カテゴリー: 旅

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台湾を旅行する。- 中華民国台湾省台北市的小旅行 –

台湾を旅行する。- 中華民国台湾省台北市的小旅行 – Posted on 2017年9月1日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

8月24日から8月28日にかけて、台湾を旅行した。
台湾旅行を振り返ると、文化あるいは歴史的な流れにおける気づきが大きかった。

また、この旅は4泊5日だったのだけれど、予想していたよりも台北は大きかった。
旅の全体像は、以下のような日程であった。

前日深夜から羽田空港で過ごし、LCCのタイガーエアで05:30に離陸。
1日目、西門駅周辺の昆明街にあるホテルに到着。龍山寺周辺や台湾総督府周辺を散策。
2日目、世界三大博物館の故宮博物館や誠品書店をめぐる。夜は士林夜市を散策。
3日目、鼎泰豊の本店で食事、夕方からは九份を散策、台北101 にてナイトビュー。台湾式マッサージを試す。
4日目、夏休みらしく白沙湾のビーチで過ごす。足裏マッサージを試す。
5日目、昼過ぎの便で帰宅。日常に戻る。

香港旅行のように気軽な散策という感じでは十分ではなく、満喫するにはもう数日いてもよかったように思う。

正統なる「中国」としての台湾

台湾は思いのほか中国であった。あるいは、失われた故郷としての中国であった。
そこには、連綿と連なる中国王朝とその芳醇な文化の香りが漂っていた。
そして南国の風土がそのその香りを包んでいた。
台湾は、彼らからしてみれば、むしろ正当なる中国である。

故宮博物館では、古代王朝から受け継ぐ文化が語れていた。そこでは漢民族の歴史だけではなく、モンゴル民族国である元や満州民族の国である清の歴史も多く語られていた。
また、その歴史の流れと強く結びつきながら語られていたものは仏教についてであった。古来、中国は仏教が大盛した国であった。

特に、自らの解脱だけではなく他者の救済をもふまえた仏教、衆生を救おうとする菩薩の御心を示した大乗仏教は中国で大きく栄えた。
そして大乗仏教は各王朝の皇帝の治世と結びついたのではないだろうか。台湾には数多くの仏教寺院が存在した。もちろん中国らしい、道教に影響を受けた寺院であるが。

それら寺院で目を引いたのは、多く関羽や孔子あるいは道教の神々や帝が同時に奉られていることであった。
台湾には多くの宮も存在した。宮とは帝を祀る宗教施設である。

日本では、古来から天皇と仏教との繋がりがあった。
また、春日大社など数々の神道と仏教が結び付きながら神仏習合を果たしていたといわれる。

しかし、日本のそのような文化はまったくのオリジナル、東方の僻地のガラパコス・カルチャーではなかったようだ。
中国においては、仏教は道教と結び付きながら受容され、また儒教と結びついた王朝文化がまた、皇帝による大乗仏教的な治世として仏教と結びついていた。
それが文化の中心、中国だった。

博物館では、中国の文化としての仏教は、インドのみならず密教で有名なチベットやその興隆地モンゴル民族の文化と結びついていることが語られていた。
くしくも、それらは中国共産党から弾圧され対抗した地域であった。

他方、台湾(中華民国)を見ると高砂族の存在があった。
彼らは音楽の音色で農耕作物をねぎらう優しい原住民であったという。
台北も中心地から少し離れると(といっても台北は東京で暮らすわれわれのイメージよりもはるかに広い)、高砂族だろうと思われる日に焼けた素朴な表情の人々ともすれ違った。

台湾と日本

しかし、振り返れば明治28年(1895年)、日清戦争の後に交わされた下関条約により日本は台湾を領有していた。
時代は帝国主義の時代であった。

1919年に完成した台湾総督府は現在も公務で使用されている。
総督府の周辺にはいまだに当時の面影を残す建物が多く建ち並んでいる。

また、かつて日本軍が使用していた軍事施設は、現在では中華民国国軍により利用されている。
ガイドの男性によると懲役の任期中にはこのような怪談話も囁かれるという。
“夜中見廻りをしていると軍靴の音が聞こえた。”
“見廻り中に居眠りをしてしまったら、上官らしき声に日本語で怒鳴られ起こされた。”

