人格や鳴海との関係の再構築をもたらすものとして、ある意味肯定的にも描かれていた。 今作でのそれは、奪うことの恐ろしさと、どうしようもなく弱い人間の悲しさを浮き上がらせるものになっていた。 「愛の概念」は今作でも重要な存在だが、こちらも人間の弱さと残酷さの源、という性格も帯びている。 概念の扱いには必ずしも納得のいくものばかりではないのだけれど、「死...

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『ブレードランナー2049』を観る。

『ブレードランナー2049』を観る。 立派な続編だと思うが「ブレードランナー」ではないというか、前作にそれほど強い思い入れは無いので、これはこれで素晴らしかったのだが、やっぱり上映時間は長く、もうちょっとやりようがあったのではと思ってしまう。 主演のライアン・ゴズリングは『ドライヴ』の次くらいに好きなゴズリングだった。 『ブレードランナー』と『ブレードランナー2049』の決定的な違いは湿度だ。 雨に煙る猥雑な電脳都市に対して、灰が降る曇天の荒れ地。 『2049』では、水分も生命も感じさせない白茶けた大地の美しさに比べて、雨や波といった水気の多いシーンが奇妙に嘘臭かった。 むしろ、『ブレードランナー2049』は殺菌乾燥した画づくりが指向されているのだろう。 だから前作を模した雨の街の情景が作り物めいて見える一方で、砂と灰の積もる人気も水気も無い空間がたまらなく美しかった。 だから、この作品には「雨の中の涙のように」という言葉はなく、代わりにあの場所でのラストシーンがある。 とはいえ、『2049』はディック的に良いところもあって、ラストの自分がニセモノでしかないと知りつつもデッカードを娘の...

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映画『散歩する侵略者』を観る。

『散歩する侵略者』を観た。うまくないんじゃないか、というところと、観たこともないものを観ているという感じが、それぞれはっきりして。 だが、自分の中では『散歩する侵略者』は今年観た映画で10作選んだら必ず入ると思う。 とりあえず、とても好きな映画だ。笑いがある。何の面白さかわからない、曰く言い難い感じがある。 それでいてストレートに愛の話(セカイ系とすら言えそうな)でもある。何より世界の終わりを見ることができる。 しかしこれは一体何の話なのか この映画は2つのパートと2つのテーマに分けられる。 加瀬夫妻(松田龍平と長澤まさみ)のパート、記者と宇宙人たち(長谷川博己と高杉真宙と恒松祐里)のパート。 前者は愛、後者は侵略。 その両方に共通するのは人間の「概念を奪う」という設定。 この「概念を奪う」というのがちょっと扱いに困る。 これが言葉に寄りかかりすぎていて、映画という表現にうまく合っていない気がする。 この辺は舞台と映画の違いに原因があるのか。 映画と舞台の違いについては、パンフレットのインタビューに監督と原作者がそれぞれ言及している箇所がある。 黒沢清は「加瀬夫婦の話に関しては原作に近...

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古川 日出男『非常出口の音楽』を読む。

もう一冊の掌編集である『gift』とは似ているようで全然違う。 あちらはアイデア集というか、小説が萌す瞬間に焦点を合わせた作品だった。 この本が語ろうとしているものは、もっと掴みがたく、もしかしたらもっと切実なものかもしれない。 それは、現実というフィクションに立ち向かい、生き延びる助けになるフィクションがあるとしたらどんな姿をしているのか、ということだ。 その点で、古川日出男の小説は坂口恭平の『現実脱出論』と接続することができるのではないかと思う。 否定や逃避では現実をより強固にしてしまうだけだから、個々人の思考(空間認識)に還る=脱出という考え方は、古川日出男の作品にも見出せる。 たとえば本書の『アップルヘッド、アップルヘッド』。 ある建物にいる人間が被っていたヘルメットを脱ぐ。 同時に別の建物の人間が同じ色のヘルメットを被る。 それを「ほら、アップルヘッドが移動した。宙から、宙に!」と言われても、何だそりゃと思う。 でも、これは一つの発見ではある。 あるいは『聖家族』で東北の田舎道に山手線を見出す子供たちや、街中の猫を数える競技にしのぎを削る『LOVE』の登場人物たち。 古川日出...

