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映画&テレビ

2018年7月7日

平成の終わりという時代に『半分、青い。』を観る。

先輩から4月クールのドラマ評が届いて、ようやく文化的な生活があったことを思い出した。
ただ、4月期ドラマは稀にみる不作だった。数作を除いてはほぼ惰性で見てしまっていた。

そんな中『半分、青い。』は異色すぎると言ってもいいほどの独自路線を貫いてる。
特にここ1ヶ月の展開は目が離せない。主人公の鈴愛が性別や家などの外的要因が絡む問題からではなく、自ら選んだフリーランスの仕事で行き詰まる様を容赦なく描く。

あれは恐らくすべての創作する者の恐怖に通ずる。先日言及した今年の群像新人賞の盗用疑惑の話題とも時期的に重なり、生みの苦しみがリアルに伝わってくる。
『半分、青い。』については、平成史という着眼が一つ重要な要素になってくる。先輩が『半分、青い。』の感想に『20センチュリー・ウーマン』との類似性を指摘していたのだか、僕も本作は鈴愛の生を通じて平成を描くというのは北川悦吏子の一つの狙いであると思っている。
律が鈴愛にプロポーズしたのが95年(あのさりげない告白と重なる当時の日本)でそこから時は流れ99年に鈴愛は「私は28歳になって何もない」と失意のどん底に落ちる。

そして今日は仙吉が『あの素晴らしい愛をもう一度』を鈴愛に贈る。
朝ドラは前時代の呪縛に囚われる人物の存在を通じて歴史の暗い部分を表現することは往々にあるが(最近だと「ひょっこ」の峯田がそう)、今回は仙吉がその役であり、時代を示す指標にもなっている。

鈴愛の「28歳になって何もない」という言葉や「あの素晴らしい愛をもう一度」が口ずさめることなど、しっかり見ると99年をリアルに描けているんだが、どうしても物語の中から時代が立ちのぼってきにくいのは少し残念に思う。油断してると普通に平成30年の話として見れてしまう。

2018年4月30日

2018年4月期 ドラマ評(概観)

4月期ドラマも半分ほどが初回を迎えたのでざっと総評。
全体的に少し低調のような気がしてしまうが、期待したい。

『コンフィデンスマンJP』

連ドラは3年ぶりの古沢良太の脚本。昨今恐らく誰も引き受けたがらない月9枠は、前作『デート』と同枠。
古沢は前作からの3年の間に映画の脚本を何本か書いていて、その影響が色濃く出ている。

ただ、古沢の特徴であるキャラ造形や膨大な台詞量に魅力を感じる一方、特に連ドラで描くべき作品なのかという疑問が残る。制作陣から取り敢えず何でもいいので月9で書いて下さいと丸投げされ、それをこなしているように感じてしまう。

第2話を通して
初回の暴走する展開にがっかりしたが、今回は良かった。
初回では昨今の映画での古沢脚本との近接性を感じたが、2話でようやく『リーガル・ハイ』のリブートをおこなうという狙いに気づいた。
『リーガル・ハイ』は12年と13年の連ドラなので、あれから5年か。

『リーガル・ハイ』は悪人や悪事に対して、人間的には変態ではあるものの司法という公的な武器で対峙する辛うじて「正義」が存在する物語だった。一方、本作の主人公は詐欺師。つまり「法律」や「正義」が悪に対する武器として機能しなくなり、それに代替されるのが詐欺師が武器に使う「感情」。

本質的で真っ向から正論をかまし敵を論破する古御門と、“らしさ”や“空気”を演出し敵の感情に付け込みぎゃふんと言わせる本作の3人。時代観がしっかり反映されている。それに加えて、後ろめたさから任務を完遂できないボクちゃんの感情に流されるキャラクター造形や、今回の吉瀬美智子演じるヒール役のワンマンで新しい事を目論む人間に対する日本的な寛容のなさへの皮肉など、物語の軽いタッチとは裏腹にしっかりと描くべき現代的なテーマが見てとれた。これが続いていくとは限らないが、2話でだけみれば古沢脚本の良さが十分伝わる内容だった。

『正義のセ』

個人的に『タラレバ娘』がなぜあれだけ評価されたかイマイチ理解できない身としては、同じ制作陣と主演の吉高由里子での本作に魅力を感じない。1話を見た限りではお仕事ものとしての話の筋や画面の装飾などの演出も中途半端。あと、職場に女性が主人公の吉高一人なのはどうかと思う。

『あなたには帰る家がある』

これも良くある頑張れお母さんもので、そこに不倫とサイコパスキャラを入れアクセントにしましたというお世辞にも褒められない設定。最終的に中谷美紀が理想とする家族が再生されれば良いのだろうか。テーマが散漫になってしまっていてメッセージが伝わりにくい。

『Missデビル』

平穏な世界にノイズを差し込み価値観に根本から揺さぶりをかけるというのはまさに遊川和彦の手法で、その二番煎じのような作品。過去の成功体験から視聴者を繋ぎ止めるフックとしてこのような設定を利用するのは悪くないが、毎度同じような展開で続けていては最後まで持たないだろう。

『いつまでも白い羽根』

大きく括るとお仕事ものだが、主人公がその職業に夢や希望を抱かず単につぶしだと割り切っている点が今っぽい。そこに周囲の人間の問題が組み込まれる点も評価できる。ただ、基本淡々とした展開で物語が進む中、主人公が初回から2度同じ流れでキレた点に単純な型の予感を抱いた

『宮本から君へ』

まだ初回しか見てないけど、素晴らしい。
原作の評判は様々なところで聞くが、未読。池松壮亮演じる宮本のエネルギーがとにかく明るい。明るいんだけど暗い。このアンビバレントを真利子哲也が確信犯的についてくるんだから、間違いようもない。

原作の予備知識がないのでオープニングでベタ過ぎるみやじの声が聞こえ池松壮亮のあの何とも言えない表情のアップを見せられると、もう最高だろうとなってしまう。ヒロインの華村あすかもドラマの出演がほぼ初めてみたいだが存在感があるし、三浦透子にも『素敵な…』を見たばかりでドキッとさせられた

『シグナル』

初回だけでみれば明らかに一番良くできていた。
韓国で大ヒットしたドラマのリメイクで、原作が安定しているのが大きい。設定を説明するような台詞をことごとく省く尾崎将也の脚本も良い。お決まりの警察内部の闇という流れにならず、時空を超えた心情と事件をしっかり結びつけてほしい。

『未解決の女』

初回を見る。大森美香の久々民放作品がテレ朝というのに不安があったが、その不安が見事に的中。
演出が『ケイゾク』『SPEC』と酷似し、主題歌の使い方も『アンナチュラル』の成功の模倣。
そもそも、挑戦的なドラマを悉く避け数字だけを追い求めるテレ朝ドラマに大森美香は勿体なさ過ぎる

きちんとした原作もあり重厚感のある1話完結の刑事もの(謎解き)をやりたいのであれば、今までやってきたように専用の作家を使えばいいのにと思う。
この作品で大森美香が描く書き言葉というのは彼女の作品史的にはとても重要なテーマなのに、それがボヤけまくっている。

もう少し辛抱してみようと思うが、波瑠含め登場人物も全くぱっとしないし、見所が見つからない。
大森脚本のオリジナリティはNHKに戻ったときの楽しみとしたい。

2018年4月30日

映画『きみへの距離、1万キロ』/『さよなら、僕のマンハッタン』を観る。

昨日『きみへの距離、1万キロ』と『さよなら、僕のマンハッタン』を見てきた。
どちらも90分前後でコンパクトにまとまった良作だった。

『きみへの距離、1万キロ』

随所にコンプライアンスやプライバシーにおいてアウトだろうという点があったけど、設定上ということもあるが極端に少ない台詞の中に「誰かの脅威がビジネスになる」とか「運命の人は一人じゃなくていい」など、輝くものがあった。

本作は特にラストシーンの重複が意図的としか思えないほど『君の名は。』的で、つまりネットが普及し誰といつどこでも瞬時につながれる時代に“すれ違いの恋”というシチュエーションを作れるかというのが創作の原点にある。

とはいえ、『君の名は。』はアニメということもあり時間をズラすというファンタジーでシチュエーションを作ったが、本作は現実で起こり得る可能性を担保しつつ、それを限界まで狭めたという設定。
石油パイプライン監視・ロボット遠隔操作・アメリカと北アフリカ・国境を越えるなど、現代的な切り取り方も良かった。

『さよなら、僕のマンハッタン』

『さよなら、僕のマンハッタン』良かった。
僕は去年の年べス10位に『ギフテッド』を入れいて、あれはとても良かったんだけど、どこかでマーク・ウェブが家族のことをここまでストレートに描くのかという勝手な疎外感というのがあった。

だからこそ、本作での作品のルックというか青年の佇まいとNYの街並みや冒頭のルー・リードの話やBGMなどで、これは『(500)日のサマー』のような作品がもう一度見られるのかという期待が膨らんでいった。
中盤からラスト前までにかけては記号的な言葉遊びをしているかのような台詞の言い回しや、話しの筋を見失ってしまいそうほどの主人公の迷走ぶりと舞台のNYという街の包容力や主人公(一人称)感に拍車が掛かっていくんだけど、最後にびっくりするくらいまともなオチがついてくる。
そのオチを噛みしめながら綺麗にまとまった物語を反芻できるようになっている。いい脚本だった。

ただ、それは全く『(500)日のサマー』的な形をしてなくて、むしろ極めて『ギフテッド』的な物語に落ち着いたというあたり、マーク・ウェブが家族を描く作家になったと言われるような決定的な作品だったのかなと思う。

2018年4月30日

映画『心と体と』を観る。

『心と体と』
孤独に生きる女と人生を諦めた男。
二人を結びつけたのは鹿の夢。幻想と現実が交錯する愛の物語。
<STORY>
ハンガリー、ブダペスト郊外の食肉処理場。代理職員として働くマーリアはコミュニケーションが苦手で職場になじめない。
片手が不自由な上司のエンドレは彼女を気に掛けるが、うまく噛み合わず…。
そんな不器用な二人が急接近するきっかけは「同じ夢を見た」ことだった。
恋からはほど遠い孤独な男女の少し不思議で刺激的なラブストーリー。

映画『心と体と』を観た。
今年の暫定トップ5に入るくらい心が動かされた。
この映画は実は幾つもの対比から出来ていて、まず一番分かりやすいのが夢と現実。
それから、気配や空気という観念的なものと生々しいまでの現実。
撮影も人の視点で捉えた手持ちの映像と固定で無機的な映像。後は赤と白の色など。

全ての要素が観念と現実で大別されていて、最後にそれが不穏な空気と共に重なりあってしまう。
この一貫した構造だけでも素晴らしいのに、冒頭のシーンのマーリアが日向に出たつま先だけを陰に向かって引くシーンや男女のシーンでの目線の追い方や切り方を繊細に捉えるシーンなど美しくて仕方なかった。

本作は恋愛映画なんだけど、恋愛の特に “奥ゆかしさ”が随所に詰まっている。
マーリアの不器用さとエンドレの弱さや狡さが幾つもの恋の気配を醸造しては消しという繰り返す。
ラスト近くのバスタブのシーンは正直目を背けたくなるような痛々しさで、しかしそれが最高の美しさを湛えてしまっている。

冷静に考えるとエンドレはカウンセラーの胸をガン見した後に悪びれる様子もなく平謝りしたり、無実の部下を勝手なイメージで悪人と決めつけたり、同僚との関係をあっさり切ったり、自身の恋に保険を掛けまくったり、体の関係を求めた女をすぐ帰らせようとしたりと、かなりのグズ野郎。

