The end of a long vacation

2019年も過半数が終わりつつある。令和元年になって三ヶ月半が経った。いまのところ、令和に明るい時代の兆しがあるとは思えない。街の風景は変わりつつあるけれど。 長い休暇の終わり、カフェで休んでいる。今年の夏も昨年につづきひどい暑さだ。スターバックスの隣の席では高校生の恋人らしき男女が将来や進学について語り合っている。17歳か18歳か、いちばん自分に自信がある年齢だ。その自信がまさにこれから打ち壊される年齢でもあるのかもしれないけれど。 目の前に可能性がある。この世界には未知の明るさがあふれていて、自分の中にも可能性が満ちあふれている。そのあふれるようなエネルギーをどうアウトプットするのかわからず、ただ持て余しているような年ごろ。たしかに、ぼくにもそんな年ごろがあったはずだ。ぼくらも駅前のスターバックスに入り浸っていた。それから、ぼくは彼らの倍近い年齢になったということになる。そして、可能性と同時に不安はだいぶ小さくなり、想像力も失われつつある。 「カルフォルニアがいいらしいよ。留学するのなら。アメリカに留学して、結婚して、NGOで働いて」夏らしく肌の良く焼けた女の子がそう話すのが聞こえ...

...

東方の憂鬱

あるいはバブルが弾けたのかもしれないと思わせるようなニュースが続いている。 5月13日、内閣府が3月の景気動向を「悪化」として公表した。 「悪化」になるのは、2013年1月以来の6年2カ月ぶりだという。 米中貿易摩擦や中国経済の減速などが響いているといわれる。 具体的にも、穏やかでないニュースが次々と報道されている。 たとえば、スルガ銀行の不正融資の合計額は1兆円を超え、17年ぶり971億円の最終赤字だという。 近年、新興企業として躍進してきた企業にも陰りが見られる。 RIZAPは11年ぶり193億の赤字、ぐるなびは最終利益8割減、美容マシーンの「シックスパッド」を手がけるMTGは中国ECの不振や不適切会計の疑いで純利益は98%減だとされる。 メーカーではリストラが開始されている。 日産は4800人以上の従業員を削減する方針を発表、JDIも1000人削減、経営再建中の東芝は新たに350人規模のリストラを行うという。 リーマン・ショックと3.11以来続いてきた、好況あるいはアベノミクス-アベノミクス相場が終わろうとしているのだろうか。 リーマン・ショックの後、ロバート・マンデルによる「国...

...

平成の終わりに

あと1時間ほどで平成も終わる。平成という時代の終わりには感慨深いものがある。 もちろん、元号が変わったところで現実そのものが変化するわけではないし、西暦が一般的に使用されるなかで元号を使用する合理性は見えなくなっている。 しかし、西暦が世界史あるいはキリスト教的な歴史を概観するための区切りであるのに対して、日本の元号での歴史は日本の時間を区切り遡行させるものである。元号での歴史は、西暦での歴史と違った物語を語ることがあるだろう。あるいは元号での歴史は日本人の歴史でもあり、それは日本人の行動パターンを見せるものであるかもしれない。 平成の終わりというのは、歴史の終わりの終わりという感じもある。あらたな歴史のはじまり、あるいは歴史の再起動として平成が終わり令和がはじまろうとしている。 失われた20年としての平成 ぼくは1987年生まれなので、意識の芽生えと平成のはじまりがほぼ同時だ。 東西冷戦が終結し、90年代にオウム事件があり、グローバル化とIT革命を経験しながら、911によりフランシス・フクヤマの歴史の終わりの夢が終ったところから21世紀がはじまった時代。 経済面でいえば、山一證券が1...

...

映画『芳華 Youth』

中国という国は、いままさに激動の時代を駆け抜け興隆の頂点にあるといってもよいだろう。 激動を駆け抜けた中国では、また現在から過去を遡行し、そこから現在を見つめるといった物語が描かれるようになっている。たとえば、90年代以降の社会主義市場経済以来の大河を描いた『山河ノスタルジア』や『后来的我们(僕らの先にある道)』がそうだろう。 過去を振り返るときにどうしても胸につかえるような出来事の記憶というものがある。 日本にとっては、かつての第二次世界大戦や左翼的闘争の記憶というものがそうであるように、中国にもしこりのような記憶となっているものがある。文化大革命がそのひとつである。 文化大革命を行使した毛沢東の評価も現在では両価的なものとなっている。それは周恩来が国民のだれからも愛される人物として記憶されていることと対象的である。 過去を振り返るときに、どうしても見返さなければならない問題としての文化大革命。近年、その時代を描いた作品も多く作られるようになった。たとえば、チャン・イーモウ監督の映画『サンザシの樹の下で』『妻への家路』あるいは同じくチャン・イーモウ監督が現代の中国を代表する作家 余華...

