佐村河内問題について

週末超絶バズってた佐村河内問題に正直むっちゃテンション上がりまくってたんですが、ここは絶対に静観しないとというか「動きすぎてはいけない」の精神でひたすら耐えて耐えて、この問題について書かれた記事をネット新聞等出来る限りの力で拾いに拾って週末を過ごしてました。
その結果、この記事が個人的にベストだと思ったので、紹介までに。

会見も生で見てたのは見てたんですが、会社だったんで無音で見るという状態を強いられてしまっていたのですが、
記者の質問とかにあのすっきりと別人化した容姿をもって「ウンウン」とか頷いてるシーンとかがテレビで流れてるのを見ながら、

「きwこwえwてwるw」

という高等お笑いテクの衝撃は、あーこれマジで最近では珍しい「ゲスい故に最高のネタ」の投下されている瞬間じゃんねって笑いをかみ殺すのに必死でした。

ここからは個人的な意見ですが、僕がこの騒動での佐村河内氏の凄いと思ったところは、犯罪者である(とまではいかなくても、ある種の法的違反をとか、信頼や道徳という人間の叙情に訴えかける絶対性として語られるようなものを裏切った)氏が結果として「勝者」になったところです。
しかも、「図らずとも」とか「賭けに勝った」とかいう確率論ではなく、出来レースのような勝ちを決め込むという形で試合をプロデュースすることで納めた完全勝利の瞬間をメディアに拡散させることに成功したってところに僕は心から感動すら覚えた訳です。

加えて、氏は今回の会見で拡散に使った「メディア」に批判の矛先を向けることにまでに成功しました。

メディアのリテラシーについては昨今頻繁に話題に取り上げられますが、僕も有名人のTwitterをソースにした記事がヤフートップに上がったりするのを見てこりゃマジで糞だなと思うわけです。(けど実はこれ割と頻繁に起こってて、一つばかり例を挙げると、少し前に宇多田ヒカルがTwitterで足捻って病院行ったらヒビ入ってた的な事呟いたりしたら、反射神経の速さでそれが次の瞬間それがニュースになってるとか。僕はねマジそれ書いた記者とか裏取ってんのかよとか真剣に思うわけです。だってTwitterにウソ書いたらいけないとかいう法律ないし、宇多田の呟きがウソだったら、それだけでヤフートップの記事がデマになったりするんですよ。この綱渡り感は様々な危機感を孕んでいるし、これは明らかなメディアの形骸化の温床だと思ったり。)
そういう意味でも、今回はまたアホなマスコミが1人の超絶自己プロデュース上手なおっさん(時の人)に騙され醜態を晒したということに帰結せざるを得ないのと思わざるを得ないいうか。

少し話がそれますが、もう1年以上前になりますかね、山中伸弥教授がiPS細胞でノーベル賞を取った直後に湧くように出てきた、森口尚史というインチキおっさんを皆さんは覚えてますでしょうか?
簡単に説明すると、世間が山中iPS細胞有頂天お祭りムードのなかで、読売新聞(共同通信が一番だったという説もありますが)が森口尚史氏iPS細胞で心臓手術に成功みたいな記事を一面でドンと載せたんですね。結果として、森口さんは重度の心臓疾患の患者にありもしない希望を抱かせたという重罪を犯したというような批判がこじんまりとなされましたが、寧ろこの件で批判の対象となったのは、素人でも少し調べれば分かるような事をろくに裏も取らずにデカデカトと一面の記事にした読売だったり、共同通信だったりしたんです。
僕はその時に、森口さんのインチキに騙されなかった朝日新聞の自慢げな
「うちは森口さんのことは一切掲載してません」という声明に心から驚かされたものです。大手新聞社がこんな当たり前の事を自慢げに公表するのかと。その後、結局事件の元凶のだった森口氏に批判を向かうこと無く、なんとなく「ネタ」として処理されて沈静化されたというのがこの事件の結末だったと思います。
森口氏にこのような流れが読めていたと思えませんが、結果として、これは今回の佐村河内問題の前段階、というか佐村河内氏がこれをベースにあの会見をプロデュースした部分もあったと言っても過言ではないと僕はそんな気がしてます。

つまり、今回の問題ももはや、佐村河内氏の「障害」とか「ゴーストライティング」とかって割とどうでもよくなってるんですね。
そこを責められることで落とされうるという可能性を完全にブロックした、「うーん聞こえない聞こえない」した、佐村河内氏の「ネタ」化への反転の力量に僕らは「アッパレ」という事しかできなくなったんです。
これを読んでくれる僕のfb上の友達は大体皆社会の荒波に揉まれながら生きているという状況に当てはまるでしょう。中には本当に読んでくれているであろうそんな少数派の方々に僕からのささやかな贈り物として、(理不尽な事等で)謝罪を要求されることもあった時は、今回の佐村河内スピリッツを思い出そうぜという事を提案します。
また、身近な域を出た、芸能人の不祥事や政界のスキャンダルとか、これからも糾弾されるべき人間を晒し上げるような会見というのは、残念ながら今後も無くなることは無いでしょう。
そういった緊急時における上手な対処法というか、もはや「成功体験」としてこの佐村河内氏の会見はずっとモデルケースとして奉られるレベルの出来事であったことに間違いはないと思います。

そして、僕のこの伸びっぱなしの些か歪な型をした髪の毛は、いつか窮地に追い込まれ誠心誠意の謝罪を要求される時まで、伸び続けるという訳です。

これはどこから炙り出されたリアルか~最高の離婚2014を巡って

「これはどこから炙り出されたリアルか~最高の離婚2014を巡って」

今回はドラマ「最高の離婚2014」についてです。
知らない人もいると思うから、まずはドラマの説明を。

「最高の離婚」は、2013年1月10日から3月21日までフジテレビの木曜10時枠で放送された連続ドラマです。
坂元裕二が脚本書き下ろした、中目黒を舞台に2組のアラサー夫婦の「リアル」を描いたラブコメディです。連ドラの時からかなりの熱狂的なファンを獲得し、特に劇中の夫婦と同世代の団解ジュニアぐらいの視聴者から、夫婦が抱えるリアルな悩みや生き方に多くの共感が寄せられたと耳にすることしばしばでした。
普段テレビというかドラマをあまり見ない中目に住んでる僕の友達も、自分の住んでる街が舞台ってこともあってだろうけど(意外とこういう要素はドラマ見続ける上で重要)楽しくみれたみたいで、久しぶりに友達とドラマの話が出来て嬉しかったという印象が残ってます。

そんな「最高の離婚」が1か月ほど前に2時間半ドラマとして一夜限りの復活を果たしました。
設定はドラマの終了から1年、現実と同じ時間にのって、最終回の1年後の2組の夫婦の「それから」を描く形でした。
このドラマを連ドラの時から説明するときりがないので、今回は前置きをそれくらいにして、ここからはドラマを観てる人にだけ分かるような感じになると思います。瑛太と尾野真千子と綾野剛と真木よう子が出てたあのドラマですよ。観ていない人はここでこれから展開される話が分からないでしょうが、今からでも「最高の離婚」を見る価値はあると思います。僕らも近い将来こんな問題に直面するでしょうから。ってか面白いし。

さて、本題に入っていきます。
まぁ、結論から言うとですね、「臼田あさ美復活祭」これに尽きますよ。あの夫婦たちに介入することとなった岡田義徳もそうですが、特に臼田あさ美が停滞しがちな空気を一掃し、ドタバタコメディに持ち込んだ一人勝ちのビッチ感しかないラヴアンドピースだった訳です。 これからの議論とこの結論は分断されてますが、こういう類の結論もあると思って頂ければ。

つまりここからが本題。
連ドラ含め最高の離婚の一番の見どころはまず間違いなく「会話」です。
坂元脚本のあの圧倒的なセリフの量と質。
話すことでそれぞれのキャラクターを作っていく。さらにその会話が物語を支えつつもリアルに寄り添う。
もちろん今回もここに異論はないのですが、僕は今回、坂元さんが思い描いていたものと受け手の間に、つまりこの作品を巡って作り手と受け手の間に「乖離」が生まれてしまったのではないかと考えました。
今書いた通り、あのドラマで特筆すべきところが「会話」だとすれば、その魅力というか人々を惹き付け最後まで楽しませてくれたのは圧倒的な「リアル感」つまり、アラサー夫婦の抱える等身大の幸せや悩みというところへの共感だったと思います。

僕は今回「最高の離婚2014」を見終った後に、坂元さんが本当にこのドラマでやりたかったのって、恐らく会話の力でその圧倒的な現実感(リアル)を半分ぐらいフィクションに転換して、それでも見えるものは何かということの提示だったのではと思いました。
つまりこのドラマの中では「会話」と「リアル」って共存しないのではないのかと。
しかし、結果としてあのドラマは多くの人に「会話(やりとり)のリアル」として、その2つがセットとして届いてしまった。僕はまずこの誤解を解きたいと思います。

もちろん「会話」が示すリアリズムも数多く差し込まれていて、時としてそのフレーズがインパクトを与える事があるのですが、ただ、客観的に分析するとあのドラマのリアルさというのは「会話」とは別にあり、それは「設定」だと思うのです。
中目黒の2DKに住みながら、お金の価値観や食生活、各登場人物の職場での振る舞いや、夫婦の距離のあり方、そして会話で物語が進んでいくその基礎としての2組の夫婦が置かれた環境、その緻密な「設定」にこそリアルが内包されている。
だから、ここでの「会話」というのはむしろ「フィクション」と親和性を保っているはずなんです。
それがもっとも端的に現れるのが、前半部分の光生(瑛太)と結夏(尾野)の会話で、
結夏が「子供が欲しい」
(これは会話的リアルもありますが、アラサー夫婦の典型的な問題で、同時に設定的なリアルでもある)と言うと、光生はその発言に持論を振りかざし、結論として
「僕らの子供がブラックホールに飲み込まれるのをあなたは見ていられるの?」
と答えます。
これは到底リアルとしてではなく、フィクションというか寧ろ2ちゃんのスレタイみたいなレベルの二次創作感すら漂い始める。これはある意味では現在的、ネット的なリアルなんだけど、その感触を果たしてアラサー夫婦は正確に捉えるほど進んでいるのかと思えてくるのです。つまり、このような特殊なリアリティを、アラサー夫婦がその筋(ツボ)で理解しているのかという疑問です。
恐らくそれはノーでしょう。

では、それでもなぜこのドラマでの「会話」はリアルだと誤解されていたのか。
それはここで扱われる「会話」が、実は「普遍」と結びついていたらかなのです。つまり 男女の普遍性です。
そして、僕はこのドラマのテーマを「この時代を生きるリアルな問題と、男女の普遍的な問題の綯い交ぜ」と仮定することができると考えました。それを似たような「設定」で生きる異なる2組の夫婦を使って、結果としてトータルパッケージで提出したことによって生じたのが、「会話のリアル」という誤った解釈だったのです。

ここまでをまとめると、このドラマの「会話」はアラサー夫婦のリアルだと理解されがちだが、結局いつの時代にもある男女の普遍的な領域を脱していないということです。
坂元さんが登場人物で唯一現実的な事をじゃべれる立場に置いた灯里(真木)のセリフを見てみると、
「抱けない女に、いつも近くにいていつでも抱けるような女が勝てる訳がない」
「女は男に完成を求め、完成された男を抱きしめたくなるが、男は女に未完成を求め、完成された女からは去っていく」
加えて、これは潮見さん(臼田)のセリフですが、
「女はね、一度許すと、その男の母親になってしまう。それから先はずっとその男に甘えられ続けるんだよ。ずっと許さなきゃいけなくなる。」
これらは、まさにいつの時代にも共通する男女の普遍性についての言及なんです。
つまり、 そこにはアラサー夫婦にしか共感できないような狭義のリアルは存在していない。
勿論、坂元さんも登場人物たちと同世代の夫婦に漂うリアルな空気という事をテーマに書いていると思いますが、それを坂元さんなりに書いた結果、案外普遍的な問題が浮かび上がってきたという面白さに気付いたというところがこのドラマの主題であって、つまり「リアリティとそこに付随した普遍の齟齬」こそがこのドラマが示した一つの回答なのです。

そのような見方を取ると面白い箇所がいくつも見つけられると思います。
光生と結夏の関係から浮かび上がる「理論的な男・感情的な女」
諒と灯里の関係から浮かび上がる「浮気する男・許す女」
それが今を切り取るような形でリアルを纏いながら示したのは、結局「普遍性」なんですよ。
光生か大吉出るまで何度もおみくじやるところとか、結夏が後先考えずにカシオペアに乗るところとか、実は光生と結夏の問題は、リアルな設定というものを律儀に守りつつも、普遍的な男女の感性というか価値観の違いであって、それに果敢に挑む訳です。
ここからはまた劇中の会話の引用ですが、
結夏が光生に対して 、
「何で全部言い返そうとするの?人の意見を聞く余白がないの?
あなたはね、他人の意見がどうでもいいか、自分の意見が正しいかのどちらかしかないんだよ」
という言葉と、それに対する光生の、
「僕はただ、自分の意見を言っているだけだよ」
というやり取りに、凄く現実味を感じて、でもこれって30代にしか共有できないリアルとは違う普遍的な男女の価値観の違いだよなと思うわけです。
また物語の途中で、光生と諒(綾野)・結夏と灯里が同性同士でカラオケに行くんですが、男2人が歌うのがイエモンの「バラ色の日々」で女2人が歌ってるのがモー娘。の「シャボン玉」なんですね。これも「リアルを纏いながらも夢想する男」と「意外と現実みてる女」という普遍の構図だったりする訳です。
ただ、そのどれもが凄く具体的で現実的だから自然とそれが個々人のリアルと結びつくようなるというのはとてもよくわかるし、これが坂元脚本というか、演出や俳優陣の演技含めて最高の離婚の真骨頂、無茶苦茶凄いところなんだけど。

ここまで具体例を挙げて、このドラマの「リアル」と「普遍」の齟齬というテーマについて説明してきましたが、もう少し俯瞰的に構造的なレベルの話をすると、坂元さん含めてこのドラマの製作陣は前述した「会話のリアル」という誤った受け取られ方をしないように工夫をしているということに気づかされるのです。