にも関わらすこの恋が美しいのは、ひとえにマーリアの純真さと二人が同じ夢を共有していたという神秘的なシチュエーションがあったから。
そして、神秘的な人間と現実的な人間が「現実側」で交わってしまったラストが不穏な空気で描かれたことこそが監督の真に伝えたかったことなのだろう。

2018年4月29日

映画『レディ・プレイヤー1』を観る。

この作品は「私小説」ならぬ「私映画」だ。スピルバーグとハリデーの、大きな大きな「私」の物語だ。

VRが文字通りもう一つの現実と化した未来でありながら、この世界を彩るのは特定の年代の特定のカルチャーばかり。
オアシスの世界は言わば一冊の自伝で、それを読み解くプレイヤーは、この『レディ・プレイヤー1』を読み解こうとする観客と重なる。丹念に読み、行間に隠されたヒントを拾う。主人公のハリデーオタっぷりはテクストを精読する研究者のよう。

この映画を観て感じるのは、小さく、狭い方向に向かう力が大きなものを生み出しているということ。
世界と上手く繋がれなかったオタク少年がもう一つの世界を創造し、作り手の私的な記憶が多くの観客の記憶と結びつく。
「私」という小さな人称にとてつもない広さがある。

「私」への埋没こそが世界を創造し、つながりをもたらすということ。

あるいは、オアシスは仮想現実というよりも、むしろ「もう一つの」現実と呼んだ方がしっくりくる。
あちらも現実、だがこちらも現実。どちらか片方が本物なのではなく。

それは、ある意味では世界の多元的存在構造を示すこと、僕らが「いまここ」で見ているのはひとつのゲシュタルトひとつの現実に過ぎないと言うことを明らかにするものでもある。
ひとつのゲシュタルトを構成するものこそが現実なのだ。

映像について特筆すれば、CGはあくまで手段の一つで、それを使ってどう見せるかということこそが表現なんだということがよくわかった。
レースの場面である裏技を使った主人公の視点からの世界の見え方が、ちょっと信じられないくらい気持ち良かった。

2018年4月7日

映画『ちはやふる -結び-』を観る。

『ちはやふる 結び』瑞沢の三年間と真島太一の成長物語に最高の決着を付けた完結編。
超絶技巧で描かれるかるたの格好良さ。名人の言葉と、もがき続けた先の太一の姿に胸が熱くなる。
青春という「一瞬」から継承という「永遠」へ、部活映画の枠を越えたスケールの着地に心が震えた。

『上の句』で「青春全部懸けたってあいつには敵わない」と言っていた太一は『結び』で「原田先生や周防さんが懸けているものは、青春どころか(人生すべて)」だと気付く。
太一とともにこの作品の視野も、高校三年間から人生そのもの、そしてそれすら包み込む大きな時間へ開けていく。

千年前の思いを百人一首が今に伝える、というモチーフは『上の句』からあったけど、『結び』では今を未来へ伝えるという視点が加わった。
自分の強さを周囲へ分け与えること、先輩から後輩へ部の記憶を伝えていくこと。

千早が後輩二人に「素敵なことが始まったと思った」と言ったのは、自分たちがいなくなった後にも残るものができて、かるた部で過ごした時間が、奏の言う「千年先に残る歌」になったと感じたからではないか。

『結び』に強く感動させられるのは、この作品が時を越えることについて語っているからだと思う。
部活の伝統や青春を扱っているけど、そこからもっと普遍的なものへと拡がっている。
千年前から今この時へ、今この時から千年後へ。

歌の内容が物語に深く関わってくるのだけど、本来の意味を尊重しつつ登場人物なりの解釈が加わっているのが面白い。(「今の私には「ちは」しか見えない」とか、「「しの」を獲るのは私や」とか)。競技かるたという存在が歌に新しい命を与えている。

「私達はどんな歌を千年先に残せるんでしょうね」
「この歌が千年の時を越えて今に残ったように、私達には一瞬を永遠に留める力が確かにある」
奏と周防名人の言葉がこの映画の主題を語っている。
部活という一瞬と、歌という永遠。

名人としての強さが、部の伝統が、かるたに関わる人の繋がりが、千年先に残るものとして何度も示唆される。
かるたで過ごした時間が、登場人物達にとっての「歌」になっている。
普遍的だけど、競技かるたでしか描けないテーマ。

物語と人間関係の変化を端的に示しているのが掛け声だ。
なかなか揃わない「瑞沢ファイト」がチームの状態を表していた。
部活紹介(太一)→地区予選一回戦(千早・筑波)→地区予選決勝(筑波)→全国一回戦(花野)いつも誰かが欠けていた。

瑞沢の掛け声が揃っていくのと並行して、新たち藤岡東が未成熟なチームとして描かれる。
「瑞沢の三年間に負けた」という新の言葉がはっきり表れるのは、まるで揃わない「藤岡東ファイト」の掛け声だ。あの場面の空気がいたたまれない。

ただ、新も藤岡東メンバーも団体戦を甘く見ていた訳ではない。
千早と太一が羨ましくて始めた団体戦を手探りで学んでいる感じがある。あの掛け声も、準決勝の北央を見て(ヒョロの、それ自体は声が裏返って情けない掛け声だけど、それを見て新ははっといていた)「発見」したものだ。

送り札と札合わせ。送り札は個人の物語。千早と伊織の、太一と新の。
札合わせは、一人の意思や葛藤や決断にチームで運命を共にすること。
太一と千早の物語と、瑞沢かるた部という群像がここで結び付いている。

2018年4月7日

映画『聖なる鹿殺し』を観る。

『聖なる鹿殺し』を観た。
ランティモス監督の前作『ロブスター』を観たときにあまりにはまってしまって、もちろんその年のぶっちぎりの年間ベストだったんだけど、そのせいでハードルが上がりすぎてたのか正直心から絶賛はできなかった。

理由の1つが、脚本というか物語の筋があまりにシンプル過ぎたというところ。前作『ロブスター』は物語が誰も意図しない方へ加速度的に転がっていき、その奇想天外ぶりと洗練された映像・音楽のバランスが完璧だった。
本作も、撮影・音楽に関しては文句なく最上のスタイリッシュさなんだけど、如何せん物語がシンプルすぎて、しかも最後に大どんでん返しもない。

復讐譚というフォーマットの上で、節々の台詞やいたたまれない結末を使い家族の脆さや善悪の判断がつかない人間の弱さなどを表現するあたりにはハッとする。その痛みに一切寄り添わない無慈悲さも恐ろしい。

ただ、大元の歩けなくなるそして死ぬという呪術的な設定に仕掛けが全くなかったのが残念だった。そこを裏切るか、設定が破綻するほど物語が進んでいくことで、受け手を混乱させて尚残るのはあまりに美しい画と音楽というランティモス的な世界がもっと堪能したかった。

2018年3月22日

ドラマ『アンナチュラル』最終回を終えて – 理性や倫理の先にある“思い”が人を動かす –

先日『アンナチュラル』がその短いようで長い旅の終わりを迎えました。
各方面から大きな反響を呼んだ本作ですが、個人的にもテレビドラマ史に残る名作だったと思います。その魅力と新しさについて解説していきます。

本作を語る上で欠かせない要素の一つとして、脚本が挙げられます。
脚本を担当した野木亜紀子は2010年にフジテレビヤングシナリオ大賞を受賞しデビューした、一般的には若手に分類される作家です。脚本家として彼女の名が知れ渡るきっかけとなったのが、2016年の『重版出来!』と『逃げるは恥だが役に立つ』の2作です。『空飛ぶ広報室』や『図書館戦争』など、原作ものの脚本には以前から定評があった野木ですが、『重版…』『逃げ恥』に共通する原作漫画をテレビドラマのフォーマットに落とし込むという手腕で彼女はその人気と実力を決定づけました。

そんな野木が完全オリジナル 作品として挑んだのが本作『アンナチュラル』でした。

脚本に関して初回放送後の反響として大きく上がったのが、「質の高い海外ドラマを見ているよう」という声でした。確かに初回の真実に辿り着くまでに二転三転する先の読めない展開と疾走感はこれまでのテレビドラマの水準を超えるようなものでした。法医学という設定で1話完結の謎解きミステリを構成するというのは野木の書き手としての新たなチャレンジだったのかもしれません。

しかし、本作の脚本の魅力はそれだけに留まりません。死因究明に至るまでの死者の個性や社会的状況を反映させた社会派ドラマの側面に加え、真相が明かされた時点からは登場人物たちの個人的な“思い”に物語がフォーカスしていきます。実はこの“思い”を描き続けることこそが本作の一番の魅力であり、登場人物たちの内面と深く結びつく“思い”は、鮮明な感情なしでは説得力を持ちえない結末に向かい存在感を増していきます。謎解きパートや時事ネタ・コミカルな会話劇など多くの要素で高い水準を保っていた本作ですが、やはり特筆すべきは登場人物たちの“思い”を描ききったことでしょう。

あくまで個人的にですが、本作が始まった当初この物語は主人公である三澄ミコトの感情を描き込むことに力を入れていると思っていました。ゆえに、事件を解決した後にミコトが吐露するセリフや演技に注目していました。
実際、2話の感想ではこのようなことをメモしていました。

このドラマは石原さとみのための作品になる。

近年の石原さとみは、映画『進撃の巨人」『シン・ゴジラ』ドラマ『校閲ガール』など、現実の解像度を極端に下げる事で漫画の主人公を地で演じる(3→2.5次元)、過剰にデフォルメされた演技が目立っている。人間の内に秘められた数多の感情を敢えて10ほどに絞り、スイッチ1つでその場に最も適した感情を表現する彼女の機械的な演技は目を見張るほどである。しかし、本作で石原さとみはこれまでとは異なるアプローチから主人公を演じている。人間的で複雑な感情を引き出す要素として用意された過去のトラウマ(一家4人の練炭自殺で唯一生き残った彼女の生い立ちや幼少期の記憶)により、彼女は今も重い十字架を背負っていることが判明する。絶対絶命の状況で部下の窪田正孝演じる久部に語った死の恐怖や生への執着、命の恩人となった井浦新演じる中堂への感謝の言葉と諦念にも似た表情、市川実日子演じる同僚の東海林と「ご飯行こう」「絶望している暇があったらご飯を食べて寝る」などあっけらかんとしている態度など、これだけの短い間で哀しみ・強さ・明るさなどいくつもの感情が入り乱れ浮かび上がる様子からも、ミコトの人間的な内面を描きたいという気概が伝わる。この丁寧な描写でミコトが抱える思いを受け止めることができれば、このドラマは傑作になると思う。

そもそも1話完結の謎解きもので描かれる“思い”というのは、せいぜい犯人の動機くらいで、主人公が事件の真相を踏まえて抱く感情の機微までを詳らかに描くことは物語のノイズになりかねないというリスクがあります。特に初回のような事件を解決するまでの複雑な展開に尺が割かれる場合であれば尚更です。しかし、本作はリスクを冒してまでその通例を覆そうとします。そこには、事実や倫理と線引きされた、個人的な“思い”を描くことでしか到達し得ない結末が用意されていたからだったのでしょう。

さらに驚くべきは、主人公・ミコトの“思い”を描くだけでも十分意欲的であるにも関わらず、本作は物語が進むうちにミコトから中堂・久部へと心情を描写する対象が変化していく点です。もちろん、1話完結の謎解き部分の質を落とすことなく。それが決定的になったのが物語中盤の5話でした。
以下、5話終了時の感想です。

