ドラマ『ごめん、愛してる』最終回を観る。

『ごめん、愛してる』最終回。 凡庸ではあるものの韓国ドラマのリメイクだけあって、愛する人に愛してると言えない悲劇はつくれていたと思う。相手のことを思って涙する資格がないという母親の台詞の重み然り。 一方で、連ドラの限界も露呈した。 終わり方としては、長瀬のタイトル台詞、吉岡里帆の泣き崩れる姿、長瀬が波打ち際を去っていく、タイトルバックドーンしかない。これは最近の映画にも多いラストタイトルバックの手法を取り入れたシーンなのに、1年後というしょうもない後付けとともに心臓移植が行われたことを説明しちゃう。 あれを説明しないと苦情が来ちゃうという配慮なんだろうけど、ドラマで伝えたかったメッセージより視聴者からの苦情を避ける説明が優先されてしまうことにげんなりした。 この残念な終わり方で一番損したのは吉岡里帆だと思う。 ヒロインの資質において常に及第点より少し下でパッとせず力を持て余していた吉岡がタイトルの台詞を受け崩れ落ちるところで見事に花開いたのに、その後を付け足しのせいでこのドラマは彼女が微笑みながら歩いていくシーンで終わる。正直、あれじゃ全く残らない。 この物語は視点人物からしたら明らか...

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映画『パターソン』を観る。

これは日常を描いた映画だ。 何気ない日常、何気ない毎日、 小さな心の揺れ。 それでも大切な日常。 愛すべき人たち。 しかし、僕らは愛を失ったら、生きてはいけないだろうか? その時、僕らは意味を失い、バラバラになってしまうだろうか? 何でもない日常。 そして、僕らは何者でもない。 せめて、詩人のように生きられたら。 “ニュージャージーのバス運転手” しかし、それは詩的な響きではないか? “俺 もう俳優だから” まさに、そうだといえるのではないか? すべての日が、すべての人が、すべての瞬間が、詩的な輝きで語られる可能性に満ちている。 最高に笑えるシーンは、バスの中での労働者風の2人の男の会話。...

映画『三度目の殺人』を観る。-『地獄の黙示録』あるいは反転のソクラテス –

『三度目の殺人』を観る。そのモティーフは、あるいは『地獄の黙示録』の変奏のように響く。 そこには真実から目を逸らして欺瞞に満ちた世界を生きることへの批判が通奏低音として流れている。 役所広司演ずる犯人は、カーツ大佐、あるいは反転した裁かれるソクラテス〈ニーチェ〉。 福山雅治演じる弁護士は犯人にこう呟く。「あなたは器?」その空虚、無意味さは、実存的な『地獄の黙示録』と関わるところにある三島由紀夫の『豊饒の海』と重なるものがある。 あるいは現代社会/法治国家における存在の忘却、その欺瞞性を暴くものでもある。 ‪満島真之介演ずる部下のギャルソン精神。‬ ‪「生まれた意味のない人間などいない!」と叫んだ時の、あの歪んだ勝ち誇ったような表情。溢れるヒューマニズム。吐き気だ。‬ タイトルの『三度目の殺人』は、存在を忘却した欺瞞的法治国家による死刑を意味するところか。誰が、誰を裁くのか?本当のことには意味がないのか?意味がないとすれば、誰に誰を裁くことができるのか? 法治国家における価値・意味の最終審級としての司法。その欺瞞。何たる傲慢!何たる破廉恥!何と醜悪な恥知らずだろうか!? 広瀬すず演ずる少...

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映画『三度目の殺人』を観る。

『三度目の殺人』を観てきた。圧巻。 司法制度・死刑問題・真実とは何かなど、切り口は多様でしかも手垢がついたものばかり。しかし、これを是枝監督が映画にするとこれまでには到達しえなかった情景が浮かび上がってくる。 制度・問題・真実、これらは全て人間によってつくられたものである。 脆く移ろい易い人間の心理の上に成立する諸問題の責任はどこに希求するのが正しいのか。本来、人はそんなことを考えることなく日々を過ごしている。或いはある程度打算的な人間なら、社会や自己のルールを弁えて上手く立ち回ることができるだろう。本作の主人公はまさにそのようなタイプの人間である。 主人公・重盛の冒頭からの幾つかの台詞で、彼のパーソナリティは強烈に伝わってくる。その彼が弁護を引き受けた三隅という二度目の殺人を犯した犯人と接見する中で、彼の異常なまでの主義が簡単に翻弄されてしまう。この二人のやりとりが晒す人間の心理こそがこの映画の肝だろう。 接見の全容を明かすと、面会を重ねていくうちに弁護士の重盛は殺人犯の三隅と似たような考えの持ち主だったということが分かり(同情により感情移入してしまったという事では全くなく)、次第に...

