作者別: COMA

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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「人生は歩きまわる影法師、あわれな役者」~DNA-偶然性-運命論-自由~

「人生は歩きまわる影法師、あわれな役者」~DNA-偶然性-運命論-自由~ Posted on 2018年4月8日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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2018年のエイプリルフール

2018年のエイプリルフール Posted on 2018年4月1日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

米国株式の現在の状況は1929年・1987年・1990年という歴史上の3大崩壊に非常に似ているというニュース記事と、中国経済は日本のバブル崩壊直前と酷似しているとニュース記事に目を通した。
そんなことはいつも言われているのだろうが、しかし、大正・昭和の終わりのように、元号の変わり目だなという感じが強い。

けれど、春の日差しの中、待ちゆく人々の顔にはうきうきとした気持ちが表れ、新宿御苑には満開の桜の花を見に来た人たちが溢れていた。
今夜はブルームーン。2018年最後のブルームーン、次は2年半後の2020年ということだ。


「極東の火薬庫」からはじまった第三次世界大戦は前世紀の二度の世界大戦と東西冷戦を弁証法的に止揚したものとして展開した。
それはフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』や石原莞爾の『世界最終戦論』における仮説を覆し、5次元空間での戦争と新たな歴史を本格的に始動するものであった。


Blankey Jet City『悪いひとたち』より

今日もあの気持ちのまま一人で歩いてる 街に真っ白いMILKを買いに行く途中
それを見たバックシートの男は 12月生まれの山羊座で 第三次世界大戦のシナリオライターを目指してる
日傘をさして歩く彼の恋人は妊娠中で お腹の中の赤ちゃんはきっとかわいい女の子さ

……

それを見てたひとたちが 頭の中に思い浮かべるのは
ガードレールに激突したオレの黒い車のガイコツマークが炎に包まれている場面
 
BABY Peace Markを送るぜ このすばらしい世界へ
 
きっとかわいい女の子だから きっとかわいい女の子だから……

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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人文の終わり/批判的であること – マルクスからスティーブ・ジョブズへ –

人文の終わり/批判的であること – マルクスからスティーブ・ジョブズへ – Posted on 2018年3月25日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

先日、ワシントン・ポストの記事にウィスコンシン大学が人文学と社会科学の実質ほぼ全てともいえる13のコースを廃止するというニュースがあり衝撃を受けた。

A University of Wisconsin campus pushes plan to drop 13 majors — including English, history and philosophy

大学には経営と予算、学生の集客の課題がある。そのため、より予算が付きやすく、より学生が集まりやすい、就職やキャリアにつながるような実学的な学部を増強し、予算が付きにくく学生の集客力の弱いリベラル・アーツ系の学部は廃止したほうがビジネスとして合理的であるという判断である。
背景として、アメリカは学生の奨学金返済問題が深刻だという問題もある。

他方で、保守的な共和党から影響を受けている部分も大いにある。
ウィスコンシン州知事であるスコット・ウォーカーは2015年にウィスコンシン大学の理念を秘密裏に変更しようとしたということである。
その内容はこうだ。

by removing words that commanded the university to “search for truth” and “improve the human condition” and replacing them with “meet the state’s workforce needs.”

大学のミッションから「真実を探る」と「人類の発展」という言葉を削除し、それらを「国家の労働需要を満たす」というように置き換える

真実を探求したり、人類のより良い状態を目指すのではなく、国の労働力になれと。
いうなれば、社会に借りがあるのだから、働き蜂になって返せというのが保守陣営のまっとうな論理ということである。

いわゆる人文知は圧倒的な敗北に帰した。遠からず消滅へ向かうのだろうか。

一方でITやグラフィック・デザインやマーケティングやMBAのコースは拡張するということである。
また、VRやGAMEや観光学などビジネスにつながりそうな領域は伸びそうである。

しかし、これはある種の「動物化」や「機械化」ではないだろうか。
間違いなく近代 – ポストモダンの終わりという感じがして、人々は〈神〉をその台座から引きずり降ろして殺すことで近代を迎えたけれど〈人間〉を殺して近代を終えるのだなという感じが強い。

ポスト・トゥルース的高度資本主義世界へようこそ


しかし、人文は本当に終わったのだろうか。
無くなってしまったのだろうか。

あるいは、かつての「文学-批評-哲学」の業界は、今では「ブロガー-広告-自己啓発」にその役割を取って代わられ、マルクス的な〈革命〉の理念はスティーブ・ジョブズ的な〈起業〉へと置き換えられたというのが、実際のところなのだろう。
その移行を象徴的に表すシンボルが『資本論』から『Mac Book』へのアイコンの変化だろう。

そういった意味では、今の時代の「文学-批評-哲学」をアクチュアルに理解しようと思ったら、やはりはあちゅう やイケダハヤトやほぼ日をちゃんと読まなくてはいけないのかもしれない。

とはいえ、マルクスは教条主義化されて二度死んだわけだけれど、あるいはジョブズも二度死ぬのだろうか。
それこそ『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を地で行く話ではある。

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的な事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度目は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として、と。


近年、批評的言説の衰退と再起動ということが言われる。

課題として、吉本隆明的な批評家の後継がきちんと継承できなかったのが問題であったのではないだろうか。
もちろん、多くの人に影響を与えている。高橋源一郎や中沢新一、宮台真司など。
しかし、今のところの1番大きな後継者(吉本隆明-試行を継ぐもの)は糸井重里-ほぼ日であろう。

一般的に、吉本隆明のテクストはあまりに詩的で読めないという批判がある。
けれども、人々に影響を与えるのは結局は広告やコピーライトであるという現実はあって、それを認めることのできない批評性とは何だろうか。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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映画『リバーズ・エッジ』を観る。

映画『リバーズ・エッジ』を観る。 Posted on 2018年3月18日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

現在から当時を遡行しつつ若者の心理を描いた作品として良かった。
ケータイ(PHS)の普及以前(1995年PHSサービス開始)、インターネットの登場以前(1995年が日本におけるインターネット元年といわれる)、オウム事件以前(日本社会のうわべとその精神病理が暴かれた1995年)の物語。

僕は近年のある種の映像には生々しさが欠けていると感じていたのだが(ここでいう映像はアダルトな意味でのAVも含む)、『リバーズ・エッジ』の映像には生々しさがあった。そこには、デジタルやPhotoshopやフォトジェニック以前の生々しさが描かれていた。生のコミュニケーション。生きてる感じ。

80年代は浮かれた時代だったと言われる。『なんとなく、クリスタル』、ポスト・モダン、MTV。
しかし、90年代、世相は大きく変わる。消費社会の神話と構造、社会システムのマンダラが切り裂かれ、破壊的な人々の生の感情(生と死が隣接したものであるというヒリヒリした感情)が溢れ出た時代だった。

当時は現在よりも清潔でない時代だった。川は臭く、タバコはポイ捨てし、空き缶を川に投げ入れた時代。公害やオゾン層の破壊が問題として語られた時代。そんな時代だった。(現在の方が実際にはより深刻なのかもしれないが。)
グランジ(薄汚い)シーンの、カート・コバーンが死んだ年。1994年。

このドラマは、そんな時代の若者たちが描かれる。むき出しの生の欲動、生の不安。若者たちのSEXも今とは異なる描き方をされる。Xvideosなどはない時代だ。ネットを介さない欲望の露出。タナトスと一体化したエロス。もちろん避妊もしない。生の性体験。

「生きてるって感じする?」インタビュアーに聞かれた二階堂ふみ演じる主人公は答える。「どちらかと言えば、生きてない。」
登場人物はみな生きづらさを抱えている。生きることは、SEXすること、食べること、愛し愛されて生きること。
いじめ、性的マイノリティ、摂食障害、家族の不和、届かぬ愛。

文字通りの生のコミュニケーション、ヒリヒリした関係、傷を感じ人を傷をつける状況はトラブルを生む。
それを通して、ある者は死に、ある者は生き残り、ある者は場所を変え、ある者は留まる。
もちろん、みなに避けがたく傷跡は残る。

しかし、時代は変わった。このドラマの設定された時代から、24年。およそ四半世紀が経つ。状況は変わった。
若者ですら、当時ほどのヒリヒリした感覚で生きているかはわからない。とはいえ、愛し愛されて生きることに飢え満ち足りない気持ちは今でも変わりはしない。たとえ、デジタルに容易につながれても。

あるいは、インターネットの普及以降発展したネット文化やバーチャルな価値観。例えば、多くの承認を集めるネット上の各種システムとプラットフォーム上のアイドル群。そのシステムの欺瞞と精神的な空虚さが暴かれ明らかにされるのは現在これからであろう。

この作品の時代は1995年にひとつのパラダイムを終える。
その後は、ケータイとネットと、ある種の相対主義とマイノリティに対するリベラルさが普及した時代だった。同時に哲学や精神性は死に、社会学と統計学的な思考が普遍化した時代でもある。

ところで、この作品の1995年までのパラダイムは1972年からはじまった。
大きな物語の終焉の終焉、ポスト・モダンのパラダイムの終焉が1995年であった。
1972年から23年。
なお、1972年にまでのパラダイムは1950年朝鮮戦争からの復興と高度成長までのパラダイムであろう。
そして、1995年から23年が経った。

とはいえ、あらためて思ったのは、この四半世紀に(ここ数年くらいかもしれない)性的マイノリティ(LGBT)に対する理解は相当変化したのではないか。

主人公二階堂ふみがゲイの少年山田に「入れる方?入れられる方?ローションとか塗るの?」と質問すると「クリトリス舐められるのと、中に指入れられるのどっちが好き?ゲイだからってSEXの質問するの失礼でしょ。」と返される場面にはハッとさせられた。

それはともかく、映像として熱かったのは、主人公二階堂ふみの彼氏が浮気相手のあそことあそこにヘアスタイル用のムースの缶を入れるという場面。劇場に響くカラカラという音。
まじか。ドン・キホーテとそのアダルト・コーナーが普及して良かった。
しかし、まじか。なんだかなあ。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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〈ガチャ-資本主義-ゲーム〉- 価値とルール –

〈ガチャ-資本主義-ゲーム〉- 価値とルール – Posted on 2018年3月15日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

ガチャ-資本主義-ゲーム

資本主義という名のゲームとオルタナティブ

ゲームのルールを変える

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哲学 – 賭け – 愛するということ

哲学 – 賭け – 愛するということ Posted on 2018年3月3日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

パスカルは神の実在に賭け、アインシュタインは神はサイコロを振らないと言い、カエサルは賽は投げられたと行動し、ハイデガーやサルトルは企ての中に身を投じることをエンドースした。

哲学的な認識と実践のあいだには決定的な亀裂があって、それらは二元論的に制御すべきで一元論的に統合することは出来ない。
しかし、認識と実践のあいだにある飛躍、死を覚悟した跳躍というのは?

それは、まさに賭けというものなのではないだろうか。

賭けは、人間にとって強烈で不思議な魔力を持っている。ギャンブラーであれば、赤のカードが5回続いた次には黒が来るのではないかと流れを感じ取ってしまうはずだ。
奇妙な話ではある。確率的にいえば、これからの出来事とこれまでの出来事には因果関係はない。しかし、人はそこに流れを見出してしまう。あたかも、ヒューム的な違和感というか、有らぬものをあたかも有るかのように感じるのだ。

ある意味では、人生自体、賭けと言えなくもない。もちろん、僕らはディーラーではないからほとんどの場合には、はじめから負け戦だけれど。

他者を愛するということも賭けである。
僕らに、彼女らの気持ちは解りえない。応えてくれるだろうか?あるいは裏切らないだろうか?
無償の愛ならどんな愛でも良いだろう。しかし、もし相手に求めるところがあるなら?

サルトルの言った、投企=アンガジェは、エンゲージ(リング)=婚約=愛するということと同じ語源である。
愛することは自らを投げ入れること、それは賭けと言わざるを得ない。

とはいえ、賭けというものは、状況把握と確率のコントロールと可能性への前進であり、それは主体性の問題であるといえる。
それはある意味では、コミットする機会を逃さぬことでもあるが、他方で良くないゲームは続けずにすぐに降りなければならない。

つまるところ、賭けで最も下手なやり方は、ロマン主義であることと冒険主義であることだ。
まずは、心を落ち着けて、クールにゲームを楽しむことだ。そのうちに流れも変わる。あるいは、チャンスが巡ってくるかもしれない。

君のゲームにボーナス・ライトが灯ることを願って。
Have a nice play !!

