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映画『三度目の殺人』を観る。-『地獄の黙示録』あるいは反転のソクラテス –

映画『三度目の殺人』を観る。-『地獄の黙示録』あるいは反転のソクラテス – Posted on 2017年9月18日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

『三度目の殺人』を観る。そのモティーフは、あるいは『地獄の黙示録』の変奏のように響く。
そこには真実から目を逸らして欺瞞に満ちた世界を生きることへの批判が通奏低音として流れている。
役所広司演ずる犯人は、カーツ大佐、あるいは反転した裁かれるソクラテス〈ニーチェ〉。

福山雅治演じる弁護士は犯人にこう呟く。「あなたは器?」その空虚、無意味さは、実存的な『地獄の黙示録』と関わるところにある三島由紀夫の『豊饒の海』と重なるものがある。

あるいは現代社会/法治国家における存在の忘却、その欺瞞性を暴くものでもある。
‪満島真之介演ずる部下のギャルソン精神。‬
‪「生まれた意味のない人間などいない!」と叫んだ時の、あの歪んだ勝ち誇ったような表情。溢れるヒューマニズム。吐き気だ。‬

タイトルの『三度目の殺人』は、存在を忘却した欺瞞的法治国家による死刑を意味するところか。誰が、誰を裁くのか?本当のことには意味がないのか?意味がないとすれば、誰に誰を裁くことができるのか?
法治国家における価値・意味の最終審級としての司法。その欺瞞。何たる傲慢!何たる破廉恥!何と醜悪な恥知らずだろうか!?

広瀬すず演ずる少女はこう呟く。
「ここでは誰も本当のことを話さない。」
こことは裁判所を意味する?勿論そうだ。
そして、それは社会そのものを包み込んでいるのだ。

ソフィスト的存在であった弁護士は次第にソクラテス的犯人に惹かれていく。カーツ大佐に惹かれていくウィラード大尉のように。
そして、犯人と広瀬すず演ずる少女との愛はキリストの愛、罪を拭い去る救済であったのだろうか。それこそがプラトニックな愛なのか。

「だけど、それが本当だとしたら、良い話ですね。」
それはまた、ポスト・トゥルース的状況にある現代。相対主義が終わりを告げているところの現代を象徴するものでもある。

『地獄の黙示録』との違いは、またもや、「家族」というところだろうか。それは真実を持たない世界での人と人との結びつき、いかにして共同主観性を構築するかというところの問題でもある。主人公の言葉「理解とか共感とかいらないんだよ」その言葉が反射して重みを持ち跳ね返ってくるのだ。

‪1羽だけ逃したカナリヤは、パンドラの箱に残ったものと同じもの、希望なのだろう。‬

斉藤由貴の不倫疑惑やスキャンダラスな週刊誌に追いかけられているところを虚構と現実に重ねて語るのはゲスのやるところかと。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて –

『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて – Posted on 2017年9月17日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

時代が大きく変化している情況において、より大きな動きが見られるのはもっとも開発されもっとも進んだ先進国ではない。

むしろ、ある種のつまずきを抱えてその遅れを取り返そうとしている国において、大きな動きが見られる。帝国主義時代のドイツ・ロシア・日本がそうであったろう。

そして、今のロシアはまた同じようにつまずきを抱えて、それを乗り越えようとしている。
であるならば、これからの21世紀の相貌の一端がまた見られるのは、ロシアの現代思想からなのかもしれない。


現代思想としての哲学は、20世紀に取り残された1つの課題を抱えている。

それは、しばらくのあいだ忘れ去られていた課題、「近代の超克」の問題だ。

思想史的な現代の情況をみたてると、ヒューマニズムにより近代を超克しようという熱病が再燃しているのが現在だろう。

近代哲学の完成がヘーゲルだというのは意見の一致するところだが、そこからの超克を目指して19世紀後半から20世紀前半に展開されたのがニーチェやマルクス,ハイデガーやラッセルなどいわゆる反哲学=現代思想としての哲学だった。

19世紀の近代化された世界は問題を抱えていた。
それを乗り越えるために20世紀に企画・実施された壮大なプロジェクト、反哲学的な思想をふまえて近代の超克を目指して提起されたのが、⑴マルクス=レーニン主義によるソビエト型社会主義(共産主義),⑵ナチスなどのファシズム的な国家主義(国家社会主義),そして⑶ケインズ的な修正資本主義(国家資本主義)だった。