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映画『ハンナ・アーレント』を観る。

誰もが見るべき作品というものがある。 これは、そのような作品だ。 ナチ高官の裁判とそれを傍聴するドイツ系ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントを描いた映画。 だが、これはあるべき裁判だろうか?被害者としてのイスラエルのモサドが被告を誘拐して絞首刑にする? 400万人〜600万人のユダヤ人を死に追い込んだ行為。死刑は当然か。 しかし、それは当人の意思によるものではない。それを、誘拐して死刑を宣告する。 果たして、それが正義だろうか? 被害者と加害者、中立な立場であろうとする者が見る世界がそれぞれどれだけ違うものなのか。 世界は、僕らの意識の外に、客観的な世界を備えているわけではない。一人ひとりが、その立場により、まったく異なる世界を見ている。 少なくとも、客観的に捉えようとすることができるのは、尋常ではない哲学者だけである。それは冷酷無比なものの見方だろうか?被害者の気持ちを踏みにじる行為? 同じ哲学者の映画でも『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』のようなロマンティシズムはまったく見られない。 同じユダヤ人の友人たちはアーレントによる裁判傍聴の記事が公開されると、苛立ち怒り離れていく。 アー...

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ドラマ『感情8号線』を観る。

『感情8号線』フジのCSで今年の頭にやっていたものが地上波再放送。 深夜のかなり深い時間でしかも不定期だったので見た人ほぼいないと思うけど、とてもいいドラマだった。 まず、作りが非常に丁寧。各回1人を主人公においた全6回なのだが、毎回主人公たちの感情がしっかり表現されていた。 主人公たちに共通するのが気持ちが晴れないということで、それは恋愛だったり仕事・家庭など普遍的な女性の悩みが投影される。 晴れない気持ちの中で生きがいやアイデンティティを模索しながら先が見えない霧の中を彷徨う中で、ふっと気持ちが軽くなる瞬間が毎回ラストにちゃんとある。 オムニバス形式のそれだけでも見事だったが、この物語の主人公たちは冒頭のナレーションにもあるように俯瞰でみると近くて遠い微妙な位置関係に配置されている。 絶妙に関与し合う彼女たちの距離感は、電車では繋がらないが国道では繋がっているという環八沿いの街の不思議なつながりとマッチする。 ぼんやりとではあるが連綿とした繫がりにより浮かび上がる女性たちの感情の豊かさ、昨今の女子同士ものドラマの足し算演出とは真逆な極力説明を省いたつくりと現実指向、気付けば共鳴・反...

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映画『きみの声をとどけたい』を観る。

思わぬ発見はいつだって嬉しい。 興味のなかった作品にふとしたきっかけで触れて、予想もしていなかった楽しい時間を過ごせると、すごく得した気分になる。 これはそういう映画だった。 よくあるオリジナルの邦画アニメとスルーしてしまわなくて本当に良かった。 このお話の中で起こる「奇蹟」は、人の言霊が見えるとか、願いが叶うといったことよりも、毎日古い喫茶店に集まってラジオを放送したりお喋りをしたりする時間の中にあると思った。 そんな幸せな時間をさりげなく描いていて、とても好感が持てた。 主人公が何度も口にする「言霊」。 言葉には力があるというテーマが、どの程度成功していたのかはわからないが、ミニFMのラジオ放送という言葉を届け続ける時間の中で、言うべきだったのに言わずにいたこと、言うべきでなかったのに言ってしまったこと、そういう蟠っていた言葉が解きほぐされていく。 ドラマを支える事件は特別目新しくはないが、そこから枝を伸ばした人物や出来事のあれこれと、その絡み方が面白い。 大上段に構えていない、ある種他愛ないことにとどまっていることが、かえって作中で流れる時間の幸福感を際立たせている。 独特な絵柄...

