『サルトルの世紀』から考える。 – ハイデガー問題メモ –

『サルトルの世紀』という本を読んでいる。 サルトルと20世紀、その時代と思想について書かれた本だ。 注釈を抜いて全体で800ページ、まだその3分の1程度を読んでいる段階なのだが、第1章「世紀人」の末は50ページばかり「ハイデガー問題メモ」としてハイデガーの思想とその問題について描かれていた。 ハイデガーについてのテクストを読んで思うのは、ハイデガーの思想のその危険性というのは両義的であって、その危険はむしろ僕らが求めなくてはいけないところにあるということがある。 それは、本来的なあり方・非本来的なあり方という考え方だ。 三島由紀夫は昭和45年に以下のような文章を残している。 「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」 三島由紀夫もまた本来的なあり方を求めた作家だった。 ポ...

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映画『ハンナ・アーレント』を観る。

誰もが見るべき作品というものがある。 これは、そのような作品だ。 ナチ高官の裁判とそれを傍聴するドイツ系ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントを描いた映画。 だが、これはあるべき裁判だろうか?被害者としてのイスラエルのモサドが被告を誘拐して絞首刑にする? 400万人〜600万人のユダヤ人を死に追い込んだ行為。死刑は当然か。 しかし、それは当人の意思によるものではない。それを、誘拐して死刑を宣告する。 果たして、それが正義だろうか? 被害者と加害者、中立な立場であろうとする者が見る世界がそれぞれどれだけ違うものなのか。 世界は、僕らの意識の外に、客観的な世界を備えているわけではない。一人ひとりが、その立場により、まったく異なる世界を見ている。 少なくとも、客観的に捉えようとすることができるのは、尋常ではない哲学者だけである。それは冷酷無比なものの見方だろうか?被害者の気持ちを踏みにじる行為? 同じ哲学者の映画でも『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』のようなロマンティシズムはまったく見られない。 同じユダヤ人の友人たちはアーレントによる裁判傍聴の記事が公開されると、苛立ち怒り離れていく。 アー...

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2017年はまさに〈不倫〉の年である。

2017年はまさに〈不倫〉の年である。 テレビ,週刊誌,ネットニュース,人々の噂話は〈不倫〉の話題で埋め尽くされている。 新聞を取っていないからわからないのだけれど、まさか新聞にはと思うが、どうだろうか。 〈不倫〉はとても人気のあるコンテンツである。 あるいは至上の最良のコンテンツかもしれない。 人々は〈不倫〉に対して憧れと憎しみとアンビバレントな感情を持っているのだろうか。 〈不倫〉の話題になると場の空気や議論が沸き立つ。 〈不倫〉ほどスリリングでわくわくするような話題はないだろう。 しかし、人はなぜ〈不倫〉するのだろうか。 すべての人とはいわないまでも多くの人が、冒険をしたい,快感を味わいたい,〈不倫〉をしたいと思うのだろうか。 いったい、どのくらいの割合のひとが〈不倫〉をしているのだろうか。 どのような人が、どのような過程で〈不倫〉にいたるのだろうか。 何のために、何を求めて。何を満たすために。 僕らのまわりにも〈不倫〉をしている人がいるのだろうか。 それは隠されているのだろうか、自明となっているのだろうか。 また、もともと〈不倫〉をするような人は欲求が強いのだろうか。 そうでは...

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〈都市教養〉というキーワード=コンセプトについて

よくわからない名称の大学や学部というのがある。 例えば、首都大学東京にある「都市教養学部」がそうである。 「都市教養学」とは何か?あるいは「首都大学東京」という名称をファルスのように感じる人もあるかもしれない。 これは都政の改変にもとづいてつけられた名称だ。その名称には疑問の声も多い。 そして、今現在、それらの名称は変更が検討されているという。 しかし、あらためて現在という時代を眺めてみれば、今の時代に本来的に必要なのはまさに〈都市教養〉というキーワード=コンセプトではないだろうか。 そして、これは学的な分野ではなくもっと普遍的に志向されるべきキーワードだろう。 「教養」とは?それが社会に出た時に役にたつだろうか?経済性は? 「教養」という言葉自体、すでに批判の対象だろう。 古典的な「教養」が古くさいもの,ホコリを被ったもの,無用の長物,賞味期限切れ、これは確かにそうだ。自明である。 必要のない役に立たない教養こそ重要だという議論など欺瞞に過ぎない。 では、「教養」は不要なのか?そうではない。 もし、行動や信仰をむしろ良きものとする反知性主義の道を選択するのであれば、僕らは20世紀から...