ざっと20世紀を振り返れば、上記の⑴マルクス=レーニン主義と⑵ファシズムが倒れたのは自明であった。
そして、現在は⑴・⑵の体制が崩れ去ったその後で、⑶の修正資本主義(国家資本主義)だけが残りはじめの意図を超えて爆進しているというのが実情だろう。

しかし、その課題をきちんと見つめ捉え返さなければいけない時が来ているのではないか。
そもそも、マルクス=レーニン主義やファシズムが現れたのは、ヒューマニズムからであった。
理性的な人間を中心とした近代的な思考と社会システムが、かえって人を疎外し抑圧するものとなる。その阻害に対してのノン、異議申し立てから湧き上がったのが、マルクス=レーニン主義やファシズムであったのだから。

それらがヒューマニズムから湧き上がったものであれば、現在の問題であるヘイト・スピーチやテロリズムの問題が、またヒューマニズムを源泉としていることは明らかだろう。
彼らは、本来的な人間のあり方を訴えるナロードニキでありボリシェヴィキであるのだ。

ヘイト・スピーチやテロリズムがヒューマニズム?ナンセンス!
確かに、ナンセンスと思われるかもしれない。
しかし、たとえば代表的テロリストとしての日本人、重信房子の言葉を引用してみよう。

“隊伍を整えなさい。隊伍とは、仲間であります。仲間でない隊伍がうまくゆくはずがないではありませんか”

届くならちぎれるまで手を差し伸べたい。

革命に向けて、同志たち、友人たち。燃える連帯を込めて、勝利の日まで。さようなら。

『週刊読売』1972年4月15日号 赤軍派アラブ代表 重信房子

見誤ってはいけないのは、彼らは単に憎悪に燃えた人間ではなく、抑圧されたシステムからの解放を願う本来的なあり方を求めるヒューマニストそのものなのだ。

そこでは右翼や左翼といったイデオロギーの方向は大きな意味を持たない。
個別具体的な事例ではあるが、重信房子の父親が血盟団事件に関わった右翼組織の門下生であったことは有名な話だ。
むしろ、「小さな親切運動」に熱心に取り組むような人情に篤い少女であったこと、このヒューマニズムが反転したところでテロリズムに至ったと考える方が自然なのだ。


だが、問題はロシアだ。
東方正教会の信仰とツァーリへの崇拝が一体となったヨーロッパの反動ロシア。大衆のためのインテリゲンチャ、ナロードニキによるテロリズムの国ロシア。
そして、レーニンにより領導され理想のユートピア国家ソビエトを建設したロシア。

そのユートピアの夢はスターリンにより悪夢へと変わる。ディストピア国家、赤い帝国。
しかし、ソビエトは70年間でその歴史を終える。
後に残ったのは、意味も価値観も何もない戦後思想のような、フロイト的超自我としての父を持たないロシアだった。

「ゲンロン6」 共同討議で感じたのはある種のイデオロギーと神秘主義の国ロシアだった。

ロシアにおけるイデアとマテリアルの結びつき、象徴的なものの壁を突破して聖なるものに触れたいという欲望、あるいは父のいないロシア=カルフォルニア的な神秘思想。

しかし、これは、どこかで見たような景色だ。
オウム真理教の身体への直接刺激による超越への跳躍、捨てられた子供としての教祖・麻原彰晃と繋がるものを感じるのだ。
1995年の事件、20年以上前の話だ。
今では、95年をめぐる心暖まる伝説のひとつに過ぎない。

これはオウム以前の類似現象としての連合赤軍。1972年のあの事件にも似たものを見い出せる。
あのリンチ事件も単なるヘゲモニー争いからの暴力ではなく、森恒夫による「殴ることによる総括。殴られ気を失うことにより、次に目覚めた時に共産主義化された人間として生まれ変わる。」という超越への跳躍だった。
そして、父なき時代、丸山眞男が殴られる時代の帰結だったのだ。

“暴力を包み込む保護者不在”

たが、これも今では些細なことかもしれない。
結局のところ、それらは、エルンスト・レーム率いる突撃隊のように、あるいは北一輝と二・二六事件のように時折歴史の舞台の上に現れる何かなのだろう。

だが、乗松享平さんの「敗者の(ポスト)モダン」にもあるように反体制的ナショナリストとソ連の「ロシア性」が結びつく様相、哲学者アレクサンドル・ドゥーギンとラディカルな若者たちの動きはあるいは同じような構図にも見える。1930年代的な様相。本来的なあり方を求める志向性。一気に革新に進もうというそのラディカルなスタイル。
反復される普遍性だろうか。
しかし、本来的なあり方があるなら、非本来的とされるあり方は?ここでは、言うまでもなく、米国式リベラリズム=グローバリズム=リバタリアニズムだろう。

