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『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて –

『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて – Posted on 2017年9月17日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

時代が大きく変化している情況において、より大きな動きが見られるのはもっとも開発されもっとも進んだ先進国ではない。

むしろ、ある種のつまずきを抱えてその遅れを取り返そうとしている国において、大きな動きが見られる。帝国主義時代のドイツ・ロシア・日本がそうであったろう。

そして、今のロシアはまた同じようにつまずきを抱えて、それを乗り越えようとしている。
であるならば、これからの21世紀の相貌の一端がまた見られるのは、ロシアの現代思想からなのかもしれない。


現代思想としての哲学は、20世紀に取り残された1つの課題を抱えている。

それは、しばらくのあいだ忘れ去られていた課題、「近代の超克」の問題だ。

思想史的な現代の情況をみたてると、ヒューマニズムにより近代を超克しようという熱病が再燃しているのが現在だろう。

近代哲学の完成がヘーゲルだというのは意見の一致するところだが、そこからの超克を目指して19世紀後半から20世紀前半に展開されたのがニーチェやマルクス,ハイデガーやラッセルなどいわゆる反哲学=現代思想としての哲学だった。

19世紀の近代化された世界は問題を抱えていた。
それを乗り越えるために20世紀に企画・実施された壮大なプロジェクト、反哲学的な思想をふまえて近代の超克を目指して提起されたのが、⑴マルクス=レーニン主義によるソビエト型社会主義(共産主義),⑵ナチスなどのファシズム的な国家主義(国家社会主義),そして⑶ケインズ的な修正資本主義(国家資本主義)だった。

ざっと20世紀を振り返れば、上記の⑴マルクス=レーニン主義と⑵ファシズムが倒れたのは自明であった。
そして、現在は⑴・⑵の体制が崩れ去ったその後で、⑶の修正資本主義(国家資本主義)だけが残りはじめの意図を超えて爆進しているというのが実情だろう。

しかし、その課題をきちんと見つめ捉え返さなければいけない時が来ているのではないか。
そもそも、マルクス=レーニン主義やファシズムが現れたのは、ヒューマニズムからであった。
理性的な人間を中心とした近代的な思考と社会システムが、かえって人を疎外し抑圧するものとなる。その阻害に対してのノン、異議申し立てから湧き上がったのが、マルクス=レーニン主義やファシズムであったのだから。

それらがヒューマニズムから湧き上がったものであれば、現在の問題であるヘイト・スピーチやテロリズムの問題が、またヒューマニズムを源泉としていることは明らかだろう。
彼らは、本来的な人間のあり方を訴えるナロードニキでありボリシェヴィキであるのだ。

ヘイト・スピーチやテロリズムがヒューマニズム?ナンセンス!
確かに、ナンセンスと思われるかもしれない。
しかし、たとえば代表的テロリストとしての日本人、重信房子の言葉を引用してみよう。

“隊伍を整えなさい。隊伍とは、仲間であります。仲間でない隊伍がうまくゆくはずがないではありませんか”

届くならちぎれるまで手を差し伸べたい。

革命に向けて、同志たち、友人たち。燃える連帯を込めて、勝利の日まで。さようなら。

『週刊読売』1972年4月15日号 赤軍派アラブ代表 重信房子

見誤ってはいけないのは、彼らは単に憎悪に燃えた人間ではなく、抑圧されたシステムからの解放を願う本来的なあり方を求めるヒューマニストそのものなのだ。

そこでは右翼や左翼といったイデオロギーの方向は大きな意味を持たない。
個別具体的な事例ではあるが、重信房子の父親が血盟団事件に関わった右翼組織の門下生であったことは有名な話だ。
むしろ、「小さな親切運動」に熱心に取り組むような人情に篤い少女であったこと、このヒューマニズムが反転したところでテロリズムに至ったと考える方が自然なのだ。


だが、問題はロシアだ。
東方正教会の信仰とツァーリへの崇拝が一体となったヨーロッパの反動ロシア。大衆のためのインテリゲンチャ、ナロードニキによるテロリズムの国ロシア。
そして、レーニンにより領導され理想のユートピア国家ソビエトを建設したロシア。

そのユートピアの夢はスターリンにより悪夢へと変わる。ディストピア国家、赤い帝国。
しかし、ソビエトは70年間でその歴史を終える。
後に残ったのは、意味も価値観も何もない戦後思想のような、フロイト的超自我としての父を持たないロシアだった。