「同情なんてしないから」

話は5話で展開する。愛する者を亡くした中堂と同じ境遇の人物を登場させ、彼の復讐を幇助するというストーリーから中堂の中に秘められていた感情が垣間見える。犯人が明かされた後は台詞が抑えられ、感情が先行する。そこは理性や倫理といった物差しが機能しない世界で、そこに立たされる中堂やミコト・久部の“思い”や“願い”が引き立つ。もはや、ミコトの感情の上にのみ物語が成立するのではないという野木なりの宣誓だったのかもしれない。いつくか注目すべき台詞がある。中堂の「人を殺したやつは殺される覚悟を持つべきだ」という言葉。これは中堂の危うさが表出した後半へと続く重要な台詞である。中堂の言動を踏まえ、ミコトは中堂に過去を話して欲しいと詰め寄る。5話はミコトのこのような言葉で締められる。「同情なんてしないから」

話は少し逸れますが、ここでドラマの主題歌である米津玄師の『lemon』にも触れておきたいと思います。この歌のMVは2/27に公開されました。MVが公開されるまではドラマの終盤のタイミングでかかる良い曲だなというほどの印象でしたが、公開されたMVを見てこれは中堂の“思い”が歌われている曲だと確信しました。MVの米津玄師は中堂の面影を思わせます。MVで踊る彼女は中堂の亡き恋人であり、米津の履くハイヒールは彼女の遺したものでしょう。このように、ドラマの後半は中堂の抱えてきた“思い”をミコトはじめUDIラボの面々がどう受け止めるかということに主題が移っていきます。

中堂と同じく重要な役となったのが、ミコトの部下である久部でした。初回を見終わった後、久部を窪田正孝が演じている事に違和感がありました。ここまで達者な役者に主題に絡んできそうもない受動的な役をやらせていることに疑問があったのです。しかし、物語が進むにつれ久部の存在感は大きくなっていきます。特に、事件解決後に毎話見られたミコトと久部の会話には、二人の“思い”が色濃くうかがえるようになってきます。久部の本来的な陰の気質に合わせるように語るミコトの言葉には、中堂との会話以上に複雑な感情が顕れていたように感じます。ミコトは久部との会話の中で自らの“思い”を表明し、久部の感情を引き出します。それにより、久部の苦しく後ろめたい立場が確固たる物語として成立するのです。

つまり本作は、事件を通じて中堂の感情を深掘りしつつ、事件が解決した後の幾つかの会話で久部の感情をも描いてしまうという極めて高度な脚本によるものだったのです。

そして最終回。物語はUDIラボの存続と中堂を守るという難題に向かっていきます。これまで描き続けてきた「理性や倫理と“思い”」つまり「事実と感情」という二つの要素は最後まで重要な鍵となります。ミコトは報告書類を改竄することなく26人を殺害した疑いのある人物を罪に問うため法医学という武器で真っ向から立ち向かいます。これはミコトが母に背負わされたトラウマを克服するためという伏線の回収にも繋がります。彼女の勝ち負けに執着する姿には若干の違和感がありましが、恐らくこれは彼女のトラウマの裏返しや法医学者としての矜持の表れなのでしょう。しかし、犯人は彼女の理性や倫理に基づく訴えに容易になびくような相手ではありません。そこで最後の切り札となったのが、これまで描いてきた感情の部分=“思い”だったのです。彼女は事実を越えた感情で犯人を挑発します。結果として、ミコトの放ったある言葉が犯人の自白のきっかけになります。「あなたに心から同情します」

同情には共感や思いやりといった意味があり、一見すると誤解を生みかねない表現であります。しかし、5話でミコトが中堂に言った「同情なんてしないから」と、最終回で犯人に言った「心から同情します」は全く同じ意味で使われていたのは言うまでもありません。もちろん、かわいそうに思うこと・憐みの意味です。登場人物の数多の複雑な“思い”を丁寧に描いてきたからこそ、その上に乗せられた台詞に人は心を動かされたのでしょう。圧巻のラストだったと言えます。

今回のクールのドラマは良作ぞろいで甲乙つけがたいのですが、その中でも野木亜紀子が描いた『アンナチュラル』という物語の世界は一つ抜け出ていたと思います。彼女の次回作が楽しみです。

2018年3月20日

映画『ちはやふる-結び-』を観る。

『ちはやふる-結び-』を観る。
上の句・下の句のポテンシャルから絶対良いと思っていたけど、とてつもなく素晴らしかった!
あんなに登場人物が作品を生きてる物語を見たことがない。一人一人の息吹に彩りがある。
無限未来を軸にテーマの描き方も抜群。

無音・スローモーション・アニメーションの使い方も前作同様完璧。
音に関しては、紙が鳴るんだとか細かいところまで注目してしまった。役者人もみんな完璧。清原果耶の前のめりは上の句・下の句の千早をみてるようでここにも継承というテーマがうかがえる。クイーンは相変わらず変人だけど、彼女の強さの源である「どちらが純粋にかるたを愛してるか」という基準はところどころしっかり生きていた。肉まんくんや机くん含めてもっともっとチーム瑞沢を見たかった。

あれ、5億点じゃないかこれ。

ベタなんだけもベタでもいいんですたまには。
勉強と部活、青春だな。青春は僕にもあって良かったなと思う数少ないことのひとつです。みんなのこと、ちょっとだけ分かるから良いんだろうな。

2018年3月18日

映画『15時17分、パリ行き』​を観る。

考えれば考えるほど変な映画だ。こんな、テレビの再現ドラマみたいな話がどうしてこんなに面白くて、泣けてしまうか。​
「実話を基にした映画」というジャンルを揺さぶる仕掛け、最高の一発ネタである。しかし再観賞に耐える。むしろ観る度に感動が強くなる。

「実話を基にした」という謳い文句が好きになれず、この作品もまあ、無差別テロに遭遇した人達をドキュメンタリータッチで描いた作品、とかその類いだろうと思っていた。
あるいは、実話を基にしていようがそれ自体で完結できる強度を持った面白い作品はいくらでもあるけれど、そういう作品でも最後に当時の映像だのモデルになった人物だのが出てきてしまうのが嫌だった。そういうのを見ると本編があくまで現実の再現でしかないような、フィクションとの上下関係を感じてしまう。

しかし、考えてみると『15時17分、パリ行き』はずいぶん実験的なことをやっているのに、それをまるで感じさせないのが凄い。映画ともドキュメンタリーともつかない、現実と呼ぶしかない時間が映りこんでいる。

始まって早々、三人組の一人の語りとともに、映画はいきなり彼らの過去に飛ぶ。軍隊オタな子ども時代、パラレスキュー隊に志願するもうまくいかず落第を繰り返す青年時代、そして幼なじみ三人が久しぶりに再会したヨーロッパ旅行。三人の過ごしてきた時間が様々な話法で描かれながら、肝心の「事件」にはいつまで経っても辿り着かない。

作中でけっこうな時間を割いているヨーロッパ旅行なんて、ほんとに普通の人々のロードムービー(「ムービー」かどうかすら怪しい、ただの観光を映しているだけ)なのに、なんだかすごく良い。

気の良い普通の若者が、ただ旅行を楽しんでいる、という、物語から投げ出された現実の時間がポンと目の前に示されるだけ。​実話であることの重しと、現実そのままを投げ出す軽やかさの違いを感じた。しかし同時にこれら一連のシーンは過去の出来事の再現でもあるという、目眩のするような二重性。

ある意味最大のクライマックスが勲章授与のシーンだ。「ラストに流れる実際の映像」「エンドロールに本人登場」みたいな実話映画の定番を逆手に取って、虚実をひっくり返す大仕掛けを打っている。それもきわめてさりげなく。この場面の異様な感動に思わず笑ってしまった。

この映画では英雄の定義がだいぶ変わってきている。英雄的な人物がいるのではなく、人生の中で英雄に「なる」瞬間があるということ。そういう意味で、普通の人々が映画の登場人物に「なる」このキャスティングもテーマに沿っていると言えるのかも。

2018年3月18日

ドラマ『トドメの接吻』最終回

ドラマ『トドメの接吻』最終回。
最高だった。僕はいずみ吉紘の描く表の世界からこぼれ落ちた人間たちのドラマが大好きで、本作はその作品群のなかでも1.2を争う大傑作だったと思う。オリジナル脚本というところも素晴らしい。

タイムリープの仕組の解明、主人公・旺太郎の目的、実は戻っていた、戻れないなど設定を数多く用意し、しかもそれがあくまでテーマを面白く描くための手段に過ぎないことに一貫する潔さ。
本作のテーマは紛れもなく「愛」
愛する事の無意味さが身に沁みついてしまった旺太郎に愛はみえるのか。

大金を手にするためタイムリープ能力を持つ相手の弱みに付け込みキスの契約を結び都合よくキスをして過去を書き換える。その愛など見向きもしない旺太郎が最後に選んだのは、大金でもキスの能力でもなくキスの相手・宰子の幸せだった。

過去に戻った宰子には旺太郎との記憶がない。その宰子に自分ような人間にはその能力を絶対に利用されるなと忠告しその場を去ってしまう。結果として彼の中に生まれた初めての愛という感情は未達に終わる。彼はその後、かつてと変わらず軽薄に生きていくかのようなシーンで物語は幕を閉じる。

「過去は変えられない」「過去を変えるべきではない」
初回と最終回で表向きには旺太郎は何も変わってないかのように見える。しかし彼の中には過去には存在しえなかった愛情とそれを信じる心が宿っており、その軽薄さは過去とは全く異なるものになっていたと思う。

2018年3月18日

映画『リバーズ・エッジ』を観る。

現在から当時を遡行しつつ若者の心理を描いた作品として良かった。
ケータイ(PHS)の普及以前(1995年PHSサービス開始)、インターネットの登場以前(1995年が日本におけるインターネット元年といわれる)、オウム事件以前(日本社会のうわべとその精神病理が暴かれた1995年)の物語。

僕は近年のある種の映像には生々しさが欠けていると感じていたのだが(ここでいう映像はアダルトな意味でのAVも含む)、『リバーズ・エッジ』の映像には生々しさがあった。そこには、デジタルやPhotoshopやフォトジェニック以前の生々しさが描かれていた。生のコミュニケーション。生きてる感じ。

80年代は浮かれた時代だったと言われる。『なんとなく、クリスタル』、ポスト・モダン、MTV。
しかし、90年代、世相は大きく変わる。消費社会の神話と構造、社会システムのマンダラが切り裂かれ、破壊的な人々の生の感情(生と死が隣接したものであるというヒリヒリした感情)が溢れ出た時代だった。

当時は現在よりも清潔でない時代だった。川は臭く、タバコはポイ捨てし、空き缶を川に投げ入れた時代。公害やオゾン層の破壊が問題として語られた時代。そんな時代だった。(現在の方が実際にはより深刻なのかもしれないが。)
グランジ(薄汚い)シーンの、カート・コバーンが死んだ年。1994年。

このドラマは、そんな時代の若者たちが描かれる。むき出しの生の欲動、生の不安。若者たちのSEXも今とは異なる描き方をされる。Xvideosなどはない時代だ。ネットを介さない欲望の露出。タナトスと一体化したエロス。もちろん避妊もしない。生の性体験。

「生きてるって感じする?」インタビュアーに聞かれた二階堂ふみ演じる主人公は答える。「どちらかと言えば、生きてない。」
登場人物はみな生きづらさを抱えている。生きることは、SEXすること、食べること、愛し愛されて生きること。
いじめ、性的マイノリティ、摂食障害、家族の不和、届かぬ愛。