新たなる本来性の物語

しかしながら、本著の特集の中心とされているアレクサンドル・ドゥーギンの思想は確かに人を納得させ魅了するだけの力があるのではないか。

そのチャート式やポストモダン的なスタイルはわかりやすく、またブラヴァッキーのような神智学的な世界認識は、世界に対して違和を抱いているものに真実を与えるものだろう。

他方、ザハール・プリレーピンは、戦後何もないところの虚無主義から舞台で演ずる役者となった三島由紀夫の再来のようだ。

流石に世界文学の国のポスト・トゥルース・ストーリーといって良いように思う。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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左右対立のねじれについて ‐ あるいは革新右翼,ハイデガー,三島由紀夫 ‐

左右対立のねじれについて ‐ あるいは革新右翼,ハイデガー,三島由紀夫 ‐ Posted on 2017年8月4日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

昨晩の、『安倍離れ?内閣改造について言いたい事を言う生放送 《東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗》』ニコニコ生放送を観た。

それはともかく、そこで夏野剛さんが、”右翼と左翼の言説が反対になっている” “右翼が改革を目指し左翼が保守的になっている” という〈左右対立のねじれ〉を問題にして、いかにして勢力図式はこう変更されたのかという問題提起をしていた。
たしかに、それはそうだ。右翼=保守,左翼=革新というのが一般的な見立てである。
番組の中では、1960年代や1970年代における新左翼の運動や冷戦構造の転換を通して、その勢力図式が塗り替えられたと語られていた。

しかし、ここでは別の側面から、この〈左右対立のねじれ〉について、あるいは〈それ以後〉について捉えてみたいと思う。

それは、大正~昭和に興隆し展開した革新右翼をとおしてある時代の流れを捉えるということかもしれない。

現在からおよそ一世紀前に、革新右翼というものが登場した。
代表的な人物としては、後にイスラーム研究者となった大川周明や『日本改造法案大綱』を記した北一輝などがいるだろう。

考えてみると、彼らは僕らが “ヘイト・スピーチ” でイメージするような右翼像ではないのかもしれない。
たしかに、彼らの中にはむしろ社会主義的な主張を含むものが少なくなかった。
しかし、彼らはまさしく右翼であった。

そして、彼らを支持した一方の人々は、三陸大津波や世界恐慌、昭和東北大凶作・大飢饉に生活の煽りを受けた貧困農家の出身の青年たちであった。

大正~昭和の時代をふり返ると、そこにはロシア革命や第二次世界大戦があり、関東大震災があった。
その時代に描かれた光景は、9・11,東日本大震災=福島原発事故を通過し、イスラム国(IS)の登場とポピュリズムの台頭を目撃する現在と通底するものがあるのかもしれない。

すると、ある方向が想い描かれないだろうか。
ある段階まで、グローバリズム(帝国主義)が進んだ時代に、その時代が孕んだ問題を解決するために台頭するのは革新右翼なのではないだろうか。
少なくともそのような状況で、論理性があり、かつ行動力/実行力がある存在としての右翼が成長するというのは、不思議でないだろう。

そして、これに関連して思い出すことがある。三島由紀夫の『わが友ヒットラー』という戯曲だ。
その戯曲は(あるいは歴史の中では)、ハイデガーのドイツ民族主義的な突撃隊(SA)が親衛隊(SS)によって粛清された事件が描かれている。
これと似たような事件は日本でも起きていた。それは、勃興していた北一輝や皇道派が統制派に粉砕されたということであった。

思えば、三島由紀夫には、ハイデガー的な実存哲学に似たものがあった。
晩年の長編小説『絹と明察』には、ハイデガーの思想に傾倒しヘルダーリンの詩を好む「岡野」という人物が登場する。彼はシニカルな傍観者としての役割であったが、作品の最後で社会へのコミットメントに向かうこととなる。

あるいは、『豊饒の海』を読むとよく実感できるのだが、そこで描かれていたテーゼは、存在の偶然性と不条理な無であった。三島由紀夫の中心には空虚があった。

『豊饒の海』を書き上げた三島は市ヶ谷の自衛隊の駐屯地に乗り込むことになるが、三島由紀夫がそこで演じたのは戯曲『わが友ヒットラー』における突撃隊のレームのようなハイデガー的な愛国心を持った人間の破滅と悲劇だったのかもしれない。

