山田かまち『山田かまちのノート』『17歳のポケット』を読む。

山田かまちについて考えるとき、僕は抗いようもなく、17才の自分に戻ってしまう。

彼は、繊細で傷つきやすい、17才の青年だった。
そして、今でも17才のまま、その一瞬のかがやきを残している。

山田かまちの名前を知ったのは、まだティーンエイジャーになったばかりの頃だったと思う。僕は山田かまちと同じ高崎市で生まれ、育った。

記憶の中の高崎は、いつも風が吹いていた。
耳をすませば、ウォークマンのイヤホンを外した耳に、ヒューという風の音が響いて聞こえた。
ときおり思いがけず吹く風で砂ぼこりが目に入り、涙がにじんだ。
烏川をまたぐ長さ400メートルばかりの橋梁の上を、横風にあおられながら前のめりになって自転車で走り抜けた。
とにかく、乾いた強い風の吹く街だった。

13才~15才の抑圧されたむず痒い時期を中学校でやり過ごし、高校受験をなんとか切り抜けると、高校は山田かまちと同じ高崎高校に進学した。
そこは、かつて旧制中学だった男子校でバンカラな風土で有名だった。
たまらないくらい自由な日々だった。
まるで、すべてが許されているような気がした。
授業をエスケープして、図書館や市営のプラネタリウムで時間をつぶしたり、コパトーン(ココナッツの香りのサンオイル)を用意してプールサイドで日焼けをしたり、今はなき真下商店で駄菓子を齧りながら猥談ばかりしていた。
今思い返すと、あれは何だったのだろう。(もちろん留年しかけた。)
井上ひさしに『青葉繁れる』という小説があるが、あんな高校だった。
(余談だが、東京の大学に進学すると周囲のソフィスティケートされた立ち振舞いに、当初だいぶ戸惑いを感じた。)

三島由紀夫がどこかで「本当の卒業とは、『学校時代の私は頭がヘンだったんだ』と気がつくことです。」と語っていたように思う。いま思うと、確かに、当時は少しおかしかったように思う。

当時の僕は、タナトスの欲求に突き動かされていた。
死への欲求は、生の欲求である。
死を覚悟することによって、生の実感を得るのだ。
それはスリルの欲求であり、逆説的な快楽の衝動である。

一瞬一瞬の刹那的な生の実感を、限界まで求めていたように思う。

それは、美と超越の探求だった。
観念的で形而上学的な、存在と本質の追求だともいえる。

当時の僕を、友人は「躁鬱病みたいだった」というし、ある人は「あたまのおかしなチンピラだった」という。
おそらく、そうだったのだと思う。

ある時は女の子にどうしようもなく恋をしてライバルの男子を殴り飛ばしたり、
ある時は街のチンピラに目をつけられて追いかけまわされ必死に逃げ回っていた。

それは、刹那的な生の実感を得るための即物的な方法だった。
そして、そうすることによって実存の不安を解消していたのだ。

とにかく、当時、山田かまちの描いた絵と詩に、どうしようもなく共感してしまう自分がいた。

山田かまちは高崎高校に通う17才の時に自宅の2階でエレキギターに感電して亡くなった。
ビートルズに憧れて、ロックのサウンドに惹かれ、水彩画を描き、恋をして、詩を書いた。
そして、死んだ。

彼が17才の自分に向けたメッセージ。

感じなくちゃならない
やらなくちゃならない
美しがらなくちゃならない

当時、僕は焦燥感を抱いていた。
理由はわからない。
たぶん、そういう年齢なんじゃないかな。

あらゆる可能性があるように感じ、同時に、将来はまったく見えなかった。
エゴの肥大化と、実際の行動とのあいだには、大きな裂け目が存在した。

とにかく、何かしなくちゃいけなかった。
そうでなければ、ディオニュソス的な狂気に呑み込まれそうだった。
なにをすべきかは、わからなかったけど、とにかくエネルギーがあふれそうだった。
興奮して身体と心が震えてしょうがなかった。

もっともっと一瞬一瞬の感覚を鋭くしなければ、
もっとすべてに感動しなければ、
そしてこの瞬間を絶対的なものに純化しなければ、と感じていた。

実をいえば、いまでもこの感覚は忘れていない。
もしかすると、あの頃よりも、少しは慎重に、ほんの少しは大人らしくなっているとは思うけれど。
それでも時々、こみ上げてくるものがある。

だから、これは僕のためのメッセージでもあるんだ。

“感じなくちゃならない
やらなくちゃならない
美しがらなくちゃならない”

辻仁成『そこに僕はいた』『音楽が終わった夜に』を読む。

辻仁成について語るのはムヅカシイ。
まず、辻仁成のキャラクターが奇異だからだ。
元ECHOESのボーカル、中山美穂の元ダンナ、バラエティ番組に出ている「中性化」した長髪のいい年をした大人。

ただ、それでも僕にとっては、10代のある時点で、辻仁成の本を読み、ECHOESのサウンドを聴き歌詞カードを読んだ、そして精神的な何かを形成した、そのことにはどうしても否定できないものがあった。

辻仁成の本では芥川賞を受賞した『海峡の光』や『サヨナライツカ』『冷静と情熱のあいだ』がよく読まれているのだろうか。
小説では『グラスウールの城』『母なる凪と父なる時化』『ニュートンの林檎』を楽しんだ記憶がある。

けれど、僕にとって特に新鮮な刺激だったのは、エッセイの『そこに僕はいた』『音楽が終わった夜に』だった。
 

内容紹介
大人になった今、毎日楽しみにしていた学校はもうない。でも友達は、僕が死ぬまで大切に抱えていける宝物なんだ――。少年時代を過ごした土地で出会った初恋の人、けんか友達、読書ライバル、硬派の先輩、怖い教師、バンドのマドンナ……。僕の人生において大いなる大地となった、もう戻ってはこないあの頃。永遠に輝きつづける懐かしい思い出を、笑いと涙でつづった青春エッセイ。

内容(「BOOK」データベースより)
コンサートが始まる直前の、あの昂ぶりが心地よかった。生活のささやかな出来事を呪文のように並べた歌が好きだった。やがて音楽が終わり、アンコールの手拍子に呼び戻される瞬間が嬉しくてならなかった。みんな、革ジャンの下は素肌で生きていた。夢だけは手放さなかった。ロックの輝きに無垢な魂を燃やして…。’80年代のロックシーン、ひたむきな情熱の光と影を、等身大に活写する。

 

そこには「子ども」の頃の、そして「若者」であった頃の繊細な心理があざやかに描かれていた。
それは過去を振り返るテクストであるから、そこに描かれているものはスローモーションのミュージックビデオのように象徴的で美しい瞬間として描写されていたが、描かれている<映像>には読み手の心の柔らかな部分に触れるものがあった。

不器用で、まっすぐで、傷つきやすいナイーブな少年。
孤独でくたくたでいつもお腹をすかせた痩せっぽちの青年。
忘れなれない彼女との思い出、友人を傷つけてしまったあの事件。

そんな生活と心の動きが描かれていた。
僕にとっては、まるで、サリンジャーやジャック・ケルアックのようだった。

思えば、The Policeやニュー・ウェーブの音楽、ジャック・ケルアックのオン・ザ・ロードについて知ったのは村上春樹を介してではなく、辻仁成のエッセイを通してであったかもしれない。
ECHOESのちょっと恥ずかしくなるような歌詞も最高だった。

 

 

リアルタイムで聞くことはできなかったが、辻仁成のラジオ番組もティーン・エイジャーの頃に聴きたかった。
 

Hello Hello、This is Power Rock Station!こんばんはDJの辻仁成です!
真夜中のサンダーロード、
今夜も押さえきれないエネルギーを探し続けているストリートのRock’n’Rider、
夜ふけのかたい小さなベッドの上で愛を待ち続けているスウィートリトルシックスティーン、
愛されたいと願っているパパも、
融通のきかないママも、
そして、今にもあきらめてしまいそうな君も、
今夜はとびっきりご機嫌なロックンロールミュージックを届けよう。
アンテナを伸ばし、周波数を合わせ、システムの中に組み込まれてしまう前に、
僕の送るホットなナンバーをキャッチしておくれ。
愛を!愛を!愛を!今夜もオールナイトニッポン!!

 

辻仁成の言葉のいいところは、それが繊細な「少年のつぶやき」であること、そして背景にサウンドが流れ続けているところなのかもしれない。

結局、青春は終わらないし、僕らは繊細な少年のままなのだ。
耳をすませばビートが聞こえるだろう。音楽は鳴り止むことはない。
 

石原莞爾『世界最終戦論』『戦争史大観』を読む。

石原莞爾という名を聞いたことがあるだろうか。
学生時代に歴史科目が好きだった人は覚えているかもしれない。

関東軍の参謀であり、柳条湖事件・満州事変の首謀者であり、満州国建設の中心人物である。独自の戦争史観と日蓮宗系の国柱会の思想をもとにした「世界最終戦論」という軍事思想と戦略の巧みさで有名だ。

思えば、当時の日本には力強い思想家が少なからずいたように思う。
たとえば石原莞爾がそうであるし、2・26事件の北一輝や血盟団事件の井上日召、あるいはコーランの研究で有名な大川周明、京都学派の西田幾太郎や禅文化の海外発信で有名な鈴木大拙などがそうだ。

僕が石原莞爾について知ったのは、中学生の頃だったと思う。日本史の参考書を読んでいた時だ。
認めるのは恥ずかしいことだが、10代の若者がナショナリズムに触れれば、それなりに感化される。
石原の、戦後の極東軍事裁判での以下のような裁判の記録を読んで妙に納得したのを覚えている。

この出張法廷では、判事に歴史をどこまでさかのぼって戦争責任を問うかを尋ね、「およそ日清・日露戦争までさかのぼる」との回答に対し、「それなら、ペルリ(ペリー)をあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」と持論を披露した。

脱線するが、1960年代~1970年代における学生運動に参加した学生の規範は仁義と愛国心そして反米感情であったといわれる。
赤軍派の中心人物である重信房子の父親が血盟団の一員であることや、赤軍派議長 塩見孝也による「世界革命戦争」の理論が石原莞爾の「世界最終戦論」の影響を受けていることは、戦後の極左が戦前の右翼思想に影響を受けているという点で妙である。

石原莞爾の魅力は、その思想の大きさである。人によっては単なる夢想と断ずるのみであろうという荒唐無稽な話だともいえる。世界最終戦論は以下のような内容である。

来るべき最終戦争によって世界は統一され戦争がなくなる、その戦争は日本を中心とする東洋とアメリカを中心とする西洋の決戦である、という独特の思想を主として戦史分析の観点から詳述している。

重要な点は、二国の総力戦の末に戦争は終局する、という点である。
石原はドイツに留学していて、戦略と戦争史について造詣が深かった。おそらく、クラウゼヴィッツの『戦争論』などをもとに戦争史観を構築し、近代のテクノロジーをかんがみてビジョンを構築したのだろう。
石原は、近い将来核兵器のような兵器や大陸間輸送機が開発され、東洋の王道である<日本>と西洋の覇道である<米国>において最終的な総力戦・決戦である全面戦争が近い将来起こると想定していた。
そして、大国アメリカとの最終決戦を視野に入れ、事前準備として建設したのが東洋の王道を担う満州国であった。
そして、八紘一宇の精神にもとづき王道楽土や五族協和を唱え、ユダヤ人自治区を建設するという河豚計画までを考案したのだ。

あまりにもスケールの大きな話である。
ある意味、単なるユートピア思想であったし、なんらきちんとした形では実現されなかったかもしれない。
しかし、思想家はユートピアを想像するものだ。
プラトンの哲人政治、トマス・モアのユートピア、レーニンのソビエト国家すべてそうだろう。

幼少の時分、本棚から古い辞典を手に取り、そこに載っていた地図のソビエト連邦とアメリカ合衆国の二国の大きさに驚いたことがある。
この大国2つが世界のヘゲモニーを争っているのかと親に聞いた。その時、すでにソビエト連邦は存在しなかった。
僕は、1987年の生まれである。分別のついた時には、小泉総理の時代だった。日本はアメリカの一部だった。

石原莞爾の「世界最終戦論」を読んだ時には、対日本/対ソビエトとトーナメントに勝利し続けるアメリカを想起した。
しかし、一方で、歴史のパラダイム・シフトを感じていたと。
当時は911事件の直後だった。
すでに、国家間の戦争の時代は終わり、本格的なテロリズムの時代がはじまっていた。

「世界最終戦争論」は、有効性を欠いた古い時代の右翼の夢想として僕の心に残った。

しかし、石原莞爾の著作には単なる夢想にとどまらない先見性があることは確かだ。
たとえば、「戦争史大観」における戦争の体型の発展の仕方がそうだ。

第四 戦闘方法の進歩
一 古代の密集戦術は「点」の戦法にして単位は大隊なり。横隊戦術は「実線」の戦法にして単位は中隊、散兵戦術は「点線」の戦法にして単位は小隊を自然とす。戦闘の指導精神は横隊戦術に於ては「専制」にして、散兵戦術にありては「自由」なり。
日露戦後、射撃指揮を中隊長に回収せるは苦労性なる日本人の特性を表わす一例なり。もし散兵戦闘を小隊長に委すべからずとせば、その民族は既にこの戦法時代に於ける落伍者と言わざるべからず。
戦闘群戦術は「面」の戦法にして単位は分隊とす。その戦闘指導精神は統制なり。
二 実際に於ける戦闘法の進歩は右の如く単一ならざりしも、この大勢に従いしことは否定すべからず。
三 将来の戦術は「体」の戦法にして、単位は個人なるべし。

つまり、古代ローマなどにおいては歩兵大隊と歩兵大隊のぶつかり合いだった戦闘が、年々と分散化された戦闘となり近代ナポレオン以降の時代においては近代的な武器を保有したより小さな小隊での戦闘となっている。以降、テクノロジーが進むとともに、個人レベルでの戦闘が中心となるであろうと言っているのだ。

これは、現代の事件を省みればあきらかである。
現代では個人レベル/サイバー空間(情報空間)での戦術にまで展開しつつある。

最後に、大事なことを書かなければいけない。
戦後、石原は「世界最終戦論」を誤った理論だと捨てている。
そして、平和活動家に転向したのだ。
石原は核兵器による広島・長崎の惨状を目撃した。
それは総力戦の限界点だった。
もはや戦争に勝利するのではなく、戦争を起こしてはいけないということを示すものであった。

あらためて、今の時代に、僕らは「核」という言葉で、何を想起し、何を思うだろうか。
あるいは、何を思えばいいんだろう。

あたらしい思想、あらたな戦略が必要だ。

僕はこんな本に影響を受けてきた

本には不思議な力がある。
それは、想像をかき立てるからであるし、思考をつかさどる言葉の性質によるものだと思う。
そして、本こそがもっとも思想を形成するものではないかと考えている。

僕は思想というものを、人間のOSだと考えている。
コンピューターでいうところのWindowsやLinux、UNIXといった意味でのOSである。
優れたOSは優れた処理をすることができるし、柔軟なOSは様々な状況に対応する姿勢を持っている。

人間にとって、OSの役割を果たすのが思想なのだ。
優れた思想は行動を後押しし、状況に対応する力を与えてくれる。
そして、強い思想には人を動かす力がある。

キリスト教は聖書の力により2000年の歴史を作ってきた。
マルクス主義もマルクスやレーニンの著書による功績は大きい。清濁併呑。
イスラム教のコーランや原理主義書の『道しるべ』もそうであろうし、
ジーン・シャープの『独裁から民主主義へ』もそうだろう。

僕はどんな本を読んできただろうか。
そして、その本からどんな影響を受けてきただろうか。
今から振り返れば、恥ずかしいものもあるだろう。
けれど、必死に読み込んだ本があったはずだ。
まるで、擦り切れて音が飛ぶまでレコードを聴くように。

僕は今年30才になる。
いままでそれほど多くではないが本を読んだ。
10代・20代に本を読み、感じたことは、どんな意味を持ちうるだろうか。
あるいは、何の意味もなかったことかもしれない。
あらためて振り返り、思い返すとどうだろうか。
何か見えるものがあるだろうか。