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台湾を旅行する。- 中華民国台湾省台北市的小旅行 –

8月24日から8月28日にかけて、台湾を旅行した。 台湾旅行を振り返ると、文化あるいは歴史的な流れにおける気づきが大きかった。 また、この旅は4泊5日だったのだけれど、予想していたよりも台北は大きかった。 旅の全体像は、以下のような日程であった。 前日深夜から羽田空港で過ごし、LCCのタイガーエアで05:30に離陸。 1日目、西門駅周辺の昆明街にあるホテルに到着。龍山寺周辺や台湾総督府周辺を散策。 2日目、世界三大博物館の故宮博物館や誠品書店をめぐる。夜は士林夜市を散策。 3日目、鼎泰豊の本店で食事、夕方からは九份を散策、台北101 にてナイトビュー。台湾式マッサージを試す。 4日目、夏休みらしく白沙湾のビーチで過ごす。足裏マッサージを試す。 5日目、昼過ぎの便で帰宅。日常に戻る。 香港旅行のように気軽な散策という感じでは十分ではなく、満喫するにはもう数日いてもよかったように思う。 正統なる「中国」としての台湾 台湾は思いのほか中国であった。あるいは、失われた故郷としての中国であった。 そこには、連綿と連なる中国王朝とその芳醇な文化の香りが漂っていた。 そして南国の風土がそのその香りを...

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若者の街とユース・カルチャー ~ 渋谷,音楽,ファッション ~

自分が大人になると、若者の姿を見ることがなくなる。 もしかすると僕らの知らないところで「若者」はひっそりと絶滅してしまったのかもしれない。 そんな気分になることがある。 もちろんそれは何かの勘違いのようなものだろう。 インターンをこなしている大学生、リクルートスーツの就活生、しっかりと勉学に務めている大学院生の話は聞くことがある。ありきたりでつまらない、たまらない話。 「実学」重視の就職予備校や職業人養成学校となった学園で職業訓練者たち学生らは、そのモラトリアムをどのように過ごしているのだろうか。 (実学なんて、糞食らえだ。雑学の方が、まだましだ。と、思うこともある。教養はどこに行った?時代の流れには逆らうまい。せいぜい、社会のために働くと良いと思う。) もちろん、下の世代の若者に対して批判をしても仕方がない。 はたして、いわゆる「若者」はいまでもいるのだろうか。 むしろ、かつての「若者文化」はまだ生き残っているのだろうかというのが、気になるところだ。 おそらく、若者像自体大きく変わっている。 皮肉な言い方だが、変わるべきものが変わり、変わるべきでなかったものが変わっているのだろう。 ...

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存在探求のためのメモランダム/言葉をめぐる冒険/浮遊への逃避行

存在探求のためのメモランダム ハイデガーの『存在と時間』を手にしている。 古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することをめざしている。 ハイデガーは言う。「哲学や形而上学の本来問うべき問いは『存在とはいかにあるのか?』ということである」と。 けれども、これは単に論理形式上あるいは実体化された「有・無」や「揺らぎ」としての「存在」ではない。 むしろ、「在り方」への問いであるし「有意味とはいかなることか?」という問いである。 もし神がいないのならば、全てが許される。 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』イワンの台詞だ。 もし神がいないのなら 実存が本質に先立つ。 このような言葉でサルトルは語った。 あるいは三島由紀夫の「豊饒の海『天人五衰』」のラストシーン。 しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば……それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。…… 近代はルネッサンスの人文復興が嚆矢となり、神との決別からはじまった。 しかし、だからこそ、デカルトは神の存在証明を行なったし、カントは理論理性によってはいかなる方法によ...

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「幽霊的身体」から考える – 『ゲンロン5』「視覚から指先へ」 梅沢和木×東浩紀 トークショーを観る。

青山ブックセンターでのゲンロン5の幽霊的身体イベントに参加した。 『ゲンロン5 幽霊的身体』は、演劇や絵画など表象文化論をテーマにした本であった。 イベントでは、梅ラボの梅沢和木さんと東浩紀さんによるトークが聞けた。 話題の中心は、身体というよりは視覚であったかもしれない。 いや、むしろ、僕はそのような視点での解釈をして、会場から楽しみを得た。 視覚について 東さんは、視覚がその物質的な速度の影響などもあり他の感覚器とは異なるという話をし、加えて視覚は多く脳により補完されているという話をしていた。 視覚が他の感覚器と異なる、特別な感覚器であるというのは、どういうことだろうか。 それは、フッサールの志向性と関わるものだろうかと感じた。 たしかに、視覚は状況を静的に受容しているわけではなく、フッサールのいうところの志向性から対象を捉え、その後対象から得た印象を1つのゲシュタルトとして表象に描いていく。 それは、単に(経験論的に)外部の刺激を受容しているわけではなく、むしろ描くべきものを選択し表象を形成しているといえるのかもしれない。 また、哲学的に視覚は大きな意味があるという話があった。 ...

