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映画&テレビ

2019年12月25日

映画『象は静かに座っている』フー・ボー監督

日頃そんなに長い映画を観ていないので、4時間の映画に率直な感想を言うのは難しい。長い小説を読んだときもそうだけど、そのために費やした時間や労力、そしてある種の愛着が影響して簡単に面白いとか面白くないと言えなくなる。

この映画は四人の登場人物の群像劇として描かれる。彼らの置かれた境遇や、身に起こる出来事が少しずつ重なりあい、全体として一つの絵になるような作りをしている。

比較されるであろう牯嶺街少年殺人事件はいくつものエピソードや時間が圧縮されて上映時間以上の密度を感じる映画だった。一方こちらは映画の中の4時間がそのままこちらの現実の4時間として表れているように感じた。それは単に作中で経過している時間が短いというだけなのか。

何の本に書いてあった言葉なのかどうしても思い出せないのだけれど、短編小説とは闇の中から現れてまた闇の中に消えていくものだとどこかで読んだ。暗闇の中で一瞬灯がともり、また元の暗闇に消えていくように、人生の一断片が映し出され、またスクリーンの向こう側へ去っていく。上映時間の長さにかかわらず、この作品から受ける印象は短編小説を読んだときのものに近い。

名もない登場人物の発した「世界は一面の荒野だ」という台詞が記憶に残っている。少年は父親に罵られ、少女は母親に詰られる。青年は友人を死に追いやり、老人は家庭を追われる。いじめっ子に抵抗した拳で人生を失い、教師との交際が晒され、心の拠り所だった飼い犬を殺される。「世界は一面の荒野だ」この台詞の主は教師の虐めで笑いものにされる。この世界は荒れ地だ。この世界はクソだ。映画を観ている間、そんな言葉が何度も頭に浮かんだ。

そんなクソみたいな世界は壊してしまいたい。しかし世界はあまりにも堅固だ。

『ジョーカー』に『天気の子』と、今年は“世界を壊す”映画が大ヒットした。どうにもならない現実を、叩き壊したその先の光景を、はっきりと映像にしてしまっていた。『ゴジラキングオブモンスターズ』も、話としてはキングギドラを倒して秩序を取り戻すものだけど、作中の世界は怪獣出現以後として決定的に変化している。

とはいえこれらの映画はファンタジーだ。私たちの住む世界は、少なくとも誰かの願う通りには、変えることも壊すこともできない。こちらの現実に近い水位で進行する『象は静かに座っている』も同様だ。だからこの映画の主人公たちは”ここではないどこか”へ行こうとする。満州里の動物園の座る象。どうして彼らはそんなものが見たいのか、作中で理由は語られない。神の隠喩だとしたら、終盤の動物園へ向かう夜行バスは巡礼の旅か。いやむしろ、どこかに行けば何かが変わるというような当てさえ無く、ただただこのどうしようもない”今、ここ”から消えてしまいたいという絶望した願いに思える。

この映画は撮り方がとても独特だ。被写界深度が非常に浅い。場面の主人公の顔だけがアップでくっきりと映されて、その向こう側はぼやけている。何かをしているシーンでもカメラは顔に固定されて手元は映さない。隣にいて喋っている相手の姿すらぼんやりしている。固定された対象の周辺で、ぼやけたまま(時には重大な)出来事が同時に進行している。俯瞰の描写が全くと言っていいほど無い。
日光は射さない灰色がかった画面の中、人物の肩越しに見える世界は常に不透明だ。世界が狭いとは感じないが閉塞している。どこにも行けない感じがする。

だからこそ、ラストシーンが印象深い。
夜行バスが停車する。満州里はまだ遠いが、主人公たちが降りてくる。この映画でおそらく唯一のロングショット。しかもそこに映っているのは3人の主人公だけではない。無関係であろう乗客たちも意外なくらい大勢下りてくる。どこかを眺めたり羽根蹴りに興じたりする彼らの姿がくっきりと見える。肩越しの不透明な世界ではない。この光景は何かの救いを表しているのか。

象は静かに座っている|gu|note https://note.com/ikneg_u/n/nf72315a13b16

2019年9月1日

『ダンケルク』をもう一度劇場で

クリストファー・ノーランの監督作品をそんなに観たわけではないけれど、一部の映画ファンのように強い反発を覚えるわけでもなく、すごく好きというわけでもなく。特に思い入れはなかったので、この映画をまさか4回もリピートするとは思わなかった。

遠いな、と思った。揺れる(響く)な、と思った。それから、追われてるな、と思った。

遠さが最初の印象だった。カットされたバージョンでしか観ていないので広さについてはなんとも言えないが、常にはるか向こうが映っている画面の奥行に何か異様なものを感じた。風通しが良すぎて息が詰まりそうだった。冒頭の、無音で紙が降ってくるひと気の無い市街地。そこからいきなり銃撃が始まり、路地を抜けた先は大勢の兵士が並ぶ砂浜だった。このシーンの鮮烈さで映画に引き込まれていた。

空の奥行、浜辺の奥行、広さというか、向こうがずっと先まである。このスケール感と、船の中の密閉感の怖ろしい落差。

「大きさと小ささは瞬時に入れ替わる。細部を意識した眼で広い空間が描かれ、広い空間を意識した眼で細部が描かれるのだ。この反復が勤勉なため、映画はけっして雑にならない」(芝山幹郎『大きな映画を、マイナーポエットの眼で』)

画面の大きさもさることだがら、音の大きさも重要で、銃声や爆音がとにかくよく響く。追いつめるように音が繰り返される。劇場ごとびりびり揺さぶられる。                              最初の浜辺の爆撃で、だんだん戦闘機が近づいてくるのだがこれが長い。そこからいきなり高音になって爆弾が降ってくるのがとても怖い。
『ダンケルク』は音が映画を動かしている。爆音の振動が物理的に体を揺さぶってくる。敵の姿は見えず、銃弾や爆弾の音と、撃たれた人間の反応によってのみ表現される(人の身体的な反応で語るのもこの映画の特徴だ)。兵士を救出するため船を出したドーソン氏がエンジンの音で自軍の飛行機だと言い当てていたシーンも印象に残る。

そもそもこの作品は、2Dという枠内において(IMAXフィルムを使用したことで限られた劇場でしか本来の映像を観られない事態を引き起こしてはいるが)三次元的な体験を生み出そうとしているのではないか。スクリーン(平面)に映し出された映像と音響、これらによる詐術が映画なのでは?

近年の『シン・ゴジラ』や『マッドマックス 怒りのデス・ロード』といった多くのリピーターを生んだ映画にも共通するのは、このような身体的な体験性ではないかと思う。そこで語られている物語を越えて、もっと身体に近いところで快感を与えているから何度も繰り返し観たくなるのではないか。

この映画の特徴はまた、可視化できないものの可視化にもあると思う。この映画の人物描写は、音と音に対する反応が大半を占める。外面(表情、肌の)の反応。これが、見えない敵の存在を示し、言葉の代わりに人物の内面を語っている。

『ダンケルク』の時間は可視化された時間だ。「見えるほど近い」祖国と戦場を隔てている海は、人間には越えられない時間の比喩に思える。兵士たちを何度も跳ね返す海を突っ切って船と飛行機がやってくるのも示唆的である。
時計のイメージも付き纏う。劇中ではなんども時限装置のような音が聞こえる。時間の流れ方が異なる3つのパートは時計の3つの針を表しているようだ。
短針と長針と秒針という異なる時間の流れが入れ子になっている。1時間(空戦)が1日(ミスター・ドーソンたち)に、1日が1週間(浜辺)に包含される。時間の前後がある。3つの針が重なる一点に向けて物語が進行する。追いついたら、またそれぞれの速さで別々の時間が進んでいく。時間の遠近法は『インターステラー』を思わせる。              現在に追いつこうとする時間の競走。この海を突き抜けて桟橋の1週間に追いついた1日の航海と1時間の飛行は、映像の詐術で実現した時間旅行だ。
映画は(小説もそうだが)時間のフィクションであり、そしてフィクションが操作できる最たるものは時間だということを考えさせられた。

 

ダンケルクをもう一度劇場で|gu|note

2019年9月1日

『港町』で観察映画に初めて触れた

想田監督作品では『選挙』が一番好きだが、監督の作品で初めて観たのは『港町』だった。渋谷のイメージフォーラムでの上映だった。観終えて出てきたら渋谷の街が静かで、全然違う場所なのにまだ映画の中に居るような不思議な感覚を今も覚えている。

観察映画というジャンルに触れること自体、この作品が初めてだった。

牛窓という瀬戸内の漁師町。映されるのは人々の生活する姿。本当に、ただ生活を撮っている。にもかかわらずそれが美しく見える瞬間がある。

現在という感覚を喪失させるモノクロの画面。時間のグラーデションというか、いくつもの時制を行き来している感じがする。撮っている人間が、撮りながらその光景に入り込んでいるからか、映画の見え方が違う。横にも後ろにも牛窓の光景が広がっている気がしてくる。機械が作動しているのを見るのが気持ち良くて、いつまでもぼーっと眺めてしまう。そして魚の経済。漁師から、卸売りから、魚屋から、近所への配達から、買って帰る人たちから、猫へ。牛窓の営みの終着点が猫のような。人間が居なくなった後も猫がいるんじゃないか、猫に生まれ変わっていくんじゃないかと思わされる。モノクロの日光は終末の後の光にも思える。

劇場内でよく笑いが起きていたのも印象的だった。競りもよくテレビで出るような業者が沢山いて活気のある(殺気だっている?)感じじゃなくて、近所の人が五六人、いつもの顔触れがいつものように集まっているようだった。
高祖鮮魚店の奥さんが受けた電話、相手の耳が遠いのか何度も繰り返しているのが面白かった。ドキュメンタリーとはいえこれほど自然な映像なのもすごいしあれだけ入り込める監督もすごい。人はどこまで観ることが可能なのか、という問題。種々選択がなされるなかでどれだけ豊かに切り取れるか。という風なことも考えさせられた。

美しいと思う瞬間があり、いつまでも眺めていたいと思う心地よさもあり、その一方で不穏さに息をのむシーンもある(聞こえていないと思って本人の横で家庭内の不和をべらべら喋る老婆よりもその横で嫌そうな顔をしている話題にされている本人に焦点を当てた映し方など)。フィクションとノンフィクションとを問わず、作品の枠を食い破ってしまうそれ独自の時間を持ったカットが存在する。

だが、そういう風に鑑賞してしまうこと自体に恥ずかしさも覚える。あんまり異界だ失われた共同体だと自分と関係の無いよそ事として鑑賞するのもどうかと思う。あまりにも、現代の、都会人の目線であることに無自覚なのも。ドキュメンタリーの暴力性というか。普通に生きている人を被写体にして作品に登場させそれを鑑賞することの傲慢さ。この作品や作者はそのことに対して配慮しているのかもしれないが、「都会」の「文化人」たちから寄せられた大量のコメントにはまさにそういうものが臭ってきて気まずくなる。見世物じゃねーんだよ。自分と別世界の出来事にしてんじゃねーよと。

港町』で観察映画に初めて触れた|gu|note

2019年8月31日

今日は『ウィーアーリトルゾンビーズ』見る。それだけで大丈夫。

川崎にタラちゃんの映画観に来たらいっぱいだったので、喫茶店に入り『ウィーアーリトルゾンビーズ』観た。
観に行かなきゃと思いながらも時間が作れず、こうやってたまたま無料で観られてしまったことに申し訳なさが残る。
『そうして私たちはプールに金魚を、』も無料で観てるんだよな。

『ウィーアーリトルゾンビーズ』面白かった。
冒頭から長久監督の作品性を象徴するキレキレの映像の連続。あの映像は恐らくあらかじめ監督の脳内にあるものので、その感性と忠実な再現性こそがこの作品の一番の魅力であることは間違いないし、前作もそうだった。

ゾンビをテーマに据えた物語の部分に関しては独自の解釈に欠ける部分もあったかと思うが、両親を亡くしたのに全く泣けない子どもが4人葬儀所で出会ってという設定から、彼らの話題に乗っかり金を稼ごうとする大人やそれを考えなしに消費する大人、一連の騒動でターゲットになって死ぬ大人のふとした瞬間の死にかけた目がゾンビのメタファーであることと、そこから子どもたち4人は何度となく親や周囲のこんな目を見てきたからこそ感情が失われてしまったのだなということが伝わってきた。
彼ら4人が今後どういう選択を取るのかというのは作品としてはあまり重要視されてなくて、ただ、現実を現実として捉える感性みたいなものが彼らに戻ったことは最後はっきりと示唆され、彼らはリトルゾンビーズを名乗りながらも、もう決してゾンビではない。

ラスト付近、ヒカリがごみ収集車で見る夢のシーンとか超絶キレキレだなと思ったけど、その後出産シーンなんかで説明しちゃうのは勿体ないなと思った。
逆に焼かれた楽器の前で踊るイクコのシーンとか象徴的ですごく目に焼き付いた。

『そうして私たちはプールに金魚を、』

2019年8月22日

天気の子

何もかもが間違っていて、それゆえに正しいと思わせる映画だった。平成最後の夏も過ぎた後にこんな堂々としたセカイ系をぶつけられるとは思わなかった。最初から最後まで瑕疵が目につくのに不思議と嫌いになれなかった。

そもそもの印象はマイナスから。元々新海誠の作品は好きではなかった。甘い感傷に浸っているように思えたし、東京(都会)の過度な美化にいちいち引っかかってしまった(特に『君の名は』に出てくる高めの価格設定のカフェで駄弁る男子高校生たちの描写が嫌いだったのだけど、これについては他人から賛同を得たことがないので私の感覚がおかしいのかもしれない)。
なので『天気の子』についても最初は「また東京に出てくる話かよ・・・」と思っていた。
あと非常にどうでもいいことだけど少年を「少年」呼ばわりするフィクション特有のアレも居心地が悪かった。オタク的なサービスシーンのあれこれも一般向け大作で良くやるなあと感心もしつつ気恥ずかしくなった。