以下の本について振り返ってみたい。

◆ Ⅰ.水源篇 15才~22才
1.石原莞爾『世界最終戦論』『戦争史大観』
2.辻仁成『そこに僕はいた』『音楽が終わった夜に』
3.山田かまち『山田かまちのノート』
4.村上春樹『風の歌を聴け』『1973のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』
5.オルダス・ハクスリー『知覚の扉』
6.三島由紀夫『豊穣の海』
7.ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』
8.プラトン『ソクラテスの弁明』
9.トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』
10.苫米地英人『洗脳原論』

◆ Ⅱ.展開篇 27才~29才
11.カント『純粋理性批判』『実践理性批判』
12.孫武『孫子の兵法』
13.岡倉天心『茶の本』
14.レーニン『哲学ノート』『何をなすべきか』
15.サルトル『実存主義とはなにか』『嘔吐』
16.三島由紀夫『行動学入門』/小坂修平『思想としての全共闘』/重信房子『わが愛 わが革命』/山本義隆『わたしの1960年代』
17.村上春樹『職業としての小説家』
18.浅田彰『構造と力』
19.中沢新一『チベットのモーツァルト』『虹の階梯』
20.ジーン・シャープ『独裁から民主主義へ』

『ゲンロン4 現代日本の批評III』を読む。

評論・現代思想の雑誌『ゲンロン4』を読み終えた。

読み終えて、評論や現代思想の課題は「多様化し点として分散化した人々を、いかに線としてつなぐのか。いかに孤立した大衆を、マルチチュードとして連帯に導くか。そこから、(マルチチュードの)自律した主体としての一般意志をいかに導くか。」ということではないかと考えた。
そして、そのためには人を育て空間をつくり、流れ(運動、短期的な政治運動ではなくエネルギーや共有意識の流れ)を生み出すことが必要である。
東浩紀さんのゲンロンは、まさにそのための実践をしているのではないかと思う。

ゲンロン4の巻頭は、浅田彰さんのインタビューであった。浅田彰さんはポストモダンやニューアカの旗手であり80年代思想のリーダー的存在だ。ニューアカというと、今ではバブル崩壊前の浅薄な思想だったと捉えられがちだ。だが、その実は資本主義礼賛や広告・商業主義への転向、あるいは反マルクス主義や反革命的なものではなく、むしろ新たな闘争(逃走)を提起していたというのが、あらためてよく分かるインタビューだった。

考えてみれば、フランス現代思想のフーコーやアルチュセール、ドゥルーズもパリ5月革命を経験して、構造主義やポスト・モダンの思想を形成したのだ。それは、ある意味では、いかに新たな「解放区」をつくるのかという議論であったのではないかと思う。

今では、現代思想は衰退しきっている。けれど、トロツキスト的な革命闘争へのアンチテーゼを打ち立て、資本主義とマルクス主義の対立構造を超越するビジョンを模索するという現代思想の希望は、未だ果される時を待っている。
それは、ある種の批評遊戯のようなものであるかもしれないし、また新しい形かもしれない。

ゲンロン4では、白井聡さんの名前がちらほらと出てくる箇所があったが、『未完のレーニン』を生み出すきっかけとなった『はじまりのレーニン』の著者 でありニューアカのもうひとりの旗手である中沢新一さんも思想界で名声を取り戻しつつあるようだ。

この30年間の日本の思想史を通して、80年代以降ポストモダンとニューレフト的ものが分離し、90年代以降は社会学とオタク批評とストリート的な思想として別々に発展してきたが、これからは再度その結合へと発展する流れなのではないかと想像された。
問題は、いかに発展するのか、そしてそのために何をなすべきかということであるが。

最近の村上春樹について書かれた文章で「おっ!」となったものを紹介。

今年ノーベル文学賞1週間遅れてるんだけど
果たして村上春樹が取るのだろうかというところで、
僕個人としては村上春樹という作家には何の思い入れもないのだが(刊行された小説は全部読んでいて何の思い入れもないのだからおもしろい)もしかすると今年あたりさらっと取る可能性があるのではないかと思っているので、
最近の村上春樹について書かれた文章で「おっ!」となったものを紹介。
※完全なる引用・転載です

もし明後日取ったらみんないいねしてね。
それまではしなくていいから。

➀「ノルウェイの森」と「君の名は。」 東浩紀

【雑感】

これ少し漠然としてますけど、社会現象としての「君の名は。」を未だにちゃんと解って読んでるやつ一握りだろうと思いながら新しい小説が出るたびに大ヒットする村上春樹の社会現象の先駆けとなった「ノルウェイの森」を重ねる部分に個人的にピンと来た

② 村上春樹総論 坂上秋成

@ssakagami

【雑感】

春樹論でよく使われる「デタッチメントからコミットメントへ」という説明の中で、彼のコミットメントのスタンスが複雑かつ非現実ゆえに一見上手くいっていないように感じる事実と、それでも彼が向き合ってきた悪の正体の説明が優れている。
それを踏まえての「田崎」評にも納得。

どうして僕が割とすんなり「田崎」を読めたのかもこの構造があったからだろうと気づかされました。

「希望」「革命」としての「オーバーフェンス」と「村上春樹」
このテーマで飲み屋で4~5時間管を巻けるおっさんが近くにいるが割と僕の人生で好位置につける幸せですね。

マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む

マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本を読んでいる。
これは、もっと早く読んでおくべきだった。
できれば社会人になる前に。

近代以降、社会は資本主義のシステムで動いているといって良いと思う。
マルクス的な発想で言えば、資本主義を下部構造として、その上部構造として現代の社会の制度や人々の価値観は存在している。
人間や人生の価値でさえ、どれだけ富を得ることができるかによって、定義される部分がある。

しかし、なぜこういった状況は生まれたのか。
マルクスは唯物史観に基づき、自然科学的に原始共産制 ⇒ 奴隷制 ⇒ 封建制 ⇒ 資本主義 ⇒ 社会主義 ⇒ 共産主義へと歴史は発展すると定義した。
現代は、自然科学的・歴史的な理由から、資本主義社会であるというのだ。
そして、労働者は階級意識を明確に持ち、科学的・歴史的進歩のために、革命闘争をしなければならない。

しかし、マックス・ウェーバーは、まったく別の論理で説明をしている。
資本主義の発展は、労働と敬遠に重きを置くプロテスタントの精神を基礎として、その結果だというのだ。

16世紀にルターやカルヴァンによる宗教改革が起こる。
そこから生まれたのがプロテスタントだ。
彼らは、カトリックのように教会に金を寄付すれば、救済されるとは考えなかった。
むしろ、そのような慣習を、腐敗だと否定したのである。

しかし、その結果、彼らは救済されないのではないかという不安から逃れられなくなる。
そこに、ルターの職業召命観(神が仕事を与えた)とカルヴァンの予定説(寄付などでは救済されない)が結びつき、プロテスタントの人々は労働に専念することになったというのだ。
そして、その結果、富は蓄積され投資資金となり、資本主義は発展したという。

つまり、マックス・ウェーバーによれば、思想が経済活動・社会に影響を与えるというのだ。
上部構造が下部構造に影響を与えるということである。

ダーウィンのいう進化論に適者生存がある。

ガラパゴスのフィンチを例に説明される現象だが、果樹の豊富な島々では果樹の採取に適したクチバシを持ったフィンチが、昆虫を餌とすることのできる島では昆虫の採取に適したクチバシを持ったフィンチがそれぞれ繁栄し生き残るというような理論だ。

自然科学的なダーウィンの理論を社会科学に当てはめるのには、本来無理がある。
ナチスによる、ユダヤ人排斥の動きは、ダーウィンの進化論を曲解した結果、アーリア人による生存競争としてはじまった側面がある。
しかしながら、この資本主義システムという海の中で生き残るには、そこを生存環境として自然淘汰の中で力を得たプロテスタントの思想をインストールすることは、価値のあることだと思う。
仮に、内部よりそのマンダラを裂くことを意図するのであっても。

『愛するということ』 エーリッヒ・フロム

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。

愛は技術だろうか。技術だとしたら、知識と努力が必要だ。それとも、愛は一つの快感であり、それを経験するかどうかは運の問題で、運がよければそこに「落ちる」ようなものだろうか。この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提のうえに立っている。しかし、今日の人びとの大半は、後者のほうを信じているにちがいない。

愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。
たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。

愛は、影響力のひとつだ。

ヒューマニズムによる、影響力の行使を愛と呼ぶ。
影響力は、はじめから存在するものではない。
他者に影響を与えるという行為によって、結果としての状況の変化を、影響力と呼び、その時影響力は発現する。

愛もまた、はじめから存在するものではない。
他者を受け入れ、そして与えるという行為によって、生じる。

影響力を持つためには、影響力を持つ人だと評価される必要はない。
影響力を持ちたいという、欲求さえ不要である。

必要なのは、他者に影響を与えることである。

愛を生み出すためには、愛される人になる必要はない。
愛されたいという、欲求さえ不要だ。

他者を受け入れ、そして与えれば、愛は生じる。

つまり、外部に対しての何らかの行動、何らかの力の行使が、要点となる。
愛とは、きわめて能動的な活動なのだ。

27歳からの読書のすすめ

あるBarでの会話

店主「どこでこの店知ったんだい?」
男 「店のまえを歩いていたら、ブコウスキーのポスターが貼ってあったので。それで、実は前から興味を持ってたんです。」
店主「そうかい。ブコウスキー好きなの?」
男 「好きですねェ。ブコウスキーは、だいたい読んでます。」
店主「ブコウスキーじゃ、何が1番好き?」
男 「1番ですかァ。そうですね。僕はやっぱり『ありきたりの狂気の物語』かな。」
店主「なるほどねェ、俺は『ポスト・オフィス』っだなァ。俺のね、おすすめのブコウスキーの読み方はね、自分の齢の時に書かれた本を読むってことだね。それが1番見るべきものが、はっきり見える頃あいってもんなんだ。若いやつにはね、若い奴の気持ちがわかるし、ジジイにはジジイの気持ちが1番よくわかるもんなんだよ。」

今日、渋谷のBarで耳にした会話です。
ブコウスキー好きが盛り上がる渋谷というのも、なんとも意外なものだなと思います。

店主の見解によれば、小説というものは、例えば 自分が27歳・28歳のなら、作家が27歳・28歳の時に書いた作品を読むと身に染みてよく理解できるということです。

僕も来月28歳になるのですが、
せっかくなので近現代の作家が27歳~31歳の頃に書いた作品をピックアップしてまとめてみました。

普段仕事で忙しいアラサーのみなさんも、これからの長期休暇は、ぜひ小説を読んでみてはいかがでしょうか。

 

日本文学

芥川龍之介(30歳頃)『トロツコ』(1922)
太宰治(30歳頃)『皮膚と心』(1940)
三島由紀夫(29歳頃)『潮騒』(1954)
安部公房(27歳頃)『壁 – S・カルマ氏の犯罪』(1951)
大江健三郎(29歳頃)『個人的な体験』(1964)
村上春樹(30歳頃)『風の歌を聴け』(1979)
村上龍(28歳頃)『コインロッカー・ベイビーズ』(1980)

アメリカ文学

ウィリアム・バロウズ (30歳頃)『そしてカバたちはタンクで茹で死に』 (1945)
ジャック・ケルアック (30歳頃)『地下街の人びと』 (1953)
カート・ヴォネガット (30歳頃)『プレイヤー・ピアノ』(1952)
トマス・ピンチョン  (29歳頃)『競売ナンバー49の叫び』(1966)

フランス文学

マルグリット・デュラス (29歳頃)『あつかましき人々』(1943)
アラン・ロブ=グリエ(27歳頃)『弑逆者』(1949)
ミシェル・ビュトール(30歳頃)『時間割』(1956)
ル・クレジオ (29歳頃)『逃亡の書』 (1971)

ドイツ文学

ハインリヒ・ベル (29歳頃)『汽車は遅れなかった』 (1957)

ラテンアメリカ文学

ガルシア・マルケス(30歳頃)『悪い時』
バルガス・リョサ(27歳頃)『都会と犬ども』 (1963)

『知覚の扉』 オルダス・ハクスリーと認識論

オルダス・ハクスリーについて

つい最近、本当にひさしぶりにオルダス・ハクスリーの本を読み返した。
オルダス・ハクスリーは、『すばらしい新世界』というディストピア小説(ジョージ・オーウェルの『1984』的なもの)や、ジム・モリスン率いるドアーズのバンド名の由来となった『知覚の扉』で有名なイギリスの作家だ。

歴史的に見れば、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』は、60年代の西海岸のヒッピーやハーバード大学教授だったティモシー・リアリーやジョン・C・リリーが行った運動、LSDによって意識の拡張を追求した社会的ムーブメントに、大きな影響を与えている。

『知覚の扉』

『知覚の扉』は、幻覚剤メスカリンをオルダス・ハクスリーが実際に体験した、エッセイであり体験記である。
その中で、幻覚剤メスカリンを使用した意識状態での、芸術の見え方、人との関係のあり方、存在の仕方が描かれている。

オルダス・ハクスリーは、身体に刺激を与えることで人間固有の認識のフィルターや社会的なバイアスのフィルターを除去し、知覚の拡大をできるのではないかと考えていた。

イマニュエル・カントがいうように、人間は外部の物自体の存在を知覚しているのではなく、悟性や理性のフィルターを通して認識を行っているとすれば、人は事象そのものを把握することはできない。
つまり人は客観には到達しえないし、あらゆる人は主観で語るにすぎない。
そうした状況での「常識」・「社会通念」に不信感と欺瞞を感じるのは、どうしても避けられないのではないかと思う。

しかし、もし物理的な刺激により、人間固有の認識のフィルターや社会的なバイアスのフィルターを除去することができるのであれば、本質を体験することができるのではないか。そして、それは理想的な話に思えた。

『知覚の扉』 と認識論

僕が、オルダス・ハクスリーについて知ったのはドアーズ(The Doors)を介してだ。
それは、大学に入学した年だったと思う。だから、18か19の時だ。もう10年以上前の話だ。

『知覚の扉』というのは、もともとは詩人ウイリアム・ブレイクの以下の一説からの引用だ。

知覚の扉澄みたれば、人の眼に ものみなすべて永遠の実相を顕わさん

僕は、10代の頃「存在」や「本質」を見たいと思っていた。
人々のいう「常識」や法律の授業に出てくる「社会通念」に強烈な違和感を感じていたからだ。

オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』はそんな疑問を解くための、方法論として僕にとってヴィヴィッドなものだった。

近代哲学の認識論について

そもそも、オルダス・ハクスリーについて考えるために、近代哲学の中心的なトピックであった認識論について振り返りたい。
なぜかといえば、この認識論を超えた扉が開かれるというのが、僕の考えていたオルダス・ハクスリーの『知覚の扉』の幻想だったからだ。

デカルトの認識論、心身二元論について

近代哲学はデカルトからはじまる。近代哲学のメインストリームである大陸合理論を代表する哲学者、デカルトの世界の認識論はコギト・エルゴ・スム【cogito, ergo sum】である。
社会や倫理の授業で有名な、「我思う、ゆえに我あり」だ。

「我思う、ゆえに我あり」とは、方法的懐疑により、一切のあらゆるものが実は存在しないのではないのかと疑って、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしてみても、そのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの自分だけは確実に存在するということことを基底として哲学を体系づける方法である。

つまるところ、近代はデカルトからはじまるわけであるが、デカルトは認識の根本に「主観・理性・自我」のようなものが存在すると考えていたわけである。
今から振り返れば、まさしく理性的な近代を代表する哲学だ。

デカルト的な認識論は、心身二元論にたどり着く。
それは、「この世界には、肉体や物質といった物理的実体とは別に、魂や霊魂、自我や精神、また時に意識、などと呼ばれる能動性を持った心的実体がある。
そして心的な機能の一部(例えば思考や判断など)は物質とは別のこの心的実体が担っている。」という考え方だ。
つまり、心と体は別々のものであるという言説だ。

とはいえ、この思考法には中世的な思考の残滓も感じられる。
つまりキリスト教的な思想だ。デカルトは、17世紀の近世の人間だ。
ヨーロッパでは、ローマ以来~中世までキリスト教が絶対的な影響力を持っていた。
彼らは肉体と魂を別々のものであると思考する傾向にある。
デカルトの哲学の中に中世的な思考の残滓が内包されているということは、近代が中世のある種延長上にあることを示しているといえるかもしれない。

