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オブジェクト

2017年11月11日

「デザインフェスタvol.46」を訪れる。

「デザインフェスタvol.46」を訪れる。
日本人はシステマティックな抽象化された理論的思考のようなものが不得手とされているけれど、ある種の手芸や工芸のような領域では強さを発揮するような感じがあった。

近年のあいだに、オブジェクトという現代思想の潮流が話題になったけれど、これはある種の汎神論的な日本的精神にも接近するところがある。
モノに何かがあるという感じかた。
そのようなモノへの愛着、モノとの関係というものがデザフェスにはあった。

日本人の世界観は西洋のような創造主が構築した世界ではなく、生きた世界がまずありそれら細部に精神が宿っているという考え方だ。
それが人とモノとの関係を可能にする。

デザフェスでは一方で工芸品・手芸品のような細部まで丁寧に作りこまれたものがあり、他方ではキャラクターやイラストが多く展示されていた。
キャラクターは、少女・動物・ロボット・奇怪なもの様々だ。

ある意味それらはなんらかのシンボルなのだろう。
不思議なのは僕らがキャラクターに愛着を持ち、ある場合には恋心さえ抱くということだ。
そして、そのような愛情が製作活動や収集へと人を駆り立てる。


日本人がやるべきは世阿弥的なあるいは東洋の武道や舞踊や茶道的な身体論を理論化して、またものづくりやキャラクター的な造形力を活かして、芸者ロボや電気羊をつくることなのかもしれない。

2017年9月19日

フランス人間国宝展を観る。- オブジェの魔力 –

上野の「フランス人間国宝展」を訪れた。

フランス人間国宝展 http://www.fr-treasures.jp/
プレスリリース http://www.fr-treasures.jp/image/press_release.pdf

僕は、はっきり言ってブルジョア的な世界観を嫌悪するし理解できない傾向がある。
けれど、文化の国,絶対王政の国,カトリック色の濃いヨーロッパの中心国としての彼らの作るオブジェはたしかに人を包み込むような美しさを持っていた。

流線による曲線のフォルム、流麗な趣き、光の反射とともに漂う神秘性。

入念に加工の施されたその表面の繊細な美しさは〈神〉による自然の創造を思わせる。
その技術は〈神〉の模倣だろうか。

そして、表に見せる美しさの裏に充満されたエロス。
芳醇に香る官能。
それこそが、人を支配する魔術か。

つい、忘れがちなのだけれど、オブジェが持つフェチズム。
人は、物に、エロスを感じてしまうという事実。

物神崇拝。
人〈理性〉は物から自由になることはできない。

2017年7月28日

2017-7月のメモランダム

7月1日

今日は高尾山で木の根を見つめながら、リゾームとツリーは別個なものとして対比されるべきものでなく不可分でそれらが総合されたところがネイチャーであると謎のインサイトを受けた。

7月2日

コカ・コーラが好きだ。
フタを開ける時の音の響き、香りや炭酸の刺激、夏の爽やかな海岸やクリスマスのホーム・パーティのイメージ、夏期講習の帰りに自販機で買って飲んだ記憶、スノーボードのゲレンデで飲んだ記憶。


僕は「生産」や「労働」よりは「消費」の方が好きだ。
そこにはマテリアル感、身体性、シンボル、物語性、記憶、文化的なもの、ライフスタイルとの一体感が総合されていると好ましい。

社会性(他者との関係)の中での、承認の獲得,アイデンティティの確立,あるいは上位ヒエラルキーへの指向を目的とした消費は好きではないし、そのための「表象の操作」や「シンボルの獲得」のための消費というのは難しい問題。

原則としては、人は快楽のために消費すべきと思うし、それは文化的かつ身体性に根ざしたものだといいというのが僕の個人的な偏見。

快楽=「何かがステキだ,楽しい,クールだ」と感じることであるとする。
他方、「何かがステキだ,楽しい,クールだ」という感じかた(観賞/観照)に対し、「自分もそうなりたい。自己と何かを同一視したい。」という欲求(自己実現)が芽生えてくるというのが厄介。


