村上春樹『騎士団長殺し』を読む。~ イデアとメタファーと、ポスト・トゥルースのその先へ ~

自分の好きな作家について語るのは難しい。 また、偉大な作家の作品に不要な批評を書くことは愚行かもしれない。 にもかかわらず、文章を書きたいと思う。 村上春樹の『騎士団長殺し イデア篇/メタファー篇』を読んだ。 いうまでもなく、傑作だったといえる。 もしかしたら、村上春樹の最高傑作といえるようになるかもしれない。 まず、視覚的な絵画を小説のなかで描いたこと挑戦的な試みだったといえる。 また、村上春樹作品の特徴である有と無とをこえたゆらぎの存在論、物語の構成には大きな深みを感じた。 しかし、これまでの作品との、もっとも大きな違いは主人公が「“父親”になった」ことかもしれない。 ■ イデアとメタファーについて まず、表題に付加されているイデアとメタファーについて考えてみたい。 これは、ある種、哲学的な概念である。 イデアは絶対観念であり、メタファーは言語による差異化の遊戯性だといえる。 村上春樹の小説がこれまで描いてきたものはそれであった。 それはイデアの喪失と自己修復の小説であり、メタファーによる闘争/逃走であったともいえる。 そこから、いかなる物語を紡ぎ出すか。それが問題であった。 村上...

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文化系トークラジオLife「ポスト・トゥルースのその先へ」を考える。

ポスト・トゥルースを考えてみるときに、現在のこのポスト・トゥルースを生み出した状況には、①技術的側面(テクノロジー/ライフスタイル)/②政治・経済的側面/③歴史的・思想史的側面があるのではないか。 ①技術的側面(テクノロジー/ライフスタイル) まず、技術的側面では、過去20年におけるインターネットとスマートフォン、そしてソーシャル・ネットワーキング・サービスの普及だ。 インターネットの普及により、これまでのマスコミや論文発表とは異なった場所で、誰もが情報を発信できるようになった。 しかし、それらの情報は査読されずに発表されるため、内容には不確かな情報も含まれてくる。 そこに、インターネットのコピペ習慣ともいうべきものが加わるところに、大量のコピーやシミュラークルを量産していくということがある。 そして、過去10年間にはそこにSNSが加わり、感情に訴えかける表現のコンテンツをシェアするという状況が生まれた。 ②政治・経済的側面 政治・経済的側面を見ると、現在は情報戦の時代である。 わかりやすく経済的側面から見れば、マーケティングは極言すれば、どれだけユーザーの目に触れ、ユーザーのマインド...

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2017-2月のメモランダム

2017-2月について 社会面では、ある女の子の信仰と労働問題が話題になっている。 経済面では、18万人の従業員を抱える企業が一部上場から二部上場に変更となった。 アジアでは、独裁者の義兄がクアラルンプールで暗殺された。 東アフリカの南スーダンは混迷の中にある。 パロールとエクリチュール パロールとエクリチュールの違いはコンテクストが内包され状況が制限されているか否かの差だ。 デリダ論を読みながら、横浜美術館の写真展を訪れた。 ある瞬間・ある状況が切り取られた写真は、メッセージ・物語の主体でありながら、一方でその瞬間からなんらかのアイコン・シンボルになる。 写真はリアルの記録でありながら、幻想の描画 – 幻想の再生装置だ。 言葉でなく映像にも、パロール / エクリチュールという関係がある。 マリリン・モンローの写真は悲劇的な美女のアイコンであり、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの写真は愛のイメージとなり、コカ・コーラやマクドナルドの看板は資本主義の象徴となる。 この視点が、さらにアクチュアルに暗示するものとして、言葉や映像といった表現のみならず、僕らの存在・行為自体もパロール ...

