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映画『エンドレス・ポエトリー』を観る。

『エンドレス・ポエトリー』とてつもなく変な映画だが、話は至ってシンプルだ。
ホドロフスキーの青年期、サンティアゴに移住してから、友人や恋人を得て、別れも経て、詩人としての自己を確立し独りパリに旅立つまでの「若い芸術家の肖像」を奇想天外な登場人物とシュルレアリスティックな映像で語る。

『エンドレス・ポエトリー』を観て連想したのはラテンアメリカの作家たちの小説だ。
例えばアレナスの『夜明け前のセレスティーノ』やボルヘスの『ボルヘスとわたし』。前者は幻想の入り乱れる少年期の回想、後者は詩人の過去と未来の対話という点で似ているが、それだけではなく、 現実と幻想をシームレスに描く、出来事を主観的に大袈裟に語る、といったこの映画の表現方法は、いわゆる南米マジックリアリズムの特徴として挙げられるものだ。特に近いのは、自伝的な作品を遺し、記憶や詩人としての自己を爆発的な幻想で描いたレイナルド・アレナスではないかと思う。

この映画はずいぶんと奇妙な自伝だ。視覚的イメージや人物が奇抜なだけではない。現在のホドロフスキー本人が登場し、昔の自分に語りかける。父との別れの場面に割り込んで、本当はこうするべきだったんだと抱擁を促す。思い出すのではなく、生き直している。まるで過去が現在進行形であるかのように。

詩に理解を示さず、抑圧的で生前は和解することのできなかった父親とフィクションの中で再会する。自分の作品の中で甦らせ、乗り越え、受け入れる。自分の詩人としての資質を育てたのは(逆説的にではあれ)あなたという障害・束縛だったのだと。最後、父の仮面(毛髪)を剥がし、抱擁する。
ここは非常に感動的な場面だ。現実には起こりえなかった父との和解は、こうあってほしかったという願望を描くのではなく、取り返しのつかない過去を理解し読み替えるという行為によって為される。

この映画で印象に残った表現の1つは大袈裟に語る、ということで、オペラ歌手のように喋る母親や、2lのビールを一気飲みし人前で胸を見せつけたかと思えば言い寄ってきた男をぶん殴り恋人のホドロフスキーに「一緒に歩く時はあなたのイチモツを握っておく」と言い放つ怪女ステラ(なんと実在の人物) も、おそらくホドロフスキーの主観ではまさにそういう印象だったのだろう。体験・記憶・感情にとって真実だということを表現する時、語りは本当らしさから逸脱する。それは単に誇張とは言い切れない。自伝的作品とマジックリアリズムの相性が良いのは記憶と主観がテーマになるからだろう。

もう1つは、隠喩や象徴が肉体を持ち、何もかもが目に見える姿で現れるということだ。仮面を付けた群衆、姿を隠さない黒子、骸骨たち、皆何かの喩でありながら、登場人物として、画面の構成要素として臆面もなく存在を主張する。比喩が比喩でなくなっている。僕は道化だと言えば突如サーカスが始まる。
息子が演じる青年期のホドロフスキーと現在のホドロフスキー本人、書割と現実の土地、実際の出来事と誇張された心象風景、夢、生と死、出会うはずのないもの達が、等しいリアリティで1つの画面の中に顔を揃える。虚構であることを曝け出すことで生まれるこの作品独特のリアリズムに戸惑い、感動する。

改めてわけのわからない映画だったが、表現の鮮烈さと、どぎついまでの肯定を感じることはできた。老いを肯定する。芸術への衝動を肯定する。生きることを肯定する。

「幸せに死ぬことを学ぶ」

「自分を生きるのは罪じゃない。他人の期待通りに生きることの方が罪だ」

「意味など無い、生きるだけだ」

「老いはなんら屈辱ではない。すべてを手放せる。セックス、財産、名声、自身をも手放せる。お前は1匹の蝶になる、自ら発光する蝶に。その存在は、完全な光」

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映画『霊的ボリシェヴィキ』を観る。

どことも知れない施設に集められた外見も年齢もばらばらな男女。車座になり、中の一人が語る話に耳を傾けている。語られているのはある囚人の死刑の間際に起きた不気味な出来事だ。語り終わると、参加者のうちの若い男がつまらなそうに「結局、人間が一番怖いとしか思えない」と言う。するとすぐさま、会の中心人物である霊媒師が彼を殴り飛ばす。霊媒師の相方の眼鏡の男が「それは禁句です」と言う。不用意な発言でせっかく集まってきた霊気が散ってしまったのだという。それから、眼鏡の男は参加者たちに向かって「こういう時はボリシェヴィキ党歌を歌いましょう」と呼びかけ、その場の人間は皆立ち上がり、スターリンとレーニンの肖像の前でボリシェヴィキ党歌を合唱し始め、『霊的ボリシェヴィキ』というタイトルが画面に現れる。
正直爆笑した。
なんだこの映画は、と思った。わけがわからない。しかしながらこの映画、とても面白いのだ。

