映画『ボヘミアン・ラプソディー』を観る。

『ボヘミアン・ラプソディー』とてもよかった。だが、より注目されるべきは、この2018年に人びとが人びととつながりAssociateするような映画が作られ、人びとを魅了していることだろう。他方で、『獣になれない私たち』に見られるように、人びとが解離的や独我論的に生きる時代にである。 あるいは、2018年現在は世界中でポピュリズムが席巻し、ヘイトスピーチが行われ、深センではプロジェクション・マッピングによりプロパガンダが流れ、パリでは暴動と激しいデモが行われている時代でもある。 イーン=フレディ・マーキュリーはメタファーとして境界例的な力があった。彼らのパフォーマンスは人と人との境界を溶解させ集団として人びとをつなげた。フレディはその自らのすべてを開放して免疫系をやられながら45年の人生を全うした。そして、それは伝説にすらなった。 フレディ・マーキュリーの死後数年、彼から影響を受けたカート・コバーンが自殺する。1994年、日本では『新世紀エヴァンゲリオン』が発表された年でもある。精神性は時代を反映する。70年代頃までは対人恐怖や神経症が多く、80年代は境界例の時代であり、90年代以後は解離...

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映画『アンダー・ザ・シルバー・レイク』を観る。

『アンダー・ザ・シルバー・レイク』面白かった。 これだけふんだんにポップカルチャーを盛り込めば、何処をどう取り上げても議論が白熱するのは自明で、それはそれで楽しいのだが、個人的には一見複雑そうに見えるストーリーと現代におけるオタクという存在に注目した。 この物語のストーリーは紆余曲折がありながらも、最後これでもかと言わんばかりに明確な落ちがある。 一般的に陰謀論や都市伝説ものの面白さは、①推理の過程と②ラストの信じるか信じないかはあなた次第という2つであり、もちろんこの作品も全編にわたって①は大いに繰り広げられる。 それは冒頭の落書きのメッセージから最後の自室のシーンまで99%がそうと言っていい。しかし、この作品は②が全くない。なぜなら、ラストで主人公が信じた答えが示されるからである。作品中延々と振り回された主人公は最後に全てを踏まえた上で、そこから降りる決断をし物語を終わらせる。 陰謀論や都市伝説を解読した者はそれだけで選ばれた者であり、場合によっては大富豪になりうる可能性すら秘める。しかしこの主人公は、その可能性を他社に譲渡し(自室に◇◇を記し)、隣人の部屋へと向かう。地図上の大が...

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死者=家の時間と生者の時間『A GHOST STORY  ア・ゴースト・ストーリー』

これは、なんと言ったらいいのか、「死んで幽霊になった男が残された妻を見守る話」ではあるけれど、もっと広い意味で、去っていくものと後に残されるものの話である。ただし去っていくのは生きている人間の方だ。幽霊は後に残される。ここでは生者と死者の立場が逆転している。 事故で死んだ男はシーツを被った幽霊の姿になって家に帰る。幽霊は生きた人間に触れることはできない。過ぎていく時間の中で、かつての妻をただ見守り続ける。生きている人間と幽霊の一番の違いは時間の流れ方だ。幽霊になった人間の時間は止まる。 印象的なのは、彼が幽霊になった少し後、一人で床に座り込んで食事する妻を長回しで映した場面だ。彼女は食べる。食べ続け、そして吐く。壁に反射する光や外の物音は少しずつ変化する。しかし横で見ている幽霊だけは微動だにしない。動いている生者の時間と止まった死者の時間。 男が作った歌の歌詞にもある通り、彼女は去っていく。旅立って、それっきり物語から退場する。その後も見知らぬ人間たちが次々とやってきてはいなくなる。去っていくのはいつも生きている人間であり、それを見送る幽霊は独りで取り残される。時間も去っていく。やがて...

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『Sounds of the City』

写真は、被写体がかつて確かにそこにいたこと、そして同時に(少なくとも当時の姿では)もういないことを絶対的な事実として突きつける。 このことは、小説、少なくともバルトにとって重要なプルースト的な小説に似ている。 何かが語られるのは、それが終わった後にしかありえない。 語られた出来事は、取り返しようのない距離で隔てられた過去として表れる。 言ってみれば、小説の始まりにはいつも写真がある。...

