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「人生は歩きまわる影法師、あわれな役者」~DNA-偶然性-運命論-自由~

「人生は歩きまわる影法師、あわれな役者」~DNA-偶然性-運命論-自由~ Posted on 2018年4月8日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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映画『ちはやふる -結び-』を観る。

『ちはやふる 結び』瑞沢の三年間と真島太一の成長物語に最高の決着を付けた完結編。
超絶技巧で描かれるかるたの格好良さ。名人の言葉と、もがき続けた先の太一の姿に胸が熱くなる。
青春という「一瞬」から継承という「永遠」へ、部活映画の枠を越えたスケールの着地に心が震えた。

『上の句』で「青春全部懸けたってあいつには敵わない」と言っていた太一は『結び』で「原田先生や周防さんが懸けているものは、青春どころか(人生すべて)」だと気付く。
太一とともにこの作品の視野も、高校三年間から人生そのもの、そしてそれすら包み込む大きな時間へ開けていく。

千年前の思いを百人一首が今に伝える、というモチーフは『上の句』からあったけど、『結び』では今を未来へ伝えるという視点が加わった。
自分の強さを周囲へ分け与えること、先輩から後輩へ部の記憶を伝えていくこと。

千早が後輩二人に「素敵なことが始まったと思った」と言ったのは、自分たちがいなくなった後にも残るものができて、かるた部で過ごした時間が、奏の言う「千年先に残る歌」になったと感じたからではないか。

『結び』に強く感動させられるのは、この作品が時を越えることについて語っているからだと思う。
部活の伝統や青春を扱っているけど、そこからもっと普遍的なものへと拡がっている。
千年前から今この時へ、今この時から千年後へ。

歌の内容が物語に深く関わってくるのだけど、本来の意味を尊重しつつ登場人物なりの解釈が加わっているのが面白い。(「今の私には「ちは」しか見えない」とか、「「しの」を獲るのは私や」とか)。競技かるたという存在が歌に新しい命を与えている。

「私達はどんな歌を千年先に残せるんでしょうね」
「この歌が千年の時を越えて今に残ったように、私達には一瞬を永遠に留める力が確かにある」
奏と周防名人の言葉がこの映画の主題を語っている。
部活という一瞬と、歌という永遠。

名人としての強さが、部の伝統が、かるたに関わる人の繋がりが、千年先に残るものとして何度も示唆される。
かるたで過ごした時間が、登場人物達にとっての「歌」になっている。
普遍的だけど、競技かるたでしか描けないテーマ。

物語と人間関係の変化を端的に示しているのが掛け声だ。
なかなか揃わない「瑞沢ファイト」がチームの状態を表していた。
部活紹介(太一)→地区予選一回戦(千早・筑波)→地区予選決勝(筑波)→全国一回戦(花野)いつも誰かが欠けていた。

瑞沢の掛け声が揃っていくのと並行して、新たち藤岡東が未成熟なチームとして描かれる。
「瑞沢の三年間に負けた」という新の言葉がはっきり表れるのは、まるで揃わない「藤岡東ファイト」の掛け声だ。あの場面の空気がいたたまれない。

ただ、新も藤岡東メンバーも団体戦を甘く見ていた訳ではない。
千早と太一が羨ましくて始めた団体戦を手探りで学んでいる感じがある。あの掛け声も、準決勝の北央を見て(ヒョロの、それ自体は声が裏返って情けない掛け声だけど、それを見て新ははっといていた)「発見」したものだ。

送り札と札合わせ。送り札は個人の物語。千早と伊織の、太一と新の。
札合わせは、一人の意思や葛藤や決断にチームで運命を共にすること。
太一と千早の物語と、瑞沢かるた部という群像がここで結び付いている。

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映画『聖なる鹿殺し』を観る。

『聖なる鹿殺し』を観た。
ランティモス監督の前作『ロブスター』を観たときにあまりにはまってしまって、もちろんその年のぶっちぎりの年間ベストだったんだけど、そのせいでハードルが上がりすぎてたのか正直心から絶賛はできなかった。

理由の1つが、脚本というか物語の筋があまりにシンプル過ぎたというところ。前作『ロブスター』は物語が誰も意図しない方へ加速度的に転がっていき、その奇想天外ぶりと洗練された映像・音楽のバランスが完璧だった。
本作も、撮影・音楽に関しては文句なく最上のスタイリッシュさなんだけど、如何せん物語がシンプルすぎて、しかも最後に大どんでん返しもない。

復讐譚というフォーマットの上で、節々の台詞やいたたまれない結末を使い家族の脆さや善悪の判断がつかない人間の弱さなどを表現するあたりにはハッとする。その痛みに一切寄り添わない無慈悲さも恐ろしい。

ただ、大元の歩けなくなるそして死ぬという呪術的な設定に仕掛けが全くなかったのが残念だった。そこを裏切るか、設定が破綻するほど物語が進んでいくことで、受け手を混乱させて尚残るのはあまりに美しい画と音楽というランティモス的な世界がもっと堪能したかった。

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2018年のエイプリルフール

2018年のエイプリルフール Posted on 2018年4月1日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

米国株式の現在の状況は1929年・1987年・1990年という歴史上の3大崩壊に非常に似ているというニュース記事と、中国経済は日本のバブル崩壊直前と酷似しているとニュース記事に目を通した。
そんなことはいつも言われているのだろうが、しかし、大正・昭和の終わりのように、元号の変わり目だなという感じが強い。

けれど、春の日差しの中、待ちゆく人々の顔にはうきうきとした気持ちが表れ、新宿御苑には満開の桜の花を見に来た人たちが溢れていた。
今夜はブルームーン。2018年最後のブルームーン、次は2年半後の2020年ということだ。


「極東の火薬庫」からはじまった第三次世界大戦は前世紀の二度の世界大戦と東西冷戦を弁証法的に止揚したものとして展開した。
それはフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』や石原莞爾の『世界最終戦論』における仮説を覆し、5次元空間での戦争と新たな歴史を本格的に始動するものであった。