レームに私はもつとも感情移入して、日本的心情主義で彼の性格を塗り込めた

また、そこには二・二六事件で銃殺刑に処せられた青年将校や北一輝に重なるものがあった。
二・二六事件により、皇道派の壊滅は決定づけられた。
一方、統制派の政治的発言力は強化されることになる。そこから時代は加速した。


知識人、理論家が左翼の方にひきつけられるように、しぜん、官僚、実際家は右翼にひかれる。したがって右翼は理論に弱く、理念わ獲得し得ないことが常に苦の種なのである。左翼の特徴的な弱点は、その理論を実際にうつすことができないことにある。

E・H・カー『危機の二十年』1939年

左翼⇔右翼,革新⇔保守という〈左右対立〉のねじれの問題を考えていたのだけど、「左翼⇔右翼」という対立イメージ自体がすでに見せかけの虚飾に過ぎないのではないかと感じた。
むしろ、アクチュアルなのは、ヒューマン⇔システム、政治的にいえば格差是正 – 平等⇔優勢性保持 – 自由ではないだろうか。

たしかに、E・H・カーの話はわかるのだけど、あまりに古典的で、それは1つのシステムの外部たる理論家や知識人というポジションが存在した時代の話であって、そこがいわゆるモダンと現在の違うところだろう。

あるいは、この状況を打開する方法はあるのだろうか。

飛躍するのだけど、多数のカルト/セクトの生成・乱立こそがむしろシステムのあり方を変えるのではないかと思った。
そして、それをつくるメディア・プラットフォームは豊富にある。

そうゆう意味ではポスト・モダンのツリー→リゾーム図式は正しくて、むしろ、それらの問題は核なき相対主義の肯定であったわけで、しかし、人はそれほど強くないということにあった。
それゆえに、アイデンティティの源泉たる物語・神話が必要なのだけれど、それを作り出せるのがポスト・トゥルース的状況ということがある。

だから、むしろポスト・トゥルース的状況をあまりに否定してはいけなくて、もちろんシステムもこの状況を利用するわけだけど、規制は逆説的にシステムによる統制だけを肯定するわけだろう。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか 〜 J-POP、アイドル、インターネット 〜

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか 〜 J-POP、アイドル、インターネット 〜 Posted on 2017年5月15日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

人は過去を忘れる。
しかし、ふと、思い出すことがある。
そして、ある時は感嘆の声をあげ、時にはもののあはれを感ずる。
こんなにも世界は変わったのかと。

たとえば、時代を象徴するものとして、今世の中にはあふれる程アイドルがいて、とても一般的なものになっている。

けれど、僕らが中高生の頃にはアイドルなんていなかった。
当時は、浜崎あゆみや安室奈美恵や椎名林檎や宇多田ヒカルあるいは中島美嘉やYUIがいた。
彼らは一見するとアイドルとはまったく違う。
しかし、それは同じ役割を持ったものだ。
彼らは歌う。
そして、人々に対して、なんらかのメッセージを届け、希望を抱かせる。
そういうことなのかもしれない。

僕が言いたいのはこういうことだ。
僕らがティーン・エージャーだったころ、アイドルなんて人気はなく、それほど多くはいなかったはずである。
では、彼らはどのように現れたのだろうか。

アイドル文化の誕生まで

考えてみると、僕らにアイドルという言葉への違和感があるのは、その言葉が80年代的なあるいはそれ以前の何かを想起させるからではないかと思う。

おそらく90年代に、J-POPがかつてのアイドル市場を駆逐したのだろう。
それ以前とそれ以降では、空気が異なる。
かわりに、ビーイング系や小室グループあるいは沖縄アクターズスクールのユニットが一斉を風靡した。
彼らは、ストリートを感じさせ、カジュアルでスタイリッシュだった。
そのスタイリッシュなものへの反動として、ある意味色物的なシャ乱Qのつんくがモーニング娘。をヒットさせた。

しかし、モーニング娘。も2000年代初頭には人気に限りが出て失速。
その後釜は、WhiteberryやZONEといったガールズバンドにとって代わられた。
一方で、90年代末からは独特の雰囲気と明らかな才能を持った歌姫と呼ばれるようなアーティストたちが現れた。

