群像新人賞-芥川賞候補作、北条裕子『美しい顔』問題によせて

北条裕子『美しい顔』の無断引用問題は個人的に非常に残念です。 僕は『美しい顔』を読んで、非常に優れた小説だと思いました。 群像新人賞の選評でも賞賛され、掲載翌月の新聞の書評でも好意的に取り上げられた記事も多くみました。 そして、159回の芥川賞の候補にもノミネートされている。 読み手としては、無断引用なんて問題は当たり前にクリアされている前提で受け取るので、もはや対処の仕様がない。 一つの作品として世に出されたものが素晴らしければ積極的に賞賛したいし、本作に救われたと実感した人もいたはず。そんな人たちの期待と感謝を裏切ることとなったのは事実。 と、一元的に片付けられない部分も確かにあると思う。 本作のテーマが震災を扱っていることや客観的に作者の容姿が整っていることや新人賞の在り方など。 ただ、一つ言えるのは、本作は未だ単行本化されておらず、事態が発覚した際は既に次の号の群像が発売されており本作が掲載されている群像は書店には残っていなかった。 つまり、本作『美しい顔』をきちんと読んでいる人間は、数多の批判がなされるなかのほんの一握りしかいないという事。 純文学雑誌(群像)の発行部数を考え...

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メモ書き『サリンジャー的、サルトル的ーあるいは村上春樹と柄谷行人、ポストモダンの文学精神』

本稿では、20世紀の米文学界を代表する作家J.D.サリンジャーとフランスの哲学者・思想家で作家のジャン=ポール・サルトルの作品・作家および日本における受容と影響を比較することを通して浮かび上がってくる日本文学の思想・精神史を読みときたい。 Ⅰ. サリンジャー的、サルトル的 〈サルトルの倫理、サリンジャーの倫理〉 Ⅱ. サルトル的ー超越へと駆動する力   (三島由紀夫、大江健三郎、吉本隆明、柄谷行人) 〈三島由紀夫の場合(時間)ー行動の究極地点、テロリズム〉 〈大江健三郎の場合(空間)ーサルトルとの対話〉 〈吉本隆明(空間・時間)・柄谷行人(空間)の受容と差異〉 〈サルトルの倫理〉 Ⅲ. サリンジャー的ー自己修復の物語   (村上春樹、村上龍、高橋源一郎、加藤典洋) 〈サリンジャーーイノセント&フラジャイルな作家〉 〈三つの翻訳、三つのサリンジャー〉 ・α.戦争神経症的なサリンジャーー『危険な年齢』〉 ・β.分裂的なサリンジャーー『ライ麦畑でつかまえて』〉 ・γ.解離的なサリンジャーー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』〉 〈ポスト全共闘のサリンジャー革命からのロスト〉 ...

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小説『サリンジャー的、サルトル的 ー Like Salinger, Like Sartre』(抜粋)

ぼくらはまた歩きはじめた。 モール内の有線放送では、The Mamas & the Papasの『California Dreamin’』が流れていた。 ぼくはふと、むかしのことを思い出した。それはいまから10年前の風景だった。 その頃のぼくは、東京の端にある公立大学に通っていて、調布の安アパートにひとり暮らしていた。大学に入り、ひとり暮らしをはじめると、時間軸から開放される。 それがたった4年間の話だったとしても、開放された空間を楽しむのが学生の特権だ。 当時は、iPodが広く普及した時期だった。誰も彼もが、iPodで音楽を聴いていた。 当時のiPodはいまのiPhoneやAndroidのような通信系のモバイル端末ではなかった。ぼくが持っていたのはiPod Classicで、それは60GBの記憶装置を持つ小さなジューク・ボックスだった。 バーに入りカウンターのマスターにオリーブ入りのドライ・マティーニを注文する。一服しながら空間の隅っこにあるジューク・ボックスをながめる。ジューク・ボックスに近づき、お気に入りのナンバーを探す。 クリームのWhite Room、ディ...

