メモ書き『サリンジャー的、サルトル的ーあるいは村上春樹と柄谷行人、ポストモダンの文学精神』

本稿では、20世紀の米文学界を代表する作家J.D.サリンジャーとフランスの哲学者・思想家で作家のジャン=ポール・サルトルの作品・作家および日本における受容と影響を比較することを通して浮かび上がってくる日本文学の思想・精神史を読みときたい。 Ⅰ. サリンジャー的、サルトル的 〈サルトルの倫理、サリンジャーの倫理〉 Ⅱ. サルトル的ー超越へと駆動する力   (三島由紀夫、大江健三郎、吉本隆明、柄谷行人) 〈三島由紀夫の場合(時間)ー行動の究極地点、テロリズム〉 〈大江健三郎の場合(空間)ーサルトルとの対話〉 〈吉本隆明(空間・時間)・柄谷行人(空間)の受容と差異〉 〈サルトルの倫理〉 Ⅲ. サリンジャー的ー自己修復の物語   (村上春樹、村上龍、高橋源一郎、加藤典洋) 〈サリンジャーーイノセント&フラジャイルな作家〉 〈三つの翻訳、三つのサリンジャー〉 ・α.戦争神経症的なサリンジャーー『危険な年齢』〉 ・β.分裂的なサリンジャーー『ライ麦畑でつかまえて』〉 ・γ.解離的なサリンジャーー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』〉 〈ポスト全共闘のサリンジャー革命からのロスト〉 ...

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人文の終わり/批判的であること – マルクスからスティーブ・ジョブズへ –

先日、ワシントン・ポストの記事にウィスコンシン大学が人文学と社会科学の実質ほぼ全てともいえる13のコースを廃止するというニュースがあり衝撃を受けた。 A University of Wisconsin campus pushes plan to drop 13 majors — including English, history and philosophy 大学には経営と予算、学生の集客の課題がある。そのため、より予算が付きやすく、より学生が集まりやすい、就職やキャリアにつながるような実学的な学部を増強し、予算が付きにくく学生の集客力の弱いリベラル・アーツ系の学部は廃止したほうがビジネスとして合理的であるという判断である。 背景として、アメリカは学生の奨学金返済問題が深刻だという問題もある。 他方で、保守的な共和党から影響を受けている部分も大いにある。 ウィスコンシン州知事であるスコット・ウォーカーは2015年にウィスコンシン大学の理念を秘密裏に変更しようとしたということである。 その内容はこうだ。 by removing words that commanded the univ...

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映画『リバーズ・エッジ』を観る。

現在から当時を遡行しつつ若者の心理を描いた作品として良かった。 ケータイ(PHS)の普及以前(1995年PHSサービス開始)、インターネットの登場以前(1995年が日本におけるインターネット元年といわれる)、オウム事件以前(日本社会のうわべとその精神病理が暴かれた1995年)の物語。 僕は近年のある種の映像には生々しさが欠けていると感じていたのだが(ここでいう映像はアダルトな意味でのAVも含む)、『リバーズ・エッジ』の映像には生々しさがあった。そこには、デジタルやPhotoshopやフォトジェニック以前の生々しさが描かれていた。生のコミュニケーション。生きてる感じ。 80年代は浮かれた時代だったと言われる。『なんとなく、クリスタル』、ポスト・モダン、MTV。 しかし、90年代、世相は大きく変わる。消費社会の神話と構造、社会システムのマンダラが切り裂かれ、破壊的な人々の生の感情(生と死が隣接したものであるというヒリヒリした感情)が溢れ出た時代だった。 当時は現在よりも清潔でない時代だった。川は臭く、タバコはポイ捨てし、空き缶を川に投げ入れた時代。公害やオゾン層の破壊が問題として語られた時...

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〈ガチャ-資本主義-ゲーム〉- 価値とルール –

ガチャ-資本主義-ゲーム ガチャという無からの価値創出の生成魔術とその呪術性やばい。 — COMA (@Factory_COMA) 2018年3月13日 ソニー、アニプレックスfgo ガチャで売り上げ年900億。ソニーの株があがる要因に。ガチャはソニーを救い日本を救う — f.g sweet (@mysweetmoon1983) 2018年3月14日 やばい経済効果ですね。日本経済を支え、回す人々を救済するガチャ。問題は、これが貧富の差と資本階級による搾取を助長するアヘンであること。他方で、人々がマテリアルのないシンボルや記号をここまで愛するようになったのは面白くて、貨幣の持つ絶対的な呪術性が相対的に低くなるようにも。 — COMA (@Factory_COMA) 2018年3月14日 ほら、仮想通貨だってもう価値をもってるし。仮想通貨のマイニングだってガチャ回すのと似たりよったりですよ — f.g sweet (@mysweetmoon1983) 2018年3月14日 仮想通貨の価値は、交換価値なので実際には自分のところに戻ってくるある...