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映画『エル ELLE』を観る。

ポール・バーホーベン監督の映画『エル ELLE』を観た。 フィリップ・ディジャンによる小説『Oh…』を原作としたエロティック・サスペンス。 登場人物が多く、主人公の一見予測不能な言動から多少混乱するようなところのあるストーリーだったけれども、よく考えるととてもシンプルなメッセージ性のある映画だった。 それは最初と最後のシーンを見れば明確だ。 映画の開始1秒で死亡フラグが立つ主人公が、最後のシーンで墓参りをしている。 物語の中で起こる事件がシンプルに描写されていくということもあるが、この映画に関しては動機の深読みや裏付けは必要なかったと思う。 起こることを淡々と整理していく処理能力と結果だけ分かれば十分に楽しめる。 これは主人公の主義ともシンクロする。 彼女は徹底的に恥を恐れず、そして不感症。 ストーリー的には女性の話なんだけれども、今の時代この2つの能力は生きる上でのマストなスキルと言えつつもあり、強く生きたいと思う万人に当てはまるものではないか。 主人公は、その能力を体得することで、自分を苦しめ続けた関連のある人物を名実ともに抹殺することに成功する。 一方で、この能力が自...

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映画『君の膵臓をたべたい』を観る。

東京に来ている母と妹が『君の膵臓をたべたい』を見るということだったので一緒に見て行ってきた。 普段、自分では選ばない映画を見れたことが良かった。 上手くまとまっていたと思う。 一般的に、この手の物語で避けて通れないのが、病気や事故で主人公が亡くなるというケータイ小説的な安易さ。 この映画では、高校生カップルと死が結びつくだけで生じるチープさを避けるため、死を敢えて重く扱わないようにつくられていたのだろう。 それが余命幾ばくもないヒロインが醸すファンタジー性と、他人と向き合おうとしない主人公の当初の薄情さからうかがえる。 この土台をしっかりと踏襲しつつクライマックスでヒロインのリアルとそれを受け止めて変わる主人公の姿を描く。 ヒロインはなぜ自身の最後を主人公に託したのか。 これは実にうまく表現されていた。 彼が最後に送ろうとして消したメールの長文、結果として最後に送ったメールの文章、それに完全に呼応する形で長い年月を越え届いた彼女からの最後のメッセージ。 最後の言葉。これがもたらした彼の変化によって彼女は彼や親友の心に永遠に生き続けることになる必然。 若いキャストで痛々しくも瑞々しさを備...

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『ふたりのキャンバス』を観る。

『ふたりのキャンバス』を観る。 それは毎年のように、あるいは風物詩のように、なぜか8月にあるNHKの戦争テーマのドラマ。 被爆者の体験を聞きながらそれを1年がかりで絵にする女子高生の話。 戦争の記憶を若い世代が引き継ぐことが描かれるのだろうと思っていたが、そう単純ではなかった。 軸となるのは主人公と友人・主人公と被爆者の方との関係にある。 次第に距離が近づいていく2人の学校生活と並行して、被爆者の方とのやり取りも進んでいく。 主人公を取り巻くこの二つの関係が行きつく結論は他人の事や昔の事は分からないということである。 しかし、だからこそ、自分でしっかり考えないといけないし、そこから導き出された答えがあればそれで十分なのだ。 下書きや絵の具で描いていく過程を追い、主人公が1年を掛けてようやく完成させた絵は最後に見切れるような形で一瞬しか映らない。 それを見に来た被爆者の方はきっぱりと「記憶とは違う」と言う。ただ、続けて「あんたの絵がええ」と褒める。そこに自分で考え導き出した答えがあったからだろう。 主人公が描いた絵を受け手に最後まで見せなかったのは、あなたもあなたの力で描いて下さいという...

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映画『ウィッチ』を観る。

新宿武蔵野館で映画『ウィッチ』を観た。 夏らしく、とても怖い映画だった。 観ている間、シアターのその暗闇の中で、背筋の寒気が収まらなかった。 この映画では、とにかく「音」に恐怖を感じた。 「何が怖いのか」と考えるより先に、言葉にしにくい恐怖に身体が反応している。 まさに、そういったタイプの作品であった。 音は怖がらせるための演出というだけではない。 姿の〈見えない「魔」〉は「音」になって登場人物たちに忍び寄る。 「音」はまさに映画の構成要素であった。 この映画は〈見えないもの〉を怖れ、〈見えないもの〉に苛まれる話だ。 家族間の不和、生活の不安、父親の隠し事。 厳格な信仰生活に塗り隠されていた不信が末っ子の失踪を境に表面化していく。 そもそも、在るものを無いと、無いものを在るとしていたからこそ歪みが生まれ、見ないようにしていたからこそ〈見えないもの〉がやってきてしまったのではないか。 この映画の中で起きていること(特にラストシーン)を主観か客観かと問うことには、あまり意味がないように思う。 人の心が生んだとも元から在ったとも、それは言い難い。 驚くべきはむしろ、最後に姿を現す超自然的存在...