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左右対立のねじれについて ‐ あるいは革新右翼,ハイデガー,三島由紀夫 ‐

昨晩の、『安倍離れ?内閣改造について言いたい事を言う生放送 《東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗》』ニコニコ生放送を観た。 それはともかく、そこで夏野剛さんが、”右翼と左翼の言説が反対になっている” “右翼が改革を目指し左翼が保守的になっている” という〈左右対立のねじれ〉を問題にして、いかにして勢力図式はこう変更されたのかという問題提起をしていた。 たしかに、それはそうだ。右翼=保守,左翼=革新というのが一般的な見立てである。 番組の中では、1960年代や1970年代における新左翼の運動や冷戦構造の転換を通して、その勢力図式が塗り替えられたと語られていた。 しかし、ここでは別の側面から、この〈左右対立のねじれ〉について、あるいは〈それ以後〉について捉えてみたいと思う。 それは、大正~昭和に興隆し展開した革新右翼をとおしてある時代の流れを捉えるということかもしれない。 現在からおよそ一世紀前に、革新右翼というものが登場した。 代表的な人物としては、後にイスラーム研究者となった大川周明や『日本改造法案大綱』を記した北一輝などがいるだろう。 ...

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2017-7月のメモランダム

7月1日 今日は高尾山で木の根を見つめながら、リゾームとツリーは別個なものとして対比されるべきものでなく不可分でそれらが総合されたところがネイチャーであると謎のインサイトを受けた。 7月2日 コカ・コーラが好きだ。 フタを開ける時の音の響き、香りや炭酸の刺激、夏の爽やかな海岸やクリスマスのホーム・パーティのイメージ、夏期講習の帰りに自販機で買って飲んだ記憶、スノーボードのゲレンデで飲んだ記憶。 僕は「生産」や「労働」よりは「消費」の方が好きだ。 そこにはマテリアル感、身体性、シンボル、物語性、記憶、文化的なもの、ライフスタイルとの一体感が総合されていると好ましい。 社会性(他者との関係)の中での、承認の獲得,アイデンティティの確立,あるいは上位ヒエラルキーへの指向を目的とした消費は好きではないし、そのための「表象の操作」や「シンボルの獲得」のための消費というのは難しい問題。 原則としては、人は快楽のために消費すべきと思うし、それは文化的かつ身体性に根ざしたものだといいというのが僕の個人的な偏見。 快楽=「何かがステキだ,楽しい,クールだ」と感じることであるとする。 他方、「何かがステキ...

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オブジェ化する「本」とフォトジェニックな空間の時代性について – Instagram,SNS,ライフスタイル –

19世紀はリアリズムの時代であったが、技術・美術的な側面においてはカメラの誕生と写真文化の繁栄のはじまりであった。カメラは、瞬間の現実を切り取り氷結する装置であった。 一方、PhotoshopやSNOWにより現在は写真が加工される時代となった。それは現実ではなく、夢想の具象化だ。 今年開業したGINZA SIXを訪れた。 「Life At Its Best 〜最高に満たされた暮らし〜」をコンセプトにした、銀座の国際的な商業空間。 空間を彩る草間彌生の現代アートと、日本文化とアートを結節するという蔦屋書店が特徴的であった。    しかしながら、“最高に満たされた暮らし”とは何だろうか。 また、アートと暮らしはどうつながるものなのだろうか。 あるいは、本は電子化が進んでいるけれども、紙の本の存在や、商業施設における書店の意義はなんなのだろうか。 そして、最先端の商業施設は、僕らの時代の何を象徴するものなのだろうか? オブジェ化する「本」とフォトジェニックな空間の時代性について まず、ポストモダン以降の本〈テクスト〉と社会の関係性(構造)を考えてみる。すべてのテクストはコピー&ペース...