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哲学 – 賭け – 愛するということ

パスカルは神の実在に賭け、アインシュタインは神はサイコロを振らないと言い、カエサルは賽は投げられたと行動し、ハイデガーやサルトルは企ての中に身を投じることをエンドースした。 哲学的な認識と実践のあいだには決定的な亀裂があって、それらは二元論的に制御すべきで一元論的に統合することは出来ない。 しかし、認識と実践のあいだにある飛躍、死を覚悟した跳躍というのは? それは、まさに賭けというものなのではないだろうか。 賭けは、人間にとって強烈で不思議な魔力を持っている。ギャンブラーであれば、赤のカードが5回続いた次には黒が来るのではないかと流れを感じ取ってしまうはずだ。 奇妙な話ではある。確率的にいえば、これからの出来事とこれまでの出来事には因果関係はない。しかし、人はそこに流れを見出してしまう。あたかも、ヒューム的な違和感というか、有らぬものをあたかも有るかのように感じるのだ。 ある意味では、人生自体、賭けと言えなくもない。もちろん、僕らはディーラーではないからほとんどの場合には、はじめから負け戦だけれど。 他者を愛するということも賭けである。 僕らに、彼女らの気持ちは解りえない。応えてくれる...

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西洋コンプレックスとアジア的意識 – 近代/一神教/自由の意味 –

最近、アジア的なものに関心がある。 基本的に自国や他国に対する強い思い入れはないのだが、なぜアジアについてとらえ始めたのかと考えているうちに、自分の中に強い西洋コンプレックスがあるのではないかと気づいた。 アジア人として生まれたことに対する、非西欧的であることへのコンプレックス。 一見すると、かなり奇異なことを言っているように思われるかもしれないが、やはり現在の世界は西欧中心の価値観で構成されていると考えていいのではないだろうか。 世界的なグローバル化はある意味で文化的なアメリカナイズという側面が強く、世界中どこへ行ってもある程度の都市ではSTARBUCKSやMcDonaldやGAPの店に出会うだろうし、道行く人々の手の中にはApple製のiPhoneかGoogleのAndroidのスマートフォンが握りしめられている。彼らが休日を過ごすのはローマ-イギリス-アメリカ起源のショッピング・モールだし、日記代わりに記録を残していくのはシリコンバレーで開発されているFacebookやInstagramやTwitterにである。 精神的にも経済にも、マックス・ウェーバーが語ったところの西洋におけ...

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アイデンティティとナショナリズム

人間には否応なく認めざるを得ない暴力性というのがあるのではないか。 それは、ある種アイデンティティの維持と関わるものだと思われる。 暴力性は、他者を攻撃したり人を支配するという欲望と同質のもので、特に自己の危機において顕著に立ち現れる。 批評空間の「明治批評の諸問題」を読んでいる。 そこでは、日本語の言文一致はむしろ根本的に翻訳が起源だと書かれている。 二葉亭四迷のツルゲーネフ翻訳や漱石の翻訳的言文一致的な文章が起源だというのだ。 言文一致とナショナリズムは大きな補完関係にある。 ナショナリズムについて書かれた著作には、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』がある。 そこによれば、ナショナリズムが起因する近代国家〈ネーション〉は、成員が「共同幻想」を共有することによって成立するとされている。 アンダーソンは近代国家〈ネーション〉成立の要因を出版資本主義の発展に求め、新聞が〈ネーション〉の公用語の普及に大きな役割を果たし、世俗語の言文一致をあまねく至らしめるとともに「想像の共同体」の形成に大きく寄与したとする。 翻って日本の言文一致の起源を考えると、言文一致の翻訳起源を否定するよう...

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日本語のエクリチュール/パロールと中国語

少し遅れたが、すでに、2018年がはじまっている。 個人的には、今年、少し語学を学習しようと考えている。 これまでの興味の対象は概念であったが、ある種の言語的転回(展開)が沸きあがってきたというところだろう。 昨年わずかに英語・中国語・PHPを学習しはじめたが、今年はそれをどれだけ蓄積できるだろうか。 ところで、中国語を少し勉強してみて、とてもよくわかったのは、むしろ日本語についてで、日本語は書き言葉(エクリチュール)と話し言葉(パロール)がまったく別の流れを持った別々の言語だということ。 日本語と中国語は、漢字という共通の基盤を持つためエクリチュールは眺めればかなり内容の想像がつく。 しかし、にもかかわらず音声言語においては、相互に輸出入された単語はあるが、基礎的な音からまったく異なっていて学習しなければ聞き取ることができない。 考えてみれば、日本語は古代の漢字の輸入以前からあったわけで、音声言語としては別の流れにあるわけである。 中国語は構造的な性質を持ち、日本語は叙情的な性質を持つ。 古代、日本に輸入された頃から漢字は官僚機構によるシステム運用にりようされた。これが日本の書き言葉...