この映画について考えようとした時、まず頭に浮かんだのは「怪を語れば怪に至る」という言葉だ。
この作品は文字通り、「怪を語る」映画である。なんといっても、登場人物がただ座って怪談話を聴かせているだけの場面が大半を占めているのだ。これは映画でやることなのか?と戸惑うくらいに、とにかく語る。
作中では、非常に限定された簡素な空間で、登場人物がそれぞれ自らの体験した怪談を語っていく。集められた人たちは皆、何らかの形であの世に触れたことがあるのだという。会を主催している霊媒師と眼鏡の男は、参加者に自らの心霊?体験を語らせることで、何かこの世ならぬものを呼び出そうとしているらしい。映画は、それから色んな怪奇現象が起こり、何やかんやあって破滅があり、新たな「霊的ボリシェヴィキ」の誕生を見届けて幕を下ろす。概ねこんなあらすじだったような気がする。書いてみてもよくわからない話だが、ストーリー自体は、怪を語ることから始まって、怪の出現で終わるという、非常にシンプルな構造だ。
集まった人間が一人一人怪談を語り、最後の話が終わった時に怪異が起きる。これは言ってみれば百物語である。
パンフレットによれば、当初のプロットでは語りの要素はなく、監禁・拷問によって霊を呼び寄せようとする話だったらしい。つまり、何かを召喚する儀式、というのが元からのコンセプトだった。
そのうえで、完成形であるこの映画は、百物語を儀式として活用した。怪を語って怪を呼び出そうとしたのだ。
しかも、それはストーリーに限ったことではなく、この映画における映像・音の表現や、映画の外側まで巻き込んだメタな仕掛けも含めて、作品そのものが怪を語り怪を呼ぼうとしている。

ではこの作品における怪とは何か。
生きている人間が怖いという常套句は真っ先に拒絶されている。また、物陰から突然に何かが飛びかかってきたり急に大きい音がして驚かせる類いの演出も、この映画では極力排除されている(個人的にはそれが非常にありがたかった…)。そもそも作中でやっていることが降霊会みたいなものなので、純粋に、超自然の恐怖を扱おうとしているのはわかる。スターリンとレーニンの肖像が掲げられているのも、いかにも彼らの霊を呼び寄せようとしているかに見える。
しかしこれがちょっと曲者だ。作中で死後の世界からのメッセージが話題に出た時、浅野(霊媒師の相方の眼鏡の男)は、化けて出ることがあの世の実在の証明にはならない、現世に浮遊する残留思念の可能性もあるのだからとこれを否定している。さらには終盤で、霊媒師があの世なんて存在しない、化け物を呼び出すしかない、とこれまでの話をすべてひっくり返すようなことを言い放ってしまう。
思うに、死んだ誰かの幽霊が出るというのも、ある意味では合理的で説明のついてしまう話なのだ。本当に得体が知れないのは、幽霊ですらない。
そう考えると、参加者たちが語った話にも、死者の霊だけではない何かの存在が感じられてくる。
特に面白いと思ったのは霊媒師の話で、山でわけのわからないものに遭遇して障りを受けるというありがちな話なのだが、山の稜線を這うものというスケール感、土俗的な禁忌、そういう魅力が短くシンプルながらも感じられた。目撃した「何か」をドイルの妖精写真に喩えたのも興味深い。この世と異なるレイヤーに貼り付けられた存在ということなのか。
ここで、杉浦日向子の漫画の次のような台詞を思い出した。「正体など見きわめる必要もあるまい。あれは、わからぬものなのだ」。こちらも『百物語』というタイトルである。
つまり、この映画が扱っているのは「人間が一番怖い」の対極にある人知を超えた恐怖、「あの世」ですらない異界の、「わからぬもの」の恐怖なのだと思う。

では、この映画はどうやって怪を語り、怪を呼び出しているのか。
観ていて感じたのは、この映画における怪異は何かに紛れてやってくるということだ。
舞台となる建物は、鳥の鳴き声、機械の作動音、街の生活音、といった、さまざまなざわめきに包まれている。語りに集中し、聞き手が静まれば静まるほど、それらの音が意識される。単調で無機質な音、囁くような音、ひたひたと猫の歩くような音。聴いているうちに、それらが皆本当に自然な音なのかと違和感を覚えてくる。足音に聞こえるのは一体何なのか。生活音と言ったが、設定では人里離れた場所のはずだ。ではなぜ雑踏のようなざわめきが聞こえるのか。さらにこのざわめきが、画面の中のものなのか、劇場内の音なのかはっきりしないのも不安をかきたてる。
また、一人目の参加者が語っている時、監視カメラのようなアングルで実験の様子が映されるのだが、舞っているホコリに紛れて光の粒が時折飛び交っているのだ。これ、心霊写真でおなじみのオーブというやつではないのか。
きわめつきは、参加者たちが皆して笑っている時に混ざって聞こえた男の野太い笑い声だ。それにしても、いきなり笑いだした霊媒師はなんなんだろう…。
ついでに言えば、たびたび姿を見せる「裸足の女」も、停電や夜の暗闇に紛れてやってくる。
このような、何かに紛れさせる表現は、怪異により実在感を与えている。それに加えて、画面の隅々に目を凝らし、些細な物音にも耳を澄まして恐怖を探し求めるという楽しみも生まれる。
ホラー映画が魅力的であるかどうかは、語りたいシーンがどれだけ多いかによると思う。視覚の芸術である以上、何かこの世ならぬもの、異常なもの、恐ろしいものをどれだけ画面上に表現できるかが重要だ。
この映画では、何かが現れそうな、潜んでいそうな画面の配置がとても多い。鏡、暗闇、物陰。長尾と話している由紀子の目線だけで裸足の女の存在が仄めかされる。三田(最初に話した男)がトイレで独りごとを言うシーンは、鏡を覗き込むというだけで怖い(「押入れにいたのは本当に人形だったんですか?」と鏡に問いかけるのも不思議な感じだ)。至るところに怪異の居場所がある。
画面の端っこで何かが起きている、というのもこの映画の特徴だと思う。これは恐怖演出に限らなくて、冒頭のボリシェヴィキ党歌斉唱の際に初参加の由紀子に歌詞カードを見せている長尾、という笑えるシーンもある。片岡(浅野の弟子の女の子)が終盤、拳銃で参加者全員を粛正して回るシーンでは、射殺する相手に近づく彼女の姿が何か金属板らしきものに映っていた。また、終盤の由紀子が何かに憑りつかれたように豹変する場面では、画面の中心はスターリンとレーニンの写真と他の参加者たちに固定されたまま、スタスタ歩き去っていく由紀子が画面の端に映されていた。その時の由紀子の顔に光が強く当たって顔がぼやけていたのも興味深い。夢に出てきた女の顔がどれだけよく見てもどうしてもぼやけていたという長尾の話とつながるのか。幽霊は顔がはっきり見えないという話も思い出す。(ちなみにこの後の由紀子の高速ヒヨコ歩きはかなり面白い)
ホラー映画を観る時は極力目を瞑り耳を塞ぎたいのだが、この作品は、ホラー映画こそ目を瞠いて耳を澄まして楽しむものだと教えてくれる。