Blankey Jet City『悪いひとたち』より

今日もあの気持ちのまま一人で歩いてる 街に真っ白いMILKを買いに行く途中
それを見たバックシートの男は 12月生まれの山羊座で 第三次世界大戦のシナリオライターを目指してる
日傘をさして歩く彼の恋人は妊娠中で お腹の中の赤ちゃんはきっとかわいい女の子さ

……

それを見てたひとたちが 頭の中に思い浮かべるのは
ガードレールに激突したオレの黒い車のガイコツマークが炎に包まれている場面
 
BABY Peace Markを送るぜ このすばらしい世界へ
 
きっとかわいい女の子だから きっとかわいい女の子だから……

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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読書ノート

『不安定な時間』ミシェル・ジュリ

「われわれの時代に、人類はついに内的宇宙を征服することができたんだ」「だが、部屋には悪魔がはいっていて、あんたがたはドアに鍵をかけなくちゃならないのだ」 ディックの『ユービック』を連想する。主観的な時間旅行あるいは死後の世界。人格と場面が唐突に目まぐるしく変転し、変奏を加えて何度も何度も繰り返される。この反復がどういうわけか愉しくてしかたない。どこにもたどり着かずに跳躍し続けてくれてもいいくらい。SF文学史にボリス・ヴィアンやレーモン・クノーの名前が出てくるあたりがとてもフランス。

『神曲 地獄篇』ダンテ

建築物としての全体も神学も歴史的背景もわからないなりに、パオロとフランチェスカの恋愛、ウゴリーノ伯の餓死、農耕詩的な比喩、といった細部の造型を美しいと思う。と同時に作者の自我の強さというのか同人誌的というのか、自らを偉大な叙事詩作者として数えたり、オウィディウスの『変身譚』にも勝ると自負したり、嫌いな相手を(存命であっても!)地獄に落としたり、大好きなウェルギリウスを登場させてイチャイチャしたり、作品の緻密さや幻視の凄まじさと合わせて、文学者の業に感動する。解説『ダンテは良心的な詩人か』がためになった。

『アウトライナー実践入門 ~「書く・考える・生活する」創造的アウトライン・プロセッシングの技術~』Tak.

死ぬほど苦手だった、文章を書くということの仕組みを初めて体感できた気がする。今まで目にしたどんな文章技術の本よりも実践的でわかりやすい。

『挑戦者たち』法月 綸太郎

ジョジョやノベルゲーやTwitterのネタからボルヘスや稲垣足穂、カフカにベケットにレムにナボコフにカルヴィーノまでパロった本格ミステリ版「文体練習」。元ネタの多彩さが楽しい。特に『幻獣辞典』が笑えた。「〈読者への挑戦〉とは書物の中にひそむ妖魔で、(F・R・ストックトンの疑わしい報告によれば)女と虎が半分ずつ混じり合った姿をしている」って何だ。

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人文の終わり/批判的であること – マルクスからスティーブ・ジョブズへ –

人文の終わり/批判的であること – マルクスからスティーブ・ジョブズへ – Posted on 2018年3月25日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

先日、ワシントン・ポストの記事にウィスコンシン大学が人文学と社会科学の実質ほぼ全てともいえる13のコースを廃止するというニュースがあり衝撃を受けた。

A University of Wisconsin campus pushes plan to drop 13 majors — including English, history and philosophy

大学には経営と予算、学生の集客の課題がある。そのため、より予算が付きやすく、より学生が集まりやすい、就職やキャリアにつながるような実学的な学部を増強し、予算が付きにくく学生の集客力の弱いリベラル・アーツ系の学部は廃止したほうがビジネスとして合理的であるという判断である。
背景として、アメリカは学生の奨学金返済問題が深刻だという問題もある。

他方で、保守的な共和党から影響を受けている部分も大いにある。
ウィスコンシン州知事であるスコット・ウォーカーは2015年にウィスコンシン大学の理念を秘密裏に変更しようとしたということである。
その内容はこうだ。

by removing words that commanded the university to “search for truth” and “improve the human condition” and replacing them with “meet the state’s workforce needs.”

大学のミッションから「真実を探る」と「人類の発展」という言葉を削除し、それらを「国家の労働需要を満たす」というように置き換える

真実を探求したり、人類のより良い状態を目指すのではなく、国の労働力になれと。
いうなれば、社会に借りがあるのだから、働き蜂になって返せというのが保守陣営のまっとうな論理ということである。

いわゆる人文知は圧倒的な敗北に帰した。遠からず消滅へ向かうのだろうか。

一方でITやグラフィック・デザインやマーケティングやMBAのコースは拡張するということである。
また、VRやGAMEや観光学などビジネスにつながりそうな領域は伸びそうである。

しかし、これはある種の「動物化」や「機械化」ではないだろうか。
間違いなく近代 – ポストモダンの終わりという感じがして、人々は〈神〉をその台座から引きずり降ろして殺すことで近代を迎えたけれど〈人間〉を殺して近代を終えるのだなという感じが強い。

ポスト・トゥルース的高度資本主義世界へようこそ


しかし、人文は本当に終わったのだろうか。
無くなってしまったのだろうか。

あるいは、かつての「文学-批評-哲学」の業界は、今では「ブロガー-広告-自己啓発」にその役割を取って代わられ、マルクス的な〈革命〉の理念はスティーブ・ジョブズ的な〈起業〉へと置き換えられたというのが、実際のところなのだろう。
その移行を象徴的に表すシンボルが『資本論』から『Mac Book』へのアイコンの変化だろう。

そういった意味では、今の時代の「文学-批評-哲学」をアクチュアルに理解しようと思ったら、やはりはあちゅう やイケダハヤトやほぼ日をちゃんと読まなくてはいけないのかもしれない。

とはいえ、マルクスは教条主義化されて二度死んだわけだけれど、あるいはジョブズも二度死ぬのだろうか。
それこそ『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を地で行く話ではある。

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的な事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度目は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として、と。


近年、批評的言説の衰退と再起動ということが言われる。

課題として、吉本隆明的な批評家の後継がきちんと継承できなかったのが問題であったのではないだろうか。
もちろん、多くの人に影響を与えている。高橋源一郎や中沢新一、宮台真司など。
しかし、今のところの1番大きな後継者(吉本隆明-試行を継ぐもの)は糸井重里-ほぼ日であろう。

