金曜ドラマ『アンナチュラル』第2話/第3話を観る。

金曜ドラマ『アンナチュラル』第2話

今回は初回以上に石原さとみ演じる主人公・三澄ミコトの過去や現状に踏み込んだ内容だった。この回を見てこのドラマは石原さとみのためのものだと思った。

近年の石原さとみといえば、映画「進撃の巨人」「シン・ゴジラ」ドラマ「校閲ガール」など、リアルの解像度を故意に下げる事で漫画の主人公を地で演じる(3→2.5次元)という過剰にデフォルメされた演技が目立っていた。

人間の内にある数百という複雑な感情を敢えて10個ほどに限定してスイッチ一つでその場に最も適した形で分かりやすく提供するという彼女の驚くべき技法は様々な所で話題になったが、今回はそれとは全く逆の複雑な主人公を演じてみせている。それを引き出す一つの要素が過去のトラウマだろう。

一家四人の練炭自殺で唯一生き残った幼少期の記憶というのは今回含めて今後も事あるごとに触れられる要素となる。その度に彼女は今も十字架を背負っていますという姿を見せる。さらに彼女の今の哀しみ・強さ・明るさなどは周囲の人間と接する姿や表情から浮かび上がってくる。

絶対絶命の状況で窪田正孝演じる後輩に語った死の恐怖や生への執着の姿勢、助かった上で井浦新演じる先輩への感謝と諦念にも似た表情、その後市川実日子演じる同僚と「肉行こ」とあっけらかんとしている様など、短い間に多くの感情が入り乱れる部分に、この主人公を描きたいという切実さがうかがえる。

この丁寧な描写で主人公が抱える思いを受け止めてあげることができれば、このドラマは他に類をみない十分な傑作となると思う。なので今回のラストにあったような週刊誌うんぬんといったパートは個人的には賛成しかねる。
野木亜紀子には石原さとみの100万通りの表現力の一点のみを信じて欲しい。

金曜ドラマ『アンナチュラル』第3話

ネットで評判が良かったから楽しみに見たら、良くなかった。
前回、このドラマに期待する点を石原さとみが演じることで生まれる画一的なキャラクターからの変化と書いたが、今回はそれが完全に戻ってしまっていた。

一話完結の構造上、ストーリーに重きが置かれるのは仕方ない。
ただ、野木亜希子は今月の美術手帖ドラマ特集で古沢良太との対談の際に、「物語が面白ければいいのだが、そこに裏テーマをいかに巧妙に入れるかということを考えている」と発言している。
それが今回はあまりに過激に前面に出ていた。

もちろんそれは石原さとみ演じるミコトの感情を逆撫でするためのものであり、それにより「理性的な男・感情的な女」という構造は簡単に出来上がるのだが、その流れには男女の問題を扱う上での繊細さがなさすぎる。
さらにミコトは感情的になりながらもその感情をエネルギーに代えて真実に辿り着く。

つまりこれはドラマ向けに絞られた数パターンの感情のみのを分かりやすく見せていくこれまでの石原さとみの定型化した演技と変わらない。
裁判のような絶対的な決着のみに重きを置くのではなく、もっとグレーな部分をミコトにぶつけてその複雑な感情で視聴者に問いかけるようなつくりを期待したい。

法医解剖医の話だから辿り着くのは絶対的な真実でなければならないのはもちろん分かるのだが、そこに至るまでに経緯と最終的な結論に対してミコトは何を考えどのような感情にあるのか。その含みこそがこのドラマをさらに面白くさせるはずだという勝手な思い入れなのです。

TVドラマ評 2018年1月クール作品の紹介

インフルが直撃した影響で1月ドラマの初回時期にぼーっとしたまま過ごしてしまった。
今期はテーマが比較的多岐にわたっており、ドラマごとの特徴が良く出ている。ただ、どこかで見たテーマや内容が多いのも事実。
丁寧につくるか見たことないものをつくることに注力できるかだと思う。

今のところ「anone」「アンナチュラル」「MASKMEN」「電影少女」「隣の家族は青く見える」が良い。

anone

「anone」の先が読めない(つまりストーリーがある)感じは最近の坂元作品では異例。このままぐだぐだになっていくことも充分あり得るが、要所のメッセージを逃したくないという楽しみ方ができる。

アンナチュラル

「アンナチュラル」は質の高い海外ドラマを目標にという記事を目にしたが、設定や構造は従来の日本の連ドラの域を出ているとは言えない。ただ初回に関して言えば、話を二転三転させ真実に辿り着くまでの息もつかせぬ展開は良かった。野木亜紀子の1話完結の謎解きが価値を持ったということなのだろう。

勿論、死因を解明するだけが主題ではなくそこに至るまでの死者の個性や社会的状況から社会派というポイントを加算するのだろうが、そうなってくると余計に日本の連ドラ的既視感に襲われる。例えば前年の「刑事ゆがみ」はその辺りがとてもうまかったゆえ、どこで独自性を出せるかは今後のポイント。

MASKMEN

「MASKMEN」はテレ東十八番のフェイクドキュメンタリーだけど、演者が変わるとこうもまたワクワクするのかと思わせてくれる。
斎藤工の生真面目さと表現者としての素養・野生爆弾くっきーの天性。
この組み合わせのスリリングさは容易にリアルとフェイクの境を消し去ってしまおうとしている。

電影少女

「電影少女」は撮り方が非常にスタイリッシュ。
原作の世界観が現代にブラッシュアップされていて、オーソドックスな展開ながら安心して見られた。初回ラストを含めて今後はオリジナルの展開になっていくようで、原作知らない人間として楽しく見れたらと思う。

隣の家族は青く見える

「隣の家族は青く見える」は先ほどの初回をそれほど期待せず見ていたのだが、「妊活」というテーマに向き合った真摯なドラマだった。
子供に恵まれない夫婦という1点にフォーカスするのではなく、周囲にそれ以外問題を抱える人々を配置することで、複数の問題を均等に扱おうとする姿勢がいい。

個々の問題が重くならないよう工夫されているので説教臭さがなく(主題歌に一瞬あっとなったが)、一方で台詞のタイミングや言葉選びなどが問題を扱うために選び抜かれたものであるのは一目瞭然。
こういう丁寧さや切実さは昨今のドラマにおいては見逃されがちなので、個人的にはしっかり見届けたい。

2017年 小説・映画・TVドラマ ベスト10

2017年 小説(国内)ベスト10

1.『最愛の子ども』松浦理英子

2.『星の子』今村夏子

3.『劇場』又吉直樹

4.『岩場の上から』黒川創

5.『日曜日の人々』高橋弘希

6.『ホサナ』町田康

7.『未熟な同感者』乗代雄介

8.『光点』山岡ミヤ

9.『その八重垣を』三輪太郎

10.『茄子の輝き』滝口悠生

2017年 映画ベスト10

1.『20センチュリー・ウーマン』

2.『バンコクナイツ』

3.『パターソン』

4.『午後8時の訪問者』

5.『彼らが本気で編むときは、』

6.『お嬢さん』

7.『ノクターナル・アニマルズ』

8.『マンチェスター・バイ・ザ・シー』

9.『夜空はいつでも最高密度の青色だ』

10.『ギフテッド』

2017年 TVドラマベスト10

1.『カルテット』

2.『人は見た目が100パーセント』

3.『この声をきみに』

4.『十九歳』

5.『先に生まれただけの僕』

6.『コードブルー3rd』

7.『嘘なんてひとつもないの』

8.『ぼくは麻里のなか』

9.『伊藤くんAtoE』

10.『感情8号線』

(WOWOW SVOD作品を除く)

ドラマ『この声をきみに』最終回

ドラマ『この声をきみに』最終回
地震・衆院選・SP番組で計3回も飛ぶという不運に見舞われながらも最後まで丁寧に作られていた秀作。
大森美香の脚本が決定的な仕事をしていたと思う。
大森さんはNHKで書くようになってから全くというほど外さない。今回もNHKでないと描けないような繊細な話。

内容を要約すると、自らの主義に固執するあまり家族から見捨てられた数学者が職場で行けと言われた自己啓発セミナーの先生と出会い人生を見つめ直す話しで、凝り性の人間が綺麗なセミナーの先生に弱った心を癒やされ丸くなっていく話だったらヤバいなと思っていたのだが、勿論そんな浅い話ではなく。

麻生久美子演じる自己啓発セミナーの先生は朗読教室の先生もやっていて、ここから朗読というコアなテーマが導かれる。
主人公の数学者は言葉や声を媒介にゆっくりとつながりを模索していく一方、実は先生の側がそれ以上の問題を抱えていることが発覚する。
シンプルだけどこの逆転が効いている。

人に何かを教える側の人間がその事に確信が持てなくなる苦しさ。
特に今回は“朗読”を着想に、目に見えない言葉や声で人と人を繋いでいくという話だったので、余計にその苦しさや虚しさが際立つ。
そんな状況においても、人は目に見えないものを信用できるか。

ドラマの最後のシーンではそこへの言及がある。
金儲けや世界平和・病気を治したり犯罪を抑制するのには役に立たないかもしれない“美”と“感動”の探求が、人の喜びのためにあると。
「生まれてきて良かった」と思える瞬間を、目に見えないものから感じ取る豊かさことが、人生なんだと。

数か月ぶりに再会した数学者は今日が誕生日だと先生から唐突に打ちあけられ、耳元でこうささやく。「この声をきみに」
その瞬間、目に見えない声は贈り物になり、ささやくために交差した横顔は唇を重ねた場面を想起させる。
決して目には見えないが、それを信じて繋がる人と人の形がそこにはあった。

『恋妻家宮本』を観る。

『恋妻家宮本』を観る。
ずっと映画を撮りたいと公言していた遊川さんの作品だったから期待していたんだけど映画館には観に行けなかったのでDVDで鑑賞。
良かった。てっきりオリジナル脚本だと思っていたら原作は重松清の「ファミレス」という作品で、ただ調べてみると原作と設定が変わっている部分もある。

遊川さんの映画に対する真摯さが伝わってくる王道の展開や場面が満載で、そのオーソドックスなつくりの中で、脚本家としての人間を描く力が存分に発揮されていた。
プロットよりも台詞に重きを置いた本作はとてもテレビドラマ的なんだけど、それが映画に置き換えられると証明した遊川映画の誕生だと思う

遊川さんといったらバックグラウンドありきのキャラ設定と建前抜きの鋭い本音がひとつの特徴のだけど、本作は子の手が離れ再び二人での生活がスタートしたありきたりなアラフィフ夫婦の話。
夫婦関係の再確認を起点に、周囲の人々の問題を絡めつつ最後には冒頭と同じファミレスのシーンに戻っていく。

たった2時間のこの一周で27年間の夫婦生活の意味やパートナーの存在意義を過不足なく物語として成立させちゃうんだからすごい。
ひとつ具体的な内容に言及すると、重要な台詞として出てくる「正しさ」と「優しさ」というのは息子の「正」と「優一」の選択のから夫婦に課せられていて、作品内では妻が「正」とつけたとなっているが、そこにはこれまた作品で言及されている夫の優柔不断さが絡んでいて、当時はそこにコンセンサスがあったか分からないしそれが良い選択だったかなんてのも分からない。

