東方の憂鬱

あるいはバブルが弾けたのかもしれないと思わせるようなニュースが続いている。 5月13日、内閣府が3月の景気動向を「悪化」として公表した。 「悪化」になるのは、2013年1月以来の6年2カ月ぶりだという。 米中貿易摩擦や中国経済の減速などが響いているといわれる。 具体的にも、穏やかでないニュースが次々と報道されている。 たとえば、スルガ銀行の不正融資の合計額は1兆円を超え、17年ぶり971億円の最終赤字だという。 近年、新興企業として躍進してきた企業にも陰りが見られる。 RIZAPは11年ぶり193億の赤字、ぐるなびは最終利益8割減、美容マシーンの「シックスパッド」を手がけるMTGは中国ECの不振や不適切会計の疑いで純利益は98%減だとされる。 メーカーではリストラが開始されている。 日産は4800人以上の従業員を削減する方針を発表、JDIも1000人削減、経営再建中の東芝は新たに350人規模のリストラを行うという。 リーマン・ショックと3.11以来続いてきた、好況あるいはアベノミクス-アベノミクス相場が終わろうとしているのだろうか。 リーマン・ショックの後、ロバート・マンデルによる「国...

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平成の終わりに

あと1時間ほどで平成も終わる。平成という時代の終わりには感慨深いものがある。 もちろん、元号が変わったところで現実そのものが変化するわけではないし、西暦が一般的に使用されるなかで元号を使用する合理性は見えなくなっている。 しかし、西暦が世界史あるいはキリスト教的な歴史を概観するための区切りであるのに対して、日本の元号での歴史は日本の時間を区切り遡行させるものである。元号での歴史は、西暦での歴史と違った物語を語ることがあるだろう。あるいは元号での歴史は日本人の歴史でもあり、それは日本人の行動パターンを見せるものであるかもしれない。 平成の終わりというのは、歴史の終わりの終わりという感じもある。あらたな歴史のはじまり、あるいは歴史の再起動として平成が終わり令和がはじまろうとしている。 失われた20年としての平成 ぼくは1987年生まれなので、意識の芽生えと平成のはじまりがほぼ同時だ。 東西冷戦が終結し、90年代にオウム事件があり、グローバル化とIT革命を経験しながら、911によりフランシス・フクヤマの歴史の終わりの夢が終ったところから21世紀がはじまった時代。 経済面でいえば、山一證券が1...

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映画『芳華 Youth』

中国という国は、いままさに激動の時代を駆け抜け興隆の頂点にあるといってもよいだろう。 激動を駆け抜けた中国では、また現在から過去を遡行し、そこから現在を見つめるといった物語が描かれるようになっている。たとえば、90年代以降の社会主義市場経済以来の大河を描いた『山河ノスタルジア』や『后来的我们(僕らの先にある道)』がそうだろう。 過去を振り返るときにどうしても胸につかえるような出来事の記憶というものがある。 日本にとっては、かつての第二次世界大戦や左翼的闘争の記憶というものがそうであるように、中国にもしこりのような記憶となっているものがある。文化大革命がそのひとつである。 文化大革命を行使した毛沢東の評価も現在では両価的なものとなっている。それは周恩来が国民のだれからも愛される人物として記憶されていることと対象的である。 過去を振り返るときに、どうしても見返さなければならない問題としての文化大革命。近年、その時代を描いた作品も多く作られるようになった。たとえば、チャン・イーモウ監督の映画『サンザシの樹の下で』『妻への家路』あるいは同じくチャン・イーモウ監督が現代の中国を代表する作家 余華...

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『イップ・マン外伝 マスターZ』

 ブルース・リーの師としても知られる葉問(イップ・マン)の生涯をモデルしたカンフーアクション『イップ・マン』シリーズのスピンオフ。シリーズ3作目の『イップ・マン 継承』でドニー・イェン演じるイップ・マンと激闘を繰り広げた詠春拳の達人チョン・ティンチ(マックス・チャン)が今作では主人公になる。  『イップ・マン 序章』から今作までストーリーは毎回一緒だ。家族や市井の人達とささやかながら幸せに暮らす主人公が、トラブルに巻き込まれ、生活を失う。その背後には街を牛耳る外国人(『序章』では旧日本軍、『継承』ではアメリカ人、『葉問』『マスターZ』ではイギリス人)と、彼らの言いなりになっている地元の警察やチンピラがいる。映画の前半でチンピラとの大立ち回りがあり、主人公と家族が絆を深める描写があり、やがて誰かが死ぬ。ついに立ち上がった主人公が詠春拳の技で悪い外国人に一騎打ちを挑む。主人公に感化され、地元の警察も反旗を翻す。だいたいこんな流れである。  このシリーズの魅力は何と言っても、主役を演じるドニー・イェン、今作ではマックス・チャンの、超絶技巧の詠春拳と、手を変え品を変え物量を変えて繰り出されるア...