この映画は、工場の一室という狭い空間で話が完結している。この空間は結界であり、参加者は全ての儀式が完了するまで外に出ることが許されない。観客は怪談話をする登場人物の姿を映画館の暗闇の中で眺めている。そうしていると、ふと奇妙なことに気付くのだ。怪談話を聞く登場人物と、それを眺める私たち観客。どちらも語りを聞いていることに変わりはないのではないかと。ここに来て、怪談話を語る映画という試みの意味が解ってくる。観客と登場人物の置かれた状況をシンクロさせ、画面の内側と外側の垣根を取り払おうとしているのだ。というより、映画館を結界の内側に取り込もうとしている。その結果、観ている私たちも否応なく怪異の場に立ちあわされることになる。画面内のざわめきと映画館内の音の区別がつきにくいのもこの印象を強めている。だとするなら、上映が終わって映画館内が真っ暗になる瞬間は、百物語の最後の蝋燭が吹き消される時なのかもしれない。

正直ボリシェヴィキ等の思想・歴史的なことは全然わからないので触れられなかったが、映画の最後に現れ、歩き去って行ったアレの姿には、恐怖以上に不思議な解放感を覚えた。頑張って世の中に怪異をまき散らして欲しいものである。

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斎藤工・監督の初長編作『blank13』を観る。

斎藤工・監督の初長編作『blank13』を見てきた。良かった。
70分という長編にしては短い尺の中で隅々まで丁寧に作られていたという印象。斎藤工の映画という芸術に対するフェティッシュゆえだろう。冒頭の葬儀の大きさの比較から、回想の差し込み方、タバコや自転車や野球といった道具の使い方、脇を固める名俳優のたちの個性の引き出し方まで、全てにおいて最もベタな選択肢を繰り返し選択し続けているにも関わらず、そのベタさは映画を愛する者ゆえのベタであることがひしひしと伝わってきて、見ていてとても心地よかった。

冒頭とラストで全く同じシーンが出てくるのだが、冒頭では無機的で暗く冷たい印象だったそれが、ラストには暖かみのある画に見えたこと。
この1時間でほんの少し世界が変わったと実感できたので、それが良かったと。

葬式シーンも含めいいシーンたくさんあるんだけど、特に時空を超えた連綿とした流れを感じたのが、
父親に八重樫のオープンスタンスを教えられる場面、それをふと思い出していたんだと気づかせる葬式中の高橋一生の顔アップ、近くの球場と先ほどまで居た母がいないカット。

台詞なし画で繋げただけで、今と昔の状況が伝わってくる。とても映画的だと思った。
ラストの松岡茉優が手を丸めて少しだけ自分のお腹に当てたようなシーンを見て、いやあれは松岡茉優絶対妊娠してるよねと彼女に得意気に言ったら、いや妊娠してるって台詞あったよ宝田くん寝てたけどと言われた。


高橋一生と森川葵が付き合ってるかもみたいな話が出てて、カルトドラマ「プリンセスメゾン」が注目を浴びているよう。「ちかえもん」もそうだけど、NHKのおかしなドラマは恋を育むのにうってつけなのだろうか。

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哲学 – 賭け – 愛するということ

哲学 – 賭け – 愛するということ Posted on 2018年3月3日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

パスカルは神の実在に賭け、アインシュタインは神はサイコロを振らないと言い、カエサルは賽は投げられたと行動し、ハイデガーやサルトルは企ての中に身を投じることをエンドースした。

哲学的な認識と実践のあいだには決定的な亀裂があって、それらは二元論的に制御すべきで一元論的に統合することは出来ない。
しかし、認識と実践のあいだにある飛躍、死を覚悟した跳躍というのは?

それは、まさに賭けというものなのではないだろうか。

賭けは、人間にとって強烈で不思議な魔力を持っている。ギャンブラーであれば、赤のカードが5回続いた次には黒が来るのではないかと流れを感じ取ってしまうはずだ。
奇妙な話ではある。確率的にいえば、これからの出来事とこれまでの出来事には因果関係はない。しかし、人はそこに流れを見出してしまう。あたかも、ヒューム的な違和感というか、有らぬものをあたかも有るかのように感じるのだ。

ある意味では、人生自体、賭けと言えなくもない。もちろん、僕らはディーラーではないからほとんどの場合には、はじめから負け戦だけれど。

他者を愛するということも賭けである。
僕らに、彼女らの気持ちは解りえない。応えてくれるだろうか?あるいは裏切らないだろうか?
無償の愛ならどんな愛でも良いだろう。しかし、もし相手に求めるところがあるなら?