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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西洋コンプレックスとアジア的意識 – 近代/一神教/自由の意味 –

西洋コンプレックスとアジア的意識 – 近代/一神教/自由の意味 – Posted on 2018年1月27日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

最近、アジア的なものに関心がある。

基本的に自国や他国に対する強い思い入れはないのだが、なぜアジアについてとらえ始めたのかと考えているうちに、自分の中に強い西洋コンプレックスがあるのではないかと気づいた。
アジア人として生まれたことに対する、非西欧的であることへのコンプレックス。

一見すると、かなり奇異なことを言っているように思われるかもしれないが、やはり現在の世界は西欧中心の価値観で構成されていると考えていいのではないだろうか。

世界的なグローバル化はある意味で文化的なアメリカナイズという側面が強く、世界中どこへ行ってもある程度の都市ではSTARBUCKSやMcDonaldやGAPの店に出会うだろうし、道行く人々の手の中にはApple製のiPhoneかGoogleのAndroidのスマートフォンが握りしめられている。彼らが休日を過ごすのはローマ-イギリス-アメリカ起源のショッピング・モールだし、日記代わりに記録を残していくのはシリコンバレーで開発されているFacebookやInstagramやTwitterにである。

精神的にも経済にも、マックス・ウェーバーが語ったところの西洋におけるプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神に覆われたシステムの中に僕らは生きていると言っていいだろう。
そもそも、普段からジャケットやパンツ(ズボン)やシャツを着て生活し、ローマ字入力のキーボードを叩いているのだから、西洋化された世界に取り込まれていないと考えるのは難しいのではないだろうか。

正直に言えば、近代化以後の日本人の中には強烈な西洋コンプレックスがあったのではないかと思う。
福沢諭吉の脱亜論もある意味でそうだが、現在でもある中国・韓国・朝鮮への強烈なヘイトや反発の基底にあるのは、西洋コンプレックスそのものではないだろうか。
一方で、ある種のヒエラルキーの中で、彼らよりも近代化を先んじたから上にあるという不遜。他方で、伝統ある大陸の東洋文化を無知蒙昧で未開で下品なものとして見る態度。

強い一神教的西洋とか弱き多神教的東洋

とはいえ、西洋コンプレックスというのは、結局のところ一神教的理念を持たないアジア・東洋におけるある種の弱さから来るものではなかと思うのだ。
それは、近代化を確立し得たのが一神教的理念を持つ西欧(西洋)であったこと、いまだにその近代モデルの中に世界があるということから由来する。

もちろん歴史的には例外もあった。多神教的な世界観が良い結果をもたらすのかと期待された時代だ。

80年代は日本にとってはミラクルな時代でJapan As No.1/エコノミック・アニマルとしての経済的成功と、ポスト・モダン的な思想の潮流に後押しされた乗った時代だった。
それは再評価されたコジェーブがいったところのスノッブな形式主義な日本と、ロラン・バルトがいったところの空虚な中心としての皇居〈コーラ〉という言説が輝いて見えた時代だった。
それは、結局のところアニミズム-汎神論-多神教的なイメージにつながるものだ。その意味でスピノザ-ドゥルーズにも連なるものだった。

とはいえ、90年代になってみれば強力なリーダーシップ不在の日本企業は没落し、リベラル的な多様性の尊重と承認の言説からは結局十分な多様なる個人が満たされることはなかった。
加えて、21世紀は一神教 対 一神教の戦争からはじまって、現在は相対主義の反動から強烈に一神教的ともいえるポスト・トゥルース的状況に至っている。
これでは、多神教的なものに弱さを感じざるを得ない。


他方で、僕は現在この瞬間の中国という国に注目しているところがある。
それは、現在の中国の状況が80年代の日本とよく似ていて、大衆の時代精神としてはエコノミック・アニマル=爆買い、Japan As No.1=強い中国経済のようには見えるからだ。

とはいえ、中国はアジアの特異点で、一神教的なところが強い。
もともと、天-皇帝-王朝という天帝-天子による民衆とのある種の世俗化した信仰的意識が強い。それは、天-毛沢東-共産党という体制として今も受け継がれている。
アジア的に土着化されていて、帝国主義的だけれど、ある種の一神教であるのが中国という国だ。

今後、アメリカ-中国という西洋-東洋のコンフリクトが激化していくのは、まず間違いないだろう。
世界第1の大国としての西洋のアメリカと世界第2の大国としての東洋の中国の対立ともいえる。

ある意味で、かつて日本が天皇-西田哲学-近代の超克-八紘一宇-満州国で東洋代表として西洋文明に対抗していたことの反復のようにも思える。
中国にも勿論日本と同様近代化を先んじた西洋に対するコンプレックスは根強くあるだろう。
中国の政治的・経済的な成功によって、アジアは西洋コンプレックスを克服できるのだろうか。

アジアに自由と民主主義はあり得るか

シンガポールは「明るい北朝鮮」と呼ばれているらしい。それは、経済的に高度に発達しながらも独裁的な政治であることを示唆している。
ある意味で、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』が現実化された世界だといえるだろう。
それは、ジョージ・オーウェルの『1984』的な監視社会と揶揄される中国が経済発展の中で目指しているような世界像でもあるだろう。

最近、インド映画の『バーフバリ』を見た。
それは理想的な王の到来を描いた神話的超大作であった。
そこで思わず気付かされたのは、アジアにおいては民主主義という理念は現実味がなく、むしろ王→民という統治意識が強いのかもしれないということだった。

しかし、アジアの国々のそのような統治意識を単にアジアの未開性と切り捨てるわけにもいかないだろう。
アジア各国には、近代史的経験、ヨーロッパがそれぞれ闘争を通してリバティを獲得して近代化したのとは異なり、帝国列強の植民地であったトラウマの記憶があるのだ。

それゆえに、支配された経験のあるアジア各国が自由でリベラルな国民主権ではなく国家としての強固さ権力システムに有利な国家主権に重きをおくのは自然なことだろう。
例外はタイと日本だけだ。むしろ、例外的に被植民地ではなくむしろ列強であった日本、外交により難局をやり過ごしたタイも王国であったのである。

他方で、自由という言葉にはリベラル的なリバティという理念だけではなく、リバタリアン-自由主義-ハイエク的な(ハイエクはリバタリアン的ではないのだが)自由競争の自由という意味もある。
この自由の概念はアジアにも行き届いた。中国では改革開放の中でハイエクが大きな影響力を持ったらしい。

アジアの人々は権利としてリバティとしての「自由」は獲得できずに、西洋的「自由」競争の世界の中で生きているといえる。
未だ複雑な思いを抱えて生きざるを得ないだろう。

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アイデンティティとナショナリズム

アイデンティティとナショナリズム Posted on 2018年1月12日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

人間には否応なく認めざるを得ない暴力性というのがあるのではないか。
それは、ある種アイデンティティの維持と関わるものだと思われる。
暴力性は、他者を攻撃したり人を支配するという欲望と同質のもので、特に自己の危機において顕著に立ち現れる。


批評空間の「明治批評の諸問題」を読んでいる。
そこでは、日本語の言文一致はむしろ根本的に翻訳が起源だと書かれている。
二葉亭四迷のツルゲーネフ翻訳や漱石の翻訳的言文一致的な文章が起源だというのだ。

言文一致とナショナリズムは大きな補完関係にある。

ナショナリズムについて書かれた著作には、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』がある。
そこによれば、ナショナリズムが起因する近代国家〈ネーション〉は、成員が「共同幻想」を共有することによって成立するとされている。
アンダーソンは近代国家〈ネーション〉成立の要因を出版資本主義の発展に求め、新聞が〈ネーション〉の公用語の普及に大きな役割を果たし、世俗語の言文一致をあまねく至らしめるとともに「想像の共同体」の形成に大きく寄与したとする。

翻って日本の言文一致の起源を考えると、言文一致の翻訳起源を否定するような日本ナショナリズムがあれば、それは翻訳が起源の言文一致により生まれたナショナリズムによるという現象が起こるということになる。
これは奇妙なパラドックスではある。


ナショナリズムというものが求めるのは、ミクロコスモスたる〈私〉とマクロコスモスたるネーション・ステート〈国家〉の合一で、それはウパニシャッドのアートマンとブラフマンの梵我一如や、プラトンの一者合一と同じものであろう。
あるいは、ヘーゲル=キリスト教的な弁証法による神の国への救済。
つまり、救済だ。


ナショナリズムについて別の見方をすれば、近世以降、宗教国家から世俗国家へと権力による支配形態が変わる時に正当性として〈宗教〉から置き換えられたものが〈ナショナリズム〉の起源だろう。
そして、その後、正当性となるものは国家の論理〈ナショナリズム〉から資本の論理〈資本主義〉へと移行した。

19世紀後半から20世紀にかけて、上記の動きが行き過ぎた結果をもたらす。
20世紀は、それへの対抗としてソビエト型社会主義〈共産主義〉・ファシズム〈国家社会主義〉・ケインズ主義〈修正資本主義(国家資本主義)〉が台頭した。
そして、それぞれが20世紀の内に自壊した。

1990年代以降は、純粋資本主義の独壇場であった。
それは情報技術と交通技術の発展によりグローバル化を果たした。
あたかも国家や宗教は死滅してゆくように思われた。
しかし、グローバル化はむしろ紛争など民族同士の対立をもたらした。
そして、21世紀は宗教国家と資本主義国家との対立から始まった。

20世紀は、社会主義-国家 対 資本主義-国家のイデオロギーの対立があった。
21世紀は、イスラム-国家 対 キリスト教-資本主義-国家との対立から始まった。
あるいは、この時、宗教-資本-国家の結びつきが再接続されたと言われるのではないだろうか。

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日本語のエクリチュール/パロールと中国語

日本語のエクリチュール/パロールと中国語 Posted on 2018年1月12日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

少し遅れたが、すでに、2018年がはじまっている。
個人的には、今年、少し語学を学習しようと考えている。

これまでの興味の対象は概念であったが、ある種の言語的転回(展開)が沸きあがってきたというところだろう。
昨年わずかに英語・中国語・PHPを学習しはじめたが、今年はそれをどれだけ蓄積できるだろうか。

ところで、中国語を少し勉強してみて、とてもよくわかったのは、むしろ日本語についてで、日本語は書き言葉(エクリチュール)と話し言葉(パロール)がまったく別の流れを持った別々の言語だということ。
日本語と中国語は、漢字という共通の基盤を持つためエクリチュールは眺めればかなり内容の想像がつく。

しかし、にもかかわらず音声言語においては、相互に輸出入された単語はあるが、基礎的な音からまったく異なっていて学習しなければ聞き取ることができない。
考えてみれば、日本語は古代の漢字の輸入以前からあったわけで、音声言語としては別の流れにあるわけである。

中国語は構造的な性質を持ち、日本語は叙情的な性質を持つ。
古代、日本に輸入された頃から漢字は官僚機構によるシステム運用にりようされた。これが日本の書き言葉の始まりだろう。
他方、もともと存在した日本語は話し言葉としてそのまま残る。これが記録に残ったのは、詩、和歌においてだ。

平安の時代、遣唐使の派遣事業の終了と並行して、国風文化が栄える。その時、日本的な風土をもとにしたかな文字が生まれる。そういった意味では、ひらがなこそが日本的な日本語であろう。
源氏物語や平家物語などその後の文学に大きな影響を与える。

とはいえ、もののあはれを体現したような言語はあまりに自然でシステム運用には向かない。
そのため、ながく公用語としては中国由来の漢文が用いられ、漢文は江戸時代においてもヨーロッパにおけるラテン語のような教養の地位を占めていた。

ここから想像されるのが、近代における言文一致運動の不徹底だ。日本語は、書き言葉と話し言葉が一体となっていない。
これは哲学の構築にも影響を与えている。ドイツやフランスなど西洋おいては、日常言語と哲学書の文体が接続されているという。しかし、日本語はそうではない。

西欧における近代哲学の果たした役割を日本では文学や批評のシーンが担っていた部分が大きい。これは、日本語の言文の不一致ゆえ、構造と叙情性のはざまで揺れ動く言語であることにあるだろう。

そして、その由来は書き言葉と話し言葉の源流の違い、中国-大陸の漢字と日本-島の音声言語からなる言語であることにあるのではないかと思うのだ。

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現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』

現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』 Posted on 2017年12月31日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

2017年も残りわずか数時間となった。
今年は近年稀に見る激動の年であった。

アメリカではポピュリズム的な現象を背景にトランプ政権が発足、フランスではマクロンに敗れたがマリーヌ・ル・ペン率いる国民戦線が躍進。

ヨーロッパでは、イギリスのメイ首相がEUに離脱を通知、スペインのカタルーニャ地区は独立を宣言した。

中東ではイスラム国は事実上の崩壊。
しかし、アメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定したことから多数の抗議活動が起きている。

アジアでは、フィリピンのドゥテルテ大統領が麻薬撲滅キャンペーンを実施し超法規的殺人が行使され、マレーシア・クアラルンプール空港では北朝鮮の金正日総書記の長男である金正男が暗殺され、ミャンマーはかつての民主化運動の旗手アウンサンスーチーによる新政権のもとロヒンギャは混乱に陥っている。
そして、日本では飛翔体が定期的に飛び越えている。

他方、経済面は数値の上ではバブルとも思える好調であった。
世界的に各国の経済は軒並み好調、日経平均もかつて1992年のバブル崩壊前の水準に上昇。
また、仮想通貨の価格は10倍にも100倍にも高騰した。

そのような状況の中で、ひときわ存在感と彩色を放っていたのは一帯一路国際フォーラムや中国共産党第十九回全国代表大会を開催した中国であったかもしれない。
現在の中国は、かつてのソビエト連邦-第三インターナショナルや日本の夢見た満州国-大東亜共栄圏のような、東の中心・大国としての存在感を増している。


今年、自分にとって大きな影響を与えたのは前半は香港や台湾(中華民国)など東アジアを旅行したこと、後半は中国本土出身の女の子と友人になったことだった。

彼女は、ほぼ同世代の1988年の中国生まれ。僕らとは、その世界観・パースペクティブに大きな差がある。

一方で、改革開放と天亜門事件以後の社会主義市場経済とその発展の中で育った彼女には(実際には中国の同世代の彼ら・彼女らには)明るい未来が見えるだろう。
他方で、僕らは、バブル崩壊、オウム事件、失われた20年の中を生き、リーマン・ショックや年越し派遣村の報道を見ながら就職活動を行い、社会人になると東日本大震災や福島第一原子力発電所事故を見てきた。
それは見えるものは異なるだろう。

個人的な関係は、文化・制度・国家を超えたところにある。
はじめは好奇心、次には差異、次第に共感を抱くようになる。

その中で、今年はいくつか現代の中国を描いた作品を読んだり観た。
特に印象的だったのは、余華の小説『兄弟』とジャ・チャンクー監督の『山河ノスタルジア』だった。

余華『兄弟』

カンヌ映画祭で鮮烈な印象を残した張芸謀の『活きる』。
その原作者である中国文壇の気鋭、余華が十年ぶりに発表した長編小説『兄弟』は、中国に大議論を巻き起こした。軽薄! ソープドラマ! ゴミ小説! 文学界の猛批判をヨソに爆発的なヒットとなった本書は、文化大革命から世界二位の経済大国という、極端から極端の現代中国四十年の悲喜劇を余すことなく描ききった、まさに大・傑・作。
これを読まずして、中国人民(と文学)を語るなかれ!