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(草稿)苫米地英人『洗脳原論』/中沢新一『チベットのモーツァルト』を読む。

あまり言っても、フランス映画好きのように格好の良いものでもないので、最近はあまり言わないのだけれど、苫米地英人さんと中沢新一さんの著作はかなり好きだ。 彼らは、基本的には対極の存在と位置付けられていて、オウムを接続点としている。 社会的にはアウトサイダーかもしれない。思想的に反対の立場の人や批判的な人からは、両者ともにある種のアジテーターのようにも位置づけられているかもしれない。 しかし、社会的な評判を捨象すると、両者は極めてラディカルな思想家であると思う。どちらもサイキックでオカルティズムであると見られる節があるが、それは本質ではない。むしろ、現代の科学的知見の外部存在を、哲学・科学の内部に引き込み、それを応用して市井の人々に注入している。 ある意味ではオウムは現代思想の極地点であった。いや、あれは単なる事件だ。社会の中の異端の暴走だ。あるいは、単なるバグだという意見もある。 しかし、近代哲学と科学の論理の不完全性が明白になった現在において、根源的ものを論理単体において基底することは不可能であった。 いま現在において、世界を語る場合の基底は、社会学とビジネスであると思う。書店に行けば...

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思考の袋小路

ある時に、ふと袋小路に迷い込むことがある。どこから入り込んだのか、出口が見つからない。物理空間であればまだ救いはある。壁を乗り越えることができるなら。 情報空間でのエラー。繰り返しのリダイレクト、503 Error Service Unavailable。思考の袋小路。 哲学的な問いは、ある意味で薮知らずの森だ。そして、それは足を踏み入れるまでもなく、気づけば僕らを取り囲んでいる。 存在への問い、価値への問い、客観への問い。本質とは何か、美とは何か、人間とは何か。 答えはあるだろうか、ないだろうか。 思考の袋小路に迷い込んだことがある。きっかけは、すべての現象は言葉によって、善にも悪にも自由に解釈できると気づいたことから始まる。すべては人間の解釈によって定義される。つまり、世界そのものには価値は存在しない。すべては相対化されるから。 世界に価値が固定されていないのであれば、人間の論理や認識が世界を定義づけることになる。 では、人間にとって、定義の基礎は存在するのか?何か絶対的なものがなければ定義の基礎づけはできないのではないだろうか。絶対性は存在するだろうか? 絶対性は存在するだろうか...

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人は再びユートピアの夢を見るか

ロシア革命とかソビエト崩壊とか五月革命とか赤軍派の事件について調べたり、マルクスやレーニンやサルトルや講座派の本を読んで、だから結局中立的な意見ではないし、それはあり得ないのだけど、マルクス主義退潮以降は反動の時代だったのではないかと思う。 たしかにマルクス主義やソビエト型社会主義は世界的に大きな惨事を引き起こした。しかし、それは、民主主義の不在・機能不全が決定的な要因だったのでは。そもそも発展途上国における社会主義の導入はマルクスの想定したものではなかった。 社会主義は資本主義発展による矛盾の帰結として訪れるものと想定されたある種のユートピアだ。 むしろ、問題は、資本主義に対するカウンターやリベラルが社会主義やユートピアの希望を捨て去り、否定したことではないか。 人は言語や理性を用いる生き物だ。そのために、自然から疎外された存在である。自然のシステムにおけるバグであり、がん細胞だといえる。知恵の実を食べ、楽園を追放されたのはそのためだ。 しかし、だからといって、言語や理性を捨てうるだろうか。 交通事故で亡くなる人は、国内で年間4000人をこえる。1日に、11.3人が亡くなる計算だ。だ...