「ゲンロン6」 共同討議で感じたのはある種のイデオロギーと神秘主義の国ロシアだった。

ロシアにおけるイデアとマテリアルの結びつき、象徴的なものの壁を突破して聖なるものに触れたいという欲望、あるいは父のいないロシア=カルフォルニア的な神秘思想。

しかし、これは、どこかで見たような景色だ。
オウム真理教の身体への直接刺激による超越への跳躍、捨てられた子供としての教祖・麻原彰晃と繋がるものを感じるのだ。
1995年の事件、20年以上前の話だ。
今では、95年をめぐる心暖まる伝説のひとつに過ぎない。

これはオウム以前の類似現象としての連合赤軍。1972年のあの事件にも似たものを見い出せる。
あのリンチ事件も単なるヘゲモニー争いからの暴力ではなく、森恒夫による「殴ることによる総括。殴られ気を失うことにより、次に目覚めた時に共産主義化された人間として生まれ変わる。」という超越への跳躍だった。
そして、父なき時代、丸山眞男が殴られる時代の帰結だったのだ。

“暴力を包み込む保護者不在”

たが、これも今では些細なことかもしれない。
結局のところ、それらは、エルンスト・レーム率いる突撃隊のように、あるいは北一輝と二・二六事件のように時折歴史の舞台の上に現れる何かなのだろう。

だが、乗松享平さんの「敗者の(ポスト)モダン」にもあるように反体制的ナショナリストとソ連の「ロシア性」が結びつく様相、哲学者アレクサンドル・ドゥーギンとラディカルな若者たちの動きはあるいは同じような構図にも見える。1930年代的な様相。本来的なあり方を求める志向性。一気に革新に進もうというそのラディカルなスタイル。
反復される普遍性だろうか。
しかし、本来的なあり方があるなら、非本来的とされるあり方は?ここでは、言うまでもなく、米国式リベラリズム=グローバリズム=リバタリアニズムだろう。

新たなる本来性の物語

しかしながら、本著の特集の中心とされているアレクサンドル・ドゥーギンの思想は確かに人を納得させ魅了するだけの力があるのではないか。

そのチャート式やポストモダン的なスタイルはわかりやすく、またブラヴァッキーのような神智学的な世界認識は、世界に対して違和を抱いているものに真実を与えるものだろう。

他方、ザハール・プリレーピンは、戦後何もないところの虚無主義から舞台で演ずる役者となった三島由紀夫の再来のようだ。

流石に世界文学の国のポスト・トゥルース・ストーリーといって良いように思う。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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「幽霊的身体」から考える – 『ゲンロン5』「視覚から指先へ」 梅沢和木×東浩紀 トークショーを観る。

「幽霊的身体」から考える – 『ゲンロン5』「視覚から指先へ」 梅沢和木×東浩紀 トークショーを観る。 Posted on 2017年8月7日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

青山ブックセンターでのゲンロン5の幽霊的身体イベントに参加した。
『ゲンロン5 幽霊的身体』は、演劇や絵画など表象文化論をテーマにした本であった。

イベントでは、梅ラボの梅沢和木さんと東浩紀さんによるトークが聞けた。
話題の中心は、身体というよりは視覚であったかもしれない。
いや、むしろ、僕はそのような視点での解釈をして、会場から楽しみを得た。

視覚について

東さんは、視覚がその物質的な速度の影響などもあり他の感覚器とは異なるという話をし、加えて視覚は多く脳により補完されているという話をしていた。

視覚が他の感覚器と異なる、特別な感覚器であるというのは、どういうことだろうか。
それは、フッサールの志向性と関わるものだろうかと感じた。
たしかに、視覚は状況を静的に受容しているわけではなく、フッサールのいうところの志向性から対象を捉え、その後対象から得た印象を1つのゲシュタルトとして表象に描いていく。
それは、単に(経験論的に)外部の刺激を受容しているわけではなく、むしろ描くべきものを選択し表象を形成しているといえるのかもしれない。

また、哲学的に視覚は大きな意味があるという話があった。
これは個人的な印象なのだけれど、客観=ヘーゲル=ロマン主義、主観=ハイデガー=実存主義につながっているような気がしている。
歴史的には、それらが入り交じった時、ある種の狂想曲が響いたのではないだろうか。