一般的に、吉本隆明のテクストはあまりに詩的で読めないという批判がある。
けれども、人々に影響を与えるのは結局は広告やコピーライトであるという現実はあって、それを認めることのできない批評性とは何だろうか。

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ドラマ『アンナチュラル』最終回を終えて – 理性や倫理の先にある“思い”が人を動かす –

先日『アンナチュラル』がその短いようで長い旅の終わりを迎えました。
各方面から大きな反響を呼んだ本作ですが、個人的にもテレビドラマ史に残る名作だったと思います。その魅力と新しさについて解説していきます。

本作を語る上で欠かせない要素の一つとして、脚本が挙げられます。
脚本を担当した野木亜紀子は2010年にフジテレビヤングシナリオ大賞を受賞しデビューした、一般的には若手に分類される作家です。脚本家として彼女の名が知れ渡るきっかけとなったのが、2016年の『重版出来!』と『逃げるは恥だが役に立つ』の2作です。『空飛ぶ広報室』や『図書館戦争』など、原作ものの脚本には以前から定評があった野木ですが、『重版…』『逃げ恥』に共通する原作漫画をテレビドラマのフォーマットに落とし込むという手腕で彼女はその人気と実力を決定づけました。

そんな野木が完全オリジナル 作品として挑んだのが本作『アンナチュラル』でした。

脚本に関して初回放送後の反響として大きく上がったのが、「質の高い海外ドラマを見ているよう」という声でした。確かに初回の真実に辿り着くまでに二転三転する先の読めない展開と疾走感はこれまでのテレビドラマの水準を超えるようなものでした。法医学という設定で1話完結の謎解きミステリを構成するというのは野木の書き手としての新たなチャレンジだったのかもしれません。

しかし、本作の脚本の魅力はそれだけに留まりません。死因究明に至るまでの死者の個性や社会的状況を反映させた社会派ドラマの側面に加え、真相が明かされた時点からは登場人物たちの個人的な“思い”に物語がフォーカスしていきます。実はこの“思い”を描き続けることこそが本作の一番の魅力であり、登場人物たちの内面と深く結びつく“思い”は、鮮明な感情なしでは説得力を持ちえない結末に向かい存在感を増していきます。謎解きパートや時事ネタ・コミカルな会話劇など多くの要素で高い水準を保っていた本作ですが、やはり特筆すべきは登場人物たちの“思い”を描ききったことでしょう。

あくまで個人的にですが、本作が始まった当初この物語は主人公である三澄ミコトの感情を描き込むことに力を入れていると思っていました。ゆえに、事件を解決した後にミコトが吐露するセリフや演技に注目していました。
実際、2話の感想ではこのようなことをメモしていました。

このドラマは石原さとみのための作品になる。

近年の石原さとみは、映画『進撃の巨人」『シン・ゴジラ』ドラマ『校閲ガール』など、現実の解像度を極端に下げる事で漫画の主人公を地で演じる(3→2.5次元)、過剰にデフォルメされた演技が目立っている。人間の内に秘められた数多の感情を敢えて10ほどに絞り、スイッチ1つでその場に最も適した感情を表現する彼女の機械的な演技は目を見張るほどである。しかし、本作で石原さとみはこれまでとは異なるアプローチから主人公を演じている。人間的で複雑な感情を引き出す要素として用意された過去のトラウマ(一家4人の練炭自殺で唯一生き残った彼女の生い立ちや幼少期の記憶)により、彼女は今も重い十字架を背負っていることが判明する。絶対絶命の状況で部下の窪田正孝演じる久部に語った死の恐怖や生への執着、命の恩人となった井浦新演じる中堂への感謝の言葉と諦念にも似た表情、市川実日子演じる同僚の東海林と「ご飯行こう」「絶望している暇があったらご飯を食べて寝る」などあっけらかんとしている態度など、これだけの短い間で哀しみ・強さ・明るさなどいくつもの感情が入り乱れ浮かび上がる様子からも、ミコトの人間的な内面を描きたいという気概が伝わる。この丁寧な描写でミコトが抱える思いを受け止めることができれば、このドラマは傑作になると思う。

そもそも1話完結の謎解きもので描かれる“思い”というのは、せいぜい犯人の動機くらいで、主人公が事件の真相を踏まえて抱く感情の機微までを詳らかに描くことは物語のノイズになりかねないというリスクがあります。特に初回のような事件を解決するまでの複雑な展開に尺が割かれる場合であれば尚更です。しかし、本作はリスクを冒してまでその通例を覆そうとします。そこには、事実や倫理と線引きされた、個人的な“思い”を描くことでしか到達し得ない結末が用意されていたからだったのでしょう。

さらに驚くべきは、主人公・ミコトの“思い”を描くだけでも十分意欲的であるにも関わらず、本作は物語が進むうちにミコトから中堂・久部へと心情を描写する対象が変化していく点です。もちろん、1話完結の謎解き部分の質を落とすことなく。それが決定的になったのが物語中盤の5話でした。
以下、5話終了時の感想です。

「同情なんてしないから」

話は5話で展開する。愛する者を亡くした中堂と同じ境遇の人物を登場させ、彼の復讐を幇助するというストーリーから中堂の中に秘められていた感情が垣間見える。犯人が明かされた後は台詞が抑えられ、感情が先行する。そこは理性や倫理といった物差しが機能しない世界で、そこに立たされる中堂やミコト・久部の“思い”や“願い”が引き立つ。もはや、ミコトの感情の上にのみ物語が成立するのではないという野木なりの宣誓だったのかもしれない。いつくか注目すべき台詞がある。中堂の「人を殺したやつは殺される覚悟を持つべきだ」という言葉。これは中堂の危うさが表出した後半へと続く重要な台詞である。中堂の言動を踏まえ、ミコトは中堂に過去を話して欲しいと詰め寄る。5話はミコトのこのような言葉で締められる。「同情なんてしないから」