...

Q&A

応援しててもいいですか!! ありがとうございます! ぼくも応援してます! 最近怒ったことはありますか? うーん。そうですね。いつも怒ってますよ。 自分が満たされないからといって、当然のように他者や世界にそれを満たすことを要求するのはよくないです。 引越しの時って新生活の期待よりも悲しみの方が大きいよね・・・ 引っ越し、新生活。そうですね。 ぼくにとっても、新生活のはじまるこの時期は心踊るような希望の季節というよりも、どこか底冷えのするような、新しい部屋でひとりどこか空虚な違和感を感じるような時期だという印象があります。 新生活。人生の季節の切断。 これまで一緒にいた人たちとの別れ、捨てるものへの負い目、離れて遠くへいってしまった人への想い。喪失感。 一方で、これからの大きく変化した生活で果てしなく続いていくだろう日々への不安。希望的なヴィジョンを描くことはできず、けれど、強制的な力で強いられる新しい生活への移行。 新しい生活。新たな環境の文化、新たな共同体のコード、新たな土地の風土。それに適応することの難しさ。まさに言語ゲーム的な飛躍に馴染むことの困難。 そこで、世界と自分のあいだに感...

...

原風景としての郊外

都市に生きるというのは根なし草として生きることなのかもしれない。人波に流され根なし草として彷徨い、それでも心の底にある邂逅への淡い期待。ぼくはやり直せるかもしれない。また、あたらしくはじまるものがあるかもしれないという淡い期待。 あるいは、ぼくらがアーバン・リベラル・アーツとかポストモダンなシティ・ボーイらしくどんなにうそぶいてみても、きみは根なし草で、きみの原風景は風の吹く乾いた地方の郊外じゃないか?という事実を友人と共有したことから2019年のはじまった。 他方で、郊外に残された者、戻った者。そこにはかつて存在したという神話のような共同体は存在しない。血縁だってほとんどないかもしれない。 そこにあるのは記憶だけだ。商店街は死に絶え、駅前のレコード・ショップや古着屋や雑貨屋はもうない。ティーン・エイジャの頃のイノセントな記憶と気配。 人々は国道沿いのモールに車を走らせ、日常性を補充する。食品(パンや牛乳あるいは冷凍食品)や日常雑貨(歯磨き、トイレットペーパー、LEDの蛍光灯)あるいはZARAやGAPなどのファッション、家電、自転車、ペット用品。休日のレジャーもそこにある。映画館、ヨガ...

...

2018年の終わりに

2018年も残りわずか数時間となった。以下のエントリーからすでに一年がたった。 2017年12月31日現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』 2018年は、年初から米朝関係が大きな動きを見せ、2月・3月からは米中間の対立が激化し貿易戦争が開始され、現在では冷戦とも思えるような様相を見せはじめている。現在もカナダにおいてHuawei創業者の娘でHuawei副会長の孟晩舟氏が逮捕され拘束されており、中国においても複数のカナダ人が逮捕され拘束されている。 フランスではイエロー・ベスト集団による革命的ともいえる抗議デモ=騒乱が発生し、マクロン政権は年明けに予定していた燃料税増税を中止した。イエロー・ベスト運動は、アイルランドや台湾にも波及しているという。 また、日本国内でも日産のゴーン代表が逮捕され、フランス・ルノーとの対立姿勢を見せており、ルノー・日産・三菱との同盟関係にも変化が出てきている。 これらはあたかも相互に結びついた問題にもみえる上に、あるいはサイバー戦争や日産コンツェルン創始者・満州重工業開発株式会社総裁の鮎川義介と岸信介との関係なども想起される。 一方...

...