しかし、にもかかわらずこの作品は面白かった。
一言で言えばそれは開き直りだ。世界を壊してしまっても構わないという開き直り。プラス、壊れた世界を受け容れること。
ヒロインが異能を持ち、その力が世界の命運に直結し、逃避行があり、世界と彼女を天秤にかけた決断を迫られる。セカイ系の定義をそのままなぞったような展開に、今時こんなベタな話をやるかと驚くが、そのベタは一周回ったベタである。

この作品に対する印象が変わったのは夏に降る雪や、東京を襲う異常気象を見てからだ。
この作品は『君の名は』をひっくり返していると感じる。主人公は離島から出てきた男の子で、東京に住むのはヒロインの方。そして東京は(ストレートな意味では)憧れの都会ではなく、そのうえ、主人公たちの選択によって最期は水に沈む。
新海誠の背景画に関心はしないのだが、この作品で描かれる東京の景色はあまりにも今ここを再現していて、クライマックスでそれらが失われることを考えると、地誌的な価値が、やがて失われる現在の記録としての価値が浮かび上がってくることに気付いた。
(思い返してみると『君の名は』の時点ですでに東京もいつか天変地異で失われてしまうかもしれないと示唆されていたのだが、観た当時は東京だけ無事なのに何言ってるんだと思ってしまった・・・)

ヒロインを空から取り戻したことで、天気を鎮める巫女という物語が断ち切られた。選択の結果、元々あった世界は壊れてしまうが、それすらも是としてこの映画は受け入れる。
作品の終盤、水没した東京で、江戸時代は海だったという話を主人公は聞かされる。誕生以来地球の姿は何度となく変わっていて、宇宙的な時間の中では地球温暖化も東京水没も些細な問題とする観点。恋愛のために世界を壊して何が悪いと開き直られたようで清々しかった。
神話とセカイ系という二つの物語の底が抜けていると思った。

世界を選んで喪失感に浸るのではなく、世界より自分たちを優先した代償の苦さを味合わされるのでもなく、世界よりも自分たちの関係性を選ぶことを、その結果を含めて作品が全力で肯定している。
世界の形を変えてしまうこと、(今ある形での)世界の終わりを本当に起こしてしまったこと、そしてそこに突き進む視野狭窄にむしろ救いを感じた。

村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の意味がいまいち読み取れなかったのだけど、「キャッチャー」が見守るライ麦畑を映像化したら劇中描かれる雲の草原みたいになるのかなと思った。

気候に対する人類の責任とか人新世とかアースダイバーとか現代思想を匂わせる要素がけっこう目についたので、そういうものを齧っていれば色々ツッコミができたかもしれない。

記事引用元:天気の子|gu|note

2019年7月18日

いまさら『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』

公開から1ヵ月以上経ってしまったがやはり感想は書いておこうと思った。なんであれ2年間待ち続けた映画だから。
正直に言うとこの映画を初めて観た時、少なからず戸惑ってしまった。これが観たかった!という満足感と同時に、観たかったのはこれだった?という違和感もあった。

唐突だが、怪獣映画はファーストコンタクトと怪獣バトルの大きく2つに分けられる。
ファーストコンタクトの古典ははたとえば第1作目の『ゴジラ』で、この作品は怪獣という未知との遭遇によって起きた変化を描いている。
だがゴジラ映画が語ってきたのはそれだけではない。第二作の『ゴジラの逆襲』から現在に至るまで、ゴジラと敵怪獣の戦いが何度も何度も繰り返されてきた。

近年の作品で言えば『シン・ゴジラ』は前者について様々な先行作品を引用しアップデートした。それに対して『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は後者の最新型だ。
この映画は怪獣の出番を出し惜しみしない。冒頭のモスラの誕生から南極でのゴジラ対ギドラ、メキシコでのラドン・ギドラ・ゴジラの交戦、ゴジラ復活、そして最終決戦へ。人間ドラマなど知るかと言わんばかりに、話がダレる間もなく怪獣が現れる。
前作にあった「怪獣とのファーストコンタクト」という要素は薄れた分、怪獣バトルが前面に押し出されている。
すでに怪獣と出会ってしまった世界を描く以上、この怪獣バトルへの開き直りは潔い。

この映画の魅力はなんといっても怪獣たちの圧倒的なビジュアルだ。生頼範義の描くゴジラのポスターがそのままスクリーンに現れたかのように、1カット1カットが美しく、迫力に満ちている。
特に好きなのは噴火口でギドラが雄叫びを上げるシーンだ。画面手前に映る十字架、偽の王の目覚めという状況も相まって、宗教的と言いたくなるような荘厳さと不気味さが同時に感じられる。
そんな凄い絵が自由自在かつパワフルに暴れ回る。カメラも怪獣も目まぐるしく動く。怪獣映画という以上に「怪獣のアクション映画」だと思った。

個人的な印象だが、怪獣映画は多かれ少なかれ引き算の表現で成り立っている。
何かを十分に見せないことで、その見えない余白によって怪獣の存在を大きくさせる。
あるいは、着ぐるみ・ミニチュアというニセモノっぽいニセモノを、演出によって「ニセモノが本物らしく見える」という手続きを経ることで独特なリアリティを生み出す。
たとえば『シン・ゴジラ』は「ゴジラがただ歩いているだけ」と言われることもあるが、歩いているだけで大都市を瓦礫の山に変え、ビル街に佇むだけで景色を一辺させる、その見せ方に凄さがある。
とはいえ、予算やCG技術の制限によってそういった表現を取らざるを得ないところもあるのだろう。『シン・ゴジラ』もゴジラをもっと動かしたかったと聞いたこともあるし。

それに対して、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』はほとんど足し算だけで作品を成立させてしまった。驚くべきことに。
ニセモノが本物らしく見えるという手続きを経るまでもなく、本物と見まがうCGが圧倒的な物量で展開される。それによって、これまでの怪獣映画が持ち得なかったリアリティを獲得した。

また、怪獣のキャラクター性、擬人化の強さも特徴的だ。
この映画では怪獣の顔にフォーカスするカットが印象に残る。モスラの幼虫、ラドン、ゴジラ、ギドラ。彼らの登場シーンでは見得を切るように顔への寄りが挟まれる。(しかも専用の登場曲まである)
人間の視点という制約が取り払われ、怪獣というキャラクターをいかに印象付けるか、という方向に映し方が変化している。

地球上で発見された17体の怪獣をモナークが監視しているという設定、彼らの科学力、唐突に出てくる超兵器「オキシジェンデストロイヤー」、地球空洞説や海底に沈んだ超古代文明など、全作と比べて現実離れした設定が増え、作品のリアリティラインが上がった。登場人物も芹沢博士やエマ・ラッセル、アラン・ジョナなどキャラの主張が強い。VSシリーズっぽいという感想をよく見かけたが、専門用語やネームドキャラが飛び交うフィクション度の高さが理由だと思う。

描かれているのは怪獣という非日常をすでに受け容れている世界だ。ここでは怪獣は現実に侵入する異物ではない。ゴジラの(怪獣の)出現によって世界が変化した、ということが映像と作劇の両面で表現されている。
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』はいわば、「『シン・ゴジラ』が選ばなかったゴジラ映画」だ。

というわけで、基本的にはとても楽しめたが、いま一つ乗り切れないところもあった。
怪獣のCGは想像で補う必要がないくらい「本物」なのだが、それに加えて登場人物のキャラが濃く、背景となる世界もフィクション度高いとなると、何が当たり前で何が驚きなのかが分かりにくい。なんというか、世界に濃淡が欠けているという印象を受けた。

ゴジラは色んな顔を持っている。水爆の犠牲者も、太古の巨神も、巨大化したイグアナも、植物由来の怪獣王も、みんなゴジラだ。
ゴジラは着ぐるみで生まれた。それ自体は空っぽの器である。どんな意味も飲み込んでしまう。こういうのがゴジラだとかこれはゴジラではないという議論はそもそも意味が無いのだろう。
今はとりあえず、新たなゴジラ映画が作られ続けているという状況に感謝しながら『ゴジラvsコング』を待ちたい。

記事引用元:いまさら『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』|gu|note

2019年7月7日

映画『ホットギミック ガールミーツボーイ』

まだ2週目だけど入りが悪く気づいたら終わってるかもと先輩に言われたが、確かに今日の渋谷もガラガラだった。
世の中が山戸結希の凄さに気づいてないのは仕方ないが、こういう若手女性監督が撮った映画が盛り上がらないのは邦画にとってとてつもなくマイナスだと思う。

僕は山戸監督の前作「溺れるナイフ」の強烈なエネルギーに圧倒され、その時から次回作を心待ちにはしていて、その次回作を乃木坂の掘で撮ると発表された時に、正直傑作の予感しかしないと思ってた。
堀の話をすると先に進まないから割愛するけど、アンチも多い堀を僕はアイドルとして評価してる。

で、ここからが映画の感想なんだけど、結論、凄い映画だった。
僕の基準から好き嫌いを決めると「溺れるナイフ」には及ばないけど、それでもこの映画は山戸結希にしか撮れないだろうし、その作家性が前作より一回りも二回りも大きくなったのは確かだと思う。

彼女の映画を撮る上でのポリシーというかルール(この前のセブンルールにも出てたけど)、ここを突き詰めた作品だった。
若い女の子(や男の子)をその時の状態でフレッシュに切り取るとどうしても心と身体の不一致から物語として成立しない部分が出てきて、今回はそこを全く整理せず、究極的に登場人物の脳内とその反応から生まれる感情だけを描こうとしてて、結果としてそれが何となく物語としても歪に存在している。目立ったも物語の筋やキャラ設定なしに、本能的なフェーズで人物たちが絡み合うことで若いエネルギーに満ちた作品となっていた。

この作品から受け手が若者の承認欲求ものだと一元的に判断するのはあまりに軽薄で、登場人物たちが最後に行き着く「私が/僕がこうだからいいのだ」みたいな自己肯定は、見るものはおろか他の誰にも犯される権利のない、自分だけの大切な感情として強く輝いていた。

2019年6月20日

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の予習の記録 ―― ゴジラ作品総レビュー

『ゴジラ(1954)』

「現実」に初めて侵入してきたゴジラ。小さい頃は苦手だったけど、何度も観返すにつれて良さがわかった。今ではオールタイムベスト。哀しく怖ろしく格好いい、怪獣のすべてがある。燃える都市の向こうに巨大な影が見えるどこか夢の中を思わせる不思議な情景が印象的。

このゴジラは古代生物と伝説上の怪物と人間の手によるミュータントという三つの異なる顔(出自)を併せ持っている。栄光丸が沈み、探査に向かった船も沈み、それを救助した漁船も沈み、そこから一人生き残った大戸島の若者もゴジラに踏み潰される。誰も生き延びられない連鎖が怖い。

『ゴジラの逆襲』

1作目よりも手探り感が強く、歪で、それゆえに意外な面白さもある怪作にして快作。怪獣プロレスが存在しなかった時代の怪獣バトルは、意図しない早回しや、噛み付きなどの動物的なリアルな格闘、クライマックスではなく中盤に持ってくる構成など、怪獣映画のフォーマットが確立された現代では見られない描写が新鮮。前作の映像が無音でただ上映される会議室や、やけに時間をかけて描かれる宴会など、必要性のわからないシーンが妙に面白い。乱杭歯が不気味なゴジラの造形や凍結による決着など、シン・ゴジラを先取りしているように思える要素もある。

怪獣の登場しない怪獣映画も意図せずに実現されている。最初のゴジラの日本接近は緊急放送と管制室の地図の上を動く手の映像に終始し、一度もゴジラが映らないまま新聞記事で危機が去ったことが示される。

脱獄集達の起こした騒動で灯火管制が失敗したり、廃墟から立ち上がる様が描かれたり、主要登場人物のドラマだけでなく、良くも悪くも人間臭さが物事を(映画を)動かしている。東京を破壊した前作から、破壊からの復興までを描いたのが「逆襲」だ。また、余談だが地下鉄構内の水没シーンが圧巻。

『キングコング対ゴジラ』

怪獣プロレスを確立した作品。ミレゴジの先祖と言えるキンゴジの造形が素晴らしい。大きい手足も独特の魅力。そして多湖部長のキレ味。前二作から趣向をがらりと変えてコメディに寄せているが、それでも成り立つゴジラというジャンルの懐の深さを感じる。

『モスラ対ゴジラ』

冒頭の台風のシーンから心を掴まれる。今作のゴジラは明確に悪役なのに、砂をふるい落とす仕草や尻尾がタワーに引っかかるところがなんか可愛くて(そのうえ段差を踏み外してお城に激突したりする)、でもちゃんと怖いという不思議。

それにしても干潟から登場するゴジラってなかなか思いつけることじゃない。ガイガーカウンターを使うくだりは1作目の足跡を思い出した。ドラマパートは新聞記者が映画の花形だった時代を感じさせる。

『シン・ゴジラ』の第一形態登場シーンは、干潟から飛び出したゴジラの尻尾を連想する。

作品の意図とは全然関係ないんだけど、コンビナートを襲うゴジラの合成が黒沢清の『回路』の幽霊表現っぽくて面白い。

『三大怪獣地球最大の決戦』

怪獣たちの出現の前触れとして異常気象や天体の異変が起き、「地球の箍が緩んでいる」という台詞が発せられる導入部。KOMの設定はこの辺も踏まえているなら嬉しい。群像劇風にストーリーが進行しながら主役たちが姿を現し始めるのがわくわくする。

キングギドラが異星人の手先ではない貴重な作品。ギドラの登場シーンは全部格好いい。三体が協力して反撃に出る場面は怪獣たちを善玉として感情移入させるところだけど、一方で避難した住民たちが悲嘆にくれているのが印象的だった。怪獣プロレスは怪獣プロレスでありながらあくまで怪獣災害だった。