ところで、これも最近読み返したのだが、昭和15年ころのの石原莞爾の著作を読んでいるとこんな記述がある。

心と物は「人」に於て渾然一体である。
その正しき調和を無視して一方に偏重し、いわゆる唯心とか唯物とかいう事はむずかしい理屈の分からぬ私どもにも一方的理屈である事が明らかである。
しかし心と物は平等の結合ではなく、どこまでも心が主であり物が従である。
思想や信仰の観念的力をもってして人類の戦争を絶滅する事が不可能である事は数千年の歴史の証明するところであるが、
戦争の絶滅に思想信仰の統一が絶対に必要であり、しかもそれが最も根本的の問題である事は疑うべからざるところである。

(心と物は一体としつつも)戦前の日本人も、「心が主であり物が従」という風に捉えていたようである。
これは、結局のところ道徳や理性の要請ではないかと推測しているのだが、どうだろうか。
また、石原莞爾は日蓮宗系の人物なので、そのあたりも関係があるのかもしれない。

あるいは、現代の日本人は、自らを無宗教と信じている人が多いけれども、それでも普通に暮らしている中で「精神」がメインの存在で身体はサブという発想で生きている場面も少なくない気がする。
病気にでもならないと、「精神」がメインで「身体」がサブ的であるという発想から逃れるのは難しいのかもしれない。

ホッブズ、ヒュームらイギリス経験論的な認識論について

上のような心身二元論に、真正面から反対したのが、ホッブズらイギリス経験論の哲学者だ。経験論的には、身体と精神を分けて考えることはしない。
今の用語で考えると、神経生理学的であり唯物論的な発想による哲学であるともいえる。

ホッブズは「すべての認識は、感覚の刺激によるものだ。」と考えていた。
たとえば、今目の前にある机を見るときに、
デカルトなら、コギトとしての絶対普遍な「主観・理性」が机を認識し「机が存在している」と考えるのに対し、ホッブズは机が光を浴びて反射し、その反射した光が網膜に至り刺激を帯びて、その刺激が脳に伝わり「机が存在している」と認識するというふうに考えたのだ。

さらに、ヒュームはその理論を進め、「自我は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などの諸々の知覚の束に過ぎない」と論じる。
ここに至ると、デカルトのいう「主観・理性・自我」すらそもそも存在しないのだということになる。

私の場合には,自分の自我と呼ぶものを最も丹念に観察するとき,常に何らかの具体的な知覚(熱さや冷たさ,明るさや暗さ,愛や憎しみ,苦痛や快楽)を見出す.私はどんな時も,知覚なしに私の自我を捉えることは決してできず,知覚以外の何物をも観察することは決してできない

このように「コギト」(理性的認識)の存在の有無を提起したのが近代哲学の源流であった。

カントの認識論について

さて、上の2つの認識論。デカルトら、大陸論的な心身二元論的な認識論と、ホッブズ、ヒュームらイギリス経験論的の認識論を総合したのがカントであった。

カントも、すべての認識のはじまりは感覚の刺激だとした。ここは、経験論と同じくするところである。
一方で、カントは経験論の「感覚を受け、それをすなわちあるがまま認識する」ということに対して、異議を唱えた。

つまり、外部の刺激は同じでも、認識にはフィルターがある。
人間固有の、言語や知性や経験により、感覚は加工されている。
そして、そのフィルターの役割をするのが理性であるという方法で、カントは認識論を論じたのだった。

認識の限界から『知覚の扉』へ

カントがいうように、人間には理性というアプリオリなフィルターがあるとすれば、人間には認識のフィルターを外すことはできない。
特に、時間・空間の概念。これを想定せずに表象を描くことは困難がある。

それに加えて、僕らは社会的生活・教育などいろいろな習慣に引きづられて生きている。
その中で、様々な偏見が生まれたり、視野が狭まったり、特定のイデオロギーやエピステーメーやパラダイムの範囲内に認識は制限される。
つまり、僕らの外部に超越的な真実の世界があるとしても、その真実の姿は僕らには見えないというのが、カントの認識論の限界であった。

カントは、物自体を認識することはできないとしていたからだ。

では、形而上学的な真実がもしあるとして、目にするには、どうしたら良いのだろうか?
僕にとっては、そんな疑問を持っている時に出会ったのが、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』だった。

オルダス・ハクスリーは、身体に刺激を与えることで人間固有の認識のフィルターや社会的なバイアスのフィルターを除去し、知覚の拡大をできるのではないかと考えた。
当時はLSDが開発され、多くの科学者や哲学者に驚きを与えていた時代であった。
オルダス・ハクスリーやティモシー・リアリー、ジョン・C・リリーに加え、20世紀を代表するフランスの哲学者サルトルもLSDを経験している。
『知覚の扉』には、幻覚剤メスカリンを使用した意識状態での、芸術の見え方、人との関係のあり方、存在の仕方が描かれている。

知覚の扉澄みたれば、人の眼に
ものみなすべて永遠の実相を顕わさん

オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』や西海岸のヒッピーのムーブメントは、その後もニュー・エイジなど様々な運動の起点となっている。

1970年代、それまで社会に影響力を持っていた思想であったマルクス主義の物語が急速に力を失う。リオタールの大きな物語の終焉。
そこから人々の意識が流れた先が、ニュー・エイジ的なもの、アメリカ西海岸のヒッピー文化、ロック、LSD、東洋のヨーガだった。

ロック、ヨーガ、LSD。その共通的な本質は、フィジカルな超越的真実との遭遇だ。 現実的・社会的な日常の外部に真実が存在する。そしてフィジカルを通して、その真実と遭遇する。
日本においてはその影響が、東洋思想と反資本主義の感情に結びつき、80年代~90年代前半に強烈な負の側面を露呈してしまったが。

しかし、世界のシステムはいま完全にバーチャル化した。
このバーチャルな世界のマンダラを引き裂く認識論はどこにあるのだろうか。
フィジカルな認識論の書、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』の中になんらかの扉はあるだろうか。

小阪修平の哲学 – 全共闘、三島由紀夫、吉本隆明、村上春樹 –

かつて、いわゆる「オルガン派」「マルクス葬送派」という思想家の中心的人物として、小阪修平がいた。
僕は、現代思想の入門書を小阪修平の著作を通してはじめて読んだ。

小坂修平は、東大全共闘を経験した世代で、三島由紀夫と討論を行った人物の一人であった。
そして、世代の責任として「連合赤軍」の問題を総括し続けた稀有な人であった。
彼らの世代で、「連合赤軍」の問題をきちんと総括し続けたのは、村上春樹と小坂修平くらいだろうと思う。

一般に、全共闘世代や団塊の世代は敬遠されがちである。
しかし、僕は全共闘世代が自己否定と解放区の中で辿り着いた地平というのは、むしろ思想的に重要なところまで到達していたのではと思っていて、けれども、結局それを総括して語ることができず次の世代に引き継げなかったのは残念ではあった。

三島由紀夫vs東大全共闘

言葉をめぐる冒険

村上春樹の『羊をめぐる冒険』の羊は、西洋哲学・現代思想の言葉でいえば「形而上学」そのものなのだろうと感じている。
人に幻想を抱かせ操るもの。

だからあの物語は『言葉をめぐる冒険』と名付けることもできる。

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね

形而上学の果てともいえる「1960年代」近代の終焉に起こったのが若者たちの”知性の叛乱”だった。
それは形而上学=哲学=理性を、=現実たらしめるための進歩主義的革命だった。
しかし、「僕」はその中で彼らイデオローグたちの「言葉」の欺瞞に気づき、それとの闘争/逃走を開始する。

村上春樹と同世代、全共闘世代の小阪修平は言っている。

同世代の一番優秀な奴は滅んだか、半ば廃人になった

「羊抜け」だ。

小阪修平もなかば離人症のようになったという。
誰もが、語る言葉を失った。

歴史の終焉、革命の終わり、宴の後。
1970年代はさめざめとした殺伐とした風景を思わせる。

1970年「よど号ハイジャック事件」、1971-1972年「連合赤軍事件」。
文化面では、1972年『木枯らし紋次郎』、1973年『氷の世界』、1974年『傷だらけの天使』、1975年『僕たちの失敗』、1976年『いちご白書をもう一度』。

イーグルスによる『ホテル・カルフォルニア』が歌われた次の年、「ダッカ日航機ハイジャック事件」の翌年、1978年に村上春樹は処女作『風の歌を聴け』の執筆を開始する。

その小説は、歴史の終わり=観念の王国の崩壊=羊が離れた年、1970年の8月8日からはじまる18日間の物語だった。

村上春樹と三島由紀夫

三島由紀夫から村上春樹へ

『羊をめぐる冒険』の羊は、西洋哲学・現代思想の言葉でいえば「形而上学」そのものなのだろうという思いが、ふと湧いてきた。人に幻想を抱かせ操るもの。
だからあれは『言葉をめぐる旅』と名付けることもできる。

“完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね”

形而上学の果てともいえる「1960年代」近代の終焉に起こったのが若者たちの”知性の叛乱”だった。
それは形而上学=哲学=理性を、=現実たらしめるための進歩主義的革命だった。
しかし、「僕」はその中で彼らイデオローグたちの「言葉」の欺瞞に気づき、それとの闘争/闘争を開始する。

村上春樹と同世代、全共闘世代の小阪修平は言っている。
“同世代の一番優秀な奴は滅んだか、半ば廃人になった”
「羊抜け」だ。小阪修平もなかば離人症のようになったと言っている。

革命の終わりの時代、1970年代の雰囲気は想像がつく。
1970によど号ハイジャック事件、1971-1972には連合赤軍事件。
文化面では、1972『木枯らし紋次郎』、1973『氷の世界』、1974『傷だらけの天使』、1975『僕たちの失敗』、1976『いちご白書をもう一度』。

イーグルスによる『ホテル・カルフォルニア』が歌われた次の年、「ダッカ日航機ハイジャック事件」の翌年、1978年に村上春樹は処女作『風の歌を聴け』の執筆を開始する。

その小説は、歴史の終わり=観念の王国の崩壊=羊が離れた年、1970年の8月8日からはじまる18日間の物語だった。


1960年代~1970年代、時代は大きな変化を見せた。
「意味」に大きな転換がおこり、あらゆる価値や世界観を書き換えたのだ。
人間の理性を信頼してきた近代が終わり、ポストモダンに時代は転換した。

ベトナム戦争を横目にニクソンは周恩来と握手を交わし、学生集会に集まった学生たちは就職が決まって髪を切った。
もう若くはないさと言い訳をしながら。

モダンは自ら滅んでいった。
三島由紀夫は天皇万歳を叫んで自決し、学生たちは山岳ベースの内ゲバを通して自滅した。

社会主義の神話は崩壊し、マルクスの権威は失墜した。
「革命」は希望から虚構になった。神は二度死んだ。

世界はコード(意味)を書き換えていた。
そして1980年代に、新たな価値体系である高度資本主義というシステムは完成する。

そのあいだ、村上春樹は、ただシステムを拒否し続けた。
変化する社会とのデタッチメントが村上春樹のノンだった。

そして、作り出された「価値」から形成される社会に「言葉」と「物語」を武器に一人で闘争/逃走を開始したのだ。

『ノルウェイの森』にはこんなエピソードでソサエティへの不信感があきらかにされている。

夏休みの間に大学が機動隊の出動を要請し、機動隊はバリケードを叩きつぶし、中に籠っていた学生を全員逮捕した。(‥‥中略‥‥)大学は解体なんてしなかった。大学には大量の資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくらいで「はい、そうですか」とおとなしく解体されるわけがないのだ。そして大学をバリケード封鎖した連中も本当に大学を解体したいなんて思っていたわけではなかった。(‥‥中略‥‥)
ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように教室に出てきてノートをとり、名前を呼ばれると返事をした。これはどうも変な話だった。なぜならスト決議はまだ有効だったし、誰もスト終結を宣言していなかったからだ。大学が機動隊を導入してバリケードを破壊しただけのことで、原理的にはストはまだ継続しているのだ。そして彼らはスト決議のときには言いたいだけ元気なことを言って、ストに反対する(あるいは疑念を表明する)学生を罵倒し、あるいは吊るしあげたのだ。(‥‥中略‥‥)彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。そんな連中が大学解体を叫んでいたのかと思うとおかしくて仕方なかった。そんな下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ。
おいキズキ、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ。

この後、村上春樹はセカイ系に影響を与えたという『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『ねじまき鳥のクロニクル』まで、社会とデタッチメントの関係を保ちながら、無意識/意識と自己/世界との境界線の物語を描いてくことになる。

そして、ある時、革命闘争・学生運動の反転したラジカル、超越と聖を求める倒錯した狂気の集団と交差するのだ。
そして1995年の事件以降、村上春樹はコミットメント(アンガージュマン)に向かっていくことになる。

重要なことは、二つある。

ひとつは、ずっと村上春樹がシステムへの拒否の姿勢を示し続けているということだ。
村上春樹はひとりで闘争/逃走を続けていた。
それが、沈黙という暗示であるか、明らかなかたちであるかを問わず、システムへの抵抗を続けていた。

そして、もうひとつ。
いずれコミットすべき時は来るということだ。

滝口悠生『愛と人生』を読んで考えること

3月11日ですね。
あれから4年、早いのか遅いのかその判断が遠のく辺りに震災の風化を現実のものとして感じてしまいます。(個人の意見です)

今日ある小説を読み終えました。
とても偶然にその本の最後には、それまでとは何の脈絡もない形で震災を思わせる記述がありそれによって今僕はこれを書いています。
だから、今日僕がその本を読み終わらなかったらここにこれを書くことはなかったでしょう。

今日、地震が起こった14時46分に黙祷を捧げたり自身のSNSに書き込みをした人が多くいたと思います。
その中に一つ興味深いツイートを見つけました。
呟いた人(ある文芸批評家の方です)の名は伏せて転載させて頂きます。

「2万人近くの死、というのも、よくわからない。交通事故であれなんであれ、人が死ぬのは哀しいだろう。しかし、知らない二万人よりも、家族とか親しい一人の死の方がつらくないかね。(中略)
集団の死を、集団で慰霊するということの意義が、リアリティを持った形で想像できないというか、それは一体どういうことなのか? っていう本質が未だにわからない。親しい人を喪った人の気持ちを想像する。これはわかる。それが数万人分。これ、脳の容量超える。そして、普段、その辺でやっている知らん人の葬式にもそう感じなきゃならんのか、でも現にそう生きていない。では、日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞやってのが、わからなくなる。

死んだ人間に黙祷を捧げるのに、何故、加害者である地震の側のタイミングに皆が合わせなければならないのか。納得ならん。」

ここまでです。
僕も純粋にそうだなーと納得してしまう部分もありました。
テレビではテレ東を除きキー局は半ば義務的にワイドショーの枠を拡大し震災4年に合わせた報道番組をやっていました。
ただ僕はこのツイートへの答えってこういう事じゃないかなと思ったのです。

滝口悠生『愛と人生』(講談社)
中編が3つ載った作品集です。
その中の3つ目『泥棒』という作品の最後で、今までご近所だった伊澤さんという人物がなんの前触れもなく引っ越しをし、元あった家や庭が業者によってまたたく間に更地にされてしまうという部分があります。
突然お隣さんがいなくなったり、解体までの描写には「水」や「川」「流れ」といったワードが吹き出すように現れ、これはまず間違いなく震災での被害を表していると言えます。
話はさらに少しだけ続き、そして最後にこんな文章で締められています。
(途中出てくる“熊”というのは登場人物のあだ名であり人の事です)

「私も驚きがおさまらぬまま、慌てて、ありがとう、と早口で言った。自分も何かを取り繕っているみたいな気持ちになって、振り返ると、熊を見る時にはたいてい冷たく醒めた顔つきの妻が、珍しく私と一緒に熊に礼を言いそうな柔らかな笑顔をしていた。これまでにほんの何度かだけ見たことのある、私の好きな、忘れられない表情だった。妻もびっくりしてつくる表情を間違えたのかもしれなかった。私はこれからもこの瞬間のことと、その妻の表情を忘れないが、妻の表情を覚えることはできなくて、だから自由に思い出すこともできない。」(滝口悠生『泥棒』)

なぜ、誰しもが誰しもに倣ったかのように同じ時間に黙祷を捧げる(意地悪な言い方をすれば自己顕示的)のか。
それは4年前の東日本大震災の被災者やその関係者でない人間の方が日本には圧倒的に多いからです。その人たちは、どうなるか。
“震災”のことを忘れまいと誓うが、次第に
「覚えることはできなくて、だから自由に思い出すこともできない。」
ようになってしまうのです。

