タイ(バンコク・アユタヤ)を旅する ― 聖なるものと俗なるものの濁流をさまよう

2018年9月14日~18日、タイ〈バンコク・アユタヤ〉を旅行した。 微笑みの王国、タイ。かつて「クルンテープ」(天使の都)と呼ばれ「東洋のヴェネツィア」と讃えられる水の都バンコク。あるいは、世界遺産にも登録された古都アユタヤ。アジアの雑踏。崇高な超越へのあこがれと、猥雑な風俗が雑多に混じりあった東洋の王国。 バンコクを流れるチャオプラヤー川の濁流は聖俗浄穢を飲み込むタイの風土を象徴しているかのようだ。それは、同じアジアの王国でも、日本の列島全土を流れる清流や神道的な穢れの思想とは対称的である。 初日 ぼくら(友人とぼくの3人)は、9月13日(木)の夜に羽田空港に集まり、9月14日(金) 00:30 東京・羽田発 → 9月14日(金) 04:50タイ・バンコク行きのフライトで旅行を開始した。旅行初日はトラブルの連続であった。バンコクの空港に降り立つと、友人がひとり行方不明になった。iPhoneのSIMカードはwifi環境でのアクティベートが必要ですぐには使えなかった。ぼくらは、とりあえず、なかば諦めて入国審査カードを記入した。 どうにか、ようやく友人と再会し、電車や船を乗り継ぎながら朝...

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哲学 – 賭け – 愛するということ

パスカルは神の実在に賭け、アインシュタインは神はサイコロを振らないと言い、カエサルは賽は投げられたと行動し、ハイデガーやサルトルは企ての中に身を投じることをエンドースした。 哲学的な認識と実践のあいだには決定的な亀裂があって、それらは二元論的に制御すべきで一元論的に統合することは出来ない。 しかし、認識と実践のあいだにある飛躍、死を覚悟した跳躍というのは? それは、まさに賭けというものなのではないだろうか。 賭けは、人間にとって強烈で不思議な魔力を持っている。ギャンブラーであれば、赤のカードが5回続いた次には黒が来るのではないかと流れを感じ取ってしまうはずだ。 奇妙な話ではある。確率的にいえば、これからの出来事とこれまでの出来事には因果関係はない。しかし、人はそこに流れを見出してしまう。あたかも、ヒューム的な違和感というか、有らぬものをあたかも有るかのように感じるのだ。 ある意味では、人生自体、賭けと言えなくもない。もちろん、僕らはディーラーではないからほとんどの場合には、はじめから負け戦だけれど。 他者を愛するということも賭けである。 僕らに、彼女らの気持ちは解りえない。応えてくれる...

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西洋コンプレックスとアジア的意識 – 近代/一神教/自由の意味 –

最近、アジア的なものに関心がある。 基本的に自国や他国に対する強い思い入れはないのだが、なぜアジアについてとらえ始めたのかと考えているうちに、自分の中に強い西洋コンプレックスがあるのではないかと気づいた。 アジア人として生まれたことに対する、非西欧的であることへのコンプレックス。 一見すると、かなり奇異なことを言っているように思われるかもしれないが、やはり現在の世界は西欧中心の価値観で構成されていると考えていいのではないだろうか。 世界的なグローバル化はある意味で文化的なアメリカナイズという側面が強く、世界中どこへ行ってもある程度の都市ではSTARBUCKSやMcDonaldやGAPの店に出会うだろうし、道行く人々の手の中にはApple製のiPhoneかGoogleのAndroidのスマートフォンが握りしめられている。彼らが休日を過ごすのはローマ-イギリス-アメリカ起源のショッピング・モールだし、日記代わりに記録を残していくのはシリコンバレーで開発されているFacebookやInstagramやTwitterにである。 精神的にも経済にも、マックス・ウェーバーが語ったところの西洋におけ...