『音楽が終わった、その後で』

誰かに気持ちを許すことは油断すると甘えてしまうことに繋がりやすい。甘えは芯の方からじわじわと蔓延し、やがて全てを食い尽くす。なんてね。 思いやりを持った自立した人間でありたいと思うよ。一応は。未来を思うと吐き気がするし、今を思っても寒気がする。思考を捨てて過ごすのが精神衛生上は宜しいというのはわかるんだけど、それもちょっとちがう。 一生戯言を抜かしたいので、そのために精一杯体裁を整えよう。 “小さな旅”のはじまり、「ぼくらが旅に出る理由」 魔法がかかる、という表現についての聴覚的回答 病院 W.G.ゼーバルト『アウステルリッツ 』について ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』について IN THE CITY River’s Edge アナログ・ミュージック 山田かまちを巡って 村上春樹について 〈知覚の扉〉を叩いて 絶対的な瞬間について 滝口悠生『愛と人生』を読んで考えること あの頃、僕らが夢中になったのはこんなレコードだった。 “小さな旅”のはじまり、「ぼくらが旅に出る理由」 2017年3月9日 by 宝田 とまり これは何度も懲りず無謀な旅に出る前の“小さな旅”のはじま...

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古市憲寿『平成くん、さようなら』を読む。

『平成くん、さようなら』読み終わり。 安楽死というテーマに対する社会学である著者のアプローチと、それを平成という時代を絡めて小説というコンテンツで見事に表現する構成力はデビュー作としては見事。著者を思わせる平成くんという主人公を恋人の一人称から描く距離感も著者らしい。 著者の来歴や作風も含め田中康夫の『なんとなく、クリスタル』は比較されうる作品であるが、『なんとなく…』は恐らく当時あの作品を読んで共感できる人が多くいたからこそ、現在でも80年代の時代の空気を切り取ったという評価が一般化されているのだろう。 だが、その事を踏まえると『平成くん…』は果たして平成という時代の映し鏡のような作品だろうかということを考えると必ずしもそうでない気がする。逆説的にはそれこそが平成という時代の多様性や格差の象徴なのかもしれないが、僕にはほぼ同時代を生きてきた平成くんと愛ちゃんの2018年の日常は想像し難い。 東京湾に面した家賃130万のタワーマンションや特殊な労働環境、移動手段はほぼタクシーで身につけている服は俗に言うハイブランドものとという彼ら。その彼らの寂しさや辛さにいまいち共感が持てなかった。も...

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あの頃、僕らが夢中になったのはこんなレコードだった。

10年弱前のmixiの日記に大学4年間で刺さった10枚みたいなものを書いていたのを偶然見つけた。ほぼ全てインディーロックで時代を少し感じたのと自分可愛いかったなと暖かい眼差しで読んだ。 どうも!今日は僕が大学4年間に聴いたアルバムの中から特に素晴らしかった10枚をピックアップして紹介します。 興味のない方は僕の牧場に虫でも入れてお引取り下さい。 それなら公開しなきゃいいじゃないか?もっともです。でもあえて公開するのはちょっと見てもらいたい気持ちもあるからです。笑 スタートする前に注意事項を!今回は70’s~2000’sの中から10枚を選びました。 なぜ、60’s(50’sはともかく)を外したのか。かのピッチフォーク(アメリカの音楽サイト)も60’sはアルバムのランキングを公開せずに、曲のランキングだけに留めてあります。おそらく音楽基地外の集団であろうピッチフォークでも「ごめん、60sはアルバムで順位はつけれねーわ。わかるだろ?」的なことが英語で書いてありました。それをたかだか4年間音楽をかじった程度の僕が安...