ユダヤ教,キリスト教,イスラム教の違いは、C言語,C++,Javaの言語の違いみたいなものなのではと考えていたのだが、アレゴリカルだった。

“ジャワ島は人口の9割がイスラム教”

“コンピュータ言語の Java は、ジャワ島のジャワコーヒーから名付けられたとされる。”

7月3日

『羊をめぐる冒険』の羊は、西洋哲学・現代思想の言葉でいえば「形而上学」そのものなのだろうという思いが、ふと湧いてきた。人に幻想を抱かせ操るもの。
だからあれは『言葉をめぐる旅』と名付けることもできる。

“完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね”

形而上学の果てともいえる「1960年代」近代の終焉に起こったのが若者たちの”知性の叛乱”だった。
それは形而上学=哲学=理性を、=現実たらしめるための進歩主義的革命だった。
しかし、「僕」はその中で彼らイデオローグたちの「言葉」の欺瞞に気づき、それとの闘争/闘争を開始する。

村上春樹と同世代、全共闘世代の小阪修平は言っている。
“同世代の一番優秀な奴は滅んだか、半ば廃人になった”
「羊抜け」だ。小阪修平もなかば離人症のようになったと言っている。

革命の終わりの時代、1970年代の雰囲気は想像がつく。
1970によど号ハイジャック事件、1971-1972には連合赤軍事件。
文化面では、1972『木枯らし紋次郎』、1973『氷の世界』、1974『傷だらけの天使』、1975『僕たちの失敗』、1976『いちご白書をもう一度』。

1977、イーグルスによる『ホテル・カルフォルニア』が歌われたら次の年、1978から『風の歌を聴け』は執筆が始まる。
それは、形而上学=羊が離れた年、1970年の物語だった。

7月6日

俺に理解できないのは、総じて「何かになりたい」ということのような気がしてきた。
何者かに憧れる時代。これは、書店の自己啓発書とビジネス本、SNSと写真投稿、ポエム化と関連しているのでは。
そして、それはロマン主義と全体主義に通底するものがあるのでは。

7月7日

『神とゴッドはどう違うのか』という本を読みはじめたのだが、これは本当に面白い。ユダヤ=キリスト=イスラームの一神教的理念と日本的多神教の世界観の差がわかる。
僕は以前、「絶対性/絶対観念」をずつと求めていたけど、あれはいわばゴッド=存在の基底のようなものだった。

この本では東洋的世界観と西洋的世界観=西洋的思考=ユダヤ・キリスト的一神教=西洋哲学史というものの差が描かれているのだけど、一神教的思想として三島由紀夫がフューチャーされているのが、さもありなん。

7月8日

『神とゴッドはどう違うのか』は20年前、1997年の出版なのだけど、三島由紀夫の検討の後に司馬遼太郎・堺屋太一・渡部昇一の批判的検討、中村天風・船井幸雄への批判的批判が続く。
考えてみれば、自己啓発(スピリチュアリズム)+ビジネスは長い流れとしてあるんだな。

「自己神格化欲求仮説」これは熱い。

7月13日

昔は夏になると、たまらなく、わくわくしたり切なくなったりしたものだけれど、あれは何だったのだろうか。今はもうなにも思わなくなってしまった。
青空、蝉の声、蜃気楼、夏祭り、花火、三矢サイダー、キンチョーの夏。

7月18日

『アヴァン・ポップ』は、15歳の俺,20歳の俺,30歳の僕がそれぞれ関心のあること/あったことがコラージュされてミックスされている感ある。

”つまりサイバーパンクとは、理性の時代のサドにはじまりボードレール、ランボー、ダダイストおよびシュルレアリスト詩人、バタイユ、アルトー、ジュネ、さらに時代を下ってビート作家、エルヴィス、フランス情況主義者、そしてセックス・ピストルズにいたるアーティストの系譜の末席につらなる一存在にほかならないのである。” 『アヴァン・ポップ』p.081