1966年――文化大革命が毛沢東の手ではじまった。
隣人が隣人をおとしいれるこの恐怖の時代に、出会ったふたつの家族。
男はやさしい男の子を連れ、女はつよい男の子をつれていた。
男の名は宋凡平。子どもの名は宋鋼。
女の名は李蘭。子どもの名は李光頭。
ふたつの家族はひとつになり、宋鋼と李光頭のふたりは兄弟になった。
しかし、時代はこの小さな家族すら、見逃しはしなかった――。

『山河ノスタルジア』

第68回カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式出品!
『長江哀歌』(ヴェネチア国際映画祭金獅子賞)、
『罪の手ざわり』(カンヌ国際映画祭脚本賞)の名匠ジャ・ジャンクー監督最新作!
時代を越えて変わらないもの―母が子を想う気持ち、旧友との絆、そして生まれ育った故郷の風景。
その全てが愛おしくも哀愁に満ち溢れ、世界が賛辞を贈った壮大な叙事詩。

過去、現在、そして未来。ずっとあなたを想いつづける。

急速に発展する中国の片隅で、別れた息子を想いひとり故郷に暮らす母。
息子は異国の地で、母の面影を探している。
母と子の強い愛から浮かびあがる、変わりゆくこの世界。変わらぬ想い。

1999年、山西省・汾陽(ルビ:フェンヤン)。
小学校教師のタオは、炭鉱で働くリャンズーと実業家のジンシェンの、二人の幼なじみから想いを寄せられていた。
やがてタオはジンシェンからのプロポーズを受け、息子・ダオラーを授かる。
2014年。タオはジンシェンと離婚し、一人汾陽で暮らしていた。ある日突然、タオを襲う父親の死。
葬儀に出席するため、タオは離れて暮らすダオラーと再会する。

タオは、彼がジンシェンと共にオーストラリアに移住することを知ることになる。
2025年、オーストラリア。19歳のダオラーは長い海外生活で中国語が話せなくなっていた。
父親と確執がうまれ自らのアイデンティティを見失うなか、中国語教師ミアとの出会いを機に、
かすかに記憶する母親の面影を探しはじめる―。

現代の中国を描く2つの大河ドラマ

大きな意味では二つの作品には重なるところがある。

ひとつは、このどちらの作品も中国の現代を壮大に描いた大河的作品であったということだ。
『兄弟』は文化大革命〜現代までの中国の姿、『山河ノスタルジア』は1990年代〜2025年の中国の姿が描かれている。

中国の発展のスピードはヨーロッパや日本の現代とは異なる圧倒的な展開とスピードで歩みを進めている。その発展は、新しくより良い未来を手に入れるということは、しかし同時に、古いものを捨てることをともなっている。
この2つの作品の中で描かれるのは、中国の発展が勝ち取ったその栄光と古き良き家族との離別であった。
それはかつて、木下恵介監督が『日本の悲劇』で描いたような、ある種の悲劇である。

もうひとつ、この2つの作品に共通していたのは作品のモティーフとして三角関係が描かれていることだった。2人の男、1人の女。
2人の男は友人であるが、1人の女を同時に好きになる。強い男と、優しい男。女は最終的に強い男を選ぶ。(あるいは選んでしまう。)
言われてみれば、これは文学的にはよく見られるモティーフかもしれない。夏目漱石の『こころ』に見られる先生とKとお嬢さんの三角関係。村上春樹の『風の歌を聴け』や『ノルウェイの森』に見られるような三角関係。
そこで描かれる2人の男は「近代化・高度経済成長の時代」と「古き良き時代(ノスタルジー)」を表しているのだろう。

近代化や高度経済成長にはある種の喪失とノスタルジーが必要なのだろうか。
『山河ノスタルジア』のラストシーンはとても美しく印象的であった。
それでも、音楽は鳴り、人々は踊り続け、時代は流れる。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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「デザインフェスタvol.46」を訪れる。

「デザインフェスタvol.46」を訪れる。 Posted on 2017年11月11日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

「デザインフェスタvol.46」を訪れる。
日本人はシステマティックな抽象化された理論的思考のようなものが不得手とされているけれど、ある種の手芸や工芸のような領域では強さを発揮するような感じがあった。

近年のあいだに、オブジェクトという現代思想の潮流が話題になったけれど、これはある種の汎神論的な日本的精神にも接近するところがある。
モノに何かがあるという感じかた。
そのようなモノへの愛着、モノとの関係というものがデザフェスにはあった。

日本人の世界観は西洋のような創造主が構築した世界ではなく、生きた世界がまずありそれら細部に精神が宿っているという考え方だ。
それが人とモノとの関係を可能にする。

デザフェスでは一方で工芸品・手芸品のような細部まで丁寧に作りこまれたものがあり、他方ではキャラクターやイラストが多く展示されていた。
キャラクターは、少女・動物・ロボット・奇怪なもの様々だ。

ある意味それらはなんらかのシンボルなのだろう。
不思議なのは僕らがキャラクターに愛着を持ち、ある場合には恋心さえ抱くということだ。
そして、そのような愛情が製作活動や収集へと人を駆り立てる。


日本人がやるべきは世阿弥的なあるいは東洋の武道や舞踊や茶道的な身体論を理論化して、またものづくりやキャラクター的な造形力を活かして、芸者ロボや電気羊をつくることなのかもしれない。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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「座間9人遺体事件」から現代を思う。

「座間9人遺体事件」から現代を思う。 Posted on 2017年11月6日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

被害者の気持ちを考えれば言葉にしないほうが良いのかもしれない。
しかし、社会的な現実というのは現実に存在する。
座間9人遺体事件というのは、一見ただの猟奇殺人事件ではあるけれども、むしろ日本的現代的情況に来たるべくして起こった事件のような感じもまた一方にある。

システム内での閉塞感と抑圧による人々の疲弊,精神的衰弱。
それに対する救済の場の不在(かつて宗教やなんらかの共同体が担っていたような)。
ソーシャル・ネットワークによるつながりと承認的救済を利用した承認とは対極にある破壊的衝動。

そして、白石隆浩がキャスリーン・テイラー『洗脳の世界』を参考文献としていたこと。
これは22年前に話題となった、いまだ総括されていないあの事件の方法が流用されたものといえるし、それは統計的・AI的・恋愛工学的方法であろう。

だが、2016年の「相模原障害者施設殺傷事件」に続き、2017年に「座間9人遺体事件」に起きたという事実。
これを一部の単なる異常者による犯行と捉えるのか、ある種の時代的構造的無意識的に連関する問題として捉えるのか。

振り返れば2000年代の事件には、根底にルサンチマンがあった。格差社会、負け組、希望は戦争。
しかし、近年の事件はそれだけではないように感じるところがある。

弱者を犯行対象とした事件。あるいは、ヘイト・クライム。
これは近年のヘイト・スピーチに連なるものであろうし、近代理性の排除の構造とそれによるアイデンティティーの維持という根深い問題を考えさせられる。
ヘイト・スピーチ=ヘイト・クライム的なものと総括=ポア的な死へのイデオロギーが結びつく時。

虐げられた者たちが、さらにか弱き者たちを焼き尽くすささげ物として生贄にすることで、自己と弱者との差異を作り出し、超人的な超越へと跳躍しようという時代なのだろうか。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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『三度目の殺人』と僕らのエチカ

『三度目の殺人』と僕らのエチカ Posted on 2017年9月21日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

是枝監督の映画『三度目の殺人』は、真実はどこにあるのか?それを問うこと、真実から目を背けないことが描かれている作品であった。
だからこそ、エクリチュールとして法治国家の欺瞞的なヴェールをぬぐい去るところがあった。

他方、こうも思った。
僕がティーン・エイジャーの頃にこの映画と出会えていればと。
だが、理解できなかっただろう?そうかもしれない。

けれども、中高生や法学部に受かったばかりの学生に『三度目の殺人』を見てもらうのはアクチュアルな意味で教育的な価値があると思うのだ。

それはある意味でリーガル・マインドを捉えることであるし、エチカを理解することにつながると思う。

もし、彼らに語れるのであれば、僕は語るだろう。

僕自身は、真実やイデアや実存にこだわりすぎて、永遠的な完全な瞬間を求めたロカンタンのように何かを台無しにしてしまった気がしているから、老婆心として。


みんな、ごく自然に常識や正しさがあると思って生きているね?
だけど、現実にはそんなものはないわけだ。
複雑に絡み合った中で、それぞれ取引があって成り立っている。
世の中は嘘に満ちている。

この現実というのはそういった嘘でできたフィクション、作り話、そうゆう設定の中で生きているんだ。

だけど、確かに本当は本当の中にみんなは生きていないのだけれど、本当を目指せばそれでいいわけでもない。
本当を目指すと、何も無いところへ、善も悪も意味も無いところに行ってしまう。
そうすると、みな不安になるんだ。自信がなくなり無気力になり。もしかしたら自殺してしまうかもしれない。

あるいは、価値がないのなら人を殺してしまおうと思うかもしれない。
同じように、嘘をついて生きる人に怒りを覚えて殺意を感じるかもしれない。

にもかかわらず、人は実際に生きているし、心も体も痛みを感じる。
それが問題なんじゃないか。本当には、意味なんてないはずなのに僕らは傷つけあうことはつらいとわかっている。

じゃあ、どうすればいいのか。
昔の人は、それを自然状態からの社会契約によって乗り換えたのだけれど、同じように僕らも意味のないところから共存するための意味を作り上げなくちゃならない。
それが、法律やルールであって、それはもともとあったものではないんだ。
僕らが、ひとつひとつ意味があり役に立つ確実なものにしていくこと。それが必要なんだ。

とか、ブラー・ブラー・ブラー。
しかし、話すというのは反感を買う行為だから、誰かがエクリチュールとして描いてくれることを期待したい。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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フランス人間国宝展を観る。- オブジェの魔力 –

フランス人間国宝展を観る。- オブジェの魔力 – Posted on 2017年9月19日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

上野の「フランス人間国宝展」を訪れた。

フランス人間国宝展 http://www.fr-treasures.jp/
プレスリリース http://www.fr-treasures.jp/image/press_release.pdf

僕は、はっきり言ってブルジョア的な世界観を嫌悪するし理解できない傾向がある。
けれど、文化の国,絶対王政の国,カトリック色の濃いヨーロッパの中心国としての彼らの作るオブジェはたしかに人を包み込むような美しさを持っていた。

流線による曲線のフォルム、流麗な趣き、光の反射とともに漂う神秘性。

入念に加工の施されたその表面の繊細な美しさは〈神〉による自然の創造を思わせる。
その技術は〈神〉の模倣だろうか。

そして、表に見せる美しさの裏に充満されたエロス。
芳醇に香る官能。
それこそが、人を支配する魔術か。

つい、忘れがちなのだけれど、オブジェが持つフェチズム。
人は、物に、エロスを感じてしまうという事実。

物神崇拝。
人〈理性〉は物から自由になることはできない。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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映画『パターソン』を観る。

映画『パターソン』を観る。 Posted on 2017年9月18日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

これは日常を描いた映画だ。

何気ない日常、何気ない毎日、
小さな心の揺れ。
それでも大切な日常。
愛すべき人たち。

しかし、僕らは愛を失ったら、生きてはいけないだろうか?
その時、僕らは意味を失い、バラバラになってしまうだろうか?

何でもない日常。
そして、僕らは何者でもない。
せめて、詩人のように生きられたら。

“ニュージャージーのバス運転手”
しかし、それは詩的な響きではないか?

“俺 もう俳優だから”
まさに、そうだといえるのではないか?

すべての日が、すべての人が、すべての瞬間が、詩的な輝きで語られる可能性に満ちている。


最高に笑えるシーンは、バスの中での労働者風の2人の男の会話。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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映画『三度目の殺人』を観る。-『地獄の黙示録』あるいは反転のソクラテス –

映画『三度目の殺人』を観る。-『地獄の黙示録』あるいは反転のソクラテス – Posted on 2017年9月18日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

『三度目の殺人』を観る。そのモティーフは、あるいは『地獄の黙示録』の変奏のように響く。
そこには真実から目を逸らして欺瞞に満ちた世界を生きることへの批判が通奏低音として流れている。
役所広司演ずる犯人は、カーツ大佐、あるいは反転した裁かれるソクラテス〈ニーチェ〉。

福山雅治演じる弁護士は犯人にこう呟く。「あなたは器?」その空虚、無意味さは、実存的な『地獄の黙示録』と関わるところにある三島由紀夫の『豊饒の海』と重なるものがある。

あるいは現代社会/法治国家における存在の忘却、その欺瞞性を暴くものでもある。
‪満島真之介演ずる部下のギャルソン精神。‬
‪「生まれた意味のない人間などいない!」と叫んだ時の、あの歪んだ勝ち誇ったような表情。溢れるヒューマニズム。吐き気だ。‬

タイトルの『三度目の殺人』は、存在を忘却した欺瞞的法治国家による死刑を意味するところか。誰が、誰を裁くのか?本当のことには意味がないのか?意味がないとすれば、誰に誰を裁くことができるのか?
法治国家における価値・意味の最終審級としての司法。その欺瞞。何たる傲慢!何たる破廉恥!何と醜悪な恥知らずだろうか!?