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映画『バーニング 劇場版』

『バーニング 劇場版』  村上春樹の短編小説『納屋を焼く』のイ・チャンドンによる映画化である『バーニング劇場版』はいくつかの点で原作から大きく変更されている。  その一つが主要な登場人物の設定だ。村上春樹の『納屋を焼く』では語り手は作者を連想させる小説家だが、映画『バーニング』の主人公ジョンスは20代前半の若者である。金も仕事も無く、小説家志望と言いつつ何を書いたらいいのかわからずにいる。「彼女」にあたるヘミはジョンスの幼馴染であり、一見華やかではあるが境遇的には彼とそう変わらない位置にいる。  借金に追われる母親、起訴された父親、ヘミ。ジョンスの周りは成功者であるベンと対称的な人たちだ。  菓子パンを歩き食いするジョンスと、スポーツジムでランニングするベン。軽トラの車内でコンビニ飯?を飲み食いするジョンスと、パスタを作り、ソウルで一番美味いもつ鍋屋に誘い、高級ワインを持参し、ホームパーティーを開くベン(列挙してみたら思ってた以上に食の対比が多かった)。  「僕」=ジョンスと、「彼」にあたるベンを非対称な存在として描き、韓国の現代社会における階級間の対立を作品に持ち込んでいるように見え...

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映画『ROMA/ローマ』

 聞いていた通り冒頭のシーンがまず凄くて、床の掃除を延々と映す映像で美しさを感じさせられることに驚いた。床を洗う水が起こす波と、水に映る上空の飛行機が結末と呼応していた。  『ゼロ・グラビティ』が宇宙飛行であるのに対して『ROMA』は時間旅行なのか。この作品は(カメラの視点を借りた)語り手の記憶や回想というよりも、その裏側で起きていたこと、当時は知り得なかった出来事の別の顔を、過去に戻って眺めている印象を与える。  固定された視点による長回しは、懐かしい人に触れることも目の前の悲劇を止めることもできずにただ見ていることしかできないもどかしさがあり(いくつかのシーンは早くカメラを止めてあげてと思った)、決定的に過ぎ去ってしまった時間だということが強く感じられた。  主人公の恋人のフェルミン(クソ男)や武術のコーチの芸人やその門下生たちや武力抗争を引き起こした男たち等、「マッチョなもの」に対する批判、戯画化する視線を感じた。フェルミンが全裸で棒術を披露するシーンは色んな意味で面白い。  悲痛な出来事が映し出される一方で愉快なところもある。一家の父親が高級車を車庫入れする場面の妙に凝った演出...

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Q&A

応援しててもいいですか!! ありがとうございます! ぼくも応援してます! 最近怒ったことはありますか? うーん。そうですね。いつも怒ってますよ。 自分が満たされないからといって、当然のように他者や世界にそれを満たすことを要求するのはよくないです。 引越しの時って新生活の期待よりも悲しみの方が大きいよね・・・ 引っ越し、新生活。そうですね。 ぼくにとっても、新生活のはじまるこの時期は心踊るような希望の季節というよりも、どこか底冷えのするような、新しい部屋でひとりどこか空虚な違和感を感じるような時期だという印象があります。 新生活。人生の季節の切断。 これまで一緒にいた人たちとの別れ、捨てるものへの負い目、離れて遠くへいってしまった人への想い。喪失感。 一方で、これからの大きく変化した生活で果てしなく続いていくだろう日々への不安。希望的なヴィジョンを描くことはできず、けれど、強制的な力で強いられる新しい生活への移行。 新しい生活。新たな環境の文化、新たな共同体のコード、新たな土地の風土。それに適応することの難しさ。まさに言語ゲーム的な飛躍に馴染むことの困難。 そこで、世界と自分のあいだに感...