『怪獣大戦争』

ゴジラ初の宇宙進出。UFOに連れ去られたり人類のコントロール下にあったりとこの時期の怪獣の扱いには思うところもあるのだが、例のコスチュームのX星人たちが登場するとテンションは上がる。

この作品で一番好きな画は後半の市街地で暴れるキングギドラ。怪獣映画の感動は風景と怪獣の相互作用にあると思う。

『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』

海外版のタイトル『EBIRAH 〜HORROR OF THE DEEP〜』がかっこいい。嵐の中に現れるエビラは凄かった。正直エビラをナメていた。島から逃げ出してエビラに襲われたインファント島民が、初代ゴジラの政治(ゴジラに殺された新吉の兄)役の人に見えた。

敵に追われる水野久美を助けるゴジラは、キングコングの役を演じているだけと言えばそうなのだが、『ゴジラ(1954)』でゴジラが初めて姿を見せた場面を登場人物の立ち位置をずらして反復しているようにも見えて面白い。そもそもこの映画自体、平田昭彦と宝田明が役割をずらして共演している。

戦闘機がゴジラを爆撃するシーンやモスラが降り立つシーンの、ゴジラ映画ではあまり聞かない軽快だったりファンタジー調だったりする音楽が印象的だった。

『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』

擬人化の進むゴジラ。そして流暢なカタコト日本語のヒロイン。ブラックな職場で精神を病んだ登場人物(土屋嘉男)がいるのが面白い。この作品の魅力はクモンガ、カマキラスの(怪獣というより)巨大生物としての実在感と、ゴジラの熱線描写だと思う。人間と怪獣の距離が近く、木々の間から見上げるアングルが多い。登場人物の目線で怪獣の巨大さを感じる。海中から背びれをのぞかせながら島に接近してくるゴジラが格好いい。そしてカマキラスがなかなかに怖い。巨大化する前はメガヌロンを彷彿とさせる不気味さ。この辺の節足動物モチーフはデストロイアに繋がると思う。

ミニラの成長を熱線で表すためゴジラが熱線を撃つ機会が多い。飛びかかってくるカマキラスに放射熱線が直撃して、ちぎれた前脚が燃えながら落下してくる演出は平成ガメラを連想した。怪獣プロレスでは投石のダメージ>>熱線のダメージになりがちだったので、この作品での熱線描写は満足度が高い。

『怪獣総進撃』

怪獣がたくさん登場すれば楽しいのは怪獣映画の1つの真理。凱旋門を地中から突き破るゴロザウルス、モノレールにからみつくマンダ。各地に現れる怪獣は、地球がヤバいというより夢の中の光景のようなシュールさがある。ラストシーンは人間(観客・作り手)の世界から去っていく怪獣(映画)という意味合いが感じられて寂しい。正直言うと小さい頃は「人間が怪獣を管理している」という設定が嫌だった。怪獣ランドから世界中に解き放たれても宇宙人に操られていることにモヤモヤして、理想の『怪獣総進撃』をよく想像していた。

『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』

怪獣が実在しない怪獣映画。登場人物にとってもゴジラやミニラは映画の中の存在だ。大半の特撮シーンが過去作の使い回しだったり、メインの敵がガバラだったりするせいか、あまり人気はないが、ゴジラ映画を通して現実とフィクションの関係を描いているのが面白い。この時期の『怪獣総進撃』~『オール怪獣大進撃』~『ゴジラ対ヘドラ』という流れは中々に前衛的。主人公の一郎が反映しているのは怪獣映画の観客であった当時の子どもたちだ。(実際これを今やられたらたまったものじゃないというのは置いといて)使い回しの映像は、一郎がこれまでに観たゴジラ映画の記憶であり、ミニラとの冒険は一郎を(子どもたちを)スクリーンの向こう側に連れて行ったと言えるのではないか。この作品をただの夢オチと捉えるのは寂しい。天本英世の台詞で「一種の信仰みたいなものですな。大人の世界に神様があるように、子どもの世界にミニラ大明神があってもおかしくないでしょう」とあるように、夢というより想像力。空想の冒険で強くなって現実に帰ってくる。

『ゴジラ対ヘドラ』

唯一無二のサイケデリック前衛怪獣映画。ゴジラ映画とは思えない画が次から次へと繰り出されるのが凄い。冒頭のゴジラのおもちゃで遊ぶシーンから既に不穏である。クラブでラリって人の顔が魚になるなんて子どもの頃に観たらトラウマ必至だと思う。

ヘドラを振り回すゴジラと麻雀牌をかき回すサラリーマンの動きがシンクロして、投げ飛ばされたヘドラに呑まれてサラリーマン達が死亡する流れはヤバい。

主題歌をバックに工場の煙突にのしかかるヘドラ。排気ガスに覆われ太陽の光が届かず、画面は終始暗く煙っている。何もかも手遅れになってしまったような終末感が基調にある。映画の奇抜な表現だけじゃなく、怪獣としてもヘドラはとても魅力的。こんなのと戦うならゴジラも飛ぶしかないよなと思う。

『怪獣少年の〈復讐〉』でも指摘されていたジェットコースターの場面の奇妙さ。主人公の少年が一瞬ゴジラの影を目撃するが「こんな天気の良い日に来るわけない」と否定される。警報も出ていないし街は平穏なまま。その後ゴジラが出現するのだが、あの影が現実のものだったのかはわからない。ゴジラは少年の夢に現れ、おもちゃが存在し、しかし現実に石油コンビナートを破壊し、ヘドラと戦う。空想と現実の間で揺らいでいる。

『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』

キングギドラとガイガンは華がある。オープニングクレジットがちょっと格好いい。チャンピオンまつりは流血と火炎。とにかく燃やすし血を流す。後半はずっと戦ってた気がする。それにしてもアンギラスの鳴き声ってなんであんなに悲しそうなのか。

『ゴジラ対メガロ』

人生で最初に観たゴジラ。ジェットジャガーの手話を真似した記憶がある。今観返すとゴジラ映画もここまで来たか…と少し戸惑う。昭和ガメラのノリを逆輸入したというか。とはいえメガロはけっこう好きだし、ダム破壊は名場面。あとは戦車隊を空中から捉えた画が印象に残った。

『ゴジラ対メカゴジラ』

新怪獣あり爆発あり活劇あり昭和歌謡ありのメカゴジラの装備並みに盛りだくさんな作品。微妙に頼りないキングシーサーに何かを深読みしそうになる。この映画はなんと言ってもメカゴジラと火薬。記憶にある以上に強かったし燃やしていた。

『メカゴジラの逆襲』

『オール怪獣大進撃』以来にして最後の本多猪四郎監督ゴジラ。怪獣対決路線を継承しつつシリアスなドラマを作ろうとする苦心が伺える。容赦なく爆発を合成してくるメカゴジラⅡとチタノザウルスの都市破壊シーンは久々に凄かった。怪獣たちが異様に大きく見える瞬間があるのと、チタノザウルスの鳴き声がすごく印象に残っている。セピア色の海に去っていくラストが物寂しい。

『ゴジラ(1984)』

何度となく言われてきただろうけど惜しい作品だと思う。リアルさを志向しながらスーパーXという超兵器を登場させたり、避難命令が下っているはずの新宿でゴジラの足元に大勢の人達(どう見ても当時のゴジラファンの方々)がのこのこ集まってきたり、メロドラマ要素と妙に長い脱出劇があったり、色んな方向を向いていて「怖いゴジラ」「政治劇を盛り込んだリアルな怪獣映画」というコンセプトがブレている。でもそういうチグハグさも嫌いじゃないというか、放っておけない。

この作品が目指したことは後に『シン・ゴジラ』で達成されるし、カドミウム弾の使用に見られるようにゴジラを「放射能に動かされる生物」と捉える描き方はそのままVSシリーズの基調になっていく。平成ゴジラの礎になった作品であることは間違いない。武田鉄也とかまやつひろしについてはノーコメント。

『ゴジラvsビオランテ』

4代目ゴジラの格好よさ。「第~種警戒体制」や平成ではおなじみの「G」といった用語、ハリウッド映画を意識したようなアクションや掛け合いなど、(個人的な好き嫌いはあるけど)新しいものを、軽快で現代的なエンタメを作ろうとする意志は強く伝わってくる。

顔が映るだけで面白いサラジアのエージェントはずるい。あの最期は何回観ても爆笑する。

ストーリーは前作の直後、廃墟と化した新宿から始まる。ゴジラに破壊された場所にはゴジラの生体情報が残されているという観点が新しい(初代でも足跡の描写はあったが)。ゴジラの体温に言及していたり、ゴジラを生物(驚異的ではあるが)として再構築する流れは前作から続いている。オープニングも含めて「バイオ」の時代だ。このシーンは『シン・ゴジラ』にも響いている。

最後の方の「バットマンみたいだった」云々の台詞とか、ついさっき顔見知りが殺されたばっかりやぞと言いたくなる。こういう80~90年代のノリは苦手。でも「ヤングエリート」という言い方は妙に好き。超能力開発センターやGエスパーはオウム前夜だなあと思う。

大人しい描かれ方をしながら実は一番ヤバい人という点で山根博士に通じる白神博士。ビオランテが逃げ出した時の他人事ぶりに笑った。それにしてもゴジラシリーズは「父と娘」のドラマが本当に多い…。

芦ノ湖のビオランテのように異形のオブジェの周りで人間たちが右往左往している図は好き。全体の印象として、対象年齢は上がっているが大人向けというのも座りが悪い。怪獣バトル路線とも前作のリアル志向とも異なる独特の立ち位置である。若さというか、背伸び感。

平成ゴジラの芸能人のカメオ出演は好きじゃないけどデーモン小暮の入れ方は凄かった。権藤さんの部屋にあったゴジラ像はキンゴジだろうか。

『ゴジラvsキングギドラ』

映画館で観た初めての映画。経済大国日本!にバブルの匂いを強く感じる。しかし(未来人を除けば)人間パートに意外と浮ついた印象はなく、むしろ新堂会長とゴジラのドラマは良い線いってるんじゃないかと思った。ゴジラのオリジンが語られたことはとても価値がある。

ゴジラザウルスに命を救われた日本兵(=日本経済)が戦後の繁栄を経て、ゴジラによって最期を迎える構図は悪くないし、両者が向き合い容赦なく熱線が放たれるシーンにはおお!と思わず声が出た。 VSシリーズの好きなところはゴジラの熱線が強いこと。新宿を蹂躙するゴジラが素晴らしくて、だからゴジラ好きになったんだと思い出した。人間側もメーサー戦車が執拗に頭部を攻撃し続けていたのがポイント高い。海の泡に消えた初代ゴジラに対比させるように、泡の中で新生ゴジラが目を覚ますエンドロールが印象的。

ターミネーター、エイリアン、BTTF、ジュラシックパーク等ゴジラを観ればその時代の流行がわかる。未来人周りのチープさは昭和ゴジラの宇宙人たちの変奏と思えば許容できなくもない。霧の中でUFOを自衛隊が取り囲む画は悪くないし。とはいえ、ドラットが可哀想という視点がいくらなんでも無さ過ぎる。個人的には三大怪獣やGMK、キング・オブ・モンスターズのような人間に操られていないキングギドラが好きだ。

『ゴジラvsモスラ』

インディ・ジョーンズをお安くした感じのアクションや20世紀末特有の説教臭さなどドラマパートはしんどいが、モスラとバトラの幼虫は怪獣として面白いし、光線と粒子が飛び交う特撮は確かに「極彩色の大決戦」だ。モスラ成虫のぬいぐるみが欲しい。あと宝田明の英単語の発音が好き。

内容はともかくとしてVSシリーズは作り手がオタクじゃない感じがする。荒唐無稽な話でも一般向け映画を作っているんだという意識があるというか、あまり「引用」を感じさせない。

『ゴジラvsメカゴジラ』

VSシリーズの当初の完結編だけに、ストーリーも特撮も集大成の熱気を感じる。人造物(メカゴジラ・ガルーダ)に対して生命(ゴジラ・ラドン)を善とするのは当時のエコロジー的な流行りもあったのではないかと思う。

『ゴジラvsスペースゴジラ』

肉弾戦に光線・爆発・ビル破壊全部乗せの怪獣バトルはvsシリーズ最高だと思う。スペゴジの頬の辺りから生えてる牙はビオランテの名残りか。無人島で独りゴジラに戦いを挑み続ける柄本明には『終着の浜辺』辺りのJ・G・バラードの登場人物みを感じる。

超能力開発センターがサイキックセンターに名称変更していた。『vsビオランテ』の予知夢の絵は名シーンだったが、今作のピラミッドの中で瞑想する子供たちはなかなかヤバい絵面(しかも国の機関)。Mobile Operation Godzilla Expert Robot Aero-type略してMOGERAとかいう無理やりなネーミングは好き。

『ゴジラvsデストロイア』

赤熱し、凍結し、溶けて骨になる。これまでにない姿を見せるゴジラとそれを実現させた特撮が凄い。着ぐるみの仕掛けで窒息しかけたこともあったという文字通り命がけの演技。前作までは敵怪獣を描くためのゴジラだったが今作はテーマがゴジラ自身で、敵怪獣はそのためにオキシジェンデストロイヤーの化身として現れる。デストロイア幼体はまんまエイリアン(とはいえ劇場で観た当時はガチで怖かった)だけど『空の大怪獣ラドン』のように原因不明の事故が前触れとして描かれるとわくわくする。

冒頭から緊迫した展開、初代「ゴジラ」の文字が弾けて本作のタイトルが出る演出、そして1作目の出演者が40年後の本人役で登場。これで最終回という雰囲気が全編に漂っている。山根博士オマージュの台詞や1作目の映像が情緒に訴えかけてくる。

ラストの警句は蛇足だが、ゴジラの死と共に登場人物達が白い光に包まれる瞬間の時間が止まったような荘厳さに、何か(ゴジラだろうか)が向こう側に去ってしまったことを強く感じた。