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古川 日出男『ルート350』を読む。

短篇小説は長篇に較べ、作家の核となるものがより表れやすい。 多彩なスタイルに見えて、その実(あとがきで触れているように)同じモティーフを変奏のように繰り返し語り続けている古川日出男のような作家は特に。 この短篇集では「レプリカ」という単語が何度も使われている。 小説は、現実のレプリカなのか。 そうだとしたら、人はなぜ、わざわざ模造品を作って、読むのか。 ここに収められた8篇は、そんな問いを読者に突きつける。 『お前のことは忘れていないよバッハ』 三軒並んだお隣同士が不倫しあって父母シャッフルというとんでもない状況で共同生活を始めた三人の子どもたち、それからハムスターのバッハ。 家の中を世界地図に見立てる空間の想像力、「生き延びろ」という著者の作品で繰り返されたメッセージ、物語る=距離をつくる・カッコに入れることの救い、語りの裏に隠された切実な感情。 古川日出男のエッセンスが半分。もう半分は『カノン』に。 『カノン』 男の子、女の子、それからザ・マウス。 現実自体が何かのレプリカとしか思えない姿をとるようになった時、どんなフィクションがテロになり得るのか。 「女の子」の過剰な優秀さと、啓...

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映画『きみの声をとどけたい』を観る。

思わぬ発見はいつだって嬉しい。 興味のなかった作品にふとしたきっかけで触れて、予想もしていなかった楽しい時間を過ごせると、すごく得した気分になる。 これはそういう映画だった。 よくあるオリジナルの邦画アニメとスルーしてしまわなくて本当に良かった。 このお話の中で起こる「奇蹟」は、人の言霊が見えるとか、願いが叶うといったことよりも、毎日古い喫茶店に集まってラジオを放送したりお喋りをしたりする時間の中にあると思った。 そんな幸せな時間をさりげなく描いていて、とても好感が持てた。 主人公が何度も口にする「言霊」。 言葉には力があるというテーマが、どの程度成功していたのかはわからないが、ミニFMのラジオ放送という言葉を届け続ける時間の中で、言うべきだったのに言わずにいたこと、言うべきでなかったのに言ってしまったこと、そういう蟠っていた言葉が解きほぐされていく。 ドラマを支える事件は特別目新しくはないが、そこから枝を伸ばした人物や出来事のあれこれと、その絡み方が面白い。 大上段に構えていない、ある種他愛ないことにとどまっていることが、かえって作中で流れる時間の幸福感を際立たせている。 独特な絵柄...

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映画『ウィッチ』を観る。

新宿武蔵野館で映画『ウィッチ』を観た。 夏らしく、とても怖い映画だった。 観ている間、シアターのその暗闇の中で、背筋の寒気が収まらなかった。 この映画では、とにかく「音」に恐怖を感じた。 「何が怖いのか」と考えるより先に、言葉にしにくい恐怖に身体が反応している。 まさに、そういったタイプの作品であった。 音は怖がらせるための演出というだけではない。 姿の〈見えない「魔」〉は「音」になって登場人物たちに忍び寄る。 「音」はまさに映画の構成要素であった。 この映画は〈見えないもの〉を怖れ、〈見えないもの〉に苛まれる話だ。 家族間の不和、生活の不安、父親の隠し事。 厳格な信仰生活に塗り隠されていた不信が末っ子の失踪を境に表面化していく。 そもそも、在るものを無いと、無いものを在るとしていたからこそ歪みが生まれ、見ないようにしていたからこそ〈見えないもの〉がやってきてしまったのではないか。 この映画の中で起きていること(特にラストシーン)を主観か客観かと問うことには、あまり意味がないように思う。 人の心が生んだとも元から在ったとも、それは言い難い。 驚くべきはむしろ、最後に姿を現す超自然的存在...

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W.G.ゼーバルト『アウステルリッツ 』を読む。

歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。 彼は顔を過去の方に向けている。 私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつの破局だけを見るのだ。 その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。 きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。 ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。 この嵐が彼を、背を向けている未来の方へと引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。 私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。 ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」 不可知の暗闇、ぽっかりと空いた大きな穴を迂回する小説という印象もある。 避けているし、そもそも近づこうにも近づけない。 アウステルリッツがたびたび披露する建築にまつわる考察や薀蓄は、自分自身の歴史・あるいは現在から目をそらすための時間稼ぎ、方便だと感じた。 それが、...