映画『ボヘミアン・ラプソディー』を観る。

『ボヘミアン・ラプソディー』とてもよかった。だが、より注目されるべきは、この2018年に人びとが人びととつながりAssociateするような映画が作られ、人びとを魅了していることだろう。他方で、『獣になれない私たち』に見られるように、人びとが解離的や独我論的に生きる時代にである。 あるいは、2018年現在は世界中でポピュリズムが席巻し、ヘイトスピーチが行われ、深センではプロジェクション・マッピングによりプロパガンダが流れ、パリでは暴動と激しいデモが行われている時代でもある。 イーン=フレディ・マーキュリーはメタファーとして境界例的な力があった。彼らのパフォーマンスは人と人との境界を溶解させ集団として人びとをつなげた。フレディはその自らのすべてを開放して免疫系をやられながら45年の人生を全うした。そして、それは伝説にすらなった。 フレディ・マーキュリーの死後数年、彼から影響を受けたカート・コバーンが自殺する。1994年、日本では『新世紀エヴァンゲリオン』が発表された年でもある。精神性は時代を反映する。70年代頃までは対人恐怖や神経症が多く、80年代は境界例の時代であり、90年代以後は解離...

...

柄谷行人と村上春樹-デカルト、フッサール、サルトルと構造主義からの批判

デカルトのコギトにしても、フッサールの超越論的自我にしても、サルトルの無の自由にしても、それらは超越論的主観である。 そして、それは形式的であり人間中心主義だと構造主義から批判される。 超越論的主観による形式化に対する批判が構造主義からなされたのだとすれば、なぜ、フランス現代思想はある種文学的な文体を持つ文章なのかということは確かに理解できる。 他方で、日本のポストモダン文学史の中での柄谷行人による村上春樹批判はその超越論的主観を問題視した。 また、フランス文学者の蓮實重彦もサルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』の翻訳を15年に渡り放置した言われ、そこにはある種のサルトルフォビアがあったのではないかと考えられている。 そう考えてみると、文壇における村上春樹批判というのはむしろ文芸批評家による哲学的コギト批判にも思える。 だが、他方で柄谷行人はデカルトを評価している。デカルトは哲学界の悪役でコギト的であると評価されているが、しかし、常に共同体の外で考えようとした人間だと評価するのだ。 この共同体は言語ゲームを互いに共有する人々であろう。であるならば、柄谷行人による村上春樹批判は何を意味...

...

『東方のラビリンス』

以下は、過去636日間における14の文章である。 順序としては、もっとも新しい2018年9月21日の文章から順番に並び、2017年1月27日が終わりの文章にあたる。 これらの文章が何を意味しているのかはわからない。 ただ、最近、熱帯魚のベタを飼いはじめたことが関係しているように思う。 タイトルはベタの「ラビリンス器官」による。 タイ(バンコク・アユタヤ)を旅する ― 聖なるものと俗なるものの濁流をさまよう 哲学 – 賭け – 愛するということ 西洋コンプレックスとアジア的意識 – 近代/一神教/自由の意味 – アイデンティティとナショナリズム 日本語のエクリチュール/パロールと中国語 現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』 『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて – 〈都市教養〉というキーワード=コンセプトについて 台湾を旅行する。- 中華民国台湾省台北市的小旅行 – 若者の街とユース・カルチャー ~ 渋谷,音楽,ファッション ~ 存在探求のためのメモランダム/言葉をめぐる冒険/浮遊への逃避行 左右対立のねじれについ...

...

タイ(バンコク・アユタヤ)を旅する ― 聖なるものと俗なるものの濁流をさまよう

2018年9月14日~18日、タイ〈バンコク・アユタヤ〉を旅行した。 微笑みの王国、タイ。かつて「クルンテープ」(天使の都)と呼ばれ「東洋のヴェネツィア」と讃えられる水の都バンコク。あるいは、世界遺産にも登録された古都アユタヤ。アジアの雑踏。崇高な超越へのあこがれと、猥雑な風俗が雑多に混じりあった東洋の王国。 バンコクを流れるチャオプラヤー川の濁流は聖俗浄穢を飲み込むタイの風土を象徴しているかのようだ。それは、同じアジアの王国でも、日本の列島全土を流れる清流や神道的な穢れの思想とは対称的である。 初日 ぼくら(友人とぼくの3人)は、9月13日(木)の夜に羽田空港に集まり、9月14日(金) 00:30 東京・羽田発 → 9月14日(金) 04:50タイ・バンコク行きのフライトで旅行を開始した。旅行初日はトラブルの連続であった。バンコクの空港に降り立つと、友人がひとり行方不明になった。iPhoneのSIMカードはwifi環境でのアクティベートが必要ですぐには使えなかった。ぼくらは、とりあえず、なかば諦めて入国審査カードを記入した。 どうにか、ようやく友人と再会し、電車や船を乗り継ぎながら朝...