なので半ば機械的なタイミングを利用せざるをえなくて、こうやって祈ったり思い出したりするのです。
人間は弱く不自由で特に自然になんて勝てっこなく、圧倒的に無力です。
しかし、一人ではなく多くの人が集まって一緒になることで生まれる力もあるのかもしせません。いや、実際はそんなシーンばかりでしょう。
震災の被災者の方、今も苦しみながら毎日生活されている方にとって少しでも良い未来が訪れればと思います。

感銘を受けた本ベスト10

ようやく書き終わりました。
去年発売された中で個人的に感銘を受けた本のベスト10です。
今回は小説にしぼってます。

10位 キャプテンサンダーボルト 伊坂幸太郎/阿部和重 著

図書館では借りれそうになかったので、去年唯一購入した単行本小説。
人気作家2人が4年かけて900枚も書いたと発売前には特設ページなんかも作られ、書き下ろしの本に読む前からこんなにも興奮したのは久しぶりでした。
一番の特徴は、なんといっても共著であること。
これまでも話題になった共著というのは幾つかありました。
今ぱっと思い浮かぶのは、江國香織と辻仁成の『冷静と情熱のあいだ』ですかね。同じく14年に出版された中田永一(乙一)と中村航の共著『僕は小説が書けない』は、芝浦工大が開発した「物語生成支援ソフト」というものを使って書かれた本筋とは若干違う話がしたくなる書き手の存在の問題に切り込んだ作品でした。タイプは異なれど本作同様話題になった共著と言えるでしょう。
ただこの作品は、共著という形を取りながらも従来の章ごとに作家が交互に書いていくというようなスタイルを採用しません。
ゆえに読んでいても一見何処をどちらが書いているかということは分からず、それを推測しながら読むというのが個人的には面白かったです。
映像を見せられているかのような描写のスピード感(映画の下敷きとして作られたとしか思えない)は伊坂氏の手腕でしょうし、9.11や3.11への言及、テロやロシア人の殺し屋とSiriを使って会話をする場面、村上病という多重性を持つオチ(春樹の方を意識したとインタビューにあった)の部分は阿部氏の着想でしょう。
それらを物語として束ねる一文一文の起りは果たしてどちらからのものなのか、判断をしかねぬ程二人の息はぴったりと合っていて、新しい作家誕生の萌芽すら感じました。
この本が売れないとエンタメも純文学も死ぬから、話題性や多くの人に読んで欲しいという意味を込めて10位です。

 

9位 献灯使 多和田葉子 著

ここ数年女性作家の活躍が目覚ましく、去年も芥川賞をはじめ多くの文学賞を女性作家が総なめにしましたが、個人的に14年で心に残っている女性作家による小説というのは本作ぐらいでしょうか。
女性作家を推したいという意味でのランクインという要素も若干あります。
ただこの作品、世間的な評判が凄く良かったです。
特に日常的に本を読まれる方がこぞってベスト級の評価をしており、去年の純文学における代表作のような扱われ方をしていたと言っても過言ではないです。
帯にも書かれていますが、いわゆる震災をモチーフにしたディストピア小説です。去年も文学界では「震災」というワードが継続して語られました。
本作の特徴でもある、震災以後の曖昧且つ不気味な世界の描写から最後唐突に距離を迫り宣告される“恐怖”という構図には、震災を扱ったのディストピア小説の完成を思わせるもはや普遍的な佇まいを感じました。
前半部分に、ディストピア的な描写として外来語禁止による当て字(タイトル含め誤変換的な表現が多様される)や鎖国の実態を示し、伸びきってしまったこの世界で生きる4世代にわたる家族の物語として後半へと繋がっていきます。
物語は義郎という100歳を超える人物の三人称一元視点で始まりますが、後半へと進むにつれその視点が妻や曾孫である無名(もう一人の主人公)へと頻繁にズレていき、描かれている世界の歪さや不気味さが漂い続けます。
ラスト付近で変わり果てた現状の理由として震災が挙げられますが、この世界がおかしくなったのは単にそれだけのせいではないという強い含みを持たせた表現が印象的でした。
また、他の生物亡き後の「人」という生き物を比較するというテーマにおいて、震災を基準に生まれた世代的断絶(ビフォア/アフター)を「人間的な価値観」というありふれたもので測るのではなく、あくまで「生物的な観点」(身体構造などのフィジカル)から並列させているという部分もとても興味深かったです。
無名が“献灯使”に選ばばれ海外へ派遣されようとするラストは、(歴史的な)犠牲と(身体的な)希望をミックスさせた畏怖のようなものを備えていました。

 

8位 9年前の祈り 小野正嗣 著

14年の下半期の芥川賞候補になるだろうと思って読んだら、なりました。
個人的には受賞してもおかしくないと思います。いや、取って欲しい。
小野さんの文章を特に好んで読む訳ではないのですが、読むといつも良かったなと思います。フランスやフランス語文化圏の研究者を潜在的に好む傾向が年々強まっているように思います。
主人公である安藤さなえの現実をベースに、その世界が自在に形を変えるかのように回想が都度都度挟み込まれ物語は拡がりをみせます。
その回想と現実とを行き来させる滑らかな筆致に心地よさを感じました。
また、安藤さなえの恐らく障害を抱えた息子との日々の触れ合いから生まれる“現実的”な祈りと、9年前カナダ旅行での同行者であるみっちゃん姉の救済を求める“神話的”な祈りが重ね合わせられる必然性・必要性という宗教画のような綿密に計算された構図も見事でした。
加えて、重なった祈りから改めて気づかされる「きょう」という日の重みを自身の日記を用いて表現したり、旅行先ではぐれぬ様にとみんなでしっかり手をつなぐことで示される「物理的なつながり」などが、最後にさなえと息子の手が重なり、恐れることなく悲しみを振りほどくさなえの機微として回収されるラストも素晴らしかったです。蓮實重彦が帯で同じようなこと書いてて優越感に浸りました。

 

7位 朝露通信 保坂和志 著

一昨年くらいからまた旺盛に作品を発表するようになり、今でも日本に文壇が存在するのであれば今やその最重要人物と言ってもよい・・・保坂大先生。
去年も冒頭が、
「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」
で始まる定型的思考を悉く排除する文章の怪列による小説『未明の闘争』を頭を抱えながら読んで年間1位にしましたが、もはや大先生の新刊が出てしまえば読まないという選択肢はないのです。
注目すべき本作の冒頭は
「たびたびあなたに話してきたことだが、僕は鎌倉が好きだ。」
というもので、読売新聞に連載されていたということもあり“一見”すんなりと読めるのではないかと安堵感を得た記憶があります。
ただそこは大先生、そんなに簡単に読ませてくれる訳がないのです。
連載の1日分が見開き1ページに収められていて、それが連載分(180回程)重なって一つの小説として体を成していますが、冒頭の易しい一文とは変わり読み進めていくと次第に感じる違和感やおもむろで散文的な表情に、読者は「一体いつの何の話をしているのだろうか」と大いに惑わされ深い穴へと吸い込まれていくような感覚に陥ります。
冒頭にもある本作の主人公“僕”というのは紛れもなく保坂氏自身であるのですが、巻末のことわりみたいなところで、
「この小説の主役は語り手の“僕”でなく、僕が経てきた時間と光景だ、それ以上に、読みながら読者の心に去来するその人その人の時間と光景だ。」
と書かれていて、読み手はその掴めそうで掴めない手触りに終始対峙せざるを得ません。
しかし、氏はどこかのインタビューに対し、
「これは読者が読み始めたところから始まる物語で、読み終わったと思うところが結末になる物語。物語内を自由に動きまわり、好きなところを自由に摘み取りながら味わって下さい。」
みたいな事を言っていたような気がします。
そういった解釈が赦されるのであれば、朝の光をいっぱいに含んだ鎌倉の瑞々しい情景やそこに根づいてきた穏やかで日常的な描写、時間軸を丁寧にほぐし夢の中へ誘うかのような多幸的な瞬間の連続を、本作は経験をさせてくれるはずです。
また保坂氏の個人史を遡っていくうちに、今まで頭のどこかに丁寧にしまわれていた自分の生い立ちやその時の景色や音、ぼんやりと考えていたことなどなんかがふっと蘇ってきて懐かしみを覚えることができるはずです。
今年も保坂スクールの面々の活躍に期待です。

 

6位 夜は終わらない 星野智幸 著

今年も著名な作家による「メガノベル」と呼ばれる類の小説がちらほらと上梓されましたが、本作もその一つでしょう。重たかった。
調べてみると震災以前から連載が始まっていて、震災を経て去年に至るまで書き続けらていた作品になります。
この本が出た際、比較として頻繁に持ち出されたのが「千夜一夜物語」でした。
これは、つまらないと人々を殺すことを繰り返した国王が、話の先が気になるため殺す事をせず毎晩ある話し手に話をさせたというという「千夜一夜物語」との構造的な類似であって、作中で展開される話はもちろんオリジナルです。
この書き方近年でも古川日出男の『アラビアの夜の種族』などで採用されており挙げればきりがないのですが、共通する特徴としてストーリーの総量が膨大になりがちです。冒頭にもちらっと書きましたが本作も900枚を超える超大作です。
構造としては、一晩に一つのストーリーを語りながらそれを上手にストックし、メタ的な入れ子をもって各ストーリーごとの隙間を埋めながら膨らませ、やがて一つの壮大な物語へと集約させていくといったところでしょう。
性的な違和感が語られる「日常活劇」、原発について書かれた「フュージョン」など、その内容は多岐にわたるのですが、全ての章において読み手の側の想像力を掻き立てるような物語になっています。
同じく去年出版された佐々木敦の新刊『あなたは今、この文章を読んでいる』には、
「これまでのメタフィクション的な作者の一義性を強化していく物語から、読者の存在が予め想定された新しいフィクションの形態(パラフィクション)が生まれ始めている」
といった事が書かれていましたが、この本はまさに読者に解釈を委ねその想像力を信じる形で成立している物語だった気がします。
ファンタジーの顔をした星野智幸の小説です。

 

5位 東京自叙伝 奥泉光 著

本作はこれまでに紹介した作品の特筆すべきポイントと重なる部分を幾つか持った小説でした。
まずはその総量。本作も俗に言うメガノベルの部類に入ると思います。
また、一人称である語り手に物語として必要なもの以上を背負わせるといった特徴は保坂和志の『朝露通信』に通ずるところがありました。
6人の登場人物の一人称で江戸末期から現代までの東京を舞台に物語は進行していきますが、最後まで読み終えた時にふと気づくことがありました。
それは、タイトル宜しくこの小説はその時代その時代の「東京という街」自体を主人公に据えた物語になっているということです。
街というものは、その内に人やその他多くの生物・建物や時代の空気などを抱きかかえながら歴史を紡いでいきます。その積み重なりが可視化された時、最もグロテスク且つ複数の意味を孕みながら魅力的に映るのが本作の主人公でもある「東京」という街なのではないでしょうか。
街の盛衰、表と裏や、過ちと反省(しなかったり)といった東京という魅惑のキャラクターが出来上がるまでの長い長い物語であり、また未来永劫続いていくような可能性の物語です。それは、東京の魅力に直結します。
東京は、鼠かもしれないですね。

 

4位 どろにやいと 戌井昭人 著

これは去年の前半の芥川賞評のところで書いたので割愛します。
芥川賞取って欲しかったな。


 

3位 ボラード病 吉村萬壱 著

9位に入れされて頂いた『献灯使』と同じく震災関連のディストピア小説です。新聞や文芸誌の書評においても軒並み高評価で、最初読んだ時には年間ベストだなと思ったぐらいのクオリティでした。
予め断っておくと、これから紹介する2位と1位の作品は個人的な思いが強すぎて普通の人が読んだときに複雑な心境になりかねないので、何か1つ読んで下さいと勧めるならば本作となる気がします。広く読まれるべき本だと思います。
強く勧めた以上ポイントなどを饒舌に語っていきたのですが、本作は最後に壮大なオチがありそれを言ってしまうと小説自体が死んでしまうので、今回はなるべくネタバレを避ける形で解説していきます。
3.11の震災以降、身体を動かしたりお金を寄付したりと様々な支援のカタチが生まれてきた中で、作家たちは挙って「小説に何ができるか」という事を考えてきていたなと思います。この震災と向き合った上で生まれた「小説として伝える」というアプローチこそがこの本における最大の魅力だったと思います。
小説ならではの「想像力」を以ってして3.11の記憶を留める事を可能とした光景をこの本の読者全員は体験できるはずです。
物語は絶えず不気味な感じを齎しています。そのディストピアな世界を善しとするために押し込められ左右に倣い見て見ぬふりをされた“異常さ”を生々しく抉るための一手が、震災を受けての作者の創作の原動力と見事に重なります。
特に後半、タイトルである「ボラード病」という言葉の真意が読者に投げ込まれる辺りや主人公の滲むような怒りが伴った手記の部分には、恐ろしさを軽々と超越した孤高の美しさすら漂っていました。(これは作品のイメージをぶち壊しにしかねない表現だけど)。やはり最後が肝腎ですね。
全然何言ってるか分からないと思いますが、読めばちゃんと分かります。
想像力を持って現実に立ち向かうためにはぴったりの小説だと思います。
読んだ瞬間から責任は伴いますが。

 

2位 ルンタ 山下澄人

なんで2位なのか自分でも明確な意思を持って主張出来ないのですが、なんかよかったのでしょうね。
特に好きな作家ではないのですが(寧ろ嫌いだった)、書けば必ずといって良いくらい文学賞の候補にあがり、候補にあがれば読まざるを得ずを繰り返していくうちに遅ればせながら好きになってしまったようです。
それで好きになって読んで、今回こそはと思って応援しようとしたらまさかの芥川賞の下半期の候補から漏れているという、とても不思議な作家の小説です。
その不思議な小説家、作家性が非常に強いです。
同じく去年新潮に掲載された渡部直己『今日の「純粋小説」』という長めの刺戟的な論考で、昨今の純文学小説に頻繁にみられる傾向に「移人称」という言葉を充てた説明がなされていました。人称を弄ったという意味です。
ここから少し複雑な話になりますが、確かに最近の文学小説には意図的に人称が操作された作品が多く且つそれが軒並み高い評価を得ています。今や最近の純文学のトレンドと言ってしまってもいいと思います。
上半期で芥川賞を受賞した柴崎友香の『春の庭』をここに含むのは若干酷なんですが、あの作品も三人称で書かれた小説が最後驚くほど唐突にそれまで殆ど登場しなかった視点人物の姉の一人称が急に入ってきたり、一昨年芥川賞を受賞した藤野可織『爪と目』も最初は一人称か三人称で書いていたもの二人称に直したところ評価を得たと作者本人が語っていました。
渡部氏はこの論考の中で「テクストにおける話者性と描写性の関係」について言及しており、そこから「描写の見事さにかける場にこそ、異数な“話者”が根づくのではないか」というような仮説を導いていました。
山下澄人ってまさにそのような現象を体現した作家なんですね。(は?という感じでしょうが。)
作品に話を戻します。
全体の印象としては前作『コルバトントリ』より頻繁につまり短いスパンで人称だったり視点・舞台が変化し続けていきます。ただ、大枠としては捉えられる形が遺っていて慣れれば読んでいて混乱することもそれほどもなく、もちろん人称や時代の切り替わりの扱いには慎重さを要するのですが、最後まで読めばなんとか一回でも分かった気になりました。
山下作品の特徴である動物の描写や視点が頻繁に顕れ、タイトルである“ルンタ”というのは風の馬つまり馬のことであり、この大きな馬とそれを囲む人と山と海が見事に折り合って、全方向的な温かみを感じることができます。
同じく山下作品に馴染みの深い、視点の混濁から導かれる“生と死を超越すること”というテーマもこの温かさに寄与していたと思います。
雪山も出てくるような一見寒々しい小説なんですが、確かに感じる温かさがあり、その温かさには希望が宿っている気がしました。

 