広瀬すず演ずる少女はこう呟く。
「ここでは誰も本当のことを話さない。」
こことは裁判所を意味する?勿論そうだ。
そして、それは社会そのものを包み込んでいるのだ。

ソフィスト的存在であった弁護士は次第にソクラテス的犯人に惹かれていく。カーツ大佐に惹かれていくウィラード大尉のように。
そして、犯人と広瀬すず演ずる少女との愛はキリストの愛、罪を拭い去る救済であったのだろうか。それこそがプラトニックな愛なのか。

「だけど、それが本当だとしたら、良い話ですね。」
それはまた、ポスト・トゥルース的状況にある現代。相対主義が終わりを告げているところの現代を象徴するものでもある。

『地獄の黙示録』との違いは、またもや、「家族」というところだろうか。それは真実を持たない世界での人と人との結びつき、いかにして共同主観性を構築するかというところの問題でもある。主人公の言葉「理解とか共感とかいらないんだよ」その言葉が反射して重みを持ち跳ね返ってくるのだ。

‪1羽だけ逃したカナリヤは、パンドラの箱に残ったものと同じもの、希望なのだろう。‬

斉藤由貴の不倫疑惑やスキャンダラスな週刊誌に追いかけられているところを虚構と現実に重ねて語るのはゲスのやるところかと。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて –

『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて – Posted on 2017年9月17日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

時代が大きく変化している情況において、より大きな動きが見られるのはもっとも開発されもっとも進んだ先進国ではない。

むしろ、ある種のつまずきを抱えてその遅れを取り返そうとしている国において、大きな動きが見られる。帝国主義時代のドイツ・ロシア・日本がそうであったろう。

そして、今のロシアはまた同じようにつまずきを抱えて、それを乗り越えようとしている。
であるならば、これからの21世紀の相貌の一端がまた見られるのは、ロシアの現代思想からなのかもしれない。


現代思想としての哲学は、20世紀に取り残された1つの課題を抱えている。

それは、しばらくのあいだ忘れ去られていた課題、「近代の超克」の問題だ。

思想史的な現代の情況をみたてると、ヒューマニズムにより近代を超克しようという熱病が再燃しているのが現在だろう。

近代哲学の完成がヘーゲルだというのは意見の一致するところだが、そこからの超克を目指して19世紀後半から20世紀前半に展開されたのがニーチェやマルクス,ハイデガーやラッセルなどいわゆる反哲学=現代思想としての哲学だった。

19世紀の近代化された世界は問題を抱えていた。
それを乗り越えるために20世紀に企画・実施された壮大なプロジェクト、反哲学的な思想をふまえて近代の超克を目指して提起されたのが、⑴マルクス=レーニン主義によるソビエト型社会主義(共産主義),⑵ナチスなどのファシズム的な国家主義(国家社会主義),そして⑶ケインズ的な修正資本主義(国家資本主義)だった。

ざっと20世紀を振り返れば、上記の⑴マルクス=レーニン主義と⑵ファシズムが倒れたのは自明であった。
そして、現在は⑴・⑵の体制が崩れ去ったその後で、⑶の修正資本主義(国家資本主義)だけが残りはじめの意図を超えて爆進しているというのが実情だろう。

しかし、その課題をきちんと見つめ捉え返さなければいけない時が来ているのではないか。
そもそも、マルクス=レーニン主義やファシズムが現れたのは、ヒューマニズムからであった。
理性的な人間を中心とした近代的な思考と社会システムが、かえって人を疎外し抑圧するものとなる。その阻害に対してのノン、異議申し立てから湧き上がったのが、マルクス=レーニン主義やファシズムであったのだから。

それらがヒューマニズムから湧き上がったものであれば、現在の問題であるヘイト・スピーチやテロリズムの問題が、またヒューマニズムを源泉としていることは明らかだろう。
彼らは、本来的な人間のあり方を訴えるナロードニキでありボリシェヴィキであるのだ。

ヘイト・スピーチやテロリズムがヒューマニズム?ナンセンス!
確かに、ナンセンスと思われるかもしれない。
しかし、たとえば代表的テロリストとしての日本人、重信房子の言葉を引用してみよう。

“隊伍を整えなさい。隊伍とは、仲間であります。仲間でない隊伍がうまくゆくはずがないではありませんか”

届くならちぎれるまで手を差し伸べたい。

革命に向けて、同志たち、友人たち。燃える連帯を込めて、勝利の日まで。さようなら。

『週刊読売』1972年4月15日号 赤軍派アラブ代表 重信房子

見誤ってはいけないのは、彼らは単に憎悪に燃えた人間ではなく、抑圧されたシステムからの解放を願う本来的なあり方を求めるヒューマニストそのものなのだ。

そこでは右翼や左翼といったイデオロギーの方向は大きな意味を持たない。
個別具体的な事例ではあるが、重信房子の父親が血盟団事件に関わった右翼組織の門下生であったことは有名な話だ。
むしろ、「小さな親切運動」に熱心に取り組むような人情に篤い少女であったこと、このヒューマニズムが反転したところでテロリズムに至ったと考える方が自然なのだ。


だが、問題はロシアだ。
東方正教会の信仰とツァーリへの崇拝が一体となったヨーロッパの反動ロシア。大衆のためのインテリゲンチャ、ナロードニキによるテロリズムの国ロシア。
そして、レーニンにより領導され理想のユートピア国家ソビエトを建設したロシア。

そのユートピアの夢はスターリンにより悪夢へと変わる。ディストピア国家、赤い帝国。
しかし、ソビエトは70年間でその歴史を終える。
後に残ったのは、意味も価値観も何もない戦後思想のような、フロイト的超自我としての父を持たないロシアだった。

「ゲンロン6」 共同討議で感じたのはある種のイデオロギーと神秘主義の国ロシアだった。

ロシアにおけるイデアとマテリアルの結びつき、象徴的なものの壁を突破して聖なるものに触れたいという欲望、あるいは父のいないロシア=カルフォルニア的な神秘思想。

しかし、これは、どこかで見たような景色だ。
オウム真理教の身体への直接刺激による超越への跳躍、捨てられた子供としての教祖・麻原彰晃と繋がるものを感じるのだ。
1995年の事件、20年以上前の話だ。
今では、95年をめぐる心暖まる伝説のひとつに過ぎない。

これはオウム以前の類似現象としての連合赤軍。1972年のあの事件にも似たものを見い出せる。
あのリンチ事件も単なるヘゲモニー争いからの暴力ではなく、森恒夫による「殴ることによる総括。殴られ気を失うことにより、次に目覚めた時に共産主義化された人間として生まれ変わる。」という超越への跳躍だった。
そして、父なき時代、丸山眞男が殴られる時代の帰結だったのだ。

“暴力を包み込む保護者不在”

たが、これも今では些細なことかもしれない。
結局のところ、それらは、エルンスト・レーム率いる突撃隊のように、あるいは北一輝と二・二六事件のように時折歴史の舞台の上に現れる何かなのだろう。

だが、乗松享平さんの「敗者の(ポスト)モダン」にもあるように反体制的ナショナリストとソ連の「ロシア性」が結びつく様相、哲学者アレクサンドル・ドゥーギンとラディカルな若者たちの動きはあるいは同じような構図にも見える。1930年代的な様相。本来的なあり方を求める志向性。一気に革新に進もうというそのラディカルなスタイル。
反復される普遍性だろうか。
しかし、本来的なあり方があるなら、非本来的とされるあり方は?ここでは、言うまでもなく、米国式リベラリズム=グローバリズム=リバタリアニズムだろう。

新たなる本来性の物語

しかしながら、本著の特集の中心とされているアレクサンドル・ドゥーギンの思想は確かに人を納得させ魅了するだけの力があるのではないか。

そのチャート式やポストモダン的なスタイルはわかりやすく、またブラヴァッキーのような神智学的な世界認識は、世界に対して違和を抱いているものに真実を与えるものだろう。

他方、ザハール・プリレーピンは、戦後何もないところの虚無主義から舞台で演ずる役者となった三島由紀夫の再来のようだ。

流石に世界文学の国のポスト・トゥルース・ストーリーといって良いように思う。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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『サルトルの世紀』から考える。 – ハイデガー問題メモ –

『サルトルの世紀』から考える。 – ハイデガー問題メモ – Posted on 2017年9月10日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

『サルトルの世紀』という本を読んでいる。
サルトルと20世紀、その時代と思想について書かれた本だ。
注釈を抜いて全体で800ページ、まだその3分の1程度を読んでいる段階なのだが、第1章「世紀人」の末は50ページばかり「ハイデガー問題メモ」としてハイデガーの思想とその問題について描かれていた。

ハイデガーについてのテクストを読んで思うのは、ハイデガーの思想のその危険性というのは両義的であって、その危険はむしろ僕らが求めなくてはいけないところにあるということがある。
それは、本来的なあり方・非本来的なあり方という考え方だ。


三島由紀夫は昭和45年に以下のような文章を残している。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」

三島由紀夫もまた本来的なあり方を求めた作家だった。


ポピュリズムや全体主義は闇の中から登場するのではない。むしろ、希望として、光としてあらわれる。それは、非本来的な現状を切り崩すものとして、本来的なあり方を再建しようとあらわれる。
問題はその現れ方が、本来的なあり方を生きる者としての改革者と、非本来的な大衆に分別されることだ。

吉本隆明は「大衆の原像」という言葉を語っていた。それは統整的理念であって、そのあり方は示されてはいない。それを構成的理念として普遍的なものとして表現することは難しい。あるいは、東浩紀の「観光客の哲学」というのも近いところを示すものだろうか。

大衆にとっての本来的なあり方、他者を非本来的なあり方であると糾弾する必要のない本来的なあり方を示すこと。
たとえば、サルトルの「自由」の哲学は最終的に滑稽に見えるものとなり、ポストモダンの「逃走」の哲学は疲弊してしまったが、しかし、そのような思想のアップデートが要請される。

ヒューマニズム/反ヒューマニズムの問題と現代

ヒューマニズム/反ヒューマニズムの問題は現代における非常に大きな問題だと思う。

振り返れば、僕らはヒューマニズムの危険性について、もっと真剣に考えているべきであった。
けれども、たとえば、ソビエト問題,ナチス問題,連赤問題,オウム問題など、僕らはそれらを総括できていないのではないか。むしろ、こう決めつけてはいないだろうか。彼らは、頭がおかしくなっていて、あるいは頭のおかしな人間に操られてしまったのだと。

現代における問題は、もちろんヘイト・スピーチや移民排斥などにつながってくるものだ。
もちろん、そこには経済的なあるいは治安など社会的な問題も含まれてはいる。しかし、より深刻な問題は、ヘイト・スピーチや移民排斥を訴えている人々はむしろそれがあるべきあり方、ヒューマニズムに根ざしたもののあり方だと考えて行動をしていることだ。
ましてや、システム,権力者,ブルジョアが火の元だと断言するのは陰謀論的な何かであろう。

さらなる問題は、リベラルと称する人々が、ヘイト・スピーチなどを行う人々の思考・行動を、単なる悪、非ヒューマニズム的なものとして対抗していることだ。彼らが戦っているのは、非ヒューマニズムではない。それらは、ヒューマニズム的なものの現れだ。であるならば、それらに対して、ヒューマニズムを武器として戦うのは有効なのだろうか。それこそ、「神々の戦い」のような「ヒューマニズムの戦い」になるだけだろう。

ヒューマニズムの暴走に対抗する武器。すると、問題は、反ヒューマニズムをどこから取り出すかということになる。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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映画『ハンナ・アーレント』を観る。

映画『ハンナ・アーレント』を観る。 Posted on 2017年9月10日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

誰もが見るべき作品というものがある。
これは、そのような作品だ。

ナチ高官の裁判とそれを傍聴するドイツ系ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントを描いた映画。
だが、これはあるべき裁判だろうか?被害者としてのイスラエルのモサドが被告を誘拐して絞首刑にする?
400万人〜600万人のユダヤ人を死に追い込んだ行為。死刑は当然か。
しかし、それは当人の意思によるものではない。それを、誘拐して死刑を宣告する。
果たして、それが正義だろうか?

被害者と加害者、中立な立場であろうとする者が見る世界がそれぞれどれだけ違うものなのか。
世界は、僕らの意識の外に、客観的な世界を備えているわけではない。一人ひとりが、その立場により、まったく異なる世界を見ている。
少なくとも、客観的に捉えようとすることができるのは、尋常ではない哲学者だけである。それは冷酷無比なものの見方だろうか?被害者の気持ちを踏みにじる行為?