ただ、重要なのは27年経った今「正しさ」よりも「優しさ」だと気づいたこと、夫が自らそれを選択し、妻へ合意形成を取ろうとしたこと。
些細ではあるんだけど人と人が一緒に生きていく上で意外と外せないことを設定やストーリーを壊すことなくサラッと描いてしまう遊川さんらしさに感動した。遊川映画、遊川ドラマと同じくしてこれからも楽しみです。

欅坂46『風に吹かれても』を観る。 – 『風は吹いている』から『風に吹かれても』へ –

週末あたりから欅の新曲『風に吹かれても』のテレビパフォーマンスが始まってるけれど、完成度の高さには目を見張るものがある。
MV解禁の時から先輩とはかなり議論しテレビでのパフォーマンスも大体予測してたが、それを遥かに上回ってきていた。
鈴本・小林の貢献度、今泉の笑顔、平手のポテンシャル。

「風吹」というタイトル

まとめサイトなどで「風吹」という曲略を見て、AKBの『風は吹いている』という表題曲があったのを思い出した。
確かあれも曲略が「風吹」だった。調べると2011年にリリースされているのでもう6年前の曲。
同じ「風」をコンセプトにAKBと欅の比較をしてみる。

『風は吹いている』は、当時アイドルとしての知名度と人気を確立しつつあったAKBが「私たちは確かに今ここに立っている。
未来を見据えて。大丈夫、風は吹いているから」と、人気=追い風を見方に更なる飛躍を誓った曲ストレートな曲だったと言える。

それから6年、欅坂が歌う『風に吹かれても』の風=人気は実に不確かなものとして描かれる。
それゆえ風に吹かれてどうこうする訳では無く、独自のスタイルを貫く事こそが美学だというメッセージが読み解ける。
今の欅にマッチした内容だが、ここに至るまでのアイドル達の功績を軽視すべきではない。

新たな欅坂パフォーマンス

MVを見た時に抱いたこれまでの「溢れだすエモーション」から「作り込まれた劇場性」への変化が、実はそんな単純なものではなかったと気づかされる。
欅坂がこれまで培ってきた滲み出る表現力がポジティブな感情という新たな領域でも存分に発揮されている事への驚く。

先輩は、2列目の原田と小池のパフォーマンス能力アップにより、1列目と入れ替わった時に見劣りさせずよく持ちこたえていて、それが大きな収穫と考えているとのこと。
どちらにしても、完成度としてはまだまだな部分もあるので、これからのブラッシュアップも楽しみ。
僕はこの曲で紅白もありだと思う

10月期のドラマが始まってしまっていた。

10月期のドラマが始まってしまっていた。

『奥様は、取り扱い注意』

初回で最も重要な物語の設定説明がかなり雑。あまりにも都合よく裏社会から足洗って、結婚して、仲のいいご近所さんが出来てという展開をこのままスルーする訳もなく、ラスボスは夫の西島でほぼ決まりだろう。

ご近所さんの夫婦関係が物語を通底するストーリーになり、そこに並行して奥様がダメ男を1話完結で退治していく単純明快な勧善懲悪ストーリーなのだろう。金城一紀脚本なので初回もだけど内容はそれなりに期待を持たせてくれる。主婦業とワンダーウーマン業の妙なバランスに惹かれた部分はあった。

『わろてんか』初週


朝ドラ特有、ヒロイン幼少期からの生い立ちを説明するはじめの1週間がどうも面白く見れない。ただ、ラストで葵わかなが登場し予告での個性豊かな顔ぶれを見られたことで期待もある。
葵わかなが思った以上に顔が濃くて驚いた。
広瀬アリスを近くに置いたのもその関係かな。

『恋する香港』初回

今日始まった「刑事ゆがみ」が倉光泰子脚本というのは知ったいたので、こっちもかと驚いた。はっきりとは分からないが恐らくオリジナル。
途中までテレ東の真似事のようなフェイクドキュメンタリースタイルなんだけど、ラスト付近で冒頭のカットに繫がりそこから物語が動き出す。

ドラマ内ドキュメンタリーのアイドル密着という題材と最上もがというチョイス、AD馬場ふみかの本音と建て前の混ざり合いなど、不思議なバランス。そこに突如小池栄子が絡んできて、香港を舞台にアバンチュール的な方向になるのか。倉光脚本の恋愛要素がこの微妙な世界観とどうマッチするのか楽しみ。

『刑事ゆがみ』初回

面白い。刑事バディものは突き抜けないと面白くないという定説に引っ張られ設定やキャラに無理が出て興ざめするというパターンも多いが、今回の二人(浅野忠信・神木隆之介)は妙な作り込みもなくバランス良く物語の中にいる。

最近のゴールデンの民放ドラマでは珍しい余計なところをどんどんそぎ落としていくマイナスの手法で作られている作品。
脇役の稲森いずみと山本美月の好演も光っている。山本美月は一瞬ドラゴンタトゥーの時のルーニ・マーラを彷彿とさせる。あと初回ゲストの杉咲花が凄い上手くてビビった。

夜行観覧車から4年も経つと考えれば変化期間としてはそれほど驚くことではないのかもしれないが、それでも異彩を放っていた。
その杉咲との偶然の再開から度々恋愛演出に突入する滑稽さや違和感、事件の犯人の動機と顔つき、痴漢をテーマにオチまで用意するあたりにシンプルながら質の高さを感じた。

『新宿セブン』初回

よくある裏社会ものなんだけど、出来がいい。テーマの扱い方やコスパを考えると、NHKとかWOWに匹敵する。
モテキあたりから深夜ドラマを引っ張り続けてきたテレ東だけど、実は今年のドラマ24/ドラマ25は間違いなく当たり年。テレ東深夜ドラマを再評価したい。

『セトウツミ』


悪くはないんだけど、映画の池松・菅田を見てると物足りなさを感じる。あの二人にあった静の迫力、まだ高杉・葉山ペアには難しい。例えば通学帰りの駄弁りのように物凄くミクロな世界を掬った物語だから、スベりそうはOKでもスベってると視聴者に一瞬でも意識させたらアウト。

映画と同じように二人の出会いを描く前に時系列を替え、息の合った駄弁り(フォーマット)から始まるんだけど、一番重要なそこでのやりとりのインパクトがなかった。あれは人に見られる駄弁りつまり長尺の漫才な訳で、ボケは脚本の良し悪しで演じる当人の力量はそれ程要らないのかなと思うけど、ツッコミはタイミングや声のトーンなど工夫が必要になってくる。つまり、内海があの空間をコントロールしているというシチュエーションで、池松と高杉の差なのかなと思う部分はある。
ヒロイン、映画の中条の物語とはあまりに不釣り合いな圧倒的な美も良かったが、清原果耶の陰性も引けを取らない。

『先に生まれただけの僕』初回


日テレを代表する次屋・水田の二人と福田靖の脚本がどうなるのかと期待していた一作。結論から言うと、思った以上に無難に落ち着いた印象。
現段階では、ここは笑うべきなのかと首を傾げる部分や上辺の社会派的な印象もあり評価が難しい。

主演の櫻井翔の影響力も大きい。
あの主人公から連想するのはZEROの時の櫻井くんで、本当に申し訳ないけどあの番組の櫻井くんの上手く立ち回ろうとする面白みに欠ける感がもろにドラマに反映されている感があった。
そういった意味ではリアルではあるんだけど、そことテーマの整合性が欠けているテーマとしては外部から見た学校での諸問題を起点に、大人が子供に果たすべき真の責任を問う話であり、どうしても校長の影響が大きいドラマになるので、これから櫻井くんがどう撮られていくかが鍵。
蒼井優・木南晴夏・森川葵・多部未華子・井川遥と、女優は「監獄のお姫様」と張れる豪華さ。

映画『パターソン』を観る。- 理想としてのレギュラー/イレギュラー –

映画『パターソン』を観てきた。
30歳でぶち当たった仕事での壁とその影響でぎくしゃくした彼女との関係が少しでも晴れればという希望を込めて。
彼女からは、「パターソン宝田くんみたいだね」という言葉をいただいた。(悪い意味で)

さて、まず驚いたのは、恐らく理想のど真ん中に来るだろうと予想していたパターソンと恋人のローラとの関係が思っていたものとは若干違っていたこと。
あの関係を的確に現す“尻に敷く”という日本語があり、僕はパターソンの恋人とうまくやっていくための小さな気配りの積み重ねは素敵だと感じたが、二人のケースをモデルに力関係にやや偏りがある男女が多く登場するこの映画が心から素晴らしいと思える人間がどれ程いるのかというのが気になった。

月~金、決まった時間に起きて決まった時間に出社して決まった時間に退社して決まった時間に愛犬の散歩中にバーに立ち寄りビールを飲む。平日の空き時間と土日は趣味に勤しむ。
恐らくこの至高の日常を与えられてもそれをものに出来ない人間が多すぎるのだと思う。

どういう訳か根を詰めて仕事をしてみたり、仲良くもない人と今にも切れそうな糸で繋がってみたり。
今の世の中、多くの人の理想(願望)はイレギュラーにある。ただその人たちの存在はレギュラーで、存在がイレギュラーな人間にとっての理想って実は限りなくレギュラーなところに設定されてたりする。

携帯すら持たず自身への話題をいつもそれなりに躱す(承認を求めない)パターソンはやはりイレギュラーであり、だからこそ言葉などの感性=普通の人間にとってはなんの変哲もないものを丁寧に扱うことができる人間がいるという内容には説得力があり安堵感を覚えた。

パターソンが言葉や感性を大切にしてることは冒頭からしっかり伝わってきてるのだけど、それが決定的になるのが愛犬が起こした事件とその後の落ち込みぶり、永瀬正敏との会話。
永瀬正敏の「a-ha」あれを呑み込めないのはパターソンがあそこにイレギュラー=個性を感じたからだろう。

パターソンとは別の特徴がある恋人のイレギュラーぶり(ここを書くと延々続く)以外では、バスが故障することと永瀬正敏の「a-ha」が直接自分に向けられたイレギュラーであり、バスの対応はキツそうだったが、言葉を受け入れることの難しさは見せなかった。言葉を個性と尊重してるからだろう。

僕が美しいと感じたのは、周囲に流されないはっきりとした基準をぶらさず好きなように生きて、好きなように生きる人を肯定する姿だったのだろう。
僕は、時に本音を隠してチャーミングに振る舞うことも流されないという確固たる意思から生まれる姿だと思う。

ドラマ『僕たちがやりました』最終回を観る

ドラマ『僕たちがやりました』最終回を観る

まずは、第2話を観たときの感想から。

初回見たときにサスペンスとしてもコメディとしても学園ものとしても中途半端だなとガッカリしたけど、もしかしたらこの物語が目指しているのは今の若者のリアルな成長譚なのかもしれないと考えたら面白く見れるようになった。