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映画『メアリと魔法の花』を観る。

『メアリと魔法の花』を見てきた。 正直に言って、出来に関しては、期待に応えるものではなかった。 ただ裏を返せば、これからのポノック作品は上がる一方だという長いスパンでの期待を考えれば問題ないように思う。 論点は2つ。 一つ、子供向けであること。二つ、ポノック長編第一作目ということ。 設定上、核となるのは2日の話で100分の映画で50分ずつで2日を描くというのが単純計算。 詳しく計った訳ではないが、割と正直にそういう分割だったと感じた。 だから特に前半が説明的で間延びした印象になる。 画で世界観を提示するという命題が前半にあったなら子供向けとしては仕方ないと言えるが主人公の精神年齢が幼かったり登場人物が少ないことも、ストーリーが単線的になった要因だと思う。 とはいえ、ここも分かりやすさを重視しているという目的があってのことなら今後改善は見込めるだろう。 2点目のポノックでの1作目というのは、これを米林監督の3作目という捉え方をしてしまうと、まるで駄作のような感じが増してしまうということ。 ジブリ作品の「アリエッティ」「マーニー」と「メアリ」は分けて考えるべきだろう。 現段階でジブリとの対...

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ドラマ『100万円の女たち』最終回を観る。

『100万円の女たち』最終回 今回のクールには「CRISIS」や「小さな巨人」など直接的な政権批判をやったドラマもある中で、本作は抽象度を高めた上でしっかり現代を批評するテーマを描いていると少なからずラスト前までは思っていた。 作中で鍵となっている“漂う”という態度がまさにそうである。 主人公である売れない作家の道間が作中で発表する『漂う感情』という本のタイトルからもそれがうかがえる。 では、この“漂う”というのは一体どういうことなのか。 死刑囚の父を持つという設定から、当初は“贖罪”というテーマに関連するのだと思っていた。 しかし、物語が進むにつれて次第に見えてくるこの“漂う”ことの真意が、未成熟ではあるものの友も敵もつくらない友好の可能性だど気づかされる。 これは東浩紀の『ゲンロン0』で書かれた「観光客」についての言及とも重なる。 主人公が漂うことを赦さない、堕落した「国家」や「政治」の存在も確かだ。 例えば、「国家」について。主人公と謎の女たちが生活する小さなコミュニティの外部には明らかに薄っぺらい人たちの世界が置かれている。売れっ子作家の自己啓発的な発言の連続や主人公を脅迫する...

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映画『アルタード・ステーツ / 未知への挑戦』~ 知覚の扉の先にあるもの ~

ヒッピーやビートニクにあこがれていたことがある。 社会〈ソサエティ〉の外にある、ある種の超越的な何か。 それは、イデアか実存か、あるいは剥き出しの真理のようなものだろうか。 そんなものを、自らの目で見つめてみたいと思っていたし、触れてみたいと思っていた。 20才前後までの話だ。 今思うと不思議なのだけれど、当時の首都大学東京の都市教養学部には、不思議なコミュニティ感があった。 ガラパゴス式の携帯電話とiPodClassic、あとはアレン・ギンズバーグの詩集やジャック・ケルアックの『地下街の人びと』の文庫あるいは村上春樹や伊坂幸太郎の小説だけを持ってキャンパスに通い、テラスに集まっては、みんな気分が悪くなるまで煙草を吸っていた。 みんな痩せて咳ばかりしていたが、服だけはお金がかかっていた。コム・デ・ギャルソンやZUCCaなどのDCブランドや、ジル・サンダーやBALLYのインポート、古着屋のビンテージや、アレクサンダー・マックイーンやジョン・ガリアーノなどのハイ・ファッション。 解放区のような、どこか現実離れした空間だった。 そんな雰囲気があったからかもしれない。 当時の僕は自由な空間の中...