7月20日

僕はむかしから幻覚にすごい関心を持っていて、それは世界の認識とか在り方とすごい関わっているものだと思っている。
そういえば、看護師の姉から聞いたのだけれど、手術後の人には一般的にせん妄の傾向があるらしいという。そういう意味では、人間の意識というのはきわめて不安定で浮遊したものだ。

また、この意識の不安定さというのは本来ぼくらが世界とつながりを持つ上で忘れてはいけないものだと思っていて、この浮遊を捨てて理性(言語)による固定に偏るとある種の抑圧や理性の暴走につながるのではないかと考えている。

そういう意味では、この意識の浮遊というのは言語による既成概念の固着をなくした状態、エポケーに近いものなのかもしれない。
そして、その状態について、身体性に重心をおいて捉えればヨーガになどにつらなるものがあり、あえて言語的な方向に重心がかかれば詩的なものになるのだろう。

それは、ある意味でポスト・モダンが目指していたものによく似ているのだろう。

7月22日

なぜか、Disc Unionでルー・リードのカセット・テープ3本セットが1300円で売っていた。
『アヴァン・ポップ』にサイバー・パンクは、ルー・リードとバロウズの系譜にあると書いてあったから買った。

7月23日

多くの人がSNSやセルフィーあるいは承認の罠に嵌ってしまう時代状況が、最先端の象徴的トポス「GINZA SIX」に行ってみてわかった。たしかに満たされないんだ。そこに高揚感や美しさはあっても。

本がオブジェになるというのは、とても面白いと思う。状況として。

オブジェ化する「本」とフォトジェニックな空間の時代性について – Instagram,SNS,ライフスタイル –

7月24日

ラブホ女子会も結局は写真とオブジェだったんだな。ラブホというコンテクストから、オブジェをエクリチュールとして切り離す才能は素敵だと思う。

7月25日

過労死って「総括できなかったための敗北死」みたいで恐ろしいな。

「全共闘,三島事件,連合赤軍,オウム事件」を考えるというのは、やはり日本の思想・批評のあり方のひとつなんだろう。それは、ある意味「天皇,満州,敗戦」を考えることでもある。

あるいは、農耕文化,島国ということや日本的神話・宗教観(素朴なアニミズムのようなもの)とも関わる問題かもしれない。

7月26日

連赤とかオウムを“頭のおかしな人たち”で片づけてきたり、問題とその前にあった希望の幻想みたいなものをまるで最初からなかったものとうやむやにしてきた、ものごとをラディカルに直視しない態度というのはよくなかったんだろうと思う。

7月28日

歴史とか理性といった抑圧的な物語を人びとは粉砕し脱構築し解放された。にもかかわらず、人は自由で光が舞い散乱するシンボリック〈記号的〉な世界で生きることに疲れてしまうのはなぜなのか。あるいは物神を崇拝し、あるいは神話や物語の中で生きることを求めてしまう。

7月27日

コスプレとかナイトプールとかラブホ女子会とか、物語なき舞台というのはアリなんじゃないかと思いはじめた。


承認の問題で課題なのは、人間はそもそも多様であり差異にみちあふれているはずであるのに、人々は結局のところある種のシンボルのみをロール・モデルとして、それに憧れ自己を同一化しようと近づくために生きてしまうということ。

あるいは、他方で、みなは平等な存在であるべきという理念があり、にもかかわらずそれらは機会の平等などという欺瞞的なもので片付けられ、結局のところ階層化されたところを目指すことがゲームのルールとされてしまっているということ。

2017年7月23日

オブジェ化する「本」とフォトジェニックな空間の時代性について – Instagram,SNS,ライフスタイル –

19世紀はリアリズムの時代であったが、技術・美術的な側面においてはカメラの誕生と写真文化の繁栄のはじまりであった。カメラは、瞬間の現実を切り取り氷結する装置であった。
一方、PhotoshopやSNOWにより現在は写真が加工される時代となった。それは現実ではなく、夢想の具象化だ。