話は少し逸れますが、ここでドラマの主題歌である米津玄師の『lemon』にも触れておきたいと思います。この歌のMVは2/27に公開されました。MVが公開されるまではドラマの終盤のタイミングでかかる良い曲だなというほどの印象でしたが、公開されたMVを見てこれは中堂の“思い”が歌われている曲だと確信しました。MVの米津玄師は中堂の面影を思わせます。MVで踊る彼女は中堂の亡き恋人であり、米津の履くハイヒールは彼女の遺したものでしょう。このように、ドラマの後半は中堂の抱えてきた“思い”をミコトはじめUDIラボの面々がどう受け止めるかということに主題が移っていきます。

中堂と同じく重要な役となったのが、ミコトの部下である久部でした。初回を見終わった後、久部を窪田正孝が演じている事に違和感がありました。ここまで達者な役者に主題に絡んできそうもない受動的な役をやらせていることに疑問があったのです。しかし、物語が進むにつれ久部の存在感は大きくなっていきます。特に、事件解決後に毎話見られたミコトと久部の会話には、二人の“思い”が色濃くうかがえるようになってきます。久部の本来的な陰の気質に合わせるように語るミコトの言葉には、中堂との会話以上に複雑な感情が顕れていたように感じます。ミコトは久部との会話の中で自らの“思い”を表明し、久部の感情を引き出します。それにより、久部の苦しく後ろめたい立場が確固たる物語として成立するのです。

つまり本作は、事件を通じて中堂の感情を深掘りしつつ、事件が解決した後の幾つかの会話で久部の感情をも描いてしまうという極めて高度な脚本によるものだったのです。

そして最終回。物語はUDIラボの存続と中堂を守るという難題に向かっていきます。これまで描き続けてきた「理性や倫理と“思い”」つまり「事実と感情」という二つの要素は最後まで重要な鍵となります。ミコトは報告書類を改竄することなく26人を殺害した疑いのある人物を罪に問うため法医学という武器で真っ向から立ち向かいます。これはミコトが母に背負わされたトラウマを克服するためという伏線の回収にも繋がります。彼女の勝ち負けに執着する姿には若干の違和感がありましが、恐らくこれは彼女のトラウマの裏返しや法医学者としての矜持の表れなのでしょう。しかし、犯人は彼女の理性や倫理に基づく訴えに容易になびくような相手ではありません。そこで最後の切り札となったのが、これまで描いてきた感情の部分=“思い”だったのです。彼女は事実を越えた感情で犯人を挑発します。結果として、ミコトの放ったある言葉が犯人の自白のきっかけになります。「あなたに心から同情します」

同情には共感や思いやりといった意味があり、一見すると誤解を生みかねない表現であります。しかし、5話でミコトが中堂に言った「同情なんてしないから」と、最終回で犯人に言った「心から同情します」は全く同じ意味で使われていたのは言うまでもありません。もちろん、かわいそうに思うこと・憐みの意味です。登場人物の数多の複雑な“思い”を丁寧に描いてきたからこそ、その上に乗せられた台詞に人は心を動かされたのでしょう。圧巻のラストだったと言えます。

今回のクールのドラマは良作ぞろいで甲乙つけがたいのですが、その中でも野木亜紀子が描いた『アンナチュラル』という物語の世界は一つ抜け出ていたと思います。彼女の次回作が楽しみです。

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映画『ちはやふる-結び-』を観る。

『ちはやふる-結び-』を観る。
上の句・下の句のポテンシャルから絶対良いと思っていたけど、とてつもなく素晴らしかった!
あんなに登場人物が作品を生きてる物語を見たことがない。一人一人の息吹に彩りがある。
無限未来を軸にテーマの描き方も抜群。

無音・スローモーション・アニメーションの使い方も前作同様完璧。
音に関しては、紙が鳴るんだとか細かいところまで注目してしまった。役者人もみんな完璧。清原果耶の前のめりは上の句・下の句の千早をみてるようでここにも継承というテーマがうかがえる。クイーンは相変わらず変人だけど、彼女の強さの源である「どちらが純粋にかるたを愛してるか」という基準はところどころしっかり生きていた。肉まんくんや机くん含めてもっともっとチーム瑞沢を見たかった。

あれ、5億点じゃないかこれ。

ベタなんだけもベタでもいいんですたまには。
勉強と部活、青春だな。青春は僕にもあって良かったなと思う数少ないことのひとつです。みんなのこと、ちょっとだけ分かるから良いんだろうな。

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映画『15時17分、パリ行き』​を観る。

考えれば考えるほど変な映画だ。こんな、テレビの再現ドラマみたいな話がどうしてこんなに面白くて、泣けてしまうか。​
「実話を基にした映画」というジャンルを揺さぶる仕掛け、最高の一発ネタである。しかし再観賞に耐える。むしろ観る度に感動が強くなる。

「実話を基にした」という謳い文句が好きになれず、この作品もまあ、無差別テロに遭遇した人達をドキュメンタリータッチで描いた作品、とかその類いだろうと思っていた。
あるいは、実話を基にしていようがそれ自体で完結できる強度を持った面白い作品はいくらでもあるけれど、そういう作品でも最後に当時の映像だのモデルになった人物だのが出てきてしまうのが嫌だった。そういうのを見ると本編があくまで現実の再現でしかないような、フィクションとの上下関係を感じてしまう。

しかし、考えてみると『15時17分、パリ行き』はずいぶん実験的なことをやっているのに、それをまるで感じさせないのが凄い。映画ともドキュメンタリーともつかない、現実と呼ぶしかない時間が映りこんでいる。

始まって早々、三人組の一人の語りとともに、映画はいきなり彼らの過去に飛ぶ。軍隊オタな子ども時代、パラレスキュー隊に志願するもうまくいかず落第を繰り返す青年時代、そして幼なじみ三人が久しぶりに再会したヨーロッパ旅行。三人の過ごしてきた時間が様々な話法で描かれながら、肝心の「事件」にはいつまで経っても辿り着かない。

作中でけっこうな時間を割いているヨーロッパ旅行なんて、ほんとに普通の人々のロードムービー(「ムービー」かどうかすら怪しい、ただの観光を映しているだけ)なのに、なんだかすごく良い。