あるいは、主観・客観以外の視点があるとすれば、第三の視点はどのように表現されるものなのだろうか。

第三の視点は、一方には主客両者を持っている視点、他方には両方を持っていないと考えられるが、むしろ主客が未分離の視点なのではないか。
無意識が世界を見ているような、夢のような。

というよりも、実はそれは視覚ではなくそしてゆえに視点と呼ぶべきではないのだが、感覚が統合されあるいは記憶によって、あたかも視覚であるかのように想起されてしまうということではないか。

主観と客観 – あるいは「視点」について –

「主観と客観」問題は、近代哲学が抱えていたアポリアだった。
デカルトからはじまり、ホッブズやヒュームのイギリス経験論、ドイツ観念論のはじまりとなるカント、現象学を生み出したフッサールまで、「主観と客観」は認識論の難問としてある。

「主観と客観」について「視点」というパースペクティブから考えると、やはりまず客観それ自体の存在が懐疑される。
主観を離れた視点が存在するだろうか。世界を眺める、眺められた像は主観に基づいている。たとえ、客体を眺めていても。

後ろからの視線、自分の背後から世界を眺めている映像を想定する。
ゲームにおけるTPSの視点。まるで幽体離脱のように、自らを眺め同時に世界を眺める視点。それが主体をも含めた客観的な視点だろうか。
しかし、かかる視点はあくまで可能性の虚像に過ぎない。もちろん、現代では映像技術を用いることでそのような視点は可能だ。

それはこのような状況だろう。

自らを撮影しながらディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。

繰り返し、また繰り返し。終わりなき悪夢のように、コンピューターをシステム・ダウンさせる計算式。おそらく、これは客観ではない。
いや、むしろ、辿り着けないという意味で客観を示している。客観とは、神〈創造主〉の視点に他ならない。西洋において客観が希求されたことはそうであろうなと思う。

絶対不可能なその地点を、超越と呼び、そこを求め続けるのも悪くはない。決して消えることのない光のような、裏切ることのないアイドルを追いかけるようなものだ。そして、そこにはユートピアがある。

他方、そこから出口を求めるのなら今のところルートは3つある。〈存在論的脱構築〉,〈郵便的脱構築〉,そして〈両性具有の天使(混成生物)の歌声〉。
また、〈存在論的脱構築〉は革命に結びつき、〈郵便的脱構築〉は仮想世界に結びつき、そして〈両性具有の天使(混成生物)の歌声〉は身体と結びつく。もちろん、かつて身体的革命の挑戦があったわけではあるし、革命は身体と結びつきがつよい。

個人的には、〈両性具有の天使(混成生物)の歌声〉を推したいところがある。
それは、僕が色盲であるからというのもあるし(赤?緑?青?なんらかの色への認識が弱いのだ。ゲーテも言っている通り、哲学への関心は、色に対して人をいらだたせるのかもしれない。“牡牛は、赤い布を広げて見せられただけで狂暴になる。が、哲学者は、色彩のことが話題になるだけで逆上しはじめる。”)、音楽を聴くのが好きだから、というのがあるかもしれない。あるいは、かつてのオルダス・ハクスリーへの傾倒がいまだに影響しているのか。

そして、幽霊的身体は仮想的身体と言い換えることもできる。
であるならば、ある意味では、仮想的革命というものも想像することは可能かもしれない。

身体について

内在と外部のインタフェースとしての身体みたいなことを考えることがある。

梅沢和木さんは、音ゲーの習得が、その後の絵画制作の役になったという話をしたが、それは内在的超越を身体を用いて外部化することではないか。
存在を身体表現で連関させること。

ハイデガーは言葉を存在の住処だと言ったけれど、身体こそ有と無と揺らぎを含んだ存在の住処ではないか。

今回のイベントでは、メルロ・ポンティ『眼と精神』がふれられていた。
サルトルもそうだが、現象学は視覚と身体に関連が強そうな印象を受ける。

思えば、最近、六本木の美術館で「ジャコメッティ展」が開かれていたけれど、ジャコメッティのつくる彫刻の身体が恐ろしく細く、かれが愛した女性たちがむしろ豊満な身体を持っていたこと。
そして彼が実存主義やサルトルとともに語られていたことは何かどこかしら象徴的だと感じるところがある。