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読書ノート

『不安定な時間』ミシェル・ジュリ 「われわれの時代に、人類はついに内的宇宙を征服することができたんだ」「だが、部屋には悪魔がはいっていて、あんたがたはドアに鍵をかけなくちゃならないのだ」 ディックの『ユービック』を連想する。主観的な時間旅行あるいは死後の世界。人格と場面が唐突に目まぐるしく変転し、変奏を加えて何度も何度も繰り返される。この反復がどういうわけか愉しくてしかたない。どこにもたどり着かずに跳躍し続けてくれてもいいくらい。SF文学史にボリス・ヴィアンやレーモン・クノーの名前が出てくるあたりがとてもフランス。 『神曲 地獄篇』ダンテ 建築物としての全体も神学も歴史的背景もわからないなりに、パオロとフランチェスカの恋愛、ウゴリーノ伯の餓死、農耕詩的な比喩、といった細部の造型を美しいと思う。と同時に作者の自我の強さというのか同人誌的というのか、自らを偉大な叙事詩作者として数えたり、オウィディウスの『変身譚』にも勝ると自負したり、嫌いな相手を(存命であっても!)地獄に落としたり、大好きなウェルギリウスを登場させてイチャイチャしたり、作品の緻密さや幻視の凄まじさと合わせて、文学者の業に感...

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人文の終わり/批判的であること – マルクスからスティーブ・ジョブズへ –

先日、ワシントン・ポストの記事にウィスコンシン大学が人文学と社会科学の実質ほぼ全てともいえる13のコースを廃止するというニュースがあり衝撃を受けた。 A University of Wisconsin campus pushes plan to drop 13 majors — including English, history and philosophy 大学には経営と予算、学生の集客の課題がある。そのため、より予算が付きやすく、より学生が集まりやすい、就職やキャリアにつながるような実学的な学部を増強し、予算が付きにくく学生の集客力の弱いリベラル・アーツ系の学部は廃止したほうがビジネスとして合理的であるという判断である。 背景として、アメリカは学生の奨学金返済問題が深刻だという問題もある。 他方で、保守的な共和党から影響を受けている部分も大いにある。 ウィスコンシン州知事であるスコット・ウォーカーは2015年にウィスコンシン大学の理念を秘密裏に変更しようとしたということである。 その内容はこうだ。 by removing words that commanded the univ...

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日本語のエクリチュール/パロールと中国語

少し遅れたが、すでに、2018年がはじまっている。 個人的には、今年、少し語学を学習しようと考えている。 これまでの興味の対象は概念であったが、ある種の言語的転回(展開)が沸きあがってきたというところだろう。 昨年わずかに英語・中国語・PHPを学習しはじめたが、今年はそれをどれだけ蓄積できるだろうか。 ところで、中国語を少し勉強してみて、とてもよくわかったのは、むしろ日本語についてで、日本語は書き言葉(エクリチュール)と話し言葉(パロール)がまったく別の流れを持った別々の言語だということ。 日本語と中国語は、漢字という共通の基盤を持つためエクリチュールは眺めればかなり内容の想像がつく。 しかし、にもかかわらず音声言語においては、相互に輸出入された単語はあるが、基礎的な音からまったく異なっていて学習しなければ聞き取ることができない。 考えてみれば、日本語は古代の漢字の輸入以前からあったわけで、音声言語としては別の流れにあるわけである。 中国語は構造的な性質を持ち、日本語は叙情的な性質を持つ。 古代、日本に輸入された頃から漢字は官僚機構によるシステム運用にりようされた。これが日本の書き言葉...

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現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』

2017年も残りわずか数時間となった。 今年は近年稀に見る激動の年であった。 アメリカではポピュリズム的な現象を背景にトランプ政権が発足、フランスではマクロンに敗れたがマリーヌ・ル・ペン率いる国民戦線が躍進。 ヨーロッパでは、イギリスのメイ首相がEUに離脱を通知、スペインのカタルーニャ地区は独立を宣言した。 中東ではイスラム国は事実上の崩壊。 しかし、アメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定したことから多数の抗議活動が起きている。 アジアでは、フィリピンのドゥテルテ大統領が麻薬撲滅キャンペーンを実施し超法規的殺人が行使され、マレーシア・クアラルンプール空港では北朝鮮の金正日総書記の長男である金正男が暗殺され、ミャンマーはかつての民主化運動の旗手アウンサンスーチーによる新政権のもとロヒンギャは混乱に陥っている。 そして、日本では飛翔体が定期的に飛び越えている。 他方、経済面は数値の上ではバブルとも思える好調であった。 世界的に各国の経済は軒並み好調、日経平均もかつて1992年のバブル崩壊前の水準に上昇。 また、仮想通貨の価格は10倍にも100倍にも高騰した。 そのよう...