同じ哲学者の映画でも『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』のようなロマンティシズムはまったく見られない。
同じユダヤ人の友人たちはアーレントによる裁判傍聴の記事が公開されると、苛立ち怒り離れていく。
アーレントは語りかける。
“1つの国を愛したことはないわ。私は友人を愛するの。”
背を向けた彼らが振り向くことはない。

史実に基づく、現実的な内容であり、深く、果てしなく重い。

人にとって、事実や歴史の意味とは何だろうか?
そして、誠実さとは何か。
ノンフィクション映画として、ただ見る必要がある作品である。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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2017年はまさに〈不倫〉の年である。

2017年はまさに〈不倫〉の年である。 Posted on 2017年9月9日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

2017年はまさに〈不倫〉の年である。
テレビ,週刊誌,ネットニュース,人々の噂話は〈不倫〉の話題で埋め尽くされている。
新聞を取っていないからわからないのだけれど、まさか新聞にはと思うが、どうだろうか。

〈不倫〉はとても人気のあるコンテンツである。
あるいは至上の最良のコンテンツかもしれない。
人々は〈不倫〉に対して憧れと憎しみとアンビバレントな感情を持っているのだろうか。
〈不倫〉の話題になると場の空気や議論が沸き立つ。
〈不倫〉ほどスリリングでわくわくするような話題はないだろう。

しかし、人はなぜ〈不倫〉するのだろうか。
すべての人とはいわないまでも多くの人が、冒険をしたい,快感を味わいたい,〈不倫〉をしたいと思うのだろうか。
いったい、どのくらいの割合のひとが〈不倫〉をしているのだろうか。
どのような人が、どのような過程で〈不倫〉にいたるのだろうか。
何のために、何を求めて。何を満たすために。

僕らのまわりにも〈不倫〉をしている人がいるのだろうか。
それは隠されているのだろうか、自明となっているのだろうか。
また、もともと〈不倫〉をするような人は欲求が強いのだろうか。
そうではなく、人はいつからか〈不倫〉をするように変わるのだろうか。
つまり、〈不倫〉をするようなタイプの人というのはいるのだろうか?
そして、結婚相手はどうせこの人はそのうちに〈不倫〉するなと想像しながら、しかし、それも含めて結婚をしているのだろうか。

あるいは、運命的な情況が〈不倫〉を生み出すのだろうか。それとも退屈だから、退屈しのぎに〈不倫〉をするのだろうか。もしかすると、〈不倫〉は一般的に〈不倫〉と呼ばれるようなものではなく、磁力の強い恋愛なのだろうか。落ちるような恋?

もし、多くの人が自然に〈不倫〉を求めてしまうとしたら、はたして非難されるべきなのだろうか。
もちろん僕は〈不倫〉を擁護するべき立場にはいないし、僕自身も〈不倫〉をしないだろうけれど(なぜならば結婚をする可能性が低く、かつそれほどの欲求もニーズも自他ともにないだろうから)、しかし、仮に、〈不倫〉をしたものは石打ちの刑などという情況になったら、僕は〈不倫〉を擁護するだろう。さほどの罪ではないと。しかし、〈不倫〉をされた立場からしたら〈不倫〉は死刑に値するものだろうか。

考えてみれば結婚というものが契約=共同幻想=仮象であるのだから、〈不倫〉はまた仮象にすぎない。

それは、人に怒りや恐れを起こす力のある仮象なのだろうか。
それは婚姻がアイデンティティに結びつくものだからだろうか。それとも、自己を他者を結合・統合することが婚姻ならば、それが統合されなかった、裏切られたことに人は傷つくのだろうか。あるいは世間を気にして怒るのだろうか。

〈不倫〉という言葉だけで、人はなぜここまで想像力が広がるのだろう。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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〈都市教養〉というキーワード=コンセプトについて

〈都市教養〉というキーワード=コンセプトについて Posted on 2017年9月9日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

よくわからない名称の大学や学部というのがある。
例えば、首都大学東京にある「都市教養学部」がそうである。
「都市教養学」とは何か?あるいは「首都大学東京」という名称をファルスのように感じる人もあるかもしれない。
これは都政の改変にもとづいてつけられた名称だ。その名称には疑問の声も多い。
そして、今現在、それらの名称は変更が検討されているという。

しかし、あらためて現在という時代を眺めてみれば、今の時代に本来的に必要なのはまさに〈都市教養〉というキーワード=コンセプトではないだろうか。
そして、これは学的な分野ではなくもっと普遍的に志向されるべきキーワードだろう。

「教養」とは?それが社会に出た時に役にたつだろうか?経済性は?
「教養」という言葉自体、すでに批判の対象だろう。
古典的な「教養」が古くさいもの,ホコリを被ったもの,無用の長物,賞味期限切れ、これは確かにそうだ。自明である。
必要のない役に立たない教養こそ重要だという議論など欺瞞に過ぎない。

では、「教養」は不要なのか?そうではない。
もし、行動や信仰をむしろ良きものとする反知性主義の道を選択するのであれば、僕らは20世紀からすら何も学んでいないし、近代を超克することなどできやしないだろう。
むしろ、僕らは近代に培ったものを20世紀の経験をふまえ止揚すべきではないか。

では、それはいかにということになる。
現在をながめ未来を志向した時に、経験としての過去を振り返り、僕らの抱えている課題はなんだろうか。
移民問題やヘイトスピーチ、多文化共存やLGBT、テロリズムや観光、ブラック企業の労働問題や「日本死ね」問題。ポストモダンの末に消えゆく地域性。

僕らが抱えているのは都市の問題である。
世界は都市化している。地方ですら都市化している。
イオンを見てみればわかる。スターバックス、GAP、ルイヴィトン。東京,大阪,台北,香港,ニューヨーク,ロンドン,ミラノ,バンコク,リオと何が違うだろうか。
僕らはどこにいてもすでに都市にいる。

であるならば、僕らは都市の問題を真摯に見つめ、移民問題やヘイトスピーチあるいはテロの時代の次の世界を想像するべきではないか。
そして、そのために使うのは統計学やAIだけではない。
むしろ、歴史的な経験に裏打ちされた「教養」こそが強度をもった道具となるだろう。

もちろん、教養そのものを具体的な計画や方法論として形作ることは難しいかもしれない。
しかし、仮にそうだとしても、少なくとも「政策=都市政策=総合政策」の基礎あるいは前段階理念としての〈都市教養〉の価値は否定すべきものではないだろう。

なお、〈都市教養〉の対象とする問題は明確で、それは他者(自己ではないもの)とどう生きるべきかという問題に限りなく接近したものだろう。
それは、社会問題としては、移民問題,多文化共存,格差,労働問題,都市犯罪,テロリズムとして現れる。
それらとどのように接するのかというのが問題であり、これらを拒否するという反応をとるのか、あるいは受け入れるのか。もし、受け入れるとすればいかに受け入れるのか。

しかし、この問題の根深いところは社会的な現実がある一方、これらがアイデンティティや承認欲求の問題と深くかかわってつながっているということで、それこそが宗教やイデオロギーに偏りやすいところだ。
だからこそ、歴史や文学あるいは思想史的な展開など教養的な諸成果の上に立つ必要がある。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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台湾を旅行する。- 中華民国台湾省台北市的小旅行 –

台湾を旅行する。- 中華民国台湾省台北市的小旅行 – Posted on 2017年9月1日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

8月24日から8月28日にかけて、台湾を旅行した。
台湾旅行を振り返ると、文化あるいは歴史的な流れにおける気づきが大きかった。

また、この旅は4泊5日だったのだけれど、予想していたよりも台北は大きかった。
旅の全体像は、以下のような日程であった。

前日深夜から羽田空港で過ごし、LCCのタイガーエアで05:30に離陸。
1日目、西門駅周辺の昆明街にあるホテルに到着。龍山寺周辺や台湾総督府周辺を散策。
2日目、世界三大博物館の故宮博物館や誠品書店をめぐる。夜は士林夜市を散策。
3日目、鼎泰豊の本店で食事、夕方からは九份を散策、台北101 にてナイトビュー。台湾式マッサージを試す。
4日目、夏休みらしく白沙湾のビーチで過ごす。足裏マッサージを試す。
5日目、昼過ぎの便で帰宅。日常に戻る。

香港旅行のように気軽な散策という感じでは十分ではなく、満喫するにはもう数日いてもよかったように思う。

正統なる「中国」としての台湾

台湾は思いのほか中国であった。あるいは、失われた故郷としての中国であった。
そこには、連綿と連なる中国王朝とその芳醇な文化の香りが漂っていた。
そして南国の風土がそのその香りを包んでいた。
台湾は、彼らからしてみれば、むしろ正当なる中国である。

故宮博物館では、古代王朝から受け継ぐ文化が語れていた。そこでは漢民族の歴史だけではなく、モンゴル民族国である元や満州民族の国である清の歴史も多く語られていた。
また、その歴史の流れと強く結びつきながら語られていたものは仏教についてであった。古来、中国は仏教が大盛した国であった。

特に、自らの解脱だけではなく他者の救済をもふまえた仏教、衆生を救おうとする菩薩の御心を示した大乗仏教は中国で大きく栄えた。
そして大乗仏教は各王朝の皇帝の治世と結びついたのではないだろうか。台湾には数多くの仏教寺院が存在した。もちろん中国らしい、道教に影響を受けた寺院であるが。

それら寺院で目を引いたのは、多く関羽や孔子あるいは道教の神々や帝が同時に奉られていることであった。
台湾には多くの宮も存在した。宮とは帝を祀る宗教施設である。

日本では、古来から天皇と仏教との繋がりがあった。
また、春日大社など数々の神道と仏教が結び付きながら神仏習合を果たしていたといわれる。

しかし、日本のそのような文化はまったくのオリジナル、東方の僻地のガラパコス・カルチャーではなかったようだ。
中国においては、仏教は道教と結び付きながら受容され、また儒教と結びついた王朝文化がまた、皇帝による大乗仏教的な治世として仏教と結びついていた。
それが文化の中心、中国だった。

博物館では、中国の文化としての仏教は、インドのみならず密教で有名なチベットやその興隆地モンゴル民族の文化と結びついていることが語られていた。
くしくも、それらは中国共産党から弾圧され対抗した地域であった。

他方、台湾(中華民国)を見ると高砂族の存在があった。
彼らは音楽の音色で農耕作物をねぎらう優しい原住民であったという。
台北も中心地から少し離れると(といっても台北は東京で暮らすわれわれのイメージよりもはるかに広い)、高砂族だろうと思われる日に焼けた素朴な表情の人々ともすれ違った。

台湾と日本

しかし、振り返れば明治28年(1895年)、日清戦争の後に交わされた下関条約により日本は台湾を領有していた。
時代は帝国主義の時代であった。

1919年に完成した台湾総督府は現在も公務で使用されている。
総督府の周辺にはいまだに当時の面影を残す建物が多く建ち並んでいる。

また、かつて日本軍が使用していた軍事施設は、現在では中華民国国軍により利用されている。
ガイドの男性によると懲役の任期中にはこのような怪談話も囁かれるという。
“夜中見廻りをしていると軍靴の音が聞こえた。”
“見廻り中に居眠りをしてしまったら、上官らしき声に日本語で怒鳴られ起こされた。”

総督府付近を散策しながら商店街の中で趣のある寺院を見つけ入ると意外にも空海が祀られていた。
西門駅周辺にある台北天后宮である。
ふと、その像を眺めながらカメラのシャッターを切っていると日本語で人の良さそうなおばあさんに話しかけられた。

彼女は昭和4年生まれ、現在88歳。かつて、日本が統治していた時代に国民学校に通っていたという。
あまり普段は話さないという日本語で語る彼女は、そこはかつて弘法大師を祀っていた日本の神社であったと語った。
第二次大戦後、台湾を統治した国民党によりその寺院は改められ天号宮とされたという。

中国国民党の台湾

国民党はその後、国共内戦で中国共産党との戦いにより台湾に撤退することになる。
台湾や国民党といえば、孫文というイメージがあったのだが、蒋介石も国民党の党首として語り継がれているように感じた。
硬貨の絵柄を見ると、50元や10元は孫文、10元と5元,1元は蒋介石の肖像が描かれていた。

また、国民党の歴史も見たいと思い国軍博物館にもいったのだが、記念展設営の改修のため休業であった。また機会があればよりたいものだ。
台湾には、現在でも徴兵制があるということだ。
街中にはいくつも軍警用品店というミリタリーショップがあった。
また街中に、監視カメラが設置されていた。

陶磁器と漢字の文化

故宮博物館では、仏教のほか陶磁器と漢字の文化が大きく取り扱われていた。
中国の文化のたよらかな風合いは、この陶磁器と漢字の文化によるところが大きいのではないか。

陶磁器は、古代から続く代表的な工芸・芸術である。
それらはもちろん職人が作るのだが、それはあまりに自然な雰囲気を持っている。
陶磁器はあくまで土であり、泥である。それを捏ね、造形し、焼き、色合いをつける。
しかし、それらは土であり、形を崩せばいずれそれらは土に戻るであろう。
われわれもまた、土であり泥である。われわれもまた、土に戻る芳醇な自然の一部の存在であるのだ。

あるいは、漢字文化。それらは、ラテン語やギリシャ語から影響を受けているヨーロッパの言語とは大きく異なる。ヨーロッパの言語は表音文字である。たとえば、ローマ字には1文字1文字には意味がない。デリダが批判したように、ヨーロッパの言語は音声中心主義であり語りを中心に作用する。

言いかえれば、ヨーロッパの言語には読み手による解釈の幅、遊びの要素が広くない。
きわめて論理的なのである。
他方、漢字文化はもともと象形文字由来の表意文字である。
それらは、1文字1文字がシンボルでありなんらかを象徴し表している。
他方、それゆえにそれらには厳密な論理構築には適さない。

それはこういう風にも言えるだろう。漢字はシンボリックなメタファーの遊びであると。漢文の古典を考えてみればあきらかだが、それらはいくらでも解釈の余地がある。しかし、それゆえにそれらは芳醇なのである。
それらは、論理により語り尽くすのではない。語りと語らぬ中に、別の語りを含むのだ。

それから

その他、色々と過ごした。
誠品書店ではカバーがリデザインされた洋書を買った。
白沙湾では地元の女子高生と男子たちの戯れと日差しに目が眩んだ。
士林夜市ではその喧騒のムードに飲まれたのかストリート風のTシャツとキャップを買ってしまった。
九份帰りの相乗りタクシーではサンフランシスコ出身のバリーと仲良くなった。
女の子たちは、みんな可愛かった。