前半で説明してきた、「会話」と「リアル」の位置関係はパラレルなはずなのに、ラストで別れたほうが2人のためだと光生と結夏が話し合うトシーンや、みんなでカシオペア乗っちゃってここから舌戦が始まるという電車の通路で諒が通行人を気遣って「後ろ通りまーす」と言ったりするシーンなど「妙なリアル」によって歪みが生じ、その緩和的なリアルを含めてトータルパッケージで示すことで錯覚が生じる事になるのは容易に想像できますし、物語に感情移入すればするほどそれがリアルに寄り添ったように受け入れれるという効果もあると思います。
しかし、実は少し引いた目で見ると、あの寝台特急の食堂車のシーンなんて特にメタな視点から描いていることを象徴しているとしか考えれないのです。これは、前半のキャンプのシーンにも通じるところがあって、これらのシーンでは現実と虚構という狭間を喜劇的に描くという所に徹して、そこに何らかのリアリティが生み出せればいいという坂元さんの構造的な狙いがあるはずです。
少し込み入った話をすると、これは現実とフィクションのハイブリッドの過程についての言及で、フィクション側から現実を飲み込む形(例えばあまちゃん)とは違い、最高の離婚のメタ的な視点というのは、設定的な現実を会話というフィクションで拡張していく中で、生まれるものは何かいう構図を取っているのです。
ただ、結果として最後は2組の夫婦とも現普遍的でシビアで生々しい選択を迫られる。
そうなった時に、あのスティングを彷彿とさせた、またオリエント急行を思わせる(読んでないから絶対違うけど)食堂車での会話のシーンが、「会話のリアル」の否定という機能に大きく役立ったと同時に、結果リアルに肉薄していくまでの効果は得られなかったという事を露呈させたと言っても過言ではないと思います。
今回のこのスペシャル版では2組の夫婦のうち1組が別れることを選択しました。
これは続編の伏線と片づけることもできますが、僕はここに今回坂元さんが本当に書きたかった「会話の力でその圧倒的な現実感(リアル)を半分ぐらいフィクションに転換した」後に見えた結論だったと解釈できると思いました。
あそこまで緻密な設定でリアルを演出して人を引き付け、一見そのリアリティを補完する構成要素の一つとして使われている「会話」は実は普遍的なものであり、結果として夫婦の抱える問題を前にその「会話」(フィクション)は無力だった。もっと相性とか人間本来の性質的な相似というものこそが特殊な現代で夫婦としてやっていくには必要になる。そんな話であったように僕には感じました。

長々読んでくれた人がいるならば、感謝申し上げます。

ブルータスの「ラジオ特集」第2弾

http://magazineworld.jp/brutus/brutus-773/

ホント数年ぶりに立ち読みせずに買いました。
生粋のドケチ精神から本当に買うべき雑誌なのか、読みたい記事の分量と、それを立ち読みで捌ける時間はもう身体に滲みついてきてるので、もうこの年ですし、定期刊行されてる雑誌の読んでおくべき書き手のものとか興味深い内容のコラムとかガッチガチに固まってるじゃないですか。
そうなるとそこだけサクッと読んで(と言いながら1週間前ぐらいに1時間以上立ち読みしてたけど)結局、雑誌買わなくなっちゃうんだよね。

ブルータスのラジオ特集第2弾!
僕はテレビ凄い見てるよねとよく言われますが、1日平均で考えると一番多く触れているメディアは恐らくラジオでないかと思います。
ここに長文書くときもだいたいラジオ聞きながら書いてます。
そんな僕のおすすめラジオも後でちょこちょこ紹介しようと思います。

開くと目次に「5年ぶりのラジオ特集」とあって、勿論その5年前のものもよく覚えていて、その時はラジオが特集されている事が嬉しいなと思ったと同時に、
「ラジオ=過去の媒体」ってのを払拭しようと「新しいラジオ」というイメージをアピールしようと些か前のめり・煽った特集で、肩肘張ってるような違和感が少し淋しいなと思った記憶があります。
だって、ラジオは基本頑張らない媒体だからね。(こう書くと語弊があるかもしれないけど。勿論この5年の間には311があり、ラジオはその時かなり活躍しました。)

新しいものの良さというのは、常に古いものとの比較によって生まれるんです。バージョンアップして前使ってるものより使いやすくなったとか、出来なかったこんな事ができるようになったとか、そうやって人は「新しさ」という価値を実感するのです。
そう考えると「ラジオ」ってその「新しさ」を打ち出すのが苦手な媒体なんじゃないかと思います。
単純に「昔はよかった」というのがラジオを語るうえでの常套句になってしまっているし(今のパーソナリティの人も頻繁に使ってます。たけし、みゆき、鶴光とかね)、テレビというマスメディアに立場を譲ったりってのもあるからね。それがラジオの宿命だったというか。
一方で、僕が生まれる前から続いてる番組ってのも多くて、枠とでいうとニッポン放送のオールナイトニッポンとかTBSラジオのJUNKのも日替わりでパーソナリティが変わるという形で続いてきている長寿番組だし、大沢悠里のゆうゆうワイドなんて悠里さん一人で7200回を数える、なんて聞くともう途方もないです。

そういった意味でも、ラジオの「新しさ」って難しい。
そんな事を前回のブルータス・ラジオ特集を思い出しながも今ぺらぺらとこれをめくっていたのですが、今回このラジオ特集②を読みながら思うのは、そのラジオの新しさを知ってもらおうというスタンスを一度横に置いといて、「暇ならばラジオでも聴いてみてください」そんな今のラジオが持つコンセプトとリンクさせながら作られているのではという事です。

勿論これを好んで購買する人はラジオのリスナーが殆どだろうし、この特集が出るにあたってインタビューに答えたってラジオでしゃべっていたパーソナリティが色々な局にいたので、それで楽しみにしていたというのは日頃ラジオを聴いている人なんだけど。
でも僕は、この一冊の中に「今」のラジオの魅力が全て詰まっていると言えると思います。
それは「新しさ」という魅力とは少しずれた「今」なんだけど、これをふと手に取った日頃はラジオをあまり聴かない人も、等身大のラジオの現在地、今のラジオの有り様が集約されているのかなと思いこんだりしても大丈夫です。つまりこの一冊で今のラジオを理解するには十分なほどの情報が載っているということ。
それくらい隅々まで今のラジオシーンを写し込んでいる一冊になっています。僕はそれを強調しておきたかったです。
そんな、何ともお得な一冊なので、気が向いたら立ち読みしてみてください。

最後に僕が毎週欠かさず聴いてるおススメラジオ5選!

①TBSラジオ 荻上チキ・Session-22
(月〜木曜 22:00 – 24:55 金曜 22:00 – 23:55)
・チキりんが真面目な少しかたい番組ですが、社会の様々なニュースをいち早く取り上げる、聴いてるだけで勉強になる番組です。12時台は日替わりで面白いゲストの方が来てくれて話が聞けるのでそこだけで聴いても良いと思います。今話題のビットコインも僕は数か月前のこの番組で知ったりしました。

②ニッポン放送 宮藤官九郎のオールナイトニッポンGOLD
(毎週火曜 22:00-24:00)
・昔からやってそうな番組と思いきや実はまだ始まって半年も経ってない番組。この番組のコーナーにリスナーからのメールで歌詞を募って卒業ソングを作ろうってのがあって(出来たの勝地涼が歌うんだけど)そこで頻繁に採用されてた「蒙古斑」というラジオネームの人が坂井真紀だという事が番組中に発表され(クドカン本人も知らずに)この劇団レベルの悪ふざけ凄いと思ったことがありました。

③J-WAVE Jam the WORLD
(月曜〜金曜20:00-21:50)
・これも帯で割と硬派なニュース番組なんですけど、J-WAVEということでお分かりの方もいると思いますが、FMラジオです。
そのFMっぽさを身体に入れたいって時に絶妙のバランスで話題を提供してくれるとても優秀な番組です。津田さんパーソナリティの火曜はほぼ聴いてますが、3月の改編で津田さん降りそうなところも注目ポイントです。あー今のAMっぽいとか、FMっぽい声出してんじゃねえよとかの「AMっぽい・FMっぽい」の区別がつかない人間とは正直僕は話をしたくないですね(笑)

④TBSラジオ ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル(毎週土曜日 22:00 – 24:30)
・特に冒頭2210ぐらいからのコーナー「週間映画時評 ムービーウォッチメン」これだけでも相当な熱量です。今劇場公開されている映画から宇多丸がガチャで決めた1本を1時間マッハのスピードで語り倒すってコーナーなんですが、驚くことに、このコーナーのみにスポンサーがつくほどの名物ものとなっています。ちなみに昨日取り上げた映画は「エージェント・ライアン」で微妙だったとの事。来週は「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」アカデミー賞後一発目、面白い演説が聴けるかもですよ。

⑤TBSラジオ 菊地成孔の粋な夜電波
(毎週日曜日 19:00 – 19:57)
・これはTBSラジオなんですけど、ちょっとFMっぽいというか。
菊地成孔が好きなおしゃれ女子のニーズに、菊地さんが嫌な顔せずに答えてあげているというのが裏コンセプトでしょうか。勿論ジャズミュージシャンなんで音楽の選曲や菊地さんの膨大な知識を垣間見える番組です。僕はその中でも恒例の「ロイホ(レストランチェーンのロイヤルホスト)話」が大好きです。ファミレスのドリンクバー混ぜて「浸透圧がさ」とかいう大人になるのが僕の夢だったりしますので。

ここにはあげませんでしたが、AKB含めて48グループはかなりのラジオレギュラー(オールナイトニッポン含め)持っているのでそれはチェックしてますし、不定期の文化系トークラジオ Lifeなんかも面白いです。今日の山下達郎のサンデーソングブックは「ひなまつり ガール・グループ、ガール・サウンド特集」と題して、裏では大滝詠一が好きだったガール・グループ、ガール・サウンド特集だったと後半に達郎さんが恥ずかしそうにカミングアウトして、「大滝さんってのはこういうやり方が好きな人です。今褒めてもらいました」なんて粋な話が聴けました。

今はスマホでラジオが手軽に聴けますし、僕は東海ラジオのSKEの番組も無理やり生で聴いてます。具体的にどうとは言えませんが、全国どこへいてもローカルラジオも含め聴ける豊かな時代です。

僕も好きなラジオのことでした。

AKB48大組閣

大組閣が終わりました。
19時ぐらいから仕事そっちのけでツイッターのハッシュタグ「‪#‎大組閣‬」ひたすらに追っかけてたら、気づけば21時回ってて当番デスクと僕とAKBオタの先輩(20代女性、40代男性米国人)みたいになってました。結局ですね、分かち合う事でしか強くなれないんですよ、人は。

完全な罠だと知ってて乗っかります(あんまり突っ込んだ議論はしません)。
まずね、結論から言うと「少女たちは、傷つきながら夢を見てきた(現在完了)」ですよ。
今回、この組閣で秋元康は入れ物を変えるような大胆な改革を行わなかった。つまりアーキテクチャーをそのままにしたという事です。これは恐らくそれを自覚しての事でしょうし、それ故、今現在g⁺にも降りてこない、どこでどう仕事をしているのか姿を窺えない(かつてはガンガン下に降りてファンと絡んでた)秋元康という首長の求心力が目に見える形で危ぶまれたという事です。
常に「サプライズ」を売りにしてきたAKBが去年のペナントとかドラフト辺りで目に見えるように迷走し始めて、満を持した今回の大組閣も見た目は大きな変化で瞬間的に今はバズってるんだけど、これが果たして振り返った時に神話的に扱われるかというのはは疑わしい。さらに今回も「サプライズ」の代償としてたくさんの「傷つく子」が生まれてしまった。その傷ついた子について、今すぐに結論を出すのは失礼だし、信じてあげられないのは良くないけど、傷ついた彼女たちに嘗てテンプレのように存在した夢を見るためのプラットフォームが上手く機能するのか。今現在のAKB等の状況を勘案すると、既に過去のシステムと化した機能を信じて歩みを進めるにはあまりにも危険だと思う。と言うのは、極端な話をすると嘗てAKBの「傷つく」というのは、夢を見るためにある種ヤラせ的に運営が設定する現象であって、グループ自体がインフレ傾向にある時はこの「傷つく」と「夢を見る」というのがセットで扱われてて、そこでリアルに限りなく近い幸福の物語が次々と生産されてきたんだけど、今崩れかけたAKBという神話の中で、その保証もなしに歩み出す彼女たちの行く末が不安で仕方ないというが今回の組閣を受けての僕の率直な意見かな。

あとね、一つ凄い面白い現象があって、組閣後に各正規メンバーが(総勢250人ぐらい)一人一人自分のg+(SNS)のアカウント使って拙い言葉ながらも今回の移籍について語ってるんですね。
そこには共通する冒頭文の説明みたいなのがあって、それが「私は今回チーム○○になりました。」ってものなんです。一見何の変哲もないんですが、それがストリーム化してどんどんリアルタイムで動いていっているのを見ると、今読んでる本鈴木謙介『ウェブ社会のゆくえ』で論点として扱われている、多孔化した現実そのもののようなんだよね。
この冒頭部分は、最初はアニメ版魔女の宅急便のコピー「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」のような周りや自分を落ち着かせ、ある種欺くための優しい虚構のように取れるんだけど、次第に大きくわっと流れ込んでくるようになると、各人の書く「私は○○に移籍に、この度私は○○…」ってのが震災後の安否確認に有効活用された時のツイッターのTLみたいな現実的な切迫感が生まれてきて、みんな必至に自分の生を肯定しているというか、存在を証明しているようで、少し滑稽なんだけど、自分を見失わないような必死さすら伝わってくるように感じるということがあったな。

もちろん、具体的に突っ込んだ話をすればきりがないから今はしないけど、僕の推しであるところのこじまこ事小嶋真子がKに行ったのも物語の法則からいうと完全な腰折りで明らかなアンフォーストエラーだし、先日ここでのSKEの事から派生して書くと「ゆりあ盗り」ってのも永遠に言わなければいけないことになったってのもある。
ただ、結果としてSKEがなくなるという破滅的な事態までは至らなかったし、僕の推しであるところの松井玲奈のレギュラー番組が毎週月曜にニッポン放送であるんだけど、玲奈が冒頭で「SKEそして乃木坂46兼任の、松井玲奈です」といつもの鼻にかかったような元気な声で挨拶を始めて、あー公の電波でこの枕詞使うのはここが初めてだろうなとか思いながら聞いてたら、なんか違和感あるんだけど、決して後ろ向きでないというか。

とにかく、これはポエムでも泡沫でもなんでもなくて、
「傷ついた彼女たちは、あの時の彼女たちのようにまた夢が見られるのか。」
今の48グループの真価はまさにここに問われているのでしょう。

