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2019年8月25日

光画紀行―香港・中国編

香港

 

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午後からビーチに行った。木陰で本を読んだり昼寝したりしながら日暮れまで過ごして昨日までの疲れを癒した。夕飯はお粥。店員が丁寧に説明してくれたがさっぱり何言ってるのかわからないので、Ok.I’ll try it.と言ってみたらすごいシンプルなのが出てきた。 それにしても、香港に来てもうどれほどの月日が経ったのだろうか。香辛料の強い料理はいい加減うんざりだ。今日の昼ごはんは中華はやめて、たまたま目に付いた黄色いロゴの店で双层吉士汉堡というよくわからないものを頼んでみた。今までで一番美味かった。

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宿を引っ越しました。昨日までは町外れのドミトリーだったが、今回は少しグレードアップして都会のホテルしてみた。ネーザンロードのすぐ近く。広さも十分で快適。体がこのサイズで良かった。もう少し大きく成長してたらここのシャワーは浴びれなかったな。 立地を良く考えなかったので昨夜は周辺が騒がしく、黒服と警官隊、報道記者をよく見かけた。宿の数ブロック先で彼らは睨み合ってるわけだが、自分が歴史の渦の中に生きていることは十分実感できたので好奇心は他のことに使うことにした。ただ、こういう時の街はどんな感じなのかだけはどうしても自分の目で見たかったので、好奇心を押し殺してカメラ片手に少し街を散策してから、寝た。

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香港

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中国

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今日から上海。香港のホンハム駅から寝台列車で19時間。指定席制で、自分のベッドは三段ベッドの中段。想像以上に狭く、パックパックを置くと足を伸ばして寝られない。でも結構快適で19時間はあっという間に過ぎた。まだ着いたばかりだが、中国はやはり他の国と色々と違って新鮮だ。電車に乗るたびに毎回荷物をX線に通さなければならない。公安がどこにでもいる。原チャリは全部電動式で走る音がしない。街中のフリーWiFiは中国の電話番号がないと使えない。英語表記が少ない。キャッシュレス化が進んでるが中国に口座がない外国人はそのサービスがつかえない。不便は多いがその方が旅してる感があって良い。 とりあえず来てはみたもののまだ何も決めてないので、これから何をみて回るか調べる。

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ついに鳳凰古城に着いた。上海から寝台列車で吉首駅まで22時間。そこからバスを2つ乗り継いでで2時間。簡単な英語でも全く通じない。漢字を見せても「あっち」と指差さされるだけで宿にたどり着けず彷徨うこと2時間。長旅だった。今回も寝台列車を使ったが前回よりも狭かった。笑ってしまうくらい狭かった。三段ベッドの最上段で、本当に狭かった。 上海はとりあえず見てみたかっただけで、中国に来た一番の目的はここを見ること。湖南省の湘西自治州にあり、中国で1番美しい街並みと言われ、少数民族のミャオ族やトゥチャ族が暮らす場所。古城の周りは思っていた以上に都会で、すでにかなり観光地化されている。もっと自然あふれる田舎町を期待していたので少し残念。ここには3泊して、次は中国の大自然が見られる武陵源に向かう。 夕飯を食べに外に出たら2、3軒おきにミュージックバーとカラオケがあって歴史的な街にクラブミュージックがズンズン響いてた。

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2018年11月23日

『Sounds of the City』

写真は、被写体がかつて確かにそこにいたこと、そして同時に(少なくとも当時の姿では)もういないことを絶対的な事実として突きつける。

このことは、小説、少なくともバルトにとって重要なプルースト的な小説に似ている。

何かが語られるのは、それが終わった後にしかありえない。
語られた出来事は、取り返しようのない距離で隔てられた過去として表れる。

言ってみれば、小説の始まりにはいつも写真がある。

2018年9月21日

タイ(バンコク・アユタヤ)を旅する ― 聖なるものと俗なるものの濁流をさまよう

2018年9月14日~18日、タイ〈バンコク・アユタヤ〉を旅行した。

微笑みの王国、タイ。
かつて「クルンテープ」(天使の都)と呼ばれ「東洋のヴェネツィア」と讃えられる水の都バンコク。
あるいは、世界遺産にも登録された古都アユタヤ。
アジアの雑踏。崇高な超越へのあこがれと、猥雑な風俗が雑多に混じりあった東洋の王国。

バンコクを流れるチャオプラヤー川の濁流は聖俗浄穢を飲み込むタイの風土を象徴しているかのようだ。
それは、同じアジアの王国でも、日本の列島全土を流れる清流や神道的な穢れの思想とは対称的である。