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映画『アルタード・ステーツ / 未知への挑戦』~ 知覚の扉の先にあるもの ~

ヒッピーやビートニクにあこがれていたことがある。 社会〈ソサエティ〉の外にある、ある種の超越的な何か。 それは、イデアか実存か、あるいは剥き出しの真理のようなものだろうか。 そんなものを、自らの目で見つめてみたいと思っていたし、触れてみたいと思っていた。 20才前後までの話だ。 今思うと不思議なのだけれど、当時の首都大学東京の都市教養学部には、不思議なコミュニティ感があった。 ガラパゴス式の携帯電話とiPodClassic、あとはアレン・ギンズバーグの詩集やジャック・ケルアックの『地下街の人びと』の文庫あるいは村上春樹や伊坂幸太郎の小説だけを持ってキャンパスに通い、テラスに集まっては、みんな気分が悪くなるまで煙草を吸っていた。 みんな痩せて咳ばかりしていたが、服だけはお金がかかっていた。コム・デ・ギャルソンやZUCCaなどのDCブランドや、ジル・サンダーやBALLYのインポート、古着屋のビンテージや、アレクサンダー・マックイーンやジョン・ガリアーノなどのハイ・ファッション。 解放区のような、どこか現実離れした空間だった。 そんな雰囲気があったからかもしれない。 当時の僕は自由な空間の中...

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『ゲンロン5 幽霊的身体』を読む。

『ゲンロン5 幽霊的身体』を読んでいる。 個人的に「幽霊」・「身体」というキーワードには以前から興味があった。 それは、20代のあいだずっと「絶対」の存在と可能性(「絶対」が成立し得ないことだけが絶対的に存在するという現実をどう捉えればよいのか)について思いを巡らしていたからであるし、またオルダス・ハクスリーやティモシー・リアリーやジョン・C・リリーのような言語的論理の外部に興味を持ち続けていたからだ。 ところで、自分の見立てとしては「幽霊的身体」というのを考えてみると、それはある種の弁証法への反省と再度の実践を踏まえた話ではないかと思う。 たとえば、ユートピアを目指した左翼が連合赤軍みたいなところに行き着いたという現実があった。そこにはテロルの現象学のような課題があった。それに対置する形でアソシエーションやマルチチュードが提起されたが、しかしそれは否定神学的な概念だから有効性を持たないため、ある種の「存在の揺らぎ性」を基盤にした思想が必要なのではないかということだ。 それはこう言いかえることもできて、アドルノの否定弁証法のように近代の啓蒙理性はその理想に反してその極で非人間的なもので...

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僕らが旅に出る理由 – 日常の外の日常 –

僕らが旅に出る理由はなんだろうか? とはいえ、旅にも色々あるかもしれない。 ある意味、旅はある形での自由(自我の拡大)の追求だろう。 ヘーゲルの絶対精神の弁証法の旅やゲーテの自由を求めるビルドゥングスロマン、コリントスから逃れたオイディプスの悲劇の旅。 他方、旅は他者との邂逅や出会いと別れ、ヒューマンを感じるものかもしれない。 東浩紀の「観光客の哲学」や川端康成の「伊豆の踊り子」、あるいは市川崑の「木枯し紋次郎」「股旅」。 僕は以前から「旅」「旅行」「観光」といったキーワードには違和感を持ち続けていた。 そこには、ある種の憧れと軽蔑、アンビバレントな感情があった。 なぜ、旅をするのか?目的は何か?何をどう楽しむものだろうか? そもそも、社会人の男性をターゲットとした旅の目的地はあるのだろうかという疑問(風俗や酒場は別として)。 あるいは、物理的に移動する意味はあるのか?旅行とインナートリップはどちらがより遠くまで行けるのか。 しかし、5月は思いがけずに何度か遠出をした。 香港・マカオへの旅行、ブラジル街大泉町の散策、伊豆大島の旅行、御岳山登山。 住めば都というが、出れば旅も悪くない。 ...

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我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか 〜 J-POP、アイドル、インターネット 〜

人は過去を忘れる。 しかし、ふと、思い出すことがある。 そして、ある時は感嘆の声をあげ、時にはもののあはれを感ずる。 こんなにも世界は変わったのかと。 たとえば、時代を象徴するものとして、今世の中にはあふれる程アイドルがいて、とても一般的なものになっている。 けれど、僕らが中高生の頃にはアイドルなんていなかった。 当時は、浜崎あゆみや安室奈美恵や椎名林檎や宇多田ヒカルあるいは中島美嘉やYUIがいた。 彼らは一見するとアイドルとはまったく違う。 しかし、それは同じ役割を持ったものだ。 彼らは歌う。 そして、人々に対して、なんらかのメッセージを届け、希望を抱かせる。 そういうことなのかもしれない。 僕が言いたいのはこういうことだ。 僕らがティーン・エージャーだったころ、アイドルなんて人気はなく、それほど多くはいなかったはずである。 では、彼らはどのように現れたのだろうか。 アイドル文化の誕生まで 考えてみると、僕らにアイドルという言葉への違和感があるのは、その言葉が80年代的なあるいはそれ以前の何かを想起させるからではないかと思う。 おそらく90年代に、J-POPがかつてのアイドル市場を駆...