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ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』を読む。

『ロラン・バルト』(中公新書)を読んで最も印象に残ったのは小説を書こうとして書けないバルトの姿だった。 この『明るい部屋』は、ひとまずは写真論であるが、同時に小説論であり、小説に踏み出そうとして踏み出せないバルトの逡巡の跡であることが読み進むにつれて明らかになっていく。 この本でバルトはストゥディウムとプンクトゥムという2つの概念を提示する。 ストゥディウムは文化的なコードで読み解ける、言うなればタグ付け可能なものである。 それに対してプンクトゥムはストゥディウムを破壊して、見る者を突き刺す。 それは、1つは写真の意味をかき乱す細部であり、もう一つは、被写体がかつてあったという時間の感覚である。 写真は、被写体がかつて確かにそこにいたこと、そして同時に(少なくとも当時の姿では)もういないことを絶対的な事実として突きつける。 このことは、小説、少なくともバルトにとって重要なプルースト的な小説に似ている。 何かが語られるのは、それが終わった後にしかありえない。 語られた出来事は、取り返しようのない距離で隔てられた過去として表れる。 言ってみれば、小説の始まりにはいつも写真がある。...

倉阪鬼一郎『クトゥルー短編集 魔界への入口』を読む。

クトゥルー神話というテーマに絞ってこれだけ多彩な作品集を作れることに驚く。 また、終末の光景の美しさ、物寂しさに惹かれるものがある。 これはシンクロニシティのような話ではあるが、たまたま同時期に読んでいた『続・入沢康夫詩集』に収められているエッセイ『作品の廃墟へ――幻想的な作品についての妄想的な断想』の文章を思い起こされた。 幻想的作品がうさんくささを呼び、マイナーな感じを持つとすれば、そのより本質的な理由と考えられるのは、それら幻想的作品の「時間性」の問題である。その幻想が真に戦慄的であるためには、(中略)それは超時間的なもの、時間と垂直に交わるものなのである。ところが、いわゆる幻想的作品は、物語であり、譚詩であり、そこでは事件の推移が叙述されなければならない。また、時間を絶した一つのヴィジョンを描き出す場合でも、それが言葉による叙述である以上は、「叙述の時間」がそこには介入してくる。一語の中に、一字の中に、一音の中に、すべてをひしめき合わせることができるなら別だが、われわれの言葉はそのようにはできていない。叙述できないことを叙述しているという点に、そのうさんくささの源がある これが...

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千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』を読む。

『勉強の哲学』を読んだ。 思った以上に好きなテーマが扱われていたように思う。 また、佐々木敦の『未知との遭遇―無限のセカイと有限のワタシ』に繋がるところが結構あった。 そちらも、勉強の際限なさに対して有限性を活用することから始まっていたから。 「環境のノリ」が言語による刷り込みなら、勉強とは違う言語を使えるようになることだろうか? 言葉は環境のコードに規定されるが環境のコードは言葉でできている。 違う何かになる方法は使う言葉を変えることだ。 違う言葉遣いの界隈(=ノリ)へ参入し、聞きなれない言葉を異物感を味わいながら使ってみる。 その時、言葉の他者性・物質性に(改めて)気付き、別の可能性が開けてくる。 しかし言葉はあくまで環境依存的なものだから、あるノリから別のノリへと転身し続けなければならない。 そんな絶え間ない自己解体をこの本では「勉強」と定義する。 その中で、「アイロニー」と「ユーモア」というキーワードが提示される。 「アイロニー」とは、ツッコミ・縦軸・深掘りを意味する。 そして、行き過ぎると現実それ自体という不可能という極限に突き当たる。 「ユーモア」は、ボケ・横軸・言葉のずら...

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読書ノート 2017年6月

フォークナー『アブサロム、アブサロム!(上・下) (岩波文庫)』 p263「真実より本当の《あったかもしれないこと》があると理解できる力が、本当の智慧なのでしょうか?」 偏執的としか言いようのない入り組んだ語りに何度も何度も立ち止まらされ、直線的な時間など(少なくともこの小説には)存在しないことを思い知る。 時間の中で継起する出来事を語るのではなく、一つの場所(南部)を舞台としてその中でいかようにでも変転する時間そのものを語ること、《あったかもしれないこと》を執拗に重ねることで狭い作品世界の内部が無限かと思えるような広がりを持つこと。 「五十年も前に起こって終わってしまった出来事に対する、死霊のような、抑えようもない怒りと誇りに満ちている真空のようなものは何なの?」 実際に起こらなかったことも歴史のうちであるというだか寺山修司だかの言葉を信じるなら、何行にもわたって描いた情景や台詞を「ではなく」と否定する無駄としか思えない書き方も、「実際には起こらなかったこと」を記述するための方法なのでは。 純血という神話を打ち立てようとした男が混血によって(愛の不在によって)滅びる物語であり、異様に...

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