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読書好き必見!インドア派におすすめする10冊の本

読書週間は過ぎてしまったが、読書好きにおすすめする10冊の本を紹介。 紅葉の季節でもあり、クリスマスの季節が近づいている現在、街や公園には人が溢れています。 しかし、充実した生活とはなんだろうか。 この秋冬インドア派におすすめしたい10冊の本を紹介。 『トリストラム・シャンディ』(ロレンス・スターン/岩波文庫) 語り手が自分の一代記を語ると言いながら出生にすら辿り着かずに終わる小説。本文の九割以上が関係ない話をしている。いきなり自作解説を始めたり、真っ黒なページやまだら模様のページが次々挟まれたり、粗筋を線で表現したり。 『エンジン・サマー』(ジョン・クロウリー/扶桑社海外文庫) 文明崩壊後の地球を叙情的かつ象徴的な文体で描くボーイミーツガール。この作品そのものが物語を語る物語であり、メタフィクションという形式でしか表せない恐怖と悲しみと切なさがある。物語と語り手は絶望的に隔てられている。 『ロクス・ソルス』(レーモン・ルーセル/平凡社ライブラリー) マッドサイエンティストが自分の発明品を見せびらかすだけの幸福な小説。手品をやるそばから種明かししていくような話なのに、それがひたすら愉し...

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古川 日出男『非常出口の音楽』を読む。

もう一冊の掌編集である『gift』とは似ているようで全然違う。 あちらはアイデア集というか、小説が萌す瞬間に焦点を合わせた作品だった。 この本が語ろうとしているものは、もっと掴みがたく、もしかしたらもっと切実なものかもしれない。 それは、現実というフィクションに立ち向かい、生き延びる助けになるフィクションがあるとしたらどんな姿をしているのか、ということだ。 その点で、古川日出男の小説は坂口恭平の『現実脱出論』と接続することができるのではないかと思う。 否定や逃避では現実をより強固にしてしまうだけだから、個々人の思考(空間認識)に還る=脱出という考え方は、古川日出男の作品にも見出せる。 たとえば本書の『アップルヘッド、アップルヘッド』。 ある建物にいる人間が被っていたヘルメットを脱ぐ。 同時に別の建物の人間が同じ色のヘルメットを被る。 それを「ほら、アップルヘッドが移動した。宙から、宙に!」と言われても、何だそりゃと思う。 でも、これは一つの発見ではある。 あるいは『聖家族』で東北の田舎道に山手線を見出す子供たちや、街中の猫を数える競技にしのぎを削る『LOVE』の登場人物たち。 古川日出...

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古川 日出男『ルート350』を読む。

短篇小説は長篇に較べ、作家の核となるものがより表れやすい。 多彩なスタイルに見えて、その実(あとがきで触れているように)同じモティーフを変奏のように繰り返し語り続けている古川日出男のような作家は特に。 この短篇集では「レプリカ」という単語が何度も使われている。 小説は、現実のレプリカなのか。 そうだとしたら、人はなぜ、わざわざ模造品を作って、読むのか。 ここに収められた8篇は、そんな問いを読者に突きつける。 『お前のことは忘れていないよバッハ』 三軒並んだお隣同士が不倫しあって父母シャッフルというとんでもない状況で共同生活を始めた三人の子どもたち、それからハムスターのバッハ。 家の中を世界地図に見立てる空間の想像力、「生き延びろ」という著者の作品で繰り返されたメッセージ、物語る=距離をつくる・カッコに入れることの救い、語りの裏に隠された切実な感情。 古川日出男のエッセンスが半分。もう半分は『カノン』に。 『カノン』 男の子、女の子、それからザ・マウス。 現実自体が何かのレプリカとしか思えない姿をとるようになった時、どんなフィクションがテロになり得るのか。 「女の子」の過剰な優秀さと、啓...

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『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて –

時代が大きく変化している情況において、より大きな動きが見られるのはもっとも開発されもっとも進んだ先進国ではない。 むしろ、ある種のつまずきを抱えてその遅れを取り返そうとしている国において、大きな動きが見られる。帝国主義時代のドイツ・ロシア・日本がそうであったろう。 そして、今のロシアはまた同じようにつまずきを抱えて、それを乗り越えようとしている。 であるならば、これからの21世紀の相貌の一端がまた見られるのは、ロシアの現代思想からなのかもしれない。 現代思想としての哲学は、20世紀に取り残された1つの課題を抱えている。 それは、しばらくのあいだ忘れ去られていた課題、「近代の超克」の問題だ。 思想史的な現代の情況をみたてると、ヒューマニズムにより近代を超克しようという熱病が再燃しているのが現在だろう。 近代哲学の完成がヘーゲルだというのは意見の一致するところだが、そこからの超克を目指して19世紀後半から20世紀前半に展開されたのがニーチェやマルクス,ハイデガーやラッセルなどいわゆる反哲学=現代思想としての哲学だった。 19世紀の近代化された世界は問題を抱えていた。 それを乗り越えるために...