女の子がみんな素敵な台湾ガールならね……。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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存在探求のためのメモランダム/言葉をめぐる冒険/浮遊への逃避行

存在探求のためのメモランダム/言葉をめぐる冒険/浮遊への逃避行 Posted on 2017年8月17日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

存在探求のためのメモランダム

ハイデガーの『存在と時間』を手にしている。

古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することをめざしている。

ハイデガーは言う。「哲学や形而上学の本来問うべき問いは『存在とはいかにあるのか?』ということである」と。

けれども、これは単に論理形式上あるいは実体化された「有・無」や「揺らぎ」としての「存在」ではない。
むしろ、「在り方」への問いであるし「有意味とはいかなることか?」という問いである。

もし神がいないのならば、全てが許される。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』イワンの台詞だ。

もし神がいないのなら 実存が本質に先立つ。

このような言葉でサルトルは語った。

あるいは三島由紀夫の「豊饒の海『天人五衰』」のラストシーン。

しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば……それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。……


近代はルネッサンスの人文復興が嚆矢となり、神との決別からはじまった。
しかし、だからこそ、デカルトは神の存在証明を行なったし、カントは理論理性によってはいかなる方法によっても神の存在証明はできないとしながらも道徳・実践的見地から神の存在を要請した。
ここで言う神は多神教の神ではない。それは一神教のGODである。
神はこう言いかえることもできる。神‹創造主›=客観=絶対法則。

ふりかえれば哲学の歴史はギリシャ悲劇のようであった。
プラトンからはじまりヘーゲルに至る形而上学の神殿はくしくもその根底から崩れさった。
アポロンの神殿はディオニュソスの叫びに飲み込まれた。
潮騒香る風景はその景色を一変させる。

その上、ひょっとしたら、この私ですらも…。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった。

などてすめろぎは人間となりたまいし

神は死んだ。

他方、神なきユダヤ人のマルクスやレーニンは、客観的でもっとも正確な科学や歴史を信じた。
自由で自律した人間のユートピアを夢みて。
そして牧師になるという母の夢のために神学信徒であったスターリンも、神を棄て共産主義に傾倒する。

ブハーリンは呟く。

コーバよ、なぜ私の死が必要なのか?

言葉をめぐる冒険

村上春樹の『羊をめぐる冒険』の羊は、西洋哲学・現代思想の言葉でいえば「形而上学」そのものなのだろうと感じている。
人に幻想を抱かせ操るもの。

だからあの物語は『言葉をめぐる冒険』と名付けることもできる。

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね

形而上学の果てともいえる「1960年代」近代の終焉に起こったのが若者たちの”知性の叛乱”だった。
それは形而上学=哲学=理性を、=現実たらしめるための進歩主義的革命だった。
しかし、「僕」はその中で彼らイデオローグたちの「言葉」の欺瞞に気づき、それとの闘争/逃走を開始する。

村上春樹と同世代、全共闘世代の小阪修平は言っている。

同世代の一番優秀な奴は滅んだか、半ば廃人になった

「羊抜け」だ。

小阪修平もなかば離人症のようになったという。
誰もが、語る言葉を失った。

歴史の終焉、革命の終わり、宴の後。
1970年代はさめざめとした殺伐とした風景を思わせる。

1970年「よど号ハイジャック事件」、1971-1972年「連合赤軍事件」。
文化面では、1972年『木枯らし紋次郎』、1973年『氷の世界』、1974年『傷だらけの天使』、1975年『僕たちの失敗』、1976年『いちご白書をもう一度』。

イーグルスによる『ホテル・カルフォルニア』が歌われた次の年、「ダッカ日航機ハイジャック事件」の翌年、1978年に村上春樹は処女作『風の歌を聴け』の執筆を開始する。

その小説は、歴史の終わり=観念の王国の崩壊=羊が離れた年、1970年の8月8日からはじまる18日間の物語だった。

浮遊への逃避行

僕はむかしから幻覚にすごい関心を持っていて、それは世界の認識とか在り方と係わっているものだと思っている。
そして、オルダス・ハクスリーやティモシー・リアリー、ヒッピー・ムーブメントはそれを予見したものであったのだろう。

ところで、看護師の姉から聞いたのだけれど、手術後、人は一般的にせん妄を抱く傾向があるらしいという。
そういう意味では、人間の意識というのはきわめて不安定で浮遊したものだと思う。

この意識の不安定さというのは本来ぼくらが世界とつながりを持つ上で忘れてはいけないものだと思っていて、この浮遊を捨てて理性(論理)による固定に偏るとある種の抑圧や理性の暴走につながるのではないかと考えている。

だから、この意識の不安定さというものこそが、ヒューマニズムそのものといえるだろう。

また、 この意識が浮遊した意識状態というのは経験≒論理による既成概念の固着をなくした状態、エポケーに近いものではないだろうか。
そして、その状態において、身体性に重心をおいて捉えればヨーガになどにつらなるものとなり、他方言語的な方向に重心がかかれば詩的なものになるのだろう。

それは、ある意味でポスト・モダンが思い描いていた状況によく似ているものではないだろうか。
かつて解放区で行動していた小坂修平は、そのポスト・モダンの重みを後年語っていた。

しかし、欲望は、リゾーム化したバベルの塔を夢視たいのだ。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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「幽霊的身体」から考える – 『ゲンロン5』「視覚から指先へ」 梅沢和木×東浩紀 トークショーを観る。

「幽霊的身体」から考える – 『ゲンロン5』「視覚から指先へ」 梅沢和木×東浩紀 トークショーを観る。 Posted on 2017年8月7日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

青山ブックセンターでのゲンロン5の幽霊的身体イベントに参加した。
『ゲンロン5 幽霊的身体』は、演劇や絵画など表象文化論をテーマにした本であった。

イベントでは、梅ラボの梅沢和木さんと東浩紀さんによるトークが聞けた。
話題の中心は、身体というよりは視覚であったかもしれない。
いや、むしろ、僕はそのような視点での解釈をして、会場から楽しみを得た。

視覚について

東さんは、視覚がその物質的な速度の影響などもあり他の感覚器とは異なるという話をし、加えて視覚は多く脳により補完されているという話をしていた。

視覚が他の感覚器と異なる、特別な感覚器であるというのは、どういうことだろうか。
それは、フッサールの志向性と関わるものだろうかと感じた。
たしかに、視覚は状況を静的に受容しているわけではなく、フッサールのいうところの志向性から対象を捉え、その後対象から得た印象を1つのゲシュタルトとして表象に描いていく。
それは、単に(経験論的に)外部の刺激を受容しているわけではなく、むしろ描くべきものを選択し表象を形成しているといえるのかもしれない。

また、哲学的に視覚は大きな意味があるという話があった。
これは個人的な印象なのだけれど、客観=ヘーゲル=ロマン主義、主観=ハイデガー=実存主義につながっているような気がしている。
歴史的には、それらが入り交じった時、ある種の狂想曲が響いたのではないだろうか。

あるいは、主観・客観以外の視点があるとすれば、第三の視点はどのように表現されるものなのだろうか。

第三の視点は、一方には主客両者を持っている視点、他方には両方を持っていないと考えられるが、むしろ主客が未分離の視点なのではないか。
無意識が世界を見ているような、夢のような。

というよりも、実はそれは視覚ではなくそしてゆえに視点と呼ぶべきではないのだが、感覚が統合されあるいは記憶によって、あたかも視覚であるかのように想起されてしまうということではないか。

主観と客観 – あるいは「視点」について –

「主観と客観」問題は、近代哲学が抱えていたアポリアだった。
デカルトからはじまり、ホッブズやヒュームのイギリス経験論、ドイツ観念論のはじまりとなるカント、現象学を生み出したフッサールまで、「主観と客観」は認識論の難問としてある。

「主観と客観」について「視点」というパースペクティブから考えると、やはりまず客観それ自体の存在が懐疑される。
主観を離れた視点が存在するだろうか。世界を眺める、眺められた像は主観に基づいている。たとえ、客体を眺めていても。

後ろからの視線、自分の背後から世界を眺めている映像を想定する。
ゲームにおけるTPSの視点。まるで幽体離脱のように、自らを眺め同時に世界を眺める視点。それが主体をも含めた客観的な視点だろうか。
しかし、かかる視点はあくまで可能性の虚像に過ぎない。もちろん、現代では映像技術を用いることでそのような視点は可能だ。

それはこのような状況だろう。

自らを撮影しながらディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。

繰り返し、また繰り返し。終わりなき悪夢のように、コンピューターをシステム・ダウンさせる計算式。おそらく、これは客観ではない。
いや、むしろ、辿り着けないという意味で客観を示している。客観とは、神〈創造主〉の視点に他ならない。西洋において客観が希求されたことはそうであろうなと思う。

絶対不可能なその地点を、超越と呼び、そこを求め続けるのも悪くはない。決して消えることのない光のような、裏切ることのないアイドルを追いかけるようなものだ。そして、そこにはユートピアがある。

他方、そこから出口を求めるのなら今のところルートは3つある。〈存在論的脱構築〉,〈郵便的脱構築〉,そして〈両性具有の天使(混成生物)の歌声〉。
また、〈存在論的脱構築〉は革命に結びつき、〈郵便的脱構築〉は仮想世界に結びつき、そして〈両性具有の天使(混成生物)の歌声〉は身体と結びつく。もちろん、かつて身体的革命の挑戦があったわけではあるし、革命は身体と結びつきがつよい。

個人的には、〈両性具有の天使(混成生物)の歌声〉を推したいところがある。
それは、僕が色盲であるからというのもあるし(赤?緑?青?なんらかの色への認識が弱いのだ。ゲーテも言っている通り、哲学への関心は、色に対して人をいらだたせるのかもしれない。“牡牛は、赤い布を広げて見せられただけで狂暴になる。が、哲学者は、色彩のことが話題になるだけで逆上しはじめる。”)、音楽を聴くのが好きだから、というのがあるかもしれない。あるいは、かつてのオルダス・ハクスリーへの傾倒がいまだに影響しているのか。

そして、幽霊的身体は仮想的身体と言い換えることもできる。
であるならば、ある意味では、仮想的革命というものも想像することは可能かもしれない。

身体について

内在と外部のインタフェースとしての身体みたいなことを考えることがある。

梅沢和木さんは、音ゲーの習得が、その後の絵画制作の役になったという話をしたが、それは内在的超越を身体を用いて外部化することではないか。
存在を身体表現で連関させること。

ハイデガーは言葉を存在の住処だと言ったけれど、身体こそ有と無と揺らぎを含んだ存在の住処ではないか。

今回のイベントでは、メルロ・ポンティ『眼と精神』がふれられていた。
サルトルもそうだが、現象学は視覚と身体に関連が強そうな印象を受ける。

思えば、最近、六本木の美術館で「ジャコメッティ展」が開かれていたけれど、ジャコメッティのつくる彫刻の身体が恐ろしく細く、かれが愛した女性たちがむしろ豊満な身体を持っていたこと。
そして彼が実存主義やサルトルとともに語られていたことは何かどこかしら象徴的だと感じるところがある。

それはともかく、イベント当日は、外苑前から青山まで歩いたのだけれどショー・ウインドウに映る自分の身体を客観的に見て、あるキーワードが思い浮かんだ。
「ダイエット」。

第三の視点のあり方

とはいえ、現在というシチュエーションやテクノロジーを考慮にいれ、アクチュアルに主観・客観以外の第三の視点がありうる方向を考えると、1つの世界を同時的に複数の目で捉えるという視点になるだろうか。
そして、それを統合し再現すること。
梅沢和木さんの作品はそのような視点でつくられているだろう。サルトルに『自由への道』という小説があったが、それもたえず視点が移り変わるような描写がされていたような記憶がある。

他方、主観は身体性とつながるものがある。
VR技術は他者の主観・視点・認識・世界観を体感し共感するための装置になるのだろうか。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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左右対立のねじれについて ‐ あるいは革新右翼,ハイデガー,三島由紀夫 ‐

左右対立のねじれについて ‐ あるいは革新右翼,ハイデガー,三島由紀夫 ‐ Posted on 2017年8月4日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

昨晩の、『安倍離れ?内閣改造について言いたい事を言う生放送 《東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗》』ニコニコ生放送を観た。

それはともかく、そこで夏野剛さんが、”右翼と左翼の言説が反対になっている” “右翼が改革を目指し左翼が保守的になっている” という〈左右対立のねじれ〉を問題にして、いかにして勢力図式はこう変更されたのかという問題提起をしていた。
たしかに、それはそうだ。右翼=保守,左翼=革新というのが一般的な見立てである。
番組の中では、1960年代や1970年代における新左翼の運動や冷戦構造の転換を通して、その勢力図式が塗り替えられたと語られていた。

しかし、ここでは別の側面から、この〈左右対立のねじれ〉について、あるいは〈それ以後〉について捉えてみたいと思う。

それは、大正~昭和に興隆し展開した革新右翼をとおしてある時代の流れを捉えるということかもしれない。

現在からおよそ一世紀前に、革新右翼というものが登場した。
代表的な人物としては、後にイスラーム研究者となった大川周明や『日本改造法案大綱』を記した北一輝などがいるだろう。

考えてみると、彼らは僕らが “ヘイト・スピーチ” でイメージするような右翼像ではないのかもしれない。
たしかに、彼らの中にはむしろ社会主義的な主張を含むものが少なくなかった。
しかし、彼らはまさしく右翼であった。