98年には、「林檎?鮎?女性アーティストが大人気」といったワイドショーが流れていた。
98年は、椎名林檎、浜崎あゆみ、宇多田ヒカル、MISIA、aikoが揃ってデビューした年である。

この時代には、音楽シーンが大きく変化した。99年にはDragon Ashが「Grateful Days」を発表。
2000年代前半には、KICK THE CAN CREW、RIP SLYME、キングギドラがヒットを飛ばした。

今からふりかえれば、この時代、日本の音楽シーンは最盛期をこえていた。CDの総売り上げは1999年にピークに達し、その後売り上げは右肩下がりに落ちていくことになる。
そして、2005年にはYouTubeが創業する。2006年頃より日本でも普及しはじめ2007年には日本国内のユーザーが1000万人をこえた。

この頃から、インターネットは確実に社会に影響を与えていた。2004年には、2ちゃんねるを舞台にした電車男が話題となり、書籍化・映画化・ドラマ化される。
また、同年には声優の水樹奈々がinnocent starterで9位を獲得し初めてオリコンヒットチャートTOP10入り、翌年にはETERNAL BLAZEで2位を獲得する。

そして、2005年秋葉原では秋元康率いるAKB48がデビューする。
AKBだけは売れない。そう、誰もが思っていた。
2005年には、木村カエラが「リルラ リルハ」で話題となる。2006年、中田ヤスタカがPerfumeのプロデュースを手がけ、2007年「ポリリズム」がヒットする。

同年、Perfumeは女性アイドルグループとしてサマーソニックでオープニング・アクトを飾る。
また、当時SNSでは、mixiが全盛であった。学生たちは誰しもmixiミュージックという機能で、お互いに聴いている音楽をアピールし影響を受けた。

mixiはmixiミュージックを2009年12月に廃止する。その3ヶ月後、facebookの日本法人が設立される。
この頃、にわかにAKBがヒットしはじめる。
その後の展開は、今に続くものとなる。

2017年の現在では、AKBはアイドル界における絶対的な地位を確保してはいない。
facebookもすでにSNSの絶対的王者ではない。

そして時代は進み続け、僕らもつねに歩き続ける。

アイドル現象とSNS現象 -「希望は、戦争。」~「僕は嫌だ。」-

ミネルヴァの梟的な話だけれど、ぼやっとした頭で考えると、現象的に00年代後半から10年代がアイドルとSNSの時代であったというのは事実であると思う。

この現象の背景にはインターネット文化の発展とiPhoneの登場による徹底した活動の個人化・コミュニティの分断と、世界金融危機による世界同時不況や東日本大震災への不安があるだろう。
ある若者はいった。「希望は、戦争。」

それらの不安から埋めるために偶像への希求が生まれる。
あるいは、社会からの疎外感が自己承認の欲求を増大させる。

それらの心理を反映したのが、アイドルでありSNSだった。
何者かへの憧れは、自らの欲求である。
これら2つの現象はきわめて隣接した関係のあるものではないか。

そしてその後、それらはまとめサイトやキュレーションなどへ流れは向かう。
フェイク・ニュースやポピュリズムの中から人々は「隠された真実」に出会い、それを自己のアイデンティティの基礎としていく。
ポスト・モダンからポスト・トゥルースに時代は移る。
そして、偶像は叫ぶ。「僕は嫌だ。」

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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村上春樹『騎士団長殺し』を読む。~ イデアとメタファーと、ポスト・トゥルースのその先へ ~

村上春樹『騎士団長殺し』を読む。~ イデアとメタファーと、ポスト・トゥルースのその先へ ~ Posted on 2017年3月14日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

自分の好きな作家について語るのは難しい。
また、偉大な作家の作品に不要な批評を書くことは愚行かもしれない。

にもかかわらず、文章を書きたいと思う。

村上春樹の『騎士団長殺し イデア篇/メタファー篇』を読んだ。

いうまでもなく、傑作だったといえる。
もしかしたら、村上春樹の最高傑作といえるようになるかもしれない。

まず、視覚的な絵画を小説のなかで描いたこと挑戦的な試みだったといえる。
また、村上春樹作品の特徴である有と無とをこえたゆらぎの存在論、物語の構成には大きな深みを感じた。

しかし、これまでの作品との、もっとも大きな違いは主人公が「“父親”になった」ことかもしれない。

■ イデアとメタファーについて

まず、表題に付加されているイデアとメタファーについて考えてみたい。
これは、ある種、哲学的な概念である。

イデアは絶対観念であり、メタファーは言語による差異化の遊戯性だといえる。

村上春樹の小説がこれまで描いてきたものはそれであった。
それはイデアの喪失と自己修復の小説であり、メタファーによる闘争/逃走であったともいえる。
そこから、いかなる物語を紡ぎ出すか。それが問題であった。