気の良い普通の若者が、ただ旅行を楽しんでいる、という、物語から投げ出された現実の時間がポンと目の前に示されるだけ。​実話であることの重しと、現実そのままを投げ出す軽やかさの違いを感じた。しかし同時にこれら一連のシーンは過去の出来事の再現でもあるという、目眩のするような二重性。

ある意味最大のクライマックスが勲章授与のシーンだ。「ラストに流れる実際の映像」「エンドロールに本人登場」みたいな実話映画の定番を逆手に取って、虚実をひっくり返す大仕掛けを打っている。それもきわめてさりげなく。この場面の異様な感動に思わず笑ってしまった。

この映画では英雄の定義がだいぶ変わってきている。英雄的な人物がいるのではなく、人生の中で英雄に「なる」瞬間があるということ。そういう意味で、普通の人々が映画の登場人物に「なる」このキャスティングもテーマに沿っていると言えるのかも。

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ドラマ『トドメの接吻』最終回

ドラマ『トドメの接吻』最終回。
最高だった。僕はいずみ吉紘の描く表の世界からこぼれ落ちた人間たちのドラマが大好きで、本作はその作品群のなかでも1.2を争う大傑作だったと思う。オリジナル脚本というところも素晴らしい。

タイムリープの仕組の解明、主人公・旺太郎の目的、実は戻っていた、戻れないなど設定を数多く用意し、しかもそれがあくまでテーマを面白く描くための手段に過ぎないことに一貫する潔さ。
本作のテーマは紛れもなく「愛」
愛する事の無意味さが身に沁みついてしまった旺太郎に愛はみえるのか。

大金を手にするためタイムリープ能力を持つ相手の弱みに付け込みキスの契約を結び都合よくキスをして過去を書き換える。その愛など見向きもしない旺太郎が最後に選んだのは、大金でもキスの能力でもなくキスの相手・宰子の幸せだった。

過去に戻った宰子には旺太郎との記憶がない。その宰子に自分ような人間にはその能力を絶対に利用されるなと忠告しその場を去ってしまう。結果として彼の中に生まれた初めての愛という感情は未達に終わる。彼はその後、かつてと変わらず軽薄に生きていくかのようなシーンで物語は幕を閉じる。

「過去は変えられない」「過去を変えるべきではない」
初回と最終回で表向きには旺太郎は何も変わってないかのように見える。しかし彼の中には過去には存在しえなかった愛情とそれを信じる心が宿っており、その軽薄さは過去とは全く異なるものになっていたと思う。

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映画『リバーズ・エッジ』を観る。

映画『リバーズ・エッジ』を観る。 Posted on 2018年3月18日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

現在から当時を遡行しつつ若者の心理を描いた作品として良かった。
ケータイ(PHS)の普及以前(1995年PHSサービス開始)、インターネットの登場以前(1995年が日本におけるインターネット元年といわれる)、オウム事件以前(日本社会のうわべとその精神病理が暴かれた1995年)の物語。

僕は近年のある種の映像には生々しさが欠けていると感じていたのだが(ここでいう映像はアダルトな意味でのAVも含む)、『リバーズ・エッジ』の映像には生々しさがあった。そこには、デジタルやPhotoshopやフォトジェニック以前の生々しさが描かれていた。生のコミュニケーション。生きてる感じ。

80年代は浮かれた時代だったと言われる。『なんとなく、クリスタル』、ポスト・モダン、MTV。
しかし、90年代、世相は大きく変わる。消費社会の神話と構造、社会システムのマンダラが切り裂かれ、破壊的な人々の生の感情(生と死が隣接したものであるというヒリヒリした感情)が溢れ出た時代だった。

当時は現在よりも清潔でない時代だった。川は臭く、タバコはポイ捨てし、空き缶を川に投げ入れた時代。公害やオゾン層の破壊が問題として語られた時代。そんな時代だった。(現在の方が実際にはより深刻なのかもしれないが。)
グランジ(薄汚い)シーンの、カート・コバーンが死んだ年。1994年。

このドラマは、そんな時代の若者たちが描かれる。むき出しの生の欲動、生の不安。若者たちのSEXも今とは異なる描き方をされる。Xvideosなどはない時代だ。ネットを介さない欲望の露出。タナトスと一体化したエロス。もちろん避妊もしない。生の性体験。

「生きてるって感じする?」インタビュアーに聞かれた二階堂ふみ演じる主人公は答える。「どちらかと言えば、生きてない。」
登場人物はみな生きづらさを抱えている。生きることは、SEXすること、食べること、愛し愛されて生きること。
いじめ、性的マイノリティ、摂食障害、家族の不和、届かぬ愛。

文字通りの生のコミュニケーション、ヒリヒリした関係、傷を感じ人を傷をつける状況はトラブルを生む。
それを通して、ある者は死に、ある者は生き残り、ある者は場所を変え、ある者は留まる。
もちろん、みなに避けがたく傷跡は残る。

しかし、時代は変わった。このドラマの設定された時代から、24年。およそ四半世紀が経つ。状況は変わった。
若者ですら、当時ほどのヒリヒリした感覚で生きているかはわからない。とはいえ、愛し愛されて生きることに飢え満ち足りない気持ちは今でも変わりはしない。たとえ、デジタルに容易につながれても。

あるいは、インターネットの普及以降発展したネット文化やバーチャルな価値観。例えば、多くの承認を集めるネット上の各種システムとプラットフォーム上のアイドル群。そのシステムの欺瞞と精神的な空虚さが暴かれ明らかにされるのは現在これからであろう。

この作品の時代は1995年にひとつのパラダイムを終える。
その後は、ケータイとネットと、ある種の相対主義とマイノリティに対するリベラルさが普及した時代だった。同時に哲学や精神性は死に、社会学と統計学的な思考が普遍化した時代でもある。

ところで、この作品の1995年までのパラダイムは1972年からはじまった。
大きな物語の終焉の終焉、ポスト・モダンのパラダイムの終焉が1995年であった。
1972年から23年。
なお、1972年にまでのパラダイムは1950年朝鮮戦争からの復興と高度成長までのパラダイムであろう。
そして、1995年から23年が経った。