雰囲気の暗さもあってvsで一番好きな作品。前作との間に阪神大震災と地下鉄サリン事件が起きていることも作品の終末感に影響しているんだろうか。

『GODZILLA(1998)』

特撮ファン・ゴジラファンはこの作品をきちんと評価していたという風潮があるので言いにくいが、子どもの頃はこの作品が嫌いだった。好き嫌い抜きに観れるようになってようやくこの作品がまぎれもない優れた怪獣映画だと納得できた。

ゴジラのキャラクター性を度外視して(ゴジラの名を冠する以上それはやっぱり問題だとは思うのだが)巨大な生き物=怪獣が現れる面白さ不思議さをこの映画では描いている。

この作品の魅力は何と言っても「大きいものが大きく見える」という怪獣映画の根源的な快感にある。トンネルの向こうから覗く眼、漁港を闊歩する爪先、木っ端微塵にされる桟橋と逃げる釣り人、マディソン・スクエア・ガーデンから突き出した顔。視点や対比を駆使して描かれる巨大さに何度も目を瞠る。

だからこそ後半のジュラシック・パークもどきの脱出劇には感心しなかったのだが。あと流石にあの巨体がマンハッタンを隠れ家にするのは無理があるのでは。水中に帰った方がゴジラ的ではある。

とても面白い作品ではあるのだが、ゴジラ映画はゴジラのキャラクター性と切っても切り離せないものだと思うので造形や解釈に対する戸惑いは残る。「ゴジラと思わなければ」なのか「こういうのも含めてゴジラ」なのかいまだに態度を決めかねている。

『ゴジラ2000 ミレニアム』

ミレゴジ雛形という最高に格好良いゴジラを生み出すきっかけとなった功績は大きい(スーツ版も好きですが)。冒頭の根室上陸はそれだけで元が取れる素晴らしさ。大きく恐ろしく驚異的なものがそこに居る、ということが信じられる特撮だった。・・・のだけれど、ゴジラを追いかける主人公3人がノイズになってしまっている。道楽に巻き込んだ娘をパートナー呼ばわりする父親も苦手だし、わざわざ同行しながら不貞腐れてばかりの記者もなんだかなあと思う。

「ゴジラとは何か」をテーマに掲げながら途中から宇宙人を追いかけ始め、微妙に歯切れの悪い怪獣バトルに持ち込まれる。VSシリーズから脱却しようとして、或はエメゴジに対して日本独自のゴジラ像を示そうとしてし切れない感じがフルメタルミサイルという兵器にも表れているのではないか。

『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』

ゴジラを撮りたくて映画監督になった人の作品はなるべく称賛したいのだけど・・・個人的には厳しいところが多かった。一応リアルタイムでも観ている。チャラい谷原章介が新鮮。超小型ロボットでカレー作るって十分凄いのに、手品のネタが割れて子どもにがっかりされる登場シーンの流れが納得いかなかった。こういうやり取りにしたいという型があってそこにディティールを流し込んでいるようなぎこちなさが全体的にある。登場人物のドラマとゴジラを結びつけた点や、ゴジラ襲撃による首都移転、水没した渋谷、メガヌロンを敵怪獣としてリメイクするなど面白いアイデアはいくつも見られるのだが。

とはいえG対策本部がなんとなくテレビの特撮っぽいノリだったり、戦闘機のデザインと機動性が現代日本の景観から浮いてたり、怪獣バトルでコマ送りやブレや不自然な加速を多用するのが(アニメ的な演出を意図しているのかもしれないが)個人的にはうーんとなってしまった。

『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』

ミレニアムで一番好きな作品。ゴジラ戦没者説を取り込んだオカルト風味の異色作(ゴジラには異色作しかない気もするが)。Jホラーを思わせる仄暗い画面と大谷幸の音楽が緊迫感を高める。伝奇的なバックグラウンドの怪獣に現実感を与えようとした(特に前半の)描写が素晴らしい。不鮮明な明かりの中に一瞬姿を現す海底のゴジラやトンネルのバラゴン、いつの間にか姿を変える景色、格子から覗く巨大な目、逃げ切れない生存者など、まるで幽霊のように怪獣を表現している。

GMKのゴジラ自体は怖いというより狡猾で、なんとなく人間臭い(戦没者の思念の集合体という設定だからかもしれない)。護国聖獣に殺される人間がことごとくチャラい若者なのも怪獣描写に感情が出ているようで気になる。

ゴジラ英霊説を採るとして、戦没者の怨霊と日本の風土の守護神が戦う構図はどうなんだろう、という疑問も浮かんでくる。それはともかくとしてこの作品の魏怒羅がキングギドラ一族で一番好き。あまり強くないけど。

主人公の職業にゴジラ映画におけるマスコミの立場の変遷を感じる。かつては新聞記者がゴジラ映画の花形で、政府や自衛隊の意思決定の場に(なぜか)堂々と顔を出していたのが、今作ではケーブルテレビの零細局。『シン・ゴジラ』ではとうとうSNSに追いつかれる。

『ゴジラ×メカゴジラ』

×メガギラスと話の骨格は同じだが洗練された印象。冒頭の嵐の中のゴジラが素晴らしい。暗闇と雨と爆発が着ぐるみに生命を吹き込み、住宅街を走るメーサー戦車という小さな驚きがゴジラという大嘘への橋渡しをする。雨で兵器の威力が落ちる設定は渋い。

ゴジラの影が薄いというより機龍がゴジラであり主役。八景島での暴走は『メカゴジラの逆襲』を思い出す。ゴジラとゴジラを戦わせる人間側の残酷さや、クライマックスのアイロニーにどの程度自覚的なシナリオだったのかが気になる。

『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』

機龍二部作の後編かつミレニアムの実質的な完結編。シリーズの疲弊と集大成の両方を感じる。機龍は存在が矛盾の塊。ゴジラと戦う兵器でありながらゴジラを呼び寄せる原因で、ゴジラにとっては敵であると同時に同族であり、二体の殺し合いは(親子の)抱擁でもある。モスラは蛇足感があるが、幼虫が糸を吐く場面はゴジラを弔うかのようだった。 モスラとゴジラの対決は本筋に関わらない脇役同士の戦いのようで感情移入に困る。全体として、マンネリというかオマージュというか、何かが何かをなぞっているような、怪獣映画を演じる怪獣映画という印象を受ける。

そもそもゴジラの骨は1作目で溶けてなくなっているはずなのだが、骨格が残り兵器として再利用される設定は2作目以降リブートし続けられるゴジラ映画の隠喩に思える。オチは正直蛇足に感じた。

VSと比較したミレニアム期の特徴はゴジラの上陸をきちんと描いているところだ。エメゴジの桟橋シーンの衝撃はそれだけ大きかったのか。

『ゴジラ FINAL WARS』

良かった点:生頼範義版のポスター、ゴジラの熱線の射程距離、カイザーギドラ、北村一輝 平成版チャンピオンまつりというか怪獣映画の着ぐるみを被ったアクション映画。マグロ云々の台詞に喜んだことを今は反省している。

人間パートと怪獣特撮が連動してないからって人vs人の格闘とシンクロさせればいいってものじゃないだろう、と公開当時は思っていたが、監督が描きたいのはむしろ人間同士のアクションで怪獣は添え物、とは言わないまでもその延長で怪獣を撮っているのだとわかった。理屈の上では許容しにくいけど意外と楽しめたのはノリがハイローっぽいからか。生頼範義ポスター版のFWゴジラが見たかったという思いはある(まあアレはミレゴジですが)。

『GODZILLA(2014)』

平成ガメラに通じる守護神ゴジラ。「ゴジラが目覚める、世界が終わる」ではなく「世界が終わる、ゴジラが目覚める」なのだからキャッチコピーでも実は示唆されていた。『キング・オブ・モンスターズ』もそうだけど、レジェンダリーのゴジラは1カット1カットがとても絵になる。

今作の一連の事態は人類の罪というよりミスや不手際と言った方がよく、その尻拭いをゴジラがやる形になっている。神話的存在=怪獣に対する人間の無力さの表現なのだろうけど、制作に板野義光が関わっているので『ゴジラ対ヘドラ』的な皮肉か?とも思ってしまう。

暗くて良く見えなかったり美味しいところを省略したりすることに欲求不満を感じなくはない。ただ、それらの見づらさは登場人物から見えるものだけを見せているからだとも思う。視点によって人間を描こうとしているというか。

空港の爆発で悲鳴を上げる人間たちがゴジラの出現で静まり返るシーンが好き。

『シン・ゴジラ』

ゴジラの脱構築かつ再構築。怪獣はそこにいるだけで、ただ歩くだけで世界を一変させることを再発見させてくれた。60年以上に渡って積み重ねられたキャラクター性を一旦脱ぎ捨て、ファーストコンタクトに立ち返ってゴジラ的なものを(ゴジラとは何かを)再び作り上げた。

いかようにも深掘りできるが、表面的には過去のゴジラ映画の文脈が可能な限り排除されている。ゴジラをゴジラと解釈したうえで、新たに出会い直すことを可能にしている。歴代のゴジラ映画や怪獣映画を踏まえつつ、それらの文脈に依らない強度を持ち得たことが凄い。

人間パートはすべて手続きの問題として描かれる。組織に属する個々の人物の描写はあれど、あくまでゴジラという事象への対処に一切は集約される。

面倒な手続きを、形式的な会議を繰り返し描き(この作品の凄いところはそれすらエンターテインメントにしていることだが)現実の地歩を固めていったからこそ、ゴジラが東京を焼き尽くす光景が夢の中のような幻想性を帯びる。

『空の大怪獣ラドン』

炭鉱町の怪事件が世界規模の災害に繋がるスケール感。連続殺人のミステリーから人類対ラドン、そして彼らの最期までを描いて80分に収める完成度が凄い。メガヌロンは怪獣の不思議さを、ラドンは怪獣の哀しさを体現している。

『モスラ(1961)』

モスラ幼虫の特撮は怪獣映画の最高峰だと思う。そこにいるだけで世界を一変させてしまうのが怪獣だと教えてくれる。話の骨格は『キング・コング』と同様だが、モスラを制御できない自然の象徴として描いた点が日本の特撮映画からのアンサーか。

記事引用元:『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の予習の記録|gu|note

2019年4月17日

映画『芳華 Youth』

中国という国は、いままさに激動の時代を駆け抜け興隆の頂点にあるといってもよいだろう。
激動を駆け抜けた中国では、また現在から過去を遡行し、そこから現在を見つめるといった物語が描かれるようになっている。たとえば、90年代以降の社会主義市場経済以来の大河を描いた『山河ノスタルジア』や『后来的我们(僕らの先にある道)』がそうだろう。

過去を振り返るときにどうしても胸につかえるような出来事の記憶というものがある。
日本にとっては、かつての第二次世界大戦や左翼的闘争の記憶というものがそうであるように、中国にもしこりのような記憶となっているものがある。文化大革命がそのひとつである。
文化大革命を行使した毛沢東の評価も現在では両価的なものとなっている。それは周恩来が国民のだれからも愛される人物として記憶されていることと対象的である。

過去を振り返るときに、どうしても見返さなければならない問題としての文化大革命。近年、その時代を描いた作品も多く作られるようになった。たとえば、チャン・イーモウ監督の映画『サンザシの樹の下で』『妻への家路』あるいは同じくチャン・イーモウ監督が現代の中国を代表する作家 余華の作品を映画化した映画『活きる』。そして、余華の大作『兄弟』は文化大革命の時代から元禄の中国ともいえる現代までを描いている。

本作、『芳華 Youth』もまた文化大革命の時代から現代までの大河を群像劇として描いた作品である。
青春=大河的群像劇と映像美で、まちがいなく最高の映画のひとつだろう。

また、この映画は中国の近代における農村共同体の喪失=国民国家の形成=資本制社会の成立の歴史とそれに翻弄される人びとの姿でもある。

主人公の農村出身の少女は国家により家庭を破壊された過去を持つ。もうひとりの主人公の青年は国家のあり方が変容する中で自分の生き方を見失う。
激動の中で、彼らの精神は変容し、いくつかの交流は失敗する。が、最後に既存の関係をこえた連帯にいたる者もいた。

しかし、献身的な生き方というのは互助的な農村共同体的な生き方なのだろうか。
あるいは、近代資本制的な自由な商品交換を重視する側面が強くなった社会の中では、それはむしろ野暮ったく下心を感じさせる不潔なものなのだろう。誠実なものこそが不条理の中に投げ出される。その姿は人をひきつける。それゆえに、人は過去を振り返り、そこにこそ本来的に大切なものがあったのだとノスタルジーを感じる。そして、どうして人はそれを回復できないのかと。

余談であるが、現在中国人に人気の日本の観光地は大分であるということだ。その農村や田園の姿が、中国の人々には喪失とノスタルジーをくすぐるものであるらしい。同じく、日本のバブル期にジブリの『となりのトトロ』が人気であったように、現在トトロは人気であるようだ。

印象的であったのは、素朴で学級委員的で優等生の模範兵が、ギャル的な丁丁に惚れて気持ちを抑えられなくなっったシーン。彼は告白するけれどギャル的に擦れた少女にはむしろ「え、、キモっ。(性的な目で見るとかありえない.. 怖いわ…. )」というような感じでフラれる。しかも、その上でそれを誇張して暴露される姿。うーん。なるほどな〜と思った。

2019年4月14日

『イップ・マン外伝 マスターZ』

 ブルース・リーの師としても知られる葉問(イップ・マン)の生涯をモデルしたカンフーアクション『イップ・マン』シリーズのスピンオフ。シリーズ3作目の『イップ・マン 継承』でドニー・イェン演じるイップ・マンと激闘を繰り広げた詠春拳の達人チョン・ティンチ(マックス・チャン)が今作では主人公になる。