村上春樹という作家は、ポスト・モダンを代表する作家であるといって間違いない。
そして、その登場は60年代末のマルクス主義的学生運動の敗北と三島由紀夫の自決を通過したものだった。

「僕」は機動隊員に前歯を折られズキズキしたり、学食で三島由紀夫の演説をテレビジョンで眺め、
1978年神宮球場でヤクルト対広島戦を観戦中に突然小説を書くことを思い立った。
そして、80年代以降、そのポスト・モダン的作風と独特の文体と物語で文学界を席巻することとなる。

それは、絶対性<大きな物語>の喪失から物語を再構築する大いなる歩みだったといえる。

初期の作品である『風の歌を聴け』や『1973のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ノルウェイの森』は、イデア喪失のその言いようのない悲しみを深く感じさせるものであった。
羊抜けがそうだ。

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『ダンス・ダンス・ダンス』には、ポスト・モダン的なある種の可能性世界や高度資本主義経済との関係性が比喩的表現巧みに描かれていた。
それはスキゾ的な逃走の宣言であった。

「踊るんだよ」
「でも踊るしかないんだよ」
「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」
オドルンダヨ。オンガクノツヅクカギリ。

90年代以降、作風は深みを帯びていく。
地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災の影響から社会へのコミットメントを宣言する。

2009年には、イスラエル文学賞の授賞式にて『卵と壁』のスピーチを行い、小説の社会的意義を説く。

そして、本作においては、そこから一つパラダイムが進み、あらたな物語を紡ぎ出したというのが僕の見立てである。

■ 村上春樹によって描かれる父性 – あらたな物語構築のためのエチカ –

今回の作品で、関心を惹いたのは、主人公が父親となったことである。
それも、「実の子」であるかどうかがわからない子の、父親となったのだ。

村上春樹氏に子どもはいないはずである。
また、これまでの村上春樹の作品を振り返ると、主人公が父親として描かれた記憶はない。

もちろん、『国境の南、太陽の西』の主人公は妻子ある男性であったし、『1Q84』では青豆と天悟の間で、青豆が妊娠し子どもができたはずである。そして、天悟とNHK集金係であった父親との関係の中で、父親というものが描かれていたようにも思う。

しかし、村上春樹の物語といえば、独身の主人公が事件に巻き込まれながら女性と出会いセックスをするという展開の方がイメージに近いだろう。
今回の作品は、単に、そうではない。(そうではあるのだが。)

この点は、今回の作品とこれまでの作品との大きな違いである。

そして、これは「イデアの喪失/メタファーによる闘争/逃走」から、ひとつの新たなる物語を紡ぎ出したといえると思う。

結論からいえば、本作では、「実の子」かわからない子と“本当の親子”になることによって、
真実としてのイデアの獲得ではなく、メタファーによる世界観の転換でもなく、
他者との関係性の中で“真実を超えた本当の物語”の構築に辿り着いたといえる。

加えて、これまでの作品では、現実と可能性世界との関係で物語が紡ぎ出されていた。
しかし、今回は、その関係を乗り越えた上で、現実世界の中で、物語を紡ぎ出したといえる。

現実の世界の中に、真実は存在しない。しかし、その中に、本当の物語を見出すのだ。
これは、ポスト・トゥルースなどという安易な言葉で片付けてはいけない、物語の創造であると思う。

本作は、村上春樹の過去の作品の各要素が散りばめられて構成された大長編であった。
ある意味で、これは村上春樹の総決算的な作品になるのではないか。

■ レコードやカセット・テープで音楽を聴くこと

本作で、あらためて気になったのが、音楽を聴くことの描写だ。
もちろん、音楽について描かれているのは、いつものことである。

今回、気になったのは、レコードやカセットテープといったアナクロで非合理なメディアで音楽を聞いていることだ。
もちろん、ここ数年、レコードの復権やカセット・リバイバルがささやかれてはいる。

しかし、今さら、時代遅れのレコードやカセットテープで音楽を聞いてどんな意味があるのだろうか。
すると、レコードやカセット・テープで音楽を聴くというのは、ある意味何らかのアチチュードの表明ではないかと考えられる。