今年開業したGINZA SIXを訪れた。
「Life At Its Best 〜最高に満たされた暮らし〜」をコンセプトにした、銀座の国際的な商業空間。
空間を彩る草間彌生の現代アートと、日本文化とアートを結節するという蔦屋書店が特徴的であった。

  

しかしながら、“最高に満たされた暮らし”とは何だろうか。
また、アートと暮らしはどうつながるものなのだろうか。
あるいは、本は電子化が進んでいるけれども、紙の本の存在や、商業施設における書店の意義はなんなのだろうか。

そして、最先端の商業施設は、僕らの時代の何を象徴するものなのだろうか?

オブジェ化する「本」とフォトジェニックな空間の時代性について

まず、ポストモダン以降の本〈テクスト〉と社会の関係性(構造)を考えてみる。すべてのテクストはコピー&ペーストされ総体としてハイパー・テクスト化された世界を作り出している。それは、“浮遊するシニフィアン”のネットワークだろうか。そこではテクストは文脈から切り出されエクリチュールとして異なるコンテクストに接木されるものとして扱われる。

社会についてもほとんど同じことがいえる。
様々な記号やシンボルが切り取られ、ブランドイメージや広告として流通し、ある種のサイバー空間をつくっている。
とくに、パーソナルコンピューターが完全に普及し、テクストが電子化された今はその傾向がより進められているように思う。

そして、そういった意味では、都市の商業施設は、まさに記号化されたブランドと広告が充満したサイバー空間そのものだろう。

ところで、上記において「テクストは文脈から切り出されエクリチュールとして異なるコンテクストに接木される」と記したが、いまは「本〈物理的な物〉」と「本の内容〈テクスト〉」というものがまた切り離され、それぞれが別々の存在としてそれぞれ機能しているようだ。

テクストの電子化や情報産業の成長は、「本〈物理的な物〉」からもともとその中に本質的に内在していたテクストとしての価値が流出することを要請した。
その結果、「本〈物理的な物〉」はオブジェと化している。
人々が「本〈物理的な物〉」に期待することは、もはやテクストを読むことにより世界を思い描くことではなく、ハイパーテクスト化した世界の中のカフェ(そこはかつて「本屋」であった)でチョコレート・フラペチーノを味わいながら、オブジェ<本>を眺めて“何かに満たされた感じ”を得ることである。さながら、ギャラリーや美術館の様相すらある。
彼ら彼女らには、あるいは“暮らしのイデア”のイメージでも見えるのかもしれない。

これは、決して否定や批判ではないのだが、「紙の本」はテクストが電子化する中でひとつの役割を失う一方そのマテリアルに対するフェティッシュな意味合いを増大させた。
そして、記号として、オブジェとしての存在感を強めているように思われる。

“なんとなくグラマー”な印象をいだかさせるオブジェ<本>。

しかし、オブジェから再生されるイメージには物語を語る力があるだろうか。
それらは単に具現化された記号にすぎない。たとえフェティッシュな何かであったとしても。

人々はさまざまな記号に触れて日々の生活に刺激を与えるが、そこでは実存とバーチャルなライフスタイルの間で乖離が生じる。
その中で人々は疎外を感じ、満たされないと感じるようになる。

その疎外や実存の不安を満たすために、人々はなんらかの物語を語る必要が出てくる。
物語がなくては、人は物との接触や記号だけでは、生の実感を抱ける世界を描けないだろう。
ゆえに、人は自らが物語の中の人物であるように振る舞うようになる。
そして、ファインダーの中に自らの姿を映すのだ。
もちろん、映画スターやアイドルのプロマイドのように加工された写真がSNS<サイバー空間>に投稿されることになる。

まさに、GINZA SIXのような商業施設、アートを身にまとったフォトジェニックな空間は、人々が物語の中に生きるための舞台装置なのだろう。
まるで、現実がポストモダン小説のサイバーパンク世界になったような、そんな印象を抱いている。

とはいえ、デートにはぴったりでしょう。絶対楽しい。

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