斜陽の先には、それでも無垢で

「斜陽の先には、それでも無垢で」

少し前になりますが、2月2日にナゴヤドームで開催されたSKE48のコンサートに行ってきました。
SKEにとって念願のナゴヤドーム(しかも2days)公演です。僕もここ2年半ずっとSKEを追いかけてきて、これがSKEにとって一つの重要な節目になったと、振り返るとそう思います。

興味深く読んでくれる人少ないだろうし、個人の主観的な意見の強要になりかねないから、冒頭に結論として出来る限りフラットな意見を書いておきます。
そうですね、結論から言うとですね「斜陽の先にはそれでも無垢で、360度の彼女たちは何を手放す」ですかね。
自分たちの立場を揺るがされた中で(具体的な事は後述、忘れて下さい)あそこまで追い込んだパフォーマンスを見せつけ、極限まで「今」に固執した、否する事でしか現状を打破する事が赦されなかったという哀しい因果の上に刹那的な物凄い強い物語が成立していたと思います。
感動させられっぱなし、ただそれだけです。
ここまでで、懲りずにアイドルの追っかけやってる人間がSKEのコンサートが良かったと言っているという認識を持って頂けたのであれば、ここからは読まなくても大丈夫です。

さて、3人ぐらいしか読んで無いの確認しながら話を続けますが、まず上記の補足として説明をしなければならない、触れておくべき事柄があります。
それは、当初から「SKE48」というグループが48グループの中でも特殊な性格を有しており、その大きな特徴の一つである圧倒的な「排他性」ということについてです。
もともとAKBに追いつけ追い越せという精神でやってきたグループですが、いつの間にファンやメンバーの熱が若干歪んだ方向へと肥大し、これはファンに限ったことですが、他のグループメンバーやファンを拒絶・排除し高い囲いを作ることで、極めて狭い範囲の独自で強固なコミュニティを形成する形をとっていってしまったという経緯があります。そのため、コミュニティ内部間の繫がりは異常なまでに発達し、選挙や各グループのコンサートなどSKEのメンバーと他のグループのメンバーが比較されるようなイベントになると、AKBはじめ他のグループのファンやメンバーも考えられないほど強い結束力を持ち、あっと驚く結果を残したりします。(あまり知られてませんが、48グループファンの間では常識のレベルになっている事です。)
最近ではAKBを語ることで飯を食ってるような評論家なんてのもいますが、とても楽しそうに日々の48グループの話をする彼らも「SKEについては慎重に話さないと」とか、「SKEは常にナイーブな世界なんで」とSKEの話題を避けるような発言をテレビやラジオで常套句のように使っている場面も少なくないぐらいです。それだけSKEというグループは、気づけば大いに閉塞的で、扱いにくいグループになってしまいました。(勿論それによってたくさんのメンバーが選挙等のイベントでファンの力によって結果を残したという事もありますが。)

そんな、ある種鎖国的な(古いか)、ガラパゴス的な発達をしてきた「SKE48」という物語が、実は今崩れてしまうかもしれないという状況に直面しています。
来る2月24日(もう明後日とかですよ)に48グループ全体による「大組閣」を行う(詳細は未定なのですが)という発表が今年の初めぐらいにありました。これはあくまで憶測ですが、恐らく今SKEに籍を置くのメンバーがAKBになったり、NMBのメンバーがSKEになったりという事が十分に考えられるという趣旨の発表であったと推測できます。
勿論、他のグループのメンバーも不安でいっぱいになり泣き出すようなメンバーもいましたが、SKEのメンバーが最初に感じたのは、この独特な発展を遂げた「SKE」というグループがなくなるという恐怖だったようです。
ファンもそうですが、メンバーも常に高い意識を持って活動していますし、東京で活動するAKBとの差異化を図ることでしか地方の自分たちが残っていく道はないという事はメンバーの共有の認識として一人一人の心に深く刻まれています。それをグループ全体に芽吹かせ浸透させたのはSKEの初期メンバー達からの歴史であり、彼女たちの具体的な言葉や行動というのは、今でもSKE48というグループの血となり肉となり、そしてグループ全身に漲っているのです。
僕が「SKE48」というグループに惹かれて止まないのは、ここの部分の物語であり、その瞬間的な爆発力を何度も肌で感じたからだと、それだけは自信を持って言えたりします。
なので、その「SKEらしさ」というものが今回の大組閣で崩れ去ってしまうのではないか、紡いできた歴史が無碍にされてしまうのではないかという不安感がまず最初にメンバーやファンの脳裏を過ったことは容易に想像できます。

そんな独自で強固な物語性を有したSKEが現在直面する「大組閣発表」という危機的状況に加え、この差し迫った転換期の前から、具体的には去年あたりから実はもう一つの大きな問題を抱えています。それは、地方アイドルの限界を象徴するかのように、初期メンバーだったり、ずっとSKEの選抜だったメンバーが次々と「卒業」を発表している事で、その負の連鎖は去年末、そして今年いや数日前においてもずっと続いています。
上記の人気メンバーを含めた大量卒業の背景を簡潔に説明すると、結局、地方の選抜メンバーよりも、選抜にも呼ばれないし握手会での人気もない、そこまで努力をしていない「AKB」のメンバーの方が簡単にブッキングできる、要は仕事がもらえちゃうという事なんですよね。
この理不尽なパワーバランス、頑張っても報われないのかもしれない不安感がメンバーに悟らせた「閉塞感」というのをSKEはここ一年ぐらいずっと抱えていて、勿論下からメンバーががむしゃらに這い上がっていくことで微かな希望を見出し、辛うじてSKEというカラーを繋いではいるものの、もはやそれは個人レベルでしか機能していなくて、団結性の強いSKEという箱で考えたときに、その微かな希望だけで今までと同じ高いモチベーション、さらにこれからもっと成長していくための支柱としていくことに限界が来ているという事をメンバー自身が自覚し始めてしまっているんですね。
今回SKEはドームツアーと題して、この名古屋ドームの前に、神戸ワールド記念ホールと横浜アリーナでも去年の10月と12月にコンサートを行っていますが(僕個人が全て参加してるかどうかはどうでもよくて)、特に神戸の時はそのメンバーの不安感というか喪失感が前面に出てしまっていた(行ってるじゃん)今までのSKEで最もSKEらしくない見てて痛々しいほど良くないコンサートでした。
このままSKEは終わってしまうのだろうか、これはファンもメンバーも口に出すことは憚られていた事ですが、ずっと胸につかえていた思いでした。

それに追い打ちをかけるように大組閣が発表され、せめてSKEのメンバーの念願だった(中には個人ブログに700日以上毎日、紅白出場とナゴヤドームのコンサートをしたいと書いていたメンバーもいます)このコンサートが終わってからの発表でも良かったのでは、タイミングが残酷すぎると感じましたし、メンバーもどのようなモチベーションでナゴヤドームのレッスンを行えばいいかと誰もが悲鳴に似た声を上げていました。

しかし、レッスンが始まるにつれ、SKEがこれまで歴史として積み上げてきたものが、メンバー一人一人の全身に駆け巡っている血が、先が見えない現状でも、「この一瞬に賭けてみよう」と思わせてくれたという事が伝わってくるようになりました。
次世代を担うメンバーの一人が、「大組閣とか発表されて訳わかんないし自分のこれまでやってきた事がリセットされてしまったみたいに思えるけど、ナゴヤドームだけは前から決まってたし、先輩方が立たせてくれる最高の舞台だから、とりあえず今はナゴヤドームを成功させることに集中したい」と力強く発信したり、SKEは今年も紅白に出たのですが、紅白終わった後の公演で、あるチームのリーダーが「これから2月までの劇場公演は、広いナゴヤドームを意識したパフォーマンスをして欲しい」という発言があったらしく、そのような日頃から心掛けていた「一生懸命頑張る」という姿勢が本番のナゴヤドームまで気持ちを切らさずやってこれた(直前でAKB運営にに変な邪魔をされても屈しなかった、まぁこんな直截的な表現ではなかったけど)と言っているメンバーもいました。
つまり、このメンバーやファンの夢の舞台であったナゴヤドームは、これほどまでに複雑で難しいSKEの現状を抱えながら、迎えたコンサートだったのです。
と、ここまでナゴヤドームを控えた複雑な状況のSKEについて人通り説明してきましたが、これから実際2月2日に行われた公演の自分なりの感想を書いていけたらと思います。

ナゴヤドームは自分想像するより遥かに大きな会場でした。満員のお客さんが入った中でこのステージに立てるのは本当に選ばれたものだけが許される事で、僕は今のSKEのメンバー全員にはその資格があると信じして止まなかったので、いつか振り返った時に「いい思い出だった」と言ってもらえればということをずっと考えていました。
スタンドでステージから少し遠く、今使ってるメガネの度が弱すぎて、巨大モニターでも全員の姿をきちんと識別できなかったので、結果として心眼的な主観補正満載ですが、振り返っていきたいです。

まず最初は、安奈と李苑のドラムから始まり、直後の1曲目のescapeでは李苑がキーボードになったりと、李苑の存在感というか飛び道具感が際立っていました。
その後、歴代シングルを1stから続けて披露していったのですが、宮前センターの「青空片思い」と二村センターの「ごめんね、summer」、この2曲を聞きながら、決して柔らかいとか可愛いではなく、ある種アイドルには似つかわしくないような心地の良い乾いた春風のような衝撃を受けました。それが真冬の景色を一変させたのです。あー5期もこんなに成長したのかと実感させられました。

そのあとは公演曲やカップリングが続くのですが、今回このナゴヤドームのコンサートの前に卒業を発表した向田茉夏が以前所属していた「旧チームKⅡ」で披露することができた「愛の数」では、茉夏本人が涙を流すシーンや、チームカラーに合わせ真っ赤なサイリウムで埋め尽くされたドームの光景には息を飲みました。
茉夏は常に独特の存在感(異彩)を放っていて、そのいつ消えてもおかしくない特別な雰囲気が魅力的な子でした。僕は個人的に前田敦子に代わるセンター性を有していると思っていて、去年の4月の日本ガイシホールでのコンサートでは専ら「センターとしての向田茉夏」を確認しにいくという命題を掲げたりもしました。

さらに進んでいくと、去年の夏の美浜で行われた野外ライブで盛り上がり、僕の大好きな曲でもある「花火は終わらない」が珠理奈センターで披露というのもありました。
ただ僕は、今となってはもう「本能レベル」での松井玲奈単推しなんでこれは書いとかないといけないのですが、今回のナゴヤドームのレポで良かったと挙げてる人は少なかった玲奈センターの「微笑みのポジティブシンキング」での一幕。大サビっていうんですかね、最後のところで音楽が止んで玲奈が「光よ、地面照らしてよ。そう、今いるこの場所」というフレーズをアカペラで歌うのですが、あの大きい会場がしんと静まる中で響く玲奈一人の声は可視化され、天高く舞い上がった後に光のベールになってそっと降り注ぐんですね。その時僕は「かわいい」と独り言ちた訳です。また強調しますが、僕はその時目が見えてないんですよ。そこに存在するのは表象即ちイメージでしかない訳です。もうこれは末期だなと自覚しました。
でも、あの玲奈の声にぞわっとする感じ、常人には味わえないと思うと誇らしいです。(誰も羨ましがらないの知ってて書いてますので。)

ユニットでは、これで見納めの可能性もある(僕個人がですけど)茉夏の「フィンランドミラクル」を全力で応援出来ましたし、「校庭の仔犬」では運動神経の良いメンバー(僕はこのメンバーか今回のベストユニットだとと思います)が一輪車に載って登場したりと、見どころ満載でした。

それが終わった辺り、全体の構成でいってちょうど真ん中あたりですかね、珠理奈が一人で登場して急にSKEでの活動を振り返り出すというシーンがありました。
僕は正直あー珠理奈辞めるなとかリアルに思って、でも信じたくない信じたくないとか考えてるうちに「では歌います」とか言って、珠理奈が歌い始めたんです。
その曲がまさに「大声ダイヤモンド」ですよ。
これは、珠理奈がAKBさらには48グループ全体を窮地から救った曲です。
AKBがデフスターから契約切られて(実はAKBは売れな過ぎて一度レコード会社クビになってるんです)、キングに移って移籍一枚目として排水の陣で作られたこの曲は、今までセンターだった前田敦子に松井珠理奈をぶつけるようなダブルセンターという初めての形で出されたものでした。
事実、あの曲は松井珠理奈が出現したことによる前田の複雑な心境が歌詞にストレートに投影されたもので、二番のAメロの前田ソロパート「いてもたっても」というこのワンフレーズを前田が口ずさむためだけに存在した曲だったと個人的には解釈しています。
しかし、前田にとっては皮肉なことに、秋元康や高橋みなみはAKBを振り返った時に「大声ぐらいからファン層が少ずつし変わってきた」と口にする、AKBにとってはターニングポイントとなった曲で、その立役者、救世主が当時の松井珠理奈だったという事は言うまでもないのです。
それを前田なき今、前田敦子というポジションを若くして踏襲せざるを得なかった珠理奈が「いてもたっても」いれなかったと歌う場面に、センターとしての物語、つまり因果を感じる切なさや背負いすぎた弱冠16歳の痛ましさが宿り、しかしそれでも斜め上へと届いてほしいと願い続ける珠理奈の声が再び希望の体現となった瞬間が訪れたのです。

それから今回のコンサートでは、自分たち以外のグループの曲をやったりもして(僕はオリジナルの曲を割いてまでと思ってしまったのですが)HKTのメロンジュースを若手メンバーが披露した時の、サビで頭をぶんぶん振るダンスには暖色と寒色が混ざり合って出来る渦のようなものを感じました。元チームEが逆上がりをUta-tubeで披露した時と同じような頭が取れてしまうのではないかという花音の本気加減や、宮前の太陽が咲いたような動き、奈和ちゃんの悪ノリ感たっぷりの髪を振り乱した笑顔のパフォーマンスなど、連帯する事を楽しみながらエネルギーを生み出す、僕がよく例えとして使う文化祭準備期間中のような、ドキドキワクワク感を一つに詰め込んだ一曲となっていて、それがまたSKEらしく見ごたえ十分でした。