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『サルトルの世紀』から考える。 – ハイデガー問題メモ –

『サルトルの世紀』という本を読んでいる。 サルトルと20世紀、その時代と思想について書かれた本だ。 注釈を抜いて全体で800ページ、まだその3分の1程度を読んでいる段階なのだが、第1章「世紀人」の末は50ページばかり「ハイデガー問題メモ」としてハイデガーの思想とその問題について描かれていた。 ハイデガーについてのテクストを読んで思うのは、ハイデガーの思想のその危険性というのは両義的であって、その危険はむしろ僕らが求めなくてはいけないところにあるということがある。 それは、本来的なあり方・非本来的なあり方という考え方だ。 三島由紀夫は昭和45年に以下のような文章を残している。 「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」 三島由紀夫もまた本来的なあり方を求めた作家だった。 ポ...

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第157回芥川賞/直木賞について

直木賞の佐藤正午さんの接待受賞(されてしかるべき)と比べて、沼田さんの芥川賞受賞は意外だった。 芥川賞には「あの作品で取るべきだった」とか「この作品にあげちゃうか」という喧喧諤諤がつきもので、作家たちはいつまでもそれを僻んだりネタにしたりし続ける。 沼田さんの『影裏』は(デビュー作ということもあり)「あの作品で取るべきだった」と言われる作品で受賞を遂げた極めて稀な例だといえる。 読んだ後のメモはこんな感じだった。 文学界新人賞受賞作。短い作品。 岩手の自然の滑らかさや釣りの俗気ない描写ですらすらと読ませてしまうのだが、途中で一回・最後にもう一回、誤って飲み込んでしまうと窒息しかける異物が紛れている。描かないことで浮かびあがってくる輪郭のみに対峙している不確かが不気味であるも逃れられない。震災との距離も考え抜かれており、筆者の並々ならぬ才能を感じた。 欲を言えば、今村夏子さん『星の子』の同時受賞を見たかった。 これも現代における本当の怖さに肉薄したエキセントリックな作品だったから。 第157回芥川賞は沼田真佑さんに決定!(平成29年上半期)|公益財団法人日本文学振興会 第157回直木賞は...

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W.G.ゼーバルト『アウステルリッツ 』を読む。

歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。 彼は顔を過去の方に向けている。 私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつの破局だけを見るのだ。 その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。 きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。 ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。 この嵐が彼を、背を向けている未来の方へと引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。 私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。 ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」 不可知の暗闇、ぽっかりと空いた大きな穴を迂回する小説という印象もある。 避けているし、そもそも近づこうにも近づけない。 アウステルリッツがたびたび披露する建築にまつわる考察や薀蓄は、自分自身の歴史・あるいは現在から目をそらすための時間稼ぎ、方便だと感じた。 それが、...

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ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』を読む。

『ロラン・バルト』(中公新書)を読んで最も印象に残ったのは小説を書こうとして書けないバルトの姿だった。 この『明るい部屋』は、ひとまずは写真論であるが、同時に小説論であり、小説に踏み出そうとして踏み出せないバルトの逡巡の跡であることが読み進むにつれて明らかになっていく。 この本でバルトはストゥディウムとプンクトゥムという2つの概念を提示する。 ストゥディウムは文化的なコードで読み解ける、言うなればタグ付け可能なものである。 それに対してプンクトゥムはストゥディウムを破壊して、見る者を突き刺す。 それは、1つは写真の意味をかき乱す細部であり、もう一つは、被写体がかつてあったという時間の感覚である。 写真は、被写体がかつて確かにそこにいたこと、そして同時に(少なくとも当時の姿では)もういないことを絶対的な事実として突きつける。 このことは、小説、少なくともバルトにとって重要なプルースト的な小説に似ている。 何かが語られるのは、それが終わった後にしかありえない。 語られた出来事は、取り返しようのない距離で隔てられた過去として表れる。 言ってみれば、小説の始まりにはいつも写真がある。...