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映画『THE GUILTY』を観る。

映画『ギルティ』を観た。 劇中の会話の95%が主人公と誰かとの電話によるものという、とても特徴的な映画。 視覚を完全に奪った中で観客を欺くオチとその後に残る嫌な感じ(後述するが主人公と観客の共犯関係)は、この映画でしか成し得ない体験だと思う。 その点に関しては見事だった。 映画を観ながら視覚情報について考えるということは、例えばキューブリックや最近で言うとウェス・アンダーソンみたいな完璧な構図を前にしてという時が常だと思うが、今回のように完全に情報を遮断された時に、如何に人間が視覚に頼っているかということを改めて感じさせてくれた。 例えば、少し前に視覚障害者の方のために映画に音声解説を入れるという特集をタマフルでやったときに感じた、音声のみから映像を想像する際の聴覚の研ぎ澄まし方や、より広義に捉えれば小説を読みながら映像を想像するという体験に近い。 その中でこの映画は嫌らしく観客のミスリードを誘う。 大半の人間はこの映画のオチが分かったときに、絶句するはず。その後に如何に自分がありふれた範囲までしか想像が及んでないか、限られた情報で決めつけの判断を下してしまうかというところに自己嫌悪す...

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映画『女王陛下のお気に入り』を観る。

映画『女王陛下のお気に入り』を観た。 前作『聖なる鹿殺し』でランティモスに期待外れな部分があったけど、今回は余りにシンプルにとても面白かった。 ざっくり言うと、『寝ても覚めても』と同じく、ヤバい監督がありふれたテーマの商業映画を撮ったときに起こるおかしくなる感じが要所にあった。 ストーリーはシンプルで、宣伝では‘’海外版大奥‘’と言われてるみたいだけど、まさにそう。政治音痴の女王ゆえ、政治の話も本題には全く絡まず、シンプルに女王をめぐる女官の争い(しかも争うのはたった2人の一騎討ち)に終始する。なのに余りに面白い。魚眼レンズを使ったカメラでの撮影や当時の豪華絢爛な美術セットや衣装など楽しめる要素は多々あるが、やはりこの映画は女優たち名演に尽きる。 オリヴィア・コールマンが主演女優賞を取ったときはグレン・グロース前世で映画冒涜したとしか思えんと確信したけど、この映画見たら正直解らんでもないと思えた。 腹グロのエマ・ストーンと真っ直ぐなレイチェル・ワイズの2人のやりあいも見応えがあった。 僕は男子だからこのテーマをファンタジーとして楽しめたし、これからもずっと好きな映画でいられることが嬉し...

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2019年1月期ドラマ時評 2月末進捗

1話完結の連ドラは型が見えた段階でいつでも切れるし、逆にその型での最上の回が突然来たりする(大げさかもしれないがこのドラマはこの回のためだと思える)ので、簡単には切れないし、その回でドラマの評価を決めたい。 5話の『アタル』や6話の『イノセンス』がまさにそうだった。 もちろん1話ごとに型の中でのバリエーションを作り、その蓄積から神回と呼ばれる回は生まれる。つまり、回を重ねるごとに良い回が来る可能性が上がるのが一般的。ただ、最近の傾向としては中盤あたりに一度完成形を見せ、その精度を基準としてドラマ自体の質が担保されるケースが多い気がする。 『イノセンス』6話 初回から言ってる弁護士が無罪を勝ち取り続けるという設定自体が非現実的なので、そこの解釈を如何に広げるかというのがこのドラマの鍵だが、本作はそこに極めて明確にアプローチをしている。 今回もまさにそうで、結果だけを見れば被告人は無罪判決を受けた。 ただそこに複数の事件を絡め本件では無罪だけど別件では裁かれるべきという被告人の中の二面を用意した上で、無罪を勝ち取った弁護士の正しさという尺度を揺さぶるというというこのドラマの型の一番のテーマ...

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映画『半世界』を観る。

映画『半世界』を観た。 39歳という人生の折り返しを迎えた3人の幼馴染みの話。 タイトルの半世界に込められた意味に注視して観ていたが、特に前半は徹底的に救いのないストーリーが展開される。 余りにも無慈悲で一種の純文学的な物語だと気づいたときから、全てがそう見えてきた。 独り釜で炭を焼く職人、後輩の殉職がトラウマで田舎に戻ってきた元自衛官、地元の中古車販売店店員、息子とのコミュニケーション不全、不健全な父性、田舎の狭い人間関係、陰湿な苛め、漁村の風景、拭いきれない血の力など、小説だったらお手本のような土着文化を扱った文芸作品になっていただろう。 田舎ならではの荒廃した街の描写と自然の豊かさは現代における半世界(反世界)と呼べるものだろう。その他、半分が強調された世界の描写も多くあり、特にラストの日が射しているのに雨が降っている中でのシーンは強く印象に残った。 映画の中で主に描かれるのは3ヶ月という短い期間たが、物語以前もこうやってダラダラと光の見えない毎日が続いてきたこと、そしてこの先も好転することなく日々が続いていってしまうんだろうという事が窺える。この長く苦しい毎日から抜け出した主人...