それからも、チーム曲やシングル曲などが続いて、アンコールの後には新曲のMV撮影なんかもあったりして、
合計すると46曲3時間以上に及ぶ公演になりました。
そこには、各メンバーの思いが重なりながら大きく膨らみ、常識では考えられない一体感を生み出し、会場を大きな感動で埋め尽くすほどでした。
冒頭で書いた「360度の彼女たち」ということですが、これはSKEの特徴であるどの瞬間・どの場面を切り取っても、そこに必ず真新しい物語が存在しているという事の例えです。
SKEはグループの顔であるJR(珠理奈・玲奈)が曲のセンターになることが多いのですが、その後ろの2列目、さらにそこから見切れる3列目、そして選抜には入れないでいるメンバーも個々人の物語やメンバーのポジション取りで生まれる刹那の物語があります。それはどの角度から切り取っても漏れなく存在していて、その360度がすべて物語として受け取れる、高度な瞬間芸術へと昇華された作品を僕はナゴヤドームのコンサートで改めて確認できました。

また、SKEがこれからも続いて欲しいと有志がSKEカラーのオレンジのサイリウムを入り口で配布し、アンコールの時に灯った一面の「オレンジ」が何を意味していたのか、そしてメンバーはあの光景を前に何を感じたのか。僕には正解が出せませんが、あの光景をメンバーに見せてあげれたということ、それが僕らファンの出来る唯一の恩返しだったとは思います。
勿論、総勢60人以上いる大所帯ですので、メンバー一人一人が目指しているところや見える景色は違っています。しかし、彼女たちは自らがSKE48の一員であるという強い意識を持って活動することで、一つの可視化された大きなエネルギーを生み出すことに成功しました。
僕はあの日のことをずっと忘れないでしょう。
(終)

と、いきたいところですが、なぜかナゴドの後あたりにAKB48チーム4であるところの小嶋真子ちゃん(通称こじまこ)に本気ハマりしてしまい、こんな熱量は最初に玲奈を追いかけだした時とそう変わらないぐらいで、どっからこのエネルギーが生まれているのかと自分でも戸惑っています。
なので早くにナゴヤドームのレポを書いてれば良かったのですが、余韻に浸ってたら気づけば脳みそ全部こじまこに持っていかれてて、もっと完成度の高いSKE愛に溢れた(宗教性を纏った)ライブレポが出来上がるはずだったのにと自分でも哀しくあっけない結末です。
指原莉乃は言います。「推しは変えるものではない、増やすものだ」と。うわ…
こじまこと握手したい気持ちと葛藤しながら26の春を迎えるとは思ってもいなかった、何とも歯切れの悪い締め方となりました。

ドラマ総括

さて、今クールも連ドラが出揃って、ひと段落しましたね。
前回も書こう書こうと思いながら忙しさに感けて結局最後まで書けずに終わってしまいました。
のでここで、後出しじゃんけん的に少しだけ振り返ります。
半沢とか、WOMANとか、僕が「世界の終わり全肯定時代に小人として生きるメソッド」というSUMMER NUDE論を書くにまで至らしめた小人ドラマの神髄SUMMER NUDEまで意外と話題の多かったクールの後だった前回は、「安堂ロイド」とか「リーガルハイ2」とか事前に話題になっていたというか、国民の関心がドラマに向っていた、ドラマを見ようと思っていた人が多かったチャンスの時だったと思います。
そんな前回ですが、視聴率どうこうとは別に僕が良かった(寧ろこれだけ見とけば大丈夫)と思ったものが、以下の三作品です。
「リーガル・ハイ2」
「クロコーチ」
「変身インタビュアーの憂鬱」

三者三様に良さがあってまとめて少ない分量で書いてしまうのは勿体ないくらいなんですが、1つのクールに外せないドラマが3本もあるというのは豊作と言ってもいいと思います。
実際、今クールはこの基準を当てはめると、魅力的だと思ったのはただ一つです(ほぼ全て一話は見ました後述)

まず「クロコーチ」はここにもよく書いていましたが、論点のすり替えの上手さの魅力が一番です。
表層的にはバットマン的な「悪でもって悪を制す」とか「何が善で何が悪か」という判断をするのは自分自身だ的なテーマで作られていたのですが、物語が進んでいくうちに浮かび上がる「論点のすり替え」の存在感が強くなります。誰もがとは言えないけど、持ってる人は持ってる自分の強み(それは趣味でもいい、ただ相手に有無を言わせないレベルのもの)の側に社会に蔓延る物差しを引き込んで上手くすり替える。すると、意図も簡単に「常識」がその人間の作った「新常識」になる。なるとまではいかないかもしれないけど、それは一時的に人を信仰させる錯覚には十分なほどで、そうやって統制された世論のやそれに付随する何か大きな力に切り込む、その事実を暴く様がとても上手に描かれていました。その結果の鍵というか「仮説として」というテロップを毎回冒頭には出しながらも、確実に「新常識」を作るために実験的に用意されたのが「3億円事件」なんだと思います。なぜ3億円事件は未解決に終ったか、今までの常識を根本的にすり替えて、壁を破ることで発覚する結果を示す。ただ、重要なのは結果でなく、その「すり替え」の過程なんです。今の時代の若い社会人は半沢ではなくクロコーチから論点のすり替えを学んだほうが、今の社会を生きるには有益だと思わせてくれるような作品でした。

次は「リーガルハイ2」ですね。往年のガッキーファン(言うほどでもないか)だけど、これは完全に堺雅人と脚本・古沢良太(岡田将生も褒めたいけどあのニュータイプ感は古沢さんの表現だからなぁ。)の力で視聴者をねじ伏せきってます。かっこいい。
初回が10分間隔とかでCM入ってて、半沢効果どんだけって思ったり、前回とは違う1話完結の背後に一本の背骨となる続きの物語があって、これが1とは違う魅力(岡田くんのようなニュータイプの不気味さ)を上手に出していたと思います。でも結局は最後の2話分の盛り上がりに尽きると思います。以下その2週のリーガルハイ後のツイートを転記します。
【最終回前】
今日のリーガルハイの答弁に於ける台詞はずばり古沢良太の魂の叫びだった。
古美門の「本当の悪魔とは、巨大に膨れ上がった民意だ。」
この言葉がどこに向けられたものかをきちんと汲み取らないといけない。碩学とまではいかなくても、民意を構成する一員として、そこからデタッチメントするためにも。
曲がりなりにもコメディを謳ってるフィクション故、まさか絶対にないだろうと思ったけど(フジテレビの利権の事とかも含めてつまり3の可能性)もしかしたら黛が本当に死んじゃったのかと2秒ぐらい思わせてくれたのは、やっぱりこのドラマがとても秀逸だったという確固たる証だろうな。
【最終回】
リーガルハイ最終回秀逸だった。19世紀のロマン主義的ロシア文学を、21世紀の出処不明な日本の前衛文学が駆逐している光景を見せられてるようだった。
今回はパート1と違って小雪事件という大きな軸があったので、それを巡るクライマックスへの加速と着地(先週今週)がとりわけ見応えがあった。テーマは「民衆(民意)強いてはポピュリズム」と「真実」だったと思う。黛が、例え傷つく人が多くあってもそれが「真実」であるならそれは仕方のない事であると発言するシーンがあったけど、実は、このドラマを通じて争点になっていた小雪事件の真実は明かされてなかったりする。羽生(岡田くん)というニュータイプの最後まで何もかも負け続け無様に映るような青年が、勝ち誇ったような姿勢で去っていくところに、真実を明るみに出したように見せかけ、より大きな何かを上手に隠蔽して終わったような感じを受けた。
その真実を巡る争いの中で、「民衆は愚行ばかり、真実なんてない」そのことを弁護士と検事が高みから見下ろした格好で指摘する。これが時代の最先端をいく正義なんだと思う。そこにはもう「HERO」の影はない。

ま、こんな感じです。古沢さんリーガルハイ→リーガルハイ2だから、早いうちにこれ以外の本を期待してます。

次、「変身インタビュアーの憂鬱」です。これ、ジャニオタでもなかなか見てる人少ないんじゃないかな。主演はKATTUNの中丸くんと木村文乃、監督・三木聡です。最近は映画の方が多いけど、みんな大好き「時効警察」の監督ですね。
これがねホント大当たりでした。内容ざっと説明すると中丸くん演じる作家が小説の100作目のネタを探しにかつて題材になりそうな殺人事件のあった集落でインタビューして回っていて、木村文乃がその担当編集者の役で中丸くんについて回るみたいな。タイトルの変身ってのはその小説家のルックスとか背格好が対外向きじゃないので、それを正すためにイケメンに変身してインタビューするというところからきてます。最初は1話完結の話だと思ったのですが、10話全てを使って一つの大きな真実を暴くような形をとります。
集落自体が奇妙な地の繋がりを有していて、そこに住む人間の隔離されて育った歪さみたいなものが謎にとして焦点、つまり町全体で何か大きな隠し事を共有しているというような話です。最近ツインピークス見てるんで、それに似た側面を感じます。また、阿部和重が山形の神町を舞台に描いた超大作「シンセミア」「ピストルズ」その派生ものの「ニッポニアニッポン」「グランドフィナーレ」などを包括し、今も続いている「神町サーガ」を彷彿とさせるような内容になっています。
三木監督の配役で時効警察の面々も何人か出ていますし、あのシュールな演出もキレわたっています。あと、木村文乃が本当にかわいい。今までどちらかというと否定的な見方をしていたのですが、今回の木村文乃は本当に良かった。年も一緒で誕生日も3日ぐらいしか変わらないからちょっと応援していこうと思いました。木村文乃もそうですが、前クールの主演女優は(可愛さで僕が勝手に判断)間違いなく「ノーコン・キッド」の波瑠ちゃんですね。
と、三作あげましたが、僕の趣味的には「変身インタビュアーの憂鬱」が一番と言っても過言ではないので、みんな一つ見返すなら「変身インタビュアーの憂鬱」を!

やっと今クールの話題に入れると思ったら、もう読んでる人だいぶ少なそうですね。
でも続けます。今クールももう大体どのドラマも2話ぐらいまで消化されています。
取りあえず1話はほぼ見ました。まだ始まったばっかりなんで先を見通した話も出来ないですが、これからも追っていこうと思う作品を今のところで挙げておきます。
「隠蔽捜査」
「失恋ショコラティエ」
「明日、ママがいない」
「医龍4」
「なぞの転校生」
「S -最後の警官-」
それ以外は切っていいなと判断しました。
正直「医龍」はファンなんで個人的に見てますが、その程度だと思います。

「隠蔽捜査」も初回しかまだ見てませんが、とりあえず見続けようと思います。やっぱり杉本・生瀬・古田の三人の濃さは魅力的だと思います。この三人のクセでただの刑事モノからどこまで跳ね返りを見せるかが焦点だと思います。

「失恋ショコラティエ」は7月クールに続きまた小人の話です。1話見たときに松潤の小人ぶりに何年かぶりにテレビに「ウソだろ」と言ってしまったほどです。漫画が原作らしく、読んでる人もいると思いますのでストーリーは割愛しますが、とにかく石原さとみ演じるサエコさんがひどい悪女です。結婚しちゃって、なんかねー。松潤はそのサエコさんをずっと好きでサエコさんがチョコ好きだからショコラティエになって、結婚してるし、なんかねーみたいな、正直呆れて物も言えないような話です。ただね、サエコさん(何度も言いますが既婚者です)の「ごめんね」と「ありがとう」の間で揺れ動いちゃってるソウタくん(松潤ね)が、サエコさんの「ウソかホントか分からないイノセンスさ」がみたいなのが出てきて、そこでだ、これだけは俺分かるぞ分かってしまうんだわマジでこんちくしょう、サエコさんのこのイノセンスさは「ホント」だぞ、ソウタ、マジで、マジレスするとな。
とかそんな小人に感情移入しやすい人にうってつけのドラマです。

「S -最後の警官-」はみんなかっこいいです。向井くん綾野さん筆頭に、それだけじゃないってくらいに大森南朋とか平山浩行とか池内博之とか、しまいには敵役でオダジョーまで出てくる。
女性の方々にこれ見て月曜からまた頑張って働こうね的な機能を果たしていると考えれば、それだけで十分に価値があるドラマだと思います。ほぼ男しか出てこないし、オープニングとかちょっと半沢っぽいんだけど、女性の影を限りなくゼロに抑えることで生じるファンタジー(半沢の時はある種のリアリティだった)に女性が喜ぶというのは面白いというか原点回帰のようでいいなと思います。
2話で東京中に時限爆弾仕掛けられた犯人と対峙したの考えると、最終回とかには巨大隕石地球に衝突ってのを向井くんと綾野さんが数うというスケールまでいってもおかしくない進行速度なので、そこら辺にも期待です。

「明日、ママがいない」は僕の推しであるところの芦田愛菜さんのドラマです。
個人的に一番期待していて、1話でも「愛菜さんっ!!!」ってなってたのに、なんかクレーム来てがっかりです。野島伸司の名前も消えたし多分大まかな軌道修正を余儀なくされてしまうのでしょう。日本社会のフィクションに対するの寛容性の無さは異常だなと思います。もっと「愛菜さんっ!!」って叫びたかったです。

「なぞの転校生」です。抜群です。今クールはこれだけ見れば正直オッケーです。
金曜日の0015テレ東系列です。是非ご覧になって下さい。結果が求められた岩井俊二の底力を感じざるを得ません。
親に教えてもらいましたが、もとはNHK『少年ドラマシリーズ』って枠でやってたらしく、親はその頃のものは良かったと言ってました。僕はその前のは見てないですが、今回のは冒頭2分で岩井さんの雰囲気出まくってて最高です。 手持ちカメラ、学園ドラマ、アンリアル、いいね。ヒロインの桜井美南さんは多分無名の方で、でもその不思議さが岩井さんの淡さとシンクロしててそれも素晴らしい。今回の主演女優は間違いなく桜井美南さんです。元から僕は学園ドラマが凄い好きなんで、深夜の学校とか、音楽室とか、起立礼着席で教室の床をこするように動く椅子の奏でる音とか、紺のブレザーとか。それを手持ちカメラでピアノの伴奏をバックにただただ撮っていく感じ、そのありふれた退屈な日常の岩井的切り取りと、なぞの転校生というSF的な要素をどう混ぜ合わせていくか(2話までではそこがうまくいったこその魅力ってものがまだない分)そんなところに期待です。
冒頭の河原を学校帰りの主人公の二人が歩いているのを岩井さんがこれまたうまく撮ってるんですが、これままさにね

「夕暮れの不覚」

ですよ。是非今クールはこのドラマに注目下さい!