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柄谷行人と村上春樹-デカルト、フッサール、サルトルと構造主義からの批判

デカルトのコギトにしても、フッサールの超越論的自我にしても、サルトルの無の自由にしても、それらは超越論的主観である。 そして、それは形式的であり人間中心主義だと構造主義から批判される。 超越論的主観による形式化に対する批判が構造主義からなされたのだとすれば、なぜ、フランス現代思想はある種文学的な文体を持つ文章なのかということは確かに理解できる。 他方で、日本のポストモダン文学史の中での柄谷行人による村上春樹批判はその超越論的主観を問題視した。 また、フランス文学者の蓮實重彦もサルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』の翻訳を15年に渡り放置した言われ、そこにはある種のサルトルフォビアがあったのではないかと考えられている。 そう考えてみると、文壇における村上春樹批判というのはむしろ文芸批評家による哲学的コギト批判にも思える。 だが、他方で柄谷行人はデカルトを評価している。デカルトは哲学界の悪役でコギト的であると評価されているが、しかし、常に共同体の外で考えようとした人間だと評価するのだ。 この共同体は言語ゲームを互いに共有する人々であろう。であるならば、柄谷行人による村上春樹批判は何を意味...

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『東方のラビリンス』

以下は、過去636日間における14の文章である。 順序としては、もっとも新しい2018年9月21日の文章から順番に並び、2017年1月27日が終わりの文章にあたる。 これらの文章が何を意味しているのかはわからない。 ただ、最近、熱帯魚のベタを飼いはじめたことが関係しているように思う。 タイトルはベタの「ラビリンス器官」による。 タイ(バンコク・アユタヤ)を旅する ― 聖なるものと俗なるものの濁流をさまよう 哲学 – 賭け – 愛するということ 西洋コンプレックスとアジア的意識 – 近代/一神教/自由の意味 – アイデンティティとナショナリズム 日本語のエクリチュール/パロールと中国語 現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』 『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて – 〈都市教養〉というキーワード=コンセプトについて 台湾を旅行する。- 中華民国台湾省台北市的小旅行 – 若者の街とユース・カルチャー ~ 渋谷,音楽,ファッション ~ 存在探求のためのメモランダム/言葉をめぐる冒険/浮遊への逃避行 左右対立のねじれについ...

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『判決、ふたつの希望』を観る。

『判決、ふたつの希望』を観る。歴史的であり局地的であり普遍的でもある問題。それに観る者の目を開かせ、葛藤を共有させ、そして希望を提示する。多面的な描写、平板ではない物語の進行、様々な人物のぶつかり合いによる変化、ハリウッド的に洗練された構図等、テーマとエンタメ性が巧みに絡み合っている。 裁判シーンの言葉の応酬はこの映画の見どころだ。一方で、自体を引き起こし人々を振り回すのも、言葉というものが本質的に持っている過剰さである。言葉は、それを発した本人の意思を超えて力をふるってしまう。「クズ野郎」「シャロンに抹殺されていればよかった」言葉を発端にした争いは、言葉を武器にする弁護士を介し、言葉でやり合う法廷に持ち込まれたことで、国を巻き込む一大事になってしまう。二人の主人公、夫と妻、息子と父、弁護士と弁護士(父と娘)、民族と民族、男性と女性、右派と左派、老人と若者、様々な対立が飛び火し、拡散し、露見する。 誰にも歴史があり否が応でもそれを背負わざるを得ない。裁判は歴史と傷と罪が暴かれる場でもある。主人公二人だけでなく、関わった者は皆痛みを負い、変化していく。始まりの地点と同じ場所に居る者はいな...

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『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観る。

『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観る。ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』を現代にアップデートして映像化したかのよう。イメージの洪水に悪酔いを起こす、凄まじい迷宮映画だった。しかしながらそこには歴史も対抗文化ももはや無く、自ら築いた迷路には消費とポップの悪夢だけが広がっている。 街中の看板、テレビ番組、流行曲、お菓子の景品、壁の落書き、動物の死骸、シンクロニシティ。氾濫するメッセージに「真相」などなく、解読は誤読にしかなり得ず、読み取った物語は自身の映し鏡である。意味も黒幕も限りなく空虚だ。 そこには、あたかも身体性は無いけど生理的というのだろうか、肉体を持たないまま五感だけが鋭敏になっているような感覚がある。 作中で言及される大衆文化についての知識合戦や隠喩についての考察合戦がおそらく繰り広げられるのだろうけど、撒かれたピースから各々が解釈を組み立ててしまうこと自体が作品と相似している。...