つまり、それは「動物化するポストモダン」化した社会へのアンチテーゼではないだろうか。
それは、物語の喪失への異議申し立てであり、コンテンツのデータベース消費へのNoであり、全てが相対主義化した社会への批判だ。

すべてが等価値であり、無価値である世界。
あらゆるものをデータベースからピックアップしてキュレーションする社会。
キャピタリズムとエンジニアリングの成れの果て、物語を失い真実の喪失に動揺する社会への批判であろう。

もちろん、音楽は曲自体物語を内包しているものである。
しかし、レコードやカセット・テープは、シャッフル再生することはできないメディアである。
そして、そのことが意味をつくりだす。
それらにはA面とB面があり、それぞれがその作品全体の前半と後半の構成として展開されていて、
作品全体として、その中に大きな物語が描かれているのだ。

ちなみに、私事であるが、この本の影響を受けてカセット・プレーヤーと大量のカセット・ライブラリを購入してしまった。
物語が現実に与える影響の大きさを感じざるをえない。やれやれ。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
Posted in 哲学・批評 散文

文化系トークラジオLife「ポスト・トゥルースのその先へ」を考える。

文化系トークラジオLife「ポスト・トゥルースのその先へ」を考える。 Posted on 2017年2月26日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

ポスト・トゥルースを考えてみるときに、現在のこのポスト・トゥルースを生み出した状況には、①技術的側面(テクノロジー/ライフスタイル)/②政治・経済的側面/③歴史的・思想史的側面があるのではないか。

①技術的側面(テクノロジー/ライフスタイル)

まず、技術的側面では、過去20年におけるインターネットとスマートフォン、そしてソーシャル・ネットワーキング・サービスの普及だ。
インターネットの普及により、これまでのマスコミや論文発表とは異なった場所で、誰もが情報を発信できるようになった。

しかし、それらの情報は査読されずに発表されるため、内容には不確かな情報も含まれてくる。
そこに、インターネットのコピペ習慣ともいうべきものが加わるところに、大量のコピーやシミュラークルを量産していくということがある。

そして、過去10年間にはそこにSNSが加わり、感情に訴えかける表現のコンテンツをシェアするという状況が生まれた。

②政治・経済的側面

政治・経済的側面を見ると、現在は情報戦の時代である。

わかりやすく経済的側面から見れば、マーケティングは極言すれば、どれだけユーザーの目に触れ、ユーザーのマインドシェアを獲得するかということである。
いかに競合よりも多く広告を利用し、ユーザーの心に訴えるかが、統計学や行動心理学の知識が用いられ高度に実践されている。まさに、情報戦争である。

そして、現在は政治的にも情報戦が実践されている時代だ。
第二次世界大戦の核兵器の利用以降、国家間の全面的決戦戦争というのは、不可能となっている。
(核兵器を利用すれば、あまりにも大きな被害が生まれるため。)

そのため、20世紀の後半からは、ゲリラ戦・テロリズムの時代になった。
しかしながら、ゲリラ戦・テロリズムというのは、それ自体心理的な戦略という側面が大きい。
つまり、いかに大衆を味方につけるのか、いかに敵の遷移を喪失させるのか、というのが戦略の目標となる。

そこから、それらの目標を達成するための手段として、インターネット・メディアの技術が現代では大いに活用されるようになったと。

現代は、そういった状況の中で、政治・経済的に情報戦争の中にある。

③歴史的・思想史的側面

そして、歴史的・思想史的側面を考えると、90年台初頭のソビエト連邦の崩壊と大きな物語の喪失、そこから四半世紀(大きな)物語(フィクション)をわれわれの時代が生み出せなかったということが今になって大きな意味を持ってきたということがある。

マルクス主義的な大きな物語の終焉は、そのカウンターとしての思想であったポスト・モダンの思想の勢いも失わせた。

そして、90年代以降は、物語なき思想としてのリベラル思想が主流となってきていたといえる。
それはまさにあらゆる価値観の相対化と、終わりなき対話の時代であった。

そして、物語の真空状態ともいえるその状況で、ナポレオンの再来としてナポレオン三世が登場したようにファシズムの再来のような形でトランプ大統領が登場したといえるのではないか。
それは、ポピュリズムに訴えかける、感情的なナショナリズムの登場、まさにポスト・トゥルースの時代の幕開けを意味したものであった。