では、今日はこの辺で。

芥川賞・直木賞予想

遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
最近寒いですね。毎日「今年一番の寒さ」って言葉聞いてる気がしますが、ずっと寒いのであんま変に煽らず、そっとみんなで耐えたいと思うものです。

さて、早速今年一発目の長文。
記念すべき第150回の芥川賞・直木賞の発表が明日の16日に迫っています。
そこで、今回も候補作を前読みしちゃって受賞作を予想しよう的なやつです。
もうここ5年ぐらいやってますが、受賞作が決まるのが半年に1回なのでまぁ毎回こんなひっそりとしてます。ただ、個人的にはここ4回全部受賞作当ててたりするので、読書の参考にでもしてもらえればうれしいなと思います。
ちなみに直木賞候補は今回も人気で借りれなかったので、いつものように大賞が決まった後にゆっくり読もうと思っていますゆえ、ここでは触れません。ご容赦ください。

早速、今回の候補作から。

いとうせいこう 「鼻に挟(はさ)み撃ち」(すばる12月号)

岩城けい  「さようなら、オレンジ」(太宰治賞2013)

小山田浩子  「穴」(新潮9月号)

松波太郎  「LIFE」(群像7月号)

山下澄人 「コルバトントリ」(文學界10月号)

こんな感じです。毎回下半期の候補は年明けてから出るのですが、今回からなのか候補が12月の終わりに発表されて、発表までに1カ月とやや間延びした感じを個人的には受けています。ただ発表までに時間があれば、それだけ候補を読んで自分でこのように予想とかも出来るし(特に直木賞は大作が多いですからね)出版界や本好きの方にとってはいい傾向なのかもしれません。

候補が出たときに、結論から言うと小山田浩子で決まりかなとか思ったのですが、読んでみると意外とそうでもなく、飛び抜けた印象の作品がなかった分、選評も難航するのではという感想を持っています。あと、すばるという集英社から出てる文芸誌を扱っている図書館が極めて少なく、結果として候補の1つであったいとう氏の作品を読めないというミスが起こってしまいました。万が一いとう氏の作品が取ることがあればこれは僕の完全な敗北ですが、いとう氏はないと思いたいです。ただ前回も候補に入って、なんか好意的に評価してる委員もいたんで、変な色とか150回記念という事で話題性を持たせるために名の知られた人が取る可能性が往々にあり、これは僕が考える一番キツいシナリオですがとにかくそんな悲劇に少しびびってます。というか、今まですばるから候補になった時にどうやって読んでいたのか思い出せないほうがもっと怖いのかもしれないとそう思ったりもします。(近所の図書館が扱いを止めた線が一番有力かと思われます)

4作まとめて紹介します。

まずは、受賞作の筆頭と思われた小山田浩子の『穴』から。
舞台はとある県(都市から少し離れた)。その県の都市部からさらに田舎にある夫の両親の家の隣に建つ借家に引っ越して来た主人公の「私」とその周辺の人たちについての物語です。物語は私の一人称で進むとてもシンプルな形をとります。
また、登場人物も夫の両親と祖父、隣人の世羅さん一家、後にキーパーソンとなる結婚当初から「私」に存在が隠されたいた夫の兄と、これまた鍵となる謎の怪物といったような、少し奇妙ではありますが、無駄のなさが際立ちます。
物語は引っ越しを機に専業主婦となった私が、引っ越し後のルーティーンともいうべき、義理の家の人や近所とのうわべ的な関係作りだとか、スーパーやコンビニなどの地理を把握するために家の周りを歩き回ったりすることを中心に進んでいきます。
ある日家の近くを歩いていると、前述した謎の怪獣(形は犬とか狸のような四足歩行の動物)と出くわし、後を追って行った私は、「穴」にはまってしまいます。(説明のままで、落ちるというほどの深さのない、抜け出すのに少し苦労する人ひとりがすっぽりと直立の状態で入れるくらいの穴)
さらに別の日にも同じ怪獣と出くわし、後を追っていくと、夫の兄という紹介された覚えのない人物に出会ったりという形で続いていきます。
この作品の凄いところは、肉眼では把握できないような細かい部分を、ある種の美しさを備えたまま記述する作者の丁寧な筆力だと思います。匂いとか景色を想起させるとかの類とは少し違った、単純に言葉でイメージを操作する上手さが目立ちます。例えば庭に広がるバジルを見て「齧ると歯まで緑に染まりそうで、とても食べれそうになかった」など。こういった彼女独特の文体で物語に安定感と多少の抑揚がつくのですが、ただストーリーがあまりにも面白くない。作中にも、穴の中から子供が湧いて出てきてみたいな記述があり、結局「穴」というのは、子孫を残す家庭というような何か大きな集団にアクセスするための入り口であり、その中へ誘うのが謎の怪物の役割で、言わば否定的に描かれる現代版不思議の国のアリスみたいなものだと解釈出来ます。
最後は(その穴に入ってしまったあとの)「私」が血の繋がっていない義祖母と義母が似てるという思いを抱いて不思議に感じていたのだけれども、そんな私も義母にどこか似ているとはっと思う瞬間で終わります。この運命めいた逃れられない血ではなく地の繋がりを、そのサイクルからドロップアウトすることを選んだ夫の兄(兄にはこの穴の正体が判っている)を使うことで奇妙に写し出すというような構造に見てとれます。
小山田さんはデビュー作が多くの文学者に喝采を浴びて、次書けば恐らく芥川賞取れるだろうと約束されたぐらいの騒がれようだったのですが(俗にいう朝吹真理子方式)、今回の作品ではさすがにちょっと弱いかなと思います。ここ取ってしまうのは小山田さんにとっていいのか、そこら辺を考えるともう少し苦しんで書いた作品を読んでみたいなと思います。ということで△ぐらいかな。

次は、岩城けいの『さようなら、オレンジ』。太宰賞を受賞したすでに単行本にもなってる本です。
物語の構造は、アフリカ出身のサリマという女性が移民として移住してきたオーストラリアで仕事をし英語を学びながら生きていくという三人称からなる部分と、Sという日本人女性がジョーンズ先生という大学時代の恩師に宛てた書簡を入れ子にした形になっています。この二つのパートが最後に書簡のパートで終わるのですが、そこのラストを読んでようやく二つのパートの本当の意味での繋がりが分かるような形になっています。(途中色々と明かされていくのですが、最後の最後を読まないと決して全てが繋がらないような技巧的な作品であります、ただここでは明かしません。)
タイトルのオレンジというのは、作中にも何度か登場する太陽のことであり、タイトルの英訳も装丁では「goodbye my orange」となっていて、myというところがまた面白かったりします。
単純な太陽というところではなく希望とか子供とかそういった可能性を内包するオレンジの目に見えない姿が印象に残ります。
個人的にはこの本のテーマは「再生」であると考えました。慣れない異国で母国語以外で生きていく人々の苦悩だったり、異国の言語で表現することの意味、そしてそれを踏まえた本当の意味での母国語への気づきなどを切実に描いている作品だと思います。そこには勿論満たされない思いであったり、成し遂げられない障壁となる存在のことであったりも描かれているのですが、それを含めて「再生」つまり太陽が毎日昇るという希望が、女性の生きる力強さ(この地で生きるという決意)とともに克明に記されていました。
三人称の部分でサリマを中心とした職場や英会話スクールの仲間の一筋縄ではいかない人生と、それを最後の書簡で見事なまでのにオレンジに染め上げて肯定する技巧的な仕掛けの部分には、月並みですが驚くと同時に心が温まりました。
それほど長くないので、海外渡航の経験があったり、異国の文化に興味がある女性は是非読んで欲しいなと思います。文字通りすごくいい本です。
ただ、芥川賞的にはあまり向いていないというか、委員の一人小川洋子がこの本の帯でべた褒めしてたんで、そういう優しい物語を書く女性作家とか、宮本輝とかも案外靡きそうですが、最近のシビアな委員の顔ぶれをみると、芥川賞の系統的に受賞する可能性はさほど高くはないのではと思います。ということでこれまた△で。
ただ、今回の候補の中ではダントツに皆さんに読んでほしいなと思う作品ではありますのでそこら辺は念押しさせてもらいます。

次は、山下澄人の『コルバトントリ』。コルバトントリの意味はググっても損はないかと思います。
最近ではほぼ2回に1回はノミネートされ、今や哀しいかな、かませ犬的な候補作製造機になってしまったのかと思わせるほどです。
登場人物の間をカメラ的な視点を持ったまま魂が憑依したり、時空を超えたり、オオカミ目線になったり、シャチ目線になったりと毎回あまりにも読みにくくて驚かされますが、今回もいつもの山下節満載の作品となってます。ただ今回は改行なく時制が変わったり、さっきまで主人公だった人が店から入ってくるのを気づけば別の人の視点から見てるなんていう複雑すぎるつくりではなかったです。もちろん他人と自分の境界や時空の境界は見事なまでに溶け合って一緒くたにはなっていますが、辛うじてその仕切りは見えていて、恐らくそれは今作の中心となって描かれているのが「家族」だからではないかと思います。
ほかの候補は2回ずつ読みましたがこれだけは3回読みました。勿論家族の話だったので、家系図的なメモを取りながらです。
ストーリーを説明するのは無理に近いのですが簡単に説明すると、一人称の「ぼく」と、時空を飛び越えて僕の家族の過去未来ににアクセスする「ぼくの意識」によって物語は作られています。最後ちょっと複雑になるのですが、ぼくの意識は最後までどこか固有の人に憑依することはなく、同じ男の子が父であり僕であり僕の息子であったりというのはありましたが、意識自体は常に客観性を保っているというところに新しいというか今までなかった、物語を分かりやすくするための工夫のようなものを感じました。
家系図のメモを載せれば全体が分かりやすく示せると思うですが、なんかそれもかっこ悪いので、感想だけ書きます。
僕は正直今回初めて山下澄人を攻略した感じがあります。
書き手がここまで譲歩をすることで、読み手もなんとか頑張れば理解することができるというのは、円城塔が以前同じように前衛すぎる作品で候補になっては落ちを繰り返した結果、最後に少し妥協をしてナボコフとかを使ってひらけた物を書いた事で受賞に至った経緯と似ている気がしています。
今後山下氏の本を進んで読みたいとは思いませんし、もう候補になった時に毎回真剣に向き合うのも億劫だと思うので、今回は本当に個人的に凄く良かったと思うし、僕はこれに取ってほしいという意味を込めて◎を打ちたいと思います。一部で可能性としては上の2作よりさらに低いと言われているみたいですが、『コルバトントリ』単数受賞なら明日は新橋とかで酒飲みながらこれ朗読してニュース23とかに取り合げてもらえるように頑張ります。

さて、最後は松波太郎の『LIFE』です。
今回はリアリズム小説が候補に一作も挙がっていないという事が言われているらしく(いとう氏の作品はリアリズムではないという確認はしました)しかし、僕はこの作品は冒頭に演説シーンがあるのですが、これを完全に主人公の妄言と捉えれば立派なそして今回の作品の中で唯一のリアリズム小説だと思っています。
主人公は猫木豊という男で、その彼女「宝田」(たまに純文学の作品で苗字が宝田が採用されることがありますが、僕はその度その作家にシンパシーを感じざるを得ないのです)との自堕落な生活が三人称で綴られていきます。作品を支配している空気の一つが、この猫木という男のダメさ加減で、バイトもろくに続かず、家でⅬ4(テレ東の情報番組、もうここらへんで僕の胸はキュンキュン鳴ってました)見るのが日課と得意げになってるあたりに、終わってんな、いや始まってんな、みたいな、つまり言葉にできない底抜けの明るさとかを感じます。冒頭数ページで宝田の妊娠が発覚して、猫木はこれはそろそろ俺も動かないとと頑張る訳です。うまくいかなかったバイトも次第に慣れてきて(その間に時給とか求人誌と違うことで文句をたれたり雇用保険のことを理解できなかったりとありましたが)怒られなくなって嬉々とする猫木とは反面、宝田のおなかの赤ちゃんは思ったように体重が増えずに、その後障害がある事が発覚するという展開につながっていきます。
この物語を、ユートピア的な社会の切り取り方と解釈する方が今のところは自然なのでしょう。
しかし、僕はこの猫木の根っからの明るさというか不安や恐れを知らない部分が、これから僕らが作っていくべき「新しい社会」に起因していればと夢想したりしました。
例えば、両親ともに非正規であっても子供が2人とかきちんと育てられる社会を作っていく(ちょっと例としては過激ですけど)、つまり、破綻しかけているいつの時代のものかも分からないような黴臭い制度や法律を無理やり当て込んでバグりまくってる現代社会に希望なんてないので、その根本のシステム(OS)を書き換えた先の社会においての若者の物語であったならば、希望を抱けるなと思ったりもしました。そんなことを含めて、メッセージ性の強い作品だと思います。
順番前後しますが、作中特に衝撃的な部分の一つを紹介すると、産婦人科医からおなかの子供の染色体の異常の写真を見せられた猫木が
(・・・・バリ3になってる)
って言うわけです。多分その写真かなんかで見せられた染色体が携帯の電波のように見えたんだと思うのですが、その後、「息子はバリ3だし人の痛みがわかるやつになると思うな」って言い切ってるところで、さっき冒頭で書いた妄言の演説(猫木は自分をだらだら且ふらふらしてる王国の国王として演説を定期的に行っています。)を自分の生まれてくる息子に王国の「二代目」として託すようにして物語が綴じられます。ここらへんもなんか衝撃的でもあり且感慨深いものがあったりします。
すらすら読めるし内容も面白かったのですが、まぁ取ることはないと思います。
▲くらいですかね。