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TVドラマ評『CRISIS』『リバース』『人は見た目が100パーセント』最終回について

TVドラマ評『CRISIS』『リバース』『人は見た目が100パーセント』最終回について 『CRISIS』最終回 過去のツイートでも触れたが、物語の中盤以降主人公たちの属する部隊が国や国民を守るという警察本来の任務と、国家や権力者というより大きな力にとって不都合な真実を抹殺することの間で板挟みになるというテーマが最後の最後まで描き抜かれていた。 彼らの理念は裏から入って表に出してやること。 それぞれが過去の痛ましい経験を背負いながらもどうすれば表に戻ってこられるか、しかしこの揺らぐことのない信念は最終回でもあっけなく阻まれてしまう。より大きな権力が過程を無視し結果だけに目を向けるからだ。裏から入って表に出る前に消す。 より大きな国家や権力の前に市民が如何に無力であるか。 特出すべき能力を兼ね備えた公安チームでも権力には抗えない。 ラスト間際ではメンバーがテロリストへの反転を示唆する描写がある。じわじわと膨らんでいった彼らの不安や行き場のない怒りは中盤以降小出しに描かれていた。 まさに今の日本が直面する問題そのものである。 毎話用意されるターゲットに一貫性がなく物語としての大筋が見られない...

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映画『20センチュリー・ウーマン』を観る。~1979年のフェイク・ファミリー~

『20センチュリー・ウーマン』を観てきた。 まず驚いたのが、この映画の語り口が今の日本のテレビドラマと非常に似ているということ。岡田恵和や坂元裕二がここ数年描き続けてきたテーマとの近接性。簡潔に言ってしまえば“疑似家族”。 もちろん主軸はドロシーとジェイミーの親子関係なんだけど。 一つ屋根の下で他人同士が暮らすという設定の上で重要なのが個々のキャラクターや人物の背景。岡田さんや坂元さんもこれが上手いんだけど、この映画もこの点が素晴らしい。 例えば、ウィリアム。絶体バレる状況下でアビーと関係を持ったり、ドロシーに不意にキスをしてしまったりする。 そこには彼の色男としての明暗があり、ヒッピーだった過去は作品全体の雰囲気をリードしている。にも関わらずフェミニズムというテーマの前に唯一の成人男性という添え者として存在感の薄さ。重層的なキャラが作品に奉仕する成功例。 アビーとジュリーという2人の若い女の子のキャラもいい。 ニューヨークのアートスクールをガンを発病したことでで諦めたアビーの過激なフェミニズムとジェイミーと微妙な距離感を保ちつつ大人の表情を見せるジュリー。この2人の女の子と一緒にいる...

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映画『20センチュリー・ウーマン』を観る。

オープニングから車が燃える。 家に戻ると、部屋ではトーキング・ヘッズが流れている。 トーキング・ヘッズの曲では燃えていたのは車ではなく家だったはずだが、舞台の79年の世界ではBurning Down The Houseはまだリリースされていない。 不思議な違和感を覚えるが、この導入部で既にして監督の手の内に入ってしまった。 主人公の少年と、彼を取り巻く女性達の物語で大筋では驚くような内容では無い。 観終わった後はなぜこんなに良かったのか、説明することがとても難しい作品であるように感じた。 素晴らしいダンスシーンが多く、それも自分の評価の一つではあると思う。 (良い映画にはダンスシーンは欠かせない) 後にマイク・ミルズのインタビューを読んでいると、少し自分の評価の理由がわかってきた。 前作は未見だが、今作と同様に家が舞台の映画だそうだ。 インタビュアーが指摘する、 ”そういえばトーキング・ヘッズにも家をモチーフとした曲が多いですね。” 確かにそうだ。 前述のBurning Down The House然り、This Must Be The Place然り。 作り手が家や家族をテーマにする...

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映画『メッセージ』を観る。

映画『メッセージ』を観る。 平たく言えば「ディザスター×SF×哲学」。 冒頭からの未確認物体が現れ平穏が揺るがされるあたりのスピード感は『シン・ゴジラ』を思わせる。特段説明もなく物語が始まるやいなや恐怖はそこにあり、人々は脅かされている。戸惑いや逃げ惑う人々の描写はディザスター映画そのもの。 ただ、ディザスター要素はほぼここで終わり。後は主人公と未確認生命との対話を通じて物語が静かに広がっていく。 難解にもとれる物語の哲学的なメッセージをいかに汲み取るかが映画の面白さになっていて響く人には響くんだろうけど、自分はそれほどピンとこなかった。 物語の鍵の1つが未確認物体が世界の12の地域に同時に現れること。 対話によって未確認生命と距離を縮めていく主人公の言語学者をもってしてもどうしようもない各国の態度や戦力が今の世界情勢とリンクしているのは容易に想像がつく。僕はここら辺にもう少し含みを持たせることに期待していた。 ただ、最終的に物語が落ちた場所は独りの個人の内面であり、翻ってこの世界を揺るがした大きな不安定さも極めて個人的な動機に由来していたということになる。そこに共感できなければ中盤の...