そこそこ幸せやそこそこ楽しいがモットーで、それを不自由なく享受し続けたいと思う呑気な主人公にふりかかる外圧。
人を殺してしまったかもしれないという状況への後悔や焦燥の一方で集中力や興味が続かず、都合の良い解釈や脱線で事実をうやむやにしようとする。
ここら辺の描写が今の若者っぽい。

このレベルの窮地に於いてなお、幼なじみへのエロい思考回路や海外逃亡という短絡的な推測。
正直痛々しいほどだがもしかしたら今やこのような予期せぬ外圧以外に人を考えさせたり成長させたりする要因が無くなっているのではないかと考えてしまう。
彼の成長をどう描くのかが今後のポイントだろう。

「僕たちがやりました」最終回

まず、原作漫画を読んでないのに2話でこういう話になりそうと読んだ自分の見立てを褒めたい。
途中からはまさに世相を映した若者の成長譚へと化けた。
最後、トビオの屋上での演説と市橋の亡霊は少し過剰かなと思うけれど、リアルが刺さらないというのは一貫していた。

一昔前の夏の学園モノだったら総じて刻まれた一生忘れない思い出の脇には仲間の笑顔が咲いてるんだけど、これは今のリアリティじゃない。
過去の記憶と現在との線引きがクールにできる人とできない人がいて、社会に順応した友人たちと再会した主人公は未だにそれができず苦しんでいる。

それは過去と現在の線引きだけじゃなく価値観や考えの違う人間がある期間たまたま一緒になっただけという青春という名の夢幻にいた自分を割り切れないからなのかもしれない。
今の若者にとってそこそこ楽しい毎日も幻なのだろうか。
現実を生きる友人の「もう会わないかな」という台詞が重たい。

タイトルの「僕たちがやりました」、これは承認を希求する今の若者たちのシュプレヒコールのようなものだろう。
それが認められないとたちまち存在が覆される。
誰もが皆サイバースペースへ向かって「僕たちがやりました」と繰り返し叫んでいるからこそ、誰かの声でしか救われなくなってしまう。

でもその弱さは、蓮子の10年越しの「頑張ったね」やパイセンの「たまに死にたくなるのが、お前が生きてる証拠や」のようなその人の為だけの声を引き出す。
自分や家族を頼れない弱さを無防備に他人に委ねることができるのは、実はこういった貴重で幸福な経験がある人間が多いからなのかもしれない。

ドラマ『過保護のカホコ』最終話を観る。

「過保護のカホコ」最終話。
びっくりするほど真っ直ぐなハッピーエンド。最後、指輪が坂を転げてそれを母親が追っかける引きのシーンでマジかここでトラックに轢かれるのかよと不安がよぎったけど、そんなことも全くなく。しかもこの爽快なエンディングがすっばらしい。遊川さん、これで良いんです。

鬼母ものにおいては、母の子供に対する異常なまでの愛とそのエスカレーションが核になる収束の話が多い。
ただこの物語はそこの温度を一定に留め、子供の変化から導かれる親やもっと大きな家族ごとの変化をダイナミックに描いた発散の物語になっていった。当初からの地図の赤い線はその伏線だろう。

過保護の特性を、子供の壁になってあげるための愛がいつしか子供への壁になってしまうと説明した。言葉にすると当たり前なんだけど、ここまで描き切らないと「お母さん、娘をやめていいですか?」みたいに最後まで煮え切らなくなってしまう。

そういった意味では、本作は紛れもなく鬼母もの過保護親ものの決定版と言え、もうこのジャンルにおいてはこれ以上の作品をつくる必要がないと思わせるほどの作品だったと思う。

ドラマ『ごめん、愛してる』最終回を観る。

『ごめん、愛してる』最終回。
凡庸ではあるものの韓国ドラマのリメイクだけあって、愛する人に愛してると言えない悲劇はつくれていたと思う。相手のことを思って涙する資格がないという母親の台詞の重み然り。
一方で、連ドラの限界も露呈した。

終わり方としては、長瀬のタイトル台詞、吉岡里帆の泣き崩れる姿、長瀬が波打ち際を去っていく、タイトルバックドーンしかない。これは最近の映画にも多いラストタイトルバックの手法を取り入れたシーンなのに、1年後というしょうもない後付けとともに心臓移植が行われたことを説明しちゃう。

あれを説明しないと苦情が来ちゃうという配慮なんだろうけど、ドラマで伝えたかったメッセージより視聴者からの苦情を避ける説明が優先されてしまうことにげんなりした。
この残念な終わり方で一番損したのは吉岡里帆だと思う。

ヒロインの資質において常に及第点より少し下でパッとせず力を持て余していた吉岡がタイトルの台詞を受け崩れ落ちるところで見事に花開いたのに、その後を付け足しのせいでこのドラマは彼女が微笑みながら歩いていくシーンで終わる。正直、あれじゃ全く残らない。

この物語は視点人物からしたら明らかな悲劇な訳で、でも一人称的にそれを描けないんだよね。韓国ドラマがどういうつくりだったかは見てないので分からないけど、最後の最後まで律の視点からの物語を貫いて欲しかった。律が死ぬ時が物語の終わりであって欲しかった。

映画『三度目の殺人』を観る。

『三度目の殺人』を観てきた。圧巻。
司法制度・死刑問題・真実とは何かなど、切り口は多様でしかも手垢がついたものばかり。しかし、これを是枝監督が映画にするとこれまでには到達しえなかった情景が浮かび上がってくる。

制度・問題・真実、これらは全て人間によってつくられたものである。

脆く移ろい易い人間の心理の上に成立する諸問題の責任はどこに希求するのが正しいのか。本来、人はそんなことを考えることなく日々を過ごしている。或いはある程度打算的な人間なら、社会や自己のルールを弁えて上手く立ち回ることができるだろう。本作の主人公はまさにそのようなタイプの人間である。

主人公・重盛の冒頭からの幾つかの台詞で、彼のパーソナリティは強烈に伝わってくる。その彼が弁護を引き受けた三隅という二度目の殺人を犯した犯人と接見する中で、彼の異常なまでの主義が簡単に翻弄されてしまう。この二人のやりとりが晒す人間の心理こそがこの映画の肝だろう。

接見の全容を明かすと、面会を重ねていくうちに弁護士の重盛は殺人犯の三隅と似たような考えの持ち主だったということが分かり(同情により感情移入してしまったという事では全くなく)、次第に自分の確固たる主義を逸脱してまで三隅が隠し続ける「真実」を追い求めてしまう。

このストーリーラインに拍車がかかり、真実に辿り着くことこそが救済の施しのように歪んだ形で描かれていく。一方で、その真実は特定の人物によってつくられたものにしかすぎず、司法などの場においては無力であるという残酷を描いていることにもなる。

劇中で三度目の殺人は起きない。では、三度目の殺人は誰が誰を何を根拠にどう殺したのか。大体の推測はできる。それを阻止しようとした重盛と殺人者とのシンクロによる当惑、犯人(=自身)を殺してまで手に入れたかった真実は果たしてそれほど必要なものだったのか。

作品内の台詞にもあるし監督もインタビューで答えているが、真実は誰にも分からない。それでも司法の場においてはある程度合理的に善悪を整理しないといけない。それも人間の手によって。それが怖く責任を追うのが御免だから弁護士・検事・裁判官は示し合わせたようなやり取りを法廷で済ませる。

主人公はその血の通わない制度に見事に順応したエリートだった。
しかし強い人間の心理が崩れ去るというのは、その人間たちによって築き上げられた制度の全てが不安定だという事を露呈させる。そこまでのリスクを負って人は真実・善悪・正義と向き合うべきなのだろうか。恐らくそれは誰も知らない。

ドラマ『感情8号線』を観る。

『感情8号線』フジのCSで今年の頭にやっていたものが地上波再放送。
深夜のかなり深い時間でしかも不定期だったので見た人ほぼいないと思うけど、とてもいいドラマだった。
まず、作りが非常に丁寧。各回1人を主人公においた全6回なのだが、毎回主人公たちの感情がしっかり表現されていた。

主人公たちに共通するのが気持ちが晴れないということで、それは恋愛だったり仕事・家庭など普遍的な女性の悩みが投影される。
晴れない気持ちの中で生きがいやアイデンティティを模索しながら先が見えない霧の中を彷徨う中で、ふっと気持ちが軽くなる瞬間が毎回ラストにちゃんとある。

オムニバス形式のそれだけでも見事だったが、この物語の主人公たちは冒頭のナレーションにもあるように俯瞰でみると近くて遠い微妙な位置関係に配置されている。
絶妙に関与し合う彼女たちの距離感は、電車では繋がらないが国道では繋がっているという環八沿いの街の不思議なつながりとマッチする。

ぼんやりとではあるが連綿とした繫がりにより浮かび上がる女性たちの感情の豊かさ、昨今の女子同士ものドラマの足し算演出とは真逆な極力説明を省いたつくりと現実指向、気付けば共鳴・反発し合う人と人と距離感覚など、しっかりと考えられた良いドラマ・群像劇だったと思う。

映画『エル ELLE』を観る。

ポール・バーホーベン監督の映画『エル ELLE』を観た。
フィリップ・ディジャンによる小説『Oh…』を原作としたエロティック・サスペンス。

登場人物が多く、主人公の一見予測不能な言動から多少混乱するようなところのあるストーリーだったけれども、よく考えるととてもシンプルなメッセージ性のある映画だった。
それは最初と最後のシーンを見れば明確だ。
映画の開始1秒で死亡フラグが立つ主人公が、最後のシーンで墓参りをしている。
物語の中で起こる事件がシンプルに描写されていくということもあるが、この映画に関しては動機の深読みや裏付けは必要なかったと思う。
起こることを淡々と整理していく処理能力と結果だけ分かれば十分に楽しめる。

これは主人公の主義ともシンクロする。
彼女は徹底的に恥を恐れず、そして不感症。

ストーリー的には女性の話なんだけれども、今の時代この2つの能力は生きる上でのマストなスキルと言えつつもあり、強く生きたいと思う万人に当てはまるものではないか。
主人公は、その能力を体得することで、自分を苦しめ続けた関連のある人物を名実ともに抹殺することに成功する。

一方で、この能力が自然に備わっている人間はある種のサイコパスであり、この映画でも主人公はどこかのタイミングでたかが外れてしまった。その瞬間はどこにあったのか。

『ゴーンガール』的な復讐心メラメラな女性の物語ではなく、諦念からの達観した女性の物語。

最初の事件の後の冷静さ(後片付けと知人への打ち明け)には違和感があるんだけれども、両親がいなくなった以降に主人公の心境の変化はあったのだろう。
思い出さないように感情を殺していたところから、本当に不感症になったことを確認し試行するように。
もし、常人では理解できないような行動がなかったら、主人公が車で事故した後の応急処置のシーンなんかは真っ当に官能的で美しく映っただろう。

時系列に漏れなく日々の出来事が描写されてるからこそ、気持ちが悪いという感覚は新鮮だ。

映画『君の膵臓をたべたい』を観る。

東京に来ている母と妹が『君の膵臓をたべたい』を見るということだったので一緒に見て行ってきた。
普段、自分では選ばない映画を見れたことが良かった。
上手くまとまっていたと思う。