ということで、取りあえず明日には間に合った。いとう氏が受賞会見で寒い事言ったりすると、毎日毎日「今年一番の寒さです」なんて言われてるのにも拍車がかかり、僕は寒くて生きていけないので、ここは是非山下澄人の「こんばんは、舞城王太郎です」とか明るくいきたいものです。

http://live.nicovideo.jp/watch/lv162754934

明日ここで発表の瞬間と会見の模様が見れますので、Ⅼ4とか見てる人は是非のぞいてみてください。

【2013年】総括

今年も気付けば後数時間となり、今年しておこうと思ったこともほぼ出来たし、後は紅白を見ながら年明けを待つばかりとなりましたが、Facebookに今年を振り返ろうというメッセージがずっと出続けているので、それに乗っかって2013年をまとめておこうと思います。
今年も嬉しいことにたくさんの物語に触れて、豊かな経験をたくさんすることが出来ました。例えばそれを、今年のコンテンツトップ10のような形で紹介するのもいいかなと思うのですが、敢えて今回はランキング等を付けずに、雑文のような形でさらっていこうと思います。
これが僕の思い出の2013年です。
それに伴ってまず断っておきたいのが、今年は「音楽」と「映画」というジャンルに深くコミットすることが出来ず、その分野の話が極めて薄くなってしまうということです。音楽は僕の友人の最高の2013音楽評をそのまま流用させていただこうと思います。莫大な音楽というジャンルの大海でセンシティブな取捨選択をしてくれる人なので信頼を持ってここに載せさせてもらいます。
http://nakamegurofishingclub.tumblr.com/
併せて、2014年はもっと映画を観るとことと、恒例となっていた「フジロック」の復活を実現すると宣言しておきます。
さて、まずは何から触れようかとと思うのですが、やはり一番筆が乗り易いSKEのことからスタートしようと思います。読んでくれてる人の半分以上がここで脱落すると思うので、ここにこれから挙げていく主なコンテンツをあらかじめ書いておきましょう。本とかドラマとかラジオ、2013年個人的に面白いなと思えたことです。自分が興味ある部分だけ読んでみてください。
総評として、だから2013年はこうだったとか書くことはないあくまでも雑文なので。
今年のSKEは目に見えるような転換期で、春先に主力メンバーを含め13人が一気に卒業するという事もあって、その卒業したメンバーの自力で成り立っていたといってもいいAKBの他のグループと差異化が図られていた「SKE的なもの」が、その後ゆっくりと減退していくのを見ているようでした。他のグループよりもなぜか圧倒的にライブが少なく、彼女達もライブがしたいと常々言っていたの事もあり、今年は美浜での野外ライブをやり遂げ(彼女達の今年のベストアクトでした)ドームツアーがあり、来年になるのですがナゴヤドームでのライブも決まっているので、来年は彼女達の頑張りを一歩引いた形で見守っていきたいとなと思います。あと一つSKEに関しては、先述した春先の卒業とは別に11月にあるメンバーの卒業が決まった時に、そのメンバーが残した言葉は印象的でした。「卒業が決まった今でも、この2年間は楽しかったという実感がありません」文章で自分を表現することが上手だったメンバーであったので余計に気になった一言でした。説明の運び方からもSKEに在籍していた事に対するネガティブな思いではなく、自分が芸能という分野に不得手だったというニュアンスがこめられていたのは容易に想像できましたが、この言葉の持つ意味は「ファンは元来あるファンの位置に戻らないといけない」という事だったのかと思います。アイドルとは人間が演じている偶像であって、人間の持つ複雑性を極端に削ぎ落としている部分に商品としての価値は生まれるのですが、近年その複雑から単純への商品の変換を可視化するということを運営が売りにしていて、少なくとも僕はこの簡単な構造に騙されていたなと思う訳です。でもやっぱり、それは間違っていて、アイドルが持ち始めていたと思っていた身体性は実は全くの架空のものであって、結局ただ単にその生身を演出する技術の方がここ数年で格段に進歩したという事だけなんだと実感しました。そんな事を卒業する彼女はとても素直に氷柱のような言葉でもってそれをファンの心に突き付けて去っていきましたが、これは不器用な彼女なりの誤解の解き方だったのかなと思います。それをファンの僕らはきちんと心に留めておかなければいけないと思います。SKEの今年最後の舞台である紅白を皆で見てあげで下さい。(書いてたら終わっちゃいましたね。)
次は紅白つながりで、あまちゃんいきますか。
紅白でのリアスの一幕でのショートドラマ、マジでかっけーって思いました。あれを一番楽しそうに見てるクドカンに本気で惚れました。
あまちゃんは、間違いなく今年のテレビドラマの中でいやここ数年のテレビドラマでも圧倒的な存在感。あまちゃんについては切れ切れに色々なところに感想などを書いたり、個人的にクドカンのドラマを一気に見返したりしてましたが、まとめるなら、「あまちゃん」という作品自体が批評であり、これがおそらくクドカンの代表作になったということです。ただ、個人的に惜しいと部分もあり、あまちゃんは主に二つの関係する物語から作られていて(あきと春子、春子と夏、春子と鈴鹿ひろみ、そしてあきとゆい)最終回までに一つを除いてはすべて回収されたのですが、あきとゆいの関係だけが最後までぼやかされたままで終わり(2人の未来は希望であふれるだろう的エンディング)ここに、クドカンがずっと敢えて解らないとしてきたテーマの「アマチュアリズム」の回答が提出できなかったと思います。そこをクドカンは今後どうしていくかそんな事に期待を混めて書いておきます。
併せて、今年のナンバー1女優は有村架純でしょう。あの透明感に目を奪われた、同じ空間(3メートルぐらいの距離)にいれた奇跡は、個人的なビッグイベントとなりました。
と書いたのが20時ぐらいだったのですが、今ちょうど紅白でのあまちゃんスペシャルステージがあり、そこでようやく東京の舞台に立ったアキユイ(潮騒のメモリーズ)が編集無しで1曲のパフォーマンスを行い(半年間で1回もここまで長尺でやったことなかったです、故意にと思わせるくらいに)、これがクドカンなりのアマチュアだった2人があのトンネルの先の希望を信じて日本の頂点に立つというという最後の演出だったのかと思うと、つまり今日までがクドカンが作った「あまちゃん」だったという事に、その瞬間の紅白のステージの雰囲気も含めて(田舎に帰ろうまで)、物語(虚構)が多くの者の救済になったというあられもない証明がなされたと僕は思いました。身体が震え涙が出ます。悲しい事も多かったですが、僕は今日あのステージに救われました。
さて、気を取り直して次も紅白つながりで、今副音声で紅白の解説もしている、東進ハイスクールの講師・林修先生です。今年も新しく色々な作家の本や社会学者の話を聞きにいったり、テレビでもたくさんの人を知ることになりましたが、その中でも一番面白いと思えたのが林先生でした。「今でしょ」を「居間でしょ」と言って紅白でもさっきもひと笑い取りましたが、その「今でしょ」の一人歩きがもったいないと思えるくらい本当に魅力にあふれる方で、今年林先生が出した本もほぼ読ませてもらいましたし、テレビも林先生の出る(主にバラエティ以外のものですが)番組をたくさん見させてもらって、僕も林先生からいくつもの事を学び、実践させてもらっています。
紅白最後まで解説盛り上げてくれることでしょう。
次は「本」いきます。今年もたくさん本が読めて幸せでした。本といっても小説なんですが、今年の文学界は、村上春樹と大江健三郎の新刊に尽きると思います。他にも古川日出男の「南無~」や田中慎弥の「燃える家」など、かなりの分量を誇る大作が次々と上梓されましたが、個人的には、オムニバス形式の短編集に入ってる3本が印象に残ってます。川上未映子の『愛の夢とか』収録『お花畑自身』、舞城王太郎『キミトピア』収録『美味しいシャワーヘッド』、阿部和重『deluxe edition』収録『スクラップアンドデストロイ』。どれも単純に良かったとかではなく、この時代に生まれるべくして生まれた物語という印象を受けたという事になります。来年も本たくさん読めるかな。
次は「ダークツーリズム」について。今年の流行語にも選ばれたダークツーリズムですが、それに伴って古市くんの「誰も戦争を~」とか東さんの「福一観光地化」という本が出て、朝生で若手を含めての「戦争」テーマの回も夏にありましたし、今年は「戦争」とかについても少し考えてみたりする機会がありました。玉音放送も生まれてて始めて聞いたし、安倍ちゃんの靖国参拝で日本って本当に半世紀前まで、世界から何を仕出かすか解らない怪物(というより気違い)として恐れられいたのだという事も、参拝直後の隣国の反応とかで知ることが出来ました。僕が思う日本ってずっと平和ボケできるぐらいの安全で安心という印象だったので、かつて世界から恐れられていた日本というイメージを新たに持つことが出来たのも印象的です。改めて、誰も戦争を教えてくれなかった。と思います。
古市くんに関連してもですが、今年は若手言論人の活躍が著しい今年でした。千葉雅也『動きすぎてはいけない』、國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』、黒瀬陽平『情報社会の情念』など。それを含めて東浩紀主催のゲンロンカフェではトークイベントが頻繁に繰り広げられました。僕はそのどれにも行くことが出来なかったのですが、ニコ生とかで断片的にみたりしていても、僕が好きだったゼロ年代批評の復活を強く感じました。残念ながら東さんとは決別しましたが宇野さんもオールナイトニッポンのレギュラーを務めたり、荻上チキがTBSラジオの3時間帯でニュース番組持ったり、岡山でも活躍していたNHKアナウンサーの堀潤もNHKを勇退?後、活発に活動されているので、それを含め2014年も若手言論人には期待です。
あとはAKBの恋するフォーチュンクッキーに見る、「つながり」に固執する若者の時代という、指原莉乃論としての批評性にあふれたモンスターコンテンツであって、でもそれとは全く違う意味で消費されているということが実に面白いと思うところで、家のパソコンにはそれに関する文章が入っているのでここにそれを載せようとしたのですが、今実家でこれを書いているので、ちょっと一からは書けないし、取り合えずここでそれに触れ「恋するフォーチュンクッキー」も今年のベストコンテンツの立派な一つだったとしておきます。
そして今優子が卒業を発表しました。優子の笑顔ずっと忘れません。あのひまわりのような笑顔に流れた一筋の涙は彼女の存在の証明です。優子ありがとう。
なんか楽しく紅白見ながら書いてるのでぼろぼろですが、紅白がそれだけ面白いということでいいかなと思ってます。まさか、ガキ使なんてみてないよね?泉谷のおやじ最高だね。彼女と初めてカラオケに行ったとき泉谷の「春夏秋冬」(さっき紅白で歌った曲)を歌われた時の衝撃は凄かったけど、それでも、泉谷は常に弱者を見てる。弱者もみられてるんだ。
最後ですが、今日朝に急な訃報が舞い込んできました。
「大滝詠一・急死」
目を疑いました。本当にずっと好きだった大滝さん。僕だけじゃなく、僕の大学の友達もツイッターで触れていました。僕らの大学時代をおかしくしてくれた大滝さん。一緒に仕事してた教授も細野さんも幸宏さんも佐野さんも大貫さんも達郎さんもっといっぱい皆大好きだけど、僕は大滝さんに一番共感できたな。この時代に「働かない事がクリエーティブ」といった、ゆったりとした呼吸の持ち主です。長い休みが大好きだった、大滝さん。僕はずっと大滝さんの音楽を忘れません。
最後少し暗い話題になりましたが、今年もあと少し。
みなさん、良いお年を。また、来年またお会いしましょう。

Don’t Look Back, That’s Not Where You’re Going (EP)/Inga Copeland

無名性を弄ぶインターネットの権化もようなHype Willamsの二人。

ロシア語で突然新曲上げたり、インターネットのゴミ山にあえて隠れようとするおかしな姿勢。

去年ライブを見たんだけど、そこにいるのかいないのかわからない位スモークが焚かれてて、流れる音も現代版クラウトロックみたいな感じ。

好きに決まってる。

Eccentric Soul/VA

Numeroから定期的に出るソウルコンピシリーズ。

良質ポップスの寄せ集めで悪いわけがない。

今年はこういう単純な曲の良さ、イノセントな響きを求めてる時が多かったきがするな。

Feel Good/The Internet

予想より抜群に良かった。

今年出たOFWGKTA一派のなかでは最優秀。

家に人が来た時でもおしゃれっぽい感じで使えるし、まともに一人聴きしても良くできてるなと思う一枚。

Nepenthe/Julianna Barwick

前作でブレイクしたジュリアンナバーウィックの新作。

手法は大きく変わってないし、曖昧なぼやっとした音楽なんだけど上手く自分が音に入り込めたときは最高に気持ちがいい。

ウイスキー2杯飲んでから、な音楽。

Acid Rap/ CHANCE THE RAPPER

ヒップホップとかちゃんと聴けちゃうようになりました。

っていうのがここ数年の成長。

正直フリー音源に良作多すぎて回収しきれない部分はあるのだけど、これは好んでよく聴いてた。

四の五の小難しいこと言わずにさあ、ココバターキッスィズ

Anxiety/AUTRE NE VEUT

主に仕事中だけど今年一番聴いた気がする。

初めはどこかトゥーマッチな感じがして気持ちが悪いと思ってたけど、気持ち悪さと気持ちよさのギリギリのバランスに気づいてからはハマった。

Settle/Disclosure

流行りに流行った1枚。

賛否両論ある作品だけど、これを否定するような通ぶった人間にはなりたくないなと思った。

何も考えず、上っ面で楽しく踊りましょう。

イオンモール幕張新都心

オープンしたばかりの「イオンモール幕張新都心」が気になり過ぎてる。
こことそう離れていない「あの場所」が夢の国なら、このショッピングモールは未来の国ではなかろうか。
今や都市論のメインテーマとして取り扱われるショッピングモール。
少し脱線になるけど、今年の夏にお台場に行く機会があって、その時にしたツイートが残ってたので、以下より。

最近では豊洲でBBQってのが都会っ子の夏の嗜みの一つになっているらしく、その奇行を横目に今までは特に気に止めなかったゆりかもめの東京を越えパラレルワールドへ誘う感覚を体験した。特筆すべきは、台場の雰囲気。海を越えて辿り着くというのはまさに比喩ではなく、どこか生活圏を越えた異質なものが蔓延してる場所に降り立つことになる。似た例を挙げればディズニーリゾートだけど、あそこはディズニーのような正の感覚ではなく、寧ろ負の要素がほとんどだった。そこに聳え立つは、あの歪なつくり(球体だけではなく建物の細部においても非常に異質)のフジテレビ社屋。悪の要塞とまではいかないけど、凄くダークなイメージを放出してるように思える。その負のイメージは恐らく呼吸が困難になった現状のフジテレビの状況をそのまま反映してるのだろう。かつて夢の国2.0を目指し意気揚々とこの埋立地に乗り込んだマスメディアの雄。その枯れかけてほろほろと剥がれ落ちる遺構のような建造物と、その一体を支配している哀愁には驚かざるを得ない。夜の台場から見る汐留側が綺麗に見えたのは、ここではもう何も生まれないという暗喩だったのかもしれない。