それはともかく、イベント当日は、外苑前から青山まで歩いたのだけれどショー・ウインドウに映る自分の身体を客観的に見て、あるキーワードが思い浮かんだ。
「ダイエット」。

第三の視点のあり方

とはいえ、現在というシチュエーションやテクノロジーを考慮にいれ、アクチュアルに主観・客観以外の第三の視点がありうる方向を考えると、1つの世界を同時的に複数の目で捉えるという視点になるだろうか。
そして、それを統合し再現すること。
梅沢和木さんの作品はそのような視点でつくられているだろう。サルトルに『自由への道』という小説があったが、それもたえず視点が移り変わるような描写がされていたような記憶がある。

他方、主観は身体性とつながるものがある。
VR技術は他者の主観・視点・認識・世界観を体感し共感するための装置になるのだろうか。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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『ゲンロン5 幽霊的身体』を読む。

『ゲンロン5 幽霊的身体』を読む。 Posted on 2017年6月24日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

『ゲンロン5 幽霊的身体』を読んでいる。

個人的に「幽霊」・「身体」というキーワードには以前から興味があった。

それは、20代のあいだずっと「絶対」の存在と可能性(「絶対」が成立し得ないことだけが絶対的に存在するという現実をどう捉えればよいのか)について思いを巡らしていたからであるし、またオルダス・ハクスリーやティモシー・リアリーやジョン・C・リリーのような言語的論理の外部に興味を持ち続けていたからだ。

ところで、自分の見立てとしては「幽霊的身体」というのを考えてみると、それはある種の弁証法への反省と再度の実践を踏まえた話ではないかと思う。
たとえば、ユートピアを目指した左翼が連合赤軍みたいなところに行き着いたという現実があった。そこにはテロルの現象学のような課題があった。それに対置する形でアソシエーションやマルチチュードが提起されたが、しかしそれは否定神学的な概念だから有効性を持たないため、ある種の「存在の揺らぎ性」を基盤にした思想が必要なのではないかということだ。

それはこう言いかえることもできて、アドルノの否定弁証法のように近代の啓蒙理性はその理想に反してその極で非人間的なものであった。
近代理性が見落としていたのは、存在の揺らぎ性ではないだろうか。
それは、たとえば、村上春樹の物語で描かれている「向こう側」とこちらの繋がりのようなものではないか。あるいは、最新作『騎士団長殺し』で描かれた「血縁関係(事実)をこえた家族(人とのつながり)」を想定したエチカと通底するものがあるかもしれない。

近代や哲学が見落としていた視点は「存在」を言語により定義したところにあるのではないか。あるいは「有と無」はデジタルに切り離された存在ではなく、アナログなもので明るさと暗さが絶え間ないコントラストで継続しているものではないだろうか。

『ゲンロン5』の話に戻ると、論考がとても面白かった。鴻英良さんの「虚体、死体、そして〈外〉へ」で描かれた〈自同律の不快〉はとてもよくわかる話だったし、渡邉大輔さんの「『顔』に憑く幽霊たち」で描かれたInstagramやSNOWのアプリを使う人々の意識についての話はテクノロジーがリアルに人々に変化を与えるかという可能性のようなものを感じさせた。
共同討議の「ユートピアと弁証法」は純粋におもしろい。
ところで、今年はロシア革命100年だからトロツキーの『ロシア革命史』を読もうと思っていたのだけれど、もう2017年も半分が過ぎてしまった。

すっかり、真夏そのものが姿を見せ始めている。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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『ゲンロン0 観光客の哲学』を読む。

『ゲンロン0 観光客の哲学』を読む。 Posted on 2017年4月5日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

『ゲンロン0』を読んだ。
『ゲンロン』は、東浩紀氏監修の批評雑誌であり、『ゲンロン0』はその創刊号である。
また、『ゲンロン0』は東浩紀氏の集大成的な哲学書である。

本書の副題は、「観光客の哲学」である。
これは、ある意味で柄谷行人氏の『トランス・クリティーク』の理論の更新ではないだろうか。

本書にはナショナリズムとグローバリズムに分裂した、2017年現在の状況をどう捉えるか、いかにわれわれは思考し行動すべきか。そう問うための、ビジョンが描かれている。