1位 淵の王 舞城王太郎 著

結論からいうと大傑作です。
一度読み終わった後に、この読後の多幸感は小説を読んだ時にしか味わえないものだと確信しました。しかも限りある素晴らしい小説を読んだ時に限っての。上手く説明できませんが、映画とか音楽とかドラマやアニメ色々あると思うんですが、それのとは圧倒的に違う気がしています。
ただ、この小説の真価というのは舞城王太郎という作家の個人史とセットで語る事でのみ明かされるもので、そうなるとこれから延々と舞城の作家性云々なんて話になるのが必然で、そんなの聞かされたらたまったもんじゃないと思う人の方が多いでしょう。なのでここでは少しだけ話させてもらいます。
ここからは舞城に対する完全な私見です。
舞城王太郎という作家には前期と後期があり、前半は主にメタフィクション的な階層をいじり世界をハッキングするみたいな事をずっとやっていて、その極点が08年に出版された『ディスコ探偵水曜日』という作品で示されます。
この作品は舞城の最高傑作という枠に留まらず、日本でいうところの80年代以降筒井康隆などによって書かれ始めたいわば「メタフィクション小説」の一つの完成形だったと言われています。
そして後半にあたる『ディスコ…』後の第一作として発表された『ビッチマグネット』では、今までのメタ構造というのは一気に抑えられ、日常にありふれた家族の物語をこれも舞城を語る上で極めて重要な特徴である、人間の脳みそをハッキングしてそこに日常的に存在している言語をそのまま(口語的)に紙の上に載せるという事に焦点が当てられます。
つまり、前期では世界を、後期では脳みそをハッキングすることで物語が生成されてるというのが、舞城作品の大まかな変遷ではないかと思います。
そして今作ですが、これは間違いなく後期舞城の代表作です。
脳みそを掬い取ったように言語化していく後期の作品では、一人称で書く以外は不可能と思われたところを(「私」の脳内の言語をそのまま垂れ流すことでしか成立しないので)今作が一人称以外の方法で書かれた事によって、「私」以外の言葉たちで溢れかえった世界で、読者=作者(舞城本人)=「私」は初めてそれをメタ的に受け取れるという前期舞城の作品の特徴をも包括したような極めて完成度の高い構造を持っています。
今書きましたが、それを可能にしたのが今回の作品で用いられた二人称です。
今作は「中島さおり」「堀江果歩」「中村悟堂」という三人の主人公が登場する3章の物語から成立しています。
その各人を「あなた」「君」「あんた」と呼び、寄り添う形で存在する観察者(身体はないカメラのようなもの、ただ強い人間の心は持っているから物ではなく人として存在する)「私」「俺」「私」によって物語が明らかになっていきます。
ここで一つ断っておきたいのが、これまでで今年は「移人称」が極まった年だったという事を書いてきましたが、本作における二人称だけは唯一の例外です。
流行りの人称を弄って遊ぶという流行の形式としてではなく、本作が採った二人称は、極めてドメスティックな理由(舞城が自身の作品を越えるための挑戦)からのみ生まれたものだったということを強く主張しておきたいです。

3章には共通する事象も多く、例えば物語で描かれているのはあくまで「私」の推測であり、「あなた(主人公)」の本当の心は誰も知り得ません。
そして、その主人公たち「中島さおり」は「責任感」、「堀江果歩」は「正義感」、「中村悟堂」は「愛」というそれぞれの感情を携え、過剰なまでに他者や社会にコミットしていきます。
それをひやひやしながら観察する「私」はまた「あなた」の近くを付き纏う「闇」や「影」「暗い穴」といった陰鬱の対象としての存在にも気づいてしまいます。
その陰鬱のメタファーは暴力や恐怖、怪談などとして顕在化しつつ、各章の最後で「私」ないしは「あなた」はその陰鬱とした何かにに飲み込まれてしまいます。
勿論それは死(終わり)を意味するのですが、実はその時の「私」の感情こそが今作のテーマなのだと思います。
最後の描写で、中島さおりを見つめる「私」は「悔しい」、堀江香歩を見つめる「俺」は「怒り」、中村悟堂を見つめる「私」は「幸せ」、だけの存在となります。
その動機も合わせて書くと、「悔しい」は「あなた(=中島さおり)」に愛情を伝えられなかった事に対してで、「怒り」は「君(=堀江果歩)」が憑り付かれた恐怖の展開から守れなかった事に対してで、「幸せ」は「あんた(=中村悟堂)」が責任感や正義感だけでないという前者二人を踏襲する形で生まれた究極の感情である「愛」と「私」が「あんた」に抱いていた感情としての「愛」がついにシンクロしたということについてです。
つまりこれは最終章で漸く結実する「あなた」と「私」の愛の物語なのです。
そしてそこには究極に純粋な「言葉」=「心」があるのです。
これを読めば時空とか含め割と愛という概念で超越できるなと思えました。
ただ、これはあくまで「私」とある程度切り離された「読者」=「自分」の主観であるので、読んでクソつまらん小説だわという反論は受け付けませんので悪しからず。

 

【まとめと15年の展望】

14年はここ数年ずっと見られ特に去年「移人称」というワードとして取り上げられたことで注目された小説たちが、実は成熟に達したというか緩やかに減退し始めた年だったのではないかと思います。
その理由として、代表的作家である保坂さんが『朝露通信』で新たな創作の形を模索し始めたことや、山下澄人の『ルンタ』が芥川候補から落ちたことなどが挙げられます。
そして15年、テン年代の純文学は既に新たな方向へと向き始めていて、そこで注目されるのは今回も芥川賞候補の3作にノミネートされた「新潮新人賞」受賞作家たちの活躍です。
まず今回の芥川候補が、毎年一人しか出ない新潮新人賞受賞作家から3人も出ているというのは極めて異例の事態です。丁度一年前に芥川賞を受賞した小山田浩子も新潮新人賞を取っているのを考えるともはやこれは偶然としては片付けられないと思います。
では、新潮新人賞の何が凄いのか。
考えられる最大の要因としては、やはり選考委員の顔ぶれになるのでしょう。
川上未映子・桐野夏生・中村文則・福田和也・星野智幸
の5氏、こんなこと言ったら失礼なんですが正直微妙な感じもします。
ただ、桐野夏生は直木賞作家ですし、中村文則や星野智幸も非常にストーリー性の高い作家です。
この作家たちによって選び上げられる最近の新潮新人賞受賞作には、ストーリーの明確な面白いものを丁寧な描写と強靭な文章力によって形にしていくみたいな傾向が指摘できると思います。人称から描写の回帰ということですかね。
これによって、読者が世界に入り込む事を移人称という形で頑なに拒んできた小説から、割と読者を肯定的に捉えて出来るだけ広い範囲へと届くような小説へというシフトチェンジが起こっているのではないかと思います。
今月の『ダ・ヴィンチ』では中村文則が綾野剛とかと対談してる訳です。
綾野剛超かっこいいし、それをスマートに立てる中村文則って今まで純文学の固定観念捨てて取り敢えず全肯定宣言に成功したんですねあれは。
話を少し戻すと、これがまさに渡辺直己が『今日の“純粋小説”』で「人称」と比較していた「描写」へと繋がってきます。
描写の覚束なさにこそ宿っていた異数の話者が、また強固な語感を携えた一人の話者として戻ってきつつあるというその萌芽を大いに感じます。

今年はそんな小説たちにたくさん出会えるのではないかと思います。

芥川賞についての定期投稿

さて今回は候補作を読み終わった芥川賞についての定期投稿です。

前回の第150回記念は、事前の高い評判を押し切って小山田浩子『穴』が受賞。
読む前はどうせ小山田だろうと思ってましたが、作品を丁寧に一つ一つ読んでいくと意外と他の候補作も良くできていて、山下澄人『コルバトントリ』なんかは受賞に肉薄するのでは(願望を込めてですが)なんて思っていました。
そんなことも含め、下馬評通りの結果に物足りなさを感じたのですが、だんだんと今の選考委員の傾向も顕れてきているのかなと思ったりしています。
今回は第151回になります。まずは候補作の紹介から。

戌井昭人  「どろにやいと」(群像1月号)

小林エリカ 「マダム・キュリーと朝食を」(すばる4月号)

柴崎友香  「春の庭」(文學界6月号)

羽田圭介  「メタモルフォシス」(新潮3月号)

横山悠太  「吾輩ハ猫ニナル」(群像6月号)

毎度おなじみの顔ぶれからちょっと意外な候補者、そして候補作が出揃う前から恐らく受賞が濃厚と純文学界隈でかなりに話題になっていた新人賞受賞者までといったところです。
前回明らかになったように、芥川賞の選評には下馬評の強さというものはどうしてもあります。
それに加えて、何回かに1度顕れる奇作とか怪作といった類の作品があって、これは取らせないといけないという潜在的な力が選考委員に妙なプレッシャーとなったりすることもあります。
最近で言えば朝吹真理子や黒田夏子などです。前回の小山田浩子もそれに当たらなくもないといったところでしょうか。
結果、そのように騒がれた殆どの作品はスムーズに受賞が決まっており、今回もそのような事を勘案すれば受賞作はほぼ決まりといっても過言ではないと思います。
しかし、敢えて今ここではそれを明かすことはせず個々の作品の解説を交えながら、然るところでその事にも言及していこうと思います。

作者のあいうえお順に文藝春秋のサイトには候補が発表されていて、上記の候補作はそれをそのままコピペしたので今回はこの順に一作ずつ触れていきます。

 

●戌井昭人『どろにやいと』
最初の頃は、劇作家が文学畑を荒らしてなんて思ってましたが、2011年の『ぴんぞろ』あたりから面白く読めるようになり、個人的に最高傑作であると思っている翌年『ひっ』辺りで受賞してもおかしくなかったのですが、あれよあれよと受賞を逃し、今回で5回目のノミネートとなります。

「わたし」の一人称小説。あまり正確には把握してませんが、なんとなく戌井さんの一人称小説は珍しいのではという直感がありました。(結局調べてないですが)
文章の「ですます調」と主人公が扱っている「お灸」さらには行商(顧客のいそうな地域を商品を運搬しながら販売する方法)で山間の村々を訪ねるという設定から、一昔前の話なのかなと錯覚させられますが、後に主人公が「近年ではネットの流通経路の発達もあり今回の行商を最後と考えている」という記述があり、実際には現代の話だということが分かります。
重複するところも含めてあらすじを書くと、主人公のわたしは、自らが開発した万能のお灸「天祐子霊草麻王」を全国各地を売って歩いた父の後を継ぎ、父の顧客リストを頼りに行商として訪れた最後の村「志目掛村(架空)」で起こった奇譚についてといったところです。
主人公が川崎から出発したという記述があるので、架空の村の設定が「リアルからフィクションへ」という構造を明確に示しています。その架空の志目掛村には牛月山・魚尾山・湯女根山と三つの霊山があり、それぞれ過去・現在・未来を表していて、この三山を参れば生まれ変わって新たな人生を歩めるという説明も初めの方に出てきます。

個人的には凄く良かったです。『ひっ』と並ぶかそれ以上の出来だと思います。
戌井さんが書く人間たちのどうしようもなさ故の愛くるしさや諸行無常な感じ、前半の設定を回収しながら雪だるま式に大きくなっていく物語の展開(それを可能にする村という閉鎖的な箱のつくり)や圧巻のラストに至るまで、計算されつくされている感じが伝わってきました。読後の爽快感もあり、一つの物語の中にきちんと起承転結が備えられている辺りにも正統派の純文学小説と言えるでしょう。
ひとつだけ小説中の場面を挙げておくなら、圧巻のラストだと思います。
山中のお堂が燃え上がる中、殺人鬼と騙されたその妹によって臀部を包丁で刺されてしまった主人公がそれでも生きねばと思い、後ずさりながら足を滑らせ山の斜面を転げ落ち、その最中に轟くような地響きと共に起こった地滑りで迫ってくる煌々と燃え盛り崩れるお堂と大量の土砂。辛うじて生還した主人公が山が禿げたことによって最後に見たものはというようなところ。
ここら辺の描写は前半の設定を踏襲しながら、実に秀逸に描かれていたと思います。
僕は戌井さんの良さはある種の「フラットさ」だと思っています。緊張感を持ちつつそれが最後まで保たれるのですが、最後の地滑りで完全にそのフラットさが雪崩を起こし、そこから奇妙な希望が偶発的に生まれる。
『ひっ』の破綻のクライマックスにも似た事が言えると思いますが、改めてそのラストに気持ちの良さを感じました。僕なら自信を持って〇をつけます。

 

●小林エリカ『マダム・キュリーと朝食を』
申し訳ないですが、僕はこの方が候補に挙がるまで存在を知らなかったです。
Wiki見るとどうやら漫画家みたいで、小説を書くのは初めてのようです。
設定としては一人称の「わたし」と「私」の物語が入れ子のように続いていきます。
「わたし」は2011年の震災の年の夏に生まれた女の子で、彼女が話を語れる年齢まで成長していると考えると設定としては2020年~25年ぐらいといったところでしょうか。
一方、「私」で語る主人公の方は猫になります。人間たちが何もかもを明け渡し勝利を収めたというような記述があるので、これも現在とは考えにくく、少し先の未来の話だと思います。
それに加えて、回想として「わたし」と「私」の過去(父母、祖父母、曾祖父母)に話が及び、途中でムノンという18世紀の宮廷料理人が出版した料理についてのレシピが抜粋されたり、わたしの母が遺したICレコーダーに録音されたものについてのメモが挿入されていきます。
「私」と「わたし」が今を語る時だけ「ですます調」が使われ、回想がはじまると文体が普通のものに戻ったりするので、複雑な構成の割には現在どこの話がなされているのかというのは分かりやすく読むことができます。
テーマとしては震災における放射能の被害や今後それをどのように恢復していくかみたいなところで、それに関連して頻繁に抽象的な「光」という物語のテーマの核になるような言葉が使われていきます。
また放射能の歴史、つまりエジソンやキュリー夫人の事に始まり、放射線を使った現在日常でも使われるような物についての話(レントゲンや蛍光灯)や原爆や水爆の実験の事などについてといった、学術的な放射能についての話が資料のように物語の一部分として丁寧に織り込まれています。
どうやらこの方、漫画でも同じようなテーマで(放射能の歴史)作品を出しているらしく、今回はそれを小説として作り直したというものなのかもしれません。詳しくは分かりませんが。

上記のように扱っているテーマはかなりヘビーなものなのですが、「私」に猫の視点を採用する辺りや、夜になって人間の家に忍びこみ猫が料理を作るという描写、猫の私の祖母がアメリカに住んでいたという事で遠く離れた場所の地名がたくさん聞かれる辺り、とてもファンシーでメルヘンな印象が物語に漂っていると感じることができます。
これが僕とは合わずに、芥川賞の候補作としては250枚というかなり長い方の作品だったのですが途中から若干読むのが辛かったです。
単純に個人的な好き嫌いの問題にしか過ぎず、このメルヘンな感じも作者からしたら全く意識してないと言われれば、僕のジェンダー感覚の問題と言わざるを得ないんですが、こればっかりはどうしようもないと言うか、相性が良くなかったです。
様々な要素や時代の話を組み込みながら、ここまでわかりやすく物語を進めていくあたりには最初の小説としては素晴らしいと思いますし、たびたび出てくる「光」がラジウムということが読んでいくと分かります。(実際はそれを越えた隠喩としての何かなんですけど)
また「旧世界から新世界へ手渡された光」といって、僕らがこれから震災以後をどうやって生きていくのかみたいな事を投げかけているあたりに批評性を感じます。その中で紹介されるドヴォルザークの「新世界より」が異様なミスマッチングを見せたりしますが、このあたりも僕がイメージする作品世界と実際にこの作品が持っているイメージとの乖離があるのかもしれません。
そのような事を含めて個人的にはそれほどまで饒舌に語りたいと思わせてくれるような作品ではなかったかなと思います。
もっと丁寧に読まなければいけない小説だったと思いますが、それは好きな人に存分にやってもらえればと思いました。

 