 『イップ・マン 序章』から今作までストーリーは毎回一緒だ。家族や市井の人達とささやかながら幸せに暮らす主人公が、トラブルに巻き込まれ、生活を失う。その背後には街を牛耳る外国人(『序章』では旧日本軍、『継承』ではアメリカ人、『葉問』『マスターZ』ではイギリス人)と、彼らの言いなりになっている地元の警察やチンピラがいる。映画の前半でチンピラとの大立ち回りがあり、主人公と家族が絆を深める描写があり、やがて誰かが死ぬ。ついに立ち上がった主人公が詠春拳の技で悪い外国人に一騎打ちを挑む。主人公に感化され、地元の警察も反旗を翻す。だいたいこんな流れである。

 このシリーズの魅力は何と言っても、主役を演じるドニー・イェン、今作ではマックス・チャンの、超絶技巧の詠春拳と、手を変え品を変え物量を変えて繰り出されるアクションシーンの数々である。
繁華街の看板の上を飛び回りながら繰り広げられる1対多の立ち回り。上体が全くぶれずに高速で打ち出されるショートパンチ。酒のグラスの譲り合いから流れるように移行する組み手。志を取り戻したティンチの名乗り。ドラマがベタというよりもアクションがドラマでありカンフーで人物を描いている。
やられたら即倍にして返す荒っぽさといい、人格者のイップ・マンの端正な演技とはまた異なる、ある種ダークヒーロー的なティンチのキャラクターがアクションに反映されている。

 主人公が現代に生きる詠春拳の達人という設定なので、一介の刑事が突如アクロバティックな蹴り技を披露するSPLシリーズのようなアクションシーンとシリアスなドラマの乖離が起こらないのもいい(SPL2『ドラゴン×マッハ!』は大傑作だけど)。

 「友情出演」トニー・ジャー演じる謎の黒づくめの男(本当に謎だった)も見どころ。

2019年4月14日

映画『バーニング 劇場版』

『バーニング 劇場版』

 村上春樹の短編小説『納屋を焼く』のイ・チャンドンによる映画化である『バーニング劇場版』はいくつかの点で原作から大きく変更されている。

 その一つが主要な登場人物の設定だ。村上春樹の『納屋を焼く』では語り手は作者を連想させる小説家だが、映画『バーニング』の主人公ジョンスは20代前半の若者である。金も仕事も無く、小説家志望と言いつつ何を書いたらいいのかわからずにいる。「彼女」にあたるヘミはジョンスの幼馴染であり、一見華やかではあるが境遇的には彼とそう変わらない位置にいる。

 借金に追われる母親、起訴された父親、ヘミ。ジョンスの周りは成功者であるベンと対称的な人たちだ。

 菓子パンを歩き食いするジョンスと、スポーツジムでランニングするベン。軽トラの車内でコンビニ飯?を飲み食いするジョンスと、パスタを作り、ソウルで一番美味いもつ鍋屋に誘い、高級ワインを持参し、ホームパーティーを開くベン(列挙してみたら思ってた以上に食の対比が多かった)。

 「僕」=ジョンスと、「彼」にあたるベンを非対称な存在として描き、韓国の現代社会における階級間の対立を作品に持ち込んでいるように見える。

 もう一つ、原作と決定的に異なるのが後半の展開である。ここで映画の作り手は原作のある有名な解釈に従ってストーリーを展開させる。

 それは、ベンが若い女性を狙った連続殺人犯であり、「ビニールハウスを焼く」とは彼の犯行の隠喩だというものだ。ベンが実際に殺人犯であれジョンスの思い込みであれ(その答えは曖昧にされている)この解釈を基に映画の後半部が展開する。

 これらの相違の果てに映画は原作とは異なる「衝撃的」な結末にたどり着く。
 この作品にはリトルハンガーとグレートハンガーという言葉が出てくる。ヘミがアフリカ旅行中に出合った部族の言い伝えだという。

 この映画の人物設定で言えば、ジョンス達餓えた層(=ハンガー)とその対極としてベンのような富裕層が存在する。

 「リトル」な餓えた者から「グレート」な餓えた者になること。それを、個人的な不満が社会的な怒りに変わること?と解釈するとラストのジョンスの行動は「持たざる若者」から「ギャツビー」への復讐という象徴的な性格が強くなる。ジョンスがベンを刺すことに何重もの含みを持たせているのだろう。ヘミ(を奪われたこと)の復讐だけでなく。この二人は持たざる者と持つ者にはっきり分けたのは原作との大きな相違点だから。

 小説を書き始めたのはベンが殺人犯だと確信したのと同時に見えたが、この二つのことはどう関係しているのだろうか。

 ラストシーンの炎に包まれるベンと寒空の下全裸のジョンスの対比も非常に印象的だった。この映画では焔の存在感がとても強い。父親が出て行った母親の衣服を燃やしたことがジョンスのトラウマになっている。また彼は、おそらくヘミが姿を消した(殺された)と同時刻、燃えるビニールハウスの夢を見ている(その時の主人公は少年の姿をしている。おそらく母親の衣服を焼かされた時と同じ年齢である。燃えるビニールハウスに惹かれているような表情をしている)。そしてベンを燃やしている。

 ヘミの記憶と周りの人達の記憶の食い違い(または彼女の虚言癖)はこの映画に一定の曖昧さ、不確かさの存在する余地を残してはいるが、ラストの展開も含め後半はオリジナルと言っていいほど作り手の解釈が強く出ている。

 同時存在といった村上春樹的なキーワードを散りばめつつ、韓国の現代劇として再構築している。それは原作を70年代ドイツの時代劇・政治劇として解釈したリメイク版『サスペリア』に似たアプローチかもしれない。

 良い悪いではなく、「村上春樹の『納屋を焼く』の映画化」というよりも「イ・チャンドンの『バーニング劇場版』」だ。

2019年4月14日

映画『ROMA/ローマ』

 聞いていた通り冒頭のシーンがまず凄くて、床の掃除を延々と映す映像で美しさを感じさせられることに驚いた。床を洗う水が起こす波と、水に映る上空の飛行機が結末と呼応していた。

 『ゼロ・グラビティ』が宇宙飛行であるのに対して『ROMA』は時間旅行なのか。この作品は(カメラの視点を借りた)語り手の記憶や回想というよりも、その裏側で起きていたこと、当時は知り得なかった出来事の別の顔を、過去に戻って眺めている印象を与える。

 固定された視点による長回しは、懐かしい人に触れることも目の前の悲劇を止めることもできずにただ見ていることしかできないもどかしさがあり(いくつかのシーンは早くカメラを止めてあげてと思った)、決定的に過ぎ去ってしまった時間だということが強く感じられた。

 主人公の恋人のフェルミン(クソ男)や武術のコーチの芸人やその門下生たちや武力抗争を引き起こした男たち等、「マッチョなもの」に対する批判、戯画化する視線を感じた。フェルミンが全裸で棒術を披露するシーンは色んな意味で面白い。

 悲痛な出来事が映し出される一方で愉快なところもある。一家の父親が高級車を車庫入れする場面の妙に凝った演出とその結果。同じ車を運転してド派手な傷を拵える母親。

 一家にある変化が起きた後の母親の車庫入れの場面。その出来事を乗り越えて小型車に買い換え、古い車で最後に家族旅行に行く。主人公を病院に運ぶのもこれらの自家用車だ。車は出来事を見届け、登場人物の心理状態を表す、『ROMA』のもう一つの語り手に思えた。

 「識者が絶賛してるからきっと難しい作品なんだろうな…」と観る前は身構えていたけど(実際よく読み解けてはいないけど)、良い映像作品を観たな、という充実感があった。

 自宅のテレビやPC画面だと集中が途切れる怠惰な観客なので、ネット配信の話題作を劇場公開してくれるのはありがたい。

 余談だが、観始めて真っ先に浮かんだ言葉は「犬を散歩に連れていってあげればいいのに…」だった。

2019年3月6日

映画『THE GUILTY』を観る。

映画『ギルティ』を観た。
劇中の会話の95%が主人公と誰かとの電話によるものという、とても特徴的な映画。
視覚を完全に奪った中で観客を欺くオチとその後に残る嫌な感じ(後述するが主人公と観客の共犯関係)は、この映画でしか成し得ない体験だと思う。
その点に関しては見事だった。

映画を観ながら視覚情報について考えるということは、例えばキューブリックや最近で言うとウェス・アンダーソンみたいな完璧な構図を前にしてという時が常だと思うが、今回のように完全に情報を遮断された時に、如何に人間が視覚に頼っているかということを改めて感じさせてくれた。

例えば、少し前に視覚障害者の方のために映画に音声解説を入れるという特集をタマフルでやったときに感じた、音声のみから映像を想像する際の聴覚の研ぎ澄まし方や、より広義に捉えれば小説を読みながら映像を想像するという体験に近い。
その中でこの映画は嫌らしく観客のミスリードを誘う。

大半の人間はこの映画のオチが分かったときに、絶句するはず。その後に如何に自分がありふれた範囲までしか想像が及んでないか、限られた情報で決めつけの判断を下してしまうかというところに自己嫌悪する。もちろん主人公もこの錯誤にはまっており、ここで主人公と観客の共犯関係が成立する。

映画のタイトル『ギルティ』にちなんで、主人公はラストで事件とは無関係の完全に個人的な罪について告白する。物語は終息を迎え、主人公は初めて物語中に居た部屋から出る。
個人的にはここは少し甘かったと思う。受け手のミスリードや手を差しのべられない不能感による共犯関係でいえば、『こちらあみ子』に代表される今村夏子の諸小説のどぎつさには及ばなかった。

ただ、緊迫感の演出や一定のリズムで鳴り続ける音のバリエーション(電話の着信音、電話越しの雨やサイレンの音、水に薬が溶ける音まで)の不気味さなどは、普段は無意識に排除される事で、映画体験としては斬新だった。

2019年3月2日

映画『女王陛下のお気に入り』を観る。

映画『女王陛下のお気に入り』を観た。
前作『聖なる鹿殺し』でランティモスに期待外れな部分があったけど、今回は余りにシンプルにとても面白かった。
ざっくり言うと、『寝ても覚めても』と同じく、ヤバい監督がありふれたテーマの商業映画を撮ったときに起こるおかしくなる感じが要所にあった。

ストーリーはシンプルで、宣伝では‘’海外版大奥‘’と言われてるみたいだけど、まさにそう。政治音痴の女王ゆえ、政治の話も本題には全く絡まず、シンプルに女王をめぐる女官の争い(しかも争うのはたった2人の一騎討ち)に終始する。なのに余りに面白い。魚眼レンズを使ったカメラでの撮影や当時の豪華絢爛な美術セットや衣装など楽しめる要素は多々あるが、やはりこの映画は女優たち名演に尽きる。
オリヴィア・コールマンが主演女優賞を取ったときはグレン・グロース前世で映画冒涜したとしか思えんと確信したけど、この映画見たら正直解らんでもないと思えた。

腹グロのエマ・ストーンと真っ直ぐなレイチェル・ワイズの2人のやりあいも見応えがあった。
僕は男子だからこのテーマをファンタジーとして楽しめたし、これからもずっと好きな映画でいられることが嬉しい。
女子は他人事としては見れない部分もあるだろうなと。

2019年3月2日

2019年1月期ドラマ時評 2月末進捗

1話完結の連ドラは型が見えた段階でいつでも切れるし、逆にその型での最上の回が突然来たりする(大げさかもしれないがこのドラマはこの回のためだと思える)ので、簡単には切れないし、その回でドラマの評価を決めたい。
5話の『アタル』や6話の『イノセンス』がまさにそうだった。

もちろん1話ごとに型の中でのバリエーションを作り、その蓄積から神回と呼ばれる回は生まれる。つまり、回を重ねるごとに良い回が来る可能性が上がるのが一般的。ただ、最近の傾向としては中盤あたりに一度完成形を見せ、その精度を基準としてドラマ自体の質が担保されるケースが多い気がする。

『イノセンス』6話

初回から言ってる弁護士が無罪を勝ち取り続けるという設定自体が非現実的なので、そこの解釈を如何に広げるかというのがこのドラマの鍵だが、本作はそこに極めて明確にアプローチをしている。
今回もまさにそうで、結果だけを見れば被告人は無罪判決を受けた。

ただそこに複数の事件を絡め本件では無罪だけど別件では裁かれるべきという被告人の中の二面を用意した上で、無罪を勝ち取った弁護士の正しさという尺度を揺さぶるというというこのドラマの型の一番のテーマが見事に描けていたと思う。ゲストの吹越満・須賀健太の演技も素晴らしかった。

『スキャンダル専門弁護士 QUEEN』6話

今クールの民放ゴールデンでは間違いなく最も完成度の高いドラマだが、視聴率が悪いらしく、全くと言っていいほど話題になってない。
この完成度の高さを言語化(記事として取り上げる)しにくいのも分かるし、受け手にも伝わりづらいのも分かる。

敢えてここで少し解説すると、ドラマのテーマである昨今社会を騒がせている謝罪会見とその元ネタ(アイドル、企業のセクハラ/パワハラ、スポーツ界、都議会野次、夫/妻のDV、電子決済)についてはリアルタイム性を兼ね備えつつ丁寧に扱われているが、注目すべき点は正直そこではない。

実はこのドラマの凄さは1話完結を支える型の構成自体にある。
まず、主要4人のキャラクターと配置のバランス。コメディに寄りすぎない程度に無駄話を交えじゃれ合いながら、お仕事チームもののような団結力をほぼ感じさせない。
あくまで仕事上の付き合いというリアリティが体現できている。

それを支えているのが、アドリブに近い脚本(実際アドリブも多いと思うが)を書く倉光泰子。ストーリー上の重要な場面では差別を煽りかねない強い言葉を敢えて使い緩急を付けている(後述する氷見の危うさ)部分もさすがだと思う。
後は、何度も言及しているが関和亮の演出・撮影が一目で分かる新しさ。

WOWや去年だと『dele』はなんかは頑張っていたが、まだ民放ドラマでここまでしっかりと画面を作り込んだ作品は少ない。
これからラストに向け、主人公・氷見の素顔が暴かれていく。
1話から徹底して白と黒以外の服を着ていない氷見紅は、シロかクロか。
最後まで目が離せない。
あと泉里香やっぱ好き