2018年秋ドラマ・チェック

今週は新ドラマの主に初回チェックで終わった。『SUITS』『中学聖日記』『文学処女』『獣になれない…』『天』『黄昏流星群』『ブラックスキャンダル』『昭和元禄落語心中』『大恋愛』『僕とシッポと…』『忘却のサチコ』『ドロ刑』『結婚相手は…』『過ちスクランブル』『こんな未来は聞いてない』 どれも今いちぱっとしない。『僕らは奇跡で…』が唯一見たくて見れなかったのでそれに期待。 今のところ『昭和元禄…』『結婚相手は…』『獣になれない…』の順かな。 『文学処女』6話まで これまでありきたりな設定と退屈なストーリーに落ち着くと見てきたが、6話で一変した。和室に座り背後から抱えるように担当編集の髪をドライヤーで乾かす作家というシーンで漸くタイトルにもある文学が形だけでも意識される。そこから怒涛のように各人物の過去の影とトラウマが連鎖する。作家の過剰な反応、作家と付き合いの長い編集者、主人公の同僚、編集長。同じような痛みや負い目に結ばれて、これまで目立たなかった人物たちにスポットがあたる。物語はここから複雑性を増しそうな予感があり、下田悠子の脚本にも期待。 『中学聖日記』2話まで オーソドックスな中学校...

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タイ(バンコク・アユタヤ)を旅する ― 聖なるものと俗なるものの濁流をさまよう

2018年9月14日~18日、タイ〈バンコク・アユタヤ〉を旅行した。 微笑みの王国、タイ。かつて「クルンテープ」(天使の都)と呼ばれ「東洋のヴェネツィア」と讃えられる水の都バンコク。あるいは、世界遺産にも登録された古都アユタヤ。アジアの雑踏。崇高な超越へのあこがれと、猥雑な風俗が雑多に混じりあった東洋の王国。 バンコクを流れるチャオプラヤー川の濁流は聖俗浄穢を飲み込むタイの風土を象徴しているかのようだ。それは、同じアジアの王国でも、日本の列島全土を流れる清流や神道的な穢れの思想とは対称的である。 初日 ぼくら(友人とぼくの3人)は、9月13日(木)の夜に羽田空港に集まり、9月14日(金) 00:30 東京・羽田発 → 9月14日(金) 04:50タイ・バンコク行きのフライトで旅行を開始した。旅行初日はトラブルの連続であった。バンコクの空港に降り立つと、友人がひとり行方不明になった。iPhoneのSIMカードはwifi環境でのアクティベートが必要ですぐには使えなかった。ぼくらは、とりあえず、なかば諦めて入国審査カードを記入した。 どうにか、ようやく友人と再会し、電車や船を乗り継ぎながら朝...

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ドラマ『高嶺の花』最終回

『高嶺の花』最終回 近年稀に見る程の傑作ドラマが乱立した今クールの中でも、最後まで異彩?を放ち続けていた。下火傾向が著しい10年代のテレビドラマは、良くも悪くも脚本家の作家性が大きなウエイトを占めることになる。 個人的にその流れが変わったのが、『逃げ恥』のヒットだと思ってる。 言わずもがな野木亜紀子も作家性の強い脚本家ではある。ただ、『逃げ恥』以降、脚本家のみが作品を一手に背負のではなく、制作陣がチームとなって如何に面白いものを届けられるかという変化が『透明なゆりかご』『dele』『この世界の片隅に』など今クールのドラマの成功に繋がっているように感じる。 そんな中、唯一といって良いほど最後まで野島伸司という確固たる作家性で勝負した作品が『高嶺の花』だった。伝統と革新、継承、姉妹兄弟、ひきこもり、反抗、暴力など、これでもかと言わんばかりにテーマを詰め込んだ本作は、間違いなく迷走していた。 ただ、情報の詰め込み過ぎによって発生する迷走や、そもそも迷走を迷走とすら自覚できないのが現代である。野島伸司の迷走を日本社会の迷走と重ねるのは無理がある。しかし、本作は全てが綿のようにふわふわと重みを失...