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映画『溺れるナイフ』を観る。

友人と飲んでいて、この映画の話題になった。 自分の手ではまず選ばない作品だ。 毎週毎週新作が公開されて、消費されていく映画。 ティーン向けのもの、予算をかけたSFもの、アニメーションもの。 人生には限りがあり、映画視聴のために使える時間にも限りがある。 限られた時間を豊かで濃いものにしたいと考えるのは自分にとっては非常に合理的なことだ。 10代後半から20代前半の頃は好奇心と感受性に任せていろいろな作品に触れる機会があった。 多くの作品に触れると、自分の趣向や良い作品の見つけ方のようなものが何となく感覚的にわかってくる。 選択のブラッシュ・アップとでも、嗅覚とでも言うべきだろうか、ともかく、出来の悪いものに出会う機会は極端に減ってくる。 反面、知識や経験が増えていくにつれ、過去にあった体を貫くような感動の機会も少なくなっていく悲しいジレンマがある。 話が逸れた、溺れるナイフの話だ。 観終わった後で、監督について調べた。 自分より歳下の監督で、上智の哲学科を出て、ミュージック・ビデオもいくつか撮っている。 確かに断片で良いカットがいくつかあった。 10代の不安定さ、脆さ、その先に広がる未...

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映画『LION/ライオン ~25年目のただいま~』を観る。

『LION/ライオン ~25年目のただいま~』を観てきた。 久しぶりの映画だった。緊張感持って見たせいか、いつも映画を見ている際に眠くなってしまう時間があるのだけれど、今回は眠くならなかった。 映画は、低予算かつ監督は初の長編作品とは思えない出来だった。 印象的だったのは撮影だ。物語を劇的なものにしたGoogleアースに倣った空撮、インドとオーストラリアの自然の力強さ、ジルーの幼少期など、写真を見ているようだった。 写真集を想起される過剰なまでのカット割りもドキュメントという意識があってのことだろう。 発展途上国の貧しい子どもの写真というのはメッセージ性が強く教育的で、ただ本作はUNICEFがエンドクレジットに流れることからも、単なる感動譚に嵌め込まないという監督の意図があったと思う。 一方で、そのドキュメンタリー要素と対をなす物語的な起伏が少し弱かったのは残念。 迷子から養子としてオーストラリアに行くまてで全体の半分。ここをしっかり描くことで再会がドラマチックになるのは確かなのだけど、テーブルマナーのシーンなどは要るのだろうか。 恐らく原作で監督が気に入ったシーンなんだろうけれども。...

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映画『T2 トレインスポッティング』を観る。

前作を観たのはいつだろうか。 後追い世代なので、おそらく10年程前。 バンドの再結成の大半がそうであるように、これほど年を経た続編というものは”やらない方が良かった”という結論になることが多い。 ところがこの”T2″はどうだろう。 4人と同じように、我々も年を取り、時代は変わった。 マーク・レントンがイギーポップのアナログ盤に針を落とす、針を上げる。 マーク・レントンがイギーポップのアナログ盤に針を落とす。 この演出が全てではないだろうか。 人生は繋がっている。...

TVドラマ評 2017年4月クール作品の解説・確定版

4月ドラマ解説・確定版です。チェック出来た範囲でのものです。 犯罪症候群 WOWOWと東海テレビの共同製作。 妹を殺害されたショックとトラウマから警察を辞め、今は探偵をしている主人公とその主人公に事件の捜査を依頼する警察組織の人間たちを描くクライムサスペンス。 東海テレビで8話、その後WOWOWで4話という日程で放送されます。 ストーリーとしては、主人公のトラウマと警察内部の闇の2つが核になっていくようです。主人公の探偵を玉山鉄二・警察組織の鍵を握る人物を渡部篤郎が演じ見応えはあるのですが、初回で起きた事件が3話にして解決され黒幕のようにもったいぶって描いていた人物があっさり捕まるなど(それによって警察内部の闇という伏線はできるのですが)すべてが完璧かと言われれば微妙です。 4号警備 警察ではなく民間警備会社を舞台に、そこに務める警備員のペアが主人公の一話完結ドラマです。主演のペアを演じるのは窪田正孝と北村一輝。 民間警備会社の身辺警護という部分にスポットを当てた新しさはあるかもしれないですが、こちらの主人公も恋人を目の前で殺害されたトラウマから警察を辞め警備会社へ転職したという設定に...