一般的に、この手の物語で避けて通れないのが、病気や事故で主人公が亡くなるというケータイ小説的な安易さ。
この映画では、高校生カップルと死が結びつくだけで生じるチープさを避けるため、死を敢えて重く扱わないようにつくられていたのだろう。

それが余命幾ばくもないヒロインが醸すファンタジー性と、他人と向き合おうとしない主人公の当初の薄情さからうかがえる。
この土台をしっかりと踏襲しつつクライマックスでヒロインのリアルとそれを受け止めて変わる主人公の姿を描く。

ヒロインはなぜ自身の最後を主人公に託したのか。

これは実にうまく表現されていた。
彼が最後に送ろうとして消したメールの長文、結果として最後に送ったメールの文章、それに完全に呼応する形で長い年月を越え届いた彼女からの最後のメッセージ。
最後の言葉。これがもたらした彼の変化によって彼女は彼や親友の心に永遠に生き続けることになる必然。

若いキャストで痛々しくも瑞々しさを備え描かれる物語に、後日談という原作にはない設定、小栗旬という確立された役者像が作品の世界観を壊しかねないというリスクがある中で「僕と友達になって下さい」という言葉。これらが丁寧に作品として包みあげられていることをみて、小栗旬の俳優としての力も感じた。

浜辺美波の透明感も素晴らしい。
陽光が差し込み白で飛んだような画面の中でおぼろげに佇んでいる彼女をカメラが追うイメージビデオ的な撮られ方と茶目っ気たっぷりな言動。
大林映画の石田ひかりを思い出すような「~だそ」や「ほ~ら〇〇じゃないか」といった現実離れした言い回し。ノスタルジック。

僕が初めて浜辺美波を知ったのが実写ドラマ「あの花」で、その後の「無痛」や「咲」でも寡黙で刹那的な役が多かったのでこのキャラクターもそれ程抵抗感は感じなかった。
細かなところで言えば最後まで呼び合わなかった二人の名前がリンクしてたり、死因や同級生のその後も過不足なくまとまっていた。

一つ疑問だったのが、主人公とヒロインの家族が最後の方まで全く出て来ない事。親が子を心配したり二人の関係に口を挟むというリアリティが徹底したファンタジー要素を壊しかねないという理由だと思うけれど、ヒロインが病気で死ないと予測するとこの異常さは妙に目立ってしまい意識が持っていかれた。

次のNHK朝ドラ『わろてんか』は、脚本の吉田智子が書くということだ。

『ふたりのキャンバス』を観る。

『ふたりのキャンバス』を観る。
それは毎年のように、あるいは風物詩のように、なぜか8月にあるNHKの戦争テーマのドラマ。
被爆者の体験を聞きながらそれを1年がかりで絵にする女子高生の話。
戦争の記憶を若い世代が引き継ぐことが描かれるのだろうと思っていたが、そう単純ではなかった。
軸となるのは主人公と友人・主人公と被爆者の方との関係にある。

次第に距離が近づいていく2人の学校生活と並行して、被爆者の方とのやり取りも進んでいく。
主人公を取り巻くこの二つの関係が行きつく結論は他人の事や昔の事は分からないということである。
しかし、だからこそ、自分でしっかり考えないといけないし、そこから導き出された答えがあればそれで十分なのだ。

下書きや絵の具で描いていく過程を追い、主人公が1年を掛けてようやく完成させた絵は最後に見切れるような形で一瞬しか映らない。
それを見に来た被爆者の方はきっぱりと「記憶とは違う」と言う。ただ、続けて「あんたの絵がええ」と褒める。そこに自分で考え導き出した答えがあったからだろう。

主人公が描いた絵を受け手に最後まで見せなかったのは、あなたもあなたの力で描いて下さいというメッセージだろう。
そこに大仰な責任や理解は必要ないのかもしれない。守りたいと思える自分、向き合って出した答え、その姿勢の大切さに焦点が定まっていた。
あえて断言するとすれば、例年と変わらず、「小芝風花」最強説。


なんとか、今日、テレビドラマ博覧会に行けた。
年齢層も様々で、漏れ聞こえる会話から僕より格段に詳しい女子学生がいたりと面白かった。
展示を見ながらあの頃はという昔を懐かしむ会話も聞かれ、改めてテレビドラマは70年近く人々の生活に寄り添ってきたんだなと実感。
これからもドラマ好きでありたい

欅坂46『真っ白なものは汚したくなる』/乃木坂46『逃げ水』、MVを観る。

欅坂に対して「無邪気な少女たちが大人たち資本主義システムの道具とされている」という批判があるけれども、偶像のシュミラークルによる叛乱/革命的なダンスには、なんらかの自己言及的なアポリアと時限装置的バグが内在されていそうでワクワクするでしよ?

欅坂46の1st アルバム『真っ白なものは汚したくなる』が発売された。

アルバムリード『月曜日の朝、スカートを切られた』は、指摘するまでもなく『サイレントマジョリティー』の前日譚。
彼女たちが如何にして革命戦士になったか、自我が芽生えた瞬間を切り取る。「メチャカリ」のCMともリンクしててストーリー性が高い。
更に収束の精度や時期も的確で、作り手の欅愛が伝わる。

物語に関わらず総ての出来事の見映えは発散と収束の具合に因るもので、『月曜日の朝、スカートを切られた』のように収束の側は作り手の愛やパワーでそれなりの質が保たれるというのがよく分かる。
もちろんここに物語を見て悦に入るファンも多いことが想定できるが、僕はこのMVには欅本来の魅力は感じなかった。

今の欅の凄みは、作り手のそれなりのバランスや狙いを遥かに上回る得体の知れなさで、これは発散からしか生まれない。
ファーストアルバムというタイミングを意識しての事だろうが、僕はまだまだ『エキセントリック』のような発散する欅坂という物語の途上に期待をしたい。


 

一方、姉妹グループ乃木坂46の『逃げ水』、これはとても良いMVだった。
3期の2人がダブルセンターという大胆な変化を上手く描いている。通過儀礼というテーマにひねりはないが、乃木坂MVによくある閉塞感のある小さなコミュニティ内での独特な物語性を感じさせる。

そこでの先輩たちの姿は目を疑うような滑稽さで、ただこれはルックス至上といわれた乃木坂でも今や容姿だけではトップに立てないという辛辣なメッセージだろうか。
先輩たちのあられもない姿を目の当たりにしヘトヘトになりながらもセンターの資質を探求する瑞々しいカットに乃木坂の希望が見える。

内容はともかくルックが被るのがパクチャヌクの「お嬢さん」で、途中の鮮やかな七夕飾り?のようなところも含め韓国映画の影響は大きいように思う。
そのテイストに合うのは、(良い意味で)純朴で日本的な大園よりも、韓国映画の美少女感のある与田であり一際輝いて見える。
与田が、非常に、可愛い。

第157回芥川賞/直木賞について

直木賞の佐藤正午さんの接待受賞(されてしかるべき)と比べて、沼田さんの芥川賞受賞は意外だった。

芥川賞には「あの作品で取るべきだった」とか「この作品にあげちゃうか」という喧喧諤諤がつきもので、作家たちはいつまでもそれを僻んだりネタにしたりし続ける。

沼田さんの『影裏』は(デビュー作ということもあり)「あの作品で取るべきだった」と言われる作品で受賞を遂げた極めて稀な例だといえる。

読んだ後のメモはこんな感じだった。

文学界新人賞受賞作。短い作品。
岩手の自然の滑らかさや釣りの俗気ない描写ですらすらと読ませてしまうのだが、途中で一回・最後にもう一回、誤って飲み込んでしまうと窒息しかける異物が紛れている。描かないことで浮かびあがってくる輪郭のみに対峙している不確かが不気味であるも逃れられない。震災との距離も考え抜かれており、筆者の並々ならぬ才能を感じた。

欲を言えば、今村夏子さん『星の子』の同時受賞を見たかった。
これも現代における本当の怖さに肉薄したエキセントリックな作品だったから。

第157回芥川賞は沼田真佑さんに決定!(平成29年上半期)|公益財団法人日本文学振興会
第157回直木賞は佐藤正午さんに決定!(平成29年上半期)|公益財団法人日本文学振興会

映画『メアリと魔法の花』を観る。

『メアリと魔法の花』を見てきた。
正直に言って、出来に関しては、期待に応えるものではなかった。
ただ裏を返せば、これからのポノック作品は上がる一方だという長いスパンでの期待を考えれば問題ないように思う。

論点は2つ。
一つ、子供向けであること。二つ、ポノック長編第一作目ということ。

設定上、核となるのは2日の話で100分の映画で50分ずつで2日を描くというのが単純計算。
詳しく計った訳ではないが、割と正直にそういう分割だったと感じた。
だから特に前半が説明的で間延びした印象になる。
画で世界観を提示するという命題が前半にあったなら子供向けとしては仕方ないと言えるが主人公の精神年齢が幼かったり登場人物が少ないことも、ストーリーが単線的になった要因だと思う。
とはいえ、ここも分かりやすさを重視しているという目的があってのことなら今後改善は見込めるだろう。

2点目のポノックでの1作目というのは、これを米林監督の3作目という捉え方をしてしまうと、まるで駄作のような感じが増してしまうということ。
ジブリ作品の「アリエッティ」「マーニー」と「メアリ」は分けて考えるべきだろう。
現段階でジブリとの対比は酷だ。同じ監督が作ってもジブリという屋台骨があるかないかでここまで出来に差が生まれるという衝撃はあるが、ポストジブリを目指す新しい作り手たちの初めての作品として、今後も期待するというスタンスが重要だろう。

次は少し大人を意識した作品ができれば、米林監督の直接的なメッセージが感じられればどんどん面白くなっていくのではないかと思う。
改めて、宮崎アニメの政治性・社会性の高さには驚かされました。

ドラマ『100万円の女たち』最終回を観る。

http://www.tv-tokyo.co.jp/100man/

『100万円の女たち』最終回

今回のクールには「CRISIS」や「小さな巨人」など直接的な政権批判をやったドラマもある中で、本作は抽象度を高めた上でしっかり現代を批評するテーマを描いていると少なからずラスト前までは思っていた。
作中で鍵となっている“漂う”という態度がまさにそうである。

主人公である売れない作家の道間が作中で発表する『漂う感情』という本のタイトルからもそれがうかがえる。
では、この“漂う”というのは一体どういうことなのか。
死刑囚の父を持つという設定から、当初は“贖罪”というテーマに関連するのだと思っていた。
しかし、物語が進むにつれて次第に見えてくるこの“漂う”ことの真意が、未成熟ではあるものの友も敵もつくらない友好の可能性だど気づかされる。
これは東浩紀の『ゲンロン0』で書かれた「観光客」についての言及とも重なる。