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映画『きみの鳥はうたえる』を観る。

「きみの鳥はうたえる」を見た。 素晴らしかった。良い映画を観れたという実感が強く残った。 主人公である“僕”のバランス感覚に好感を抱いた。純文学作品の映像化となると、主人公の偏屈さだったり欠損(その痛さこそがチャームでもあるが)がどうしても目立ちがちだが、本作の“僕”にはそれがあまりみられないような気がした。 行動の動機や生活における力の配分、人との接し方など、とてもバランス感覚に優れている。だからこそ彼を含む佐知子と静雄との関係は永遠に続くはずだったし、彼が最も望んでいたことがそれだったのは冒頭のモノローグからも自明である。 ただ、そんな事はあるはずもなく、この物語でも“僕”の感覚ではどうにもできないところからバランスが崩れていく。顕著な例が森口というバイト先の人物。彼の致命的なバランス感覚の無さに僕は居ても立っても居られず鉄槌を下す。思えばあの場面から少しずつ雲行きが怪しくなっていった。 永遠に続くように思えた飲んだり遊んだりの毎日は、不安の裏返しだろう。振り返った時にそう思えるのは何ら問題がない。問題なのは、その瞬間に不安を感じていることだと思う。少なからず“僕”にはそれが無かっ...

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映画『カメラを止めるな!』を観る。

『カメラを止めるな!』最高だった。 僕は基本的に喜劇への理解が薄く、面白い話が苦手。それに加えてインディペンデント映画であり企画ものというところにバイアスを抱き、世間の注目と称賛とは裏腹にアレルギーが出そうだなと予感していた。 実際、冒頭の37分ワンカットという壮大な挑戦である一幕に散見された妙な間や噛み合わない会話に仕掛けがあるのだろうと分析的に見てしまった。しかし、この映画は後半パートでその受け手の冷めた見解を見事に蹴散らしてくれ、さらに壮大なメッセージに替える。 「俺たちは頑張ってるんだ」と。 作品の特徴に一つずつ触れていくと、まず企画・脚本の妙。 映画やドラマにおいては、前例のない企画(構成)を思いついた時点で勝ちという作品は往々にしてある。本作も紛れもなくそのうちの一つだと思う。そして、その企画を最も魅力的に表現した脚本も素晴らしい。 37分のワンカットでのゾンビ映像→映像が作られるまでの過程→もう一度37分のワンカット映像を今度はネタバレで見せる。 それほど複雑ではない企画(構成)だが、脚本がしっかりしているので随所(というかほぼ全編)に笑いが生まれ、企画(構成)への説得力...

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映画『少女邂逅』を観る。

いじめをきっかけに声が出なくなった小原ミユリ(保紫萌香)。自己主張もできず、周囲にSOSを発信するためのリストカットをする勇気もない。そんなミユリの唯一の友達は、山の中で拾った蚕。ミユリは蚕に「紬(ツムギ)」と名付け、こっそり大切に飼っていた。「君は、私が困っていたら助けてくれるよね、ツムギ」この窮屈で息が詰まるような現実から、いつか誰かがやってきて救い出してくれる──とミユリはいつも願っていた。 ある日、いじめっ子の清水に蚕の存在がバレ、捨てられてしまう。唯一の友達を失ったミユリは絶望する。 その次の日、ミユリの通う学校に「富田紬(つむぎ)」という少女(モトーラ世理奈)が転校してくる───。 映画『少女邂逅』公式サイトより http://kaikogirl.com/ 映画『少女邂逅』。すごく良かった。これは間違いなく傑作だ。 イノセント&フラジャイルなティーン・エイジャを描いた作品として、目がくらみ意識が遠のくような作品であった。 手取りやiPhoneでの撮影による映像や視点、光や色の美しさ、夢と現実のあいだをゆききするようなマジックリアリズムのような世界観とそれを強化する音響効果。...