サルトルの言った、投企=アンガジェは、エンゲージ(リング)=婚約=愛するということと同じ語源である。
愛することは自らを投げ入れること、それは賭けと言わざるを得ない。

とはいえ、賭けというものは、状況把握と確率のコントロールと可能性への前進であり、それは主体性の問題であるといえる。
それはある意味では、コミットする機会を逃さぬことでもあるが、他方で良くないゲームは続けずにすぐに降りなければならない。

つまるところ、賭けで最も下手なやり方は、ロマン主義であることと冒険主義であることだ。
まずは、心を落ち着けて、クールにゲームを楽しむことだ。そのうちに流れも変わる。あるいは、チャンスが巡ってくるかもしれない。

君のゲームにボーナス・ライトが灯ることを願って。
Have a nice play !!

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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NHKプレミアムドラマ『平成細雪』を見る。

昨日・今日とNHK総合で再放送されている『平成細雪』。
プレミアムでやってる時に見れず、先輩に良かったのでと焼いてもらったのを見たけど、とても良かった。特に脚本の蓬莱竜太がものすごく上手い。もともと、演劇畑の人でドラマをあまり書いていないみたいだけれど、この人にもっとドラマを描いて欲しいとおもわず思ってしまった。

タイトルの通り、ベースには谷崎の『細雪』があり、時代設定を平成に置き換えている。
平成4年、4姉妹が生まれた老舗企業の経営破たんの話から物語は始まり一見すると昭和のような世界観で物語は進行するが、バブル崩壊以降の数年間というのは否応なしに昭和の幻想を纏っていたはずで、年号が代わりバブルも崩壊したにも関わらず昭和という時代を捨てきれずにいる斜陽的な世界、そしてそこから平成という悲劇が始まる暗示こそが物語としてのメッセージなのだろう。

「そして1か月後、阪神淡路大震災が関西を襲いました。
 長い長い失われた時代の始まりです。」

ドラマのラストがこのようなナレーションで締められていたこともその証しとなる。

柄本佑演じた板倉を始め、各人物の描き方もとても丁寧だった。
4姉妹で言えば中村ゆりが特に良かった。
ズームインやズームアウトなどカメラワークも雰囲気があって良かった。

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映画『犬猿』を観る。

吉田恵輔監督の映画『犬猿』を見た。
前作『ヒメアノ~ル』は確かに衝撃作だったけれど、個人的にはそこまで傑作だとは思ってはなかった。
だが、今作『犬猿』はまさに見事だった。
家族や親子がテーマの作品はよくあるけれど、「兄弟/姉妹」に絞ってここまでまっすぐに描いた作品は意外と珍しいように思う。

ストーリーとしては、2組の兄弟/姉妹の日常を描いているだけなのだけれど、根底には吉田恵輔にしか出せない心地の悪さが漂い、嫉妬や劣等感が歪に浮かび上がってくる。前作の流れを汲めば、この
緊張感がどこかで爆発し、取り返しのつかないことになるんだけど、本作では何回もそんなことが続く中、結局最後までそうならない。

理由は明白で、それは「兄弟/姉妹」だから。殺すや死ねという言葉の中、裏切りや妬みが引き起こす行動の末に、「兄弟/姉妹」のあるべき姿が描かれてしまう。それは最後の台詞からもうかがえる。「変わらない」良いときも悪いときも「兄弟/姉妹」という関係は当人同士に変わらず課せられている。

それを意識しないことはできない。

常に一番近くで育てられた人間同士には、歪み反発しあうエネルギーと同じだけの尊びあえる力が眠っている。
とても単純な話なのに、あまりに説得力があり自分の人生に翻って考えられるものを残してくれた。

もうすぐ妹に子供が生まれる。
ぼくは叔父さんになるのか。

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『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』を観る。

去年見れなかった『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』を見た。
僕が言うのもおこがましいが、紛れもなく映画史に残る稀代の名作。
まず驚いたのは撮影技法。登場人物の特徴の描き方や町の撮り方など1カット1カットが計算し尽されており、4時間で物語の世界のことは全て知った気になれる。

徹底的に計算したカットを重ねることで、必然的に物語の強度も増す。
この映画のテーマは冒頭のナレーションにもあるとおりに、50年代末から60年代にかけての台湾の情勢に巻き込まれていく大人とそれを見ている子供の葛藤というところだろう。

それが同時代での日本の学生運動の中心だった大学生ではなく、中学生が主人公であるというところに衝撃があり、さらに具体的な目的も見出せずただ漠然とした不安と希望の中で結果として起こってしまった悲惨な事件というストーリーのやり場のなさが際立つ。

僕は主人公の小四に大いに感情移入をすることができた。
もちろん彼の起こした事件の背景と当時の台湾の情勢は切り離せないが、途中からは彼のことしか目に入らなくなり、彼にとっての穏やかな日常を心から願っていた。それゆえに彼の未熟さをとても痛いものに感じた。

振り返ると完全なファムファタールだった小明を除けば、家族や友人に明白な悪は見出しにくく、むしろ善人だらけの町で日常が崩壊してしまうやりきれなさは強烈。個人的には事件のシーンをラストにすることが最も後味が悪く強烈なインパクトを残せると思ったが、家族や町が彼を失ったあとでの日常描写を続けるあたりにも気持ちを揺さぶられた。インフラが整っていな町だがらこそできる電気の点滅の演出(明暗)や、西洋への憧れ、キリスト的なモチーフなど、1秒たりとも不必要なシーンのない完璧な4時間だった。