とはいえ、あらためて思ったのは、この四半世紀に(ここ数年くらいかもしれない)性的マイノリティ(LGBT)に対する理解は相当変化したのではないか。

主人公二階堂ふみがゲイの少年山田に「入れる方?入れられる方?ローションとか塗るの?」と質問すると「クリトリス舐められるのと、中に指入れられるのどっちが好き?ゲイだからってSEXの質問するの失礼でしょ。」と返される場面にはハッとさせられた。

それはともかく、映像として熱かったのは、主人公二階堂ふみの彼氏が浮気相手のあそことあそこにヘアスタイル用のムースの缶を入れるという場面。劇場に響くカラカラという音。
まじか。ドン・キホーテとそのアダルト・コーナーが普及して良かった。
しかし、まじか。なんだかなあ。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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映画『リバーズ・エッジ』を観る。

『リバーズ・エッジ』を見た。
渋谷HUMAXシネマ、恐らく友人が見た前の回だったと思う。

個人的には悪くなかったと思うけど、期待値が高かった分、悩ましい箇所も散見された。
まず、いい意味でも悪い意味でも構成が不親切。冒頭に物語の鍵になるようなシーンがいくつか断片的に映される。そのパッチワーク的な構成が全体の構成にも影響を及ぼしていた。

一見するとストーリーがあるようで実は断片をつぎはぎしたように見えるのは恐らく時代設定と関連している。この物語の設定はかろうじでコミュニケーションの分断化が起こる前の時代で、故に分断化を加速させる携帯電話は登場しない。ただ、それを予感させることを構成でやっていたと思う。

この物語を描く上で最も重要なのは、当時の時代観を再現すること。
70年代から続くオカルトブームや『完全自殺マニュアル』の影響、未知なものが未知として存在する恐怖と焦燥感。川の対岸へ滑るように渡ってしまうことで受ける傷と生の感覚。この時代の感覚の切り取り方はとても良かったと思う。

この物語の登場人物たちと現代の若者たちの違いは身体が伴っているか否かだと思う。今から見れば生身のコミュニケーションは完全なアナログだが、その避けられない衝撃の中で神は細部に宿ると信じ祈りの場所を模索する姿こそが平らに成らされる以前の一部の若者にのみ見られたシーンだったのだろう。

二階堂ふみ初め若い有望な役者陣はそれしっかり分かって演じてたんだろうがこればっかりは想像で補うにも限界があり、個人的には90年代前半の若者たちとしては見られなかったのが残念。正直僕も平成7年ぐらいまでの当時の社会状況とか時代観とか全く分かってないから何とも言えないんだけど。

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〈ガチャ-資本主義-ゲーム〉- 価値とルール –

〈ガチャ-資本主義-ゲーム〉- 価値とルール – Posted on 2018年3月15日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

ガチャ-資本主義-ゲーム

資本主義という名のゲームとオルタナティブ

ゲームのルールを変える

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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映画『エンドレス・ポエトリー』を観る。

『エンドレス・ポエトリー』とてつもなく変な映画だが、話は至ってシンプルだ。
ホドロフスキーの青年期、サンティアゴに移住してから、友人や恋人を得て、別れも経て、詩人としての自己を確立し独りパリに旅立つまでの「若い芸術家の肖像」を奇想天外な登場人物とシュルレアリスティックな映像で語る。

『エンドレス・ポエトリー』を観て連想したのはラテンアメリカの作家たちの小説だ。
例えばアレナスの『夜明け前のセレスティーノ』やボルヘスの『ボルヘスとわたし』。前者は幻想の入り乱れる少年期の回想、後者は詩人の過去と未来の対話という点で似ているが、それだけではなく、 現実と幻想をシームレスに描く、出来事を主観的に大袈裟に語る、といったこの映画の表現方法は、いわゆる南米マジックリアリズムの特徴として挙げられるものだ。特に近いのは、自伝的な作品を遺し、記憶や詩人としての自己を爆発的な幻想で描いたレイナルド・アレナスではないかと思う。

この映画はずいぶんと奇妙な自伝だ。視覚的イメージや人物が奇抜なだけではない。現在のホドロフスキー本人が登場し、昔の自分に語りかける。父との別れの場面に割り込んで、本当はこうするべきだったんだと抱擁を促す。思い出すのではなく、生き直している。まるで過去が現在進行形であるかのように。

詩に理解を示さず、抑圧的で生前は和解することのできなかった父親とフィクションの中で再会する。自分の作品の中で甦らせ、乗り越え、受け入れる。自分の詩人としての資質を育てたのは(逆説的にではあれ)あなたという障害・束縛だったのだと。最後、父の仮面(毛髪)を剥がし、抱擁する。
ここは非常に感動的な場面だ。現実には起こりえなかった父との和解は、こうあってほしかったという願望を描くのではなく、取り返しのつかない過去を理解し読み替えるという行為によって為される。

この映画で印象に残った表現の1つは大袈裟に語る、ということで、オペラ歌手のように喋る母親や、2lのビールを一気飲みし人前で胸を見せつけたかと思えば言い寄ってきた男をぶん殴り恋人のホドロフスキーに「一緒に歩く時はあなたのイチモツを握っておく」と言い放つ怪女ステラ(なんと実在の人物) も、おそらくホドロフスキーの主観ではまさにそういう印象だったのだろう。体験・記憶・感情にとって真実だということを表現する時、語りは本当らしさから逸脱する。それは単に誇張とは言い切れない。自伝的作品とマジックリアリズムの相性が良いのは記憶と主観がテーマになるからだろう。

もう1つは、隠喩や象徴が肉体を持ち、何もかもが目に見える姿で現れるということだ。仮面を付けた群衆、姿を隠さない黒子、骸骨たち、皆何かの喩でありながら、登場人物として、画面の構成要素として臆面もなく存在を主張する。比喩が比喩でなくなっている。僕は道化だと言えば突如サーカスが始まる。
息子が演じる青年期のホドロフスキーと現在のホドロフスキー本人、書割と現実の土地、実際の出来事と誇張された心象風景、夢、生と死、出会うはずのないもの達が、等しいリアリティで1つの画面の中に顔を揃える。虚構であることを曝け出すことで生まれるこの作品独特のリアリズムに戸惑い、感動する。