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映画『バーニング 劇場版』/『THE GUILTY』を見る。

今月、見逃してはいけない映画は『バーニング 劇場版』と『THE GUILTY』だろうかと考え両作品を観た。 『バーニング 劇場版』 いかにも映画っぽい瞬間しかなくてとても面白かった。 村上春樹的なメタファー会話や世界の中にぽっかり口を開けた空虚の存在と、村上春樹っぽくない非モテ属性の主人公や韓国の社会問題や田舎の土の臭いが、相反せず作品を肉付けしている。韓国の今・ここの物語でありながら、不可知の暗闇も感じさせる。 姿の見えない飼い猫も夜中の無言電話も映画の結末も一見現実的な説明が与えられているが、決定的な瞬間は一度も描写されない。ヘミが幼い頃井戸に落ちた話のように真相は宙ぶらりんで、未来と同じくらい過去も現在も不確かなものとなっている。 納屋(ビニールハウス)を焼くという隠喩がビニールハウスで韓国の農村に結びつく。そこから貧富の格差が描かれ、主人公に対比されるベン=ギャツビー(=何で稼いでいるのかわからない金持ちの若者「韓国にはギャツビーがたくさんいる」)を通して、韓国の社会問題とアメリカ文学両方に連想が繋がるのが面白い。 同時存在の意味はよくわからないけど、Aであると同時にBである、...

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映画『バハールの涙』

『バハールの涙』を観てきた。凄かった。 世界のこういう実録ものを見るたびに自分の無知を痛感する。 作り手の伝えなければという責任感があまりに強すぎて、受け手の想像力を奪いかねない箇所がいくつかあったように思えるが、それでもあそこまで真正面からテーマを描いた力強さと勇敢さは他に換え難い 単に女性が自らの尊厳のために戦うという通り一辺倒なストーリーではなく、戦士の長となり戦うバハールとそれを間近で記録し続ける女性ジャーナリストの視点のバランスなどには計算が感じられ、物語の終わりに用意された残る(続く)戦士と還る(広く伝える)記者の信頼とそれぞれのその先を感じられた。 パターソンの時もいたく記憶に焼きついたけど、改めてゴルシフテ・ファラハニの神々しさに終始釘付けだった。 美しい彼女の砂埃で汚れた頬を伝う涙の跡を忘れてはならないと思った。 話は逸れるが、婚姻届を提出した当日に一人で映画館で映画を観た人間っているのだろうか。 極寒の小雨降りしきる中、晴れて結婚した。...

2019年1月期ドラマ時評

昨日、新年会を兼ねて先輩と会って話したが、1月期のドラマは今のところあまり豊作ではないかもしれないという印象。『3年A組』『トレース』『刑事ゼロ』『人生が楽しくなる幸せの法則』『メゾン・ド・ポリス』『私のおじさん』『さすらい温泉』『デザイナー渋井直人の休日』あたりは、初回でもう特に言うこともないという感じ。 今日までで初回放送済みで残すのは『ゆうべはお楽しみでしたね』『スキャンダル専門弁護士』『フルーツ宅配便』『グッドワイフ』『初めて恋をした日に読む話』『ハケン占い師アタル』『トクサツガガガ』かな。 これプラス今週始まるのもいくつかあるから十分なんだけど。 『ゆうべはお楽しみでしたね』 『ゆうべはお楽しみでしたね』は本田翼とオンラインゲームの親和性(ほんだのばいく)と深夜ドラマのゆるさ、『フルーツ宅配便』は風俗嬢の有象無象を不能の男性の目線から見守る視点で描く点と地方都市(Uターン)、『初めて恋をした日に読む話』はラブに寄り過ぎない(希望)落ちこぼれ塾講師とヤンキー高校生のバディーものの側面が光った。 『スキャンダル専門弁護士』 今のところ一番は『スキャンダル専門弁護士』かな。 初回見...