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西洋コンプレックスとアジア的意識 – 近代/一神教/自由の意味 –

西洋コンプレックスとアジア的意識 – 近代/一神教/自由の意味 – Posted on 2018年1月27日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

最近、アジア的なものに関心がある。

基本的に自国や他国に対する強い思い入れはないのだが、なぜアジアについてとらえ始めたのかと考えているうちに、自分の中に強い西洋コンプレックスがあるのではないかと気づいた。
アジア人として生まれたことに対する、非西欧的であることへのコンプレックス。

一見すると、かなり奇異なことを言っているように思われるかもしれないが、やはり現在の世界は西欧中心の価値観で構成されていると考えていいのではないだろうか。

世界的なグローバル化はある意味で文化的なアメリカナイズという側面が強く、世界中どこへ行ってもある程度の都市ではSTARBUCKSやMcDonaldやGAPの店に出会うだろうし、道行く人々の手の中にはApple製のiPhoneかGoogleのAndroidのスマートフォンが握りしめられている。彼らが休日を過ごすのはローマ-イギリス-アメリカ起源のショッピング・モールだし、日記代わりに記録を残していくのはシリコンバレーで開発されているFacebookやInstagramやTwitterにである。

精神的にも経済にも、マックス・ウェーバーが語ったところの西洋におけるプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神に覆われたシステムの中に僕らは生きていると言っていいだろう。
そもそも、普段からジャケットやパンツ(ズボン)やシャツを着て生活し、ローマ字入力のキーボードを叩いているのだから、西洋化された世界に取り込まれていないと考えるのは難しいのではないだろうか。

正直に言えば、近代化以後の日本人の中には強烈な西洋コンプレックスがあったのではないかと思う。
福沢諭吉の脱亜論もある意味でそうだが、現在でもある中国・韓国・朝鮮への強烈なヘイトや反発の基底にあるのは、西洋コンプレックスそのものではないだろうか。
一方で、ある種のヒエラルキーの中で、彼らよりも近代化を先んじたから上にあるという不遜。他方で、伝統ある大陸の東洋文化を無知蒙昧で未開で下品なものとして見る態度。

強い一神教的西洋とか弱き多神教的東洋

とはいえ、西洋コンプレックスというのは、結局のところ一神教的理念を持たないアジア・東洋におけるある種の弱さから来るものではなかと思うのだ。
それは、近代化を確立し得たのが一神教的理念を持つ西欧(西洋)であったこと、いまだにその近代モデルの中に世界があるということから由来する。

もちろん歴史的には例外もあった。多神教的な世界観が良い結果をもたらすのかと期待された時代だ。

80年代は日本にとってはミラクルな時代でJapan As No.1/エコノミック・アニマルとしての経済的成功と、ポスト・モダン的な思想の潮流に後押しされた乗った時代だった。
それは再評価されたコジェーブがいったところのスノッブな形式主義な日本と、ロラン・バルトがいったところの空虚な中心としての皇居〈コーラ〉という言説が輝いて見えた時代だった。
それは、結局のところアニミズム-汎神論-多神教的なイメージにつながるものだ。その意味でスピノザ-ドゥルーズにも連なるものだった。

とはいえ、90年代になってみれば強力なリーダーシップ不在の日本企業は没落し、リベラル的な多様性の尊重と承認の言説からは結局十分な多様なる個人が満たされることはなかった。
加えて、21世紀は一神教 対 一神教の戦争からはじまって、現在は相対主義の反動から強烈に一神教的ともいえるポスト・トゥルース的状況に至っている。
これでは、多神教的なものに弱さを感じざるを得ない。


他方で、僕は現在この瞬間の中国という国に注目しているところがある。
それは、現在の中国の状況が80年代の日本とよく似ていて、大衆の時代精神としてはエコノミック・アニマル=爆買い、Japan As No.1=強い中国経済のようには見えるからだ。

とはいえ、中国はアジアの特異点で、一神教的なところが強い。
もともと、天-皇帝-王朝という天帝-天子による民衆とのある種の世俗化した信仰的意識が強い。それは、天-毛沢東-共産党という体制として今も受け継がれている。
アジア的に土着化されていて、帝国主義的だけれど、ある種の一神教であるのが中国という国だ。

今後、アメリカ-中国という西洋-東洋のコンフリクトが激化していくのは、まず間違いないだろう。
世界第1の大国としての西洋のアメリカと世界第2の大国としての東洋の中国の対立ともいえる。

ある意味で、かつて日本が天皇-西田哲学-近代の超克-八紘一宇-満州国で東洋代表として西洋文明に対抗していたことの反復のようにも思える。
中国にも勿論日本と同様近代化を先んじた西洋に対するコンプレックスは根強くあるだろう。
中国の政治的・経済的な成功によって、アジアは西洋コンプレックスを克服できるのだろうか。

アジアに自由と民主主義はあり得るか

シンガポールは「明るい北朝鮮」と呼ばれているらしい。それは、経済的に高度に発達しながらも独裁的な政治であることを示唆している。
ある意味で、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』が現実化された世界だといえるだろう。
それは、ジョージ・オーウェルの『1984』的な監視社会と揶揄される中国が経済発展の中で目指しているような世界像でもあるだろう。

最近、インド映画の『バーフバリ』を見た。
それは理想的な王の到来を描いた神話的超大作であった。
そこで思わず気付かされたのは、アジアにおいては民主主義という理念は現実味がなく、むしろ王→民という統治意識が強いのかもしれないということだった。