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『かもめのジョナサン』を読む。

『かもめのジョナサン』を読んだ。 きっかけは、ふとしたことだ。YouTubeでミュージック・ビデオを流していると、ある動画が再生された。 それは1970年代をイメージした映像だった。 そこには時代を象徴するシンボルが映されていた。 フォークソング、喫茶店、コーヒー、ナポリタン、かもめのジョナサン。 『かもめのジョナサン』は、1970年代に世界的に大ヒットした小説だ。特に、ヒッピー文化に影響を与え、後にニュー・エイジやオカルティックな精神世界や自己啓発にも影響を与えた。 有名なところでは、オウム真理教の信者であった村井幹部は、「かもめのジョナサン」の心境になって出家をしたといわれている。 たしかに『かもめのジョナサン』は宗教的な要素のある作品だ。 しかし、思えば、それは宗教よりもその少し前の若者に影響を与えた『あしたのジョー』に似ている。 ジョーは燃え尽きた。真っ白な灰になるまで。そんじょそこらの不完全燃焼ではなく、真っ白に燃え尽きた。 「われわれは、“あしたのジョー”である。」 赤軍派(あしたのジョー)から、オウム(かもめのジョナサン)へという時代の流れが予見されていたのかもしれない。...

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『ゲンロン0 観光客の哲学』を読む。

『ゲンロン0』を読んだ。 『ゲンロン』は、東浩紀氏監修の批評雑誌であり、『ゲンロン0』はその創刊号である。 また、『ゲンロン0』は東浩紀氏の集大成的な哲学書である。 本書の副題は、「観光客の哲学」である。 これは、ある意味で柄谷行人氏の『トランス・クリティーク』の理論の更新ではないだろうか。 本書にはナショナリズムとグローバリズムに分裂した、2017年現在の状況をどう捉えるか、いかにわれわれは思考し行動すべきか。そう問うための、ビジョンが描かれている。 本書の核心のひとつは、現代のわれわれはモダンとポスト・モダンのふたつのレイヤーの中に生きていると捉えていることである。 現代の僕らの文化は、西洋近代の発展に大きな影響を受けている。 それは決して超克されてはいない。 しかし、1970年代以降のポスト・モダンの興隆と1990年代のソビエト崩壊以降、僕らはあたかも近代後の現代に生きていると考えているところがある。 モダン(近代の絶対的なツリー状の文化)はポスト・モダン(相対的なリゾーム状の文化)に転換されたのだと。 これらの展開を東浩紀氏は、モダンとポスト・モダン、アメリカ政治思想のコミュニ...

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なぜ、音楽はデジタルであっては、十分ではないのか。

なぜ、音楽はデジタルであっては、十分ではないのか。 それは、音楽の本質によるものだ。 音楽はつねに超越を希求し体感するものであり、聴くものにとっては超越性との合一が快楽となる。 それは、現象からの解放であり、意識を溶解させ音楽の流れに身をまかせることだ。 では、なぜ、音楽は超越を希求するものなのだろうか。 音楽の役割は、経験的日常からの解放であり、日常を超えたところを体感することにあるからだ。 現実をある種の意味で否定し、超現実を体感すること、それが音楽を聴くことの意味だろう。 音楽が超越を希求してきたことは、キリスト教やインド哲学やチベット密教や浄土教の残してきたものを見れば明らかだ。 神の絶対性や神への愛を表現するものとして、すべてを包み込むような賛美歌があり、バッハの旋律があり、主への歓喜としてのベートーヴェンの第九がある。 あるいは、輪廻転生する生命体のブラフマンへの合一として、インド哲学やチベット密教における身体的な発生音としてマントラの音律があり、浄土教の極楽浄土への夢想として念仏や鳴り響く鐘の音があるのだ。 しかし、現在の音楽マーケットでの音楽は、そうではないといえるだろ...

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映画『ラ・ラ・ランド』を観る。

「お前は、ジャズを救ってない。」というマジック・ワードが、メタにこの映画について物語っているように思える。 クラシックな映画へのオマージュを描きながら、一方で工学的な方法で観客の心を捉えるこの映画はセブとキースの音楽に対するアティチュードと重なる関係にある。 そのために、どうしてもアンビバレントな感想を抱かざるを得ない。 映像の鮮やかさとリズムの力技で圧倒する点は、ある意味ハリウッド版『君の名は。』を感じさせた。   夢追い人が集まる街L.A.(ロサンゼルス)。映画スタジオのカフェで働くミア(エマ・ストーン)は女優を目指していたが、何度オーディションを受けても落ちてばかり。ある日、ミアは場末のバーでピアノを弾くセバスチャン(ライアン・ゴズリング)と出会う。彼はいつか自分の店を持ち、本格的なジャズを思う存分演奏したいと願っていた。やがて二人は恋におち、互いの夢を応援し合うが、セバスチャンが生活のために加入したバンドが成功したことから、二人の心はすれ違い始める…。...