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原風景としての郊外

都市に生きるというのは根なし草として生きることなのかもしれない。人波に流され根なし草として彷徨い、それでも心の底にある邂逅への淡い期待。ぼくはやり直せるかもしれない。また、あたらしくはじまるものがあるかもしれないという淡い期待。 あるいは、ぼくらがアーバン・リベラル・アーツとかポストモダンなシティ・ボーイらしくどんなにうそぶいてみても、きみは根なし草で、きみの原風景は風の吹く乾いた地方の郊外じゃないか?という事実を友人と共有したことから2019年のはじまった。 他方で、郊外に残された者、戻った者。そこにはかつて存在したという神話のような共同体は存在しない。血縁だってほとんどないかもしれない。 そこにあるのは記憶だけだ。商店街は死に絶え、駅前のレコード・ショップや古着屋や雑貨屋はもうない。ティーン・エイジャの頃のイノセントな記憶と気配。 人々は国道沿いのモールに車を走らせ、日常性を補充する。食品(パンや牛乳あるいは冷凍食品)や日常雑貨(歯磨き、トイレットペーパー、LEDの蛍光灯)あるいはZARAやGAPなどのファッション、家電、自転車、ペット用品。休日のレジャーもそこにある。映画館、ヨガ...

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2018年の終わりに

2018年も残りわずか数時間となった。以下のエントリーからすでに一年がたった。 2017年12月31日現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』 2018年は、年初から米朝関係が大きな動きを見せ、2月・3月からは米中間の対立が激化し貿易戦争が開始され、現在では冷戦とも思えるような様相を見せはじめている。現在もカナダにおいてHuawei創業者の娘でHuawei副会長の孟晩舟氏が逮捕され拘束されており、中国においても複数のカナダ人が逮捕され拘束されている。 フランスではイエロー・ベスト集団による革命的ともいえる抗議デモ=騒乱が発生し、マクロン政権は年明けに予定していた燃料税増税を中止した。イエロー・ベスト運動は、アイルランドや台湾にも波及しているという。 また、日本国内でも日産のゴーン代表が逮捕され、フランス・ルノーとの対立姿勢を見せており、ルノー・日産・三菱との同盟関係にも変化が出てきている。 これらはあたかも相互に結びついた問題にもみえる上に、あるいはサイバー戦争や日産コンツェルン創始者・満州重工業開発株式会社総裁の鮎川義介と岸信介との関係なども想起される。 一方...

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ドラマ『僕らは奇跡でできている』最終回

いいドラマだった。相河一輝というキャラクターを創造し、彼に沢山のことを教えてもらったというか再確認したということだけで満足。脚本家・橋部敦子の最高の仕事だったと思う。 現代的な生き難さというテーマでこの作品を『獣になれない私たち』と比較していた部分は多く、先ほど『獣になれない私たち』の最終回の感想のところで書いたけど『僕らは奇跡でできている』は物語で徹底的に“ない”を否定し続け、最終回では受け手の創造を遥かに超えた“あるかも”(宇宙へ行く)を“やる”と宣言した。 これは明らかに受け手からのあり得“ない”という非難を承知でやっており、作り手としてはそこの“ない”という態度に少しでも疑問を持って欲しいというメッセージだったと思う。そこには『獣になれない私たち』と共通する自分を信じるという命題への直面があり、本作は単に自分の好きなことをやるという提案ではなく好きなことを見つけることこそが奇跡への第一歩だと、そこを自分で納得して動けることこそが重要だということだろう。好き放題していた相河先生も実は最後はしっかり成長している。「水泳とロシア語」は興味がないけど宇宙に行くためにやれるのは水本先生の...

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ドラマ『獣になれない私たち』最終回

ラストに間違った?と台詞が出るあたりがまさにそうで、彼女彼らの性質からするとあの選択肢は未知の領域であり、つまりこの作品で初めて一線を越えたことになる。獣になれないという比喩的な苦しさを対岸から見つめた時、彼女彼らは何を語るのか。頑張って欲しいところです。 本作に関して一貫して否定的だった自分からしたらこの上ない納得の終わりだった。裏を返せば、その生々しい苦しさ同感していた人たちをある種裏切ったラストだったとも言えるはず。自分が本作に感じていたドラマ的な難しさというのは、フィクションとの境界であり、こういうリアリティベースの群像劇が一定程度虚構性を排除し現実世界に誠実でなければならないというのは必然だろう。 ただ、あくまでドラマはフィクションであり、物語的な起伏が無く、登場人物たちもその場で身動きが取れずもがいていると、早くそこから救ってあげてとどうしても思ってしまう。 本作がこの問題に果敢にチャレンジしていたのは最終回の構成でも自明である。最終回前で二人は初めて一線を越えた(これは単に寝たという意味ではなく)のだが、その件について最終回の冒頭から話し始め、60分の内の30分を使う。も...