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現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』

2017年も残りわずか数時間となった。 今年は近年稀に見る激動の年であった。 アメリカではポピュリズム的な現象を背景にトランプ政権が発足、フランスではマクロンに敗れたがマリーヌ・ル・ペン率いる国民戦線が躍進。 ヨーロッパでは、イギリスのメイ首相がEUに離脱を通知、スペインのカタルーニャ地区は独立を宣言した。 中東ではイスラム国は事実上の崩壊。 しかし、アメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定したことから多数の抗議活動が起きている。 アジアでは、フィリピンのドゥテルテ大統領が麻薬撲滅キャンペーンを実施し超法規的殺人が行使され、マレーシア・クアラルンプール空港では北朝鮮の金正日総書記の長男である金正男が暗殺され、ミャンマーはかつての民主化運動の旗手アウンサンスーチーによる新政権のもとロヒンギャは混乱に陥っている。 そして、日本では飛翔体が定期的に飛び越えている。 他方、経済面は数値の上ではバブルとも思える好調であった。 世界的に各国の経済は軒並み好調、日経平均もかつて1992年のバブル崩壊前の水準に上昇。 また、仮想通貨の価格は10倍にも100倍にも高騰した。 そのよう...

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「デザインフェスタvol.46」を訪れる。

「デザインフェスタvol.46」を訪れる。 日本人はシステマティックな抽象化された理論的思考のようなものが不得手とされているけれど、ある種の手芸や工芸のような領域では強さを発揮するような感じがあった。 近年のあいだに、オブジェクトという現代思想の潮流が話題になったけれど、これはある種の汎神論的な日本的精神にも接近するところがある。 モノに何かがあるという感じかた。 そのようなモノへの愛着、モノとの関係というものがデザフェスにはあった。 日本人の世界観は西洋のような創造主が構築した世界ではなく、生きた世界がまずありそれら細部に精神が宿っているという考え方だ。 それが人とモノとの関係を可能にする。 デザフェスでは一方で工芸品・手芸品のような細部まで丁寧に作りこまれたものがあり、他方ではキャラクターやイラストが多く展示されていた。 キャラクターは、少女・動物・ロボット・奇怪なもの様々だ。 ある意味それらはなんらかのシンボルなのだろう。 不思議なのは僕らがキャラクターに愛着を持ち、ある場合には恋心さえ抱くということだ。 そして、そのような愛情が製作活動や収集へと人を駆り立てる。 日本人がやるべ...

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『三度目の殺人』と僕らのエチカ

是枝監督の映画『三度目の殺人』は、真実はどこにあるのか?それを問うこと、真実から目を背けないことが描かれている作品であった。 だからこそ、エクリチュールとして法治国家の欺瞞的なヴェールをぬぐい去るところがあった。 他方、こうも思った。 僕がティーン・エイジャーの頃にこの映画と出会えていればと。 だが、理解できなかっただろう?そうかもしれない。 けれども、中高生や法学部に受かったばかりの学生に『三度目の殺人』を見てもらうのはアクチュアルな意味で教育的な価値があると思うのだ。 それはある意味でリーガル・マインドを捉えることであるし、エチカを理解することにつながると思う。 もし、彼らに語れるのであれば、僕は語るだろう。 僕自身は、真実やイデアや実存にこだわりすぎて、永遠的な完全な瞬間を求めたロカンタンのように何かを台無しにしてしまった気がしているから、老婆心として。 みんな、ごく自然に常識や正しさがあると思って生きているね? だけど、現実にはそんなものはないわけだ。 複雑に絡み合った中で、それぞれ取引があって成り立っている。 世の中は嘘に満ちている。 この現実というのはそういった嘘でできたフ...