文字通りの生のコミュニケーション、ヒリヒリした関係、傷を感じ人を傷をつける状況はトラブルを生む。
それを通して、ある者は死に、ある者は生き残り、ある者は場所を変え、ある者は留まる。
もちろん、みなに避けがたく傷跡は残る。

しかし、時代は変わった。このドラマの設定された時代から、24年。およそ四半世紀が経つ。状況は変わった。
若者ですら、当時ほどのヒリヒリした感覚で生きているかはわからない。とはいえ、愛し愛されて生きることに飢え満ち足りない気持ちは今でも変わりはしない。たとえ、デジタルに容易につながれても。

あるいは、インターネットの普及以降発展したネット文化やバーチャルな価値観。例えば、多くの承認を集めるネット上の各種システムとプラットフォーム上のアイドル群。そのシステムの欺瞞と精神的な空虚さが暴かれ明らかにされるのは現在これからであろう。

この作品の時代は1995年にひとつのパラダイムを終える。
その後は、ケータイとネットと、ある種の相対主義とマイノリティに対するリベラルさが普及した時代だった。同時に哲学や精神性は死に、社会学と統計学的な思考が普遍化した時代でもある。

ところで、この作品の1995年までのパラダイムは1972年からはじまった。
大きな物語の終焉の終焉、ポスト・モダンのパラダイムの終焉が1995年であった。
1972年から23年。
なお、1972年にまでのパラダイムは1950年朝鮮戦争からの復興と高度成長までのパラダイムであろう。
そして、1995年から23年が経った。

とはいえ、あらためて思ったのは、この四半世紀に(ここ数年くらいかもしれない)性的マイノリティ(LGBT)に対する理解は相当変化したのではないか。

主人公二階堂ふみがゲイの少年山田に「入れる方?入れられる方?ローションとか塗るの?」と質問すると「クリトリス舐められるのと、中に指入れられるのどっちが好き?ゲイだからってSEXの質問するの失礼でしょ。」と返される場面にはハッとさせられた。

それはともかく、映像として熱かったのは、主人公二階堂ふみの彼氏が浮気相手のあそことあそこにヘアスタイル用のムースの缶を入れるという場面。劇場に響くカラカラという音。
まじか。ドン・キホーテとそのアダルト・コーナーが普及して良かった。
しかし、まじか。なんだかなあ。

2018年3月17日

映画『リバーズ・エッジ』を観る。

『リバーズ・エッジ』を見た。
渋谷HUMAXシネマ、恐らく友人が見た前の回だったと思う。

個人的には悪くなかったと思うけど、期待値が高かった分、悩ましい箇所も散見された。
まず、いい意味でも悪い意味でも構成が不親切。冒頭に物語の鍵になるようなシーンがいくつか断片的に映される。そのパッチワーク的な構成が全体の構成にも影響を及ぼしていた。

一見するとストーリーがあるようで実は断片をつぎはぎしたように見えるのは恐らく時代設定と関連している。この物語の設定はかろうじでコミュニケーションの分断化が起こる前の時代で、故に分断化を加速させる携帯電話は登場しない。ただ、それを予感させることを構成でやっていたと思う。

この物語を描く上で最も重要なのは、当時の時代観を再現すること。
70年代から続くオカルトブームや『完全自殺マニュアル』の影響、未知なものが未知として存在する恐怖と焦燥感。川の対岸へ滑るように渡ってしまうことで受ける傷と生の感覚。この時代の感覚の切り取り方はとても良かったと思う。

この物語の登場人物たちと現代の若者たちの違いは身体が伴っているか否かだと思う。今から見れば生身のコミュニケーションは完全なアナログだが、その避けられない衝撃の中で神は細部に宿ると信じ祈りの場所を模索する姿こそが平らに成らされる以前の一部の若者にのみ見られたシーンだったのだろう。

二階堂ふみ初め若い有望な役者陣はそれしっかり分かって演じてたんだろうがこればっかりは想像で補うにも限界があり、個人的には90年代前半の若者たちとしては見られなかったのが残念。正直僕も平成7年ぐらいまでの当時の社会状況とか時代観とか全く分かってないから何とも言えないんだけど。

2018年3月10日

映画『エンドレス・ポエトリー』を観る。

『エンドレス・ポエトリー』とてつもなく変な映画だが、話は至ってシンプルだ。
ホドロフスキーの青年期、サンティアゴに移住してから、友人や恋人を得て、別れも経て、詩人としての自己を確立し独りパリに旅立つまでの「若い芸術家の肖像」を奇想天外な登場人物とシュルレアリスティックな映像で語る。

『エンドレス・ポエトリー』を観て連想したのはラテンアメリカの作家たちの小説だ。
例えばアレナスの『夜明け前のセレスティーノ』やボルヘスの『ボルヘスとわたし』。前者は幻想の入り乱れる少年期の回想、後者は詩人の過去と未来の対話という点で似ているが、それだけではなく、 現実と幻想をシームレスに描く、出来事を主観的に大袈裟に語る、といったこの映画の表現方法は、いわゆる南米マジックリアリズムの特徴として挙げられるものだ。特に近いのは、自伝的な作品を遺し、記憶や詩人としての自己を爆発的な幻想で描いたレイナルド・アレナスではないかと思う。

この映画はずいぶんと奇妙な自伝だ。視覚的イメージや人物が奇抜なだけではない。現在のホドロフスキー本人が登場し、昔の自分に語りかける。父との別れの場面に割り込んで、本当はこうするべきだったんだと抱擁を促す。思い出すのではなく、生き直している。まるで過去が現在進行形であるかのように。

詩に理解を示さず、抑圧的で生前は和解することのできなかった父親とフィクションの中で再会する。自分の作品の中で甦らせ、乗り越え、受け入れる。自分の詩人としての資質を育てたのは(逆説的にではあれ)あなたという障害・束縛だったのだと。最後、父の仮面(毛髪)を剥がし、抱擁する。
ここは非常に感動的な場面だ。現実には起こりえなかった父との和解は、こうあってほしかったという願望を描くのではなく、取り返しのつかない過去を理解し読み替えるという行為によって為される。

この映画で印象に残った表現の1つは大袈裟に語る、ということで、オペラ歌手のように喋る母親や、2lのビールを一気飲みし人前で胸を見せつけたかと思えば言い寄ってきた男をぶん殴り恋人のホドロフスキーに「一緒に歩く時はあなたのイチモツを握っておく」と言い放つ怪女ステラ(なんと実在の人物) も、おそらくホドロフスキーの主観ではまさにそういう印象だったのだろう。体験・記憶・感情にとって真実だということを表現する時、語りは本当らしさから逸脱する。それは単に誇張とは言い切れない。自伝的作品とマジックリアリズムの相性が良いのは記憶と主観がテーマになるからだろう。

もう1つは、隠喩や象徴が肉体を持ち、何もかもが目に見える姿で現れるということだ。仮面を付けた群衆、姿を隠さない黒子、骸骨たち、皆何かの喩でありながら、登場人物として、画面の構成要素として臆面もなく存在を主張する。比喩が比喩でなくなっている。僕は道化だと言えば突如サーカスが始まる。
息子が演じる青年期のホドロフスキーと現在のホドロフスキー本人、書割と現実の土地、実際の出来事と誇張された心象風景、夢、生と死、出会うはずのないもの達が、等しいリアリティで1つの画面の中に顔を揃える。虚構であることを曝け出すことで生まれるこの作品独特のリアリズムに戸惑い、感動する。

改めてわけのわからない映画だったが、表現の鮮烈さと、どぎついまでの肯定を感じることはできた。老いを肯定する。芸術への衝動を肯定する。生きることを肯定する。

「幸せに死ぬことを学ぶ」

「自分を生きるのは罪じゃない。他人の期待通りに生きることの方が罪だ」

「意味など無い、生きるだけだ」

「老いはなんら屈辱ではない。すべてを手放せる。セックス、財産、名声、自身をも手放せる。お前は1匹の蝶になる、自ら発光する蝶に。その存在は、完全な光」

2018年3月5日

映画『霊的ボリシェヴィキ』を観る。

どことも知れない施設に集められた外見も年齢もばらばらな男女。車座になり、中の一人が語る話に耳を傾けている。語られているのはある囚人の死刑の間際に起きた不気味な出来事だ。語り終わると、参加者のうちの若い男がつまらなそうに「結局、人間が一番怖いとしか思えない」と言う。するとすぐさま、会の中心人物である霊媒師が彼を殴り飛ばす。霊媒師の相方の眼鏡の男が「それは禁句です」と言う。不用意な発言でせっかく集まってきた霊気が散ってしまったのだという。それから、眼鏡の男は参加者たちに向かって「こういう時はボリシェヴィキ党歌を歌いましょう」と呼びかけ、その場の人間は皆立ち上がり、スターリンとレーニンの肖像の前でボリシェヴィキ党歌を合唱し始め、『霊的ボリシェヴィキ』というタイトルが画面に現れる。
正直爆笑した。
なんだこの映画は、と思った。わけがわからない。しかしながらこの映画、とても面白いのだ。

この映画について考えようとした時、まず頭に浮かんだのは「怪を語れば怪に至る」という言葉だ。
この作品は文字通り、「怪を語る」映画である。なんといっても、登場人物がただ座って怪談話を聴かせているだけの場面が大半を占めているのだ。これは映画でやることなのか?と戸惑うくらいに、とにかく語る。
作中では、非常に限定された簡素な空間で、登場人物がそれぞれ自らの体験した怪談を語っていく。集められた人たちは皆、何らかの形であの世に触れたことがあるのだという。会を主催している霊媒師と眼鏡の男は、参加者に自らの心霊?体験を語らせることで、何かこの世ならぬものを呼び出そうとしているらしい。映画は、それから色んな怪奇現象が起こり、何やかんやあって破滅があり、新たな「霊的ボリシェヴィキ」の誕生を見届けて幕を下ろす。概ねこんなあらすじだったような気がする。書いてみてもよくわからない話だが、ストーリー自体は、怪を語ることから始まって、怪の出現で終わるという、非常にシンプルな構造だ。
集まった人間が一人一人怪談を語り、最後の話が終わった時に怪異が起きる。これは言ってみれば百物語である。
パンフレットによれば、当初のプロットでは語りの要素はなく、監禁・拷問によって霊を呼び寄せようとする話だったらしい。つまり、何かを召喚する儀式、というのが元からのコンセプトだった。
そのうえで、完成形であるこの映画は、百物語を儀式として活用した。怪を語って怪を呼び出そうとしたのだ。
しかも、それはストーリーに限ったことではなく、この映画における映像・音の表現や、映画の外側まで巻き込んだメタな仕掛けも含めて、作品そのものが怪を語り怪を呼ぼうとしている。