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映画『ア・ゴースト・ストーリー』を観る。

昨日『ア・ゴースト・ストーリー』観てきたけど、ちょっと僕のこれまでの経験ではうまく語れないタイプの映画だった。 カメラワークで言えば極端な長回しとたまにある俯瞰的な映像、ゆったりとしたパンなどこれが物語的には幽霊の視点と解釈してもいいところなんだけど、実はそれでは説明がつかない。 少し前にNHKでやった『カラスになったおれは地上の世界をみおろした。』というドラマは、人間とカラスの身体が入れ替わるという設定で、カラスの目線の映像を全部ドローンで撮影したというものだったが、この映画の映像もそういったものに近いニュアンスで撮影されていたのだと思う。 主人公が死んで幽霊になり、その姿で自宅まで帰り恋人を見守り続ける生活(というか死に活)が始まるのは間違いないから、あの幽霊は死んだ主人公なんだけど、途中で対面の家にも同じ姿の幽霊が現れたり、実は悠久の時を超えて存在してしている幽霊の存在も明かになり、後半はスケールがかなり大きくなる。 ラストシーンでは幽霊は成仏され形を失うのだが、恐らく成仏という概念はキリスト教的には無いはずで、そうすると鎮魂と成仏の違いなどが気になる。ただ、後半のスケールを考え...

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映画『ボヘミアン・ラプソディー』を観る。

『ボヘミアン・ラプソディー』とてもよかった。だが、より注目されるべきは、この2018年に人びとが人びととつながりAssociateするような映画が作られ、人びとを魅了していることだろう。他方で、『獣になれない私たち』に見られるように、人びとが解離的や独我論的に生きる時代にである。 あるいは、2018年現在は世界中でポピュリズムが席巻し、ヘイトスピーチが行われ、深センではプロジェクション・マッピングによりプロパガンダが流れ、パリでは暴動と激しいデモが行われている時代でもある。 イーン=フレディ・マーキュリーはメタファーとして境界例的な力があった。彼らのパフォーマンスは人と人との境界を溶解させ集団として人びとをつなげた。フレディはその自らのすべてを開放して免疫系をやられながら45年の人生を全うした。そして、それは伝説にすらなった。 フレディ・マーキュリーの死後数年、彼から影響を受けたカート・コバーンが自殺する。1994年、日本では『新世紀エヴァンゲリオン』が発表された年でもある。精神性は時代を反映する。70年代頃までは対人恐怖や神経症が多く、80年代は境界例の時代であり、90年代以後は解離...

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映画『アンダー・ザ・シルバー・レイク』を観る。

『アンダー・ザ・シルバー・レイク』面白かった。 これだけふんだんにポップカルチャーを盛り込めば、何処をどう取り上げても議論が白熱するのは自明で、それはそれで楽しいのだが、個人的には一見複雑そうに見えるストーリーと現代におけるオタクという存在に注目した。 この物語のストーリーは紆余曲折がありながらも、最後これでもかと言わんばかりに明確な落ちがある。 一般的に陰謀論や都市伝説ものの面白さは、①推理の過程と②ラストの信じるか信じないかはあなた次第という2つであり、もちろんこの作品も全編にわたって①は大いに繰り広げられる。 それは冒頭の落書きのメッセージから最後の自室のシーンまで99%がそうと言っていい。しかし、この作品は②が全くない。なぜなら、ラストで主人公が信じた答えが示されるからである。作品中延々と振り回された主人公は最後に全てを踏まえた上で、そこから降りる決断をし物語を終わらせる。 陰謀論や都市伝説を解読した者はそれだけで選ばれた者であり、場合によっては大富豪になりうる可能性すら秘める。しかしこの主人公は、その可能性を他社に譲渡し(自室に◇◇を記し)、隣人の部屋へと向かう。地図上の大が...

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映画『ア・ゴースト・ストーリー』を観る。

『ア・ゴースト・ストーリー』これは、なんと言ったらいいのか、「死んで幽霊になった男が残された妻を見守る話」ではあるけれど、もっと広い意味で、去っていくものと後に残されるものの話である。ただし去っていくのは生きている人間の方だ。幽霊は後に残される。ここでは生者と死者が逆転している。 事故で死んだ男はシーツを被った幽霊の姿になって家に帰る。幽霊は生きた人間に触れることはできない。過ぎていく時間の中で、かつての妻をただ見守り続ける。生きている人間と幽霊の一番の違いは時間の流れ方だ。幽霊になった人間の時間は止まる。 印象的なのは、彼が幽霊になった少し後、一人で床に座り込んで食事する妻を長回しで映した場面だ。彼女は食べる。食べ続け、そして吐く。壁に反射する光や外の物音は少しずつ変化する。しかし横で見ている幽霊だけは微動だにしない。動いている生者の時間と止まった死者の時間。 男が作った歌の歌詞にもある通り、彼女は去っていく。旅立って、それっきり物語から退場する。その後も見知らぬ人間たちが次々とやってきてはいなくなる。去っていくのはいつも生きている人間であり、それを見送る幽霊は独りで取り残される。 ...