...

映画『少女邂逅』を観る。

いじめをきっかけに声が出なくなった小原ミユリ(保紫萌香)。自己主張もできず、周囲にSOSを発信するためのリストカットをする勇気もない。そんなミユリの唯一の友達は、山の中で拾った蚕。ミユリは蚕に「紬(ツムギ)」と名付け、こっそり大切に飼っていた。「君は、私が困っていたら助けてくれるよね、ツムギ」この窮屈で息が詰まるような現実から、いつか誰かがやってきて救い出してくれる──とミユリはいつも願っていた。 ある日、いじめっ子の清水に蚕の存在がバレ、捨てられてしまう。唯一の友達を失ったミユリは絶望する。 その次の日、ミユリの通う学校に「富田紬(つむぎ)」という少女(モトーラ世理奈)が転校してくる───。 映画『少女邂逅』公式サイトより http://kaikogirl.com/ 映画『少女邂逅』。すごく良かった。これは間違いなく傑作だ。 イノセント&フラジャイルなティーン・エイジャを描いた作品として、目がくらみ意識が遠のくような作品であった。 手取りやiPhoneでの撮影による映像や視点、光や色の美しさ、夢と現実のあいだをゆききするようなマジックリアリズムのような世界観とそれを強化する音響効果。...

...

メモ書き『サリンジャー的、サルトル的ーあるいは村上春樹と柄谷行人、ポストモダンの文学精神』

本稿では、20世紀の米文学界を代表する作家J.D.サリンジャーとフランスの哲学者・思想家で作家のジャン=ポール・サルトルの作品・作家および日本における受容と影響を比較することを通して浮かび上がってくる日本文学の思想・精神史を読みときたい。 Ⅰ. サリンジャー的、サルトル的 〈サルトルの倫理、サリンジャーの倫理〉 Ⅱ. サルトル的ー超越へと駆動する力   (三島由紀夫、大江健三郎、吉本隆明、柄谷行人) 〈三島由紀夫の場合(時間)ー行動の究極地点、テロリズム〉 〈大江健三郎の場合(空間)ーサルトルとの対話〉 〈吉本隆明(空間・時間)・柄谷行人(空間)の受容と差異〉 〈サルトルの倫理〉 Ⅲ. サリンジャー的ー自己修復の物語   (村上春樹、村上龍、高橋源一郎、加藤典洋) 〈サリンジャーーイノセント&フラジャイルな作家〉 〈三つの翻訳、三つのサリンジャー〉 ・α.戦争神経症的なサリンジャーー『危険な年齢』〉 ・β.分裂的なサリンジャーー『ライ麦畑でつかまえて』〉 ・γ.解離的なサリンジャーー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』〉 〈ポスト全共闘のサリンジャー革命からのロスト〉 ...

...

「人生は歩きまわる影法師、あわれな役者」~DNA-偶然性-運命論-自由~

シミュラークルになりたいとか、ポスト・トゥルース・ストーリーを撒き散らすとか、検索エンジン汚したいとか言ってるの結構一貫性がある気がしてきた。はっきり言って、どうゆう欲求で診断名はどんな精神病理なのだろうか。 — COMA (@Factory_COMA) 2018年4月7日 DNAはランダムに進化を試してて自分はオルタナティブ枠を担当することになってしまったんだなって感じで捉えてますね!非常時には役に立つけど基本的に反社会性なんたらみたいな病理になりそう… — 藤井勇治郎 (@fujiiyujiro) 2018年4月7日 “DNAはランダムに進化を試してて自分はオルタナティブ枠を担当することになってしまったんだな” これはすごい言い得て妙な感じがあります。笑 この枠で爆進するしかない!笑 — COMA (@Factory_COMA) 2018年4月7日 種としての人類存続のための精子と卵子の組み合わせという膨大な数のランダム制が、唯物論・運命論に決定的な偶然性を与えている、しかし人生は唯物論と運命論によって決定されているので、人々はそれゆえに自由に(なぜならどう...

...