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フランス人間国宝展を観る。- オブジェの魔力 –

上野の「フランス人間国宝展」を訪れた。 フランス人間国宝展 http://www.fr-treasures.jp/ プレスリリース http://www.fr-treasures.jp/image/press_release.pdf 僕は、はっきり言ってブルジョア的な世界観を嫌悪するし理解できない傾向がある。 けれど、文化の国,絶対王政の国,カトリック色の濃いヨーロッパの中心国としての彼らの作るオブジェはたしかに人を包み込むような美しさを持っていた。 流線による曲線のフォルム、流麗な趣き、光の反射とともに漂う神秘性。 入念に加工の施されたその表面の繊細な美しさは〈神〉による自然の創造を思わせる。 その技術は〈神〉の模倣だろうか。 そして、表に見せる美しさの裏に充満されたエロス。 芳醇に香る官能。 それこそが、人を支配する魔術か。 つい、忘れがちなのだけれど、オブジェが持つフェチズム。 人は、物に、エロスを感じてしまうという事実。 物神崇拝。 人〈理性〉は物から自由になることはできない。...

映画『三度目の殺人』を観る。-『地獄の黙示録』あるいは反転のソクラテス –

『三度目の殺人』を観る。そのモティーフは、あるいは『地獄の黙示録』の変奏のように響く。 そこには真実から目を逸らして欺瞞に満ちた世界を生きることへの批判が通奏低音として流れている。 役所広司演ずる犯人は、カーツ大佐、あるいは反転した裁かれるソクラテス〈ニーチェ〉。 福山雅治演じる弁護士は犯人にこう呟く。「あなたは器?」その空虚、無意味さは、実存的な『地獄の黙示録』と関わるところにある三島由紀夫の『豊饒の海』と重なるものがある。 あるいは現代社会/法治国家における存在の忘却、その欺瞞性を暴くものでもある。 ‪満島真之介演ずる部下のギャルソン精神。‬ ‪「生まれた意味のない人間などいない!」と叫んだ時の、あの歪んだ勝ち誇ったような表情。溢れるヒューマニズム。吐き気だ。‬ タイトルの『三度目の殺人』は、存在を忘却した欺瞞的法治国家による死刑を意味するところか。誰が、誰を裁くのか?本当のことには意味がないのか?意味がないとすれば、誰に誰を裁くことができるのか? 法治国家における価値・意味の最終審級としての司法。その欺瞞。何たる傲慢!何たる破廉恥!何と醜悪な恥知らずだろうか!? 広瀬すず演ずる少...

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『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて –

時代が大きく変化している情況において、より大きな動きが見られるのはもっとも開発されもっとも進んだ先進国ではない。 むしろ、ある種のつまずきを抱えてその遅れを取り返そうとしている国において、大きな動きが見られる。帝国主義時代のドイツ・ロシア・日本がそうであったろう。 そして、今のロシアはまた同じようにつまずきを抱えて、それを乗り越えようとしている。 であるならば、これからの21世紀の相貌の一端がまた見られるのは、ロシアの現代思想からなのかもしれない。 現代思想としての哲学は、20世紀に取り残された1つの課題を抱えている。 それは、しばらくのあいだ忘れ去られていた課題、「近代の超克」の問題だ。 思想史的な現代の情況をみたてると、ヒューマニズムにより近代を超克しようという熱病が再燃しているのが現在だろう。 近代哲学の完成がヘーゲルだというのは意見の一致するところだが、そこからの超克を目指して19世紀後半から20世紀前半に展開されたのがニーチェやマルクス,ハイデガーやラッセルなどいわゆる反哲学=現代思想としての哲学だった。 19世紀の近代化された世界は問題を抱えていた。 それを乗り越えるために...

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『サルトルの世紀』から考える。 – ハイデガー問題メモ –

『サルトルの世紀』という本を読んでいる。 サルトルと20世紀、その時代と思想について書かれた本だ。 注釈を抜いて全体で800ページ、まだその3分の1程度を読んでいる段階なのだが、第1章「世紀人」の末は50ページばかり「ハイデガー問題メモ」としてハイデガーの思想とその問題について描かれていた。 ハイデガーについてのテクストを読んで思うのは、ハイデガーの思想のその危険性というのは両義的であって、その危険はむしろ僕らが求めなくてはいけないところにあるということがある。 それは、本来的なあり方・非本来的なあり方という考え方だ。 三島由紀夫は昭和45年に以下のような文章を残している。 「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」 三島由紀夫もまた本来的なあり方を求めた作家だった。 ポ...