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『Sounds of the City』

写真は、被写体がかつて確かにそこにいたこと、そして同時に(少なくとも当時の姿では)もういないことを絶対的な事実として突きつける。 このことは、小説、少なくともバルトにとって重要なプルースト的な小説に似ている。 何かが語られるのは、それが終わった後にしかありえない。 語られた出来事は、取り返しようのない距離で隔てられた過去として表れる。 言ってみれば、小説の始まりにはいつも写真がある。...

『音楽が終わった、その後で』

誰かに気持ちを許すことは油断すると甘えてしまうことに繋がりやすい。甘えは芯の方からじわじわと蔓延し、やがて全てを食い尽くす。なんてね。 思いやりを持った自立した人間でありたいと思うよ。一応は。未来を思うと吐き気がするし、今を思っても寒気がする。思考を捨てて過ごすのが精神衛生上は宜しいというのはわかるんだけど、それもちょっとちがう。 一生戯言を抜かしたいので、そのために精一杯体裁を整えよう。 “小さな旅”のはじまり、「ぼくらが旅に出る理由」 魔法がかかる、という表現についての聴覚的回答 病院 W.G.ゼーバルト『アウステルリッツ 』について ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』について IN THE CITY River’s Edge アナログ・ミュージック 山田かまちを巡って 村上春樹について 〈知覚の扉〉を叩いて 絶対的な瞬間について 滝口悠生『愛と人生』を読んで考えること あの頃、僕らが夢中になったのはこんなレコードだった。 “小さな旅”のはじまり、「ぼくらが旅に出る理由」 2017年3月9日 by 宝田 とまり これは何度も懲りず無謀な旅に出る前の“小さな旅”のはじま...

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古市憲寿『平成くん、さようなら』を読む。

『平成くん、さようなら』読み終わり。 安楽死というテーマに対する社会学である著者のアプローチと、それを平成という時代を絡めて小説というコンテンツで見事に表現する構成力はデビュー作としては見事。著者を思わせる平成くんという主人公を恋人の一人称から描く距離感も著者らしい。 著者の来歴や作風も含め田中康夫の『なんとなく、クリスタル』は比較されうる作品であるが、『なんとなく…』は恐らく当時あの作品を読んで共感できる人が多くいたからこそ、現在でも80年代の時代の空気を切り取ったという評価が一般化されているのだろう。 だが、その事を踏まえると『平成くん…』は果たして平成という時代の映し鏡のような作品だろうかということを考えると必ずしもそうでない気がする。逆説的にはそれこそが平成という時代の多様性や格差の象徴なのかもしれないが、僕にはほぼ同時代を生きてきた平成くんと愛ちゃんの2018年の日常は想像し難い。 東京湾に面した家賃130万のタワーマンションや特殊な労働環境、移動手段はほぼタクシーで身につけている服は俗に言うハイブランドものとという彼ら。その彼らの寂しさや辛さにいまいち共感が持てなかった。も...

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あの頃、僕らが夢中になったのはこんなレコードだった。

10年弱前のmixiの日記に大学4年間で刺さった10枚みたいなものを書いていたのを偶然見つけた。ほぼ全てインディーロックで時代を少し感じたのと自分可愛いかったなと暖かい眼差しで読んだ。 どうも!今日は僕が大学4年間に聴いたアルバムの中から特に素晴らしかった10枚をピックアップして紹介します。 興味のない方は僕の牧場に虫でも入れてお引取り下さい。 それなら公開しなきゃいいじゃないか?もっともです。でもあえて公開するのはちょっと見てもらいたい気持ちもあるからです。笑 スタートする前に注意事項を!今回は70’s~2000’sの中から10枚を選びました。 なぜ、60’s(50’sはともかく)を外したのか。かのピッチフォーク(アメリカの音楽サイト)も60’sはアルバムのランキングを公開せずに、曲のランキングだけに留めてあります。おそらく音楽基地外の集団であろうピッチフォークでも「ごめん、60sはアルバムで順位はつけれねーわ。わかるだろ?」的なことが英語で書いてありました。それをたかだか4年間音楽をかじった程度の僕が安...