2019年3月2日

映画『半世界』を観る。

映画『半世界』を観た。
39歳という人生の折り返しを迎えた3人の幼馴染みの話。
タイトルの半世界に込められた意味に注視して観ていたが、特に前半は徹底的に救いのないストーリーが展開される。
余りにも無慈悲で一種の純文学的な物語だと気づいたときから、全てがそう見えてきた。

独り釜で炭を焼く職人、後輩の殉職がトラウマで田舎に戻ってきた元自衛官、地元の中古車販売店店員、息子とのコミュニケーション不全、不健全な父性、田舎の狭い人間関係、陰湿な苛め、漁村の風景、拭いきれない血の力など、小説だったらお手本のような土着文化を扱った文芸作品になっていただろう。

田舎ならではの荒廃した街の描写と自然の豊かさは現代における半世界(反世界)と呼べるものだろう。その他、半分が強調された世界の描写も多くあり、特にラストの日が射しているのに雨が降っている中でのシーンは強く印象に残った。

映画の中で主に描かれるのは3ヶ月という短い期間たが、物語以前もこうやってダラダラと光の見えない毎日が続いてきたこと、そしてこの先も好転することなく日々が続いていってしまうんだろうという事が窺える。この長く苦しい毎日から抜け出した主人公をどう見るか、また世界を知った出戻りの彼の「ここもまた世界」という台詞をどう捉えるか。

2019年2月26日

映画『バーニング 劇場版』/『THE GUILTY』を見る。

今月、見逃してはいけない映画は『バーニング 劇場版』と『THE GUILTY』だろうかと考え両作品を観た。

『バーニング 劇場版』

いかにも映画っぽい瞬間しかなくてとても面白かった。

村上春樹的なメタファー会話や世界の中にぽっかり口を開けた空虚の存在と、村上春樹っぽくない非モテ属性の主人公や韓国の社会問題や田舎の土の臭いが、相反せず作品を肉付けしている。韓国の今・ここの物語でありながら、不可知の暗闇も感じさせる。

姿の見えない飼い猫も夜中の無言電話も映画の結末も一見現実的な説明が与えられているが、決定的な瞬間は一度も描写されない。ヘミが幼い頃井戸に落ちた話のように真相は宙ぶらりんで、未来と同じくらい過去も現在も不確かなものとなっている。

納屋(ビニールハウス)を焼くという隠喩がビニールハウスで韓国の農村に結びつく。そこから貧富の格差が描かれ、主人公に対比されるベン=ギャツビー(=何で稼いでいるのかわからない金持ちの若者「韓国にはギャツビーがたくさんいる」)を通して、韓国の社会問題とアメリカ文学両方に連想が繋がるのが面白い。

同時存在の意味はよくわからないけど、Aであると同時にBである、連続殺人犯であると同時に無実の女たらしである、妄想に駆られた狂気の人間であると同時にルサンチマンを抱えた不遇な凡人であるというような、虚実が並行して存在する感覚は、フィクションを通してしか描けないものだと思う。

北朝鮮との国境近くの農村って韓国ではどういう位置付けなんだろうか。フォークナーにおける「南部」と重ねられているのだろうか。

『THE GUILTY ギルティ』

これは面白かった。ほとんど警察のコールセンターのやり取りだけでドラマが進行するのだが、「限られた情報で事件を解決する」というよりも「限られた情報しかないから真実を取り違える」要素が強く、見えないことがひたすら怖かった。暗闇の中でもがき続ける話だった。

子どもを装い犯人の情報を聞き出す場面や管制室とのやり取り等、通話音声だけを頼りに誘拐犯を突き止めるサスペンスに前半は引き込まれる。だが解決に焦る主人公の独断専行が増えるにつれ、事件の真相も彼の人格も別の顔が見えてくる。そして後半のある会話で、あまりにも痛ましい過失が明るみになる。何が起きていて誰に罪があるのか二転三転するストーリーの中で、裁かれることを受け入れた者同士がわずかながら救われるクライマックスにタイトルの意味が示される。傑作。

2019年2月6日

映画『バハールの涙』

『バハールの涙』を観てきた。凄かった。
世界のこういう実録ものを見るたびに自分の無知を痛感する。
作り手の伝えなければという責任感があまりに強すぎて、受け手の想像力を奪いかねない箇所がいくつかあったように思えるが、それでもあそこまで真正面からテーマを描いた力強さと勇敢さは他に換え難い

単に女性が自らの尊厳のために戦うという通り一辺倒なストーリーではなく、戦士の長となり戦うバハールとそれを間近で記録し続ける女性ジャーナリストの視点のバランスなどには計算が感じられ、物語の終わりに用意された残る(続く)戦士と還る(広く伝える)記者の信頼とそれぞれのその先を感じられた。

パターソンの時もいたく記憶に焼きついたけど、改めてゴルシフテ・ファラハニの神々しさに終始釘付けだった。
美しい彼女の砂埃で汚れた頬を伝う涙の跡を忘れてはならないと思った。


話は逸れるが、婚姻届を提出した当日に一人で映画館で映画を観た人間っているのだろうか。
極寒の小雨降りしきる中、晴れて結婚した。

2019年1月20日

2019年1月期ドラマ時評

昨日、新年会を兼ねて先輩と会って話したが、1月期のドラマは今のところあまり豊作ではないかもしれないという印象。『3年A組』『トレース』『刑事ゼロ』『人生が楽しくなる幸せの法則』『メゾン・ド・ポリス』『私のおじさん』『さすらい温泉』『デザイナー渋井直人の休日』あたりは、初回でもう特に言うこともないという感じ。

今日までで初回放送済みで残すのは『ゆうべはお楽しみでしたね』『スキャンダル専門弁護士』『フルーツ宅配便』『グッドワイフ』『初めて恋をした日に読む話』『ハケン占い師アタル』『トクサツガガガ』かな。
これプラス今週始まるのもいくつかあるから十分なんだけど。

『ゆうべはお楽しみでしたね』

『ゆうべはお楽しみでしたね』は本田翼とオンラインゲームの親和性(ほんだのばいく)と深夜ドラマのゆるさ、『フルーツ宅配便』は風俗嬢の有象無象を不能の男性の目線から見守る視点で描く点と地方都市(Uターン)、『初めて恋をした日に読む話』はラブに寄り過ぎない(希望)落ちこぼれ塾講師とヤンキー高校生のバディーものの側面が光った。

『スキャンダル専門弁護士』


今のところ一番は『スキャンダル専門弁護士』かな。
初回見た時にラストがあまりにコテコテでいただけないなと思ったけど、2話ではストーリーに抑制が効いて本来このドラマの売りである撮影・演出・脚本などが際立っていた。

倉光泰子のオリジナル脚本はアドリブのようなセリフがテンポ良く交わされ、1話完結のストーリーにも王道を与えず、バラバラに用意した要素を帰納法的に集めて解決するスピード感・整理力が素晴らしい。

関和亮の演出・映像も冴えていて、全体の撮り方もそうだけどカットが変わる前に意図的に竹内結子初め役者のアップを抜いたり、2話の最後の背面からのショットも良かった。

ネット記事を見ると昨今の芸能人の不祥事における謝罪や1話でアイドル2話で社内セクハラやパワハラを扱ったセンセーショナルさを讃える記事も散見されるが、別にその部分に新しさはまるでなくて、見るべきは脚本・演出・映像の3つ。
年上の3人の女性とチームを組む最年少の中川大志も素晴らしい。

今クールは『グッドワイフ』『スキャンダル専門弁護士』『イノセンス 冤罪弁護士』と弁護士ものが3つも。幾ら作りやすいからといってあまりにも専門職ものに拘泥するのは個人的には危険だなと思うが、まだ始まったばかりだし静観。

『イノセンス 冤罪弁護士』初回


弁護士ドラマとしてはあまりにもオーソドックス過ぎる作りだが、丁寧に作られているとは思う。
冤罪というテーマで毎回無罪を勝ち取るという展開には現実味が無いので、今後は真実を究明しても事実は覆せないといった挫折の展開も予想できる。

その時に、警察も検察も被告の証言をも鵜呑みにせず、しっかりと証拠を集め事実確認を行い真実を明らかにするという行為がいかに重要かを今の時代状況と向き合った上で主張することには十分に意義がある。
寡黙な主人公の静かな情熱にもう少し付き合ってもいいかなと思った。

『ゾンビが来たから人生見つめ直した件』初回

初回に関して言えばこれは物凄く良く出来てた。
今ゾンビものを真正面から作るリスク(『カメラを止めるな!』の二番煎じ)を完全に逆手に取って、ゾンビを非日常の意味的なメタファーとしてのみ使い、そこに地方のアラサー女子をぶつける狙いが素晴らしい。

いつの時代もゾンビは不安や危機のモチーフであり、物語のテーマはあくまで一つ屋根の下で暮らさざるを得ないアラサー女子3人の現状。彼女たちが抱える三者三様の問題を30分という短い尺の中で見事に解説しきっていた。
終わりなき日常に亀裂が生じた今後の彼女たちのあられもない生命力に期待。

『トクサツガガガ』初回


特オタを隠しながら日々を過ごす女の子の苦悩や奮闘をコメディタッチで描く。今でこそ世間のオタクに対するイメージはかなり軟化したが、それでも特殊な趣味趣向は特に職場において、未だにどの程度までオープンにするかと悩む人も多いはず。

会話の流れでたまたま発覚し意気投合したり、はたまた思い切って打ち明けたら死ぬほど盛り上がらかったりと、誰もが経験したことのあるようなあるあるで今後物語が安定して進んでいくのだろうと予測できた。
小芝風花のコメディエンヌぶりと特撮的な演出も嫌味がなく好感を持った。

2018年12月16日

ドラマ『僕らは奇跡でできている』最終回

いいドラマだった。相河一輝というキャラクターを創造し、彼に沢山のことを教えてもらったというか再確認したということだけで満足。脚本家・橋部敦子の最高の仕事だったと思う。

現代的な生き難さというテーマでこの作品を『獣になれない私たち』と比較していた部分は多く、先ほど『獣になれない私たち』の最終回の感想のところで書いたけど『僕らは奇跡でできている』は物語で徹底的に“ない”を否定し続け、最終回では受け手の創造を遥かに超えた“あるかも”(宇宙へ行く)を“やる”と宣言した。

これは明らかに受け手からのあり得“ない”という非難を承知でやっており、作り手としてはそこの“ない”という態度に少しでも疑問を持って欲しいというメッセージだったと思う。そこには『獣になれない私たち』と共通する自分を信じるという命題への直面があり、本作は単に自分の好きなことをやるという提案ではなく好きなことを見つけることこそが奇跡への第一歩だと、そこを自分で納得して動けることこそが重要だということだろう。好き放題していた相河先生も実は最後はしっかり成長している。「水泳とロシア語」は興味がないけど宇宙に行くためにやれるのは水本先生のおかげだと感謝したシーンがそれ。

こうやって“あるかも”を前提に物語が良い方に進むのは偽善的でつまらないと思う人も多いのは分かる。ただ、現実の手に負えなさを改善するヒントとなる向こう見ずな希望の物語は個人的には好きだなと思う。

大河原さんの不在の存在も良かったし、エンドクレジットの毎回特定のところに色がつく意味のある演出も見逃してない。最終回はクレジットまるまる虹のように色が変化していた。とても幸せな物語だった。

2018年12月16日

ドラマ『獣になれない私たち』最終回

ラストに間違った?と台詞が出るあたりがまさにそうで、彼女彼らの性質からするとあの選択肢は未知の領域であり、つまりこの作品で初めて一線を越えたことになる。獣になれないという比喩的な苦しさを対岸から見つめた時、彼女彼らは何を語るのか。頑張って欲しいところです。

本作に関して一貫して否定的だった自分からしたらこの上ない納得の終わりだった。裏を返せば、その生々しい苦しさ同感していた人たちをある種裏切ったラストだったとも言えるはず。自分が本作に感じていたドラマ的な難しさというのは、フィクションとの境界であり、こういうリアリティベースの群像劇が一定程度虚構性を排除し現実世界に誠実でなければならないというのは必然だろう。

ただ、あくまでドラマはフィクションであり、物語的な起伏が無く、登場人物たちもその場で身動きが取れずもがいていると、早くそこから救ってあげてとどうしても思ってしまう。

本作がこの問題に果敢にチャレンジしていたのは最終回の構成でも自明である。最終回前で二人は初めて一線を越えた(これは単に寝たという意味ではなく)のだが、その件について最終回の冒頭から話し始め、60分の内の30分を使う。もちろん30分ずっと二人の会話劇が続いた訳ではなく、その間に二人に関係する人たちがそれぞれの問題を抱えて救済を求め現れることで、二人にとっての重要な話し合いが自然と先延ばしにされていく。これこそまさにこの作品全体の構造そのものであり、自分がいの一番に向き合うべき問題が他人への譲歩や干渉によって薄れていくのである。

不特定多数の周囲の人たちを大切にするというのは現代人の最重要課題である。ただ、その中においてもある程度自分を信じて生きてく環境を整える努力をすべきではないかと思う。5tapには行かないが結局本物の鐘に関係を委ねた本作のラストそうなったようななってないような終わり方だった。

自分だったら絶対に本物の鐘が鳴る前のグラスを合わせる描写を鐘としてこじつけて、「鐘が鳴ったから大丈夫、上手くいくよ」と言う。そこに根拠はないけど、自分を信じる力があるから。ただ、それが最後まで出来ないのかこの主人公たちひいては現代人たちということも分かるので、その微妙なバランスを踏まえた上で、ラストをあそこに落ちつけたというのは評価する。

最初から最後まで徹底的に“あるかも”を排除した“ない”前提の物語、最後にほんの少しだけ“あるかも”を信じれた、その小さな変化を読み解くような極めて繊細なドラマだったということでしょうか。いい経験でした。