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映画『ハンナ・アーレント』を観る。

誰もが見るべき作品というものがある。 これは、そのような作品だ。 ナチ高官の裁判とそれを傍聴するドイツ系ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントを描いた映画。 だが、これはあるべき裁判だろうか?被害者としてのイスラエルのモサドが被告を誘拐して絞首刑にする? 400万人〜600万人のユダヤ人を死に追い込んだ行為。死刑は当然か。 しかし、それは当人の意思によるものではない。それを、誘拐して死刑を宣告する。 果たして、それが正義だろうか? 被害者と加害者、中立な立場であろうとする者が見る世界がそれぞれどれだけ違うものなのか。 世界は、僕らの意識の外に、客観的な世界を備えているわけではない。一人ひとりが、その立場により、まったく異なる世界を見ている。 少なくとも、客観的に捉えようとすることができるのは、尋常ではない哲学者だけである。それは冷酷無比なものの見方だろうか?被害者の気持ちを踏みにじる行為? 同じ哲学者の映画でも『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』のようなロマンティシズムはまったく見られない。 同じユダヤ人の友人たちはアーレントによる裁判傍聴の記事が公開されると、苛立ち怒り離れていく。 アー...

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〈都市教養〉というキーワード=コンセプトについて

よくわからない名称の大学や学部というのがある。 例えば、首都大学東京にある「都市教養学部」がそうである。 「都市教養学」とは何か?あるいは「首都大学東京」という名称をファルスのように感じる人もあるかもしれない。 これは都政の改変にもとづいてつけられた名称だ。その名称には疑問の声も多い。 そして、今現在、それらの名称は変更が検討されているという。 しかし、あらためて現在という時代を眺めてみれば、今の時代に本来的に必要なのはまさに〈都市教養〉というキーワード=コンセプトではないだろうか。 そして、これは学的な分野ではなくもっと普遍的に志向されるべきキーワードだろう。 「教養」とは?それが社会に出た時に役にたつだろうか?経済性は? 「教養」という言葉自体、すでに批判の対象だろう。 古典的な「教養」が古くさいもの,ホコリを被ったもの,無用の長物,賞味期限切れ、これは確かにそうだ。自明である。 必要のない役に立たない教養こそ重要だという議論など欺瞞に過ぎない。 では、「教養」は不要なのか?そうではない。 もし、行動や信仰をむしろ良きものとする反知性主義の道を選択するのであれば、僕らは20世紀から...

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存在探求のためのメモランダム/言葉をめぐる冒険/浮遊への逃避行

存在探求のためのメモランダム ハイデガーの『存在と時間』を手にしている。 古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することをめざしている。 ハイデガーは言う。「哲学や形而上学の本来問うべき問いは『存在とはいかにあるのか?』ということである」と。 けれども、これは単に論理形式上あるいは実体化された「有・無」や「揺らぎ」としての「存在」ではない。 むしろ、「在り方」への問いであるし「有意味とはいかなることか?」という問いである。 もし神がいないのならば、全てが許される。 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』イワンの台詞だ。 もし神がいないのなら 実存が本質に先立つ。 このような言葉でサルトルは語った。 あるいは三島由紀夫の「豊饒の海『天人五衰』」のラストシーン。 しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば……それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。…… 近代はルネッサンスの人文復興が嚆矢となり、神との決別からはじまった。 しかし、だからこそ、デカルトは神の存在証明を行なったし、カントは理論理性によってはいかなる方法によ...

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「幽霊的身体」から考える – 『ゲンロン5』「視覚から指先へ」 梅沢和木×東浩紀 トークショーを観る。

青山ブックセンターでのゲンロン5の幽霊的身体イベントに参加した。 『ゲンロン5 幽霊的身体』は、演劇や絵画など表象文化論をテーマにした本であった。 イベントでは、梅ラボの梅沢和木さんと東浩紀さんによるトークが聞けた。 話題の中心は、身体というよりは視覚であったかもしれない。 いや、むしろ、僕はそのような視点での解釈をして、会場から楽しみを得た。 視覚について 東さんは、視覚がその物質的な速度の影響などもあり他の感覚器とは異なるという話をし、加えて視覚は多く脳により補完されているという話をしていた。 視覚が他の感覚器と異なる、特別な感覚器であるというのは、どういうことだろうか。 それは、フッサールの志向性と関わるものだろうかと感じた。 たしかに、視覚は状況を静的に受容しているわけではなく、フッサールのいうところの志向性から対象を捉え、その後対象から得た印象を1つのゲシュタルトとして表象に描いていく。 それは、単に(経験論的に)外部の刺激を受容しているわけではなく、むしろ描くべきものを選択し表象を形成しているといえるのかもしれない。 また、哲学的に視覚は大きな意味があるという話があった。 ...