■ポスト・トゥルースの、この流れに対抗するために文化系の僕らができること

このポスト・トゥルース的状況において、①技術的発展/②政治・経済的への抵抗というのは、なかなか対抗してどうにかなるものではないと思います。
この流れを押しとどめるのは、難しく意味を生み出さない。
技術的発展は活用すべきであるし、政治・経済的状況については受け入れ、その中で脱構築を試行錯誤すべきではないかと思います。

僕らがするべきなのは、③歴史的・思想史的流れの中で、あらたな物語・あらたな思想を語り合い構築することではないかと思うのです。

僕は、(大きな)物語のない時代に、共通の大きな物語を構築することが、ナショナリズムのような感情的思考への免疫をつくることではないかと考えるのです。
つまり、(大きな)物語を持たないことが、われわれの弱点、ポスト・トゥルースに呑み込まれる重大なファクターであると思うのです。

■なにをなすべきか?

では、これまでのリベラルや終わりなき対話が生み出した状況から、いかに(大きな)物語を作るのかというのが問題となります。

ここにおいて、僕らは100年前の1917年にロシア革命が起きた非民主主義的な時代の民衆の夢を、もう一度再検討する必要があるのではないでしょうか。
本当に、非民主主義的な存在に呑み込まれる前に。

それは、進歩主義の夢であり、ユートピアの夢です。
現代において、リベラルや終わりなき対話で問題なのは人々が共通の価値観を持たないがゆえに、連帯ができなかったり物語をつくることができなかったということではなかったでしょうか。

現代は多様性の時代でもあります。
その多様性の時代、共通の価値観を持たない時代に、いかなる未来・夢・ユートピアを思い描くのか。
そのユートピアの夢を、僕らが語り合うこと、発信すること、そしてその対話の中に人々を巻き込むことが大事なのではないでしょうか。

それが、文化系トークラジオLIFEの役割だと、僕は思います。

トランプ大統領の誕生やポスト・トゥルースは、きわめて現実的な問題です。
とても重要な、現実的の出来事です。

しかし、現実の重大な流れに、正面からぶつかるのでは、その濁流の流れに押し流され砕かれるだけです。

僕らは、文化系です。
だからこそ、物語(虚構=非現実)を利用して対抗するのです。

ユートピアを非現実的に夢想し・対話し、ポスト・トゥルース(脱現実)と闘争/逃走することが僕らの任務ではないでしょうか。

そのユートピアの物語こそが、「ポスト・トゥルースのその先」にあるべきものではないでしょうか。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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ABOUT US Posted on 2016年7月23日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

アーバン・リベラル・アーツとポスト・トゥルース・ストーリー。

自由への逃避行。
(TOKYO) FACTORY MAGAZINE | Post-Truth Stories for the People

これらのテクストはシミュラークルか?あるいは、シュミラークルにすぎない。

1960年代のニューヨークの象徴的存在、アンディ・ウォーホルのファクトリー(The Factory)。
1980年代のマンチェスターの象徴的存在、トニー・ウィルソンやニュー・オーダーのファクトリー・レコード(Factory Records)。

彼らは、社会にとってカウンターであり、実験的でアヴァンギャルドでインディペンデントな存在だった。
僕らは、彼らのようなカウンターに憧れていた。なぜって、そりゃヒップでクールだから。

カウンターとしての存在はどこに行ってしまったのだろうか。
現代はポスト・モダンの延長線上にありながら、すべてが相対化され物語がなくなってしまった。

僕らは、そのことにある種の寂しさを感じています。
レコードに裏表があるように、社会にはシステムとカウンターがあり、文化にもメインとサブがかつてあったと。

これは印象論ですが、ジャン=フランソワ・リオタールが言うところの「大きな物語」だけではなく、自らの実存に対峙しその存在を受け入れるといった「小さな物語」も曖昧なものになっているのではないか。

人々は「物語」のない世界で、どんな世界観の中に生きているのだろうか。
もしかすると「記号」や「刺激」だけを与えられ、それを追い続けているのか。
あるいは、そこにはどこかしら、息苦しさや生の倦怠があるのではないかと。

しかし、僕らは、むしろ、ポスト・トゥルース時代はあらたな物語が創造される舞台なのではないかと思っています。

だから、僕らは、郵便業界・出版業界・広告業界、WEB・IT・コンサルティング業界、美容・ファッション業界などバラバラな場所で日常に振り回されながら、気の向くままに言葉をテクストとして残しています。

そう、検索エンジンに遺伝子を散種するように。
そして、これを読んである種の物語に騙される人が、いつかどこかにいることを夢想して。

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シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。