2018年12月16日

映画『ア・ゴースト・ストーリー』を観る。

昨日『ア・ゴースト・ストーリー』観てきたけど、ちょっと僕のこれまでの経験ではうまく語れないタイプの映画だった。
カメラワークで言えば極端な長回しとたまにある俯瞰的な映像、ゆったりとしたパンなどこれが物語的には幽霊の視点と解釈してもいいところなんだけど、実はそれでは説明がつかない。

少し前にNHKでやった『カラスになったおれは地上の世界をみおろした。』というドラマは、人間とカラスの身体が入れ替わるという設定で、カラスの目線の映像を全部ドローンで撮影したというものだったが、この映画の映像もそういったものに近いニュアンスで撮影されていたのだと思う。

主人公が死んで幽霊になり、その姿で自宅まで帰り恋人を見守り続ける生活(というか死に活)が始まるのは間違いないから、あの幽霊は死んだ主人公なんだけど、途中で対面の家にも同じ姿の幽霊が現れたり、実は悠久の時を超えて存在してしている幽霊の存在も明かになり、後半はスケールがかなり大きくなる。

ラストシーンでは幽霊は成仏され形を失うのだが、恐らく成仏という概念はキリスト教的には無いはずで、そうすると鎮魂と成仏の違いなどが気になる。ただ、後半のスケールを考えると幽霊というのは遺された者の記憶や思い出のメタファーなのかもしれないとも取れる。それなら鎮魂や成仏とは切り離される。

死んだ主人公が幽霊になり恋人を見守るという設定にも関わらず、特に最後まで暖かみは一切感じず、台詞も極めて少なく無機的なシーンが最後まで続く。ただ、このポジションをロボットに代用できる時代において、敢えて幽霊という荒唐無稽な設定にこだわった部分に作り手の意図は集約されているはず。

2018年12月10日

映画『ボヘミアン・ラプソディー』を観る。

『ボヘミアン・ラプソディー』とてもよかった。だが、より注目されるべきは、この2018年に人びとが人びととつながりAssociateするような映画が作られ、人びとを魅了していることだろう。他方で、『獣になれない私たち』に見られるように、人びとが解離的や独我論的に生きる時代にである。

あるいは、2018年現在は世界中でポピュリズムが席巻し、ヘイトスピーチが行われ、深センではプロジェクション・マッピングによりプロパガンダが流れ、パリでは暴動と激しいデモが行われている時代でもある。

イーン=フレディ・マーキュリーはメタファーとして境界例的な力があった。彼らのパフォーマンスは人と人との境界を溶解させ集団として人びとをつなげた。フレディはその自らのすべてを開放して免疫系をやられながら45年の人生を全うした。そして、それは伝説にすらなった。

フレディ・マーキュリーの死後数年、彼から影響を受けたカート・コバーンが自殺する。1994年、日本では『新世紀エヴァンゲリオン』が発表された年でもある。精神性は時代を反映する。70年代頃までは対人恐怖や神経症が多く、80年代は境界例の時代であり、90年代以後は解離性障害が増加したという。

そして四半世紀が経った。2018年、映画『ボヘミアン・ラプソディー』は人びとに涙と感動を湧き起こしている。
右腕と拳をかかげるフレディ、クイーンはマイノリティによる連帯のひとつの形だったのだろうか。

2018年12月1日

映画『アンダー・ザ・シルバー・レイク』を観る。

『アンダー・ザ・シルバー・レイク』面白かった。
これだけふんだんにポップカルチャーを盛り込めば、何処をどう取り上げても議論が白熱するのは自明で、それはそれで楽しいのだが、個人的には一見複雑そうに見えるストーリーと現代におけるオタクという存在に注目した。

この物語のストーリーは紆余曲折がありながらも、最後これでもかと言わんばかりに明確な落ちがある。
一般的に陰謀論や都市伝説ものの面白さは、①推理の過程と②ラストの信じるか信じないかはあなた次第という2つであり、もちろんこの作品も全編にわたって①は大いに繰り広げられる。

それは冒頭の落書きのメッセージから最後の自室のシーンまで99%がそうと言っていい。しかし、この作品は②が全くない。なぜなら、ラストで主人公が信じた答えが示されるからである。作品中延々と振り回された主人公は最後に全てを踏まえた上で、そこから降りる決断をし物語を終わらせる。

陰謀論や都市伝説を解読した者はそれだけで選ばれた者であり、場合によっては大富豪になりうる可能性すら秘める。しかしこの主人公は、その可能性を他社に譲渡し(自室に◇◇を記し)、隣人の部屋へと向かう。地図上の大がかりな謎解きの矢印が最後の矢印移動に選んだのが歳の離れた隣人だったのは面白い。

この選択は何度か来る母親からの電話とも呼応する。簡単にこじつけ過ぎかも知れないが、マザコンとオタクという個人的に着目したもう一つのテーマである。主人公のルックスとオタク走りのギャップがチャーミングだった。
彼の謎解きの力は紛れもなくオタク的な深堀りの力である。

ネットを使えば誰でもそれ相応の知識が手に入る時代に、その有効な仕分けや使い方、自らの領域においては曖昧さを一切排除して明瞭な回答を導くこと、さらにそれを踏まえて自ら決断する迷いの無さも、今の時代へのメッセージのような気がした。

2018年12月1日

死者=家の時間と生者の時間『A GHOST STORY  ア・ゴースト・ストーリー』

これは、なんと言ったらいいのか、「死んで幽霊になった男が残された妻を見守る話」ではあるけれど、もっと広い意味で、去っていくものと後に残されるものの話である。ただし去っていくのは生きている人間の方だ。幽霊は後に残される。ここでは生者と死者の立場が逆転している。

事故で死んだ男はシーツを被った幽霊の姿になって家に帰る。幽霊は生きた人間に触れることはできない。過ぎていく時間の中で、かつての妻をただ見守り続ける。生きている人間と幽霊の一番の違いは時間の流れ方だ。幽霊になった人間の時間は止まる。

印象的なのは、彼が幽霊になった少し後、一人で床に座り込んで食事する妻を長回しで映した場面だ。彼女は食べる。食べ続け、そして吐く。壁に反射する光や外の物音は少しずつ変化する。しかし横で見ている幽霊だけは微動だにしない。動いている生者の時間と止まった死者の時間。

男が作った歌の歌詞にもある通り、彼女は去っていく。旅立って、それっきり物語から退場する。その後も見知らぬ人間たちが次々とやってきてはいなくなる。去っていくのはいつも生きている人間であり、それを見送る幽霊は独りで取り残される。時間も去っていく。やがて家は失われ、見知らぬ未来で幽霊だけが取り残される。それでも幽霊は家から離れることができない。

この映画では幽霊と家は切り離しては語れない。英米の怪談では幽霊屋敷ものが1つのジャンルとしてあるが、この映画にはそういう家に憑りつく幽霊というモチーフも感じられる。
生者に触れることのできない幽霊なので、黙って何かを見つめている場面が多くなるのだが、幽霊のその目線は家そのものが持つ目線なのではないか。見守る視線というか、固定された視点からの長回しが多い。男が幽霊になるより前から、廊下の向こうから誰かが見つめているような映し方をしている(それは実際幽霊になった男の視点だったのだけど)。廊下からの視点、床に座って食事する妻を見つめる視点、離れたところから家を映す視点。長回しは幽霊の視線を代弁しているようだ。固定されたカメラの視点の中で、人間が生き、時間が流れる。見ている側の時間は止まっている。生者と死者で流れる時間が違うことはシームレスな省略で表されている。幽霊はリアルタイムで動いているように見えながらその目の前で何日、何年もの時間が早回しで経過している。

この映画では個人的な物語が、もっと大きな感覚と結びついている印象がある。星空が映される冒頭のような、宇宙的な時間感覚。人間の尺度を越えた時間感覚。それは歴史であり、終末に向けて進み続ける時そのものである。人間の時間から切り離された存在を主人公にしたことで、それを観るものに認識させることができる。
病院を抜け出して家に帰りつくまでの、遠景から映した野原をゆく幽霊の姿にとても感動した。今ここの世界であるはずなのに誰もいない地球に思えた。宇宙的な孤独。

終盤、未来の世界から土地に最初の移住者が現れた時代(開拓期のアメリカ?)へ跳んで現代に戻るまでの一連の展開に『HERE』というグラフィックノベルを連想した。これはアメリカのある一軒家が建つ場所の、地球誕生から人類滅亡後の遠い未来までを同じページの中で同時的に描いた作品なのだけれども、それは幽霊の目線というか、限られた空間の中で過去未来を行き来する者が見る光景に思える。
あの家が建つ前に、一組の一家がそのやってきて、家を建てる前に原住民に殺されていた。歴史。家を通り過ぎていった者たち。あの家の歴史のそもそもの始まりに血なまぐさい死があった。言ってみればこの世のすべての土地は事故物件だ。
生者たちはメッセージを残して去っていく。妻は壁の隙間に手紙を埋め込んで、先住民に殺された一家の娘は石の下に紙きれを隠して。冒頭で主人公の妻が話していたことでもある。子どもの頃、自分にあてた手紙を家の中に隠していたこと。読めばその時に戻れるから、と。手紙(物語も、映画も、あらゆる表現も)は書かれた時点で過去のものになり、現在からは無限に遠ざかり続ける。これらは常に過去から未来の誰かに向けたメッセージになる。手紙は、幽霊と違って限られた時間にしか存在できない人間がそれを越える手段であり、別々の時間に存在する生者と死者を繋ぐものだ。

家が取り壊されて、隣家の幽霊は全て諦めて消滅した。男は、家を失っても、かつて家のあった場所に居続けた。そして未来の、馴染みのない高層ビル群に、見知ったものの何もない世界に絶望して身を投げて、気が付くと開拓期のアメリカにいた。
時間遡行をどう解釈するのか。未来で自殺した幽霊はなぜ過去に戻るのか。そもそもあれは本当に過去なのか。あの世のあの世、幽霊が見る走馬燈なのか。本当にループしているのであるならばなぜ自分の死を止めようとはしないのか。物には触れる。メッセージを伝えようとしたことはある。しかし家に越してきた日から死んで妻が家を去るまで(ピアノを鳴らすことはできたのに)何もしない。
愛と言い切るにはあまりにもざらついた感情。あるいは、彼の執着は壁に挟まった手紙を読むことだけで、それ以外の自分の生き死になど思考の外だったのか
究極には全ては消えると(異様に長く、誰だかわからない人物に)語らせた後に、家が取り壊され、未来になって、しかし過去にループして終わる。終末に向けて無機的に進み続ける線的な時間に対して物語は環を描く。

死者=家の時間と生者の時間『A GHOST STORY  ア・ゴースト・ストーリー』|gu|note

2018年10月24日

2018年秋ドラマ・チェック

今週は新ドラマの主に初回チェックで終わった。『SUITS』『中学聖日記』『文学処女』『獣になれない…』『天』『黄昏流星群』『ブラックスキャンダル』『昭和元禄落語心中』『大恋愛』『僕とシッポと…』『忘却のサチコ』『ドロ刑』『結婚相手は…』『過ちスクランブル』『こんな未来は聞いてない』

どれも今いちぱっとしない。『僕らは奇跡で…』が唯一見たくて見れなかったのでそれに期待。
今のところ『昭和元禄…』『結婚相手は…』『獣になれない…』の順かな。

『文学処女』6話まで


これまでありきたりな設定と退屈なストーリーに落ち着くと見てきたが、6話で一変した。和室に座り背後から抱えるように担当編集の髪をドライヤーで乾かす作家というシーンで漸くタイトルにもある文学が形だけでも意識される。そこから怒涛のように各人物の過去の影とトラウマが連鎖する。作家の過剰な反応、作家と付き合いの長い編集者、主人公の同僚、編集長。同じような痛みや負い目に結ばれて、これまで目立たなかった人物たちにスポットがあたる。物語はここから複雑性を増しそうな予感があり、下田悠子の脚本にも期待。

『中学聖日記』2話まで

オーソドックスな中学校教師と生徒の恋。普遍的なストーリーゆえに今の時代にこのテーマを描くことで見えてくるものがあるという狙いを感じる。いつの時代も意図しない“危うさ”にこそ人は心を動かされるし、それを妬み糾弾し晒し上げる。それによって傷つく人間やそれでも後戻りできない一線をこえる瞬間が訪れるもしれない。婚約者との距離や婚約者の上司の存在、結婚する際の家族同士の難しさなど、核となるテーマ以外にも物語にはしっかり“危うさ”が用意されている印象。
あんなちんちくりんな有村架純が妙に色っぽいのはなぜなのか。

『大恋愛』2話まで


こちらも設定は大いにオーソドックスで、若年性アルツハイマー病で徐々に記憶が失われていく女医と売れない小説家の10年間の恋の話。
台詞にもあったピカレスクでエロティックな展開とは無縁の感動作に仕上がる予感しかしないのは事実だが、安定して見ていられる。初回、この設定において敢えての『脳みそ腐りますよ』という大石静の台詞には驚いたが、積極的な生の実感・エネルギーというところを突き詰め登場人物が一丸となって主人公を支えるという部分、現実に置き換えるとそれくらい大変なんだという事を感じながら見たいと思う。

『僕らは奇跡でできている』初回

橋部敦子オリジナル脚本ということで期待していたが、素晴らしかった。
動物行動学を研究する主人公の大学講師の常識や固定観念にとらわれない考え方や行動をメッセージとして発信する。冒頭、独身の主人公は家政婦の幾つかの忠言に聞く耳をもたない。一見するとコミュニケーション障害にも思える主人公のキャラクターは初回のラストにイソップのウサギと亀の話で回収される。亀はなぜ寝ているウサギを起こさなかったか。ウサギの居眠りは油断だったのか。ここにその答えは描かないが、マイノリティの自分にはすっと受け入れられる結論がそこにあった。生き難い世の中で、それでも王道を進む人間と脇道に逸れる人間がいる。