総督府付近を散策しながら商店街の中で趣のある寺院を見つけ入ると意外にも空海が祀られていた。
西門駅周辺にある台北天后宮である。
ふと、その像を眺めながらカメラのシャッターを切っていると日本語で人の良さそうなおばあさんに話しかけられた。

彼女は昭和4年生まれ、現在88歳。かつて、日本が統治していた時代に国民学校に通っていたという。
あまり普段は話さないという日本語で語る彼女は、そこはかつて弘法大師を祀っていた日本の神社であったと語った。
第二次大戦後、台湾を統治した国民党によりその寺院は改められ天号宮とされたという。

中国国民党の台湾

国民党はその後、国共内戦で中国共産党との戦いにより台湾に撤退することになる。
台湾や国民党といえば、孫文というイメージがあったのだが、蒋介石も国民党の党首として語り継がれているように感じた。
硬貨の絵柄を見ると、50元や10元は孫文、10元と5元,1元は蒋介石の肖像が描かれていた。

また、国民党の歴史も見たいと思い国軍博物館にもいったのだが、記念展設営の改修のため休業であった。また機会があればよりたいものだ。
台湾には、現在でも徴兵制があるということだ。
街中にはいくつも軍警用品店というミリタリーショップがあった。
また街中に、監視カメラが設置されていた。

陶磁器と漢字の文化

故宮博物館では、仏教のほか陶磁器と漢字の文化が大きく取り扱われていた。
中国の文化のたよらかな風合いは、この陶磁器と漢字の文化によるところが大きいのではないか。

陶磁器は、古代から続く代表的な工芸・芸術である。
それらはもちろん職人が作るのだが、それはあまりに自然な雰囲気を持っている。
陶磁器はあくまで土であり、泥である。それを捏ね、造形し、焼き、色合いをつける。
しかし、それらは土であり、形を崩せばいずれそれらは土に戻るであろう。
われわれもまた、土であり泥である。われわれもまた、土に戻る芳醇な自然の一部の存在であるのだ。

あるいは、漢字文化。それらは、ラテン語やギリシャ語から影響を受けているヨーロッパの言語とは大きく異なる。ヨーロッパの言語は表音文字である。たとえば、ローマ字には1文字1文字には意味がない。デリダが批判したように、ヨーロッパの言語は音声中心主義であり語りを中心に作用する。

言いかえれば、ヨーロッパの言語には読み手による解釈の幅、遊びの要素が広くない。
きわめて論理的なのである。
他方、漢字文化はもともと象形文字由来の表意文字である。
それらは、1文字1文字がシンボルでありなんらかを象徴し表している。
他方、それゆえにそれらには厳密な論理構築には適さない。

それはこういう風にも言えるだろう。漢字はシンボリックなメタファーの遊びであると。漢文の古典を考えてみればあきらかだが、それらはいくらでも解釈の余地がある。しかし、それゆえにそれらは芳醇なのである。
それらは、論理により語り尽くすのではない。語りと語らぬ中に、別の語りを含むのだ。

それから

その他、色々と過ごした。
誠品書店ではカバーがリデザインされた洋書を買った。
白沙湾では地元の女子高生と男子たちの戯れと日差しに目が眩んだ。
士林夜市ではその喧騒のムードに飲まれたのかストリート風のTシャツとキャップを買ってしまった。
九份帰りの相乗りタクシーではサンフランシスコ出身のバリーと仲良くなった。
女の子たちは、みんな可愛かった。

女の子がみんな素敵な台湾ガールならね……。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
Posted in 哲学・批評 散文

僕らが旅に出る理由 – 日常の外の日常 –

僕らが旅に出る理由 – 日常の外の日常 – Posted on 2017年5月31日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

僕らが旅に出る理由はなんだろうか?