ではこの作品における怪とは何か。
生きている人間が怖いという常套句は真っ先に拒絶されている。また、物陰から突然に何かが飛びかかってきたり急に大きい音がして驚かせる類いの演出も、この映画では極力排除されている(個人的にはそれが非常にありがたかった…)。そもそも作中でやっていることが降霊会みたいなものなので、純粋に、超自然の恐怖を扱おうとしているのはわかる。スターリンとレーニンの肖像が掲げられているのも、いかにも彼らの霊を呼び寄せようとしているかに見える。
しかしこれがちょっと曲者だ。作中で死後の世界からのメッセージが話題に出た時、浅野(霊媒師の相方の眼鏡の男)は、化けて出ることがあの世の実在の証明にはならない、現世に浮遊する残留思念の可能性もあるのだからとこれを否定している。さらには終盤で、霊媒師があの世なんて存在しない、化け物を呼び出すしかない、とこれまでの話をすべてひっくり返すようなことを言い放ってしまう。
思うに、死んだ誰かの幽霊が出るというのも、ある意味では合理的で説明のついてしまう話なのだ。本当に得体が知れないのは、幽霊ですらない。
そう考えると、参加者たちが語った話にも、死者の霊だけではない何かの存在が感じられてくる。
特に面白いと思ったのは霊媒師の話で、山でわけのわからないものに遭遇して障りを受けるというありがちな話なのだが、山の稜線を這うものというスケール感、土俗的な禁忌、そういう魅力が短くシンプルながらも感じられた。目撃した「何か」をドイルの妖精写真に喩えたのも興味深い。この世と異なるレイヤーに貼り付けられた存在ということなのか。
ここで、杉浦日向子の漫画の次のような台詞を思い出した。「正体など見きわめる必要もあるまい。あれは、わからぬものなのだ」。こちらも『百物語』というタイトルである。
つまり、この映画が扱っているのは「人間が一番怖い」の対極にある人知を超えた恐怖、「あの世」ですらない異界の、「わからぬもの」の恐怖なのだと思う。

では、この映画はどうやって怪を語り、怪を呼び出しているのか。
観ていて感じたのは、この映画における怪異は何かに紛れてやってくるということだ。
舞台となる建物は、鳥の鳴き声、機械の作動音、街の生活音、といった、さまざまなざわめきに包まれている。語りに集中し、聞き手が静まれば静まるほど、それらの音が意識される。単調で無機質な音、囁くような音、ひたひたと猫の歩くような音。聴いているうちに、それらが皆本当に自然な音なのかと違和感を覚えてくる。足音に聞こえるのは一体何なのか。生活音と言ったが、設定では人里離れた場所のはずだ。ではなぜ雑踏のようなざわめきが聞こえるのか。さらにこのざわめきが、画面の中のものなのか、劇場内の音なのかはっきりしないのも不安をかきたてる。
また、一人目の参加者が語っている時、監視カメラのようなアングルで実験の様子が映されるのだが、舞っているホコリに紛れて光の粒が時折飛び交っているのだ。これ、心霊写真でおなじみのオーブというやつではないのか。
きわめつきは、参加者たちが皆して笑っている時に混ざって聞こえた男の野太い笑い声だ。それにしても、いきなり笑いだした霊媒師はなんなんだろう…。
ついでに言えば、たびたび姿を見せる「裸足の女」も、停電や夜の暗闇に紛れてやってくる。
このような、何かに紛れさせる表現は、怪異により実在感を与えている。それに加えて、画面の隅々に目を凝らし、些細な物音にも耳を澄まして恐怖を探し求めるという楽しみも生まれる。
ホラー映画が魅力的であるかどうかは、語りたいシーンがどれだけ多いかによると思う。視覚の芸術である以上、何かこの世ならぬもの、異常なもの、恐ろしいものをどれだけ画面上に表現できるかが重要だ。
この映画では、何かが現れそうな、潜んでいそうな画面の配置がとても多い。鏡、暗闇、物陰。長尾と話している由紀子の目線だけで裸足の女の存在が仄めかされる。三田(最初に話した男)がトイレで独りごとを言うシーンは、鏡を覗き込むというだけで怖い(「押入れにいたのは本当に人形だったんですか?」と鏡に問いかけるのも不思議な感じだ)。至るところに怪異の居場所がある。
画面の端っこで何かが起きている、というのもこの映画の特徴だと思う。これは恐怖演出に限らなくて、冒頭のボリシェヴィキ党歌斉唱の際に初参加の由紀子に歌詞カードを見せている長尾、という笑えるシーンもある。片岡(浅野の弟子の女の子)が終盤、拳銃で参加者全員を粛正して回るシーンでは、射殺する相手に近づく彼女の姿が何か金属板らしきものに映っていた。また、終盤の由紀子が何かに憑りつかれたように豹変する場面では、画面の中心はスターリンとレーニンの写真と他の参加者たちに固定されたまま、スタスタ歩き去っていく由紀子が画面の端に映されていた。その時の由紀子の顔に光が強く当たって顔がぼやけていたのも興味深い。夢に出てきた女の顔がどれだけよく見てもどうしてもぼやけていたという長尾の話とつながるのか。幽霊は顔がはっきり見えないという話も思い出す。(ちなみにこの後の由紀子の高速ヒヨコ歩きはかなり面白い)
ホラー映画を観る時は極力目を瞑り耳を塞ぎたいのだが、この作品は、ホラー映画こそ目を瞠いて耳を澄まして楽しむものだと教えてくれる。

この映画は、工場の一室という狭い空間で話が完結している。この空間は結界であり、参加者は全ての儀式が完了するまで外に出ることが許されない。観客は怪談話をする登場人物の姿を映画館の暗闇の中で眺めている。そうしていると、ふと奇妙なことに気付くのだ。怪談話を聞く登場人物と、それを眺める私たち観客。どちらも語りを聞いていることに変わりはないのではないかと。ここに来て、怪談話を語る映画という試みの意味が解ってくる。観客と登場人物の置かれた状況をシンクロさせ、画面の内側と外側の垣根を取り払おうとしているのだ。というより、映画館を結界の内側に取り込もうとしている。その結果、観ている私たちも否応なく怪異の場に立ちあわされることになる。画面内のざわめきと映画館内の音の区別がつきにくいのもこの印象を強めている。だとするなら、上映が終わって映画館内が真っ暗になる瞬間は、百物語の最後の蝋燭が吹き消される時なのかもしれない。

正直ボリシェヴィキ等の思想・歴史的なことは全然わからないので触れられなかったが、映画の最後に現れ、歩き去って行ったアレの姿には、恐怖以上に不思議な解放感を覚えた。頑張って世の中に怪異をまき散らして欲しいものである。

2018年3月3日

斎藤工・監督の初長編作『blank13』を観る。

斎藤工・監督の初長編作『blank13』を見てきた。良かった。
70分という長編にしては短い尺の中で隅々まで丁寧に作られていたという印象。斎藤工の映画という芸術に対するフェティッシュゆえだろう。冒頭の葬儀の大きさの比較から、回想の差し込み方、タバコや自転車や野球といった道具の使い方、脇を固める名俳優のたちの個性の引き出し方まで、全てにおいて最もベタな選択肢を繰り返し選択し続けているにも関わらず、そのベタさは映画を愛する者ゆえのベタであることがひしひしと伝わってきて、見ていてとても心地よかった。

冒頭とラストで全く同じシーンが出てくるのだが、冒頭では無機的で暗く冷たい印象だったそれが、ラストには暖かみのある画に見えたこと。
この1時間でほんの少し世界が変わったと実感できたので、それが良かったと。

葬式シーンも含めいいシーンたくさんあるんだけど、特に時空を超えた連綿とした流れを感じたのが、
父親に八重樫のオープンスタンスを教えられる場面、それをふと思い出していたんだと気づかせる葬式中の高橋一生の顔アップ、近くの球場と先ほどまで居た母がいないカット。

台詞なし画で繋げただけで、今と昔の状況が伝わってくる。とても映画的だと思った。
ラストの松岡茉優が手を丸めて少しだけ自分のお腹に当てたようなシーンを見て、いやあれは松岡茉優絶対妊娠してるよねと彼女に得意気に言ったら、いや妊娠してるって台詞あったよ宝田くん寝てたけどと言われた。


高橋一生と森川葵が付き合ってるかもみたいな話が出てて、カルトドラマ「プリンセスメゾン」が注目を浴びているよう。「ちかえもん」もそうだけど、NHKのおかしなドラマは恋を育むのにうってつけなのだろうか。

2018年2月23日

NHKプレミアムドラマ『平成細雪』を見る。

昨日・今日とNHK総合で再放送されている『平成細雪』。
プレミアムでやってる時に見れず、先輩に良かったのでと焼いてもらったのを見たけど、とても良かった。特に脚本の蓬莱竜太がものすごく上手い。もともと、演劇畑の人でドラマをあまり書いていないみたいだけれど、この人にもっとドラマを描いて欲しいとおもわず思ってしまった。

タイトルの通り、ベースには谷崎の『細雪』があり、時代設定を平成に置き換えている。
平成4年、4姉妹が生まれた老舗企業の経営破たんの話から物語は始まり一見すると昭和のような世界観で物語は進行するが、バブル崩壊以降の数年間というのは否応なしに昭和の幻想を纏っていたはずで、年号が代わりバブルも崩壊したにも関わらず昭和という時代を捨てきれずにいる斜陽的な世界、そしてそこから平成という悲劇が始まる暗示こそが物語としてのメッセージなのだろう。

「そして1か月後、阪神淡路大震災が関西を襲いました。
 長い長い失われた時代の始まりです。」

ドラマのラストがこのようなナレーションで締められていたこともその証しとなる。

柄本佑演じた板倉を始め、各人物の描き方もとても丁寧だった。
4姉妹で言えば中村ゆりが特に良かった。
ズームインやズームアウトなどカメラワークも雰囲気があって良かった。

2018年2月18日

映画『犬猿』を観る。

吉田恵輔監督の映画『犬猿』を見た。
前作『ヒメアノ~ル』は確かに衝撃作だったけれど、個人的にはそこまで傑作だとは思ってはなかった。
だが、今作『犬猿』はまさに見事だった。
家族や親子がテーマの作品はよくあるけれど、「兄弟/姉妹」に絞ってここまでまっすぐに描いた作品は意外と珍しいように思う。

ストーリーとしては、2組の兄弟/姉妹の日常を描いているだけなのだけれど、根底には吉田恵輔にしか出せない心地の悪さが漂い、嫉妬や劣等感が歪に浮かび上がってくる。前作の流れを汲めば、この
緊張感がどこかで爆発し、取り返しのつかないことになるんだけど、本作では何回もそんなことが続く中、結局最後までそうならない。

理由は明白で、それは「兄弟/姉妹」だから。殺すや死ねという言葉の中、裏切りや妬みが引き起こす行動の末に、「兄弟/姉妹」のあるべき姿が描かれてしまう。それは最後の台詞からもうかがえる。「変わらない」良いときも悪いときも「兄弟/姉妹」という関係は当人同士に変わらず課せられている。

それを意識しないことはできない。

常に一番近くで育てられた人間同士には、歪み反発しあうエネルギーと同じだけの尊びあえる力が眠っている。
とても単純な話なのに、あまりに説得力があり自分の人生に翻って考えられるものを残してくれた。

もうすぐ妹に子供が生まれる。
ぼくは叔父さんになるのか。

2018年1月29日

『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』を観る。

去年見れなかった『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』を見た。
僕が言うのもおこがましいが、紛れもなく映画史に残る稀代の名作。
まず驚いたのは撮影技法。登場人物の特徴の描き方や町の撮り方など1カット1カットが計算し尽されており、4時間で物語の世界のことは全て知った気になれる。

徹底的に計算したカットを重ねることで、必然的に物語の強度も増す。
この映画のテーマは冒頭のナレーションにもあるとおりに、50年代末から60年代にかけての台湾の情勢に巻き込まれていく大人とそれを見ている子供の葛藤というところだろう。

それが同時代での日本の学生運動の中心だった大学生ではなく、中学生が主人公であるというところに衝撃があり、さらに具体的な目的も見出せずただ漠然とした不安と希望の中で結果として起こってしまった悲惨な事件というストーリーのやり場のなさが際立つ。

僕は主人公の小四に大いに感情移入をすることができた。
もちろん彼の起こした事件の背景と当時の台湾の情勢は切り離せないが、途中からは彼のことしか目に入らなくなり、彼にとっての穏やかな日常を心から願っていた。それゆえに彼の未熟さをとても痛いものに感じた。