●柴崎友香『春の庭』
今回の候補者の中では最も名の知れている方だと思います。候補になったのは4回目で、10年以来なので4年ぶりと案外久しぶり。リアリズムに徹していながら、毎度「はて」となりがちな難解な小説を書き、個人的には苦手ですが一定程度の熱狂的なファンがいる作家だと思います。
今回は割と読みやすかったです。三人称で、主な主人公は30過ぎの太郎という男性。
閑静な住宅街に佇む2階建てのアパートに住む太郎とそのアパートの住人たち、アパートと同じ区画に立つ時代を感じる水色の洋館ふうの一軒家を巡る話になっています。
こう書くと、一見そこに住む「人」と「人」との話なのだろうと想像されるでしょうが、実は派手なこの水色の建物を巡ってという話であり、太郎の後に越してきたアパートの住人の一人である漫画家の西(女性)が、どうやらこの建物に魅了されていて、どうやって外装だけでなく中の様子を伺うかというように物語は進行していきます。
描写的にも家の間取りの構成や配置、建築の様式美みたいな部分に多くが割かれており、読んでいてある種理系的な美意識を感じることができます。
太郎がメインで物語が語られていくのですが、太郎と西が居酒屋に行き、過去に西がこの洋館ふうの建物をある写真集で見てそれ以来ずっと忘れられないというような事が明かされ、それを建てた夫婦の話や建てられた時代背景の説明では、西の力強い主体性を感じます。
クライマックスの少し前ではその建物の住人と仲良くなった西と太郎が建物に招かれ、そこでひと悶着あったりするのですが、それを含めて面白く読むことが出来ました。
僕は、恐らくこの小説は「構造(プラットフォーム)」と「内容(コンテンツ)」の関係に言及した小説なのではと思っています。
例えば、変わらない構造(建築)と対比で描かれる、変わってしまう内容(住人や家具の配置)というようなこと。
その反面、作品からの引用ですが、
「一つ一つの建物にはそれを建てた人の理想なり願望なりがあったのだろうが、街全体としてはまとまりも方向性もなく、それぞれの思いつきや場当たり的な事情が集積し、さらにその細部がばらばらに成長していった結果がこの風景なのだ」
という記述もあり、その関係性については一概には言えませんが、構造と内容についてのメタ的な視点での小説なのかなと解釈できると思います。
ラスト10ページぐらいで突如今まで太郎の口から僅かにしか語られていない太郎の姉の一人称という物凄く奇妙で、何でこうなった(前述したような毎度の「はて」)という事態が起こって物語はよく分からなく綴じられますが(これも小説という構造を維持しつつも、内容である人称を変えるというメタファーなのか…)全体を通してはすっきりとまとまった綺麗な小説だと思います。
ただ、余談ですが最近僕はウェス・アンダーソンという映画監督にはまっており、彼の撮る呑み込まれるような構造美や色彩美、計算され尽くした画角の美しさに比べると、小説というものでそれを表現しようとするとどうしても限界があるなと感じてしまうという事は言わざるを得ないです。

 

●羽田圭介『メタモルフォシス』
羽田さん若いですよね。僕と2年ぐらいしか年齢違わない。今回3回目のノミネート。
何となくリア充というイメージがあり、2作ぐらい読んだことあったはずですが、まるで印象に残っていませんでした。
三人称で、主な登場人物はサトウという男性。昼は東京の大手証券会社に勤めるエリートだが、裏の顔を持ち、それは極度のマゾヒストということ。
SMクラブに通い、主にその夜の空間における人間関係についての物語です。
SMクラブ仲間の一人が死体で発見されたところから物語は始まり、彼の死因を巡っての(自殺か他殺か)話と人間の内なる欲望についてといったところでしょう。
SMクラブにおける描写が物凄くリアルで沢山取材されて書かれたんだろうなという事が伝わってきます。
その異常な描写の凄みを持ってして描きたかったのが、慣習や集団心理へのアンチテーゼといったところでしょう。
慣習や心理を本能や正常行為と思い込むおかしさや、それを醸成する装置としての現代社会を痛烈に批判しつつも、生死という難しい問題にまでアプローチが及んでいる。
メインのテーマを熱を持って描きつつも、かなり射程が離れたところから生死の問題を描き出している辺りに作家の力量を感じました。
が、個人的には後になって考えてみると今回の作品もあまり印象に残るような作品ではない気がします。

とここまで、4作続けて取り上げましたが、ラストはお待ちかね、横山悠太『吾輩ハ猫ニナル』です。
冒頭に書いたほぼ受賞決定というのはこの作品なのですが、なんせ難しい。
時空を飛び越えたり、視点が次々に憑依したりといったアクロバティックな小説ではなく、寧ろ普通に読めるリアリズム小説なのですが、僕個人の力としてこの作品の魅力を伝える事がまだできないと思っています。
漱石の『吾輩は猫である』や中国文学と密接な関係があるので取り敢えず魯迅の『阿Q正伝』『狂人日記』など色々と読んでみたのですが、まだピンとこない。
なので、この作品についてはまた後日どこかで触れようと思います。悔しい。

という事で最後に今回の予想を。
◎横山悠太『吾輩ハ猫ニナル』
〇戌井昭人『どろにやいと』
▲柴崎友香『春の庭』
って感じです。

芥川賞選評

さて今回は候補作を読み終わった芥川賞についての定期投稿です。

前回の第150回記念は、事前の高い評判を押し切って小山田浩子『穴』が受賞。
読む前はどうせ小山田だろうと思ってましたが、作品を丁寧に一つ一つ読んでいくと意外と他の候補作も良くできていて、山下澄人『コルバトントリ』なんかは受賞に肉薄するのでは(願望を込めてですが)なんて思っていました。
そんなことも含め、下馬評通りの結果になんとなく面白くなさを感じたのですが、だんだんと今の選考委員の傾向も顕れてきているのかなと思ったりしています。
今回は第151回になります。まずは候補作の紹介から。

戌井昭人     「どろにやいと」(群像1月号)

小林エリカ    「マダム・キュリーと朝食を」(すばる4月号)

柴崎友香     「春の庭」(文學界6月号)

羽田圭介     「メタモルフォシス」(新潮3月号)

横山悠太     「吾輩ハ猫ニナル」(群像6月号)

毎度おなじみの顔ぶれからちょっと意外な候補者、そして候補作が出揃う前から恐らく受賞が濃厚と純文学界隈でかなりに話題になっていた新人賞受賞者までといったところです。
前回明らかになったように、芥川賞の選評には下馬評の強さというものはどうしてもあります。
それに加えて、何回かに1度顕れる奇作とか怪作といった類の作品があって、これは取らせないといけないという潜在的な力が選考委員に妙なプレッシャーとなったりすることもあります。
最近で言えば朝吹真理子や黒田夏子などです。前回の小山田浩子もそれに当たらなくもないといったとこるでしょうか。
結果、そのように騒がれた殆どの作品はスムーズに受賞が決まっており、今回もそのような事を勘案すれば受賞作はほぼ決まりといっても過言ではないと思います。
しかし、敢えて今ここではそれを明かすことはせず個々の作品の解説を交えながら、然るところでその事にも言及していこうと思います。

作者のあいうえお順に文藝春秋のサイトには候補が発表されていて、上記の候補作はそれをそのままコピペしたので今回はこの順に一作ずつ触れていきます。

 

●戌井昭人『どろにやいと』
最初の頃は、劇作家が文学畑を荒らしてなんて思ってましたが、2011年の『ぴんぞろ』あたりから面白く読めるようになり、個人的に最高傑作であると思っている翌年『ひっ』辺りで受賞してもおかしくなかったのですが、あれよあれよと受賞を逃し、今回で5回目のノミネートとなります。

「わたし」の一人称小説。あまり正確には把握してませんが、なんとなく戌井さんの一人称小説は珍しいのではという直感がありました。(結局調べてないですが)
文章の「ですます調」と主人公が扱っている「お灸」さらには行商(顧客のいそうな地域を商品を運搬しながら販売する方法)で山間の村々を訪ねるという設定から、一昔前の話なのかなと錯覚させられますが、後に主人公が「近年ではネットの流通経路の発達もあり今回の行商を最後と考えている」という記述があり、実際には現代の話だということが分かります。
重複するところも含めてあらすじを書くと、主人公のわたしは、自らが開発した万能のお灸「天祐子霊草麻王」を全国各地を売って歩いた父の後を継ぎ、父の顧客リストを頼りに行商として訪れた最後の村「志目掛村(架空)」で起こった奇譚についてといったところです。
主人公が川崎から出発したという記述があるので、架空の村の設定が「リアルからフィクションへ」という構造を明確に示しています。その架空の志目掛村には牛月山・魚尾山・湯女根山と三つの霊山があり、それぞれ過去・現在・未来を表していて、この三山を参れば生まれ変わって新たな人生を歩めるという説明も初めの方に出てきます。

個人的には凄く良かったです。『ひっ』と並ぶかそれ以上の出来だと思います。
戌井さんが書く人間たちのどうしようもなさ故の愛くるしさや諸行無常な感じ、前半の設定を回収しながら雪だるま式に大きくなっていく物語の展開(それを可能にする村という閉鎖的な箱のつくり)や圧巻のラストに至るまで、計算されつくされている感じが伝わってきました。読後の爽快感もあり、一つの物語の中にきちんと起承転結が備えられている辺りにも正統派の純文学小説となっています。
ひとつだけ小説中の場面を挙げておくなら、圧巻のラストだと思います。
山中のお堂が燃え上がる中、殺人鬼と騙されたその妹によって臀部を包丁で刺されてしまった主人公がそれでも生きねばと思い、後ずさりながら足を滑らせ山の斜面を転げ落ち、その最中に轟くような地響きと共に起こった地滑りで迫ってくる煌々と燃え盛り崩れるお堂と大量の土砂。辛うじて生還した主人公が山が禿げたことによって最後に見たものはというようなところ。
ここら辺の描写は前半の設定を踏襲しながら、実に秀逸に描かれていたと思います。
僕は戌井さんの良さはある種の「フラットさ」だと思っています。緊張感を持ちつつそれが最後まで保たれるのですが、最後の地滑りで完全にそのフラットさが雪崩を起こし、そこから奇妙な希望が偶発的に生まれる。
『ひっ』の破綻のクライマックスにも似た事が言えると思いますが、改めてそのラストに気持ちの良さを感じました。僕なら自信を持って〇をつけます。

 

●小林エリカ『マダム・キュリーと朝食を』
申し訳ないですが、僕はこの方が候補に挙がるまで存在を知らなかったです。
Wiki見るとどうやら漫画家みたいで、小説を書くのは初めてのようです。
設定としては一人称の「わたし」と「私」の物語が入れ子のように続いていきます。
「わたし」は2011年の震災の年の夏に生まれた女の子で、彼女が話を語れる年齢まで成長していると考えると設定としては2020年~25年ぐらいといったところでしょうか。
一方「、私」で語る主人公の方は猫になります。人間たちが何もかもを明け渡し勝利を収めたというような記述があるので、これも現在とは考えにくく、少し先の未来の話だと思います。
それに加えて、回想として「わたし」と「私」の過去(父母、祖父母、曾祖父母)に話が及び、途中でムノンという18世紀の宮廷料理人が出版した料理についてのレシピが抜粋されたり、わたしの母が遺したICレコーダーに録音されたものについてのメモが挿入されていきます。
「私」と「わたし」が今を語る時だけ「ですます調」が使われ、回想がはじまると文体が普通のものに戻ったりするので、複雑な構成の割には現在どこの話がなされているのかというのは分かりやすく読むことができます。
テーマとしては震災における放射能の被害や今後それをどのように恢復していくかみたいなところで、それに関連して頻繁に抽象的な「光」という物語のテーマの核になるような言葉が使われていきます。
また放射能の歴史、つまりエジソンやキュリー夫人の事に始まり、放射線を使った現在日常でも使われるような物についての話(レントゲンや蛍光灯)や原爆や水爆の実験の事などについてといった、学術的な放射能についての話が資料のように物語の一部分として丁寧に織り込まれています。
どうやらこの方、漫画でも同じようなテーマで(放射能の歴史)作品を出しているらしく、今回はそれを小説として作り直したというものなのかもしれません。詳しくは分かりませんが。

上記のように扱っているテーマはかなりヘビーなものなのですが、「私」に猫の視点を採用する辺りや、夜になって人間の家に忍びこみ猫が料理を作るという描写、猫の私の祖母がアメリカに住んでいたという事で遠く離れた場所の地名がたくさん聞かれる辺り、とてもファンシーでメルヘンな印象が物語に漂っていると感じることができます。
これが僕とは合わずに、芥川賞の候補作としては250枚というかなり長い方の作品だったのですが途中から若干読むのが辛かったです。
単純に個人的な好き嫌いの問題にしか過ぎず、このメルヘンな感じも作者からしたら全く意識してないと言われれば、僕のジェンダー感覚の問題と言わざるを得ないんですが、こればっかりはどうしようもないと言うか、相性が良くなかったです。
様々な要素や時代の話を組み込みながら、ここまでわかりやすく物語を進めていくあたりには最初の小説としては素晴らしいと思いますし、たびたび出てくる「光」がラジウムということが読んでいくと分かります。(実際はそれを越えた隠喩としての何かなんですけど)
また「旧世界から新世界へ手渡された光」といって、僕らがこれから震災以後をどうやって生きていくのかみたいな事を投げかけているあたりに批評性を感じますが、そのような事を含めて個人的にはそれほどまで饒舌に語りたいと思わせてくれるような作品ではなかったかなと思います。
もっと丁寧に読まなければいけない小説だったと思いますが、それは好きな人に存分にやってもらえればと思いました。

 

●柴崎友香『春の庭』
今回の候補者の中では最も名の知れている方だと思います。候補になったのは4回目で、10年以来なので4年ぶりと案外久しぶり。リアリズムに徹していながら、毎度「はて」となりがちな難解な小説を書き、個人的には苦手ですが一定程度の熱狂的なファンがいる作家だと思います。
今回は割と読みやすかったです。三人称で、主な主人公は30過ぎの太郎という男性。
閑静な住宅街に佇む2階建てのアパートに住む太郎とそのアパートの住人たち、アパートと同じ区画に立つ時代を感じる水色の洋館ふうの一軒家を巡る話になっています。
こう書くと、一見そこに住む「人」と「人」との話なのだろうと想像されるでしょうが、実は派手なこの水色の建物を巡ってという話であり、太郎の後に越してきたアパートの住人の一人である漫画家の西(女性)が、どうやらこの建物に魅了されていて、どうやって外装だけでなく中の様子を伺うかというように物語は進行していきます。
描写的にも家の間取りの構成や配置、建築の様式美みたいな部分に多くが割かれており、読んでいてある種理系的な美意識を感じることができます。
太郎がメインで物語が語られていくのですが、太郎と西が居酒屋に行き、過去に西がこの洋館ふうの建物をある写真集で見てそれ以来ずっと忘れられないというような事が明かされ、それを建てた夫婦の話や建てられた時代背景の説明では、西の力強い主体性を感じます。
クライマックスの少し前ではその建物の住人と仲良くなった西と太郎が建物に招かれ、そこでひと悶着あったりするのですが、それを含めて面白く読むことが出来ました。
僕は恐らくこの小説は「構造(プラットフォーム)」と「内容(コンテンツ)」の関係に言及した小説なのではと思っています。
例えば、変わらない構造(建築)と対比で描かれる、変わってしまう内容(間取りや住人)というようなこと。
その反面、作品からの引用ですが、
「一つ一つの建物にはそれを建てた人の理想なり願望なりがあったのだろうが、街全体としてはまとまりも方向性もなく、それぞれの思いつきや場当たり的な事情が集積し、さらにその細部がばらばらに成長していった結果がこの風景なのだ」
という記述もあり、その関係性については一概には言えないが、構造と内容についてのメタ的な視点での小説なのかなと解釈できると思います。
ラスト10ページぐらいで突如今まで太郎の口から僅かにしか語られていない太郎の姉の一人称という物凄く奇妙で、何でこうなった(前述したような毎度の「はて」)という事態が起こって物語はよく分からなく綴じられますが(これも小説という構造を維持しつつも、内容である人称を変えるというメタファーなのか…)全体を通してはすっきりとまとまった綺麗な小説だと思います。
ただ、余談ですが最近僕はウェス・アンダーソンという映画監督にはまっており、彼の撮る呑み込まれるような構造美や色彩美、計算され尽くした画角の美しさに比べると、小説というものでそれを表現しようとするとどうしても限界があるなと感じてしまうという事は言わざるを得ないです。

 