そこに優劣はなく、そもそも両者は交わることが一切ないというのが脇道に逸れる人間からの回答だろう。王道を進む人間からの回答は言うまでもなく、俺の勝ち。
脇道に逸れる人間の面白さが少しでも伝わる内容になって欲しい。

『獣になれない私たち』初回


ガッキー主演・野木亜紀子脚本という事で既に話題になってる作品。
個人的には野木亜紀子が日テレでは『掟上今日子の備忘録』以来3年ぶりに書くにあたり、チーフP西氏・演出水田氏とガチガチのスタッフで挑んでおり、今や野木亜紀子はドラマの希望なんだなというところ。

まだ初回しか見れてないのだが、『重版出来!』以降のTBSでの野木作品に比べると少し散漫でキャラ設定やストーリーにも工夫がない。
もう少し踏み込んで、職場での論点がずれまくっている人の凶暴さや、自ら負のスパイラルに飛び込んでしまわないとならない原理などの描き方があった気もする。

初回の最後で主人公が街の看板広告を目にして変身を志すブランドが『Metamorphoses』=『変身物語』からも分かるように、タイトルにもある『獣になれない』というのはつまり変身できないということ。初回を見る限り、個人的にはそこに起因するのはどこか他人からの目線・ないはずの弱みを握られいる感覚であり、このテーマをどう昇華していくか。

また、これまで見過ごしてきた事にメスをいれた時の何かが動き出す瞬間の変化に伴う負荷と変化しないままいつまでも一人で抱え込む負荷の対比など、初回はかなり分かりやすく物語の骨格を打ち出していたが、これからどうなっていくのかを楽しみたい。

野木亜紀子に関しては、昨日と来週の2週で初のNHKでのドラマ『フェイクニュース』にも期待してる。今日観れるかな。取り敢えず一旦ここまで。

2018年9月20日

ドラマ『高嶺の花』最終回

『高嶺の花』最終回

近年稀に見る程の傑作ドラマが乱立した今クールの中でも、最後まで異彩?を放ち続けていた。下火傾向が著しい10年代のテレビドラマは、良くも悪くも脚本家の作家性が大きなウエイトを占めることになる。
個人的にその流れが変わったのが、『逃げ恥』のヒットだと思ってる。

言わずもがな野木亜紀子も作家性の強い脚本家ではある。ただ、『逃げ恥』以降、脚本家のみが作品を一手に背負のではなく、制作陣がチームとなって如何に面白いものを届けられるかという変化が『透明なゆりかご』『dele』『この世界の片隅に』など今クールのドラマの成功に繋がっているように感じる。

そんな中、唯一といって良いほど最後まで野島伸司という確固たる作家性で勝負した作品が『高嶺の花』だった。伝統と革新、継承、姉妹兄弟、ひきこもり、反抗、暴力など、これでもかと言わんばかりにテーマを詰め込んだ本作は、間違いなく迷走していた。

ただ、情報の詰め込み過ぎによって発生する迷走や、そもそも迷走を迷走とすら自覚できないのが現代である。野島伸司の迷走を日本社会の迷走と重ねるのは無理がある。しかし、本作は全てが綿のようにふわふわと重みを失った社会で、重みの存在価値を問い直すための挑戦だったことは疑う余地もない。

野島伸司にとっては華道などの伝統芸能すらその重みを失っているように映るのだろう。では、従来の方法、例えば継承や保守的思考でその価値は死守できるのか。本作はその答えを選ばない。各登場人物は、新流派を立ち上げる、異なる道へ進む、別の芸術(絵を描く)にぶつけることで、その重みを問い直す。

条件はひとつである。そこに“愛”はあるか。
全てが重さを失った現代に愛だけを頼りにに新たな価値観を創造し生きていく選択がなされた結末は野島脚本には珍しいハッピーエンドと言われている。これは真の意味でハッピーエンドを見失っている現代の人々への野島伸司からの警鐘かもしれないと思った。

それにしても石原さとみは凄い。あれほどまでに感情が蛇行する役をよくも演じきったなと思う。身を削って死に物狂いで花を活け続けたカリスマ花道家が、最後「私は花だよ♡」って町のチャリンコ屋のおっちゃんと結婚しちゃんうだから。それを稀代のラブストーリーにみせちゃうんだから。

2018年9月9日

映画『きみの鳥はうたえる』を観る。

「きみの鳥はうたえる」を見た。
素晴らしかった。良い映画を観れたという実感が強く残った。

主人公である“僕”のバランス感覚に好感を抱いた。純文学作品の映像化となると、主人公の偏屈さだったり欠損(その痛さこそがチャームでもあるが)がどうしても目立ちがちだが、本作の“僕”にはそれがあまりみられないような気がした。

行動の動機や生活における力の配分、人との接し方など、とてもバランス感覚に優れている。だからこそ彼を含む佐知子と静雄との関係は永遠に続くはずだったし、彼が最も望んでいたことがそれだったのは冒頭のモノローグからも自明である。

ただ、そんな事はあるはずもなく、この物語でも“僕”の感覚ではどうにもできないところからバランスが崩れていく。顕著な例が森口というバイト先の人物。彼の致命的なバランス感覚の無さに僕は居ても立っても居られず鉄槌を下す。思えばあの場面から少しずつ雲行きが怪しくなっていった。

永遠に続くように思えた飲んだり遊んだりの毎日は、不安の裏返しだろう。振り返った時にそう思えるのは何ら問題がない。問題なのは、その瞬間に不安を感じていることだと思う。少なからず“僕”にはそれが無かったと思いたい。佐知子や静雄には、店長や森口や静雄の母には恐らく不安があった。

不安は日常のバランスを揺るがす。揺らいだ日常は、かつてのものではない。佐知子と静雄の関係の変化はその顕れだろう。その変化に気づいた“僕”も少しずつ変化していく。嫉妬もそうだ。静雄の母とのことをあのように佐知子と静雄に伝えたのは、“僕”のバランスが少しずつ崩れている証左だろう。

そして最後のシーン。もう戻れないところまでバランスを崩した“僕”は120を待つことができず13で走り出す。佐知子のこの上ない表情で物語は閉じられ、結末は観客に委ねられる。ただ、あのいつまでも続くと思われた夏がはっきりと終わったという事だけは明らかだ。

2018年7月16日

映画『カメラを止めるな!』を観る。

『カメラを止めるな!』最高だった。
僕は基本的に喜劇への理解が薄く、面白い話が苦手。それに加えてインディペンデント映画であり企画ものというところにバイアスを抱き、世間の注目と称賛とは裏腹にアレルギーが出そうだなと予感していた。

実際、冒頭の37分ワンカットという壮大な挑戦である一幕に散見された妙な間や噛み合わない会話に仕掛けがあるのだろうと分析的に見てしまった。しかし、この映画は後半パートでその受け手の冷めた見解を見事に蹴散らしてくれ、さらに壮大なメッセージに替える。
「俺たちは頑張ってるんだ」と。

作品の特徴に一つずつ触れていくと、まず企画・脚本の妙。
映画やドラマにおいては、前例のない企画(構成)を思いついた時点で勝ちという作品は往々にしてある。本作も紛れもなくそのうちの一つだと思う。そして、その企画を最も魅力的に表現した脚本も素晴らしい。

37分のワンカットでのゾンビ映像→映像が作られるまでの過程→もう一度37分のワンカット映像を今度はネタバレで見せる。
それほど複雑ではない企画(構成)だが、脚本がしっかりしているので随所(というかほぼ全編)に笑いが生まれ、企画(構成)への説得力をアシストする。

これでも十分過ぎるくらい贅沢な映画体験なのだが、僕が最も感動したのは、この映画から最終的に受けたメッセージが作品の作り手たちの苦悩と達成だったということ。映画を作る映画となるとこの手の展開は避けられないが、そこで現代日本の問題点を指摘し、さらに、頑張ってますと落とす。爽やかに。

制作費の都合・制作期間の短縮・俳優や事務所同士の関係や宣伝・流行への迎合・ポリティカルコレクトネスなど、今の時代のドラマや映画表現の純粋性のなさは言うまでもない。作り手はそのつまらなさを嘆き逃げることもできる。しかしこの映画は、そこで諦めない。

それを体現するのが37分ワンカットという不可逆的な構造なのではないか。一度スタートすればカットが掛かるまではカメラは止められない。予想外のことが起こっても、工夫をする。振り返らない。頑張る。
クライマックスが近づくにつれてどんどんそのメッセージが強くなる。

どこで誰が何を工夫してどう成立させたか、どのカメラがどの映像を撮影していて実際どれが使われて今はどの映像なのか。二幕目で舞台裏を映すことで虚実が綯い交ぜになりつつも、作り手の苦労と頑張りがリアルに面白可笑く、同時にグッとくる。映画愛に溢れた映画だった。

2018年7月15日

映画『少女邂逅』を観る。

いじめをきっかけに声が出なくなった小原ミユリ(保紫萌香)。自己主張もできず、周囲にSOSを発信するためのリストカットをする勇気もない。そんなミユリの唯一の友達は、山の中で拾った蚕。ミユリは蚕に「紬(ツムギ)」と名付け、こっそり大切に飼っていた。「君は、私が困っていたら助けてくれるよね、ツムギ」この窮屈で息が詰まるような現実から、いつか誰かがやってきて救い出してくれる──とミユリはいつも願っていた。

ある日、いじめっ子の清水に蚕の存在がバレ、捨てられてしまう。唯一の友達を失ったミユリは絶望する。
その次の日、ミユリの通う学校に「富田紬(つむぎ)」という少女(モトーラ世理奈)が転校してくる───。

映画『少女邂逅』公式サイトより http://kaikogirl.com/


映画『少女邂逅』。すごく良かった。これは間違いなく傑作だ。
イノセント&フラジャイルなティーン・エイジャを描いた作品として、目がくらみ意識が遠のくような作品であった。

手取りやiPhoneでの撮影による映像や視点、光や色の美しさ、夢と現実のあいだをゆききするようなマジックリアリズムのような世界観とそれを強化する音響効果。すべてがとても良かった。

この作品を見るきっかけは偶然予告編を目にしたことだった。この風景はどこかで見たような、高崎の感じがすると思って見たのが、きっかけだった。やはり舞台は高崎中心だった。枝優花監督が高崎出身ということだった。
だが、結果的にいえば、地元補正はゼロで完璧な作品だった。ぼくが見た新宿武蔵野館での上映後には、枝優花監督と出演者の秋葉美希さんと土山茜さんのトークイベントがあった。監督は驚くくらい若い女の子で、パルプフィクションのTシャツがよく似合っている雰囲気だった。

久しく映画のパンフレットを買うことはなかったが、上映後あまりの鮮烈さに劇場のロビーでパンフレットを購入した。
枝優花監督の経歴を見ると、『オーバー・フェンス』の特典映像撮影編集だという記載があった。
『オーバー・フェンス』は、ぼくにとって特別な作品のひとつで、数年前に見てかなり救われたところがあった映画だった。
出演していた俳優の松澤匠さんも『少女邂逅』でも『オーバー・フェンス』でも両作で良い演技をしていた。

ふつう、高校生の不安定なところを描く作品であれば、過剰な事件の連続とエゴのぶつかり合いを想定する。
だが、本作はそうではなかった。精神科医で批評家の斎藤環は、境界例的「分裂」から多重人格的「解離」へという時代精神の変化を表現するが、本作のティーン・エイジャのフラジャイルさも分裂的ではなく、むしろ、解離的であった。解離的な精神状態、そのとき、人にとっては存在論的なテーマが切実に重要なものとなる。

本作では、自分の価値や人生の意味を見失ったふたりの邂逅とそれがふたりの人生を左右するものであったことが描かれていた。
そしてその邂逅は周囲の人間のこころにも少なからず影響を与えるものであった。

本作のモティーフである蚕。ふつう、蚕をモティーフとして扱うのならば、喪失とか損壊からの修復のモティーフとして利用されるというのが一般的であるだろう。たとえば、村上春樹の『1Q84』などのように。
だが、本作では、そうではなくむしろ社会・システムの嘘や欺瞞、他方で生の不条理、そして少女たちの人生を疎外し暴力的に搾取する現実を描くものとして蚕をモティーフとしていた。たしかに、製糸場は女子の人生を簒奪し、蚕の命を略奪し蹂躙するものであった。
そのような現実の中で、現実から目をそらして直視せずに思考停止してシステムの中でいきる多くのひとびと、そしてそうではなくもがき苦しみながら生の意味を獲得しようというふたり。

しかし、結局のところ富田紬(モトーラ世理奈)は、自分の生の物語を紡ぐことはできず、価値を見出せなくなり損なわれてしまう。
一方で、小原ミユリも自身の生の意味を獲得し、価値を感じられれようになったわけではない。彼女はある意味では富田紬を搾取してしまった。邂逅の中で、彼女のイメージを神さまのようなものとして描き、そのすべてを受容することができなかったのだから。
彼女はたしかに疎外された状態、システムの外から、中にうまく入り込んだ。しかし、それだけだ。であるのならば、それから、以後、どうだい?と想像せざるを得ない。

本作については、岩井俊二監督に影響されたところが大きいとの声が聞こえるが、ぼく自身は『FRIED DRAGON FISH』をむかし見たくらいでまったく岩井監督の作品を見たことがなかったのだが、この作品を見て翻って岩井監督の作品を観ようと感じた。別の話ではあるが、最近、中国人の女の子から「岩井俊二の『Love Letter』を見て日本に来ようと決めた」という話を聞いたというのもあるのだが。
しかし、中国では村上春樹と岩井俊二は同じような受容のされ方をしているという話も聞く。ある意味では、サリンジャー的 – 村上春樹的 – 岩井俊二的というのは、ひとつの流れなのかもしれない。
ぼくが『サリンジャー的、サルトル的』などと言って、言いたいこともそこにあるのではないか。
あるいは、『オーバー・フェンス』と『少女邂逅』にすごい近いところのことのような気がしている。あるいは山田かまち的か。

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