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平成の終わりという時代に『半分、青い。』を観る。

先輩から4月クールのドラマ評が届いて、ようやく文化的な生活があったことを思い出した。 ただ、4月期ドラマは稀にみる不作だった。数作を除いてはほぼ惰性で見てしまっていた。 そんな中『半分、青い。』は異色すぎると言ってもいいほどの独自路線を貫いてる。 特にここ1ヶ月の展開は目が離せない。主人公の鈴愛が性別や家などの外的要因が絡む問題からではなく、自ら選んだフリーランスの仕事で行き詰まる様を容赦なく描く。 あれは恐らくすべての創作する者の恐怖に通ずる。先日言及した今年の群像新人賞の盗用疑惑の話題とも時期的に重なり、生みの苦しみがリアルに伝わってくる。 『半分、青い。』については、平成史という着眼が一つ重要な要素になってくる。先輩が『半分、青い。』の感想に『20センチュリー・ウーマン』との類似性を指摘していたのだか、僕も本作は鈴愛の生を通じて平成を描くというのは北川悦吏子の一つの狙いであると思っている。 律が鈴愛にプロポーズしたのが95年(あのさりげない告白と重なる当時の日本)でそこから時は流れ99年に鈴愛は「私は28歳になって何もない」と失意のどん底に落ちる。 そして今日は仙吉が『あの素晴ら...

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群像新人賞-芥川賞候補作、北条裕子『美しい顔』問題によせて

北条裕子『美しい顔』の無断引用問題は個人的に非常に残念です。 僕は『美しい顔』を読んで、非常に優れた小説だと思いました。 群像新人賞の選評でも賞賛され、掲載翌月の新聞の書評でも好意的に取り上げられた記事も多くみました。 そして、159回の芥川賞の候補にもノミネートされている。 読み手としては、無断引用なんて問題は当たり前にクリアされている前提で受け取るので、もはや対処の仕様がない。 一つの作品として世に出されたものが素晴らしければ積極的に賞賛したいし、本作に救われたと実感した人もいたはず。そんな人たちの期待と感謝を裏切ることとなったのは事実。 と、一元的に片付けられない部分も確かにあると思う。 本作のテーマが震災を扱っていることや客観的に作者の容姿が整っていることや新人賞の在り方など。 ただ、一つ言えるのは、本作は未だ単行本化されておらず、事態が発覚した際は既に次の号の群像が発売されており本作が掲載されている群像は書店には残っていなかった。 つまり、本作『美しい顔』をきちんと読んでいる人間は、数多の批判がなされるなかのほんの一握りしかいないという事。 純文学雑誌(群像)の発行部数を考え...

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メモ書き『サリンジャー的、サルトル的ーあるいは村上春樹と柄谷行人、ポストモダンの文学精神』

本稿では、20世紀の米文学界を代表する作家J.D.サリンジャーとフランスの哲学者・思想家で作家のジャン=ポール・サルトルの作品・作家および日本における受容と影響を比較することを通して浮かび上がってくる日本文学の思想・精神史を読みときたい。 Ⅰ. サリンジャー的、サルトル的 〈サルトルの倫理、サリンジャーの倫理〉 Ⅱ. サルトル的ー超越へと駆動する力   (三島由紀夫、大江健三郎、吉本隆明、柄谷行人) 〈三島由紀夫の場合(時間)ー行動の究極地点、テロリズム〉 〈大江健三郎の場合(空間)ーサルトルとの対話〉 〈吉本隆明(空間・時間)・柄谷行人(空間)の受容と差異〉 〈サルトルの倫理〉 Ⅲ. サリンジャー的ー自己修復の物語   (村上春樹、村上龍、高橋源一郎、加藤典洋) 〈サリンジャーーイノセント&フラジャイルな作家〉 〈三つの翻訳、三つのサリンジャー〉 ・α.戦争神経症的なサリンジャーー『危険な年齢』〉 ・β.分裂的なサリンジャーー『ライ麦畑でつかまえて』〉 ・γ.解離的なサリンジャーー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』〉 〈ポスト全共闘のサリンジャー革命からのロスト〉 ...

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2018年4月期 ドラマ評(概観)