そして、彼らを支持した一方の人々は、三陸大津波や世界恐慌、昭和東北大凶作・大飢饉に生活の煽りを受けた貧困農家の出身の青年たちであった。

大正~昭和の時代をふり返ると、そこにはロシア革命や第二次世界大戦があり、関東大震災があった。
その時代に描かれた光景は、9・11,東日本大震災=福島原発事故を通過し、イスラム国(IS)の登場とポピュリズムの台頭を目撃する現在と通底するものがあるのかもしれない。

すると、ある方向が想い描かれないだろうか。
ある段階まで、グローバリズム(帝国主義)が進んだ時代に、その時代が孕んだ問題を解決するために台頭するのは革新右翼なのではないだろうか。
少なくともそのような状況で、論理性があり、かつ行動力/実行力がある存在としての右翼が成長するというのは、不思議でないだろう。

そして、これに関連して思い出すことがある。三島由紀夫の『わが友ヒットラー』という戯曲だ。
その戯曲は(あるいは歴史の中では)、ハイデガーのドイツ民族主義的な突撃隊(SA)が親衛隊(SS)によって粛清された事件が描かれている。
これと似たような事件は日本でも起きていた。それは、勃興していた北一輝や皇道派が統制派に粉砕されたということであった。

思えば、三島由紀夫には、ハイデガー的な実存哲学に似たものがあった。
晩年の長編小説『絹と明察』には、ハイデガーの思想に傾倒しヘルダーリンの詩を好む「岡野」という人物が登場する。彼はシニカルな傍観者としての役割であったが、作品の最後で社会へのコミットメントに向かうこととなる。

あるいは、『豊饒の海』を読むとよく実感できるのだが、そこで描かれていたテーゼは、存在の偶然性と不条理な無であった。三島由紀夫の中心には空虚があった。

『豊饒の海』を書き上げた三島は市ヶ谷の自衛隊の駐屯地に乗り込むことになるが、三島由紀夫がそこで演じたのは戯曲『わが友ヒットラー』における突撃隊のレームのようなハイデガー的な愛国心を持った人間の破滅と悲劇だったのかもしれない。

レームに私はもつとも感情移入して、日本的心情主義で彼の性格を塗り込めた

また、そこには二・二六事件で銃殺刑に処せられた青年将校や北一輝に重なるものがあった。
二・二六事件により、皇道派の壊滅は決定づけられた。
一方、統制派の政治的発言力は強化されることになる。そこから時代は加速した。


知識人、理論家が左翼の方にひきつけられるように、しぜん、官僚、実際家は右翼にひかれる。したがって右翼は理論に弱く、理念わ獲得し得ないことが常に苦の種なのである。左翼の特徴的な弱点は、その理論を実際にうつすことができないことにある。

E・H・カー『危機の二十年』1939年

左翼⇔右翼,革新⇔保守という〈左右対立〉のねじれの問題を考えていたのだけど、「左翼⇔右翼」という対立イメージ自体がすでに見せかけの虚飾に過ぎないのではないかと感じた。
むしろ、アクチュアルなのは、ヒューマン⇔システム、政治的にいえば格差是正 – 平等⇔優勢性保持 – 自由ではないだろうか。

たしかに、E・H・カーの話はわかるのだけど、あまりに古典的で、それは1つのシステムの外部たる理論家や知識人というポジションが存在した時代の話であって、そこがいわゆるモダンと現在の違うところだろう。

あるいは、この状況を打開する方法はあるのだろうか。

飛躍するのだけど、多数のカルト/セクトの生成・乱立こそがむしろシステムのあり方を変えるのではないかと思った。
そして、それをつくるメディア・プラットフォームは豊富にある。

そうゆう意味ではポスト・モダンのツリー→リゾーム図式は正しくて、むしろ、それらの問題は核なき相対主義の肯定であったわけで、しかし、人はそれほど強くないということにあった。
それゆえに、アイデンティティの源泉たる物語・神話が必要なのだけれど、それを作り出せるのがポスト・トゥルース的状況ということがある。

だから、むしろポスト・トゥルース的状況をあまりに否定してはいけなくて、もちろんシステムもこの状況を利用するわけだけど、規制は逆説的にシステムによる統制だけを肯定するわけだろう。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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2017-7月のメモランダム

2017-7月のメモランダム Posted on 2017年7月28日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

7月1日

今日は高尾山で木の根を見つめながら、リゾームとツリーは別個なものとして対比されるべきものでなく不可分でそれらが総合されたところがネイチャーであると謎のインサイトを受けた。

7月2日

コカ・コーラが好きだ。
フタを開ける時の音の響き、香りや炭酸の刺激、夏の爽やかな海岸やクリスマスのホーム・パーティのイメージ、夏期講習の帰りに自販機で買って飲んだ記憶、スノーボードのゲレンデで飲んだ記憶。


僕は「生産」や「労働」よりは「消費」の方が好きだ。
そこにはマテリアル感、身体性、シンボル、物語性、記憶、文化的なもの、ライフスタイルとの一体感が総合されていると好ましい。

社会性(他者との関係)の中での、承認の獲得,アイデンティティの確立,あるいは上位ヒエラルキーへの指向を目的とした消費は好きではないし、そのための「表象の操作」や「シンボルの獲得」のための消費というのは難しい問題。

原則としては、人は快楽のために消費すべきと思うし、それは文化的かつ身体性に根ざしたものだといいというのが僕の個人的な偏見。

快楽=「何かがステキだ,楽しい,クールだ」と感じることであるとする。
他方、「何かがステキだ,楽しい,クールだ」という感じかた(観賞/観照)に対し、「自分もそうなりたい。自己と何かを同一視したい。」という欲求(自己実現)が芽生えてくるというのが厄介。


ユダヤ教,キリスト教,イスラム教の違いは、C言語,C++,Javaの言語の違いみたいなものなのではと考えていたのだが、アレゴリカルだった。

“ジャワ島は人口の9割がイスラム教”

“コンピュータ言語の Java は、ジャワ島のジャワコーヒーから名付けられたとされる。”

7月3日

『羊をめぐる冒険』の羊は、西洋哲学・現代思想の言葉でいえば「形而上学」そのものなのだろうという思いが、ふと湧いてきた。人に幻想を抱かせ操るもの。
だからあれは『言葉をめぐる旅』と名付けることもできる。

“完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね”

形而上学の果てともいえる「1960年代」近代の終焉に起こったのが若者たちの”知性の叛乱”だった。
それは形而上学=哲学=理性を、=現実たらしめるための進歩主義的革命だった。
しかし、「僕」はその中で彼らイデオローグたちの「言葉」の欺瞞に気づき、それとの闘争/闘争を開始する。

村上春樹と同世代、全共闘世代の小阪修平は言っている。
“同世代の一番優秀な奴は滅んだか、半ば廃人になった”
「羊抜け」だ。小阪修平もなかば離人症のようになったと言っている。

革命の終わりの時代、1970年代の雰囲気は想像がつく。
1970によど号ハイジャック事件、1971-1972には連合赤軍事件。
文化面では、1972『木枯らし紋次郎』、1973『氷の世界』、1974『傷だらけの天使』、1975『僕たちの失敗』、1976『いちご白書をもう一度』。

1977、イーグルスによる『ホテル・カルフォルニア』が歌われたら次の年、1978から『風の歌を聴け』は執筆が始まる。
それは、形而上学=羊が離れた年、1970年の物語だった。

7月6日

俺に理解できないのは、総じて「何かになりたい」ということのような気がしてきた。
何者かに憧れる時代。これは、書店の自己啓発書とビジネス本、SNSと写真投稿、ポエム化と関連しているのでは。
そして、それはロマン主義と全体主義に通底するものがあるのでは。

7月7日

『神とゴッドはどう違うのか』という本を読みはじめたのだが、これは本当に面白い。ユダヤ=キリスト=イスラームの一神教的理念と日本的多神教の世界観の差がわかる。
僕は以前、「絶対性/絶対観念」をずつと求めていたけど、あれはいわばゴッド=存在の基底のようなものだった。

この本では東洋的世界観と西洋的世界観=西洋的思考=ユダヤ・キリスト的一神教=西洋哲学史というものの差が描かれているのだけど、一神教的思想として三島由紀夫がフューチャーされているのが、さもありなん。

7月8日

『神とゴッドはどう違うのか』は20年前、1997年の出版なのだけど、三島由紀夫の検討の後に司馬遼太郎・堺屋太一・渡部昇一の批判的検討、中村天風・船井幸雄への批判的批判が続く。
考えてみれば、自己啓発(スピリチュアリズム)+ビジネスは長い流れとしてあるんだな。

「自己神格化欲求仮説」これは熱い。

7月13日

昔は夏になると、たまらなく、わくわくしたり切なくなったりしたものだけれど、あれは何だったのだろうか。今はもうなにも思わなくなってしまった。
青空、蝉の声、蜃気楼、夏祭り、花火、三矢サイダー、キンチョーの夏。

7月18日

『アヴァン・ポップ』は、15歳の俺,20歳の俺,30歳の僕がそれぞれ関心のあること/あったことがコラージュされてミックスされている感ある。

”つまりサイバーパンクとは、理性の時代のサドにはじまりボードレール、ランボー、ダダイストおよびシュルレアリスト詩人、バタイユ、アルトー、ジュネ、さらに時代を下ってビート作家、エルヴィス、フランス情況主義者、そしてセックス・ピストルズにいたるアーティストの系譜の末席につらなる一存在にほかならないのである。” 『アヴァン・ポップ』p.081

7月20日

僕はむかしから幻覚にすごい関心を持っていて、それは世界の認識とか在り方とすごい関わっているものだと思っている。
そういえば、看護師の姉から聞いたのだけれど、手術後の人には一般的にせん妄の傾向があるらしいという。そういう意味では、人間の意識というのはきわめて不安定で浮遊したものだ。

また、この意識の不安定さというのは本来ぼくらが世界とつながりを持つ上で忘れてはいけないものだと思っていて、この浮遊を捨てて理性(言語)による固定に偏るとある種の抑圧や理性の暴走につながるのではないかと考えている。

そういう意味では、この意識の浮遊というのは言語による既成概念の固着をなくした状態、エポケーに近いものなのかもしれない。
そして、その状態について、身体性に重心をおいて捉えればヨーガになどにつらなるものがあり、あえて言語的な方向に重心がかかれば詩的なものになるのだろう。

それは、ある意味でポスト・モダンが目指していたものによく似ているのだろう。

7月22日

なぜか、Disc Unionでルー・リードのカセット・テープ3本セットが1300円で売っていた。
『アヴァン・ポップ』にサイバー・パンクは、ルー・リードとバロウズの系譜にあると書いてあったから買った。

7月23日

多くの人がSNSやセルフィーあるいは承認の罠に嵌ってしまう時代状況が、最先端の象徴的トポス「GINZA SIX」に行ってみてわかった。たしかに満たされないんだ。そこに高揚感や美しさはあっても。

本がオブジェになるというのは、とても面白いと思う。状況として。

オブジェ化する「本」とフォトジェニックな空間の時代性について – Instagram,SNS,ライフスタイル –

7月24日

ラブホ女子会も結局は写真とオブジェだったんだな。ラブホというコンテクストから、オブジェをエクリチュールとして切り離す才能は素敵だと思う。

7月25日

過労死って「総括できなかったための敗北死」みたいで恐ろしいな。

「全共闘,三島事件,連合赤軍,オウム事件」を考えるというのは、やはり日本の思想・批評のあり方のひとつなんだろう。それは、ある意味「天皇,満州,敗戦」を考えることでもある。

あるいは、農耕文化,島国ということや日本的神話・宗教観(素朴なアニミズムのようなもの)とも関わる問題かもしれない。

7月26日

連赤とかオウムを“頭のおかしな人たち”で片づけてきたり、問題とその前にあった希望の幻想みたいなものをまるで最初からなかったものとうやむやにしてきた、ものごとをラディカルに直視しない態度というのはよくなかったんだろうと思う。

7月28日

歴史とか理性といった抑圧的な物語を人びとは粉砕し脱構築し解放された。にもかかわらず、人は自由で光が舞い散乱するシンボリック〈記号的〉な世界で生きることに疲れてしまうのはなぜなのか。あるいは物神を崇拝し、あるいは神話や物語の中で生きることを求めてしまう。

7月27日

コスプレとかナイトプールとかラブホ女子会とか、物語なき舞台というのはアリなんじゃないかと思いはじめた。


承認の問題で課題なのは、人間はそもそも多様であり差異にみちあふれているはずであるのに、人々は結局のところある種のシンボルのみをロール・モデルとして、それに憧れ自己を同一化しようと近づくために生きてしまうということ。

あるいは、他方で、みなは平等な存在であるべきという理念があり、にもかかわらずそれらは機会の平等などという欺瞞的なもので片付けられ、結局のところ階層化されたところを目指すことがゲームのルールとされてしまっているということ。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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オブジェ化する「本」とフォトジェニックな空間の時代性について – Instagram,SNS,ライフスタイル –

オブジェ化する「本」とフォトジェニックな空間の時代性について – Instagram,SNS,ライフスタイル – Posted on 2017年7月23日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

19世紀はリアリズムの時代であったが、技術・美術的な側面においてはカメラの誕生と写真文化の繁栄のはじまりであった。カメラは、瞬間の現実を切り取り氷結する装置であった。
一方、PhotoshopやSNOWにより現在は写真が加工される時代となった。それは現実ではなく、夢想の具象化だ。

今年開業したGINZA SIXに行った。
「Life At Its Best 〜最高に満たされた暮らし〜」をコンセプトにした、銀座の国際的な商業空間。
空間を彩る草間彌生の現代アートと、日本文化とアートを結節するという蔦屋書店が特徴的であった。

  

しかしながら、“最高に満たされた暮らし”とは何だろうか。
また、アートと暮らしはどうつながるものなのだろうか。
あるいは、本は電子化が進んでいるけれども、紙の本の存在や、商業施設における書店の意義はなんなのだろうか。

そして、最先端の商業施設は、僕らの時代の何を象徴するものなのだろうか?