●羽田圭介『メタモルフォシス』
羽田さん若いですよね。僕と2年ぐらいしか年齢違わない。今回3回目のノミネート。
何となくリア充というイメージがあり、2作ぐらい読んだことあったはずですが、まるで印象に残っていませんでした。
三人称で、主な登場人物はサトウという男性。昼は東京の大手証券会社に勤めるエリートだが、裏の顔を持ち、それは極度のマゾヒストということ。
SMクラブに通い、主にその夜の空間における人間関係についての物語です。
SMクラブ仲間の一人が死体で発見されたところから物語は始まり、彼の死因を巡っての(自殺か他殺か)話と人間の内なる欲望についてといったところでしょう。
SMクラブにおける描写が物凄くリアルで沢山取材されて書かれたんだろうなという事が伝わってきます。
その異常な描写の凄みを持ってして描きたかったのが、慣習や集団心理へのアンチテーゼといったところでしょう。
慣習や心理を本能や正常行為と思い込むおかしさや、それを作り上げる装置としての現代社会を痛烈に批判しつつも、生死という難しい問題にまでアプローチが及んでいる。
メインのテーマを熱を持って描きつつも、かなり射程が離れたところから生死の問題を描き出している辺りに作家の力量を感じました。
が、個人的には後になって考えてみると今回の作品もあまり印象に残るような作品ではない気がします。

とここまで、4作続けて取り上げましたが、ラストはお待ちかね、横山悠太『吾輩ハ猫ニナル』です。
冒頭に書いたほぼ受賞決定というのはこの作品なのですが、なんせ難しい。
時空を飛び越えたり、視点が次々に憑依したりといったアクロバティックな小説ではなく、寧ろ普通に読めるリアリズム小説なのですが、僕個人の力としてこの作品の魅力を伝える事がまだできないと思っています。
漱石の『吾輩は猫である』や中国文学と密接な関係があるので取り敢えず魯迅の『阿Q正伝』『狂人日記』など色々と読んでみたのですが、まだピンとこない。
なので、この作品についてはまた後日どこかで触れようと思います。悔しい。

という事で最後に今回の予想を。
◎横山悠太『吾輩ハ猫ニナル』
〇戌井昭人『どろにやいと』
▲柴崎友香『春の庭』
って感じです。

芥川賞・直木賞予想

遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
最近寒いですね。毎日「今年一番の寒さ」って言葉聞いてる気がしますが、ずっと寒いのであんま変に煽らず、そっとみんなで耐えたいと思うものです。

さて、早速今年一発目の長文。
記念すべき第150回の芥川賞・直木賞の発表が明日の16日に迫っています。
そこで、今回も候補作を前読みしちゃって受賞作を予想しよう的なやつです。
もうここ5年ぐらいやってますが、受賞作が決まるのが半年に1回なのでまぁ毎回こんなひっそりとしてます。ただ、個人的にはここ4回全部受賞作当ててたりするので、読書の参考にでもしてもらえればうれしいなと思います。
ちなみに直木賞候補は今回も人気で借りれなかったので、いつものように大賞が決まった後にゆっくり読もうと思っていますゆえ、ここでは触れません。ご容赦ください。

早速、今回の候補作から。

いとうせいこう 「鼻に挟(はさ)み撃ち」(すばる12月号)

岩城けい  「さようなら、オレンジ」(太宰治賞2013)

小山田浩子  「穴」(新潮9月号)

松波太郎  「LIFE」(群像7月号)

山下澄人 「コルバトントリ」(文學界10月号)

こんな感じです。毎回下半期の候補は年明けてから出るのですが、今回からなのか候補が12月の終わりに発表されて、発表までに1カ月とやや間延びした感じを個人的には受けています。ただ発表までに時間があれば、それだけ候補を読んで自分でこのように予想とかも出来るし(特に直木賞は大作が多いですからね)出版界や本好きの方にとってはいい傾向なのかもしれません。

候補が出たときに、結論から言うと小山田浩子で決まりかなとか思ったのですが、読んでみると意外とそうでもなく、飛び抜けた印象の作品がなかった分、選評も難航するのではという感想を持っています。あと、すばるという集英社から出てる文芸誌を扱っている図書館が極めて少なく、結果として候補の1つであったいとう氏の作品を読めないというミスが起こってしまいました。万が一いとう氏の作品が取ることがあればこれは僕の完全な敗北ですが、いとう氏はないと思いたいです。ただ前回も候補に入って、なんか好意的に評価してる委員もいたんで、変な色とか150回記念という事で話題性を持たせるために名の知られた人が取る可能性が往々にあり、これは僕が考える一番キツいシナリオですがとにかくそんな悲劇に少しびびってます。というか、今まですばるから候補になった時にどうやって読んでいたのか思い出せないほうがもっと怖いのかもしれないとそう思ったりもします。(近所の図書館が扱いを止めた線が一番有力かと思われます)

4作まとめて紹介します。

まずは、受賞作の筆頭と思われた小山田浩子の『穴』から。
舞台はとある県(都市から少し離れた)。その県の都市部からさらに田舎にある夫の両親の家の隣に建つ借家に引っ越して来た主人公の「私」とその周辺の人たちについての物語です。物語は私の一人称で進むとてもシンプルな形をとります。
また、登場人物も夫の両親と祖父、隣人の世羅さん一家、後にキーパーソンとなる結婚当初から「私」に存在が隠されたいた夫の兄と、これまた鍵となる謎の怪物といったような、少し奇妙ではありますが、無駄のなさが際立ちます。
物語は引っ越しを機に専業主婦となった私が、引っ越し後のルーティーンともいうべき、義理の家の人や近所とのうわべ的な関係作りだとか、スーパーやコンビニなどの地理を把握するために家の周りを歩き回ったりすることを中心に進んでいきます。
ある日家の近くを歩いていると、前述した謎の怪獣(形は犬とか狸のような四足歩行の動物)と出くわし、後を追って行った私は、「穴」にはまってしまいます。(説明のままで、落ちるというほどの深さのない、抜け出すのに少し苦労する人ひとりがすっぽりと直立の状態で入れるくらいの穴)
さらに別の日にも同じ怪獣と出くわし、後を追っていくと、夫の兄という紹介された覚えのない人物に出会ったりという形で続いていきます。
この作品の凄いところは、肉眼では把握できないような細かい部分を、ある種の美しさを備えたまま記述する作者の丁寧な筆力だと思います。匂いとか景色を想起させるとかの類とは少し違った、単純に言葉でイメージを操作する上手さが目立ちます。例えば庭に広がるバジルを見て「齧ると歯まで緑に染まりそうで、とても食べれそうになかった」など。こういった彼女独特の文体で物語に安定感と多少の抑揚がつくのですが、ただストーリーがあまりにも面白くない。作中にも、穴の中から子供が湧いて出てきてみたいな記述があり、結局「穴」というのは、子孫を残す家庭というような何か大きな集団にアクセスするための入り口であり、その中へ誘うのが謎の怪物の役割で、言わば否定的に描かれる現代版不思議の国のアリスみたいなものだと解釈出来ます。
最後は(その穴に入ってしまったあとの)「私」が血の繋がっていない義祖母と義母が似てるという思いを抱いて不思議に感じていたのだけれども、そんな私も義母にどこか似ているとはっと思う瞬間で終わります。この運命めいた逃れられない血ではなく地の繋がりを、そのサイクルからドロップアウトすることを選んだ夫の兄(兄にはこの穴の正体が判っている)を使うことで奇妙に写し出すというような構造に見てとれます。
小山田さんはデビュー作が多くの文学者に喝采を浴びて、次書けば恐らく芥川賞取れるだろうと約束されたぐらいの騒がれようだったのですが(俗にいう朝吹真理子方式)、今回の作品ではさすがにちょっと弱いかなと思います。ここ取ってしまうのは小山田さんにとっていいのか、そこら辺を考えるともう少し苦しんで書いた作品を読んでみたいなと思います。ということで△ぐらいかな。

次は、岩城けいの『さようなら、オレンジ』。太宰賞を受賞したすでに単行本にもなってる本です。
物語の構造は、アフリカ出身のサリマという女性が移民として移住してきたオーストラリアで仕事をし英語を学びながら生きていくという三人称からなる部分と、Sという日本人女性がジョーンズ先生という大学時代の恩師に宛てた書簡を入れ子にした形になっています。この二つのパートが最後に書簡のパートで終わるのですが、そこのラストを読んでようやく二つのパートの本当の意味での繋がりが分かるような形になっています。(途中色々と明かされていくのですが、最後の最後を読まないと決して全てが繋がらないような技巧的な作品であります、ただここでは明かしません。)
タイトルのオレンジというのは、作中にも何度か登場する太陽のことであり、タイトルの英訳も装丁では「goodbye my orange」となっていて、myというところがまた面白かったりします。
単純な太陽というところではなく希望とか子供とかそういった可能性を内包するオレンジの目に見えない姿が印象に残ります。
個人的にはこの本のテーマは「再生」であると考えました。慣れない異国で母国語以外で生きていく人々の苦悩だったり、異国の言語で表現することの意味、そしてそれを踏まえた本当の意味での母国語への気づきなどを切実に描いている作品だと思います。そこには勿論満たされない思いであったり、成し遂げられない障壁となる存在のことであったりも描かれているのですが、それを含めて「再生」つまり太陽が毎日昇るという希望が、女性の生きる力強さ(この地で生きるという決意)とともに克明に記されていました。
三人称の部分でサリマを中心とした職場や英会話スクールの仲間の一筋縄ではいかない人生と、それを最後の書簡で見事なまでのにオレンジに染め上げて肯定する技巧的な仕掛けの部分には、月並みですが驚くと同時に心が温まりました。
それほど長くないので、海外渡航の経験があったり、異国の文化に興味がある女性は是非読んで欲しいなと思います。文字通りすごくいい本です。
ただ、芥川賞的にはあまり向いていないというか、委員の一人小川洋子がこの本の帯でべた褒めしてたんで、そういう優しい物語を書く女性作家とか、宮本輝とかも案外靡きそうですが、最近のシビアな委員の顔ぶれをみると、芥川賞の系統的に受賞する可能性はさほど高くはないのではと思います。ということでこれまた△で。
ただ、今回の候補の中ではダントツに皆さんに読んでほしいなと思う作品ではありますのでそこら辺は念押しさせてもらいます。

次は、山下澄人の『コルバトントリ』。コルバトントリの意味はググっても損はないかと思います。
最近ではほぼ2回に1回はノミネートされ、今や哀しいかな、かませ犬的な候補作製造機になってしまったのかと思わせるほどです。
登場人物の間をカメラ的な視点を持ったまま魂が憑依したり、時空を超えたり、オオカミ目線になったり、シャチ目線になったりと毎回あまりにも読みにくくて驚かされますが、今回もいつもの山下節満載の作品となってます。ただ今回は改行なく時制が変わったり、さっきまで主人公だった人が店から入ってくるのを気づけば別の人の視点から見てるなんていう複雑すぎるつくりではなかったです。もちろん他人と自分の境界や時空の境界は見事なまでに溶け合って一緒くたにはなっていますが、辛うじてその仕切りは見えていて、恐らくそれは今作の中心となって描かれているのが「家族」だからではないかと思います。
ほかの候補は2回ずつ読みましたがこれだけは3回読みました。勿論家族の話だったので、家系図的なメモを取りながらです。
ストーリーを説明するのは無理に近いのですが簡単に説明すると、一人称の「ぼく」と、時空を飛び越えて僕の家族の過去未来ににアクセスする「ぼくの意識」によって物語は作られています。最後ちょっと複雑になるのですが、ぼくの意識は最後までどこか固有の人に憑依することはなく、同じ男の子が父であり僕であり僕の息子であったりというのはありましたが、意識自体は常に客観性を保っているというところに新しいというか今までなかった、物語を分かりやすくするための工夫のようなものを感じました。
家系図のメモを載せれば全体が分かりやすく示せると思うですが、なんかそれもかっこ悪いので、感想だけ書きます。
僕は正直今回初めて山下澄人を攻略した感じがあります。
書き手がここまで譲歩をすることで、読み手もなんとか頑張れば理解することができるというのは、円城塔が以前同じように前衛すぎる作品で候補になっては落ちを繰り返した結果、最後に少し妥協をしてナボコフとかを使ってひらけた物を書いた事で受賞に至った経緯と似ている気がしています。
今後山下氏の本を進んで読みたいとは思いませんし、もう候補になった時に毎回真剣に向き合うのも億劫だと思うので、今回は本当に個人的に凄く良かったと思うし、僕はこれに取ってほしいという意味を込めて◎を打ちたいと思います。一部で可能性としては上の2作よりさらに低いと言われているみたいですが、『コルバトントリ』単数受賞なら明日は新橋とかで酒飲みながらこれ朗読してニュース23とかに取り合げてもらえるように頑張ります。

さて、最後は松波太郎の『LIFE』です。
今回はリアリズム小説が候補に一作も挙がっていないという事が言われているらしく(いとう氏の作品はリアリズムではないという確認はしました)しかし、僕はこの作品は冒頭に演説シーンがあるのですが、これを完全に主人公の妄言と捉えれば立派なそして今回の作品の中で唯一のリアリズム小説だと思っています。
主人公は猫木豊という男で、その彼女「宝田」(たまに純文学の作品で苗字が宝田が採用されることがありますが、僕はその度その作家にシンパシーを感じざるを得ないのです)との自堕落な生活が三人称で綴られていきます。作品を支配している空気の一つが、この猫木という男のダメさ加減で、バイトもろくに続かず、家でⅬ4(テレ東の情報番組、もうここらへんで僕の胸はキュンキュン鳴ってました)見るのが日課と得意げになってるあたりに、終わってんな、いや始まってんな、みたいな、つまり言葉にできない底抜けの明るさとかを感じます。冒頭数ページで宝田の妊娠が発覚して、猫木はこれはそろそろ俺も動かないとと頑張る訳です。うまくいかなかったバイトも次第に慣れてきて(その間に時給とか求人誌と違うことで文句をたれたり雇用保険のことを理解できなかったりとありましたが)怒られなくなって嬉々とする猫木とは反面、宝田のおなかの赤ちゃんは思ったように体重が増えずに、その後障害がある事が発覚するという展開につながっていきます。
この物語を、ユートピア的な社会の切り取り方と解釈する方が今のところは自然なのでしょう。
しかし、僕はこの猫木の根っからの明るさというか不安や恐れを知らない部分が、これから僕らが作っていくべき「新しい社会」に起因していればと夢想したりしました。
例えば、両親ともに非正規であっても子供が2人とかきちんと育てられる社会を作っていく(ちょっと例としては過激ですけど)、つまり、破綻しかけているいつの時代のものかも分からないような黴臭い制度や法律を無理やり当て込んでバグりまくってる現代社会に希望なんてないので、その根本のシステム(OS)を書き換えた先の社会においての若者の物語であったならば、希望を抱けるなと思ったりもしました。そんなことを含めて、メッセージ性の強い作品だと思います。
順番前後しますが、作中特に衝撃的な部分の一つを紹介すると、産婦人科医からおなかの子供の染色体の異常の写真を見せられた猫木が
(・・・・バリ3になってる)
って言うわけです。多分その写真かなんかで見せられた染色体が携帯の電波のように見えたんだと思うのですが、その後、「息子はバリ3だし人の痛みがわかるやつになると思うな」って言い切ってるところで、さっき冒頭で書いた妄言の演説(猫木は自分をだらだら且ふらふらしてる王国の国王として演説を定期的に行っています。)を自分の生まれてくる息子に王国の「二代目」として託すようにして物語が綴じられます。ここらへんもなんか衝撃的でもあり且感慨深いものがあったりします。
すらすら読めるし内容も面白かったのですが、まぁ取ることはないと思います。
▲くらいですかね。

ということで、取りあえず明日には間に合った。いとう氏が受賞会見で寒い事言ったりすると、毎日毎日「今年一番の寒さです」なんて言われてるのにも拍車がかかり、僕は寒くて生きていけないので、ここは是非山下澄人の「こんばんは、舞城王太郎です」とか明るくいきたいものです。

http://live.nicovideo.jp/watch/lv162754934

明日ここで発表の瞬間と会見の模様が見れますので、Ⅼ4とか見てる人は是非のぞいてみてください。

芥川賞候補の個人的な選評

今季の芥川賞候補の個人的な選評です。
興味ない人しかいないと思いますが、無視して下さい。

総論からいくと、やはり直木賞の候補作が粒ぞろいな分、芥川賞は候補作の時点でやや引けを取ってるように感じざるを得ないです。
純文学の価値とは何かという事を考えたときに、考えさせる、結論を委ねる、とういう長所があると思います。選択される事の決して多くない純文学の逆襲、それを感じられる作品が自ずと魅力のあるものとして選ばれるのだろうと今回は特に感じています。
候補の5作品はいとうせいこう『想像ラジオ』を除き、全て怒らく原稿用紙100枚以内だったと思います。癖のある作品も多くなかったので5作品は3日ぐらいで読み終わってしまったのですが、最近の忙しさと、なぜか忙しい合間をぬって指原莉乃論を5000字ぐらい書いてしまうという馬鹿馬鹿しい事態に見舞われて、発表が明日に迫った今こうやって急ぎ足で書いています。
読んだ順に書いていきます。