しかし、アジアの国々のそのような統治意識を単にアジアの未開性と切り捨てるわけにもいかないだろう。
アジア各国には、近代史的経験、ヨーロッパがそれぞれ闘争を通してリバティを獲得して近代化したのとは異なり、帝国列強の植民地であったトラウマの記憶があるのだ。

それゆえに、支配された経験のあるアジア各国が自由でリベラルな国民主権ではなく国家としての強固さ権力システムに有利な国家主権に重きをおくのは自然なことだろう。
例外はタイと日本だけだ。むしろ、例外的に被植民地ではなくむしろ列強であった日本、外交により難局をやり過ごしたタイも王国であったのである。

他方で、自由という言葉にはリベラル的なリバティという理念だけではなく、リバタリアン-自由主義-ハイエク的な(ハイエクはリバタリアン的ではないのだが)自由競争の自由という意味もある。
この自由の概念はアジアにも行き届いた。中国では改革開放の中でハイエクが大きな影響力を持ったらしい。

アジアの人々は権利としてリバティとしての「自由」は獲得できずに、西洋的「自由」競争の世界の中で生きているといえる。
未だ複雑な思いを抱えて生きざるを得ないだろう。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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木曜ドラマ『BG~身辺警護人~』初回/第2話を観る。

『BG~身辺警護人~』初回。

「アイムホーム」以降、主人公感のない主人公を演じるようになったキムタクだが、本作もキムタクが演じる主人公としてはかなり地味。
共演者との兼ね合いやプロットの精緻さでキムタクのアクを抑えようとする手法には、もはや新しさはない。

ただ、翻ってここがテレ朝の狙いでもある。
今のテレ朝ドラマは数字だけをみると、視聴者を取り込むこと最も成功している。それは、ドラマ自体が目新しさや複雑さを捨て、いかに安定した高いクオリティを維持するかのみを目指している結果だろう。本作もその大きな潮流の一つとして見て取れる。

井上由美子の脚本に破綻は考えにくく、このまま抜群の安定感で最後まで続くことが予想できる。民間警備というテーマはNHKの「四号警備」で業務内容等描かれていたので特に触れる箇所はなく、あと物語の見どころとして触れるなら、「踊る…」の柳葉-織田を彷彿とさせる江口-木村の立場関係。

まさかこの年齢でキムタクが所轄の刑事ばりにエリートに意見しながら仲を深めていくというありふれた展開にと思わなくもないが、恐らく視聴者はそこを求めている。それにやさしく答えて数字を稼ぐのがテレ朝ドラマの鉄則であり、そこら辺含めて優等生を演じ切る様子を微笑ましく鑑賞したい。

『BG~身辺警護人~』第2話

とても豪華なつくりなのは伝わるが、細部の粗が目立つ。今回のストーリーに不必要な今大人気の石田ゆり子のシーンをわざわざ作ったり、警護の対象をあり得ない方法で逃がしてしまったり、ハイヒールを履かせたり。こういう細部を軽視した大雑把さな展開が続くようでは考えものである。

キムタクのアクは設定上うまく中和されてるのだから、しっかり作った制約の中で身辺警護のリアリティと木村-江口、木村-斎藤の関係で物語を盛り上げれば十分楽しめそうなのだけどな。

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金曜ドラマ『アンナチュラル』第2話/第3話を観る。

金曜ドラマ『アンナチュラル』第2話

今回は初回以上に石原さとみ演じる主人公・三澄ミコトの過去や現状に踏み込んだ内容だった。この回を見てこのドラマは石原さとみのためのものだと思った。

近年の石原さとみといえば、映画「進撃の巨人」「シン・ゴジラ」ドラマ「校閲ガール」など、リアルの解像度を故意に下げる事で漫画の主人公を地で演じる(3→2.5次元)という過剰にデフォルメされた演技が目立っていた。

人間の内にある数百という複雑な感情を敢えて10個ほどに限定してスイッチ一つでその場に最も適した形で分かりやすく提供するという彼女の驚くべき技法は様々な所で話題になったが、今回はそれとは全く逆の複雑な主人公を演じてみせている。それを引き出す一つの要素が過去のトラウマだろう。

一家四人の練炭自殺で唯一生き残った幼少期の記憶というのは今回含めて今後も事あるごとに触れられる要素となる。その度に彼女は今も十字架を背負っていますという姿を見せる。さらに彼女の今の哀しみ・強さ・明るさなどは周囲の人間と接する姿や表情から浮かび上がってくる。

絶対絶命の状況で窪田正孝演じる後輩に語った死の恐怖や生への執着の姿勢、助かった上で井浦新演じる先輩への感謝と諦念にも似た表情、その後市川実日子演じる同僚と「肉行こ」とあっけらかんとしている様など、短い間に多くの感情が入り乱れる部分に、この主人公を描きたいという切実さがうかがえる。

この丁寧な描写で主人公が抱える思いを受け止めてあげることができれば、このドラマは他に類をみない十分な傑作となると思う。なので今回のラストにあったような週刊誌うんぬんといったパートは個人的には賛成しかねる。
野木亜紀子には石原さとみの100万通りの表現力の一点のみを信じて欲しい。

金曜ドラマ『アンナチュラル』第3話

ネットで評判が良かったから楽しみに見たら、良くなかった。
前回、このドラマに期待する点を石原さとみが演じることで生まれる画一的なキャラクターからの変化と書いたが、今回はそれが完全に戻ってしまっていた。

一話完結の構造上、ストーリーに重きが置かれるのは仕方ない。
ただ、野木亜希子は今月の美術手帖ドラマ特集で古沢良太との対談の際に、「物語が面白ければいいのだが、そこに裏テーマをいかに巧妙に入れるかということを考えている」と発言している。
それが今回はあまりに過激に前面に出ていた。