改めてわけのわからない映画だったが、表現の鮮烈さと、どぎついまでの肯定を感じることはできた。老いを肯定する。芸術への衝動を肯定する。生きることを肯定する。

「幸せに死ぬことを学ぶ」

「自分を生きるのは罪じゃない。他人の期待通りに生きることの方が罪だ」

「意味など無い、生きるだけだ」

「老いはなんら屈辱ではない。すべてを手放せる。セックス、財産、名声、自身をも手放せる。お前は1匹の蝶になる、自ら発光する蝶に。その存在は、完全な光」

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映画『霊的ボリシェヴィキ』を観る。

どことも知れない施設に集められた外見も年齢もばらばらな男女。車座になり、中の一人が語る話に耳を傾けている。語られているのはある囚人の死刑の間際に起きた不気味な出来事だ。語り終わると、参加者のうちの若い男がつまらなそうに「結局、人間が一番怖いとしか思えない」と言う。するとすぐさま、会の中心人物である霊媒師が彼を殴り飛ばす。霊媒師の相方の眼鏡の男が「それは禁句です」と言う。不用意な発言でせっかく集まってきた霊気が散ってしまったのだという。それから、眼鏡の男は参加者たちに向かって「こういう時はボリシェヴィキ党歌を歌いましょう」と呼びかけ、その場の人間は皆立ち上がり、スターリンとレーニンの肖像の前でボリシェヴィキ党歌を合唱し始め、『霊的ボリシェヴィキ』というタイトルが画面に現れる。
正直爆笑した。
なんだこの映画は、と思った。わけがわからない。しかしながらこの映画、とても面白いのだ。

この映画について考えようとした時、まず頭に浮かんだのは「怪を語れば怪に至る」という言葉だ。
この作品は文字通り、「怪を語る」映画である。なんといっても、登場人物がただ座って怪談話を聴かせているだけの場面が大半を占めているのだ。これは映画でやることなのか?と戸惑うくらいに、とにかく語る。
作中では、非常に限定された簡素な空間で、登場人物がそれぞれ自らの体験した怪談を語っていく。集められた人たちは皆、何らかの形であの世に触れたことがあるのだという。会を主催している霊媒師と眼鏡の男は、参加者に自らの心霊?体験を語らせることで、何かこの世ならぬものを呼び出そうとしているらしい。映画は、それから色んな怪奇現象が起こり、何やかんやあって破滅があり、新たな「霊的ボリシェヴィキ」の誕生を見届けて幕を下ろす。概ねこんなあらすじだったような気がする。書いてみてもよくわからない話だが、ストーリー自体は、怪を語ることから始まって、怪の出現で終わるという、非常にシンプルな構造だ。
集まった人間が一人一人怪談を語り、最後の話が終わった時に怪異が起きる。これは言ってみれば百物語である。
パンフレットによれば、当初のプロットでは語りの要素はなく、監禁・拷問によって霊を呼び寄せようとする話だったらしい。つまり、何かを召喚する儀式、というのが元からのコンセプトだった。
そのうえで、完成形であるこの映画は、百物語を儀式として活用した。怪を語って怪を呼び出そうとしたのだ。
しかも、それはストーリーに限ったことではなく、この映画における映像・音の表現や、映画の外側まで巻き込んだメタな仕掛けも含めて、作品そのものが怪を語り怪を呼ぼうとしている。

ではこの作品における怪とは何か。
生きている人間が怖いという常套句は真っ先に拒絶されている。また、物陰から突然に何かが飛びかかってきたり急に大きい音がして驚かせる類いの演出も、この映画では極力排除されている(個人的にはそれが非常にありがたかった…)。そもそも作中でやっていることが降霊会みたいなものなので、純粋に、超自然の恐怖を扱おうとしているのはわかる。スターリンとレーニンの肖像が掲げられているのも、いかにも彼らの霊を呼び寄せようとしているかに見える。
しかしこれがちょっと曲者だ。作中で死後の世界からのメッセージが話題に出た時、浅野(霊媒師の相方の眼鏡の男)は、化けて出ることがあの世の実在の証明にはならない、現世に浮遊する残留思念の可能性もあるのだからとこれを否定している。さらには終盤で、霊媒師があの世なんて存在しない、化け物を呼び出すしかない、とこれまでの話をすべてひっくり返すようなことを言い放ってしまう。
思うに、死んだ誰かの幽霊が出るというのも、ある意味では合理的で説明のついてしまう話なのだ。本当に得体が知れないのは、幽霊ですらない。
そう考えると、参加者たちが語った話にも、死者の霊だけではない何かの存在が感じられてくる。
特に面白いと思ったのは霊媒師の話で、山でわけのわからないものに遭遇して障りを受けるというありがちな話なのだが、山の稜線を這うものというスケール感、土俗的な禁忌、そういう魅力が短くシンプルながらも感じられた。目撃した「何か」をドイルの妖精写真に喩えたのも興味深い。この世と異なるレイヤーに貼り付けられた存在ということなのか。
ここで、杉浦日向子の漫画の次のような台詞を思い出した。「正体など見きわめる必要もあるまい。あれは、わからぬものなのだ」。こちらも『百物語』というタイトルである。
つまり、この映画が扱っているのは「人間が一番怖い」の対極にある人知を超えた恐怖、「あの世」ですらない異界の、「わからぬもの」の恐怖なのだと思う。