レコードやカセットで音楽を聴くこと、その意味 – ゆらぎ性と物語 –

村上春樹の『騎士団長殺し』を読み、その中で音楽を聞くことの描写に関心を抱いた。 それは、主人公や友人がレコードやカセットテープといった時代遅れのメディアで音楽を聞くことが描かれている点である。 村上春樹は、そこに(”時代遅れのメディアで音楽を聞くこと”)どんな意味を込めて描いたのだろうか。そう感じたのだ。 ここ数年、レコードの復権やカセット・リバイバルがささやかれてはいる。 しかし、今さら、時代遅れのレコードやカセットテープで音楽を聞いてどんな意味があるのだろうか。 そこには、僕らがいつの間にか失ってしまった何か、なくしてはいけない何かがあるのだろうか。 あるいは、レコードやカセット・テープで音楽を聴くというのは、ある意味何らかの価値観の提示・アティテュードの表明だろうか。 では、それはどのような価値観・アティテュードの表明なのだろうか。 そして、最近、僕自身思わずカセット・プレイヤーとカセット・テープのライブラリを購入してしまった。 これはどんな意味を持っているのだろうか。 ■ ゆらぎ性を持つレコードやカセット・テープの音の響き まず、カセットについていえば、...

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村上春樹『騎士団長殺し』を読む。~ イデアとメタファーと、ポスト・トゥルースのその先へ ~

自分の好きな作家について語るのは難しい。 また、偉大な作家の作品に不要な批評を書くことは愚行かもしれない。 にもかかわらず、文章を書きたいと思う。 村上春樹の『騎士団長殺し イデア篇/メタファー篇』を読んだ。 いうまでもなく、傑作だったといえる。 もしかしたら、村上春樹の最高傑作といえるようになるかもしれない。 まず、視覚的な絵画を小説のなかで描いたこと挑戦的な試みだったといえる。 また、村上春樹作品の特徴である有と無とをこえたゆらぎの存在論、物語の構成には大きな深みを感じた。 しかし、これまでの作品との、もっとも大きな違いは主人公が「“父親”になった」ことかもしれない。 ■ イデアとメタファーについて まず、表題に付加されているイデアとメタファーについて考えてみたい。 これは、ある種、哲学的な概念である。 イデアは絶対観念であり、メタファーは言語による差異化の遊戯性だといえる。 村上春樹の小説がこれまで描いてきたものはそれであった。 それはイデアの喪失と自己修復の小説であり、メタファーによる闘争/逃走であったともいえる。 そこから、いかなる物語を紡ぎ出すか。それが問題であった。 村上...

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文化系トークラジオLife「ポスト・トゥルースのその先へ」を考える。

ポスト・トゥルースを考えてみるときに、現在のこのポスト・トゥルースを生み出した状況には、①技術的側面(テクノロジー/ライフスタイル)/②政治・経済的側面/③歴史的・思想史的側面があるのではないか。 ①技術的側面(テクノロジー/ライフスタイル) まず、技術的側面では、過去20年におけるインターネットとスマートフォン、そしてソーシャル・ネットワーキング・サービスの普及だ。 インターネットの普及により、これまでのマスコミや論文発表とは異なった場所で、誰もが情報を発信できるようになった。 しかし、それらの情報は査読されずに発表されるため、内容には不確かな情報も含まれてくる。 そこに、インターネットのコピペ習慣ともいうべきものが加わるところに、大量のコピーやシミュラークルを量産していくということがある。 そして、過去10年間にはそこにSNSが加わり、感情に訴えかける表現のコンテンツをシェアするという状況が生まれた。 ②政治・経済的側面 政治・経済的側面を見ると、現在は情報戦の時代である。 わかりやすく経済的側面から見れば、マーケティングは極言すれば、どれだけユーザーの目に触れ、ユーザーのマインド...