2018年のエイプリルフール

米国株式の現在の状況は1929年・1987年・1990年という歴史上の3大崩壊に非常に似ているというニュース記事と、中国経済は日本のバブル崩壊直前と酷似しているとニュース記事に目を通した。 そんなことはいつも言われているのだろうが、しかし、大正・昭和の終わりのように、元号の変わり目だなという感じが強い。 けれど、春の日差しの中、待ちゆく人々の顔にはうきうきとした気持ちが表れ、新宿御苑には満開の桜の花を見に来た人たちが溢れていた。 今夜はブルームーン。2018年最後のブルームーン、次は2年半後の2020年ということだ。 「極東の火薬庫」からはじまった第三次世界大戦は前世紀の二度の世界大戦と東西冷戦を弁証法的に止揚したものとして展開した。 それはフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』や石原莞爾の『世界最終戦論』における仮説を覆し、5次元空間での戦争と新たな歴史を本格的に始動するものであった。...

人文の終わり/批判的であること – マルクスからスティーブ・ジョブズへ –

先日、ワシントン・ポストの記事にウィスコンシン大学が人文学と社会科学の実質ほぼ全てともいえる13のコースを廃止するというニュースがあり衝撃を受けた。 A University of Wisconsin campus pushes plan to drop 13 majors — including English, history and philosophy 大学には経営と予算、学生の集客の課題がある。そのため、より予算が付きやすく、より学生が集まりやすい、就職やキャリアにつながるような実学的な学部を増強し、予算が付きにくく学生の集客力の弱いリベラル・アーツ系の学部は廃止したほうがビジネスとして合理的であるという判断である。 背景として、アメリカは学生の奨学金返済問題が深刻だという問題もある。 他方で、保守的な共和党から影響を受けている部分も大いにある。 ウィスコンシン州知事であるスコット・ウォーカーは2015年にウィスコンシン大学の理念を秘密裏に変更しようとしたということである。 その内容はこうだ。 by removing words that commanded the univ...

...

映画『リバーズ・エッジ』を観る。

現在から当時を遡行しつつ若者の心理を描いた作品として良かった。 ケータイ(PHS)の普及以前(1995年PHSサービス開始)、インターネットの登場以前(1995年が日本におけるインターネット元年といわれる)、オウム事件以前(日本社会のうわべとその精神病理が暴かれた1995年)の物語。 僕は近年のある種の映像には生々しさが欠けていると感じていたのだが(ここでいう映像はアダルトな意味でのAVも含む)、『リバーズ・エッジ』の映像には生々しさがあった。そこには、デジタルやPhotoshopやフォトジェニック以前の生々しさが描かれていた。生のコミュニケーション。生きてる感じ。 80年代は浮かれた時代だったと言われる。『なんとなく、クリスタル』、ポスト・モダン、MTV。 しかし、90年代、世相は大きく変わる。消費社会の神話と構造、社会システムのマンダラが切り裂かれ、破壊的な人々の生の感情(生と死が隣接したものであるというヒリヒリした感情)が溢れ出た時代だった。 当時は現在よりも清潔でない時代だった。川は臭く、タバコはポイ捨てし、空き缶を川に投げ入れた時代。公害やオゾン層の破壊が問題として語られた時...

...

〈ガチャ-資本主義-ゲーム〉- 価値とルール –

ガチャ-資本主義-ゲーム ガチャという無からの価値創出の生成魔術とその呪術性やばい。 — COMA (@Factory_COMA) 2018年3月13日 ソニー、アニプレックスfgo ガチャで売り上げ年900億。ソニーの株があがる要因に。ガチャはソニーを救い日本を救う — f.g sweet (@mysweetmoon1983) 2018年3月14日 やばい経済効果ですね。日本経済を支え、回す人々を救済するガチャ。問題は、これが貧富の差と資本階級による搾取を助長するアヘンであること。他方で、人々がマテリアルのないシンボルや記号をここまで愛するようになったのは面白くて、貨幣の持つ絶対的な呪術性が相対的に低くなるようにも。 — COMA (@Factory_COMA) 2018年3月14日 ほら、仮想通貨だってもう価値をもってるし。仮想通貨のマイニングだってガチャ回すのと似たりよったりですよ — f.g sweet (@mysweetmoon1983) 2018年3月14日 仮想通貨の価値は、交換価値なので実際には自分のところに戻ってくるある...

...