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アイデンティティとナショナリズム

人間には否応なく認めざるを得ない暴力性というのがあるのではないか。 それは、ある種アイデンティティの維持と関わるものだと思われる。 暴力性は、他者を攻撃したり人を支配するという欲望と同質のもので、特に自己の危機において顕著に立ち現れる。 批評空間の「明治批評の諸問題」を読んでいる。 そこでは、日本語の言文一致はむしろ根本的に翻訳が起源だと書かれている。 二葉亭四迷のツルゲーネフ翻訳や漱石の翻訳的言文一致的な文章が起源だというのだ。 言文一致とナショナリズムは大きな補完関係にある。 ナショナリズムについて書かれた著作には、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』がある。 そこによれば、ナショナリズムが起因する近代国家〈ネーション〉は、成員が「共同幻想」を共有することによって成立するとされている。 アンダーソンは近代国家〈ネーション〉成立の要因を出版資本主義の発展に求め、新聞が〈ネーション〉の公用語の普及に大きな役割を果たし、世俗語の言文一致をあまねく至らしめるとともに「想像の共同体」の形成に大きく寄与したとする。 翻って日本の言文一致の起源を考えると、言文一致の翻訳起源を否定するよう...

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日本語のエクリチュール/パロールと中国語

少し遅れたが、すでに、2018年がはじまっている。 個人的には、今年、少し語学を学習しようと考えている。 これまでの興味の対象は概念であったが、ある種の言語的転回(展開)が沸きあがってきたというところだろう。 昨年わずかに英語・中国語・PHPを学習しはじめたが、今年はそれをどれだけ蓄積できるだろうか。 ところで、中国語を少し勉強してみて、とてもよくわかったのは、むしろ日本語についてで、日本語は書き言葉(エクリチュール)と話し言葉(パロール)がまったく別の流れを持った別々の言語だということ。 日本語と中国語は、漢字という共通の基盤を持つためエクリチュールは眺めればかなり内容の想像がつく。 しかし、にもかかわらず音声言語においては、相互に輸出入された単語はあるが、基礎的な音からまったく異なっていて学習しなければ聞き取ることができない。 考えてみれば、日本語は古代の漢字の輸入以前からあったわけで、音声言語としては別の流れにあるわけである。 中国語は構造的な性質を持ち、日本語は叙情的な性質を持つ。 古代、日本に輸入された頃から漢字は官僚機構によるシステム運用にりようされた。これが日本の書き言葉...

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現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』

2017年も残りわずか数時間となった。 今年は近年稀に見る激動の年であった。 アメリカではポピュリズム的な現象を背景にトランプ政権が発足、フランスではマクロンに敗れたがマリーヌ・ル・ペン率いる国民戦線が躍進。 ヨーロッパでは、イギリスのメイ首相がEUに離脱を通知、スペインのカタルーニャ地区は独立を宣言した。 中東ではイスラム国は事実上の崩壊。 しかし、アメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定したことから多数の抗議活動が起きている。 アジアでは、フィリピンのドゥテルテ大統領が麻薬撲滅キャンペーンを実施し超法規的殺人が行使され、マレーシア・クアラルンプール空港では北朝鮮の金正日総書記の長男である金正男が暗殺され、ミャンマーはかつての民主化運動の旗手アウンサンスーチーによる新政権のもとロヒンギャは混乱に陥っている。 そして、日本では飛翔体が定期的に飛び越えている。 他方、経済面は数値の上ではバブルとも思える好調であった。 世界的に各国の経済は軒並み好調、日経平均もかつて1992年のバブル崩壊前の水準に上昇。 また、仮想通貨の価格は10倍にも100倍にも高騰した。 そのよう...

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『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて –

時代が大きく変化している情況において、より大きな動きが見られるのはもっとも開発されもっとも進んだ先進国ではない。 むしろ、ある種のつまずきを抱えてその遅れを取り返そうとしている国において、大きな動きが見られる。帝国主義時代のドイツ・ロシア・日本がそうであったろう。 そして、今のロシアはまた同じようにつまずきを抱えて、それを乗り越えようとしている。 であるならば、これからの21世紀の相貌の一端がまた見られるのは、ロシアの現代思想からなのかもしれない。 現代思想としての哲学は、20世紀に取り残された1つの課題を抱えている。 それは、しばらくのあいだ忘れ去られていた課題、「近代の超克」の問題だ。 思想史的な現代の情況をみたてると、ヒューマニズムにより近代を超克しようという熱病が再燃しているのが現在だろう。 近代哲学の完成がヘーゲルだというのは意見の一致するところだが、そこからの超克を目指して19世紀後半から20世紀前半に展開されたのがニーチェやマルクス,ハイデガーやラッセルなどいわゆる反哲学=現代思想としての哲学だった。 19世紀の近代化された世界は問題を抱えていた。 それを乗り越えるために...