4月期ドラマも半分ほどが初回を迎えたのでざっと総評。 全体的に少し低調のような気がしてしまうが、期待したい。 『コンフィデンスマンJP』 連ドラは3年ぶりの古沢良太の脚本。昨今恐らく誰も引き受けたがらない月9枠は、前作『デート』と同枠。 古沢は前作からの3年の間に映画の脚本を何本か書いていて、その影響が色濃く出ている。 ただ、古沢の特徴であるキャラ造形や膨大な台詞量に魅力を感じる一方、特に連ドラで描くべき作品なのかという疑問が残る。制作陣から取り敢えず何でもいいので月9で書いて下さいと丸投げされ、それをこなしているように感じてしまう。 第2話を通して 初回の暴走する展開にがっかりしたが、今回は良かった。 初回では昨今の映画での古沢脚本との近接性を感じたが、2話でようやく『リーガル・ハイ』のリブートをおこなうという狙いに気づいた。 『リーガル・ハイ』は12年と13年の連ドラなので、あれから5年か。 『リーガル・ハイ』は悪人や悪事に対して、人間的には変態ではあるものの司法という公的な武器で対峙する辛うじて「正義」が存在する物語だった。一方、本作の主人公は詐欺師。つまり「法律」や「正義」が悪...

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映画『きみへの距離、1万キロ』/『さよなら、僕のマンハッタン』を観る。

昨日『きみへの距離、1万キロ』と『さよなら、僕のマンハッタン』を見てきた。 どちらも90分前後でコンパクトにまとまった良作だった。 『きみへの距離、1万キロ』 随所にコンプライアンスやプライバシーにおいてアウトだろうという点があったけど、設定上ということもあるが極端に少ない台詞の中に「誰かの脅威がビジネスになる」とか「運命の人は一人じゃなくていい」など、輝くものがあった。 本作は特にラストシーンの重複が意図的としか思えないほど『君の名は。』的で、つまりネットが普及し誰といつどこでも瞬時につながれる時代に“すれ違いの恋”というシチュエーションを作れるかというのが創作の原点にある。 とはいえ、『君の名は。』はアニメということもあり時間をズラすというファンタジーでシチュエーションを作ったが、本作は現実で起こり得る可能性を担保しつつ、それを限界まで狭めたという設定。 石油パイプライン監視・ロボット遠隔操作・アメリカと北アフリカ・国境を越えるなど、現代的な切り取り方も良かった。 『さよなら、僕のマンハッタン』 『さよなら、僕のマンハッタン』良かった。 僕は去年の年べス10位に『ギフテッド』を入れ...

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映画『心と体と』を観る。

『心と体と』 孤独に生きる女と人生を諦めた男。 二人を結びつけたのは鹿の夢。幻想と現実が交錯する愛の物語。 <STORY> ハンガリー、ブダペスト郊外の食肉処理場。代理職員として働くマーリアはコミュニケーションが苦手で職場になじめない。 片手が不自由な上司のエンドレは彼女を気に掛けるが、うまく噛み合わず…。 そんな不器用な二人が急接近するきっかけは「同じ夢を見た」ことだった。 恋からはほど遠い孤独な男女の少し不思議で刺激的なラブストーリー。 映画『心と体と』を観た。 今年の暫定トップ5に入るくらい心が動かされた。 この映画は実は幾つもの対比から出来ていて、まず一番分かりやすいのが夢と現実。 それから、気配や空気という観念的なものと生々しいまでの現実。 撮影も人の視点で捉えた手持ちの映像と固定で無機的な映像。後は赤と白の色など。 全ての要素が観念と現実で大別されていて、最後にそれが不穏な空気と共に重なりあってしまう。 この一貫した構造だけでも素晴らしいのに、冒頭のシーンのマーリアが日向に出たつま先だけを陰に向かって引くシーンや男女のシーンでの目線の追い方や切り方を繊細に捉えるシーンなど美...

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映画『レディ・プレイヤー1』を観る。

この作品は「私小説」ならぬ「私映画」だ。スピルバーグとハリデーの、大きな大きな「私」の物語だ。 VRが文字通りもう一つの現実と化した未来でありながら、この世界を彩るのは特定の年代の特定のカルチャーばかり。 オアシスの世界は言わば一冊の自伝で、それを読み解くプレイヤーは、この『レディ・プレイヤー1』を読み解こうとする観客と重なる。丹念に読み、行間に隠されたヒントを拾う。主人公のハリデーオタっぷりはテクストを精読する研究者のよう。 この映画を観て感じるのは、小さく、狭い方向に向かう力が大きなものを生み出しているということ。 世界と上手く繋がれなかったオタク少年がもう一つの世界を創造し、作り手の私的な記憶が多くの観客の記憶と結びつく。 「私」という小さな人称にとてつもない広さがある。 「私」への埋没こそが世界を創造し、つながりをもたらすということ。 あるいは、オアシスは仮想現実というよりも、むしろ「もう一つの」現実と呼んだ方がしっくりくる。 あちらも現実、だがこちらも現実。どちらか片方が本物なのではなく。 それは、ある意味では世界の多元的存在構造を示すこと、僕らが「いまここ」で見ているのはひ...