もちろんそれは石原さとみ演じるミコトの感情を逆撫でするためのものであり、それにより「理性的な男・感情的な女」という構造は簡単に出来上がるのだが、その流れには男女の問題を扱う上での繊細さがなさすぎる。
さらにミコトは感情的になりながらもその感情をエネルギーに代えて真実に辿り着く。

つまりこれはドラマ向けに絞られた数パターンの感情のみのを分かりやすく見せていくこれまでの石原さとみの定型化した演技と変わらない。
裁判のような絶対的な決着のみに重きを置くのではなく、もっとグレーな部分をミコトにぶつけてその複雑な感情で視聴者に問いかけるようなつくりを期待したい。

法医解剖医の話だから辿り着くのは絶対的な真実でなければならないのはもちろん分かるのだが、そこに至るまでに経緯と最終的な結論に対してミコトは何を考えどのような感情にあるのか。その含みこそがこのドラマをさらに面白くさせるはずだという勝手な思い入れなのです。

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TVドラマ評 2018年1月クール作品の紹介

インフルが直撃した影響で1月ドラマの初回時期にぼーっとしたまま過ごしてしまった。
今期はテーマが比較的多岐にわたっており、ドラマごとの特徴が良く出ている。ただ、どこかで見たテーマや内容が多いのも事実。
丁寧につくるか見たことないものをつくることに注力できるかだと思う。

今のところ「anone」「アンナチュラル」「MASKMEN」「電影少女」「隣の家族は青く見える」が良い。

anone

「anone」の先が読めない(つまりストーリーがある)感じは最近の坂元作品では異例。このままぐだぐだになっていくことも充分あり得るが、要所のメッセージを逃したくないという楽しみ方ができる。

アンナチュラル

「アンナチュラル」は質の高い海外ドラマを目標にという記事を目にしたが、設定や構造は従来の日本の連ドラの域を出ているとは言えない。ただ初回に関して言えば、話を二転三転させ真実に辿り着くまでの息もつかせぬ展開は良かった。野木亜紀子の1話完結の謎解きが価値を持ったということなのだろう。

勿論、死因を解明するだけが主題ではなくそこに至るまでの死者の個性や社会的状況から社会派というポイントを加算するのだろうが、そうなってくると余計に日本の連ドラ的既視感に襲われる。例えば前年の「刑事ゆがみ」はその辺りがとてもうまかったゆえ、どこで独自性を出せるかは今後のポイント。

MASKMEN

「MASKMEN」はテレ東十八番のフェイクドキュメンタリーだけど、演者が変わるとこうもまたワクワクするのかと思わせてくれる。
斎藤工の生真面目さと表現者としての素養・野生爆弾くっきーの天性。
この組み合わせのスリリングさは容易にリアルとフェイクの境を消し去ってしまおうとしている。

電影少女

「電影少女」は撮り方が非常にスタイリッシュ。
原作の世界観が現代にブラッシュアップされていて、オーソドックスな展開ながら安心して見られた。初回ラストを含めて今後はオリジナルの展開になっていくようで、原作知らない人間として楽しく見れたらと思う。

隣の家族は青く見える

「隣の家族は青く見える」は先ほどの初回をそれほど期待せず見ていたのだが、「妊活」というテーマに向き合った真摯なドラマだった。
子供に恵まれない夫婦という1点にフォーカスするのではなく、周囲にそれ以外問題を抱える人々を配置することで、複数の問題を均等に扱おうとする姿勢がいい。

個々の問題が重くならないよう工夫されているので説教臭さがなく(主題歌に一瞬あっとなったが)、一方で台詞のタイミングや言葉選びなどが問題を扱うために選び抜かれたものであるのは一目瞭然。
こういう丁寧さや切実さは昨今のドラマにおいては見逃されがちなので、個人的にはしっかり見届けたい。

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2017年 小説・映画・TVドラマ ベスト10

2017年 小説(国内)ベスト10

1.『最愛の子ども』松浦理英子

2.『星の子』今村夏子

3.『劇場』又吉直樹

4.『岩場の上から』黒川創

5.『日曜日の人々』高橋弘希

6.『ホサナ』町田康

7.『未熟な同感者』乗代雄介

8.『光点』山岡ミヤ

9.『その八重垣を』三輪太郎

10.『茄子の輝き』滝口悠生

2017年 映画ベスト10

1.『20センチュリー・ウーマン』

2.『バンコクナイツ』

3.『パターソン』

4.『午後8時の訪問者』

5.『彼らが本気で編むときは、』

6.『お嬢さん』

7.『ノクターナル・アニマルズ』

8.『マンチェスター・バイ・ザ・シー』

9.『夜空はいつでも最高密度の青色だ』

10.『ギフテッド』

2017年 TVドラマベスト10

1.『カルテット』

2.『人は見た目が100パーセント』

3.『この声をきみに』

4.『十九歳』

5.『先に生まれただけの僕』

6.『コードブルー3rd』

7.『嘘なんてひとつもないの』

8.『ぼくは麻里のなか』

9.『伊藤くんAtoE』

10.『感情8号線』

(WOWOW SVOD作品を除く)

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アイデンティティとナショナリズム

アイデンティティとナショナリズム Posted on 2018年1月12日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

人間には否応なく認めざるを得ない暴力性というのがあるのではないか。
それは、ある種アイデンティティの維持と関わるものだと思われる。
暴力性は、他者を攻撃したり人を支配するという欲望と同質のもので、特に自己の危機において顕著に立ち現れる。