哲学 – 賭け – 愛するということ

パスカルは神の実在に賭け、アインシュタインは神はサイコロを振らないと言い、カエサルは賽は投げられたと行動し、ハイデガーやサルトルは企ての中に身を投じることをエンドースした。 哲学的な認識と実践のあいだには決定的な亀裂があって、それらは二元論的に制御すべきで一元論的に統合することは出来ない。 しかし、認識と実践のあいだにある飛躍、死を覚悟した跳躍というのは? それは、まさに賭けというものなのではないだろうか。 賭けは、人間にとって強烈で不思議な魔力を持っている。ギャンブラーであれば、赤のカードが5回続いた次には黒が来るのではないかと流れを感じ取ってしまうはずだ。 奇妙な話ではある。確率的にいえば、これからの出来事とこれまでの出来事には因果関係はない。しかし、人はそこに流れを見出してしまう。あたかも、ヒューム的な違和感というか、有らぬものをあたかも有るかのように感じるのだ。 ある意味では、人生自体、賭けと言えなくもない。もちろん、僕らはディーラーではないからほとんどの場合には、はじめから負け戦だけれど。 他者を愛するということも賭けである。 僕らに、彼女らの気持ちは解りえない。応えてくれる...

...

西洋コンプレックスとアジア的意識 – 近代/一神教/自由の意味 –

最近、アジア的なものに関心がある。 基本的に自国や他国に対する強い思い入れはないのだが、なぜアジアについてとらえ始めたのかと考えているうちに、自分の中に強い西洋コンプレックスがあるのではないかと気づいた。 アジア人として生まれたことに対する、非西欧的であることへのコンプレックス。 一見すると、かなり奇異なことを言っているように思われるかもしれないが、やはり現在の世界は西欧中心の価値観で構成されていると考えていいのではないだろうか。 世界的なグローバル化はある意味で文化的なアメリカナイズという側面が強く、世界中どこへ行ってもある程度の都市ではSTARBUCKSやMcDonaldやGAPの店に出会うだろうし、道行く人々の手の中にはApple製のiPhoneかGoogleのAndroidのスマートフォンが握りしめられている。彼らが休日を過ごすのはローマ-イギリス-アメリカ起源のショッピング・モールだし、日記代わりに記録を残していくのはシリコンバレーで開発されているFacebookやInstagramやTwitterにである。 精神的にも経済にも、マックス・ウェーバーが語ったところの西洋におけ...

...

アイデンティティとナショナリズム

人間には否応なく認めざるを得ない暴力性というのがあるのではないか。 それは、ある種アイデンティティの維持と関わるものだと思われる。 暴力性は、他者を攻撃したり人を支配するという欲望と同質のもので、特に自己の危機において顕著に立ち現れる。 批評空間の「明治批評の諸問題」を読んでいる。 そこでは、日本語の言文一致はむしろ根本的に翻訳が起源だと書かれている。 二葉亭四迷のツルゲーネフ翻訳や漱石の翻訳的言文一致的な文章が起源だというのだ。 言文一致とナショナリズムは大きな補完関係にある。 ナショナリズムについて書かれた著作には、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』がある。 そこによれば、ナショナリズムが起因する近代国家〈ネーション〉は、成員が「共同幻想」を共有することによって成立するとされている。 アンダーソンは近代国家〈ネーション〉成立の要因を出版資本主義の発展に求め、新聞が〈ネーション〉の公用語の普及に大きな役割を果たし、世俗語の言文一致をあまねく至らしめるとともに「想像の共同体」の形成に大きく寄与したとする。 翻って日本の言文一致の起源を考えると、言文一致の翻訳起源を否定するよう...

...

日本語のエクリチュール/パロールと中国語

少し遅れたが、すでに、2018年がはじまっている。 個人的には、今年、少し語学を学習しようと考えている。 これまでの興味の対象は概念であったが、ある種の言語的転回(展開)が沸きあがってきたというところだろう。 昨年わずかに英語・中国語・PHPを学習しはじめたが、今年はそれをどれだけ蓄積できるだろうか。 ところで、中国語を少し勉強してみて、とてもよくわかったのは、むしろ日本語についてで、日本語は書き言葉(エクリチュール)と話し言葉(パロール)がまったく別の流れを持った別々の言語だということ。 日本語と中国語は、漢字という共通の基盤を持つためエクリチュールは眺めればかなり内容の想像がつく。 しかし、にもかかわらず音声言語においては、相互に輸出入された単語はあるが、基礎的な音からまったく異なっていて学習しなければ聞き取ることができない。 考えてみれば、日本語は古代の漢字の輸入以前からあったわけで、音声言語としては別の流れにあるわけである。 中国語は構造的な性質を持ち、日本語は叙情的な性質を持つ。 古代、日本に輸入された頃から漢字は官僚機構によるシステム運用にりようされた。これが日本の書き言葉...

...