振り返ると完全なファムファタールだった小明を除けば、家族や友人に明白な悪は見出しにくく、むしろ善人だらけの町で日常が崩壊してしまうやりきれなさは強烈。個人的には事件のシーンをラストにすることが最も後味が悪く強烈なインパクトを残せると思ったが、家族や町が彼を失ったあとでの日常描写を続けるあたりにも気持ちを揺さぶられた。インフラが整っていな町だがらこそできる電気の点滅の演出(明暗)や、西洋への憧れ、キリスト的なモチーフなど、1秒たりとも不必要なシーンのない完璧な4時間だった。

2018年1月27日

木曜ドラマ『BG~身辺警護人~』初回/第2話を観る。

『BG~身辺警護人~』初回。

「アイムホーム」以降、主人公感のない主人公を演じるようになったキムタクだが、本作もキムタクが演じる主人公としてはかなり地味。
共演者との兼ね合いやプロットの精緻さでキムタクのアクを抑えようとする手法には、もはや新しさはない。

ただ、翻ってここがテレ朝の狙いでもある。
今のテレ朝ドラマは数字だけをみると、視聴者を取り込むこと最も成功している。それは、ドラマ自体が目新しさや複雑さを捨て、いかに安定した高いクオリティを維持するかのみを目指している結果だろう。本作もその大きな潮流の一つとして見て取れる。

井上由美子の脚本に破綻は考えにくく、このまま抜群の安定感で最後まで続くことが予想できる。民間警備というテーマはNHKの「四号警備」で業務内容等描かれていたので特に触れる箇所はなく、あと物語の見どころとして触れるなら、「踊る…」の柳葉-織田を彷彿とさせる江口-木村の立場関係。

まさかこの年齢でキムタクが所轄の刑事ばりにエリートに意見しながら仲を深めていくというありふれた展開にと思わなくもないが、恐らく視聴者はそこを求めている。それにやさしく答えて数字を稼ぐのがテレ朝ドラマの鉄則であり、そこら辺含めて優等生を演じ切る様子を微笑ましく鑑賞したい。

『BG~身辺警護人~』第2話

とても豪華なつくりなのは伝わるが、細部の粗が目立つ。今回のストーリーに不必要な今大人気の石田ゆり子のシーンをわざわざ作ったり、警護の対象をあり得ない方法で逃がしてしまったり、ハイヒールを履かせたり。こういう細部を軽視した大雑把さな展開が続くようでは考えものである。

キムタクのアクは設定上うまく中和されてるのだから、しっかり作った制約の中で身辺警護のリアリティと木村-江口、木村-斎藤の関係で物語を盛り上げれば十分楽しめそうなのだけどな。

2018年1月27日

金曜ドラマ『アンナチュラル』第2話/第3話を観る。

金曜ドラマ『アンナチュラル』第2話

今回は初回以上に石原さとみ演じる主人公・三澄ミコトの過去や現状に踏み込んだ内容だった。この回を見てこのドラマは石原さとみのためのものだと思った。

近年の石原さとみといえば、映画「進撃の巨人」「シン・ゴジラ」ドラマ「校閲ガール」など、リアルの解像度を故意に下げる事で漫画の主人公を地で演じる(3→2.5次元)という過剰にデフォルメされた演技が目立っていた。

人間の内にある数百という複雑な感情を敢えて10個ほどに限定してスイッチ一つでその場に最も適した形で分かりやすく提供するという彼女の驚くべき技法は様々な所で話題になったが、今回はそれとは全く逆の複雑な主人公を演じてみせている。それを引き出す一つの要素が過去のトラウマだろう。

一家四人の練炭自殺で唯一生き残った幼少期の記憶というのは今回含めて今後も事あるごとに触れられる要素となる。その度に彼女は今も十字架を背負っていますという姿を見せる。さらに彼女の今の哀しみ・強さ・明るさなどは周囲の人間と接する姿や表情から浮かび上がってくる。

絶対絶命の状況で窪田正孝演じる後輩に語った死の恐怖や生への執着の姿勢、助かった上で井浦新演じる先輩への感謝と諦念にも似た表情、その後市川実日子演じる同僚と「肉行こ」とあっけらかんとしている様など、短い間に多くの感情が入り乱れる部分に、この主人公を描きたいという切実さがうかがえる。

この丁寧な描写で主人公が抱える思いを受け止めてあげることができれば、このドラマは他に類をみない十分な傑作となると思う。なので今回のラストにあったような週刊誌うんぬんといったパートは個人的には賛成しかねる。
野木亜紀子には石原さとみの100万通りの表現力の一点のみを信じて欲しい。

金曜ドラマ『アンナチュラル』第3話

ネットで評判が良かったから楽しみに見たら、良くなかった。
前回、このドラマに期待する点を石原さとみが演じることで生まれる画一的なキャラクターからの変化と書いたが、今回はそれが完全に戻ってしまっていた。

一話完結の構造上、ストーリーに重きが置かれるのは仕方ない。
ただ、野木亜希子は今月の美術手帖ドラマ特集で古沢良太との対談の際に、「物語が面白ければいいのだが、そこに裏テーマをいかに巧妙に入れるかということを考えている」と発言している。
それが今回はあまりに過激に前面に出ていた。

もちろんそれは石原さとみ演じるミコトの感情を逆撫でするためのものであり、それにより「理性的な男・感情的な女」という構造は簡単に出来上がるのだが、その流れには男女の問題を扱う上での繊細さがなさすぎる。
さらにミコトは感情的になりながらもその感情をエネルギーに代えて真実に辿り着く。

つまりこれはドラマ向けに絞られた数パターンの感情のみのを分かりやすく見せていくこれまでの石原さとみの定型化した演技と変わらない。
裁判のような絶対的な決着のみに重きを置くのではなく、もっとグレーな部分をミコトにぶつけてその複雑な感情で視聴者に問いかけるようなつくりを期待したい。

法医解剖医の話だから辿り着くのは絶対的な真実でなければならないのはもちろん分かるのだが、そこに至るまでに経緯と最終的な結論に対してミコトは何を考えどのような感情にあるのか。その含みこそがこのドラマをさらに面白くさせるはずだという勝手な思い入れなのです。

2018年1月19日

TVドラマ評 2018年1月クール作品の紹介

インフルが直撃した影響で1月ドラマの初回時期にぼーっとしたまま過ごしてしまった。
今期はテーマが比較的多岐にわたっており、ドラマごとの特徴が良く出ている。ただ、どこかで見たテーマや内容が多いのも事実。
丁寧につくるか見たことないものをつくることに注力できるかだと思う。

今のところ「anone」「アンナチュラル」「MASKMEN」「電影少女」「隣の家族は青く見える」が良い。

anone

「anone」の先が読めない(つまりストーリーがある)感じは最近の坂元作品では異例。このままぐだぐだになっていくことも充分あり得るが、要所のメッセージを逃したくないという楽しみ方ができる。

アンナチュラル

「アンナチュラル」は質の高い海外ドラマを目標にという記事を目にしたが、設定や構造は従来の日本の連ドラの域を出ているとは言えない。ただ初回に関して言えば、話を二転三転させ真実に辿り着くまでの息もつかせぬ展開は良かった。野木亜紀子の1話完結の謎解きが価値を持ったということなのだろう。

勿論、死因を解明するだけが主題ではなくそこに至るまでの死者の個性や社会的状況から社会派というポイントを加算するのだろうが、そうなってくると余計に日本の連ドラ的既視感に襲われる。例えば前年の「刑事ゆがみ」はその辺りがとてもうまかったゆえ、どこで独自性を出せるかは今後のポイント。

MASKMEN

「MASKMEN」はテレ東十八番のフェイクドキュメンタリーだけど、演者が変わるとこうもまたワクワクするのかと思わせてくれる。
斎藤工の生真面目さと表現者としての素養・野生爆弾くっきーの天性。
この組み合わせのスリリングさは容易にリアルとフェイクの境を消し去ってしまおうとしている。

電影少女

「電影少女」は撮り方が非常にスタイリッシュ。
原作の世界観が現代にブラッシュアップされていて、オーソドックスな展開ながら安心して見られた。初回ラストを含めて今後はオリジナルの展開になっていくようで、原作知らない人間として楽しく見れたらと思う。

隣の家族は青く見える

「隣の家族は青く見える」は先ほどの初回をそれほど期待せず見ていたのだが、「妊活」というテーマに向き合った真摯なドラマだった。
子供に恵まれない夫婦という1点にフォーカスするのではなく、周囲にそれ以外問題を抱える人々を配置することで、複数の問題を均等に扱おうとする姿勢がいい。

個々の問題が重くならないよう工夫されているので説教臭さがなく(主題歌に一瞬あっとなったが)、一方で台詞のタイミングや言葉選びなどが問題を扱うために選び抜かれたものであるのは一目瞭然。
こういう丁寧さや切実さは昨今のドラマにおいては見逃されがちなので、個人的にはしっかり見届けたい。

2018年1月12日

2017年 小説・映画・TVドラマ ベスト10

2017年 小説(国内)ベスト10

1.『最愛の子ども』松浦理英子

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2.『星の子』今村夏子

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3.『劇場』又吉直樹

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4.『岩場の上から』黒川創

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5.『日曜日の人々』高橋弘希

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6.『ホサナ』町田康

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7.『未熟な同感者』乗代雄介

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8.『光点』山岡ミヤ

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9.『その八重垣を』三輪太郎

10.『茄子の輝き』滝口悠生

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2017年 映画ベスト10

1.『20センチュリー・ウーマン』

2.『バンコクナイツ』

3.『パターソン』

4.『午後8時の訪問者』

5.『彼らが本気で編むときは、』

6.『お嬢さん』

7.『ノクターナル・アニマルズ』

8.『マンチェスター・バイ・ザ・シー』

9.『夜空はいつでも最高密度の青色だ』

10.『ギフテッド』

2017年 TVドラマベスト10

1.『カルテット』

2.『人は見た目が100パーセント』

3.『この声をきみに』

4.『十九歳』

5.『先に生まれただけの僕』

6.『コードブルー3rd』

7.『嘘なんてひとつもないの』

8.『ぼくは麻里のなか』

9.『伊藤くんAtoE』

10.『感情8号線』

(WOWOW SVOD作品を除く)

2017年12月31日

現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』

2017年も残りわずか数時間となった。
今年は近年稀に見る激動の年であった。

アメリカではポピュリズム的な現象を背景にトランプ政権が発足、フランスではマクロンに敗れたがマリーヌ・ル・ペン率いる国民戦線が躍進。

ヨーロッパでは、イギリスのメイ首相がEUに離脱を通知、スペインのカタルーニャ地区は独立を宣言した。

中東ではイスラム国は事実上の崩壊。
しかし、アメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定したことから多数の抗議活動が起きている。

アジアでは、フィリピンのドゥテルテ大統領が麻薬撲滅キャンペーンを実施し超法規的殺人が行使され、マレーシア・クアラルンプール空港では北朝鮮の金正日総書記の長男である金正男が暗殺され、ミャンマーはかつての民主化運動の旗手アウンサンスーチーによる新政権のもとロヒンギャは混乱に陥っている。
そして、日本では飛翔体が定期的に飛び越えている。

他方、経済面は数値の上ではバブルとも思える好調であった。
世界的に各国の経済は軒並み好調、日経平均もかつて1992年のバブル崩壊前の水準に上昇。
また、仮想通貨の価格は10倍にも100倍にも高騰した。