主人公が漂うことを赦さない、堕落した「国家」や「政治」の存在も確かだ。
例えば、「国家」について。主人公と謎の女たちが生活する小さなコミュニティの外部には明らかに薄っぺらい人たちの世界が置かれている。売れっ子作家の自己啓発的な発言の連続や主人公を脅迫するためのFAXにあった「本当の償いのはじまりです(笑)」という言葉の軽さ、世間の注目を集めるショッキングな出来事によって関連本が売れる民度の低さ、自分でもコントロール出来ない人気や批判の拡散など。

この薄っぺらい世界と漂う人間とのジレンマに加え、本作には典型的なサイコパスが登場する。
これは、テロリストのメタファーであろう。ここで面白いのは、このサイコパスが世界の側の人間を相手にせず、漂う人間のその半端な態度に対して攻撃を仕掛ける点である。漂う主人公に対し、友敵をはっきり分け批判の応酬で炎上させるような昨今のシステムを明示し「全てが出来レース」なのだと言い揺さぶりをかける。

果たして主人公は漂い続けられたのだろうか。

彼にはテロリストを抹殺してくる女がたまたまそばにおり、それとはまた別の女性と関係を再構築することで(最初から憐み=誤配が種の壁を越えてしまっているからこそ、ぼくたちは家族をつくることができるのである 東浩紀『ゲンロン0』P225)自己の恢復を目指す。
この問題に対する明確な対処法を示すのは非常に困難なことであるのは分かる。

しかし、最終回の30分ほぼ全編を使って提示された答えが「ありふれた愛」や「慈善活動」というものだったので、もう少し落としどころを工夫してくれれば、つまり漂う感情が垣間見れたらもっと良かったのではなかろうか。

TVドラマ評『CRISIS』『リバース』『人は見た目が100パーセント』最終回について

TVドラマ評『CRISIS』『リバース』『人は見た目が100パーセント』最終回について

『CRISIS』最終回

過去のツイートでも触れたが、物語の中盤以降主人公たちの属する部隊が国や国民を守るという警察本来の任務と、国家や権力者というより大きな力にとって不都合な真実を抹殺することの間で板挟みになるというテーマが最後の最後まで描き抜かれていた。

彼らの理念は裏から入って表に出してやること。
それぞれが過去の痛ましい経験を背負いながらもどうすれば表に戻ってこられるか、しかしこの揺らぐことのない信念は最終回でもあっけなく阻まれてしまう。より大きな権力が過程を無視し結果だけに目を向けるからだ。裏から入って表に出る前に消す。

より大きな国家や権力の前に市民が如何に無力であるか。
特出すべき能力を兼ね備えた公安チームでも権力には抗えない。
ラスト間際ではメンバーがテロリストへの反転を示唆する描写がある。じわじわと膨らんでいった彼らの不安や行き場のない怒りは中盤以降小出しに描かれていた。

まさに今の日本が直面する問題そのものである。
毎話用意されるターゲットに一貫性がなく物語としての大筋が見られないと感じた部分もあったが、これは毎回の犯人が権力にとって不都合なら手段を選ばず抹殺されるという繰り返しの方で筋を作っていたんだと見終ってから気づく。

ラストシーン、ニュース映像の「ここで速報です」で終わる。
如何にも続編が用意されそうな終わりだが、続編は作るべきではないと思う。この速報の内容はは何だったのか。彼らがテロに反転したのではない。共謀罪が可決されたのである。取り返しはつかない。
鋭く社会を抉った良作だった。

『リバース』最終回

窃盗団が絡むことは予想していたので謎が解明された時の衝撃はなかったが、加害者意識を潜在的に抱えながら大人になってしまった4人の現在の描写と事件が再び動き出した因子が上手に散りばめらたゆえの展開が良かった。

作り手も恐らく種明かしより4人含めた事件に関わった人間たちの贖罪に比重をおきたかったんだと思う。
事件が再び動き出した事で転換点となる問題が関係者にはふりかかる。これまではぼんやり逃げてこれたことを直視し変わらなければならないと思えるか。たとえそれが容赦のない現実だとしても。

男性同士の関係を主題に設定にした分、これまでの湊かなえのイヤミス的な作家性の作品とは異なるドライで清々しいラストになっていたと思う。コーヒーなどの小道具の使い方や、藤原と戸田の恋愛要素、意識不明や姿をくらまして時間的に証言をズラすところなど、展開としても良く出来ていたと思う。

『人は見た目が100パーセント』最終回

結論から言うと、今期暫定1番。徹底的な個性重視が生み出した確固たる作品性。最終回の前の回で主人公が思いを寄せる相手が当然のように二股を肯定しテーマが逸れてしまった感は否めないけど、本質としてはセンスや雰囲気など曖昧なものへの価値の偏重への警鐘がある。

恋に恋することに自覚的であることでイケてる風が装える女子会全盛時代に(そういう人に限って恋バナ以外の引き出しがない)、そこを含めて“研究”という自分たちの引き出しでポジティブに勝負する主人公たちの姿が本来の人のあるべき姿だと思う。

分からない事を分かったフリで立ち回る、容姿やセンスを盾に根拠なく上辺の目くばせでコミュニケーションが成立する時代の象徴として、「人は変わらない」や「できないことは誰かに任せればいい」という台詞がある。しかし主人公たちはそこに疑問を投げかける。研究し最適な結論を導こうと努力とする。

ここまで突き抜けて個性的な作品になってしまっただけに落としどころは難しく、友情という安易なところに落ち着いてしまったのは勿体なかったが、それでも「人は変わることができる」と信じてこれからも研究を続けるであろう彼女たちの勇姿はポスト真実時代の立派な処世術だったと言える。

最後にタイトルの「人は見た目が100%」について。
これは決して今の世の中のことを指しているのではなく、もしも今世間がこう言ったらあなたならどうしますかという仮定の一例なのだろう。そうならばまずその条件が話して本当に正しいのか、そしてそれが事実ならばどう対処すべきか。

そういった過程を描きながら、強烈なタイトルにしっかり紐づけるあたりも素晴らしい。
何度も書くが、個人的には「タラレバ」的雰囲気(をベースにした作品)がポスト真実時代の象徴だと思っている。ゆえに今回そこに対峙した桐谷美玲・水川あさみ・ブルゾンちえみは見ていて本当に気持ちがよかった。

映画『20センチュリー・ウーマン』を観る。~1979年のフェイク・ファミリー~

『20センチュリー・ウーマン』を観てきた。

まず驚いたのが、この映画の語り口が今の日本のテレビドラマと非常に似ているということ。岡田恵和や坂元裕二がここ数年描き続けてきたテーマとの近接性。簡潔に言ってしまえば“疑似家族”。
もちろん主軸はドロシーとジェイミーの親子関係なんだけど。

一つ屋根の下で他人同士が暮らすという設定の上で重要なのが個々のキャラクターや人物の背景。岡田さんや坂元さんもこれが上手いんだけど、この映画もこの点が素晴らしい。

例えば、ウィリアム。絶体バレる状況下でアビーと関係を持ったり、ドロシーに不意にキスをしてしまったりする。
そこには彼の色男としての明暗があり、ヒッピーだった過去は作品全体の雰囲気をリードしている。にも関わらずフェミニズムというテーマの前に唯一の成人男性という添え者として存在感の薄さ。重層的なキャラが作品に奉仕する成功例。

アビーとジュリーという2人の若い女の子のキャラもいい。
ニューヨークのアートスクールをガンを発病したことでで諦めたアビーの過激なフェミニズムとジェイミーと微妙な距離感を保ちつつ大人の表情を見せるジュリー。この2人の女の子と一緒にいるだけで15歳の少年が「僕はフェミニストだから」と言うことに説得力が持ててしまう。

母であるドロシーが彼や彼女たち意外にも下宿に招きながら活発な議論して行く中で絞られていくのはフェミニズムについてなのだが、これがこの映画のテーマの中心かと言われればそうではない。
それはまだネットが無かった79年当初のコミュニケーションの再現として描かれる。

ではこのコミュニティの意義はどうか。
自由奔放の現実主義者(wiredミルズ監督インタビュー記事参照)であるドロシーが私がジェイミーを育てたら私のように不幸になるのという思いからアビーやウィリアム・ジュリーをそばにおいたということは分かる。では、それでどうなったか。

ジェイミーは個性豊かな彼や彼女たちから影響を受け、時に母親も心配するほどのフェミニストぶりをみせながら多面的な少年へと成長していく。だが、これがこの映画のテーマの中心かと言われればそうではない。80年を過ぎた頃からはコミュニティの存在が朧げになるほど各人はバラバラに生きていく。

そのバラバラになったコミュニティを振り返ってもらいカタルシスを強要することも一切ない。結局、何も明示されない。
たまたま79年という時代に一時だけあった共同生活の記憶を思い返すことでくっついてきたあれこれ。環境とタイミングが揃ったその時にたまたま悩んでいた母と思春期の子どもの話。


15歳のぼくはひざ掛けを首で縛りマントのようにたなびかせ廊下を颯爽と歩いたり、帰り道に生える木に太マジックで落書きをしたりと、今考えると抑えられない破壊的衝動があったなと思うが、「僕はフェミニストだから」という言葉なんて無縁だった。

作品の中の彼はなぜそうなったか。
それは環境であり、タイミングである。
政治や道徳を正解や間違いではなく、タイミングや環境から捉えた稀有な作品。
そこに今の時代の女性にも共感される普遍性もあるんだよね、不思議。

映画『メッセージ』を観る。

映画『メッセージ』を観る。
平たく言えば「ディザスター×SF×哲学」。
冒頭からの未確認物体が現れ平穏が揺るがされるあたりのスピード感は『シン・ゴジラ』を思わせる。特段説明もなく物語が始まるやいなや恐怖はそこにあり、人々は脅かされている。戸惑いや逃げ惑う人々の描写はディザスター映画そのもの。

ただ、ディザスター要素はほぼここで終わり。後は主人公と未確認生命との対話を通じて物語が静かに広がっていく。
難解にもとれる物語の哲学的なメッセージをいかに汲み取るかが映画の面白さになっていて響く人には響くんだろうけど、自分はそれほどピンとこなかった。

物語の鍵の1つが未確認物体が世界の12の地域に同時に現れること。
対話によって未確認生命と距離を縮めていく主人公の言語学者をもってしてもどうしようもない各国の態度や戦力が今の世界情勢とリンクしているのは容易に想像がつく。僕はここら辺にもう少し含みを持たせることに期待していた。

ただ、最終的に物語が落ちた場所は独りの個人の内面であり、翻ってこの世界を揺るがした大きな不安定さも極めて個人的な動機に由来していたということになる。そこに共感できなければ中盤の文字でのコミュニケーションのやり取りの直向きな態度とかにも正直乗れない。

解りやすくひらくと未確認物体というのは彼女の内面を写した鏡である。未確認物体は彼女の所作にシンクロし、彼女はその姿を見ることで自らに気づかされる。では、彼女は鏡を通じて一体何を見たかったのか。
それは自らの恐怖や哀しみを克服する姿でしょう。