現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』

2017年も残りわずか数時間となった。 今年は近年稀に見る激動の年であった。 アメリカではポピュリズム的な現象を背景にトランプ政権が発足、フランスではマクロンに敗れたがマリーヌ・ル・ペン率いる国民戦線が躍進。 ヨーロッパでは、イギリスのメイ首相がEUに離脱を通知、スペインのカタルーニャ地区は独立を宣言した。 中東ではイスラム国は事実上の崩壊。 しかし、アメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定したことから多数の抗議活動が起きている。 アジアでは、フィリピンのドゥテルテ大統領が麻薬撲滅キャンペーンを実施し超法規的殺人が行使され、マレーシア・クアラルンプール空港では北朝鮮の金正日総書記の長男である金正男が暗殺され、ミャンマーはかつての民主化運動の旗手アウンサンスーチーによる新政権のもとロヒンギャは混乱に陥っている。 そして、日本では飛翔体が定期的に飛び越えている。 他方、経済面は数値の上ではバブルとも思える好調であった。 世界的に各国の経済は軒並み好調、日経平均もかつて1992年のバブル崩壊前の水準に上昇。 また、仮想通貨の価格は10倍にも100倍にも高騰した。 そのよう...

...

「デザインフェスタvol.46」を訪れる。

「デザインフェスタvol.46」を訪れる。 日本人はシステマティックな抽象化された理論的思考のようなものが不得手とされているけれど、ある種の手芸や工芸のような領域では強さを発揮するような感じがあった。 近年のあいだに、オブジェクトという現代思想の潮流が話題になったけれど、これはある種の汎神論的な日本的精神にも接近するところがある。 モノに何かがあるという感じかた。 そのようなモノへの愛着、モノとの関係というものがデザフェスにはあった。 日本人の世界観は西洋のような創造主が構築した世界ではなく、生きた世界がまずありそれら細部に精神が宿っているという考え方だ。 それが人とモノとの関係を可能にする。 デザフェスでは一方で工芸品・手芸品のような細部まで丁寧に作りこまれたものがあり、他方ではキャラクターやイラストが多く展示されていた。 キャラクターは、少女・動物・ロボット・奇怪なもの様々だ。 ある意味それらはなんらかのシンボルなのだろう。 不思議なのは僕らがキャラクターに愛着を持ち、ある場合には恋心さえ抱くということだ。 そして、そのような愛情が製作活動や収集へと人を駆り立てる。 日本人がやるべ...

...

『三度目の殺人』と僕らのエチカ

是枝監督の映画『三度目の殺人』は、真実はどこにあるのか?それを問うこと、真実から目を背けないことが描かれている作品であった。 だからこそ、エクリチュールとして法治国家の欺瞞的なヴェールをぬぐい去るところがあった。 他方、こうも思った。 僕がティーン・エイジャーの頃にこの映画と出会えていればと。 だが、理解できなかっただろう?そうかもしれない。 けれども、中高生や法学部に受かったばかりの学生に『三度目の殺人』を見てもらうのはアクチュアルな意味で教育的な価値があると思うのだ。 それはある意味でリーガル・マインドを捉えることであるし、エチカを理解することにつながると思う。 もし、彼らに語れるのであれば、僕は語るだろう。 僕自身は、真実やイデアや実存にこだわりすぎて、永遠的な完全な瞬間を求めたロカンタンのように何かを台無しにしてしまった気がしているから、老婆心として。 みんな、ごく自然に常識や正しさがあると思って生きているね? だけど、現実にはそんなものはないわけだ。 複雑に絡み合った中で、それぞれ取引があって成り立っている。 世の中は嘘に満ちている。 この現実というのはそういった嘘でできたフ...

...

フランス人間国宝展を観る。- オブジェの魔力 –

上野の「フランス人間国宝展」を訪れた。 フランス人間国宝展 http://www.fr-treasures.jp/ プレスリリース http://www.fr-treasures.jp/image/press_release.pdf 僕は、はっきり言ってブルジョア的な世界観を嫌悪するし理解できない傾向がある。 けれど、文化の国,絶対王政の国,カトリック色の濃いヨーロッパの中心国としての彼らの作るオブジェはたしかに人を包み込むような美しさを持っていた。 流線による曲線のフォルム、流麗な趣き、光の反射とともに漂う神秘性。 入念に加工の施されたその表面の繊細な美しさは〈神〉による自然の創造を思わせる。 その技術は〈神〉の模倣だろうか。 そして、表に見せる美しさの裏に充満されたエロス。 芳醇に香る官能。 それこそが、人を支配する魔術か。 つい、忘れがちなのだけれど、オブジェが持つフェチズム。 人は、物に、エロスを感じてしまうという事実。 物神崇拝。 人〈理性〉は物から自由になることはできない。...