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左右対立のねじれについて ‐ あるいは革新右翼,ハイデガー,三島由紀夫 ‐

昨晩の、『安倍離れ?内閣改造について言いたい事を言う生放送 《東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗》』ニコニコ生放送を観た。 それはともかく、そこで夏野剛さんが、”右翼と左翼の言説が反対になっている” “右翼が改革を目指し左翼が保守的になっている” という〈左右対立のねじれ〉を問題にして、いかにして勢力図式はこう変更されたのかという問題提起をしていた。 たしかに、それはそうだ。右翼=保守,左翼=革新というのが一般的な見立てである。 番組の中では、1960年代や1970年代における新左翼の運動や冷戦構造の転換を通して、その勢力図式が塗り替えられたと語られていた。 しかし、ここでは別の側面から、この〈左右対立のねじれ〉について、あるいは〈それ以後〉について捉えてみたいと思う。 それは、大正~昭和に興隆し展開した革新右翼をとおしてある時代の流れを捉えるということかもしれない。 現在からおよそ一世紀前に、革新右翼というものが登場した。 代表的な人物としては、後にイスラーム研究者となった大川周明や『日本改造法案大綱』を記した北一輝などがいるだろう。 ...

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2017-7月のメモランダム

7月1日 今日は高尾山で木の根を見つめながら、リゾームとツリーは別個なものとして対比されるべきものでなく不可分でそれらが総合されたところがネイチャーであると謎のインサイトを受けた。 7月2日 コカ・コーラが好きだ。 フタを開ける時の音の響き、香りや炭酸の刺激、夏の爽やかな海岸やクリスマスのホーム・パーティのイメージ、夏期講習の帰りに自販機で買って飲んだ記憶、スノーボードのゲレンデで飲んだ記憶。 僕は「生産」や「労働」よりは「消費」の方が好きだ。 そこにはマテリアル感、身体性、シンボル、物語性、記憶、文化的なもの、ライフスタイルとの一体感が総合されていると好ましい。 社会性(他者との関係)の中での、承認の獲得,アイデンティティの確立,あるいは上位ヒエラルキーへの指向を目的とした消費は好きではないし、そのための「表象の操作」や「シンボルの獲得」のための消費というのは難しい問題。 原則としては、人は快楽のために消費すべきと思うし、それは文化的かつ身体性に根ざしたものだといいというのが僕の個人的な偏見。 快楽=「何かがステキだ,楽しい,クールだ」と感じることであるとする。 他方、「何かがステキ...

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オブジェ化する「本」とフォトジェニックな空間の時代性について – Instagram,SNS,ライフスタイル –

19世紀はリアリズムの時代であったが、技術・美術的な側面においてはカメラの誕生と写真文化の繁栄のはじまりであった。カメラは、瞬間の現実を切り取り氷結する装置であった。 一方、PhotoshopやSNOWにより現在は写真が加工される時代となった。それは現実ではなく、夢想の具象化だ。 今年開業したGINZA SIXを訪れた。 「Life At Its Best 〜最高に満たされた暮らし〜」をコンセプトにした、銀座の国際的な商業空間。 空間を彩る草間彌生の現代アートと、日本文化とアートを結節するという蔦屋書店が特徴的であった。    しかしながら、“最高に満たされた暮らし”とは何だろうか。 また、アートと暮らしはどうつながるものなのだろうか。 あるいは、本は電子化が進んでいるけれども、紙の本の存在や、商業施設における書店の意義はなんなのだろうか。 そして、最先端の商業施設は、僕らの時代の何を象徴するものなのだろうか? オブジェ化する「本」とフォトジェニックな空間の時代性について まず、ポストモダン以降の本〈テクスト〉と社会の関係性(構造)を考えてみる。すべてのテクストはコピー&ペース...

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千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』を読む。

『勉強の哲学』を読んだ。 思った以上に好きなテーマが扱われていたように思う。 また、佐々木敦の『未知との遭遇―無限のセカイと有限のワタシ』に繋がるところが結構あった。 そちらも、勉強の際限なさに対して有限性を活用することから始まっていたから。 「環境のノリ」が言語による刷り込みなら、勉強とは違う言語を使えるようになることだろうか? 言葉は環境のコードに規定されるが環境のコードは言葉でできている。 違う何かになる方法は使う言葉を変えることだ。 違う言葉遣いの界隈(=ノリ)へ参入し、聞きなれない言葉を異物感を味わいながら使ってみる。 その時、言葉の他者性・物質性に(改めて)気付き、別の可能性が開けてくる。 しかし言葉はあくまで環境依存的なものだから、あるノリから別のノリへと転身し続けなければならない。 そんな絶え間ない自己解体をこの本では「勉強」と定義する。 その中で、「アイロニー」と「ユーモア」というキーワードが提示される。 「アイロニー」とは、ツッコミ・縦軸・深掘りを意味する。 そして、行き過ぎると現実それ自体という不可能という極限に突き当たる。 「ユーモア」は、ボケ・横軸・言葉のずら...