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TVドラマ評 2017年4月クール作品の紹介

4月クールのドラマが始まりだしました。特に初回は出来るだけ全て見ようと忙しくしてるのですが、今回は非常にバリエーションに富んだ良作揃いです。 そんな中でネットではこういった記事が散見しますね。 http://www.asagei.com/excerpt/79263 http://biz-journal.jp/2017/04/post_18710.html ライターも書き手だから、ある程度過激な事を求められているという立場を踏まえての記事なのでしょう。 ただ最も問題なのは、この記事だけを読んで「今回のドラマも総じてつまらないんだね」と見てもない人間が思ってしまう事です。いくらネットの三文記事とはいえ、その影響力や捉えられ方を想像して書かれない記事は良くないなと思ったりします。 「犯罪症候群」「クライシス」 両者とも刑事モノとミステリーという割と万人受けする形式です。 前者はwowowと東海テレビというドラマフリークが否が応でも期待を寄せるタッグですし、後者は公安という使い尽くされたネタを、初回だけで2つ事件を用意しキレよく処理していく中でチーム内キャラや立ち位置をスマートに説明する技量は...

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映画『バンコクナイツ』を観る。

「バンコクナイツ」を観てきた。 3時間、全く長く感じなかった。 まず、アメリカを初め全世界的に内向き傾向が顕著になっている中、日本にこれ程まで広い射程で外に向かって力を注げる人間たちがいることを同じ日本人として誇りに思う。しかもその外は全くもってユートピアではない。 その証拠に本作では戦争が大きなテーマとして横たわる。歴史上何度も発生した東南アジアを舞台とした戦争に日本人はどれ程までに近づけるか。欧米人と同じく資本を振りかざしては捩じ伏せてきた傲慢な態度は形を変えて現存する。 ありのままの現状が映画の中にはあった。 日本には夢がないといいながら向かう先の東南アジアはユートピアかもしれない。しかし主人公の男は自覚する。現地の女も対抗する。 その全容が掴めないまま肥大する様々な欲望に迫り、今の東南アジアに横たわるもとのして捉え直したことに本作の真価があったと思う。 主人公の男が戦争の跡のあるディエンビエンフーまでたどり着いてしまう辺りの描写に今のリベラルの滑稽さが強烈に重なったりもしたんだけど、リベラルというのは結局如何に他者を受け入れるかという姿勢なのだから、滑稽ではありつつも正しく他者...

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映画『ラ・ラ・ランド』 – 常に“何か”の探究者であった2人の永遠 –

常に“何か”の探究者であった2人の永遠 「ラ・ラ・ランド」の感想です。 本作は本国アメリカで大絶賛を受けアカデミー賞の前哨戦であるゴールデングローブ賞を総なめにしたことから、日本でも公開前から話題となっていました。今回この映画にこれほどまで多くの関心が寄せられた要因として、監督であるデイミアン・チャゼルの存在は欠かせません。 彼は2014年に29歳の若さで撮った「セッション」で一躍有名になりました。自身の経験を元に、音楽学校の教官と生徒の壮絶なる師弟関係を描いたこの作品に衝撃を受けた人も多かったでしょう。過剰な描写ゆえに音楽関係者やジャズ愛好家からの批判も多く、賛否がはっきりと分かれたこの映画は一体どこが優れていてどこに人々の心を動かす要素があったのか。 その1つが監督であるチャゼルの“場を支配する力業”だったと思います。 映画では主人公であるドラマーが教官から容赦ないまでの特訓を科されます。手が血で真っ赤に染まるまでスティックを握らせたり少しテンポが狂っただけで平然と殴打されたりする描写が繰り返され、初めはその荒さや痛々しさに目を背けたくなるのですが、追い込まれていく主人公が感情や尊...

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映画『ラ・ラ・ランド』/『お嬢さん』を観る。

乗り換え時間2分で「お嬢さん」と「ラ・ラ・ランド」観た。 どちらも物凄く良くできた傑作だと思う。 ここまで間を空けず立て続けだとしっかり見れないと思ってたけど、まず4時間ちゃんと緊張感を持って見れたことが自信になった。 『ラ・ラ・ランド』 まず、チャゼルはハリウッドの宝だね。 彼の才能なしにはこの映画は語れない。 「セッション」の時に一番思った空間を支配することで、内容の善し悪しにかかわらず観るものを釘付けにするという力は今回も健在。間延びとか無駄を感じさせず緻密に観るものを誘導してくれる。 僕はミュージカルをそれほどたくさん見てる訳ではないけど、本作の冒頭のダンスシーンから始まって、ありふれた出逢い・ありふれた再会・ありふれた惹かれ合い・ありふれたすれちがい・ありふれた別れ・ありふれた成功・遅すぎた再々会と、総てが既存のフォーマットの焼き直しになってる。 「セッション」でもあったが、このチャゼルの徹底ぶりやしつこさがじわじわと観る者を気持ちよくさせていきラストでその全てが解放されるというのは映画本来の魅力の1つだと思う。だからこそ僕は最後のニセのセットで楽しげに踊る”かも...

