『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて –

時代が大きく変化している情況において、より大きな動きが見られるのはもっとも開発されもっとも進んだ先進国ではない。 むしろ、ある種のつまずきを抱えてその遅れを取り返そうとしている国において、大きな動きが見られる。帝国主義時代のドイツ・ロシア・日本がそうであったろう。 そして、今のロシアはまた同じようにつまずきを抱えて、それを乗り越えようとしている。 であるならば、これからの21世紀の相貌の一端がまた見られるのは、ロシアの現代思想からなのかもしれない。 現代思想としての哲学は、20世紀に取り残された1つの課題を抱えている。 それは、しばらくのあいだ忘れ去られていた課題、「近代の超克」の問題だ。 思想史的な現代の情況をみたてると、ヒューマニズムにより近代を超克しようという熱病が再燃しているのが現在だろう。 近代哲学の完成がヘーゲルだというのは意見の一致するところだが、そこからの超克を目指して19世紀後半から20世紀前半に展開されたのがニーチェやマルクス,ハイデガーやラッセルなどいわゆる反哲学=現代思想としての哲学だった。 19世紀の近代化された世界は問題を抱えていた。 それを乗り越えるために...

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「幽霊的身体」から考える – 『ゲンロン5』「視覚から指先へ」 梅沢和木×東浩紀 トークショーを観る。

青山ブックセンターでのゲンロン5の幽霊的身体イベントに参加した。 『ゲンロン5 幽霊的身体』は、演劇や絵画など表象文化論をテーマにした本であった。 イベントでは、梅ラボの梅沢和木さんと東浩紀さんによるトークが聞けた。 話題の中心は、身体というよりは視覚であったかもしれない。 いや、むしろ、僕はそのような視点での解釈をして、会場から楽しみを得た。 視覚について 東さんは、視覚がその物質的な速度の影響などもあり他の感覚器とは異なるという話をし、加えて視覚は多く脳により補完されているという話をしていた。 視覚が他の感覚器と異なる、特別な感覚器であるというのは、どういうことだろうか。 それは、フッサールの志向性と関わるものだろうかと感じた。 たしかに、視覚は状況を静的に受容しているわけではなく、フッサールのいうところの志向性から対象を捉え、その後対象から得た印象を1つのゲシュタルトとして表象に描いていく。 それは、単に(経験論的に)外部の刺激を受容しているわけではなく、むしろ描くべきものを選択し表象を形成しているといえるのかもしれない。 また、哲学的に視覚は大きな意味があるという話があった。 ...

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『ゲンロン5 幽霊的身体』を読む。

『ゲンロン5 幽霊的身体』を読んでいる。 個人的に「幽霊」・「身体」というキーワードには以前から興味があった。 それは、20代のあいだずっと「絶対」の存在と可能性(「絶対」が成立し得ないことだけが絶対的に存在するという現実をどう捉えればよいのか)について思いを巡らしていたからであるし、またオルダス・ハクスリーやティモシー・リアリーやジョン・C・リリーのような言語的論理の外部に興味を持ち続けていたからだ。 ところで、自分の見立てとしては「幽霊的身体」というのを考えてみると、それはある種の弁証法への反省と再度の実践を踏まえた話ではないかと思う。 たとえば、ユートピアを目指した左翼が連合赤軍みたいなところに行き着いたという現実があった。そこにはテロルの現象学のような課題があった。それに対置する形でアソシエーションやマルチチュードが提起されたが、しかしそれは否定神学的な概念だから有効性を持たないため、ある種の「存在の揺らぎ性」を基盤にした思想が必要なのではないかということだ。 それはこう言いかえることもできて、アドルノの否定弁証法のように近代の啓蒙理性はその理想に反してその極で非人間的なもので...

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『ゲンロン0 観光客の哲学』を読む。

『ゲンロン0』を読んだ。 『ゲンロン』は、東浩紀氏監修の批評雑誌であり、『ゲンロン0』はその創刊号である。 また、『ゲンロン0』は東浩紀氏の集大成的な哲学書である。 本書の副題は、「観光客の哲学」である。 これは、ある意味で柄谷行人氏の『トランス・クリティーク』の理論の更新ではないだろうか。 本書にはナショナリズムとグローバリズムに分裂した、2017年現在の状況をどう捉えるか、いかにわれわれは思考し行動すべきか。そう問うための、ビジョンが描かれている。 本書の核心のひとつは、現代のわれわれはモダンとポスト・モダンのふたつのレイヤーの中に生きていると捉えていることである。 現代の僕らの文化は、西洋近代の発展に大きな影響を受けている。 それは決して超克されてはいない。 しかし、1970年代以降のポスト・モダンの興隆と1990年代のソビエト崩壊以降、僕らはあたかも近代後の現代に生きていると考えているところがある。 モダン(近代の絶対的なツリー状の文化)はポスト・モダン(相対的なリゾーム状の文化)に転換されたのだと。 これらの展開を東浩紀氏は、モダンとポスト・モダン、アメリカ政治思想のコミュニ...

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『ゲンロン4 現代日本の批評III』を読む。

評論・現代思想の雑誌『ゲンロン4』を読み終えた。 読み終えて、評論や現代思想の課題は「多様化し点として分散化した人々を、いかに線としてつなぐのか。いかに孤立した大衆を、マルチチュードとして連帯に導くか。そこから、(マルチチュードの)自律した主体としての一般意志をいかに導くか。」ということではないかと考えた。 そして、そのためには人を育て空間をつくり、流れ(運動、短期的な政治運動ではなくエネルギーや共有意識の流れ)を生み出すことが必要である。 東浩紀さんのゲンロンは、まさにそのための実践をしているのではないかと思う。 ゲンロン4の巻頭は、浅田彰さんのインタビューであった。浅田彰さんはポストモダンやニューアカの旗手であり80年代思想のリーダー的存在だ。ニューアカというと、今ではバブル崩壊前の浅薄な思想だったと捉えられがちだ。だが、その実は資本主義礼賛や広告・商業主義への転向、あるいは反マルクス主義や反革命的なものではなく、むしろ新たな闘争(逃走)を提起していたというのが、あらためてよく分かるインタビューだった。 考えてみれば、フランス現代思想のフーコーやアルチュセール、ドゥルーズもパリ5月...

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