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アルコールと無意識

昔、多重人格の話を聞き眉唾だと思っていたし、最近せん妄の話を聞いて、驚いた。しかし、アルコールで正体を失い、無意識で行動することは、よくある話だ。 眠くなって無意識に家に歩いて帰るということは、ある話だ。 時々、表層に現れるその無意識の行動によって、実は無意識が行動のベースになっていることには驚かされる。 無意識の行動はスムーズに動く。それは、意識による抑圧がないからであり、動物的な唯物論的な流れだ。 意識は行動を規制し抑制する拘束具であって、本性は無意識にあるのではないか。 若者が自分探しと称して旅に出るが、それは日常という共有幻想の外に出て、それはネイチャーの中から唯物論的なブラフマンを探り自らのアートマンとしての意識/無意識の調和を見いだす冒険と言えるかもしれない。 翻って、仮に、人間の人格に問題が出る現象のひとつには、無意識と意識の乖離/不調和という問題があるのではないか。 例えば、自己啓発本を読むコンプレックスを抱えて若者や、本来明るい人物が官僚的な組織に組み込まれた時の屈折は、そういった類の問題ではないか。 そう考えると、アルコールや薬物の役割は、単に日常の抑圧からの解放と...

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オルダス・ハクスリー『知覚の扉』を読む。

オルダス・ハクスリー(1894 – 1963)は『すばらしい新世界』で知られるイギリスの作家だ。 僕が、オルダス・ハクスリーについて知ったのはドアーズ(The Doors)を介してだ。 それは、大学に入学した年だったと思う。だから、18か19の時だ。もう10年以上前の話だ。 大学に入り、ひとり暮らしをはじめると、時間軸から開放される。 それがたった4年間の話だったとしても、開放された空間を楽しむのが学生の特権だ。 当時は、iPodが広く普及しはじめた時期だった。 誰も彼もが、iPodで音楽を聞いていた。 当時のiPodは今のiPhoneやAndroidのような通信系のモバイル端末ではなかった。 僕が持っていたのはiPod Classicで、それは60GBの記憶装置を持つ小さなジューク・ボックスだった。 バーに入りカウンターのマスターにシャンディー・ガフを注文する。 一服しながら空間の隅っこにあるジューク・ボックスをながめる。 ジュークボックスに近づき、お気に入りのナンバーを探す。 クリームのWhite Room、ディープ・パープルのsmoke on the water、レッ...

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『ゲンロン4 現代日本の批評III』を読む。

評論・現代思想の雑誌『ゲンロン4』を読み終えた。 読み終えて、評論や現代思想の課題は「多様化し点として分散化した人々を、いかに線としてつなぐのか。いかに孤立した大衆を、マルチチュードとして連帯に導くか。そこから、(マルチチュードの)自律した主体としての一般意志をいかに導くか。」ということではないかと考えた。 そして、そのためには人を育て空間をつくり、流れ(運動、短期的な政治運動ではなくエネルギーや共有意識の流れ)を生み出すことが必要である。 東浩紀さんのゲンロンは、まさにそのための実践をしているのではないかと思う。 ゲンロン4の巻頭は、浅田彰さんのインタビューであった。浅田彰さんはポストモダンやニューアカの旗手であり80年代思想のリーダー的存在だ。ニューアカというと、今ではバブル崩壊前の浅薄な思想だったと捉えられがちだ。だが、その実は資本主義礼賛や広告・商業主義への転向、あるいは反マルクス主義や反革命的なものではなく、むしろ新たな闘争(逃走)を提起していたというのが、あらためてよく分かるインタビューだった。 考えてみれば、フランス現代思想のフーコーやアルチュセール、ドゥルーズもパリ5月...

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絶対的な瞬間について – あるいはニヒリズムの克服について –

最近、年上の女性と仲良くなり、お酒を飲みながら古典教養や哲学・思想について話をするようになった。 たとえば、カントやヘーゲル、ハイデガーやサルトル、フロイトやユング、プラトンやマルクス、三島由紀夫などについてだ。 つまり、本質や存在あるいは弁証法について居酒屋で雑談するのだ。 きわめて正しいお酒の飲み方であるように思う。 さらに言えば、形而上学自体がある種の人間にとっては、アルコールのようなものなのだけど。 ただ、エリートではなく、アカデミックな世界でもなく、普通のビジネスマンとして生きていく中で、このような友人ができるというのはきわめてまれなことだと思う。 一般的に言えば、哲学・思想というのは、鼻持ちならないもの、いかがわしいもの、敷居が高いもの、その実価値のないものと見られがちだからだ。 現代においては、アナクロニズムにも過ぎる。 彼女と話していて感じたことだが、やはり哲学や思想に夢中になる人には、論理や日常における価値をこえた何かに出くわしてしまったと感じる経験「絶対的な瞬間」というのが往々にしてあるらしい。そこから、形而上学的な本質をさらに追求したいと感じるようになるのだ。 た...