映画『パターソン』を観る。

これは日常を描いた映画だ。 何気ない日常、何気ない毎日、 小さな心の揺れ。 それでも大切な日常。 愛すべき人たち。 しかし、僕らは愛を失ったら、生きてはいけないだろうか? その時、僕らは意味を失い、バラバラになってしまうだろうか? 何でもない日常。 そして、僕らは何者でもない。 せめて、詩人のように生きられたら。 “ニュージャージーのバス運転手” しかし、それは詩的な響きではないか? “俺 もう俳優だから” まさに、そうだといえるのではないか? すべての日が、すべての人が、すべての瞬間が、詩的な輝きで語られる可能性に満ちている。 最高に笑えるシーンは、バスの中での労働者風の2人の男の会話。...

映画『三度目の殺人』を観る。-『地獄の黙示録』あるいは反転のソクラテス –

『三度目の殺人』を観る。そのモティーフは、あるいは『地獄の黙示録』の変奏のように響く。 そこには真実から目を逸らして欺瞞に満ちた世界を生きることへの批判が通奏低音として流れている。 役所広司演ずる犯人は、カーツ大佐、あるいは反転した裁かれるソクラテス〈ニーチェ〉。 福山雅治演じる弁護士は犯人にこう呟く。「あなたは器?」その空虚、無意味さは、実存的な『地獄の黙示録』と関わるところにある三島由紀夫の『豊饒の海』と重なるものがある。 あるいは現代社会/法治国家における存在の忘却、その欺瞞性を暴くものでもある。 ‪満島真之介演ずる部下のギャルソン精神。‬ ‪「生まれた意味のない人間などいない!」と叫んだ時の、あの歪んだ勝ち誇ったような表情。溢れるヒューマニズム。吐き気だ。‬ タイトルの『三度目の殺人』は、存在を忘却した欺瞞的法治国家による死刑を意味するところか。誰が、誰を裁くのか?本当のことには意味がないのか?意味がないとすれば、誰に誰を裁くことができるのか? 法治国家における価値・意味の最終審級としての司法。その欺瞞。何たる傲慢!何たる破廉恥!何と醜悪な恥知らずだろうか!? 広瀬すず演ずる少...

...

『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて –

時代が大きく変化している情況において、より大きな動きが見られるのはもっとも開発されもっとも進んだ先進国ではない。 むしろ、ある種のつまずきを抱えてその遅れを取り返そうとしている国において、大きな動きが見られる。帝国主義時代のドイツ・ロシア・日本がそうであったろう。 そして、今のロシアはまた同じようにつまずきを抱えて、それを乗り越えようとしている。 であるならば、これからの21世紀の相貌の一端がまた見られるのは、ロシアの現代思想からなのかもしれない。 現代思想としての哲学は、20世紀に取り残された1つの課題を抱えている。 それは、しばらくのあいだ忘れ去られていた課題、「近代の超克」の問題だ。 思想史的な現代の情況をみたてると、ヒューマニズムにより近代を超克しようという熱病が再燃しているのが現在だろう。 近代哲学の完成がヘーゲルだというのは意見の一致するところだが、そこからの超克を目指して19世紀後半から20世紀前半に展開されたのがニーチェやマルクス,ハイデガーやラッセルなどいわゆる反哲学=現代思想としての哲学だった。 19世紀の近代化された世界は問題を抱えていた。 それを乗り越えるために...

...

『サルトルの世紀』から考える。 – ハイデガー問題メモ –

『サルトルの世紀』という本を読んでいる。 サルトルと20世紀、その時代と思想について書かれた本だ。 注釈を抜いて全体で800ページ、まだその3分の1程度を読んでいる段階なのだが、第1章「世紀人」の末は50ページばかり「ハイデガー問題メモ」としてハイデガーの思想とその問題について描かれていた。 ハイデガーについてのテクストを読んで思うのは、ハイデガーの思想のその危険性というのは両義的であって、その危険はむしろ僕らが求めなくてはいけないところにあるということがある。 それは、本来的なあり方・非本来的なあり方という考え方だ。 三島由紀夫は昭和45年に以下のような文章を残している。 「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」 三島由紀夫もまた本来的なあり方を求めた作家だった。 ポ...

...

Scroll to top