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〈都市教養〉というキーワード=コンセプトについて

よくわからない名称の大学や学部というのがある。 例えば、首都大学東京にある「都市教養学部」がそうである。 「都市教養学」とは何か?あるいは「首都大学東京」という名称をファルスのように感じる人もあるかもしれない。 これは都政の改変にもとづいてつけられた名称だ。その名称には疑問の声も多い。 そして、今現在、それらの名称は変更が検討されているという。 しかし、あらためて現在という時代を眺めてみれば、今の時代に本来的に必要なのはまさに〈都市教養〉というキーワード=コンセプトではないだろうか。 そして、これは学的な分野ではなくもっと普遍的に志向されるべきキーワードだろう。 「教養」とは?それが社会に出た時に役にたつだろうか?経済性は? 「教養」という言葉自体、すでに批判の対象だろう。 古典的な「教養」が古くさいもの,ホコリを被ったもの,無用の長物,賞味期限切れ、これは確かにそうだ。自明である。 必要のない役に立たない教養こそ重要だという議論など欺瞞に過ぎない。 では、「教養」は不要なのか?そうではない。 もし、行動や信仰をむしろ良きものとする反知性主義の道を選択するのであれば、僕らは20世紀から...

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台湾を旅行する。- 中華民国台湾省台北市的小旅行 –

8月24日から8月28日にかけて、台湾を旅行した。 台湾旅行を振り返ると、文化あるいは歴史的な流れにおける気づきが大きかった。 また、この旅は4泊5日だったのだけれど、予想していたよりも台北は大きかった。 旅の全体像は、以下のような日程であった。 前日深夜から羽田空港で過ごし、LCCのタイガーエアで05:30に離陸。 1日目、西門駅周辺の昆明街にあるホテルに到着。龍山寺周辺や台湾総督府周辺を散策。 2日目、世界三大博物館の故宮博物館や誠品書店をめぐる。夜は士林夜市を散策。 3日目、鼎泰豊の本店で食事、夕方からは九份を散策、台北101 にてナイトビュー。台湾式マッサージを試す。 4日目、夏休みらしく白沙湾のビーチで過ごす。足裏マッサージを試す。 5日目、昼過ぎの便で帰宅。日常に戻る。 香港旅行のように気軽な散策という感じでは十分ではなく、満喫するにはもう数日いてもよかったように思う。 正統なる「中国」としての台湾 台湾は思いのほか中国であった。あるいは、失われた故郷としての中国であった。 そこには、連綿と連なる中国王朝とその芳醇な文化の香りが漂っていた。 そして南国の風土がそのその香りを...

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若者の街とユース・カルチャー ~ 渋谷,音楽,ファッション ~

自分が大人になると、若者の姿を見ることがなくなる。 もしかすると僕らの知らないところで「若者」はひっそりと絶滅してしまったのかもしれない。 そんな気分になることがある。 もちろんそれは何かの勘違いのようなものだろう。 インターンをこなしている大学生、リクルートスーツの就活生、しっかりと勉学に務めている大学院生の話は聞くことがある。ありきたりでつまらない、たまらない話。 「実学」重視の就職予備校や職業人養成学校となった学園で職業訓練者たち学生らは、そのモラトリアムをどのように過ごしているのだろうか。 (実学なんて、糞食らえだ。雑学の方が、まだましだ。と、思うこともある。教養はどこに行った?時代の流れには逆らうまい。せいぜい、社会のために働くと良いと思う。) もちろん、下の世代の若者に対して批判をしても仕方がない。 はたして、いわゆる「若者」はいまでもいるのだろうか。 むしろ、かつての「若者文化」はまだ生き残っているのだろうかというのが、気になるところだ。 おそらく、若者像自体大きく変わっている。 皮肉な言い方だが、変わるべきものが変わり、変わるべきでなかったものが変わっているのだろう。 ...