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キャンバスを汚せ、黒くぬれ – 世界的なポピュリズム勃興の流れを前にして私たちはいかなる態度で臨むべきか –

世界的にある種のポピュリズム=大衆迎合主義が席巻している。 それは、ナショナリズムと経済的な自国救済主義を内包した、大衆扇動型の政治であるといえる。 この動きは、2016年現在つとに明確な流れを示しており、アメリカ大統領選でのトランプ氏の勝利や欧州政治の右傾化、フィリピンのドゥテルテ大統領の人権・法律を超越した過激な治世に現れている。 この要因は、ギリシャ・スペインを代表するヨーロッパの経済危機やドイツ・フランスでの移民政策の失敗、そして世界的なグローバリズムの行き詰まりなど、極めて多数の社会的・情勢的な問題に端を発していると考えられる。 しかし、ここでは「ポピュリズム=大衆迎合主義」の席巻の要因は、現代の思想・哲学界隈の潮流の衰退と、人々の中で相対主義があまねく一般化され意思の関係付にとっての基盤が揺らいでいることに問題があるのではないかと提起したい。 なお、これは抽象的で観念的な仮説であり、ひとつの問題提起にすぎない。   ■ イズム(主義)のキャンバスとしてのタブラ・ラーサ(白紙状態) 企業での人事において、企業はプロパー社員育成のために、大学を卒業したての新入社員を望...

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マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む

マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本を読んでいる。 これは、もっと早く読んでおくべきだった。 できれば社会人になる前に。 近代以降、社会は資本主義のシステムで動いているといって良いと思う。 マルクス的な発想で言えば、資本主義を下部構造として、その上部構造として現代の社会の制度や人々の価値観は存在している。 人間や人生の価値でさえ、どれだけ富を得ることができるかによって、定義される部分がある。 しかし、なぜこういった状況は生まれたのか。 マルクスは唯物史観に基づき、自然科学的に原始共産制 ⇒ 奴隷制 ⇒ 封建制 ⇒ 資本主義 ⇒ 社会主義 ⇒ 共産主義へと歴史は発展すると定義した。 現代は、自然科学的・歴史的な理由から、資本主義社会であるというのだ。 そして、労働者は階級意識を明確に持ち、科学的・歴史的進歩のために、革命闘争をしなければならない。 しかし、マックス・ウェーバーは、まったく別の論理で説明をしている。 資本主義の発展は、労働と敬遠に重きを置くプロテスタントの精神を基礎として、その結果だというのだ。 16世紀にルターやカルヴァンによる宗教...

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たとえば、完璧な文章が存在するのなら│シンセサイザーについて

もし、完璧な文章が存在するとしたら、 それは相反する対立する概念を矛盾なく内包するものでなければならないと僕は考えている。 もちろん、それは本来文章だけの問題ではない。 思想やライフスタイル・仕事の片付け方など、あらゆるものごとにおいて、相反する対立する概念をいかに調整するのかということが根源的な課題にあるのだと思う。 例をあげて考えると、たとえばテクノロジー企業のApple社は人々を混乱に陥れるような複雑なテクノロジーを、ユーザー・インターフェイスやライフスタイルなどヒューマンな視点からデザインすることで、クオリティの高い商品を開発し続けている。 彼らの場合で考えると、相対立する概念はテクノロジーとヒューマンであり、それらがコンフリクトする部分を乗り越えて、新たな発想を導き出すことで人々の賞賛を受けているのだ。   文章の話に戻ると、相反する対立する概念とはなんだろうか。 例えば、具体的な文章と抽象的な文章、即物的な文章と観念的な文章。 現実的なものと空想的なもの、理性的なものと感情的なもの、悲劇的なものと喜劇的なもの、 個人的なものと社会的なもの、創造的なものと破壊的なも...