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映画『アルタード・ステーツ / 未知への挑戦』~ 知覚の扉の先にあるもの ~

ヒッピーやビートニクにあこがれていたことがある。 社会〈ソサエティ〉の外にある、ある種の超越的な何か。 それは、イデアか実存か、あるいは剥き出しの真理のようなものだろうか。 そんなものを、自らの目で見つめてみたいと思っていたし、触れてみたいと思っていた。 20才前後までの話だ。 今思うと不思議なのだけれど、当時の首都大学東京の都市教養学部には、不思議なコミュニティ感があった。 ガラパゴス式の携帯電話とiPodClassic、あとはアレン・ギンズバーグの詩集やジャック・ケルアックの『地下街の人びと』の文庫あるいは村上春樹や伊坂幸太郎の小説だけを持ってキャンパスに通い、テラスに集まっては、みんな気分が悪くなるまで煙草を吸っていた。 みんな痩せて咳ばかりしていたが、服だけはお金がかかっていた。コム・デ・ギャルソンやZUCCaなどのDCブランドや、ジル・サンダーやBALLYのインポート、古着屋のビンテージや、アレクサンダー・マックイーンやジョン・ガリアーノなどのハイ・ファッション。 解放区のような、どこか現実離れした空間だった。 そんな雰囲気があったからかもしれない。 当時の僕は自由な空間の中...

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『ゲンロン5 幽霊的身体』を読む。

『ゲンロン5 幽霊的身体』を読んでいる。 個人的に「幽霊」・「身体」というキーワードには以前から興味があった。 それは、20代のあいだずっと「絶対」の存在と可能性(「絶対」が成立し得ないことだけが絶対的に存在するという現実をどう捉えればよいのか)について思いを巡らしていたからであるし、またオルダス・ハクスリーやティモシー・リアリーやジョン・C・リリーのような言語的論理の外部に興味を持ち続けていたからだ。 ところで、自分の見立てとしては「幽霊的身体」というのを考えてみると、それはある種の弁証法への反省と再度の実践を踏まえた話ではないかと思う。 たとえば、ユートピアを目指した左翼が連合赤軍みたいなところに行き着いたという現実があった。そこにはテロルの現象学のような課題があった。それに対置する形でアソシエーションやマルチチュードが提起されたが、しかしそれは否定神学的な概念だから有効性を持たないため、ある種の「存在の揺らぎ性」を基盤にした思想が必要なのではないかということだ。 それはこう言いかえることもできて、アドルノの否定弁証法のように近代の啓蒙理性はその理想に反してその極で非人間的なもので...

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僕らが旅に出る理由 – 日常の外の日常 –

僕らが旅に出る理由はなんだろうか? とはいえ、旅にも色々あるかもしれない。 ある意味、旅はある形での自由(自我の拡大)の追求だろう。 ヘーゲルの絶対精神の弁証法の旅やゲーテの自由を求めるビルドゥングスロマン、コリントスから逃れたオイディプスの悲劇の旅。 他方、旅は他者との邂逅や出会いと別れ、ヒューマンを感じるものかもしれない。 東浩紀の「観光客の哲学」や川端康成の「伊豆の踊り子」、あるいは市川崑の「木枯し紋次郎」「股旅」。 僕は以前から「旅」「旅行」「観光」といったキーワードには違和感を持ち続けていた。 そこには、ある種の憧れと軽蔑、アンビバレントな感情があった。 なぜ、旅をするのか?目的は何か?何をどう楽しむものだろうか? そもそも、社会人の男性をターゲットとした旅の目的地はあるのだろうかという疑問(風俗や酒場は別として)。 あるいは、物理的に移動する意味はあるのか?旅行とインナートリップはどちらがより遠くまで行けるのか。 しかし、5月は思いがけずに何度か遠出をした。 香港・マカオへの旅行、ブラジル街大泉町の散策、伊豆大島の旅行、御岳山登山。 住めば都というが、出れば旅も悪くない。 ...