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2017-2月のメモランダム

2017-2月について 社会面では、ある女の子の信仰と労働問題が話題になっている。 経済面では、18万人の従業員を抱える企業が一部上場から二部上場に変更となった。 アジアでは、独裁者の義兄がクアラルンプールで暗殺された。 東アフリカの南スーダンは混迷の中にある。 パロールとエクリチュール パロールとエクリチュールの違いはコンテクストが内包され状況が制限されているか否かの差だ。 デリダ論を読みながら、横浜美術館の写真展を訪れた。 ある瞬間・ある状況が切り取られた写真は、メッセージ・物語の主体でありながら、一方でその瞬間からなんらかのアイコン・シンボルになる。 写真はリアルの記録でありながら、幻想の描画 – 幻想の再生装置だ。 言葉でなく映像にも、パロール / エクリチュールという関係がある。 マリリン・モンローの写真は悲劇的な美女のアイコンであり、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの写真は愛のイメージとなり、コカ・コーラやマクドナルドの看板は資本主義の象徴となる。 この視点が、さらにアクチュアルに暗示するものとして、言葉や映像といった表現のみならず、僕らの存在・行為自体もパロール ...

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映画『沈黙 サイレンス』(2015年製作の映画)

17世紀、江戸時代初期におけるイエズス会宣教師と隠れキリシタンの信仰と迫害、転向の物語。 それ以前、16世紀のヨーロッパでは、マルティン・ルターやカルヴァンによる宗教改革により新教徒であるプロテスタントが台頭していた。 そのため、ローマ・カトリックは、その存在意義を問われ、真の信仰を示すために新天地での布教が求められた。そのためのカトリックの精鋭部隊がフランシスコ・ザビエルやイグナチオ・デ・ロヨラにより創設されたイエズス会だった。 彼らは神の意思と社会正義を背負い、その言葉を世界に伝える強い信仰を抱いていた。 しかし、この映画の主人公であるセバスチャン・ロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)がイエズス会の宣教師として日本を訪れた時、それはまさにキリスト教徒が国により迫害されていた時代だった。 映画の中で描かれる拷問はきわめて残酷なものであり、共感しやすい人間であれば胸が苦しくなるものだ。キリシタンは取り締まりを恐れ、その不条理につねに怯えて過ごさねばならない。そして、その苦しみの中で、小松菜奈が演じる農民の少女は口にする。「死ぬのは怖くない。だって、死ねばパライソに行けるのでしょ...

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(草稿)苫米地英人『洗脳原論』/中沢新一『チベットのモーツァルト』を読む。

あまり言っても、フランス映画好きのように格好の良いものでもないので、最近はあまり言わないのだけれど、苫米地英人さんと中沢新一さんの著作はかなり好きだ。 彼らは、基本的には対極の存在と位置付けられていて、オウムを接続点としている。 社会的にはアウトサイダーかもしれない。思想的に反対の立場の人や批判的な人からは、両者ともにある種のアジテーターのようにも位置づけられているかもしれない。 しかし、社会的な評判を捨象すると、両者は極めてラディカルな思想家であると思う。どちらもサイキックでオカルティズムであると見られる節があるが、それは本質ではない。むしろ、現代の科学的知見の外部存在を、哲学・科学の内部に引き込み、それを応用して市井の人々に注入している。 ある意味ではオウムは現代思想の極地点であった。いや、あれは単なる事件だ。社会の中の異端の暴走だ。あるいは、単なるバグだという意見もある。 しかし、近代哲学と科学の論理の不完全性が明白になった現在において、根源的ものを論理単体において基底することは不可能であった。 いま現在において、世界を語る場合の基底は、社会学とビジネスであると思う。書店に行けば...

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思考の袋小路

ある時に、ふと袋小路に迷い込むことがある。どこから入り込んだのか、出口が見つからない。物理空間であればまだ救いはある。壁を乗り越えることができるなら。 情報空間でのエラー。繰り返しのリダイレクト、503 Error Service Unavailable。思考の袋小路。 哲学的な問いは、ある意味で薮知らずの森だ。そして、それは足を踏み入れるまでもなく、気づけば僕らを取り囲んでいる。 存在への問い、価値への問い、客観への問い。本質とは何か、美とは何か、人間とは何か。 答えはあるだろうか、ないだろうか。 思考の袋小路に迷い込んだことがある。きっかけは、すべての現象は言葉によって、善にも悪にも自由に解釈できると気づいたことから始まる。すべては人間の解釈によって定義される。つまり、世界そのものには価値は存在しない。すべては相対化されるから。 世界に価値が固定されていないのであれば、人間の論理や認識が世界を定義づけることになる。 では、人間にとって、定義の基礎は存在するのか?何か絶対的なものがなければ定義の基礎づけはできないのではないだろうか。絶対性は存在するだろうか? 絶対性は存在するだろうか...