オブジェ化する「本」とフォトジェニックな空間の時代性について

まず、ポストモダン以降の本〈テクスト〉と社会の関係性(構造)を考えてみると、そこではテクストは文脈から切り出されエクリチュールとして異なるコンテクストに接木されるものとして扱われる。すべてのテクストはコピー&ペーストされ総体としてハイパー・テクスト化された世界を作り出している。それは、“浮遊するシニフィアン”のネットワークだろうか。

社会についてもほとんど同じことがいえる。
様々な記号やシンボルが切り取られ、ブランドイメージや広告として流通し、ある種のサイバー空間をつくっている。
とくに、パーソナルコンピューターが完全に普及し、テクストが電子化された今はその傾向がより進められているように思う。

そして、そういった意味では、都市の商業施設は、まさに記号化されたブランドと広告が充満したサイバー空間そのものだろう。

ところで、上記において「テクストは文脈から切り出されエクリチュールとして異なるコンテクストに接木される」と記したが、いまは「本〈物理的な物〉」と「本の内容〈テクスト〉」というものがまた切り離され、それぞれが別々の存在としてそれぞれ機能しているようだ。

テクストの電子化や情報産業の成長は、「本〈物理的な物〉」からもともとその中に本質的に内在していたテクストとしての価値が流出することを要請した。
その結果、「本〈物理的な物〉」はオブジェと化している。
人々が「本〈物理的な物〉」に期待することは、もはやテクストを読むことにより世界を思い描くことではなく、ハイパーテクスト化した世界の中のカフェ(そこはかつて「本屋」であった)でチョコレート・フラペチーノを味わいながら、オブジェ<本>を眺めて“何かに満たされた感じ”を得ることである。さながら、ギャラリーや美術館の様相すらある。
彼ら彼女らには、あるいは“暮らしのイデア”のイメージでも見えるのかもしれない。

これは、決して否定や批判ではないのだが、「紙の本」はテクストが電子化する中でひとつの役割を失う一方そのマテリアルに対するフェティッシュな意味合いを増大させた。
そして、記号として、オブジェとしての存在感を強めているように思われる。

“なんとなくグラマー”な印象をいだかさせるオブジェ<本>。

しかし、オブジェから再生されるイメージには物語を語る力があるだろうか。
それらは単に具現化された記号にすぎない。たとえフェティッシュな何かであったとしても。

人々はさまざまな記号に触れて日々の生活に刺激を与えるが、そこでは実存とバーチャルなライフスタイルの間で乖離が生じる。
その中で人々は疎外を感じ、満たされないと感じるようになる。

その疎外や実存の不安を満たすために、人々はなんらかの物語を語る必要が出てくる。
物語がなくては、人は物との接触や記号だけでは、生の実感を抱ける世界を描けないだろう。
ゆえに、人は自らが物語の中の人物であるように振る舞うようになる。
そして、ファインダーの中に自らの姿を映すのだ。
もちろん、映画スターやアイドルのプロマイドのように加工された写真がSNS<サイバー空間>に投稿されることになる。

まさに、GINZA SIXのような商業施設、アートを身にまとったフォトジェニックな空間は、人々が物語の中に生きるための舞台装置なのだろう。
まるで、現実がポストモダン小説のサイバーパンク世界になったような、そんな印象を抱いている。

とはいえ、デートにはぴったりでしょう。絶対楽しい。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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『ゲンロン5 幽霊的身体』を読む。

『ゲンロン5 幽霊的身体』を読む。 Posted on 2017年6月24日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

『ゲンロン5 幽霊的身体』を読んでいる。

個人的に「幽霊」・「身体」というキーワードには以前から興味があった。

それは、20代のあいだずっと「絶対」の存在と可能性(「絶対」が成立し得ないことだけが絶対的に存在するという現実をどう捉えればよいのか)について思いを巡らしていたからであるし、またオルダス・ハクスリーやティモシー・リアリーやジョン・C・リリーのような言語的論理の外部に興味を持ち続けていたからだ。

ところで、自分の見立てとしては「幽霊的身体」というのを考えてみると、それはある種の弁証法への反省と再度の実践を踏まえた話ではないかと思う。
たとえば、ユートピアを目指した左翼が連合赤軍みたいなところに行き着いたという現実があった。そこにはテロルの現象学のような課題があった。それに対置する形でアソシエーションやマルチチュードが提起されたが、しかしそれは否定神学的な概念だから有効性を持たないため、ある種の「存在の揺らぎ性」を基盤にした思想が必要なのではないかということだ。

それはこう言いかえることもできて、アドルノの否定弁証法のように近代の啓蒙理性はその理想に反してその極で非人間的なものであった。
近代理性が見落としていたのは、存在の揺らぎ性ではないだろうか。
それは、たとえば、村上春樹の物語で描かれている「向こう側」とこちらの繋がりのようなものではないか。あるいは、最新作『騎士団長殺し』で描かれた「血縁関係(事実)をこえた家族(人とのつながり)」を想定したエチカと通底するものがあるかもしれない。

近代や哲学が見落としていた視点は「存在」を言語により定義したところにあるのではないか。あるいは「有と無」はデジタルに切り離された存在ではなく、アナログなもので明るさと暗さが絶え間ないコントラストで継続しているものではないだろうか。

『ゲンロン5』の話に戻ると、論考がとても面白かった。鴻英良さんの「虚体、死体、そして〈外〉へ」で描かれた〈自同律の不快〉はとてもよくわかる話だったし、渡邉大輔さんの「『顔』に憑く幽霊たち」で描かれたInstagramやSNOWのアプリを使う人々の意識についての話はテクノロジーがリアルに人々に変化を与えるかという可能性のようなものを感じさせた。
共同討議の「ユートピアと弁証法」は純粋におもしろい。
ところで、今年はロシア革命100年だからトロツキーの『ロシア革命史』を読もうと思っていたのだけれど、もう2017年も半分が過ぎてしまった。

すっかり、真夏そのものが姿を見せ始めている。

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僕らが旅に出る理由 – 日常の外の日常 –

僕らが旅に出る理由 – 日常の外の日常 – Posted on 2017年5月31日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

僕らが旅に出る理由はなんだろうか?

とはいえ、旅にも色々あるかもしれない。

ある意味、旅はある形での自由(自我の拡大)の追求だろう。
ヘーゲルの絶対精神の弁証法の旅やゲーテの自由を求めるビルドゥングスロマン、コリントスから逃れたオイディプスの悲劇の旅。

他方、旅は他者との邂逅や出会いと別れ、ヒューマンを感じるものかもしれない。
東浩紀の「観光客の哲学」や川端康成の「伊豆の踊り子」、あるいは市川崑の「木枯し紋次郎」「股旅」。

僕は以前から「旅」「旅行」「観光」といったキーワードには違和感を持ち続けていた。
そこには、ある種の憧れと軽蔑、アンビバレントな感情があった。
なぜ、旅をするのか?目的は何か?何をどう楽しむものだろうか?
そもそも、社会人の男性をターゲットとした旅の目的地はあるのだろうかという疑問(風俗や酒場は別として)。
あるいは、物理的に移動する意味はあるのか?旅行とインナートリップはどちらがより遠くまで行けるのか。

しかし、5月は思いがけずに何度か遠出をした。
香港・マカオへの旅行、ブラジル街大泉町の散策、伊豆大島の旅行、御岳山登山。

住めば都というが、出れば旅も悪くない。
たしかに、日常の想像の外の世界に触れることができる。

たとえば、香港の乾物の匂いの漂う路地裏。
マカオの下町で猫のように暮らす老人たちの飲茶をする姿。
ブラジル人労働者たちのアパート暮らしと、ソウルフード、そしてカトリックの教会。
踊り子たちが暮らしていただろう島の風景。

それは、僕らの日常の外にあるものだ。
しかし、それは僕にとってであり、かれらにとっては日常だ。
僕はここにいて、かれらはそこにいて。
もしかしたら、彼らは僕らなのではないか。
そんな想いすらよぎる。

あるいは、真っ暗で底が見えやしない休火山の噴火口。
まるで人のいない18時の登山道。
沈みゆく黄昏が映る。日没が迫る。頂上まで辿り着けるのだろうか?

いや、それは日常そのものじゃないか。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか 〜 J-POP、アイドル、インターネット 〜

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか 〜 J-POP、アイドル、インターネット 〜 Posted on 2017年5月15日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

人は過去を忘れる。
しかし、ふと、思い出すことがある。
そして、ある時は感嘆の声をあげ、時にはもののあはれを感ずる。
こんなにも世界は変わったのかと。

たとえば、時代を象徴するものとして、今世の中にはあふれる程アイドルがいて、とても一般的なものになっている。

けれど、僕らが中高生の頃にはアイドルなんていなかった。
当時は、浜崎あゆみや安室奈美恵や椎名林檎や宇多田ヒカルあるいは中島美嘉やYUIがいた。
彼らは一見するとアイドルとはまったく違う。
しかし、それは同じ役割を持ったものだ。
彼らは歌う。
そして、人々に対して、なんらかのメッセージを届け、希望を抱かせる。
そういうことなのかもしれない。

僕が言いたいのはこういうことだ。
僕らがティーン・エージャーだったころ、アイドルなんて人気はなく、それほど多くはいなかったはずである。
では、彼らはどのように現れたのだろうか。

アイドル文化の誕生まで

考えてみると、僕らにアイドルという言葉への違和感があるのは、その言葉が80年代的なあるいはそれ以前の何かを想起させるからではないかと思う。

おそらく90年代に、J-POPがかつてのアイドル市場を駆逐したのだろう。
それ以前とそれ以降では、空気が異なる。
かわりに、ビーイング系や小室グループあるいは沖縄アクターズスクールのユニットが一斉を風靡した。
彼らは、ストリートを感じさせ、カジュアルでスタイリッシュだった。
そのスタイリッシュなものへの反動として、ある意味色物的なシャ乱Qのつんくがモーニング娘。をヒットさせた。

しかし、モーニング娘。も2000年代初頭には人気に限りが出て失速。
その後釜は、WhiteberryやZONEといったガールズバンドにとって代わられた。
一方で、90年代末からは独特の雰囲気と明らかな才能を持った歌姫と呼ばれるようなアーティストたちが現れた。

98年には、「林檎?鮎?女性アーティストが大人気」といったワイドショーが流れていた。
98年は、椎名林檎、浜崎あゆみ、宇多田ヒカル、MISIA、aikoが揃ってデビューした年である。

この時代には、音楽シーンが大きく変化した。99年にはDragon Ashが「Grateful Days」を発表。
2000年代前半には、KICK THE CAN CREW、RIP SLYME、キングギドラがヒットを飛ばした。

今からふりかえれば、この時代、日本の音楽シーンは最盛期をこえていた。CDの総売り上げは1999年にピークに達し、その後売り上げは右肩下がりに落ちていくことになる。
そして、2005年にはYouTubeが創業する。2006年頃より日本でも普及しはじめ2007年には日本国内のユーザーが1000万人をこえた。

この頃から、インターネットは確実に社会に影響を与えていた。2004年には、2ちゃんねるを舞台にした電車男が話題となり、書籍化・映画化・ドラマ化される。
また、同年には声優の水樹奈々がinnocent starterで9位を獲得し初めてオリコンヒットチャートTOP10入り、翌年にはETERNAL BLAZEで2位を獲得する。

そして、2005年秋葉原では秋元康率いるAKB48がデビューする。
AKBだけは売れない。そう、誰もが思っていた。
2005年には、木村カエラが「リルラ リルハ」で話題となる。2006年、中田ヤスタカがPerfumeのプロデュースを手がけ、2007年「ポリリズム」がヒットする。

同年、Perfumeは女性アイドルグループとしてサマーソニックでオープニング・アクトを飾る。
また、当時SNSでは、mixiが全盛であった。学生たちは誰しもmixiミュージックという機能で、お互いに聴いている音楽をアピールし影響を受けた。

mixiはmixiミュージックを2009年12月に廃止する。その3ヶ月後、facebookの日本法人が設立される。
この頃、にわかにAKBがヒットしはじめる。
その後の展開は、今に続くものとなる。

2017年の現在では、AKBはアイドル界における絶対的な地位を確保してはいない。
facebookもすでにSNSの絶対的王者ではない。

そして時代は進み続け、僕らもつねに歩き続ける。

アイドル現象とSNS現象 -「希望は、戦争。」~「僕は嫌だ。」-

ミネルヴァの梟的な話だけれど、ぼやっとした頭で考えると、現象的に00年代後半から10年代がアイドルとSNSの時代であったというのは事実であると思う。

この現象の背景にはインターネット文化の発展とiPhoneの登場による徹底した活動の個人化・コミュニティの分断と、世界金融危機による世界同時不況や東日本大震災への不安があるだろう。
ある若者はいった。「希望は、戦争。」

それらの不安から埋めるために偶像への希求が生まれる。
あるいは、社会からの疎外感が自己承認の欲求を増大させる。

それらの心理を反映したのが、アイドルでありSNSだった。
何者かへの憧れは、自らの欲求である。
これら2つの現象はきわめて隣接した関係のあるものではないか。

そしてその後、それらはまとめサイトやキュレーションなどへ流れは向かう。
フェイク・ニュースやポピュリズムの中から人々は「隠された真実」に出会い、それを自己のアイデンティティの基礎としていく。
ポスト・モダンからポスト・トゥルースに時代は移る。
そして、偶像は叫ぶ。「僕は嫌だ。」

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。