自らが最も愛した娘が若くして亡くなった。時系列で表すと、彼女の生の途中から娘の生が重なるも、それが自らの生より先に途絶えてしまう。この哀しみを克服するために、時系列を取っ払うことを未確認物体の力で行う。僕には主人公がSF的な手法で現実的な哀しさを超越する話以上に感じるものはなかった。

そういった意味で考えると『インターステラー』とかと近いんだけど、結局死んだ娘ともう一回会えるとかではなく、実は自分は未来が見えていたというのを絶妙な語り口で種明かしし、さらにそこに自らの寂しさや悲しさを投影させ今を悔いなく生きようという訓示的な話しにする優等生的な作品ではあった。

映画『LION/ライオン ~25年目のただいま~』を観る。

『LION/ライオン ~25年目のただいま~』を観てきた。

久しぶりの映画だった。緊張感持って見たせいか、いつも映画を見ている際に眠くなってしまう時間があるのだけれど、今回は眠くならなかった。

映画は、低予算かつ監督は初の長編作品とは思えない出来だった。
印象的だったのは撮影だ。物語を劇的なものにしたGoogleアースに倣った空撮、インドとオーストラリアの自然の力強さ、ジルーの幼少期など、写真を見ているようだった。

写真集を想起される過剰なまでのカット割りもドキュメントという意識があってのことだろう。
発展途上国の貧しい子どもの写真というのはメッセージ性が強く教育的で、ただ本作はUNICEFがエンドクレジットに流れることからも、単なる感動譚に嵌め込まないという監督の意図があったと思う。

一方で、そのドキュメンタリー要素と対をなす物語的な起伏が少し弱かったのは残念。
迷子から養子としてオーストラリアに行くまてで全体の半分。ここをしっかり描くことで再会がドラマチックになるのは確かなのだけど、テーブルマナーのシーンなどは要るのだろうか。
恐らく原作で監督が気に入ったシーンなんだろうけれども。

また、この点も原作に忠実なんだろうけれど、養子同士の兄弟の確執や両親の葛藤、それらは全てもっとサルー目線で描かれていて欲しかった。
全体のドキュメンタリー性が妙な中立感を生んでしまっていたように思う。
物語としての一番は故郷を失いながらも不自由なく生きているサルーの負い目と孤独だろうから。

大人になっても家族と故郷の陰影が離れない苦悩の中で生きるサルーを演じたデヴパテルとそれを支えるルーニーマーラが名演だったので(ニコールキッドマンも勿論凄いけれど)、もっとここを活かし感動的過ぎるくらいのドラマチックな展開は望めたかと。とはいえ、それを監督は選択しなかったのだろう。

舞台のひとつがインドという事もあって東洋的な廻り合わせや抽象さが物語の劇的さを抑制していたというのも狙いだろう。
25年ぶりに再開しても、「まあ会えたのありがとう」合掌のような展開。
時々かかる東洋的な音楽も演出的に物語を軽くしていたりと、結果的には良いバランスになっていたのかもしれない。

それでも最後は亡き兄の面影と共に故郷の線路を歩いてという、とても感動的な場面に。
あれは正直スタンドバイミー以来の映画における印象的な線路シーンだと思う。
そこからさらに畳み掛けて、最後の「LION」。
シンプルで控え目なタイトルバックに大きな物語を投影させた感動的なエンディングだった。

坂道AKB「誰のことを一番 愛してる?」 ~ モーセからキリストへ、”欅坂のニュータイプ” 平手 友梨奈 ~

AKB以降の秋元康プロデュースアイドルにおける現段階での最高傑作であり極致といえる。
アイドルの面白さとしての目まぐるしい流動性を否定するまでの基準ができてしまった。

構造の面白さとして、ダンスや歌詞・曲調などコンセプトのすべてが欅坂にひっぱられていることが挙げられる。

欅以外のメンバーはこの曲をパフォーマンスすることの意味を理解している。
その上で沸き上がる嫉妬と悦びを全身で表現しようとする挑戦的な姿勢を感じる。
その反面、不馴れな違和感も拭えない。

他方、欅のメンバーは歴が浅くても自分たちの得意とする土俵でそれなりにまとまった表現ができている。
ここから更に個々のメンバーの思いの強さや余裕から微妙な違和感が生まれる。

これらの不協和音を纏ったセンターの平手はダンスも歌も殆ど力が入っていない、いわば象徴としてのセンターとして屹立している。
その姿はかつての前田敦子のよう。

脱AKB・脱乃木坂を掲げて欅坂というアイドルとしての新形態に挑むメンバーを尻目に、欅坂のセンターはかつてAKBとして圧倒的な存在感を誇ったメンバーとして佇む という円環構造。

その大きな渦の中に未来はあるのだろうか。

TVドラマ評 2017年4月クール作品の解説・確定版

4月ドラマ解説・確定版です。チェック出来た範囲でのものです。

犯罪症候群

WOWOWと東海テレビの共同製作。
妹を殺害されたショックとトラウマから警察を辞め、今は探偵をしている主人公とその主人公に事件の捜査を依頼する警察組織の人間たちを描くクライムサスペンス。
東海テレビで8話、その後WOWOWで4話という日程で放送されます。
ストーリーとしては、主人公のトラウマと警察内部の闇の2つが核になっていくようです。主人公の探偵を玉山鉄二・警察組織の鍵を握る人物を渡部篤郎が演じ見応えはあるのですが、初回で起きた事件が3話にして解決され黒幕のようにもったいぶって描いていた人物があっさり捕まるなど(それによって警察内部の闇という伏線はできるのですが)すべてが完璧かと言われれば微妙です。

4号警備

警察ではなく民間警備会社を舞台に、そこに務める警備員のペアが主人公の一話完結ドラマです。主演のペアを演じるのは窪田正孝と北村一輝。
民間警備会社の身辺警護という部分にスポットを当てた新しさはあるかもしれないですが、こちらの主人公も恋人を目の前で殺害されたトラウマから警察を辞め警備会社へ転職したという設定になっており、「犯罪症候群」と似たような印象を受けます。
民間の警備会社と警察との違いなどをストーリーの中で的確に描写できれば今よりかはポイントがあがるとは思います。

クライシス

こちらは純粋な警察ものです。さらに言えば、公安警察のチームものです。
主演は小栗旬と西島秀俊。脇を固める役者陣もかなり豪華です。
初回から2つの事件をキレよく処理し、その中でチーム内のキャラクターや立ち位置を自然に説明してしまうといったように随所に技量の高さがうかがえました。
また、小栗と西島の体を張ったアクションも見どころと言っていいでしょう。
警察とジャーナリズム・宗教などが今後の大きなテーマとなっていくようで、ほのめかされている主人公たちの過去の出来事を含めながらのストーリーに注目です。

リバース

お得意の湊かなえ原作のミステリーをTBSがいつも枠といつものスタッフで制作。タイトルがリバースだけあって時系列の行ったり来たりが重要になるのですが、初回に関しては見せ方が少し雑かなと思う部分もありました。ただ、物語が進んでいくうちにこのような展開にも必然性が生まれるでしょうし、安定して楽しめる一本です。
既に起こった友人の死をベースに物語を進めていくという構造なので、それをいかに面白く見せていくのかのだと思います。現代と当時の回想を織り交ぜ、主演の藤原竜也の視点という武器を使いあっと驚く展開と結末が用意できれば必然的に及第点となるでしょう。湊かなえ作品には珍しい、異性交流の少ない男だけの物語という部分に注目するのも面白いかもしれません。

100万円の女たち

NETFLIXとテレ東の共同製作の異色の作品です。
RADWIMPSの野田洋次郎が主人公の男を演じ、彼と生活を共にする謎の女5人との日常が描かれます。女たちは共同生活にあたり毎月100万円を家賃として支払うという設定や、主人公の父親が3人を殺した死刑囚であるなど一見すると滅茶苦茶に思えるのですが、設定のわりに穏やかな共同生活の描写もあり、この絶妙な抑止力による物語の宙ぶらりんな感じと緊迫感は魅力といっていいと思います。
どちらに転ぶかは分かりませんが、傑作になる可能性も十分秘めていると思います。

母になる

去年ベスト1ドラマに選んだ「早子先生…」を書いた水橋文美江脚本の作品です。
冒頭『シンギュラリティにおける次世代の家族の在り方について君はどう思いますか』という架空の本が、主人公である夫婦の出会いのきっかけとして使われていて、シンギュラリティ・家族・不気味なもの、というキーワードに東浩紀の『観光客の哲学』を想起せざるを得ませんでした。
3歳で行方不明になった子供と9年後に再会するという「家族」のあり方を問う重いテーマのドラマなのですが、空白の9年間を巡るミステリー要素・家族や親とは何かを描くヒューマンドラマ要素・所々でみられるクスッと笑えるのコメディ要素など、水橋脚本ならではの捉えどころのなさが不気味に際立っています。
初回を見ながら母を演じる沢尻エリカの演技の素晴らしさを実感しました。父を演じる藤木直人の憔悴しきった表情や眼窩・泣きの演技も素晴らしいのですが、脚本のメッセージを理解し言葉を丁寧に形にしていくという事に関しての沢尻の技量の高さは目を見張るものがあります。今後の展開も読みにくく、目が離せません。

貴族探偵

出演陣がとても豪華、ただそれだけのドラマでした。
物語としても毎回起こる事件を解決していくオーソドックスな一話完結ものになるのでしょう。特に目新しいことを期待できそうになく、初回で見切りをつけるのが得策かと思います。

あなたのことはそれほど

ジャンルとしては不倫もので、不倫関係になる男女それぞれの夫婦が物語の中心になります。初回を見て面白いと思ったのが、必要最低限の動機すら描かれなかったり説明を省き焦点をぼやかしたまま話を進めるという強引さや詰めの甘さです。それが根拠や筋を求めない今の時代の視聴者の快感を刺激したいという狙いに感じなくもないのです。いつまでも運命や初恋を信じているイノセンスな女性像を描くことで背徳感なしに不倫を成立させたり、家事も手伝う優しい男性像を描きながら躊躇いもせず妻の携帯を見る狂気ぶりを成立させたりと、実はかなり危険で歪な人たちのドラマであるにも関わらずそこに動機や根拠を挟まず当たり前のように展開させていく気持ちの悪さ・チグハグさが斬新でした。欲望が欲求のように描かれる世界で登場人物たちはどう壊れていくか、一見の価値はあるかもしれません。

女囚セブン

脚本・西荻弓絵で剛力彩芽主演の深夜枠ということもあり大いに期待していたのですが、期待を上回ることはありませんでした。監獄ものということで作り込まれた独特の世界観で物語が進んでいくのかと思いきや、内部の囚人との衝突・和解を一話に一人という形で描いていくような作りになるようです。最後にはみんなで力を合わせて脱獄という運びになるのでしょうか。初回、もう少し工夫があっても良かった気がします。