そのような状況の中で、ひときわ存在感と彩色を放っていたのは一帯一路国際フォーラムや中国共産党第十九回全国代表大会を開催した中国であったかもしれない。
現在の中国は、かつてのソビエト連邦-第三インターナショナルや日本の夢見た満州国-大東亜共栄圏のような、東の中心・大国としての存在感を増している。


今年、自分にとって大きな影響を与えたのは前半は香港や台湾(中華民国)など東アジアを旅行したこと、後半は中国本土出身の女の子と友人になったことだった。

彼女は、ほぼ同世代の1988年の中国生まれ。僕は、1987年の日本生まれ。その世界観・パースペクティブには大きな差がある。

一方で、改革開放と天亜門事件以後の社会主義市場経済とその発展の中で育った彼女には(実際には中国の同世代の彼ら・彼女らには)明るい未来が見えるだろう。
他方で、1987年の日本生まれの僕らは、バブル崩壊、オウム事件、失われた20年の中を生き、リーマン・ショックや年越し派遣村の報道を見ながら就職活動を行い、社会人になると東日本大震災や福島第一原子力発電所事故を見てきた。
それは見えるものは異なるだろう。

とはいえ、個人的な関係は、文化・制度・国家を超えたところにある。
はじめは好奇心から始まり、次には差異を感じながら、次第に共感を抱くようになる。

その中で、今年はいくつか現代の中国を描いた作品を読んだり観た。
特に印象的だったのは、余華の小説『兄弟』とジャ・チャンクー監督の『山河ノスタルジア』だった。

余華『兄弟』

カンヌ映画祭で鮮烈な印象を残した張芸謀の『活きる』。
その原作者である中国文壇の気鋭、余華が十年ぶりに発表した長編小説『兄弟』は、中国に大議論を巻き起こした。軽薄! ソープドラマ! ゴミ小説! 文学界の猛批判をヨソに爆発的なヒットとなった本書は、文化大革命から世界二位の経済大国という、極端から極端の現代中国四十年の悲喜劇を余すことなく描ききった、まさに大・傑・作。
これを読まずして、中国人民(と文学)を語るなかれ!

1966年――文化大革命が毛沢東の手ではじまった。
隣人が隣人をおとしいれるこの恐怖の時代に、出会ったふたつの家族。
男はやさしい男の子を連れ、女はつよい男の子をつれていた。
男の名は宋凡平。子どもの名は宋鋼。
女の名は李蘭。子どもの名は李光頭。
ふたつの家族はひとつになり、宋鋼と李光頭のふたりは兄弟になった。
しかし、時代はこの小さな家族すら、見逃しはしなかった――。

『山河ノスタルジア』

第68回カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式出品!
『長江哀歌』(ヴェネチア国際映画祭金獅子賞)、
『罪の手ざわり』(カンヌ国際映画祭脚本賞)の名匠ジャ・ジャンクー監督最新作!
時代を越えて変わらないもの―母が子を想う気持ち、旧友との絆、そして生まれ育った故郷の風景。
その全てが愛おしくも哀愁に満ち溢れ、世界が賛辞を贈った壮大な叙事詩。

過去、現在、そして未来。ずっとあなたを想いつづける。

急速に発展する中国の片隅で、別れた息子を想いひとり故郷に暮らす母。
息子は異国の地で、母の面影を探している。
母と子の強い愛から浮かびあがる、変わりゆくこの世界。変わらぬ想い。

1999年、山西省・汾陽(ルビ:フェンヤン)。
小学校教師のタオは、炭鉱で働くリャンズーと実業家のジンシェンの、二人の幼なじみから想いを寄せられていた。
やがてタオはジンシェンからのプロポーズを受け、息子・ダオラーを授かる。
2014年。タオはジンシェンと離婚し、一人汾陽で暮らしていた。ある日突然、タオを襲う父親の死。
葬儀に出席するため、タオは離れて暮らすダオラーと再会する。

タオは、彼がジンシェンと共にオーストラリアに移住することを知ることになる。
2025年、オーストラリア。19歳のダオラーは長い海外生活で中国語が話せなくなっていた。
父親と確執がうまれ自らのアイデンティティを見失うなか、中国語教師ミアとの出会いを機に、
かすかに記憶する母親の面影を探しはじめる―。

現代の中国を描く2つの大河ドラマ

大きな意味では二つの作品には重なるところがある。

ひとつは、このどちらの作品も中国の現代を壮大に描いた大河的作品であったということだ。
『兄弟』は文化大革命〜現代までの中国の姿、『山河ノスタルジア』は1990年代〜2025年の中国の姿が描かれている。

中国の発展のスピードはヨーロッパや日本の現代とは異なる圧倒的な展開とスピードで歩みを進めている。その発展は、新しくより良い未来を手に入れるということは、しかし同時に、古いものを捨てることをともなっている。
この2つの作品の中で描かれるのは、中国の発展が勝ち取ったその栄光と古き良き家族との離別であった。
それはかつて、木下恵介監督が『日本の悲劇』で描いたような、ある種の悲劇である。

もうひとつ、この2つの作品に共通していたのは作品のモティーフとして三角関係が描かれていることだった。2人の男、1人の女。
2人の男は友人であるが、1人の女を同時に好きになる。強い男と、優しい男。女は最終的に強い男を選ぶ。(あるいは選んでしまう。)
言われてみれば、これは文学的にはよく見られるモティーフかもしれない。夏目漱石の『こころ』に見られる先生とKとお嬢さんの三角関係。村上春樹の『風の歌を聴け』や『ノルウェイの森』に見られるような三角関係。
そこで描かれる2人の男は「近代化・高度経済成長の時代」と「古き良き時代(ノスタルジー)」を表しているのだろう。

近代化や高度経済成長にはある種の喪失とノスタルジーが必要なのだろうか。
『山河ノスタルジア』のラストシーンはとても美しく印象的であった。
それでも、音楽は鳴り、人々は踊り続け、時代は流れる。

2017年12月10日

映画『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』 を観る。

物語を語ることの意味を真摯に語り切った物語に、日本文化の死生観と情緒を再発見させる映像の美しさに、音楽に、何度も泣かされてしまった。
こんなにも夢中になれる映画に出会えるとは。

主人公のクボは、三味線を鳴らして折り紙を操ることのできる不思議な力を持った隻眼の少年だ。
彼は三味線の演奏と動く折り紙の人形で「月の帝に立ち向かったサムライの物語」を語って村の人々の人気を博していた。
しかしクボはいつも結末まで語らずに物語を中断して帰ってしまう。
実は、クボ自身もその物語の結末を知らないのだ。

それは、彼と二人暮らしの母親からいつも聴かされていた、彼の一族にまつわる物語だった。

月の帝はクボの祖父でその娘であるクボの母親とクボを守るために戦ったサムライがクボの父親だった。
クボの片目がないのは生まれてすぐに祖父に奪われてしまったからだという。
クボは母親から物語を聴かされるのが大好きだったが、母親は夫を失ったショックからかその結末が記憶から失われていて最後まで語ることができなかった。

クボの物語が大きく動き出すのは村の祭りの晩、日が沈んでから外に出てはいけないという母親との約束を破ってしまったクボを母親の妹たち(闇の姉妹)が攫いに来た時だ。
もしかしたらこの瞬間までは、母親に聴かされていた物語はクボにとってはまだ絵空事にすぎなかったのではないか。というか、現実と物語が未分化で、月の帝も父親も真実性は疑わなくとも現実という実感はなかったのではないか。
闇の姉妹の襲撃は物語が現実との隔てる境界を食い破って侵攻してきたとも言える。
そのきっかけが昔話や童話でおなじみの「禁忌を破ってしまったために報いを受ける」というあらすじをなぞっているのも面白い。

闇の姉妹に捕まりそうになったクボは母親が命を振り絞って使った力で「最果ての国」へと逃がされる。
その場所は見渡す限り雪に覆われた、人間の気配すらない異郷だった。
クボは月の追手から身を守るため、母親の最後の力で木彫りの人形から変身したサルと、クボの父親の家臣だったという確信以外何の記憶も持たないクワガタの三人で不思議な力の込められた三つの武具を集める旅に出る。
クボが物語と現実を行き来するキャラクターであることは冒頭から示唆されている。
彼が母親と暮らす小島?と村は海で隔てられている。
クボに物語を教え、自身も月の帝から逃れてきた(物語側の人間である)母親が村の住人と顔を合わせることはない。
村と小島、二つの世界の境界線である橋を渡ってクボは毎日、母親から聴いた物語を村に届け、村で見聞きしたものを母親に届けている。

この作品はファンタジーだ。

クボの不思議な力も最果ての国での冒険もみな映画の中では現実である。
だが一方で、こんな風にも考えてみたくなる。
木彫りの猿が化けた喋る猿、クワガタと人間がくっ付いた武者、月の都の不死人、そんな存在がこの映画の現実に本当に存在しているのだろうか。
この映画の世界はクボの育った村と最果ての国しか描かれない。
さらに、最後の武具を求めて村に帰ってきた時、村人たちは家も建て直さずに隠れていた。
村は焼き討ちにあってからあまり時間が経っていないようだった。
クボが長い旅から戻ってきたにもかかわらず。
それに、一行が探している三つの武具はクボが母親から教えられ、村の人たちに語って聴かせていた物語に登場するものだ。

なんというか、虚構と現実の遠近法が崩れていく印象がある。
物語と現実に不思議なねじれがある。この旅は夢の中の出来事に近いのではないか。最果ての国は現実の場所ではないのではないか。
もしくは、虚構と現実の境目が限りなく薄れ、クボは自分が語ってきた物語の中で冒険をしていたのでは。そんな風に感じた。

「語り継ぐ」こともまたこの映画のテーマである。

物語はそれだけで独立して在るのではなく、それぞれの物語が繋がったり重なったり、時に対立したりする。
三つの武具を集め月の帝と対決するクボの冒険は、中断していた両親の物語を受け継いで結末を付けたとも言える。
人は死んでも思い出を語る者がいる限り生き続ける、とは残された時間を悟ったサルにクワガタがかけた言葉だ。
その話を聞いた誰かが別の誰かに語り、それをまた別の誰かに…(以下繰り返し)という具合に。語り継ぐことはいなくなった人の思い出を生かし続けること。
語り部は、いなくなった人の思い出を残された人に届ける。
あの世とこの世をつなぐ。最後の戦いでクボがシャーマン的な力を見せたことにもそれは表れている。

クボにとってこの冒険は、両親を心の中で生き続けさせるための思い出作りでもあったのであろう。
というのは、村の祭りの日、クボが墓(に見立てた石)に語りかけても何の反応がないのに(ないに決まっているが)、祖母に会えたとはしゃぐ子どもがいるという描写があったからだ。
その子どもは心の中に祖母との思い出があったから声が聞こえたという気持ちになれたのではないか。
それに対してクボには父親との思い出が無い。母親に聴かされる物語の勇敢なサムライとしての姿しか知らない。戦っていない時の本当の父上はどんなだったの?と尋ねても母親は答えられない。
だからこの不思議な旅は、既に喪われていた家族が異形(物語のキャラクター)の姿を借りて初めて得ることのできたつかの間の幸せな時間だった。

それにしてもこの物語は11歳の少年にとってあまりに過酷だ。
生まれてすぐに片目を祖父に奪われた。叔母たちとの戦いは容赦のない殺し合いだ。
そして、冒険のさなかで両親を再び喪い、仇である祖父を赦して共に生きていくしかない。
月の帝との決着は賛否ありそうだ。
物語でけじめをつけるという考え方は素晴らしい。村人たちの対応は無理があるような気がするが…。
死ぬ直前の祖父に「真実」を語って聞かせるという復讐もありえるのではないか。
クボはきっと最後まで嘘の物語を貫き通すのであろうが。