倉阪鬼一郎『クトゥルー短編集 魔界への入口』を読む。

クトゥルー神話というテーマに絞ってこれだけ多彩な作品集を作れることに驚く。 また、終末の光景の美しさ、物寂しさに惹かれるものがある。 これはシンクロニシティのような話ではあるが、たまたま同時期に読んでいた『続・入沢康夫詩集』に収められているエッセイ『作品の廃墟へ――幻想的な作品についての妄想的な断想』の文章を思い起こされた。 幻想的作品がうさんくささを呼び、マイナーな感じを持つとすれば、そのより本質的な理由と考えられるのは、それら幻想的作品の「時間性」の問題である。その幻想が真に戦慄的であるためには、(中略)それは超時間的なもの、時間と垂直に交わるものなのである。ところが、いわゆる幻想的作品は、物語であり、譚詩であり、そこでは事件の推移が叙述されなければならない。また、時間を絶した一つのヴィジョンを描き出す場合でも、それが言葉による叙述である以上は、「叙述の時間」がそこには介入してくる。一語の中に、一字の中に、一音の中に、すべてをひしめき合わせることができるなら別だが、われわれの言葉はそのようにはできていない。叙述できないことを叙述しているという点に、そのうさんくささの源がある これが...

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千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』を読む。

『勉強の哲学』を読んだ。 思った以上に好きなテーマが扱われていたように思う。 また、佐々木敦の『未知との遭遇―無限のセカイと有限のワタシ』に繋がるところが結構あった。 そちらも、勉強の際限なさに対して有限性を活用することから始まっていたから。 「環境のノリ」が言語による刷り込みなら、勉強とは違う言語を使えるようになることだろうか? 言葉は環境のコードに規定されるが環境のコードは言葉でできている。 違う何かになる方法は使う言葉を変えることだ。 違う言葉遣いの界隈(=ノリ)へ参入し、聞きなれない言葉を異物感を味わいながら使ってみる。 その時、言葉の他者性・物質性に(改めて)気付き、別の可能性が開けてくる。 しかし言葉はあくまで環境依存的なものだから、あるノリから別のノリへと転身し続けなければならない。 そんな絶え間ない自己解体をこの本では「勉強」と定義する。 その中で、「アイロニー」と「ユーモア」というキーワードが提示される。 「アイロニー」とは、ツッコミ・縦軸・深掘りを意味する。 そして、行き過ぎると現実それ自体という不可能という極限に突き当たる。 「ユーモア」は、ボケ・横軸・言葉のずら...

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読書ノート 2017年6月

フォークナー『アブサロム、アブサロム!(上・下) (岩波文庫)』 p263「真実より本当の《あったかもしれないこと》があると理解できる力が、本当の智慧なのでしょうか?」 偏執的としか言いようのない入り組んだ語りに何度も何度も立ち止まらされ、直線的な時間など(少なくともこの小説には)存在しないことを思い知る。 時間の中で継起する出来事を語るのではなく、一つの場所(南部)を舞台としてその中でいかようにでも変転する時間そのものを語ること、《あったかもしれないこと》を執拗に重ねることで狭い作品世界の内部が無限かと思えるような広がりを持つこと。 「五十年も前に起こって終わってしまった出来事に対する、死霊のような、抑えようもない怒りと誇りに満ちている真空のようなものは何なの?」 実際に起こらなかったことも歴史のうちであるというだか寺山修司だかの言葉を信じるなら、何行にもわたって描いた情景や台詞を「ではなく」と否定する無駄としか思えない書き方も、「実際には起こらなかったこと」を記述するための方法なのでは。 純血という神話を打ち立てようとした男が混血によって(愛の不在によって)滅びる物語であり、異様に...

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『クラゲの海に浮かぶ舟』を読む。

操作された記憶、奪われた記憶、欠落した記憶。 そんな世界の不確かさに怯えるのでも憤るのでもなく、ただ、ぼんやりと(ニセモノかもしれない)「現実」を受け入れる「ぼく」(あるいは「君」)。 この、離人症的というか、感覚の麻痺した語りが、何よりも饒舌に、そして切実に、語られていない「これまでのあらすじ」を訴えかける。 この小説が描く世界は断片的だ。 ナノマシンによってバラバラにされて組み直されたヒトやモノや世界。 そして小説の語りも断片的になり、時には互いに矛盾した記述も出てくる。 形の合わないパズルのピースである。 しかしながらピースは不定形の生もので出来ているから、形を変えてすっぽり収まってしまう。 無理やり当てはめたものだから、色んなところに不具合が出てくる。 現実のような何か。記憶のような何か。小説のような何か。 ニセモノにしかなりえないこと。それは哀しい。けれど美しい(ホンモノよりも。だってそれこそがニセモノなんだから) この作品は怪獣小説でもある。 怪獣が呼び起こすノスタルジー(今はもうない小さな映画館で観た怪獣映画の記憶)。 おそらく、語り手にとっては本当は存在しない記憶、ホン...