 

1、戌井昭人『すっぽん心中』
三人称小説です。舞台は東京。あらすじは、主人公の田野という人が、追突事故を起こされ首に怪我を負って、運送の仕事が出来ずにリハビリをしてる中、モモという女の子に出会ってから、スッポンを霞ヶ浦に取りに行って、それを都内の料亭に売って金を稼ごうという話です。
今回の作品はシンプル過ぎるのではないかというくらい途中のある場面を除いて静かに物語が進んでいって、最後にふと少し前の事(物語冒頭)を思い直して終わるという、ある種イジりどころがないというか、評価のしようがないというか、そんな小説でした。
戌井さんももう数回候補になっていますが、前回の『ひっ』という作品が完成度がとても高かった故、それで落ちたんなら今回のこれで受賞ということはまず考えられないと思います。
文学の形式としてはとても優れていると思います。
あと一つ感じたのは、金持ち程ケチという事です。貧乏人の方が割りかし躊躇なくお金使ったりするんじゃないかなという事が書かれていました。

 

2、鶴川健吉『すなまわり』
この作者は2010年に文學界新人賞を受賞して以来の二作目という事です。
今回は、一人称「自分」の相撲の行司としての日々が描かれています。自身の経験を基に書いたものだけあって、とてもリアルで相撲という僕らの世代には馴染みのない文化を知る上ではとても面白かったです。具体的には、行司も相撲部屋に所属するとか、行司は給料がいいとか、力士の世界と同じく行司の世界も上下関係が厳しいとか。多分この主人公の「自分」は18歳ぐらいなんだけど、割と将来の事とかを考えてるような描写もあって、僕らが普段接することのない世界の案内人のようで、とても落ち着いているという印象を受けました。
ただ、いかんせんテンポが一定で、主人公の説明語りのような部分が大半を占め、ドキュメンタリー(ノンフィクション)としての要素が強すぎている分、これが創作と呼べるのかというあたりに疑問を感じました。まぁ、これが取れたら純文学も廃れたと言われても仕方ないでしょう。

 

3、藤野可織『爪と目』
この作品は、三作品目にしてやっと読み終わった後に「素晴らしいなと」(確か最後は駅から歩いて帰ってる途中だったと思いますが)声がでました。恐らくこの小説が僕の好きなタイプだったという事です。とても技巧的な作品で、読んでいて節々が今でも印象に残っています。
紛れもない人称小説です。冒頭の一文が、
始めてあなたと関係を持った日、帰りになって父は「君とは結婚できない」と言った。
と始まり、そこから「あなたの母親」や「わたしの母親」という代名詞がわざと読みにくいように置かれていて、僕は二人称小説だと思うのですが、二人称小説って語り手が凄く離れた、今勝手に言葉作りますが「神視点」から書かれたものだと認識してるんです。で、今回その視点を司ってる「わたし」というのが、物語中は三歳の女の子なんです。もっと説明すると、三歳の頃のわたしを含めた当時の環境というか一連の事件を、きちんと世の中が把握できる年齢にになった「わたし」が三歳の自分を「わたし」と表現しながら書いているという事です。
この人称の違和感だけでも最後まで不快というか、気持ち悪い世界が演出できているのですが、この「わたし」と「あなた」と「わたし」の前に「あなた」が現れた時ぐらいにに死んだ「わたしの母」との、身体の乗っ取り合いせめぎ合いという事が書かれている一番大きなテーマではないかと思います。おかしいけど、有無を言わせない齟齬みたいなのが段々と他人を浸食していくような、そこには拒否権が無いという理不尽さを描ききる部分を含めて、僕には魅力的でした。クライマックスで爪と目が重なり「わたし」と「あなた」はだいたい、おなじ。なんて締めくくられてて、なんで「わたし」はそう簡単に「あなた」のようになれてしまったのか、「わたし」の不気味さがとても印象的です。これは、普通の人じゃ書けないと思います。

 

4、山下澄人『砂漠ダンス』
逆に僕が一番読みにくかったのがこの作品です。一人称の私の旅の話。
山下さんの本は候補になる度に読んだり、割と評判良くて他の有名な文学賞とかも受賞歴があるのですが、僕は一生この作家の本を心から面白いとは思えないと思います。
この人の本はとても難しくて、何が難しいかって、整理を全然しないんです。無茶苦茶計算して書いてるのに整理がされて無いから、何がなんだが判らない。『ギッちょん』の時もそうでしたが、文章が地続きなのに時空越えてたり、場所が変わってたり、誰かの身体に侵入してたり。今回のこの作品を受けて豊崎由美が内田百間に一番近いって言ってたけど、その時にそういう風に読むのかと思ったくらい読み方が判らなかったです。あらすじを書くと、頭おかしいと思われるから書きませんが、とにかく色々なところに憑依したりワープしたりで、しかもその記憶とかまで共有出来てるから、ややこしさに拍車が掛かって大変です。
僕がこの本を読んで何となく考えたのは、例えばある人(自分の向かい側に座っていた)が自分に向けて熱心に話をしている。その時に自分は「ふーん」と話半分に聞いていたんだけど、後に(数年後とか)ふと、あの時、あの人が(正直だれだったか覚えてないけど)熱心に自分に話してくれたことがあったなと思い返し、その内容が意外と鮮明に思い出されというか覚えていて、それが今の自分にとって意外と有益な情報となっていて、だったら、数年前にあの人(結局だれだったかはまだ思い出せないけど)があんなに熱心に話してくれたんだし、自分が今抱えているの重要な選択を委ねてみよう、みたいなそんな事です。
この物語には何の関係もありませんが。
取る可能性はあると思いますが、僕なら絶対推さないです。

 

5、いとうせいこう『想像ラジオ』
いとうさんの小説って読むの始めてだったんだけど、僕は思った以上には拒否反応も出なかったし、長さの割にとても読みやすかったです。
震災がテーマです。1~5章までが入れ子のように作られてて、1・3・5章では津波で無くなったDJアークという主人公が想像を駆使してラジオをしているという章で、2・4章は災害ボランティアに参加している私とそのボランティア仲間など周辺の人々の話という構成。
DJアークの行う想像ラジオは、アークと同じ死者が聞けるような設定になっていて、死者からメールが来たり電話をつないだりと、内容はラジオの作りそのもので、これ原稿に一字一句違わずにラジオやっても十分に成立するぐらいそのやりとりはリアルです。ただ、みんな被災者で死者だから、そこに巻き起こるファンタジーでエモーショナルな部分というのがふと浮き上がったりして、そのギャップというかはっとするような感覚はあります。
2章4章は逆に生きた人間がから死者へのアプローチというか、悼み方を見直すという事が書かれていて、ここがとても感動的なんだけど、全部いとうさんが説明しちゃうから感動が半減しちゃってるのではと僕は思います。でも、そのあまりにも直接的な「弔うにおいて」みたいな文章は、読者の心には真っ直ぐに届くとは思います。
生き残った人間はどこかで加害者だとか。いつからこの国は死者の声に耳を傾けなくなったとか、死者を抱きしめられなくなったとか。死者の恨みを聞き取れないのが恐怖なのではないかとか。語り口柔らかくそんな事が書かれてるんで、感動するっちゃするんだけど、説明してもらってるから、こっちに何かする隙間がないというか、全部をそれこそラジオのように仕切ってお届けされちゃった感は否めないです。
でも、震災後のボランティアの考え方とかは誰しも考えた事だろうし、ファンタジーを纏いながらも、とても実践的な死者の悼み方が書かれていると思います。「優しい死者との向き合い方」という話そのものです。僕は取らないと思いますが、可能性は無きにしもあらずです。

よし間に合った。
まとめ。
◎『爪と目』
△『想像ラジオ』
今回の僕の願望はこんな感じです。
明日発表です。
因みに直木賞は、恩田陸に取って貰いたい!

惜日のアリスとはあの子のことだって、今でも、そう思う。

坂上秋成『惜日のアリス』読み終わりました。
僕はこの本を、読むまでの期待感で言えば今年一番なんじゃないかという事を色々なところで言っていました。
ただ、読み終わった直後には、とっておきの感想が浮かんだり、これについてもっと自分なりの解釈を付けようなんていう気はあまり起こらず、でも、期待はずれに落胆したということもなく、終わったあとも長く物語の世界に居させてくれるんだなとぼんやり考えていました。

僕は小説の感想を書くにあたっては、よくプロットとかロジカルな構図を洗い出し、それが今に書かれた事にどの様な作用となるかという事を一番に考えます。
もっと簡単に言えば、構図や文体、主人公の心的描写や風景描写から感じる色彩や音量や
匂い。そんな部分に作家の特徴は顕著に現れるので、そこを端緒に自分が思ったことをくっつけていくようなやり方をしています。
もちろんこの作品も、特徴としてジェンダーについてだったり、各章の分量(物語の区切り方)だったり、会話の中の春樹のような文体だったり、読んでいればすんなりと感じれる異変というのを幾つか上げるのは容易だと思います。そしてそれを切り口に上手く流れを作って、物語の終わりで展開される綺麗で淡い世界へという情景へ繋げていくというのは僕が今まで感想を書いて来た書き方であり、完結に端的に物語のエッセンスをそれなりの模倣品として取り出し、文章でそれをうけた物語を綴るというのは可能だと思います。

しかし、今回はそんな書き方を一切無視して、あんまり好きではない荒唐無稽になりかねないような、そんなこの物語を受けた自身の追体験について書きたくなりました。恐らく、坂上秋成という作家の人間の面白さなど、他の作家より少しよく知っている分良い意味を込めて色眼鏡で見れているというのが大きいと思います。

この物語は、恐らく、もう戻れない時の、でも、決して忘れる事の出来ない人、について書かれたものだと仮定しました。24時間で考えると1秒も考える事のない人。でも、1ヶ月・3ヶ月・半年・1年というように時を引き伸ばしてみると、もしかしたら、どこかのタイミングで考えている事があるような人の。そんな人は誰にもいないかもしれないですが、全ての人にいるようにも思えます。そんな記憶の中で生きる、その人の事を「最後」に想うことを赦してくれた物語です。

ただひたすらに、センチメンタルである事に間違いはありませんが、そこには強いリビドーが存在している(それを無碍にしていたら取り返せない時間が経った)事をきちんと指摘してくれる物語だと思います。哀しい物語ではありますが、誰の記憶にも寄り添うことを可能にする物語でもあるはずです。現在は現在と言葉に出した瞬間に過去になるという表現が文中に使われていますが、そんな過去と今を必死で繋ぐ、誤った形でも不格好でも繋ぐ、切れてしまったままで終わらないチャンスを、そして最後に想えるチャンスを抱かせてくれる物語です。
あの時見た景色、あの時聞こえた音たち、あの時の距離、あの時の約束を、あの時のその総てを。それを今だと、手遅れになる前に思い返せと。そうすれば、その人はは24時間で1秒以上考える人となります。その夜があったという証明のためだけの物語。

美しい月の出る夜のひと時を切り取った、けれども最後のラヴレターだと思います。

大江 健三郎『芽むしり仔撃ち』を読む。

この作品を読み始める前に大島渚の『太陽の墓場』という映画を見て、ひどく感動したのだが、よくできてるが故に、一昔前の作品(これは映画に限った事ではないが)に纏う現代との齟齬を強く感じた事があった。

しかし、この作品は戦時という背景で物語を構成しているにも関わらず、それが現代においても通じるものを数多く内包していると感じる事ができる。それは大江健三郎という類稀なき才能を有する書き手のなせる技であり、その部分に終始衝撃を受け続けた。
ここまで丁寧に日本語を操り、丹念な描写で村を描し、少年たちの小さな心に宿る感情を描し、その悲壮なまでの結末を描す事は容易な事ではない。それは読者の五感を揺さぶり、完全に物語の中に読者を溶け混ませる事となろう。

久しぶりに本の強い力を感じた作品であった。

戌井 昭人『ぴんぞろ』を読む。

上半期の芥川賞候補作で唯一読んでいなかった作品なので、これが取ったらどうしようもないなと思っていたら、結局この回は受賞作無しに決着したので、自分的には何の責務も負ってないにも拘らず危難を逃れたつもりでいました。ただ、受賞作無しのなかでも本作は評価が高かったのでなんとなくその後も心残りで、単行本にもなっていた由縁、この前ふらっと図書館で借りてみました。

彼の本は今まで読んだ事がありませんでした。

出だしから言葉選びが丁寧で、舞台となる下町の浅草や場末の温泉郷の雰囲気をきちっと踏まえている文章が貫徹されていたので、作品の空気に馴染みやすく読み進めることができました。特に彼の文章が作り出す浅草の風景は田原町の駅を出たところから自分がそこを歩いているかのように音や匂いが伝わり、それが媚びる様でもなく妙に凝った違和感もなく、控え目ながらまさにそのままを味わっている雰囲気にさせてくれました。物語の展開としても余計な寄り道をせずスムーズに流れ結果として終いまで作品のつくる雰囲気を味わえるように出来ていたと思います。

とある劇作家がふとした事件に巻き込まれ、場末の温泉郷に住み込みでストリップの前座をやる事になり、そこでの人間関係を通じて自分を見つめるきっかけとなるというような物語の展開は文学作品としてはありふれ過ぎたと言ってもおかしくないものではありますが、一人称で的確に様々な物や場所心理を等身大で描写するこのオーソドックスな作品の成り立ちには、それ故の難しさがあるのですが、それがどっしりとした安定感になっていた部分には作者の腕を感じます。
主要な人物の一人、踊り子の祖母でオーナーのような存在のルリ婆さんという人が物語の終盤で亡くなりますが、それが物語に哀愁を帯びさせる以外の効果を発揮できていないのが少し残念かと思います。
あと、踊り子と一人称の俺の関係の接近もクライマックスにみられますが、これも書き手の戌井氏が劇団員という甲斐性から作った物語の浮き沈みの一つなのでしょうが、あまりうまく機能してるとは思えませんでした。

この作品を評価するとなると、どうしても過大に評価してしまいたくなる部分があり、もちろんそれも可能だと思うのですが、その場合は実物のつくる作品感との齟齬は止むを得ず、そのような事から票は伸びても芥川賞には届かない作品という結果になったと思います。

今村 夏子『こちらあみ子』を読む。

小学校から中学の卒業までの「あみ子」というひとりの女の子について描かれた物語。

そのあまりに純心で無垢ゆえの「あみ子」の言動は、周りにいる両親や兄・クラスメイトを常に傷つけ、悲しみの底に落とし、挙句の果てに遠ざけてしまう結果になってしまうのです。それでもあみ子は構いません。
いつでも真っ直ぐに生きるあみ子の「こちらあみ子」という投げかけに、返答する声は果たしてあるのか。
デビュー作で太宰賞と三島賞をダブル受賞した異色の物語、必読です!

映画 「村上春樹『風の歌を聴け』」(1981年製作の映画)

村上春樹の処女作「風の歌を聴け」の実写化作品。

ストーリーとしては原作に沿って作られているけれど、部分的に映画オリジナルの場面も加えられている。

はっきり言って映画として前衛的で実験的な作風だから好き嫌いは大きく別れると思う。

原作に思い入れのある人は、配役、特にジェイと鼠に対して激しく不満を持つかもしれない。

けれど、それはかつて村上春樹と同窓生であった監督の、極めて現実的で、とてもリアルな描写なのだろう。

作品の完成度は決して低くない。

一見の価値ありというより、見返すと価値を再発見することが出来るタイプの良い作品だろう。

ちなみに小指のない女の子役の真行寺君枝は村上春樹の短編集「カンガルー日和」のタクシーに乗った吸血鬼で血の美味しそうな女優にその名をあげられていた一人である。