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存在探求のためのメモランダム/言葉をめぐる冒険/浮遊への逃避行

存在探求のためのメモランダム ハイデガーの『存在と時間』を手にしている。 古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することをめざしている。 ハイデガーは言う。「哲学や形而上学の本来問うべき問いは『存在とはいかにあるのか?』ということである」と。 けれども、これは単に論理形式上あるいは実体化された「有・無」や「揺らぎ」としての「存在」ではない。 むしろ、「在り方」への問いであるし「有意味とはいかなることか?」という問いである。 もし神がいないのならば、全てが許される。 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』イワンの台詞だ。 もし神がいないのなら 実存が本質に先立つ。 このような言葉でサルトルは語った。 あるいは三島由紀夫の「豊饒の海『天人五衰』」のラストシーン。 しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば……それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。…… 近代はルネッサンスの人文復興が嚆矢となり、神との決別からはじまった。 しかし、だからこそ、デカルトは神の存在証明を行なったし、カントは理論理性によってはいかなる方法によ...

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左右対立のねじれについて ‐ あるいは革新右翼,ハイデガー,三島由紀夫 ‐

昨晩の、『安倍離れ?内閣改造について言いたい事を言う生放送 《東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗》』ニコニコ生放送を観た。 それはともかく、そこで夏野剛さんが、”右翼と左翼の言説が反対になっている” “右翼が改革を目指し左翼が保守的になっている” という〈左右対立のねじれ〉を問題にして、いかにして勢力図式はこう変更されたのかという問題提起をしていた。 たしかに、それはそうだ。右翼=保守,左翼=革新というのが一般的な見立てである。 番組の中では、1960年代や1970年代における新左翼の運動や冷戦構造の転換を通して、その勢力図式が塗り替えられたと語られていた。 しかし、ここでは別の側面から、この〈左右対立のねじれ〉について、あるいは〈それ以後〉について捉えてみたいと思う。 それは、大正~昭和に興隆し展開した革新右翼をとおしてある時代の流れを捉えるということかもしれない。 現在からおよそ一世紀前に、革新右翼というものが登場した。 代表的な人物としては、後にイスラーム研究者となった大川周明や『日本改造法案大綱』を記した北一輝などがいるだろう。 ...

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僕らが旅に出る理由 – 日常の外の日常 –

僕らが旅に出る理由はなんだろうか? とはいえ、旅にも色々あるかもしれない。 ある意味、旅はある形での自由(自我の拡大)の追求だろう。 ヘーゲルの絶対精神の弁証法の旅やゲーテの自由を求めるビルドゥングスロマン、コリントスから逃れたオイディプスの悲劇の旅。 他方、旅は他者との邂逅や出会いと別れ、ヒューマンを感じるものかもしれない。 東浩紀の「観光客の哲学」や川端康成の「伊豆の踊り子」、あるいは市川崑の「木枯し紋次郎」「股旅」。 僕は以前から「旅」「旅行」「観光」といったキーワードには違和感を持ち続けていた。 そこには、ある種の憧れと軽蔑、アンビバレントな感情があった。 なぜ、旅をするのか?目的は何か?何をどう楽しむものだろうか? そもそも、社会人の男性をターゲットとした旅の目的地はあるのだろうかという疑問(風俗や酒場は別として)。 あるいは、物理的に移動する意味はあるのか?旅行とインナートリップはどちらがより遠くまで行けるのか。 しかし、5月は思いがけずに何度か遠出をした。 香港・マカオへの旅行、ブラジル街大泉町の散策、伊豆大島の旅行、御岳山登山。 住めば都というが、出れば旅も悪くない。 ...

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思考の袋小路

ある時に、ふと袋小路に迷い込むことがある。どこから入り込んだのか、出口が見つからない。物理空間であればまだ救いはある。壁を乗り越えることができるなら。 情報空間でのエラー。繰り返しのリダイレクト、503 Error Service Unavailable。思考の袋小路。 哲学的な問いは、ある意味で薮知らずの森だ。そして、それは足を踏み入れるまでもなく、気づけば僕らを取り囲んでいる。 存在への問い、価値への問い、客観への問い。本質とは何か、美とは何か、人間とは何か。 答えはあるだろうか、ないだろうか。 思考の袋小路に迷い込んだことがある。きっかけは、すべての現象は言葉によって、善にも悪にも自由に解釈できると気づいたことから始まる。すべては人間の解釈によって定義される。つまり、世界そのものには価値は存在しない。すべては相対化されるから。 世界に価値が固定されていないのであれば、人間の論理や認識が世界を定義づけることになる。 では、人間にとって、定義の基礎は存在するのか?何か絶対的なものがなければ定義の基礎づけはできないのではないだろうか。絶対性は存在するだろうか? 絶対性は存在するだろうか...

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