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『J・G・バラード短編全集2 (歌う彫刻)』を読む。

J・G・バラードは見ることの作家だ。というか、本来他の感覚で受け取るものまで視覚で描いてしまう。音響彫刻などいい例だ。 そして、見えないものを見ることには、固形化・固定化が付きまとう。 例えば『結晶世界』。その背後には『時の声』で語られているような時間の死が隠れている。 バラードといえば例の自転車と健忘症の男の喩えを思い出すが、この「健忘症」もバラードにとっては一つの技法だ。 よく見知っているはずのものを無知の状態の中に放り込んでその本質、外界の反応を視る。 バラードの作品を読んでいるとそういう印象を受けることがよくある。 反応を視られているのは私たち読者も同じかもしれない。 J・G・バラードが見たもの、描いたもの。 死亡した宇宙飛行士、それから挫折した宇宙時代。 挫折した人類の夢は預言でもある。 月に行くことで、宇宙を旅することで、人工衛星が地球の周りを回ることで、ロケットが墜落することで、人間の精神に起きる変化・出来事、つまり反応を書くのがバラードの、少なくともこの時期の作品の特徴ではないか。(その出来事自体というよりは。) だからそこで積極的に行動しようが消極的に破滅を受け入れて...

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『ゲンロン5 幽霊的身体』を読む。

『ゲンロン5 幽霊的身体』を読んでいる。 個人的に「幽霊」・「身体」というキーワードには以前から興味があった。 それは、20代のあいだずっと「絶対」の存在と可能性(「絶対」が成立し得ないことだけが絶対的に存在するという現実をどう捉えればよいのか)について思いを巡らしていたからであるし、またオルダス・ハクスリーやティモシー・リアリーやジョン・C・リリーのような言語的論理の外部に興味を持ち続けていたからだ。 ところで、自分の見立てとしては「幽霊的身体」というのを考えてみると、それはある種の弁証法への反省と再度の実践を踏まえた話ではないかと思う。 たとえば、ユートピアを目指した左翼が連合赤軍みたいなところに行き着いたという現実があった。そこにはテロルの現象学のような課題があった。それに対置する形でアソシエーションやマルチチュードが提起されたが、しかしそれは否定神学的な概念だから有効性を持たないため、ある種の「存在の揺らぎ性」を基盤にした思想が必要なのではないかということだ。 それはこう言いかえることもできて、アドルノの否定弁証法のように近代の啓蒙理性はその理想に反してその極で非人間的なもので...

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『かもめのジョナサン』を読む。

『かもめのジョナサン』を読んだ。 きっかけは、ふとしたことだ。YouTubeでミュージック・ビデオを流していると、ある動画が再生された。 それは1970年代をイメージした映像だった。 そこには時代を象徴するシンボルが映されていた。 フォークソング、喫茶店、コーヒー、ナポリタン、かもめのジョナサン。 『かもめのジョナサン』は、1970年代に世界的に大ヒットした小説だ。特に、ヒッピー文化に影響を与え、後にニュー・エイジやオカルティックな精神世界や自己啓発にも影響を与えた。 有名なところでは、オウム真理教の信者であった村井幹部は、「かもめのジョナサン」の心境になって出家をしたといわれている。 たしかに『かもめのジョナサン』は宗教的な要素のある作品だ。 しかし、思えば、それは宗教よりもその少し前の若者に影響を与えた『あしたのジョー』に似ている。 ジョーは燃え尽きた。真っ白な灰になるまで。そんじょそこらの不完全燃焼ではなく、真っ白に燃え尽きた。 「われわれは、“あしたのジョー”である。」 赤軍派(あしたのジョー)から、オウム(かもめのジョナサン)へという時代の流れが予見されていたのかもしれない。...

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『ゲンロン0 観光客の哲学』を読む。

『ゲンロン0』を読んだ。 『ゲンロン』は、東浩紀氏監修の批評雑誌であり、『ゲンロン0』はその創刊号である。 また、『ゲンロン0』は東浩紀氏の集大成的な哲学書である。 本書の副題は、「観光客の哲学」である。 これは、ある意味で柄谷行人氏の『トランス・クリティーク』の理論の更新ではないだろうか。 本書にはナショナリズムとグローバリズムに分裂した、2017年現在の状況をどう捉えるか、いかにわれわれは思考し行動すべきか。そう問うための、ビジョンが描かれている。 本書の核心のひとつは、現代のわれわれはモダンとポスト・モダンのふたつのレイヤーの中に生きていると捉えていることである。 現代の僕らの文化は、西洋近代の発展に大きな影響を受けている。 それは決して超克されてはいない。 しかし、1970年代以降のポスト・モダンの興隆と1990年代のソビエト崩壊以降、僕らはあたかも近代後の現代に生きていると考えているところがある。 モダン(近代の絶対的なツリー状の文化)はポスト・モダン(相対的なリゾーム状の文化)に転換されたのだと。 これらの展開を東浩紀氏は、モダンとポスト・モダン、アメリカ政治思想のコミュニ...