では、この映画はどうやって怪を語り、怪を呼び出しているのか。
観ていて感じたのは、この映画における怪異は何かに紛れてやってくるということだ。
舞台となる建物は、鳥の鳴き声、機械の作動音、街の生活音、といった、さまざまなざわめきに包まれている。語りに集中し、聞き手が静まれば静まるほど、それらの音が意識される。単調で無機質な音、囁くような音、ひたひたと猫の歩くような音。聴いているうちに、それらが皆本当に自然な音なのかと違和感を覚えてくる。足音に聞こえるのは一体何なのか。生活音と言ったが、設定では人里離れた場所のはずだ。ではなぜ雑踏のようなざわめきが聞こえるのか。さらにこのざわめきが、画面の中のものなのか、劇場内の音なのかはっきりしないのも不安をかきたてる。
また、一人目の参加者が語っている時、監視カメラのようなアングルで実験の様子が映されるのだが、舞っているホコリに紛れて光の粒が時折飛び交っているのだ。これ、心霊写真でおなじみのオーブというやつではないのか。
きわめつきは、参加者たちが皆して笑っている時に混ざって聞こえた男の野太い笑い声だ。それにしても、いきなり笑いだした霊媒師はなんなんだろう…。
ついでに言えば、たびたび姿を見せる「裸足の女」も、停電や夜の暗闇に紛れてやってくる。
このような、何かに紛れさせる表現は、怪異により実在感を与えている。それに加えて、画面の隅々に目を凝らし、些細な物音にも耳を澄まして恐怖を探し求めるという楽しみも生まれる。
ホラー映画が魅力的であるかどうかは、語りたいシーンがどれだけ多いかによると思う。視覚の芸術である以上、何かこの世ならぬもの、異常なもの、恐ろしいものをどれだけ画面上に表現できるかが重要だ。
この映画では、何かが現れそうな、潜んでいそうな画面の配置がとても多い。鏡、暗闇、物陰。長尾と話している由紀子の目線だけで裸足の女の存在が仄めかされる。三田(最初に話した男)がトイレで独りごとを言うシーンは、鏡を覗き込むというだけで怖い(「押入れにいたのは本当に人形だったんですか?」と鏡に問いかけるのも不思議な感じだ)。至るところに怪異の居場所がある。
画面の端っこで何かが起きている、というのもこの映画の特徴だと思う。これは恐怖演出に限らなくて、冒頭のボリシェヴィキ党歌斉唱の際に初参加の由紀子に歌詞カードを見せている長尾、という笑えるシーンもある。片岡(浅野の弟子の女の子)が終盤、拳銃で参加者全員を粛正して回るシーンでは、射殺する相手に近づく彼女の姿が何か金属板らしきものに映っていた。また、終盤の由紀子が何かに憑りつかれたように豹変する場面では、画面の中心はスターリンとレーニンの写真と他の参加者たちに固定されたまま、スタスタ歩き去っていく由紀子が画面の端に映されていた。その時の由紀子の顔に光が強く当たって顔がぼやけていたのも興味深い。夢に出てきた女の顔がどれだけよく見てもどうしてもぼやけていたという長尾の話とつながるのか。幽霊は顔がはっきり見えないという話も思い出す。(ちなみにこの後の由紀子の高速ヒヨコ歩きはかなり面白い)
ホラー映画を観る時は極力目を瞑り耳を塞ぎたいのだが、この作品は、ホラー映画こそ目を瞠いて耳を澄まして楽しむものだと教えてくれる。

この映画は、工場の一室という狭い空間で話が完結している。この空間は結界であり、参加者は全ての儀式が完了するまで外に出ることが許されない。観客は怪談話をする登場人物の姿を映画館の暗闇の中で眺めている。そうしていると、ふと奇妙なことに気付くのだ。怪談話を聞く登場人物と、それを眺める私たち観客。どちらも語りを聞いていることに変わりはないのではないかと。ここに来て、怪談話を語る映画という試みの意味が解ってくる。観客と登場人物の置かれた状況をシンクロさせ、画面の内側と外側の垣根を取り払おうとしているのだ。というより、映画館を結界の内側に取り込もうとしている。その結果、観ている私たちも否応なく怪異の場に立ちあわされることになる。画面内のざわめきと映画館内の音の区別がつきにくいのもこの印象を強めている。だとするなら、上映が終わって映画館内が真っ暗になる瞬間は、百物語の最後の蝋燭が吹き消される時なのかもしれない。

正直ボリシェヴィキ等の思想・歴史的なことは全然わからないので触れられなかったが、映画の最後に現れ、歩き去って行ったアレの姿には、恐怖以上に不思議な解放感を覚えた。頑張って世の中に怪異をまき散らして欲しいものである。

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斎藤工・監督の初長編作『blank13』を観る。

斎藤工・監督の初長編作『blank13』を見てきた。良かった。
70分という長編にしては短い尺の中で隅々まで丁寧に作られていたという印象。斎藤工の映画という芸術に対するフェティッシュゆえだろう。冒頭の葬儀の大きさの比較から、回想の差し込み方、タバコや自転車や野球といった道具の使い方、脇を固める名俳優のたちの個性の引き出し方まで、全てにおいて最もベタな選択肢を繰り返し選択し続けているにも関わらず、そのベタさは映画を愛する者ゆえのベタであることがひしひしと伝わってきて、見ていてとても心地よかった。

冒頭とラストで全く同じシーンが出てくるのだが、冒頭では無機的で暗く冷たい印象だったそれが、ラストには暖かみのある画に見えたこと。
この1時間でほんの少し世界が変わったと実感できたので、それが良かったと。

葬式シーンも含めいいシーンたくさんあるんだけど、特に時空を超えた連綿とした流れを感じたのが、
父親に八重樫のオープンスタンスを教えられる場面、それをふと思い出していたんだと気づかせる葬式中の高橋一生の顔アップ、近くの球場と先ほどまで居た母がいないカット。

台詞なし画で繋げただけで、今と昔の状況が伝わってくる。とても映画的だと思った。
ラストの松岡茉優が手を丸めて少しだけ自分のお腹に当てたようなシーンを見て、いやあれは松岡茉優絶対妊娠してるよねと彼女に得意気に言ったら、いや妊娠してるって台詞あったよ宝田くん寝てたけどと言われた。


高橋一生と森川葵が付き合ってるかもみたいな話が出てて、カルトドラマ「プリンセスメゾン」が注目を浴びているよう。「ちかえもん」もそうだけど、NHKのおかしなドラマは恋を育むのにうってつけなのだろうか。