そういえば、クボの夢に現れた月の帝は盲目の琵琶法師だった。
語り部のモチーフはここにも表れている。月の人間は月の人間で、地上とは異なる美意識の物語を奏でていたのかもしれない。
最後の戦いで三つの武具が役に立たなかったのは、それがあくまで「三つの武具を集めた侍が月の帝と戦う」という祖父に支配された物語の産物でしかないからであろう。
クボはその物語の外に出て、語り部として人々の思い出(=何よりも強い物語)で立ち向かったから祖父の物語を破ることができたのだ。
 

メモランダム

・折り紙について。同じ正方形の紙なのに鳥にも武士にも蜘蛛にもなる。扱い方さえ熟知していればどんな形も表現できる。言葉と同じだ。
・闇の姉妹は、雪女モチーフだそうだけど、和風な意匠と西洋の魔女をうまく重ねている気がする。
・実物の人形を動かしているところを映したエンドロールは衝撃だった。CGとの兼ね合いも含めて、あれこそまさに特撮だと思った。

2017年11月23日

映画『ローガン・ラッキー』を観る。

このお話は欠けたところから始まっている。
主人公のローガン兄弟の兄ジミー(チャニング・テイタム)は工事現場で働いていたが、膝のケガを理由に解雇されてしまう。
一人娘も別れた妻の新しい家族と暮らしている。
彼の弟クライド(アダム・ドライバー)戦地で片腕を失い、今はバーテンダーをやっている。
ローガン一家は不運の家系だというのがクライドの口癖になっている。

仕事をクビになり、娘のコンテストの日にちも間違えてしまう、悪いこと続きのジミー。
弟の店で飲んでいるといけ好かない経営者と喧嘩になる。
騒ぎの中、彼は弟に「カリフラワー」と告げる。これは強盗計画決行の合言葉だった。

ジミーの家には彼が考えた強盗計画10か条が貼ってある。
弟は言う、もうこんなことからは足を洗いたい、でも兄が苦手な知恵を絞ってこの計画を立てたのはわかるし、朝食を作ってくれた、自分好みの焼き加減にしてくれた、だから話は聞くよ、と。ここの場面が好きだ(そしてジミーの焼いたベーコンが美味しそうだ)。優しくて、なんというか「キュート」な、この映画の性格が現れているようだ。

ここから、今は服役中の爆破のプロであるジョー(ダニエル・クレイグ)や彼のバカ兄弟とチームを組み、現金強奪作戦が始まる。
ジミーとクライドとメリー、そしてジョーと彼のバカ弟2人。2組の3兄弟で構成されたチームというのが面白い。
皆家族のため、誰かのために何かをやろうとしている。とんでもなく頭の悪い登場をしたジョーの弟たちだって、彼らなりの「倫理」がないと動かない。たとえジミーとクライドの「エロい妹の復讐」でも。

この映画は「家族」と「お仕事」の話だ。そして、なんというか、一見何もなかったように元に戻るけど、何かが少し違っている、少しだけ、良いものを手に入れている、そういう話でもある。
彼らの計画は成功するが、手に入れた金を「ほぼ」全額返してしまう。
脱獄していたジョーとクライドは、何事もなかったように刑務所に戻る。なにも変わらないじゃないか、そんなことはない。彼らが手に入れたものを種明かししていくラストが心憎い。

冒頭でジミーが娘に語って聞かせる『Take Me Home, Country Roads (故郷へ帰りたい)』にまつわるエピソード、指を骨折して演奏ができないジョン・デンバーが贈られて、感激して朝まで歌っていたというこの曲のように、何かを失った人達に向けたささやかな贈り物なのだ。この「犯罪のプロ集団」とは程遠い素人たちがやってのけた事件は。

2017年11月23日

映画『GODZILLA 怪獣惑星』を観る。

映画『GODZILLA 怪獣惑星』を観る。
「人間ドラマ」偏重の作劇も、ハルオのキャラクターも、アニメ特有の演技も、予想していたほど気にはならなかった。
登場人物のバックボーンを省略する語り口は『シン・ゴジラ』以降の物語だと感じる。
とはいえ、地球に降り立つまで数十分は、狭い場所で動きも少なく、間延びした印象は否めない。

3部作の1作目というよりは、2時間映画の冒頭を89分に引き伸ばした感じだ。
「怪獣」が登場するのは後半、ゴジラに至っては終盤も終盤でようやく姿を見られる。
だが、どういうわけか、待ちに待ったという気がしない。
気が付いたらそこにいた、という感じで、背景の中の異物になっていない。

これがアニメでゴジラをやるということなのかなと思う。
現代SFアニメのフォーマットに、ゴジラという記号(巨大で、熱線を放つ人類の敵)を乗っけた物語を語りたいのであって、特撮を再現することは考慮に入っていないのか。

じゃあ特撮っぽいとはどういうことなのかと考えた時にまず思いついたのは、現実にあるわけがない(≒作り物)という異物感と、同時にそれが本物に見えてしまう現実感を行ったり来たりする、虚実のあわいの表現だ。
怪獣は作品世界から多少は浮いていなければいけないというのだろうか。

『怪獣惑星』では、大きいものが大きく感じられないのはゴジラだけでなく作品世界にも言えることで、宇宙をさまよい地球を奪還する話がハルオ個人の執着だけで語られて、とてもスケールが小さくなってしまっている。
ただ、生き残った人類の総数やゴジラに支配された地球という環境を考えれば、物語の狭さはそんなにおかしいとは思わないし、衰退しきったさらに先、いわゆるポスト・アポカリプスという趣もあるので嫌いではない。

アニメならではの良いところといえば人間対ゴジラの接近戦闘を違和感なく描けることだ。
核弾頭100発以上喰らって無事なゴジラに単身突っ込んでどうするんだというツッコミにもちゃんと答えを用意している。(とはいえ、ゴジラ×メガギラスの方が、ゴジラに人間が飛びつく描写で巨大感を出せていた気がするのだが。)

グダグダ言ってしまったけどゴジラと戦うことすらできずに捨て去られたメカゴジラを2万年ぶりに起動して再戦するのはめっちゃ熱いので続編は楽しみにしてます。
地球脱出時のゴジラを基にしているだろうからサイズ差が大変そうだが。

2017年11月23日

映画『全員死刑』を観る。

すっげえの観た。『全員死刑』ここまで面白いとは。『悪魔のいけにえ』を思い出させる禍々しさと笑い。どう考えても笑う場面じゃないところで恐ろしくくだらないギャグをかます。凶悪なまでにシームレスで未知の感情が喚起される。センスの塊だよ。

なんていうか戸梶圭太の小説の「激安」って概念を思い出すな。人命も思考も行動も、人生として想像できる範囲にあるもの何もかもが安い。

被害者宅の庭の手入れされてない感じとかモーターボートとかリアル過ぎるんだよなあ…。皆だいたいワゴン車だしコンビニはヤマザキショップだし。地元で撮ったのかと思うくらい。

「洗練されてない」ってことをセンス良く撮るのがヤバい。そもそも題材が題材だし。ひたすら安くて愚かで酷いのに、しかしこれは純然たるエンタテインメントなのだ。それもコメディである。

ハイローファン的には一ノ瀬ワタルが「鬼邪高の関ちゃん」としか形容できない役で出演しているのもポイント高い。「良くない就職先」潰せなかったんだね…。

2017年11月23日

映画『予兆 散歩する侵略者 劇場版』を観る。

映画『予兆』を観てきた。
『散歩する侵略者』の裏面であり、侵略の物語は当然こういう顔も持っているということを思い出させられた。
前作のオフビートな愉快さは鳴りを潜め、人間の弱さと、得体が知れないことを画面に映し出す表現に比重が置かれている。
体温を奪われる、あの世が侵入してきたような映像に目が離せない。
終末の、光りも熱も遮る曇り空を見て、やはり黒沢清の怪獣映画を観たいと思う。

それはそうと宇宙人は天野くん達のチームだけじゃなかったんだな。当たり前か。
歩くだけで人がバタバタ倒れていくのが東出真大のオーラに圧倒されているみたいで面白かった(『散歩する侵略者』の怪しすぎる神父とは全く関係なかった)前作の「概念を奪う」行為は、加瀬真治という人間の人格や鳴海との関係の再構築をもたらすものとして、ある意味肯定的にも描かれていた。
今作でのそれは、奪うことの恐ろしさと、どうしようもなく弱い人間の悲しさを浮き上がらせるものになっていた。
「愛の概念」は今作でも重要な存在だが、こちらも人間の弱さと残酷さの源、という性格も帯びている。

概念の扱いには必ずしも納得のいくものばかりではないのだけれど、「死の恐怖」を奪った真壁がビルの屋上の柵を越え、存分に恐怖を楽しんでいる場面(奪った概念を純粋に楽しむ描写ってここだけじゃなかろうか)は、ホラーというジャンルに対する自己言及のようで気に入っている。
人間は恐怖という情動に快感を覚えることができる、だから観客のあなたもこの映画を観ているのだ、と。

また、粒子の粗い空の不穏さと、鏡やガラスやカーテンなど何かを介して見せる画が印象に残った。
何かを通過して観る光景は、そこに何かいるかもしれないという感覚を引き起こす。
それは幽霊と同質のものかもしれない。
真壁がすぐに来るわけないのに玄関の扉に怯える二人の姿はとても納得がいく。

2017年11月23日

ドラマ『この声をきみに』最終回

ドラマ『この声をきみに』最終回
地震・衆院選・SP番組で計3回も飛ぶという不運に見舞われながらも最後まで丁寧に作られていた秀作。
大森美香の脚本が決定的な仕事をしていたと思う。
大森さんはNHKで書くようになってから全くというほど外さない。今回もNHKでないと描けないような繊細な話。

内容を要約すると、自らの主義に固執するあまり家族から見捨てられた数学者が職場で行けと言われた自己啓発セミナーの先生と出会い人生を見つめ直す話しで、凝り性の人間が綺麗なセミナーの先生に弱った心を癒やされ丸くなっていく話だったらヤバいなと思っていたのだが、勿論そんな浅い話ではなく。

麻生久美子演じる自己啓発セミナーの先生は朗読教室の先生もやっていて、ここから朗読というコアなテーマが導かれる。
主人公の数学者は言葉や声を媒介にゆっくりとつながりを模索していく一方、実は先生の側がそれ以上の問題を抱えていることが発覚する。
シンプルだけどこの逆転が効いている。

人に何かを教える側の人間がその事に確信が持てなくなる苦しさ。
特に今回は“朗読”を着想に、目に見えない言葉や声で人と人を繋いでいくという話だったので、余計にその苦しさや虚しさが際立つ。
そんな状況においても、人は目に見えないものを信用できるか。

ドラマの最後のシーンではそこへの言及がある。
金儲けや世界平和・病気を治したり犯罪を抑制するのには役に立たないかもしれない“美”と“感動”の探求が、人の喜びのためにあると。
「生まれてきて良かった」と思える瞬間を、目に見えないものから感じ取る豊かさことが、人生なんだと。

数か月ぶりに再会した数学者は今日が誕生日だと先生から唐突に打ちあけられ、耳元でこうささやく。「この声をきみに」
その瞬間、目に見えない声は贈り物になり、ささやくために交差した横顔は唇を重ねた場面を想起させる。
決して目には見えないが、それを信じて繋がる人と人の形がそこにはあった。

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