我ながら意味不明ですが、あの異質なお台場の雰囲気を肌で感じて、都市と生活と消費などの面白さが見えた気がしました。今やシリーズ化されている東浩紀編集の『思想地図』という雑誌の創刊号も特集がショッピングパターンだったなと思い、お台場から帰ってきて早速読み返してみたけど、台場には殆ど触れていなくてがっかりでした。
程なくして、この思想地図の記事に加筆修正された速水健朗の『都市と消費とディズニーの夢』で語られたいたのは主にショッピングモーライゼーションでした。新しい時代の消費のカタチはパターンにはめ込まれているという衝撃を受け、でもそれが時代の流れに整合しているというのは説得力があって、ショッピングモール凄いと思ったんですね。(ここで書かれていたのは主にアメリカなどの海外ショッピングモールが下敷きになっていました)勿論、これ読む前からショッピングモールは個人的に好きで、今秋行った越谷レイクタウンのイオンモールなんて胸が踊って仕方なかったです。その時のツイートもついでに載せてみます。

越谷レイクタウンのイオンモールのデカさに唖然としてる。駅直結の施設の入り口のような通路通って入っていくんだけど、そこからはセクションが円をなすように幾つか作られていて、全体としてひとつの街のようになっている。施設のすべてを歩いて回っても(ウィンドウショッピングとかなしで)多分軽く1時間は掛かる。そこを恐らくは地元の人たちが生活の基盤として利用してて、人々の動きというか流れが手に取るように可視化されてて面白かった。みんな酸素を求める火のように活気があるところに吸い寄せられていく。僕もここから徒歩圏に住んでたら電車で都心に出るよりここで満足するのだろう。これが新しい郊外の街の姿、恐らく今後はもっとコンパクトに且つ人の流れを統制できるような商業施設が増えるんだろうなと思った。ショッピングモール恐るべし。

改めて、ショッピングモールって魅力的だなと思います。
祭りの縁日が続く道の刹那的な空間とかも演出されてるし、何せあそこで物語の全てが完結してる。外的要因が入る余地がないというか。
津山に帰ったら時に友達とかが「津山は行く場所がない」とかいつも言うので、僕が「イオン行こう!」て提案し何度冷笑されたことか。んもう、まったく夢が見えない人たち。
「イオンモール幕張新都心」の魅力が少しでも伝わればとか思って適当に書いてみたのですが、要は行きた過ぎるんです。誰か行きませんか?分析怖いとか思われるでしょうが、僕はニコニコしながら、ただだらだらと楽しむことができるのではと予感してます。
カップル的にも今超寒いし、ディズニー無理じゃねってなったらイクスピアリもいいですが、新しい消費のカタチ、ショッピングモーライゼーションの時代を幕張で感じるのも手かもしれないですよ。
この上の雑文まとめて小ネタとしてあなたの恋人を驚かせてやって下さいメリークリスマス!

映画『風立ちぬ』

昨日ようやく観てきました。風立ちぬ。
今回は変な事は言いません。だから、少し長いですけど最後まで読んで欲しいです。

あらすじを書く必要はないし、僕がここで色々と話をしなくても、あんなに日本中でヒットしてる事を考えれば、是非観て下さいという言葉も不要。
もちろん、共感を誘うような事も書きませんし、この作品に込められた普遍的なメッセージとかそんな陳腐な話なんて軽く超越する作品です。
では、僕は何を書けるか。
それは、この映画を観て僕が思った個人的な事のみです。僕はこの映画を観るにあたって、堀辰雄を再読したり江藤淳や大塚英志を読みました。でも、これはそれを踏まえてではなく、純粋に自分の感想を書かねばと思いました。書く必要はない、考えれば十分なのかもしれません。それがきちんと出来れば、この映画を観た価値があったと思えるのでしょう。
では、僕が何を書く事を選んだのか。
具体的な「作品のあらすじ」や、「感想」、「宮崎駿」という人間がこれまで作り上げて来たジブリというアニメーションに込めたメッセージ、もっと言えば、彼の長年にわたって抱える「イデオロギー」について、人が書いた物を紹介したいと思います。それが、ポップカルチャーが社会を動かしていると信じて止まない僕の選択です。
今月のダ・ヴィンチに掲載されている宇野常寛の見開き2ページの風立ちぬ評を読んで下さい。
間違いなく傑作です。宇野常寛なんか知らないという人が殆どでしょう。調べないでください。胡散臭い人間であることは間違いないです。しかし、今回は何も考えずに今月のダ・ヴィンチの188頁を開いて下さい。この批評は宇野常寛が書いた文章の中でも傑作だと確信していますし、風立ちぬ評としてたくさんの評論家や専門家の方が文章を書かれ、ラジオなどでも多くの方が語っていますが、僕が拾えた出来る限りの風立ちぬ評の中でも群を抜いて優れていたと断言できます。そして、風立ちぬを観たなら、是非あの批評は読むべきだと思います。
コンビニでも売っている雑誌です。立ち読みで15分もあれば読めるでしょう。
それが、あなたと風立ちぬの出会いをより豊かなものへと昇華してくれると思います。

ps.この予告編の4分は本編とは全く別の顔をしています。
まだ観ていない人はそこに注目してもいいでしょう。
最後のシーン、菜穂子のミディアムの黒髪ストレート(この髪型がみれるのはこのシーンだけ)が瀧本美織の声をまといながらなびいている夜の場面を除いて。

芥川賞候補の個人的な選評

今季の芥川賞候補の個人的な選評です。
興味ない人しかいないと思いますが、無視して下さい。

総論からいくと、やはり直木賞の候補作が粒ぞろいな分、芥川賞は候補作の時点でやや引けを取ってるように感じざるを得ないです。
純文学の価値とは何かという事を考えたときに、考えさせる、結論を委ねる、とういう長所があると思います。選択される事の決して多くない純文学の逆襲、それを感じられる作品が自ずと魅力のあるものとして選ばれるのだろうと今回は特に感じています。
候補の5作品はいとうせいこう『想像ラジオ』を除き、全て怒らく原稿用紙100枚以内だったと思います。癖のある作品も多くなかったので5作品は3日ぐらいで読み終わってしまったのですが、最近の忙しさと、なぜか忙しい合間をぬって指原莉乃論を5000字ぐらい書いてしまうという馬鹿馬鹿しい事態に見舞われて、発表が明日に迫った今こうやって急ぎ足で書いています。
読んだ順に書いていきます。

 

1、戌井昭人『すっぽん心中』
三人称小説です。舞台は東京。あらすじは、主人公の田野という人が、追突事故を起こされ首に怪我を負って、運送の仕事が出来ずにリハビリをしてる中、モモという女の子に出会ってから、スッポンを霞ヶ浦に取りに行って、それを都内の料亭に売って金を稼ごうという話です。
今回の作品はシンプル過ぎるのではないかというくらい途中のある場面を除いて静かに物語が進んでいって、最後にふと少し前の事(物語冒頭)を思い直して終わるという、ある種イジりどころがないというか、評価のしようがないというか、そんな小説でした。
戌井さんももう数回候補になっていますが、前回の『ひっ』という作品が完成度がとても高かった故、それで落ちたんなら今回のこれで受賞ということはまず考えられないと思います。
文学の形式としてはとても優れていると思います。
あと一つ感じたのは、金持ち程ケチという事です。貧乏人の方が割りかし躊躇なくお金使ったりするんじゃないかなという事が書かれていました。

 

2、鶴川健吉『すなまわり』
この作者は2010年に文學界新人賞を受賞して以来の二作目という事です。
今回は、一人称「自分」の相撲の行司としての日々が描かれています。自身の経験を基に書いたものだけあって、とてもリアルで相撲という僕らの世代には馴染みのない文化を知る上ではとても面白かったです。具体的には、行司も相撲部屋に所属するとか、行司は給料がいいとか、力士の世界と同じく行司の世界も上下関係が厳しいとか。多分この主人公の「自分」は18歳ぐらいなんだけど、割と将来の事とかを考えてるような描写もあって、僕らが普段接することのない世界の案内人のようで、とても落ち着いているという印象を受けました。
ただ、いかんせんテンポが一定で、主人公の説明語りのような部分が大半を占め、ドキュメンタリー(ノンフィクション)としての要素が強すぎている分、これが創作と呼べるのかというあたりに疑問を感じました。まぁ、これが取れたら純文学も廃れたと言われても仕方ないでしょう。

 

3、藤野可織『爪と目』
この作品は、三作品目にしてやっと読み終わった後に「素晴らしいなと」(確か最後は駅から歩いて帰ってる途中だったと思いますが)声がでました。恐らくこの小説が僕の好きなタイプだったという事です。とても技巧的な作品で、読んでいて節々が今でも印象に残っています。
紛れもない人称小説です。冒頭の一文が、
始めてあなたと関係を持った日、帰りになって父は「君とは結婚できない」と言った。
と始まり、そこから「あなたの母親」や「わたしの母親」という代名詞がわざと読みにくいように置かれていて、僕は二人称小説だと思うのですが、二人称小説って語り手が凄く離れた、今勝手に言葉作りますが「神視点」から書かれたものだと認識してるんです。で、今回その視点を司ってる「わたし」というのが、物語中は三歳の女の子なんです。もっと説明すると、三歳の頃のわたしを含めた当時の環境というか一連の事件を、きちんと世の中が把握できる年齢にになった「わたし」が三歳の自分を「わたし」と表現しながら書いているという事です。
この人称の違和感だけでも最後まで不快というか、気持ち悪い世界が演出できているのですが、この「わたし」と「あなた」と「わたし」の前に「あなた」が現れた時ぐらいにに死んだ「わたしの母」との、身体の乗っ取り合いせめぎ合いという事が書かれている一番大きなテーマではないかと思います。おかしいけど、有無を言わせない齟齬みたいなのが段々と他人を浸食していくような、そこには拒否権が無いという理不尽さを描ききる部分を含めて、僕には魅力的でした。クライマックスで爪と目が重なり「わたし」と「あなた」はだいたい、おなじ。なんて締めくくられてて、なんで「わたし」はそう簡単に「あなた」のようになれてしまったのか、「わたし」の不気味さがとても印象的です。これは、普通の人じゃ書けないと思います。

 

4、山下澄人『砂漠ダンス』
逆に僕が一番読みにくかったのがこの作品です。一人称の私の旅の話。
山下さんの本は候補になる度に読んだり、割と評判良くて他の有名な文学賞とかも受賞歴があるのですが、僕は一生この作家の本を心から面白いとは思えないと思います。
この人の本はとても難しくて、何が難しいかって、整理を全然しないんです。無茶苦茶計算して書いてるのに整理がされて無いから、何がなんだが判らない。『ギッちょん』の時もそうでしたが、文章が地続きなのに時空越えてたり、場所が変わってたり、誰かの身体に侵入してたり。今回のこの作品を受けて豊崎由美が内田百間に一番近いって言ってたけど、その時にそういう風に読むのかと思ったくらい読み方が判らなかったです。あらすじを書くと、頭おかしいと思われるから書きませんが、とにかく色々なところに憑依したりワープしたりで、しかもその記憶とかまで共有出来てるから、ややこしさに拍車が掛かって大変です。
僕がこの本を読んで何となく考えたのは、例えばある人(自分の向かい側に座っていた)が自分に向けて熱心に話をしている。その時に自分は「ふーん」と話半分に聞いていたんだけど、後に(数年後とか)ふと、あの時、あの人が(正直だれだったか覚えてないけど)熱心に自分に話してくれたことがあったなと思い返し、その内容が意外と鮮明に思い出されというか覚えていて、それが今の自分にとって意外と有益な情報となっていて、だったら、数年前にあの人(結局だれだったかはまだ思い出せないけど)があんなに熱心に話してくれたんだし、自分が今抱えているの重要な選択を委ねてみよう、みたいなそんな事です。
この物語には何の関係もありませんが。
取る可能性はあると思いますが、僕なら絶対推さないです。

 

5、いとうせいこう『想像ラジオ』
いとうさんの小説って読むの始めてだったんだけど、僕は思った以上には拒否反応も出なかったし、長さの割にとても読みやすかったです。
震災がテーマです。1~5章までが入れ子のように作られてて、1・3・5章では津波で無くなったDJアークという主人公が想像を駆使してラジオをしているという章で、2・4章は災害ボランティアに参加している私とそのボランティア仲間など周辺の人々の話という構成。
DJアークの行う想像ラジオは、アークと同じ死者が聞けるような設定になっていて、死者からメールが来たり電話をつないだりと、内容はラジオの作りそのもので、これ原稿に一字一句違わずにラジオやっても十分に成立するぐらいそのやりとりはリアルです。ただ、みんな被災者で死者だから、そこに巻き起こるファンタジーでエモーショナルな部分というのがふと浮き上がったりして、そのギャップというかはっとするような感覚はあります。
2章4章は逆に生きた人間がから死者へのアプローチというか、悼み方を見直すという事が書かれていて、ここがとても感動的なんだけど、全部いとうさんが説明しちゃうから感動が半減しちゃってるのではと僕は思います。でも、そのあまりにも直接的な「弔うにおいて」みたいな文章は、読者の心には真っ直ぐに届くとは思います。
生き残った人間はどこかで加害者だとか。いつからこの国は死者の声に耳を傾けなくなったとか、死者を抱きしめられなくなったとか。死者の恨みを聞き取れないのが恐怖なのではないかとか。語り口柔らかくそんな事が書かれてるんで、感動するっちゃするんだけど、説明してもらってるから、こっちに何かする隙間がないというか、全部をそれこそラジオのように仕切ってお届けされちゃった感は否めないです。
でも、震災後のボランティアの考え方とかは誰しも考えた事だろうし、ファンタジーを纏いながらも、とても実践的な死者の悼み方が書かれていると思います。「優しい死者との向き合い方」という話そのものです。僕は取らないと思いますが、可能性は無きにしもあらずです。

よし間に合った。
まとめ。
◎『爪と目』
△『想像ラジオ』
今回の僕の願望はこんな感じです。
明日発表です。
因みに直木賞は、恩田陸に取って貰いたい!