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人は再びユートピアの夢を見るか

ロシア革命とかソビエト崩壊とか五月革命とか赤軍派の事件について調べたり、マルクスやレーニンやサルトルや講座派の本を読んで、だから結局中立的な意見ではないし、それはあり得ないのだけど、マルクス主義退潮以降は反動の時代だったのではないかと思う。 たしかにマルクス主義やソビエト型社会主義は世界的に大きな惨事を引き起こした。しかし、それは、民主主義の不在・機能不全が決定的な要因だったのでは。そもそも発展途上国における社会主義の導入はマルクスの想定したものではなかった。 社会主義は資本主義発展による矛盾の帰結として訪れるものと想定されたある種のユートピアだ。 むしろ、問題は、資本主義に対するカウンターやリベラルが社会主義やユートピアの希望を捨て去り、否定したことではないか。 人は言語や理性を用いる生き物だ。そのために、自然から疎外された存在である。自然のシステムにおけるバグであり、がん細胞だといえる。知恵の実を食べ、楽園を追放されたのはそのためだ。 しかし、だからといって、言語や理性を捨てうるだろうか。 交通事故で亡くなる人は、国内で年間4000人をこえる。1日に、11.3人が亡くなる計算だ。だ...

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アルコールと無意識

昔、多重人格の話を聞き眉唾だと思っていたし、最近せん妄の話を聞いて、驚いた。しかし、アルコールで正体を失い、無意識で行動することは、よくある話だ。 眠くなって無意識に家に歩いて帰るということは、ある話だ。 時々、表層に現れるその無意識の行動によって、実は無意識が行動のベースになっていることには驚かされる。 無意識の行動はスムーズに動く。それは、意識による抑圧がないからであり、動物的な唯物論的な流れだ。 意識は行動を規制し抑制する拘束具であって、本性は無意識にあるのではないか。 若者が自分探しと称して旅に出るが、それは日常という共有幻想の外に出て、それはネイチャーの中から唯物論的なブラフマンを探り自らのアートマンとしての意識/無意識の調和を見いだす冒険と言えるかもしれない。 翻って、仮に、人間の人格に問題が出る現象のひとつには、無意識と意識の乖離/不調和という問題があるのではないか。 例えば、自己啓発本を読むコンプレックスを抱えて若者や、本来明るい人物が官僚的な組織に組み込まれた時の屈折は、そういった類の問題ではないか。 そう考えると、アルコールや薬物の役割は、単に日常の抑圧からの解放と...

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オルダス・ハクスリー『知覚の扉』を読む。

オルダス・ハクスリー(1894 – 1963)は『すばらしい新世界』で知られるイギリスの作家だ。 僕が、オルダス・ハクスリーについて知ったのはドアーズ(The Doors)を介してだ。 それは、大学に入学した年だったと思う。だから、18か19の時だ。もう10年以上前の話だ。 大学に入り、ひとり暮らしをはじめると、時間軸から開放される。 それがたった4年間の話だったとしても、開放された空間を楽しむのが学生の特権だ。 当時は、iPodが広く普及しはじめた時期だった。 誰も彼もが、iPodで音楽を聞いていた。 当時のiPodは今のiPhoneやAndroidのような通信系のモバイル端末ではなかった。 僕が持っていたのはiPod Classicで、それは60GBの記憶装置を持つ小さなジューク・ボックスだった。 バーに入りカウンターのマスターにシャンディー・ガフを注文する。 一服しながら空間の隅っこにあるジューク・ボックスをながめる。 ジュークボックスに近づき、お気に入りのナンバーを探す。 クリームのWhite Room、ディープ・パープルのsmoke on the water、レッ...

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村上春樹『風の歌を聴け』『ノルウェイの森』を読む。

『ノルウェイの森』をはじめに読むと、村上春樹が苦手になるといわれる。 ある空間への「入射角」というのは大事だ。 角度が浅ければ反射してしまうし、角度が深すぎるとすぐに失速してしまう。 乱反射するのも悪くはないが、できればスッと屈折することなく進むのが理想的だ。 その意味で、村上春樹の作品を『風の歌を聴け』から読み始めたのは幸運だった。 個人的には、小説を読む場合には、デビュー作から入り、次に代表作を読む、という流れがベストだと思う。 村上春樹でいえば、『風の歌を聴け』から入り、『ノルウェイの森』を読んで、それから『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』と読んでいくのがいいと思う。 実をいえば、村上春樹の作品は大体読んでいる。 「ハルキスト」という言葉があり、熱狂的な信者を冷笑する人もいるが、それもあながち誤った解釈ではない。 聖書の膨大なテクストを、創世記、ヨシュア記、ルツ記、サムエル記、イザヤ書、エレミヤ書、詩篇、箴言と読み込んでいくように、気がつけば大体の作品は読んでいた。 同じような友人とは、冗談半分でこんな話をすることがある。 「もう村上春樹の新刊...

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