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『かもめのジョナサン』を読む。

『かもめのジョナサン』を読んだ。 きっかけは、ふとしたことだ。YouTubeでミュージック・ビデオを流していると、ある動画が再生された。 それは1970年代をイメージした映像だった。 そこには時代を象徴するシンボルが映されていた。 フォークソング、喫茶店、コーヒー、ナポリタン、かもめのジョナサン。 『かもめのジョナサン』は、1970年代に世界的に大ヒットした小説だ。特に、ヒッピー文化に影響を与え、後にニュー・エイジやオカルティックな精神世界や自己啓発にも影響を与えた。 有名なところでは、オウム真理教の信者であった村井幹部は、「かもめのジョナサン」の心境になって出家をしたといわれている。 たしかに『かもめのジョナサン』は宗教的な要素のある作品だ。 しかし、思えば、それは宗教よりもその少し前の若者に影響を与えた『あしたのジョー』に似ている。 ジョーは燃え尽きた。真っ白な灰になるまで。そんじょそこらの不完全燃焼ではなく、真っ白に燃え尽きた。 「われわれは、“あしたのジョー”である。」 赤軍派(あしたのジョー)から、オウム(かもめのジョナサン)へという時代の流れが予見されていたのかもしれない。...

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『ゲンロン0 観光客の哲学』を読む。

『ゲンロン0』を読んだ。 『ゲンロン』は、東浩紀氏監修の批評雑誌であり、『ゲンロン0』はその創刊号である。 また、『ゲンロン0』は東浩紀氏の集大成的な哲学書である。 本書の副題は、「観光客の哲学」である。 これは、ある意味で柄谷行人氏の『トランス・クリティーク』の理論の更新ではないだろうか。 本書にはナショナリズムとグローバリズムに分裂した、2017年現在の状況をどう捉えるか、いかにわれわれは思考し行動すべきか。そう問うための、ビジョンが描かれている。 本書の核心のひとつは、現代のわれわれはモダンとポスト・モダンのふたつのレイヤーの中に生きていると捉えていることである。 現代の僕らの文化は、西洋近代の発展に大きな影響を受けている。 それは決して超克されてはいない。 しかし、1970年代以降のポスト・モダンの興隆と1990年代のソビエト崩壊以降、僕らはあたかも近代後の現代に生きていると考えているところがある。 モダン(近代の絶対的なツリー状の文化)はポスト・モダン(相対的なリゾーム状の文化)に転換されたのだと。 これらの展開を東浩紀氏は、モダンとポスト・モダン、アメリカ政治思想のコミュニ...

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なぜ、音楽はデジタルであっては、十分ではないのか。

なぜ、音楽はデジタルであっては、十分ではないのか。 それは、音楽の本質によるものだ。 音楽はつねに超越を希求し体感するものであり、聴くものにとっては超越性との合一が快楽となる。 それは、現象からの解放であり、意識を溶解させ音楽の流れに身をまかせることだ。 では、なぜ、音楽は超越を希求するものなのだろうか。 音楽の役割は、経験的日常からの解放であり、日常を超えたところを体感することにあるからだ。 現実をある種の意味で否定し、超現実を体感すること、それが音楽を聴くことの意味だろう。 音楽が超越を希求してきたことは、キリスト教やインド哲学やチベット密教や浄土教の残してきたものを見れば明らかだ。 神の絶対性や神への愛を表現するものとして、すべてを包み込むような賛美歌があり、バッハの旋律があり、主への歓喜としてのベートーヴェンの第九がある。 あるいは、輪廻転生する生命体のブラフマンへの合一として、インド哲学やチベット密教における身体的な発生音としてマントラの音律があり、浄土教の極楽浄土への夢想として念仏や鳴り響く鐘の音があるのだ。 しかし、現在の音楽マーケットでの音楽は、そうではないといえるだろ...

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レコードやカセットで音楽を聴くこと、その意味 – ゆらぎ性と物語 –

村上春樹の『騎士団長殺し』を読み、その中で音楽を聞くことの描写に関心を抱いた。 それは、主人公や友人がレコードやカセットテープといった時代遅れのメディアで音楽を聞くことが描かれている点である。 村上春樹は、そこに(”時代遅れのメディアで音楽を聞くこと”)どんな意味を込めて描いたのだろうか。そう感じたのだ。 ここ数年、レコードの復権やカセット・リバイバルがささやかれてはいる。 しかし、今さら、時代遅れのレコードやカセットテープで音楽を聞いてどんな意味があるのだろうか。 そこには、僕らがいつの間にか失ってしまった何か、なくしてはいけない何かがあるのだろうか。 あるいは、レコードやカセット・テープで音楽を聴くというのは、ある意味何らかの価値観の提示・アティテュードの表明だろうか。 では、それはどのような価値観・アティテュードの表明なのだろうか。 そして、最近、僕自身思わずカセット・プレイヤーとカセット・テープのライブラリを購入してしまった。 これはどんな意味を持っているのだろうか。 ■ ゆらぎ性を持つレコードやカセット・テープの音の響き まず、カセットについていえば、...

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