ボク、運命の人です。

亀梨くんと山Pが再びタッグでドラマに出ることの意味、これが全てです。
この二人と言えば「野ブタ…」なのですが、あれから10年の月日を経た今、彼らの奮闘する姿が再び見れることが何より楽しいです。亀梨くんの律儀なサラリーマン姿、山Pの神としての振る舞い、ヒロイン木村文乃演じる30歳手前の等身大の女性像など、どれもがどこかで見たり知ったりしている懐かしさにつながっている感覚を味わえます。
この手の物語にありがちな過去を書き換えることで運命を手に入れるのではなく、今できる事を継続して運命を創っていくということ、そしてそれを支える過去の伏線たちも上手く描けていると思います。作品から感じる“あの頃”を思い出しながら、今こうやって楽しくこのドラマを見れる幸せを味わいましょう。

小さな巨人

半沢直樹チームが手掛ける刑事ものです。従来の刑事ものと違い単純に事件を解決していくというよりは、所轄と本庁の対立や一課と二課という警察内部の確執に多くの分量が割かれています。台詞の言い回しや執拗な顔のアップなど半沢で見られた独特の演出が際立つのですが、それに負けず劣らずストーリーや設定がしっかりしています。
事件を解き明かすというストーリーと人物の内面描写や何くそ根性・一発逆転の清々しさなど、好意的に見れる質の高さがあります。主演の長谷川博己の眉を上げる胡散臭い表情や香川照之のくどさ、これまであまり印象にない岡田将生の切れ者キャラなど、きちんと計算が行き届いてこその出来だと思います。今後も大いに期待しています。

人は見た目が100パーセント

1月クール「タラレバ娘」が個人的にダメでした。それには明確な理由があり、彼女たちの頭の中の大半が“恋愛”だったということです。職業も家族の話も出てきますが、結局すべて恋愛の話題に絡めとられしまう。別に“恋愛”がダメと言っている訳では無いです。“恋愛”の判断基準や楽しみ方が個人の感覚にのみ因っているということに当人が無自覚になっていることに受け手としてしらけてしまいました。
これまでも複数人の女性がうだうだ話すようなドラマは数多くありました。ただ年齢がもう少し上で、年を重ねることでの浮き沈みという人生経験が投影された上での恋愛事情という描かれ方がされていたと思います。一方「タラレバ」は、恋愛からしか得られない中途半端な感覚を当てに同じようなシーンが何度も繰り返し続いているように感じてしまいました。これはイメージやノリを至上とした「ポスト真実」的な世界観を体現していたと言えるのかもしれません。
話が逸れましたが、「人は見た目が…」のどこが良かったか。
ここ数年のトレンドである“タグ化画面”のきらびやかさというフォーマットを踏まえつつ、冒頭の台詞にあった「この世は根拠なんかどうでもよくイメージが全てだ」という「ポスト真実」世界に言及しています。この台詞こそが昨今のドラマをメタ視点から批評しているという証明になります。登場人物としては「タラレバ」の3人より女子力やセンスが劣っているのですが、そこを自覚しているという部分にこの作品の強みがあると思います。その立場を自覚して彼女たちが「ポスト真実」的世界にどう一石を投じるか。妥協や媚びではなく、根拠を求め試行錯誤(研究)しながら生き抜く姿が描かれることを大いに期待しています。

現段階のベスト3は「小さな巨人」「人は見た目が…」「母になる」ですかね。
「ツバキ文具店」「この世にたやすい仕事はない」「フランケンシュタインの恋」については追って言及できればと思います。

小嶋陽菜がAKB48を劇場での卒業公演をもって卒業した。

小嶋陽菜が先日のAKB48劇場での卒業公演をもって卒業した。
前田敦子以降、AKB主要メンバーの卒業は大きな注目を浴びてきた。

今回の小嶋の卒業に関しては、「まだ卒業してなかったのか」や「卒業公演前もやってなかった」という声も多く聞かれた。

小嶋含め主要メンバーはみな同じルートで卒業しているにもかかわらず、結局このシステムは世間に認知されなかったことになる。
独特ともとれるそのスケジュールを完結に整理すると、
①メンバーによる卒業発表
②具体的な卒業日の確定
③卒業ライブ(大箱)
④AKB劇場での卒業公演
という手順になる。

小嶋陽菜に関して言えば、去年の総選挙での①から先日の④までで約1年間が経過している。
引き継ぎ的な理由もあるし、卒業曲をセンターでリリースするとその握手会日程は消化しないといけない。
また、ライブ会場のスケジュールや今回の小嶋のように卒業日を誕生日や記念日にするケースも少なくない。
今や完全にシステム化されているAKBという巨大グループにおいては、卒業するのも簡単ではない。
そのシステムの根本を作り上げたメンバーの一人こそ何を隠そう、小嶋陽菜だったのである。

この動画を見れば分かるように、AKB劇場というのは場末のストリップ小屋と大して変わらない。
そこで安っぽい衣装を身にまとった素人同然の女子たちが歌って踊っていたのである。
デビュー当時からかなりきわどい活動がなされており、AKBがいまだに不貞の扱いを受けるのも納得の理由となる。
加えて、AKBの歴史には塞ぎ込んだ時代の煽りのようなものが重なる。
今でこそアイドル業界の盛り上がりは安定した水準を保っているが、そもそもAKBが誕生した2006年からここ数年までは、日本全体の雰囲気というのがとても内向きだった。
そのような暗い時代を乗り越え、今またバブルのような空虚な明るさが日本を包み込んでいる中での小嶋の卒業には必然を感じなくもない。

さて、小嶋陽菜とは一体どのような人物だったのか。
それは昨日のAKBのオールナイトニッポンに生出演した秋元康がこれ以上ない的確な話をしたので、個人の意見は控える。
ただ、先日の劇場での卒業公演の最後、つまりアイドル小嶋がラストに選んだ曲が「夕陽を見ているか?」だったことの意味は大きい。
この曲は2007年にリリースされたAKBの6枚目のシングルである。センターは小嶋と前田敦子。とても素晴らしい曲である。

しかし、なぜ10年も前の曲を小嶋が最後の曲に選んだのか。
それは、小嶋にとってこの曲こそが卒業というものを強く連想させた曲だったからではないか。すでに10年も前から小嶋の卒業に関するイメージはでき始めていたのかもしれない。
初期メン(1期生)としては峯岸みなみに次ぐ2番目の長さの在籍期間を誇った小嶋は「夕陽を見ているか?」以降、卒業という権利をちらつかせながらも、ずっと追試を受け続けてくれていたのである。

グループに在籍しながら絶妙な距離感を保つことで、彼女が成し遂げたこと。
見世物としての女性アイドルの人気向上のきっかけをつくり、アイドルからグラビアやファッションモデルの道を開拓し、
今の坂道のように1年目から優遇されるグループの活躍の土台をつくった。
もちろん、これが小嶋陽菜のみの功績という訳ではない。ただ、振り返ってみると彼女の存在観や態度が与えた影響がいかに大きかったのかは想像に易い。
常に最も卒業に近くにいた(もはや「夕陽を…」で卒業していた?)彼女のクラクラするほどの長い長い追試の期間が、昨今のアイドルブームの礎になったことは疑う余地がない。

小嶋陽菜さん、ほんとうにお疲れ様でした。いつかまた今度は追試を受けにAKBに戻ってきてくれることを期待しています。

TVドラマ評 2017年4月クール作品の紹介

4月クールのドラマが始まりだしました。特に初回は出来るだけ全て見ようと忙しくしてるのですが、今回は非常にバリエーションに富んだ良作揃いです。
そんな中でネットではこういった記事が散見しますね。
http://www.asagei.com/excerpt/79263
http://biz-journal.jp/2017/04/post_18710.html

ライターも書き手だから、ある程度過激な事を求められているという立場を踏まえての記事なのでしょう。
ただ最も問題なのは、この記事だけを読んで「今回のドラマも総じてつまらないんだね」と見てもない人間が思ってしまう事です。いくらネットの三文記事とはいえ、その影響力や捉えられ方を想像して書かれない記事は良くないなと思ったりします。

「犯罪症候群」「クライシス」

両者とも刑事モノとミステリーという割と万人受けする形式です。
前者はwowowと東海テレビというドラマフリークが否が応でも期待を寄せるタッグですし、後者は公安という使い尽くされたネタを、初回だけで2つ事件を用意しキレよく処理していく中でチーム内キャラや立ち位置をスマートに説明する技量は目を引きます。最後に主人公の過去のトラウマ描写なんかも効果的に挿入し、今後の物語の推進力となっていたと思います。

「リバース」

TBSお得意の湊かなえミステリーをいつもの枠でいつものスタッフでというところ。これも安定してみれると思います。タイトルがリバースだけあって、時系列の行ったり来たりが見どころになるのですが、その見せ方としては少し退屈な部分もありましたが、キャストそして湊かなえには珍しい異性交流の少ない物語にも期待です。

「100万円の女たち」

こちらはNETFLIXとテレ東の共同制作。
RADの野田洋次郎主演で、彼と謎の女5人の共同生活が描かれます。女の一人には永遠の推しであるところの松井玲奈。深夜だしもっと尖ってもいいところを絶妙な抑止力を働かせて、今のところ全てが宙ぶらりんになっている緊迫感がいいですね。どっちに転ぶか分からないですが、当たる可能性もなきにしもあらず。

「母になる」

水橋文美江脚本の不思議な力に魅せられ去年のベスト1ドラマを「早子先生…」にしたけど、その水橋脚本の新作。
冒頭『シンギュラリティにおける次世代の家族の在り方について君はどう思いますか』という架空の本が後に夫婦となり事件に巻き込まれていく2人の出会いのきっかけとして出てきた時には、「シンギュラリティ」・「家族」・「不気味なもの」、おいおいこれはもはや『観光客の哲学』ではないかと大いに驚かされました。

「早子先生…」でも多用されたモノローグ形式で物語を進めながら、多くの人が言及している映画「チェンジリング」的な展開と、上記の記事で演技が酷評されている突如顕れた子どもの不穏さ、村上春樹が「騎士団長殺し」で描いた「父になる」と近接したテーマなど、今誕生したことに意味がある非常に注目作です。アサ芸にこういうこと期待してもダメだけど、作り手の意図というのは考えるべき。

「人は見た目が100パーセント」

やれ中身がないだとかそもそも桐谷美玲が不細工じゃないからリアリティがないだとか、それくらいの浅すぎる意見しか世の中には出回らないんですね。参照した記事の酷評具合がえげつないです。
このドラマ、まだ初回だけですが僕は物凄く良くてきていたと思います。
僕は1月クールの「タラレバ娘」がほんとダメでした。
それには明確な理由があって、彼女たちが会って話す話題の大半が“恋愛”なのです。職業も家族も出てきますが、結局すべて恋愛の悩みに絡めとられてしまう。

別に”恋愛“がダメと言っている訳では無いです。
”恋愛“が非常に個人的な感覚にのみ因っているということに無自覚になってしまう事がマズいのです。
もちろんこのような女性3人が集まってうだうだしゃべるといった女子会ドラマはこれまでにもありました。
ただこれまではもう少し年齢が上に設定され、彼女たちの浮き沈みのある人生や経験が投影された上でのものったんですね。そこに関して「タラレバ」は、それこそ恋愛によってしか得れていない中途半端な感覚のみをあてにして何度もループを繰り返しているようにしか映らなかったのです。これはまさにイメージやノリを至上価値とした「ポスト真実」的な世界観であり、非常に危険な兆候だと思いました。