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『知覚の扉』 オルダス・ハクスリーと認識論

オルダス・ハクスリーについて つい最近、本当にひさしぶりにオルダス・ハクスリーの本を読み返した。 オルダス・ハクスリーは、『すばらしい新世界』というディストピア小説(ジョージ・オーウェルの『1984』的なもの)や、ジム・モリスン率いるドアーズのバンド名の由来となった『知覚の扉』で有名なイギリスの作家だ。 歴史的に見れば、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』は、60年代の西海岸のヒッピーやハーバード大学教授だったティモシー・リアリーやジョン・C・リリーが行った運動、LSDによって意識の拡張を追求した社会的ムーブメントに、大きな影響を与えている。 『知覚の扉』 『知覚の扉』は、幻覚剤メスカリンをオルダス・ハクスリーが実際に体験した、エッセイであり体験記である。 その中で、幻覚剤メスカリンを使用した意識状態での、芸術の見え方、人との関係のあり方、存在の仕方が描かれている。 オルダス・ハクスリーは、身体に刺激を与えることで人間固有の認識のフィルターや社会的なバイアスのフィルターを除去し、知覚の拡大をできるのではないかと考えていた。 イマニュエル・カントがいうように、人間は外部の物自体の存在を知覚...

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小阪修平の哲学 – 全共闘、三島由紀夫、吉本隆明、村上春樹 –

かつて、いわゆる「オルガン派」「マルクス葬送派」という思想家の中心的人物として、小阪修平がいた。 僕は、現代思想の入門書を小阪修平の著作を通してはじめて読んだ。 小坂修平は、東大全共闘を経験した世代で、三島由紀夫と討論を行った人物の一人であった。 そして、世代の責任として「連合赤軍」の問題を総括し続けた稀有な人であった。 彼らの世代で、「連合赤軍」の問題をきちんと総括し続けたのは、村上春樹と小坂修平くらいだろうと思う。 一般に、全共闘世代や団塊の世代は敬遠されがちである。 しかし、僕は全共闘世代が自己否定と解放区の中で辿り着いた地平というのは、むしろ思想的に重要なところまで到達していたのではと思っていて、けれども、結局それを総括して語ることができず次の世代に引き継げなかったのは残念ではあった。 三島由紀夫vs東大全共闘 言葉をめぐる冒険 村上春樹の『羊をめぐる冒険』の羊は、西洋哲学・現代思想の言葉でいえば「形而上学」そのものなのだろうと感じている。 人に幻想を抱かせ操るもの。 だからあの物語は『言葉をめぐる冒険』と名付けることもできる。 完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶...

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村上春樹と三島由紀夫

三島由紀夫から村上春樹へ 『羊をめぐる冒険』の羊は、西洋哲学・現代思想の言葉でいえば「形而上学」そのものなのだろうという思いが、ふと湧いてきた。人に幻想を抱かせ操るもの。 だからあれは『言葉をめぐる旅』と名付けることもできる。 “完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね” 形而上学の果てともいえる「1960年代」近代の終焉に起こったのが若者たちの”知性の叛乱”だった。 それは形而上学=哲学=理性を、=現実たらしめるための進歩主義的革命だった。 しかし、「僕」はその中で彼らイデオローグたちの「言葉」の欺瞞に気づき、それとの闘争/闘争を開始する。 村上春樹と同世代、全共闘世代の小阪修平は言っている。 “同世代の一番優秀な奴は滅んだか、半ば廃人になった” 「羊抜け」だ。小阪修平もなかば離人症のようになったと言っている。 革命の終わりの時代、1970年代の雰囲気は想像がつく。 1970によど号ハイジャック事件、1971-1972には連合赤軍事件。 文化面では、1972『木枯らし紋次郎』、1973『氷の世界』、1974『傷だらけの天使』、1975『僕たちの失敗』、1...

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