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柄谷行人と村上春樹-デカルト、フッサール、サルトルと構造主義からの批判

デカルトのコギトにしても、フッサールの超越論的自我にしても、サルトルの無の自由にしても、それらは超越論的主観である。 そして、それは形式的であり人間中心主義だと構造主義から批判される。 超越論的主観による形式化に対する批判が構造主義からなされたのだとすれば、なぜ、フランス現代思想はある種文学的な文体を持つ文章なのかということは確かに理解できる。 他方で、日本のポストモダン文学史の中での柄谷行人による村上春樹批判はその超越論的主観を問題視した。 また、フランス文学者の蓮實重彦もサルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』の翻訳を15年に渡り放置した言われ、そこにはある種のサルトルフォビアがあったのではないかと考えられている。 そう考えてみると、文壇における村上春樹批判というのはむしろ文芸批評家による哲学的コギト批判にも思える。 だが、他方で柄谷行人はデカルトを評価している。デカルトは哲学界の悪役でコギト的であると評価されているが、しかし、常に共同体の外で考えようとした人間だと評価するのだ。 この共同体は言語ゲームを互いに共有する人々であろう。であるならば、柄谷行人による村上春樹批判は何を意味...

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『東方のラビリンス』

以下は、過去636日間における14の文章である。 順序としては、もっとも新しい2018年9月21日の文章から順番に並び、2017年1月27日が終わりの文章にあたる。 これらの文章が何を意味しているのかはわからない。 ただ、最近、熱帯魚のベタを飼いはじめたことが関係しているように思う。 タイトルはベタの「ラビリンス器官」による。 タイ(バンコク・アユタヤ)を旅する ― 聖なるものと俗なるものの濁流をさまよう 哲学 – 賭け – 愛するということ 西洋コンプレックスとアジア的意識 – 近代/一神教/自由の意味 – アイデンティティとナショナリズム 日本語のエクリチュール/パロールと中国語 現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』 『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて – 〈都市教養〉というキーワード=コンセプトについて 台湾を旅行する。- 中華民国台湾省台北市的小旅行 – 若者の街とユース・カルチャー ~ 渋谷,音楽,ファッション ~ 存在探求のためのメモランダム/言葉をめぐる冒険/浮遊への逃避行 左右対立のねじれについ...

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『判決、ふたつの希望』を観る。

『判決、ふたつの希望』を観る。歴史的であり局地的であり普遍的でもある問題。それに観る者の目を開かせ、葛藤を共有させ、そして希望を提示する。多面的な描写、平板ではない物語の進行、様々な人物のぶつかり合いによる変化、ハリウッド的に洗練された構図等、テーマとエンタメ性が巧みに絡み合っている。 裁判シーンの言葉の応酬はこの映画の見どころだ。一方で、自体を引き起こし人々を振り回すのも、言葉というものが本質的に持っている過剰さである。言葉は、それを発した本人の意思を超えて力をふるってしまう。「クズ野郎」「シャロンに抹殺されていればよかった」言葉を発端にした争いは、言葉を武器にする弁護士を介し、言葉でやり合う法廷に持ち込まれたことで、国を巻き込む一大事になってしまう。二人の主人公、夫と妻、息子と父、弁護士と弁護士(父と娘)、民族と民族、男性と女性、右派と左派、老人と若者、様々な対立が飛び火し、拡散し、露見する。 誰にも歴史があり否が応でもそれを背負わざるを得ない。裁判は歴史と傷と罪が暴かれる場でもある。主人公二人だけでなく、関わった者は皆痛みを負い、変化していく。始まりの地点と同じ場所に居る者はいな...

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『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観る。

『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観る。ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』を現代にアップデートして映像化したかのよう。イメージの洪水に悪酔いを起こす、凄まじい迷宮映画だった。しかしながらそこには歴史も対抗文化ももはや無く、自ら築いた迷路には消費とポップの悪夢だけが広がっている。 街中の看板、テレビ番組、流行曲、お菓子の景品、壁の落書き、動物の死骸、シンクロニシティ。氾濫するメッセージに「真相」などなく、解読は誤読にしかなり得ず、読み取った物語は自身の映し鏡である。意味も黒幕も限りなく空虚だ。 そこには、あたかも身体性は無いけど生理的というのだろうか、肉体を持たないまま五感だけが鋭敏になっているような感覚がある。 作中で言及される大衆文化についての知識合戦や隠喩についての考察合戦がおそらく繰り広げられるのだろうけど、撒かれたピースから各々が解釈を組み立ててしまうこと自体が作品と相似している。...

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