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又吉直樹『劇場』を読む。

又吉直樹『劇場』を読み終える。 『火花』を読んだときに、芸人を主人公にした職業小説ゆえのリアリティが又吉にしか書けないものだと思ったが、同時に次は大変だろうなとも思った。 しかし、そんなことは全くなかった。 劇団を主催する永田とその恋人沙希との話。 物語は永田の「僕」の一人称で語られる。 この永田が重症。小劇場や芸人・バンドマンに見られるような夢追い人属性に加え、過剰なまでに他者を拒絶する。その配分されない他者の全てを沙希が受け入れる。『火花』にもあったダメ男と健気な恋人というのは又吉の得意な設定。 ありふれてはいるものの個々の話の真実味に胸が詰まる思いがした。 不器用な永田を擁護しつつ、健気な沙希に安心させられる。 もちろんこのような関係が続くことはなく、鈍感な永田が関係を維持するための沙希の努力にハッとする場面など、沙希の思いの残滓に必死に火をつけようとする小さく大きな姿に胸が千切れそうだった。 ただ、それだけ。ただそれだけなんだけど、永田のダメ男ぶりや沙希の可愛らしさ、仕事関係の青山という人物とのメールのやり取りなど、小説として引き込まれる部分も多かった。 途中から、回想のように...

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村上春樹『騎士団長殺し』を読む。~ イデアとメタファーと、ポスト・トゥルースのその先へ ~

自分の好きな作家について語るのは難しい。 また、偉大な作家の作品に不要な批評を書くことは愚行かもしれない。 にもかかわらず、文章を書きたいと思う。 村上春樹の『騎士団長殺し イデア篇/メタファー篇』を読んだ。 いうまでもなく、傑作だったといえる。 もしかしたら、村上春樹の最高傑作といえるようになるかもしれない。 まず、視覚的な絵画を小説のなかで描いたこと挑戦的な試みだったといえる。 また、村上春樹作品の特徴である有と無とをこえたゆらぎの存在論、物語の構成には大きな深みを感じた。 しかし、これまでの作品との、もっとも大きな違いは主人公が「“父親”になった」ことかもしれない。 ■ イデアとメタファーについて まず、表題に付加されているイデアとメタファーについて考えてみたい。 これは、ある種、哲学的な概念である。 イデアは絶対観念であり、メタファーは言語による差異化の遊戯性だといえる。 村上春樹の小説がこれまで描いてきたものはそれであった。 それはイデアの喪失と自己修復の小説であり、メタファーによる闘争/逃走であったともいえる。 そこから、いかなる物語を紡ぎ出すか。それが問題であった。 村上...

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村上春樹『職業としての小説家』/『騎士団長殺し』を読む。

村上春樹の『職業としての小説家』を読み終わった。驚いたのは数年前に出たばかりの比較的新しい本の内容なのに既知に溢れていたこと。monkeyで書いていたのがもう少し前ということもあるのだろうが、村上春樹を語る上で多くの人間がここから引用してるということが良く分かった。 僕の印象では、彼は小説の創作や個人の話をそれほど語ってこなかった。それは彼の特異な部分だし、それを望んでいるファンもいるのだろう。だけど、僕はこれはアンフェアだと思う。海外の知らないところで書いて、具体的な声明もないまま新刊が出て、本当に読まれてるのか分からないが売れている。 よく言えば読者に委ねると表現できるが、僕は彼のテーマとは別の態度としてのデタッチメントに付き合いきれないと思っていた面が大きいということが分かった。人間臭くなるけど、もっと苦労したとか性描写ってくせになるよねとかそういったありふれた声と共に作品が届いて欲しかったのかもしれない。 間接的ではあるものの今回この『職業としての小説家』を読んで村上春樹の人間的な部分に触れることができ、それが新刊をおおいに面白く読んでいる結果につながっているようで、嬉しいし楽...