惜日のアリスとはあの子のことだって、今でも、そう思う。

坂上秋成『惜日のアリス』読み終わりました。
僕はこの本を、読むまでの期待感で言えば今年一番なんじゃないかという事を色々なところで言っていました。
ただ、読み終わった直後には、とっておきの感想が浮かんだり、これについてもっと自分なりの解釈を付けようなんていう気はあまり起こらず、でも、期待はずれに落胆したということもなく、終わったあとも長く物語の世界に居させてくれるんだなとぼんやり考えていました。

僕は小説の感想を書くにあたっては、よくプロットとかロジカルな構図を洗い出し、それが今に書かれた事にどの様な作用となるかという事を一番に考えます。
もっと簡単に言えば、構図や文体、主人公の心的描写や風景描写から感じる色彩や音量や
匂い。そんな部分に作家の特徴は顕著に現れるので、そこを端緒に自分が思ったことをくっつけていくようなやり方をしています。
もちろんこの作品も、特徴としてジェンダーについてだったり、各章の分量(物語の区切り方)だったり、会話の中の春樹のような文体だったり、読んでいればすんなりと感じれる異変というのを幾つか上げるのは容易だと思います。そしてそれを切り口に上手く流れを作って、物語の終わりで展開される綺麗で淡い世界へという情景へ繋げていくというのは僕が今まで感想を書いて来た書き方であり、完結に端的に物語のエッセンスをそれなりの模倣品として取り出し、文章でそれをうけた物語を綴るというのは可能だと思います。

しかし、今回はそんな書き方を一切無視して、あんまり好きではない荒唐無稽になりかねないような、そんなこの物語を受けた自身の追体験について書きたくなりました。恐らく、坂上秋成という作家の人間の面白さなど、他の作家より少しよく知っている分良い意味を込めて色眼鏡で見れているというのが大きいと思います。

この物語は、恐らく、もう戻れない時の、でも、決して忘れる事の出来ない人、について書かれたものだと仮定しました。24時間で考えると1秒も考える事のない人。でも、1ヶ月・3ヶ月・半年・1年というように時を引き伸ばしてみると、もしかしたら、どこかのタイミングで考えている事があるような人の。そんな人は誰にもいないかもしれないですが、全ての人にいるようにも思えます。そんな記憶の中で生きる、その人の事を「最後」に想うことを赦してくれた物語です。

ただひたすらに、センチメンタルである事に間違いはありませんが、そこには強いリビドーが存在している(それを無碍にしていたら取り返せない時間が経った)事をきちんと指摘してくれる物語だと思います。哀しい物語ではありますが、誰の記憶にも寄り添うことを可能にする物語でもあるはずです。現在は現在と言葉に出した瞬間に過去になるという表現が文中に使われていますが、そんな過去と今を必死で繋ぐ、誤った形でも不格好でも繋ぐ、切れてしまったままで終わらないチャンスを、そして最後に想えるチャンスを抱かせてくれる物語です。
あの時見た景色、あの時聞こえた音たち、あの時の距離、あの時の約束を、あの時のその総てを。それを今だと、手遅れになる前に思い返せと。そうすれば、その人はは24時間で1秒以上考える人となります。その夜があったという証明のためだけの物語。

美しい月の出る夜のひと時を切り取った、けれども最後のラヴレターだと思います。

【2013年】AKB総選挙予想

AKB選挙が本日となりました。
CX系で6時半~11時というゴールデンぶち抜いて(中断N)

「アボガドじゃね~し!アボカドだし!」

という実に仕様もないことを日本中に発信する訳です。
如何にして多くの人を不快にさせるか。
無関心層の取り込みということで言えば、去年にも増して、様々な手法が取られています。
僕個人としては、行く気なかったんですが、速報を受けて、一般応募しましたが落ちました。
日産でライブやる初の女性アーティストが48G。7万人だからね。世の中も平和です。

会社の部署の有志30人ぐらいで、選抜までの順位の賭け事みたいなのをしている手前、真面目に順位を予想したので、載せます。

1位、大島優子
2位、渡辺麻友
3位、指原莉乃
4位、柏木由紀
5位、松井珠理奈
6位、篠田麻里子
7位、高橋みなみ
8位、松井玲奈
9位、小嶋陽菜
10位、板野友美
11位、宮澤佐江
12位、横山由依
13位、島崎遥香
14位、山本彩
15位、渡辺美優紀
16位、高城亜樹

去年は特に松井玲奈に入れ込んでいたので10位で玲奈が呼ばれて僕の選挙は終わりましたが、
今年は特にそんな事もなく最後まで楽しく見れそうです。
15位までは順位別としてほぼ確定ですが、選抜最後の椅子を誰が勝ち取るのかってのは凄く難しいです。15位と16位に凄い票差が出ると思います。
SKEからもう一人、可能性としては十分です。ゆりあか須田に是非とも。
因みに、少ないながら僕は持ち票を全部木本花音に入れました。
好きとかじゃなくて、SKEのためにみたいな意味わからん拗らせ方です。
良い週末を。

「変わらないこと。ずっと仲間なこと。」(上)

4月13日、14日にSKE48の春コンが行われました。
今年で2回目の日本ガイシホールでのコンサート。
去年は外れてしまったのですが、今年はなんと13日に運良く参加出来ました。

今年のコンサートは去年のそれとは違う意味を持っていました。
今春でSKE48から10人のメンバーが卒業し、そのメンバーにとっての最後のコンサートが
今回のコンサートになります。
去年は珠理奈というSKEの看板娘が倒れて、珠理奈無しでコンサートをするという
非常に厳しい状況でのものでした。
そんな厳しい状況を救ったのは、直前に言われたピアノ演奏をやってのけた桑原みずきであり、
glory daysという難しい曲を2日で2ポジション完璧に踊った矢神久美でした。
僕はその時の強いSKEを今でもよく覚えています。
そんな桑原みずきも矢神久美も今回で卒業になります。
僕の中では今回のコンサートはこのメンバーたちによる
「変わらないこと。ずっと仲間なこと。」
がどう機能し、卒業する、そしてSKEに残るメンバーたちにとって忘れられない2日間に
なって欲しいと心から願っておりました。

突然ですが、
僕はこのコンサートの1か月程前にNHK総合とプレミアムで放送された
「震災から2年 明日へコンサート」で SKE48が披露した「仲間の歌」について文章を書きました。
まずは、以下それを引用します。

SKE48はこの春をもって10名のメンバーが卒業します。
常に選抜だった人気のメンバーも何人か辞める事が決まっています。
これはアイドルグループの話なので、どうしても人気の序列にも触れることになります。

http://v.youku.com/v_show/id_XNTI0NTQwNDA4.html

卒業というのは一種の通過儀礼であり、それは物語をあらゆる方向に導きます。
現実を含めて物語はその先が存在しますし、想像も可能ですが、アイドルの卒業は物語の終焉を意味します。
今回この歌に込められたメッセージの1つは、間違いなく10人の終わりの物語の始まりであって、
(つまりここから4月13日14日のコンサートへの終わりのカウントダウンが始まった事を意味し)
ここまで凝った演出をNHKが手がけたという事に僕は大いに驚きました。
SKE48(という物語)を知らない人にとってはただのアイドルソングにしか聞こえないと思いますが、
この212秒には恐らく各々のメンバーが描き上げてきた数年分の物語、
それを受けたグループとしての大きな物語を1つの終末へと動かすメッセージが込められています。
余り詳しく説明したくないんですが、75秒で珠理奈がソロで抜かれるまで、
引きの画を除いて、画面に映るのは全て卒業メンバーです。
通常なら、珠理奈・玲奈・ちゅり・北原・ゆりあ・くーみん
ぐらいから2ショット・3ショットで選抜16人が抜かれていくような撮られ方をする中で、
このつくりは極めて異質です。そこには語り尽くせぬ背景が佇んでいます。
しかし、この映像の中で僕が最も驚いたのが、
画面に映る、卒業を決めたそしてSKEに残るメンバーからその違和感を殆ど感じないという事です。
そこには紛れも無く「日常」が存在していました。
アイドルグループというのはメンバー誰もが物語としての主人公であり、
勿論、スクールカーストのような人気序列というのは否が応でも付き纏いますが、
それでも、自分にとって、誰かにとって、一人一人がセンターという絶対性を孕みます。
僕がSKE48の魅力に取り付かれたのは、
恐らくこのヒロインたちの永続的な「日常」のリアルな物語であって、
その物語の複数性、複雑性、物語の進捗具合の手触り、だったと思っています。
僕はこのような異常な形で世相を反映したコンテンツに今まで出会った事がありませんでした。
つまり、彼女たちの物語が現代の写し絵であって、誇張のように聞こえるでしょうが、
彼女たちの物語は「リアル」そのものなのです。
その物語の大幅な更新というのがこの歌には込められています。
彼女たちは「皆」満面の笑みで、斜め上を見あげ、太陽のように大きな声で、踊って、唄いました。
あたかもそれが永遠に長い物語の一日を切り取った、「日常」であるかのような顔をして。
しかし、そこには物語を追っている人にしか見えない違和感だったり、聞こえない声、
五感を揺さぶるような強い想いが詰まっていました。
一人一人が抱えていた形の違う想いが存在していました。
卒業は通過儀礼と言いましたが、決して「日常」ではありません。
卒業するメンバー、グループに残るメンバー、送る側と送られる側。
卒業の主役はもちろん送られる側です。
しかし、個人の物語を内包したSKE48という大きな物語は、送られる側を主役に出来ません。
卒業するメンバーで小さくても物語の終わりが出来てしまえば、それを包む大きな物語にも影響が生じるからです。
それは、必ずしも良い影響ばかりだとは断言できないものでしょう。
そのようなジレンマを抱えつつ、
卒業という感動的なグランドフィナーレ(卒業するメンバーの物語)
と、均衡を保ち「日常」(これからのSKE48の物語)を創ったメンバー。
つまり、この二つの物語が同じ質量で存在するのが、今日の「仲間の歌」なのです。
ここまで短い時間で色々な思いを詰め込み天頂を迎える物語は他に類をみません。
SKE48のメンバーが今まで獲得してきた地位を最大限に利用して
彼女たちなりに、また一つ物語を更新しました。運命に導かれるように。
彼女たちが夢見る先を勿論僕は知りません。
しかし、ここにそれは存在した。それが、

「変わらないこと。仲間なこと。」

に繋がっていくのだと、僕は信じています。
彼女たちは斜め上に視線をあげて、今日も頑張っていました。

こんな事を勢いで書いていた自分に驚きです。
そして、来る4月13日14日に彼女たちに待ち受けていた運命を僕はこの眼で目撃して来ました。
それはまた次回書きます。

大江 健三郎『芽むしり仔撃ち』を読む。

この作品を読み始める前に大島渚の『太陽の墓場』という映画を見て、ひどく感動したのだが、よくできてるが故に、一昔前の作品(これは映画に限った事ではないが)に纏う現代との齟齬を強く感じた事があった。

しかし、この作品は戦時という背景で物語を構成しているにも関わらず、それが現代においても通じるものを数多く内包していると感じる事ができる。それは大江健三郎という類稀なき才能を有する書き手のなせる技であり、その部分に終始衝撃を受け続けた。
ここまで丁寧に日本語を操り、丹念な描写で村を描し、少年たちの小さな心に宿る感情を描し、その悲壮なまでの結末を描す事は容易な事ではない。それは読者の五感を揺さぶり、完全に物語の中に読者を溶け混ませる事となろう。

久しぶりに本の強い力を感じた作品であった。

戌井 昭人『ぴんぞろ』を読む。

上半期の芥川賞候補作で唯一読んでいなかった作品なので、これが取ったらどうしようもないなと思っていたら、結局この回は受賞作無しに決着したので、自分的には何の責務も負ってないにも拘らず危難を逃れたつもりでいました。ただ、受賞作無しのなかでも本作は評価が高かったのでなんとなくその後も心残りで、単行本にもなっていた由縁、この前ふらっと図書館で借りてみました。

彼の本は今まで読んだ事がありませんでした。

出だしから言葉選びが丁寧で、舞台となる下町の浅草や場末の温泉郷の雰囲気をきちっと踏まえている文章が貫徹されていたので、作品の空気に馴染みやすく読み進めることができました。特に彼の文章が作り出す浅草の風景は田原町の駅を出たところから自分がそこを歩いているかのように音や匂いが伝わり、それが媚びる様でもなく妙に凝った違和感もなく、控え目ながらまさにそのままを味わっている雰囲気にさせてくれました。物語の展開としても余計な寄り道をせずスムーズに流れ結果として終いまで作品のつくる雰囲気を味わえるように出来ていたと思います。

とある劇作家がふとした事件に巻き込まれ、場末の温泉郷に住み込みでストリップの前座をやる事になり、そこでの人間関係を通じて自分を見つめるきっかけとなるというような物語の展開は文学作品としてはありふれ過ぎたと言ってもおかしくないものではありますが、一人称で的確に様々な物や場所心理を等身大で描写するこのオーソドックスな作品の成り立ちには、それ故の難しさがあるのですが、それがどっしりとした安定感になっていた部分には作者の腕を感じます。
主要な人物の一人、踊り子の祖母でオーナーのような存在のルリ婆さんという人が物語の終盤で亡くなりますが、それが物語に哀愁を帯びさせる以外の効果を発揮できていないのが少し残念かと思います。
あと、踊り子と一人称の俺の関係の接近もクライマックスにみられますが、これも書き手の戌井氏が劇団員という甲斐性から作った物語の浮き沈みの一つなのでしょうが、あまりうまく機能してるとは思えませんでした。

この作品を評価するとなると、どうしても過大に評価してしまいたくなる部分があり、もちろんそれも可能だと思うのですが、その場合は実物のつくる作品感との齟齬は止むを得ず、そのような事から票は伸びても芥川賞には届かない作品という結果になったと思います。

Price: Out of stock

今村 夏子『こちらあみ子』を読む。

小学校から中学の卒業までの「あみ子」というひとりの女の子について描かれた物語。

そのあまりに純心で無垢ゆえの「あみ子」の言動は、周りにいる両親や兄・クラスメイトを常に傷つけ、悲しみの底に落とし、挙句の果てに遠ざけてしまう結果になってしまうのです。それでもあみ子は構いません。
いつでも真っ直ぐに生きるあみ子の「こちらあみ子」という投げかけに、返答する声は果たしてあるのか。
デビュー作で太宰賞と三島賞をダブル受賞した異色の物語、必読です!

映画 「村上春樹『風の歌を聴け』」(1981年製作の映画)

村上春樹の処女作「風の歌を聴け」の実写化作品。

ストーリーとしては原作に沿って作られているけれど、部分的に映画オリジナルの場面も加えられている。

はっきり言って映画として前衛的で実験的な作風だから好き嫌いは大きく別れると思う。

原作に思い入れのある人は、配役、特にジェイと鼠に対して激しく不満を持つかもしれない。

けれど、それはかつて村上春樹と同窓生であった監督の、極めて現実的で、とてもリアルな描写なのだろう。

作品の完成度は決して低くない。

一見の価値ありというより、見返すと価値を再発見することが出来るタイプの良い作品だろう。

ちなみに小指のない女の子役の真行寺君枝は村上春樹の短編集「カンガルー日和」のタクシーに乗った吸血鬼で血の美味しそうな女優にその名をあげられていた一人である。