本書の核心のひとつは、現代のわれわれはモダンとポスト・モダンのふたつのレイヤーの中に生きていると捉えていることである。

現代の僕らの文化は、西洋近代の発展に大きな影響を受けている。
それは決して超克されてはいない。
しかし、1970年代以降のポスト・モダンの興隆と1990年代のソビエト崩壊以降、僕らはあたかも近代後の現代に生きていると考えているところがある。

モダン(近代の絶対的なツリー状の文化)はポスト・モダン(相対的なリゾーム状の文化)に転換されたのだと。

これらの展開を東浩紀氏は、モダンとポスト・モダン、アメリカ政治思想のコミュニタリアニズムとリバタリアニズム、ネットワーク理論のスモール・ワールドとスケール・フリーの概念を利用して説明する。
そして、現代をこう捉えるのだ。
現代のわれわれはモダンとポスト・モダンのふたつのレイヤー、そのふたつのレイヤーに足を踏み入れ両方が重なる世界に生きているのだと。

その上で、東浩紀氏はその異なるレイヤーの世界を調和させる思想として「観光客の哲学」を提示する。そして、それこそが現代的な21世紀にあるべき連帯の形、郵便的マルチチュードを形成するのではないかと。

ここ数年の東浩紀氏の言動を振り返れば、ある種の「運動」に対して批判的なスタンスを崩すことがなかった。あくまで、それは、本来あるべき形ではないと。
そして、空虚な連帯ではなく大きな物語をいかに再興するかそれが課題であると語っていたように思われる。

本書は、それに応えるメッセージが読み取れる作品であった。

『ゲンロン0 観光客の哲学』と『トランス・クリティーク』が机上に並んでいるのを眺めると、父なるものと母なるものが生み出した空間が家族ならば、そこから生まれた子が父とは異質の物語を語り、あらたな家族のもとで散種しているのだと批評のダイナミズムを感じてしまう。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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『ゲンロン4 現代日本の批評III』を読む。

『ゲンロン4 現代日本の批評III』を読む。 Posted on 2016年12月23日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

評論・現代思想の雑誌『ゲンロン4』を読み終えた。

読み終えて、評論や現代思想の課題は「多様化し点として分散化した人々を、いかに線としてつなぐのか。いかに孤立した大衆を、マルチチュードとして連帯に導くか。そこから、(マルチチュードの)自律した主体としての一般意志をいかに導くか。」ということではないかと考えた。
そして、そのためには人を育て空間をつくり、流れ(運動、短期的な政治運動ではなくエネルギーや共有意識の流れ)を生み出すことが必要である。
東浩紀さんのゲンロンは、まさにそのための実践をしているのではないかと思う。

ゲンロン4の巻頭は、浅田彰さんのインタビューであった。浅田彰さんはポストモダンやニューアカの旗手であり80年代思想のリーダー的存在だ。ニューアカというと、今ではバブル崩壊前の浅薄な思想だったと捉えられがちだ。だが、その実は資本主義礼賛や広告・商業主義への転向、あるいは反マルクス主義や反革命的なものではなく、むしろ新たな闘争(逃走)を提起していたというのが、あらためてよく分かるインタビューだった。

考えてみれば、フランス現代思想のフーコーやアルチュセール、ドゥルーズもパリ5月革命を経験して、構造主義やポスト・モダンの思想を形成したのだ。それは、ある意味では、いかに新たな「解放区」をつくるのかという議論であったのではないかと思う。

今では、現代思想は衰退しきっている。けれど、トロツキスト的な革命闘争へのアンチテーゼを打ち立て、資本主義とマルクス主義の対立構造を超越するビジョンを模索するという現代思想の希望は、未だ果される時を待っている。
それは、ある種の批評遊戯のようなものであるかもしれないし、また新しい形かもしれない。

ゲンロン4では、白井聡さんの名前がちらほらと出てくる箇所があったが、『未完のレーニン』を生み出すきっかけとなった『はじまりのレーニン』の著者 でありニューアカのもうひとりの旗手である中沢新一さんも思想界で名声を取り戻しつつあるようだ。

この30年間の日本の思想史を通して、80年代以降ポストモダンとニューレフト的ものが分離し、90年代以降は社会学とオタク批評とストリート的な思想として別々に発展してきたが、これからは再度その結合へと発展する流れなのではないかと想像された。
問題は、いかに発展するのか、そしてそのために何をなすべきかということであるが。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。