とはいえ、旅にも色々あるかもしれない。

ある意味、旅はある形での自由(自我の拡大)の追求だろう。
ヘーゲルの絶対精神の弁証法の旅やゲーテの自由を求めるビルドゥングスロマン、コリントスから逃れたオイディプスの悲劇の旅。

他方、旅は他者との邂逅や出会いと別れ、ヒューマンを感じるものかもしれない。
東浩紀の「観光客の哲学」や川端康成の「伊豆の踊り子」、あるいは市川崑の「木枯し紋次郎」「股旅」。

僕は以前から「旅」「旅行」「観光」といったキーワードには違和感を持ち続けていた。
そこには、ある種の憧れと軽蔑、アンビバレントな感情があった。
なぜ、旅をするのか?目的は何か?何をどう楽しむものだろうか?
そもそも、社会人の男性をターゲットとした旅の目的地はあるのだろうかという疑問(風俗や酒場は別として)。
あるいは、物理的に移動する意味はあるのか?旅行とインナートリップはどちらがより遠くまで行けるのか。

しかし、5月は思いがけずに何度か遠出をした。
香港・マカオへの旅行、ブラジル街大泉町の散策、伊豆大島の旅行、御岳山登山。

住めば都というが、出れば旅も悪くない。
たしかに、日常の想像の外の世界に触れることができる。

たとえば、香港の乾物の匂いの漂う路地裏。
マカオの下町で猫のように暮らす老人たちの飲茶をする姿。
ブラジル人労働者たちのアパート暮らしと、ソウルフード、そしてカトリックの教会。
踊り子たちが暮らしていただろう島の風景。

それは、僕らの日常の外にあるものだ。
しかし、それは僕にとってであり、かれらにとっては日常だ。
僕はここにいて、かれらはそこにいて。
もしかしたら、彼らは僕らなのではないか。
そんな想いすらよぎる。

あるいは、真っ暗で底が見えやしない休火山の噴火口。
まるで人のいない18時の登山道。
沈みゆく黄昏が映る。日没が迫る。頂上まで辿り着けるのだろうか?

いや、それは日常そのものじゃないか。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
Posted in 散文 音楽

“小さな旅”のはじまり、「ぼくらが旅に出る理由」。

これは何度も懲りず無謀な旅に出る前の“小さな旅”のはじまりについてのことだ。 

先日突如として、小沢健二の19年ぶりとなるニューシングルが発売された。
発売を機にテレビなどメディアへの出演も果たし、近年表舞台での活動を控えていた小沢健二のカムバックに歓喜するファンの声がネットを中心に話題となった。
言わずもがな、僕もその一人である。

彼の代表曲の一つに「ぼくらが旅に出る理由」という歌がある。のちに数多くのアーティストにカバーされテレビCMにも使用されるなど、発売から20年以上が経つ現在もその人気は絶えない。
僕がこの曲に深い思い入れを抱くきっかけとなった出来事がある。それは2010年2月にとあるラジオ番組が行った「小沢健二とその時代」という放送だった。

当時まだ大学生だった僕は就職活動も終わり4月から新社会人として働くことが決まっており、残りわずかな大学生活でやり残したことはすべてやってしまわねばと焦燥感に駆られていた。内定していた会社は希望していた業界や職種とはかけ離れているにも関わらず、大学時代のようにいくらでも自分の好きなことに時間や労力を割ける生活が望めないことは自明だった。毎日一緒だった友人たちと離れることを考えると、焦りというより絶望的な気持ちの方が強かったかもしれない。本当にぼくらに旅に出る理由などあるのだろうか。誰か理由くらい教えてくれてもいいだろうと「ぼくらが旅に出る理由」の歌詞を追った記憶がある。
  

遠くまで旅する人たちに あふれる幸せを祈るよ
ぼくらの住むこの世界には 旅に出る理由があり
誰もみな手をふっては しばし別れる

上記は、「ぼくらが旅に出る理由」の歌詞の一部の引用だ。
歌詞を最後まで読めば明らかなのだが、この曲の中で「旅に出る理由」というのは明示されない。
具体的な理由に触れられないものの、人は旅に出ることがあるし旅に出ることは即ち“しばし”の別れが訪れるものだということが象徴的に歌われている。
答えのないこの歌詞に当時はもどかしさを感じていたかもしれない。

あれから8年、社会に出て働くことや転職に伴ういくつかの旅と別れを経験してきた。
時間が経つにつれ、旅についての心境の変化があったようにも思う。当たり前のことなのだが、旅に出ることは視野や行動範囲を格段に広げ、一方で永久の別れを生み出すようなことはない。理由についてもそうだ。旅に出る瞬間にはこれといった具体的な理由にこだわる必要はなく、振り返った時初めてその理由を見出せたりするのも旅の面白さなのかもしれない。そう考えると当時の自分が可愛らしくもあり、これからの旅にも思いを馳せることができる。

今日は良く晴れている。天気読みの必要はなさそうだ。