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松浦理英子『最愛の子ども』を読む

忙しくてなかなか進まなかった松浦理英子『最愛の子ども』読み終わり。 傑作中の傑作で、これまでこんなに愛おしいと思いながら読んだ小説があっただろうかと思うほど。 <わたしたち>という一人称複数で<わたしたちファミリー>を追いかけるという構造には一見無理があるのだが、徹底した構造順守の姿勢と読み手の期待や愛のようなものが<わたしたち>の妄想部分の違和感を消し去る。 深層には松浦さんに一貫するテーマを確認できるが、少女という設定によりその一歩手前・分化される間際が青春小説として読めるあたりが個人的には良かった。 また、これは“距離”が一つの重要なアクセントになっている。 事実や妄想で伸び縮みする<わたしたち>と<わたしたちファミリー>の距離感、<わたしたち>という総称を持ちながらそこから自在に分裂する彼女たちなど、特定の場所に依拠しない/できない浮遊感が対象との距離を際立たせる。 真汐・日夏・空穂という捏造された家族(<わたしたちファミリー>)という実体こそあるものの未だ世界に受け入れがたいものの総称を虚実を交えて時間をかけて観察し実体を持つものへ重...

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(草稿)苫米地英人『洗脳原論』/中沢新一『チベットのモーツァルト』を読む。

あまり言っても、フランス映画好きのように格好の良いものでもないので、最近はあまり言わないのだけれど、苫米地英人さんと中沢新一さんの著作はかなり好きだ。 彼らは、基本的には対極の存在と位置付けられていて、オウムを接続点としている。 社会的にはアウトサイダーかもしれない。思想的に反対の立場の人や批判的な人からは、両者ともにある種のアジテーターのようにも位置づけられているかもしれない。 しかし、社会的な評判を捨象すると、両者は極めてラディカルな思想家であると思う。どちらもサイキックでオカルティズムであると見られる節があるが、それは本質ではない。むしろ、現代の科学的知見の外部存在を、哲学・科学の内部に引き込み、それを応用して市井の人々に注入している。 ある意味ではオウムは現代思想の極地点であった。いや、あれは単なる事件だ。社会の中の異端の暴走だ。あるいは、単なるバグだという意見もある。 しかし、近代哲学と科学の論理の不完全性が明白になった現在において、根源的ものを論理単体において基底することは不可能であった。 いま現在において、世界を語る場合の基底は、社会学とビジネスであると思う。書店に行けば...

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オルダス・ハクスリー『知覚の扉』を読む。

オルダス・ハクスリー(1894 – 1963)は『すばらしい新世界』で知られるイギリスの作家だ。 僕が、オルダス・ハクスリーについて知ったのはドアーズ(The Doors)を介してだ。 それは、大学に入学した年だったと思う。だから、18か19の時だ。もう10年以上前の話だ。 大学に入り、ひとり暮らしをはじめると、時間軸から開放される。 それがたった4年間の話だったとしても、開放された空間を楽しむのが学生の特権だ。 当時は、iPodが広く普及しはじめた時期だった。 誰も彼もが、iPodで音楽を聞いていた。 当時のiPodは今のiPhoneやAndroidのような通信系のモバイル端末ではなかった。 僕が持っていたのはiPod Classicで、それは60GBの記憶装置を持つ小さなジューク・ボックスだった。 バーに入りカウンターのマスターにシャンディー・ガフを注文する。 一服しながら空間の隅っこにあるジューク・ボックスをながめる。 ジュークボックスに近づき、お気に入りのナンバーを探す。 クリームのWhite Room、ディープ・パープルのsmoke on the water、レッ...

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村上春樹『風の歌を聴け』『ノルウェイの森』を読む。

『ノルウェイの森』をはじめに読むと、村上春樹が苦手になるといわれる。 ある空間への「入射角」というのは大事だ。 角度が浅ければ反射してしまうし、角度が深すぎるとすぐに失速してしまう。 乱反射するのも悪くはないが、できればスッと屈折することなく進むのが理想的だ。 その意味で、村上春樹の作品を『風の歌を聴け』から読み始めたのは幸運だった。 個人的には、小説を読む場合には、デビュー作から入り、次に代表作を読む、という流れがベストだと思う。 村上春樹でいえば、『風の歌を聴け』から入り、『ノルウェイの森』を読んで、それから『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』と読んでいくのがいいと思う。 実をいえば、村上春樹の作品は大体読んでいる。 「ハルキスト」という言葉があり、熱狂的な信者を冷笑する人もいるが、それもあながち誤った解釈ではない。 聖書の膨大なテクストを、創世記、ヨシュア記、ルツ記、サムエル記、イザヤ書、エレミヤ書、詩篇、箴言と読み込んでいくように、気がつけば大体の作品は読んでいた。 同じような友人とは、冗談半分でこんな話をすることがある。 「もう村上春樹の新刊...

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