話しが逸れましたが、「人は見た目が…」のどこが良かったか。フォーマットとしてはここ数年のトレンドの“タグ化画面”構造を上手く利用し、冒頭の台詞で、この世は根拠なんかどうでも良くイメージという典型的な「ポスト真実」世界だと言及します。この時点で「タラレバ」のメタ視点に立てているのです。
そこを踏まえて彼女たちがこの世界にどう立ち向かっていくのか。妥協するのではなく、何か根拠を求め試行錯誤(研究)しながら生き抜く姿が描かれていくのでしょう。
初回ではファッションがフィーチャーされます。ファッションとは恐ろしいもので、完全に感覚・センスの世界です。センスのある人がイメージや感覚で優位に立てるノリ至上的な世界を今の世界に見立て、それをリケジョという設定を踏襲しながら研究していく。この地道な試みこそが実はバランスを崩しつつある現世にも通用する有効な手段であることを3人が示してくれればと切に願っていますし、その可能性を十分秘めていると思います。

欅坂46 – 君から僕へ ~ 平手友梨奈と2度目の春の事変 –

欅坂46がCDデビューを果たしたのは、今から1年前の2016年4月6日だった。
その鮮烈なデビューは世間でも注目を浴び、過激なメッセージを纏う姿から「反体制アイドル」とも呼ばれた彼女たちは、デビューからわずか8ヶ月で紅白歌合戦に出場するなど現在も破竹の勢いで支持を広げている。
その欅坂46がデビュー1周年を記念して、アイドルとしては初めてNHKの音楽番組「SONGS」に出演を果たした。番組では、デビューシングルから先日発売されたばかりの4thシングル(TV初披露)までのパフォーマンスの合間に4作連続でセンターを務めた平手友梨奈へのインタビューが差し込まれた。
グループアイドルのセンターはグループを象徴する存在として担ぎ上げられる。AKB48が世間に登場して以降、センターが示すものについては世間でも広く認知されることになった。無論、平手友梨奈も例外ではない。しかし、これまでリリースされた楽曲のパフォーマンスを見ると、欅坂46は既存のアイドルとは異なる路線を辿っているように映る。それが番組の構成からもはっきりとうたがえた。

パフォーマンスをコンセプトに掲げるグループとはいえデビュー1年ほどのアイドルが初めて登場する場合、メンバーの紹介やインタビューが用意されるのが通例だろう。しかし、番組ではそのような場面は見られなかった。たとえセンターである平手にスポットをあてるとしても「欅坂46とそのセンターとしての平手友梨奈」とするべきところを、いわば「平手友梨奈という存在と彼女の所属するグループ」という衝撃的な紹介がなされたのである。グループ内の格差が激しかったり、マイナーグループならばこのようなことが起こってもおかしくはない。しかし、欅坂46は今や全国的に知名度のあるグループである。メンバー個人としても活躍の場を広げているし、人気でいったら平手に勝るメンバーも多くいるかもしれない。
それなのになぜ「欅坂=平手が所属しているグループ」という、グループより個人か優越する扱いが許容されたのか。
それを考える鍵はこれまでのシングルのパフォーマンスにあるように思う。

デビューシングル「サイレントマジョリティ―」

デビューシングル「サイレントマジョリティ―」については当初から様々な事を書いてきた。激しいダンスと独特の振付・メッセージ性の強い歌詞や笑顔を見せないパフォーマンス。MVに至ってはデビュー曲にも関わらず逆光で撮影され、平手以外のメンバーの認識は困難なほどだった。挙げればきりが無いほど多くの新しさを孕みつつ、センターには当時14歳の平手友梨奈が立っていた。
歌詞を見れば分かるのだが、この曲は基本的に二人称で書かれている。

「君は君らしく生きていく自由があるんだ。大人たちに支配されるな。」
この曲の語り手はのちに「僕ら」という言葉があるように、同世代から選ばれし一人であると考えれらる。それがすなわちセンターである平手友梨奈だった。デビュー間もない素人同然の平手が、世代の代表として若者を率いながら体制に立ち向かえと鼓舞するシチュエーションはショッキングなものであった。何度も繰り返すが、当時彼女はまだ14歳の中学3年になったばかりである。しかし彼女は従来のアイドルとしては到底考えられないある方法をもって、この困難な命運に立ち向かい奇跡的にそれをやり遂げてしまったのである。その方法が“憑依”である。
強固な「見る/見られる関係」の上で成り立つアイドルの常識を超えた、憑依されることで自らの意志に因らずただ何かに突き動かされる少女の姿がそこにはあった。完璧に作り込んだ笑顔や自分が最も美しく映る企みは放棄され、自分ならざる者を呼び込むことで彼女はその存在を世に知らしめることになった。あまりにも強烈なデビューだ。

セカンドシングル「世界には愛しかない」

セカンドシングル「世界には愛しかない」は、言葉の力をひたむきに信じる少年の姿が滲み出る。冒頭の象徴的なポエトリーリーディングと明るく爽快な曲調、単純な感情が紡ぐ恋愛についてのストレートな歌詞が目を引くが、実は過激と話題だった前作よりもテンポが速く、曲中に組み込まれる言葉の数も幾分多くなっている。
平手はこの曲についてのインタビューで、歌詞の意味を理解することの重要性を語った。それは一人称の「僕」で表現(感情移入)するためだそうだ。ゆえに、歌詞の意味を踏まえしっかりと伝えたいという態度は随所に見られる。ただその若さと経験不足から一度背負ってしまった“憑依”という表現方法が完全に抜けきれていないのも伝わる。

サードシングル「二人セゾン」

サードシングル「二人セゾン」は、極端ともいえるダンス構成やデビュー曲と似た二人称に近い歌詞、平手のソロダンスが注目される。これまで貫いてきたグループとしての態度を崩さず、欅坂が既存のアイドルとは決定的に違うことを確信できる。
欅坂はこれまでセンターである平手以外の立ち位置を毎回大きく変えている。平手と心中するというのがグループの総意なら、平手以外のフロントメンバーを固めた方が平手にとってもやり易いはずだ。ただこのスタイルこそ、ある決定的な事柄を指し示しているのである。それが冒頭に述べた「欅坂=平手が所属しているグループ」という定義である。

結論から言うと、パフォーマンス中の欅坂というのはデビューから一貫して二人(平手と対象)とセゾン(他のメンバー)なのだ。他のメンバーやもちろん平手にとっても残酷ではあるが、いくら季節が変わろうとも平手友梨奈だけはその中心に立ち続けなければならない運命をその身に宿してしまったのである。少し過剰に崇めた嫌いもあるが、それでもこの曲での平手の表現力は当初から目を見張るものがあった。通常15歳の少女があれほどまでに情感を湛え歌詞の世界を複雑に表現することはまず不可能だ。彼女がこれを成し遂げたのは、民衆を率いる女神のシチュエーション(グループとしての強いコンセプト)で体得した“憑依”と、歌詞の意味を理解した上で表現するという2つの要素が備わりつつあることの証左となる。

ニューシングル「不協和音」

そして、ニューシングル「不協和音」に辿り着く。
現実に肉薄する圧巻のパフォーマンスに、改めて平手友梨奈はセンターに立つために生まれてきたと確信した。しかし間に挟まれたインタビューにおいて、平手は明確な時期こそ明らかにしなかったものの(恐らく去年の紅白出場前後)現在ひどく悩んでいることを明かした。「僕は嫌だ」というこの曲の歌詞が現在の自分の心境と重なると淡々と口にしている。この曲はデビューシングルよりもメッセージ性が強く、直接的な歌詞で構成されている。かつて彼女を救った“憑依”という超人的な感覚がこの曲をパフォーマンスする上では再度必要となるのだが、表現の技術や経験が身についたことで今の彼女にはこれまでの“憑依”という感覚が失われつつあるではないか。彼女の中にこれまであった二層構造のバランスが崩れ、結果としてそれが彼女に悪影響を及ぼしている。インタビューにおける平手の言葉や「不協和音」のパフォーマンスを見ながらそのような事を考えた。欅坂のコンセプトからいって恐らく今後もこのような系統のメッセージソングは作られ続けるだろう。その時彼女が曲とどう向き合い試行錯誤し表現していくか。彼女の中に蓄積されたものやこれから新しく身につくもの、それを武器に全身全霊を賭けて闘う今後の平手友梨奈そして欅坂というグループに注目していきたい。

最後になってしまったが、これから書くことは余談でも何でもない。
今回の「不協和音」は平手以外のメンバーにもきちんとスポットが当たっている。
デビューシングルにおいて平手が担った「僕」が想定している「君」というのは、あくまで不特定多数の若者だった。しかし今回のシングルは「仲間からも撃たれると思わなかった」という歌詞にもあるように「僕」が発信するメッセージは最も身近なメンバーも想定されている。「支配したいなら 僕を倒してからいけよ」これは、ある意味メンバーの下剋上を煽っているようにもよめる。つまり、この曲は「欅坂=平手が所属しているグループ」を脱するための序曲になる可能性の曲なのだ。平手の今の心境に重なり胸を貫いた「僕は嫌だ」という叫びは二番では長濱ねるが担う。「僕」でも「君」でもない「セゾン」だったメンバーが「君」として煽られ、いつかは「僕」を担う。この曲を皮切りに、平手以外のメンバーがこれまでの欅坂の体制にノーを突きつけられたとき、欅坂はまた新しいステージに登ることができるはずだ。

映画『バンコクナイツ』を観る。

「バンコクナイツ」を観てきた。
3時間、全く長く感じなかった。
まず、アメリカを初め全世界的に内向き傾向が顕著になっている中、日本にこれ程まで広い射程で外に向かって力を注げる人間たちがいることを同じ日本人として誇りに思う。しかもその外は全くもってユートピアではない。

その証拠に本作では戦争が大きなテーマとして横たわる。歴史上何度も発生した東南アジアを舞台とした戦争に日本人はどれ程までに近づけるか。欧米人と同じく資本を振りかざしては捩じ伏せてきた傲慢な態度は形を変えて現存する。
ありのままの現状が映画の中にはあった。

日本には夢がないといいながら向かう先の東南アジアはユートピアかもしれない。しかし主人公の男は自覚する。現地の女も対抗する。
その全容が掴めないまま肥大する様々な欲望に迫り、今の東南アジアに横たわるもとのして捉え直したことに本作の真価があったと思う。

主人公の男が戦争の跡のあるディエンビエンフーまでたどり着いてしまう辺りの描写に今のリベラルの滑稽さが強烈に重なったりもしたんだけど、リベラルというのは結局如何に他者を受け入れるかという姿勢なのだから、滑稽ではありつつも正しく他者を愛するあの姿勢は間違ってない。

そういえばこの映画も最後、恋仲である二人が別れるラストだったな。
最近はなんかこういう映画が多い気もする。