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映画『ラ・ラ・ランド』を観る。

「お前は、ジャズを救ってない。」というマジック・ワードが、メタにこの映画について物語っているように思える。 クラシックな映画へのオマージュを描きながら、一方で工学的な方法で観客の心を捉えるこの映画はセブとキースの音楽に対するアティチュードと重なる関係にある。 そのために、どうしてもアンビバレントな感想を抱かざるを得ない。 映像の鮮やかさとリズムの力技で圧倒する点は、ある意味ハリウッド版『君の名は。』を感じさせた。   夢追い人が集まる街L.A.(ロサンゼルス)。映画スタジオのカフェで働くミア(エマ・ストーン)は女優を目指していたが、何度オーディションを受けても落ちてばかり。ある日、ミアは場末のバーでピアノを弾くセバスチャン(ライアン・ゴズリング)と出会う。彼はいつか自分の店を持ち、本格的なジャズを思う存分演奏したいと願っていた。やがて二人は恋におち、互いの夢を応援し合うが、セバスチャンが生活のために加入したバンドが成功したことから、二人の心はすれ違い始める…。...

映画「雨の日は会えない、晴れ た日は君を想う」を観る。

「雨の日は会えない、晴れ た日は君を想う」観てきた。 原題がDemolitionということで、劇中の激しい破壊シーン含め”壊れる”という変化が執拗に描かれる。冒頭のショッキングなシーンやそこで話されてる冷蔵庫、実は物語の始まり以前に壊れていた夫婦関係など。 主人公のデイヴィスも妻の死によって感情が壊れてしまったというより、どこか元から人間として壊れていたように映る。 壊れていたもの・壊れているもの・壊したものに囲まれながらフラッシュバックする記憶と破壊的衝動、再生の兆しとなる母子との関係を通じて進んでいく物語には無駄がなかった。 物語のラストでは最も長く壊れたままになっていたものが動き出す。 絶縁寸前だった義父に頼んでまで再生を試みたものがあれだったことに特に深い意味はないのかもしれないが、再生によって確かに動き出した時間は可視化され、それは単に自分だけのためではないように映った。 その瞬間は主人公だけの問題にとどまらず、失った人間が再び立ち上がる普遍的なシーンを見ているようだった。 一番最後の破壊を客観的見せるシーンまで(破壊からの卒業)素晴らしい。 ジャンマ...

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映画「彼らが本気で編むときは、」を見る。

「彼らが本気で編むときは、」見た。 荻上直子の新作でこのテーマはと思ってたんだけど、やっぱり良かった。 これまでの荻上作品は、広義のマイノリティがマイノリティを自覚して連帯することで居場所をつくり、その格式高さのようなもでアイデンティティを保つというような印象だった。 分かる人にだけ分かれば良いといったマイノリティ側の諦念やシャットダウンで成り立つユートピア的世界の美しさが基本にあったと思う。 ただ今回はマイノリティを扱いつつも、社会との接触や分かりあえなさにきちんと向き合っている姿が感動を呼んでいたと思う。 トランスジェンダーの話を大人の世界中心にだけ描くのではなく子供の視点含め幅広い年齢の人を使いながら描くことで、当人にとっては長く付き合っていかなければならない問題なんだということも伝わった。 ブローチや毛糸の使い方、布団の敷き方の変化など小道具の細かなこだわりなんかも良かった。 トランスジェンダーのという難役を演じた生田斗真の演技が素晴らしい。 始めこそ違和感はあったものの、次第に女性に見えてくるところもあって、最後の夜明けのベランダのシーンは一周回って男らしさみたいなものも滲み...

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映画『たかが世界の終わり』

主人公が10数年振りに実家に帰る。 大きな出来事は無く、観た後も確かな情報は得られない。 私達は家族の表情、振る舞い、性格から空白の10数年を想像する。 エンドロールに切り替わった時に思わず笑ってしまった。 クールな映画は観客を選ぶ。 説明過多でおしゃべりな映画とは対極にある作品。...

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