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「人生は歩きまわる影法師、あわれな役者」~DNA-偶然性-運命論-自由~

シミュラークルになりたいとか、ポスト・トゥルース・ストーリーを撒き散らすとか、検索エンジン汚したいとか言ってるの結構一貫性がある気がしてきた。はっきり言って、どうゆう欲求で診断名はどんな精神病理なのだろうか。 — COMA (@Factory_COMA) 2018年4月7日 DNAはランダムに進化を試してて自分はオルタナティブ枠を担当することになってしまったんだなって感じで捉えてますね!非常時には役に立つけど基本的に反社会性なんたらみたいな病理になりそう… — 藤井勇治郎 (@fujiiyujiro) 2018年4月7日 “DNAはランダムに進化を試してて自分はオルタナティブ枠を担当することになってしまったんだな” これはすごい言い得て妙な感じがあります。笑 この枠で爆進するしかない!笑 — COMA (@Factory_COMA) 2018年4月7日 種としての人類存続のための精子と卵子の組み合わせという膨大な数のランダム制が、唯物論・運命論に決定的な偶然性を与えている、しかし人生は唯物論と運命論によって決定されているので、人々はそれゆえに自由に(なぜならどう...

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映画『ちはやふる -結び-』を観る。

『ちはやふる 結び』瑞沢の三年間と真島太一の成長物語に最高の決着を付けた完結編。 超絶技巧で描かれるかるたの格好良さ。名人の言葉と、もがき続けた先の太一の姿に胸が熱くなる。 青春という「一瞬」から継承という「永遠」へ、部活映画の枠を越えたスケールの着地に心が震えた。 『上の句』で「青春全部懸けたってあいつには敵わない」と言っていた太一は『結び』で「原田先生や周防さんが懸けているものは、青春どころか(人生すべて)」だと気付く。 太一とともにこの作品の視野も、高校三年間から人生そのもの、そしてそれすら包み込む大きな時間へ開けていく。 千年前の思いを百人一首が今に伝える、というモチーフは『上の句』からあったけど、『結び』では今を未来へ伝えるという視点が加わった。 自分の強さを周囲へ分け与えること、先輩から後輩へ部の記憶を伝えていくこと。 千早が後輩二人に「素敵なことが始まったと思った」と言ったのは、自分たちがいなくなった後にも残るものができて、かるた部で過ごした時間が、奏の言う「千年先に残る歌」になったと感じたからではないか。 『結び』に強く感動させられるのは、この作品が時を越えることについ...

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映画『聖なる鹿殺し』を観る。

『聖なる鹿殺し』を観た。 ランティモス監督の前作『ロブスター』を観たときにあまりにはまってしまって、もちろんその年のぶっちぎりの年間ベストだったんだけど、そのせいでハードルが上がりすぎてたのか正直心から絶賛はできなかった。 理由の1つが、脚本というか物語の筋があまりにシンプル過ぎたというところ。前作『ロブスター』は物語が誰も意図しない方へ加速度的に転がっていき、その奇想天外ぶりと洗練された映像・音楽のバランスが完璧だった。 本作も、撮影・音楽に関しては文句なく最上のスタイリッシュさなんだけど、如何せん物語がシンプルすぎて、しかも最後に大どんでん返しもない。 復讐譚というフォーマットの上で、節々の台詞やいたたまれない結末を使い家族の脆さや善悪の判断がつかない人間の弱さなどを表現するあたりにはハッとする。その痛みに一切寄り添わない無慈悲さも恐ろしい。 ただ、大元の歩けなくなるそして死ぬという呪術的な設定に仕掛けが全くなかったのが残念だった。そこを裏切るか、設定が破綻するほど物語が進んでいくことで、受け手を混乱させて尚残るのはあまりに美しい画と音楽というランティモス的な世界がもっと堪能したか...

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