批評空間の「明治批評の諸問題」を読んでいる。
そこでは、日本語の言文一致はむしろ根本的に翻訳が起源だと書かれている。
二葉亭四迷のツルゲーネフ翻訳や漱石の翻訳的言文一致的な文章が起源だというのだ。

言文一致とナショナリズムは大きな補完関係にある。

ナショナリズムについて書かれた著作には、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』がある。
そこによれば、ナショナリズムが起因する近代国家〈ネーション〉は、成員が「共同幻想」を共有することによって成立するとされている。
アンダーソンは近代国家〈ネーション〉成立の要因を出版資本主義の発展に求め、新聞が〈ネーション〉の公用語の普及に大きな役割を果たし、世俗語の言文一致をあまねく至らしめるとともに「想像の共同体」の形成に大きく寄与したとする。

翻って日本の言文一致の起源を考えると、言文一致の翻訳起源を否定するような日本ナショナリズムがあれば、それは翻訳が起源の言文一致により生まれたナショナリズムによるという現象が起こるということになる。
これは奇妙なパラドックスではある。


ナショナリズムというものが求めるのは、ミクロコスモスたる〈私〉とマクロコスモスたるネーション・ステート〈国家〉の合一で、それはウパニシャッドのアートマンとブラフマンの梵我一如や、プラトンの一者合一と同じものであろう。
あるいは、ヘーゲル=キリスト教的な弁証法による神の国への救済。
つまり、救済だ。


ナショナリズムについて別の見方をすれば、近世以降、宗教国家から世俗国家へと権力による支配形態が変わる時に正当性として〈宗教〉から置き換えられたものが〈ナショナリズム〉の起源だろう。
そして、その後、正当性となるものは国家の論理〈ナショナリズム〉から資本の論理〈資本主義〉へと移行した。

19世紀後半から20世紀にかけて、上記の動きが行き過ぎた結果をもたらす。
20世紀は、それへの対抗としてソビエト型社会主義〈共産主義〉・ファシズム〈国家社会主義〉・ケインズ主義〈修正資本主義(国家資本主義)〉が台頭した。
そして、それぞれが20世紀の内に自壊した。

1990年代以降は、純粋資本主義の独壇場であった。
それは情報技術と交通技術の発展によりグローバル化を果たした。
あたかも国家や宗教は死滅してゆくように思われた。
しかし、グローバル化はむしろ紛争など民族同士の対立をもたらした。
そして、21世紀は宗教国家と資本主義国家との対立から始まった。

20世紀は、社会主義-国家 対 資本主義-国家のイデオロギーの対立があった。
21世紀は、イスラム-国家 対 キリスト教-資本主義-国家との対立から始まった。
あるいは、この時、宗教-資本-国家の結びつきが再接続されたと言われるのではないだろうか。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
Posted in 哲学・批評 散文 文学

日本語のエクリチュール/パロールと中国語

日本語のエクリチュール/パロールと中国語 Posted on 2018年1月12日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

少し遅れたが、すでに、2018年がはじまっている。
個人的には、今年、少し語学を学習しようと考えている。

これまでの興味の対象は概念であったが、ある種の言語的転回(展開)が沸きあがってきたというところだろう。
昨年わずかに英語・中国語・PHPを学習しはじめたが、今年はそれをどれだけ蓄積できるだろうか。

ところで、中国語を少し勉強してみて、とてもよくわかったのは、むしろ日本語についてで、日本語は書き言葉(エクリチュール)と話し言葉(パロール)がまったく別の流れを持った別々の言語だということ。
日本語と中国語は、漢字という共通の基盤を持つためエクリチュールは眺めればかなり内容の想像がつく。

しかし、にもかかわらず音声言語においては、相互に輸出入された単語はあるが、基礎的な音からまったく異なっていて学習しなければ聞き取ることができない。
考えてみれば、日本語は古代の漢字の輸入以前からあったわけで、音声言語としては別の流れにあるわけである。

中国語は構造的な性質を持ち、日本語は叙情的な性質を持つ。
古代、日本に輸入された頃から漢字は官僚機構によるシステム運用にりようされた。これが日本の書き言葉の始まりだろう。
他方、もともと存在した日本語は話し言葉としてそのまま残る。これが記録に残ったのは、詩、和歌においてだ。

平安の時代、遣唐使の派遣事業の終了と並行して、国風文化が栄える。その時、日本的な風土をもとにしたかな文字が生まれる。そういった意味では、ひらがなこそが日本的な日本語であろう。
源氏物語や平家物語などその後の文学に大きな影響を与える。

とはいえ、もののあはれを体現したような言語はあまりに自然でシステム運用には向かない。
そのため、ながく公用語としては中国由来の漢文が用いられ、漢文は江戸時代においてもヨーロッパにおけるラテン語のような教養の地位を占めていた。

ここから想像されるのが、近代における言文一致運動の不徹底だ。日本語は、書き言葉と話し言葉が一体となっていない。
これは哲学の構築にも影響を与えている。ドイツやフランスなど西洋おいては、日常言語と哲学書の文体が接続されているという。しかし、日本語はそうではない。

西欧における近代哲学の果たした役割を日本では文学や批評のシーンが担っていた部分が大きい。これは、日本語の言文の不一致ゆえ、構造と叙情性のはざまで揺れ動く言語であることにあるだろう。

そして、その由来は書き言葉と話し言葉の源流の違い、中国-大陸の漢字と日本-島の音声言語からなる言語であることにあるのではないかと思うのだ。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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