初日

ぼくら(友人とぼくの3人)は、9月13日(木)の夜に羽田空港に集まり、9月14日(金) 00:30 東京・羽田発 → 9月14日(金) 04:50タイ・バンコク行きのフライトで旅行を開始した。
旅行初日はトラブルの連続であった。バンコクの空港に降り立つと、友人がひとり行方不明になった。iPhoneのSIMカードはwifi環境でのアクティベートが必要ですぐには使えなかった。ぼくらは、とりあえず、なかば諦めて入国審査カードを記入した。

どうにか、ようやく友人と再会し、電車や船を乗り継ぎながら朝8時ころホテルにチェックインすることができた。

観光を開始すると、王宮前ですぐに詐欺グループに絡まれた。友人たちは気のよさそうな(ぼくにはそう思えなかったのだが)タイ人の親父相手に会話を楽しみ、言われるがまま通りすがりのトゥクトゥクに乗り込んでいた。正直に言って、ぼくは友人たちの素直さにうらやましさを感じた。
もちろん、トゥクトゥクの運転手はぼくらと会話していたタイ人の親父の顔見知りであった。どうやら、彼らは言葉たくみに観光客を誘導し、大金をだまし取る詐欺グループだったらしい。タイの有名観光地でのこうしたトラブルは数十年前から存在するという。
http://www.newsclip.be/article/2015/05/24/25730.html

しかし、さすがに、初日から詐欺にあうわけにはいかない。彼らの前を立ち去り、ぼくらは王宮、タイ料理屋でのランチ、ワット・ポーの見学とタイ式マッサージ、その後、射撃クラブとナイト・マーケットを楽しんだ。三島由紀夫の『暁の寺』に登場するワット・アルン、一番の楽しみでもあったが時間の都合で今回は省略した。次回、その暁の姿を見たい。

だが、問題はその後であった。ぼくらは、終電のバスを乗り過ごした。
フライトからぶっ続けで遊び続けた疲労困憊のぼくらは、いくつもの失敗を繰り返した。
まずは、バス停で待ちながら所定の路線(25番線)のバスを見過ごした。ふたつめに、バスに乗り込むとそれは逆側方向へのバスであった。道を渡って、Googleマップでバス停の位置を探す。それが最後のチャンスだった。スコールが降っていた。ぼくらは雨の中バスを待ち続けた。
かすかに、そこが本当にバス停なのだろうかと不安を抱いていた。なぜなら、そこにバス停の標識が見られなかったからだ。友人はぼくに「雨宿りしながら、少し離れた場所でバスを待とう」と言った。
だが、ぼくはその最終バスを逃したくはなかった。ぼくはこのまま待つと答えた。
バスが現れた。ぼくらは手をふった。バスは通り過ぎて、200メートル離れたところで停車し、また走り出した。バス停はぼくらのいたところには存在しなかった。ぼくらは現実と地図をはき違えていた。

24時過ぎ。ぼくらは最終バスのないバスの停留所に座り込んだ。タクシーは観光客には冷淡だった。
彼らは深夜のぼくらを乗車させてくれなかった。疲れたぼくらはそこで15分ばかりぼんやりと過ごした。スコールは、その雨脚をいっそう強いものにしていた。だが、その雨音の向こうにかすかに大型車のブレーキの音が聞こえた。雨脚の向こうに、バス停のすぐ手前に、バスがいままさにそこに停車しようとしていた。それは25番線だった。バスは時刻表を30分以上遅れて運行していた。ぼくは奇跡という言葉の意味がわかった気がした。

ホテルに戻ると、浴槽のないバスルームでシャワーを浴び、シンハー・ビールを飲んで、ぼくらは朝までゆっくりと眠った。

二日目

二日目は、チャイナ・タウン、カオサン・ロード、電車移動をして古代遺跡アユタヤ、そしてナイト・クラブを巡った。

アジアにおいて、中華文明というのは特異点であり、タイにおいても中国文化の影響は色濃い。
一説には、そもそも、タイ族は中国南方から移動してきた人々だともいわれている。
タイ各地においても中国風の寺院や漢字が見られるところは多い。そんなタイのチャイナ・タウンで朝食をし散策をしながら二日目ははじまった。

チャイナ・タウンを散策すると、トゥクトゥクで15分ほど移動してカオサン・ロードに移動した。
バックパッカーの聖地。マクドナルドのキャラクター、 ロナルド・マクドナルドがワイ(合掌)している姿も見られる。カオサン・ロードはシルバー・アクセサリーの名店街でもあるらしい。SILVER FACTORYなどの看板が多く掲げられていた。

午後は、バンコク駅(フワランポーン駅)に移動し、そこから鉄道で古都アユタヤに移動した。
バンコク駅と鉄道移動で見た景色はもしかしたら今回の旅でもっとも印象深かったものかもしれない。
バンコク駅ではイスラームの衣装を着た女の子たちが離れ離れになるのだろう、抱き合って涙を流している姿を見かけた。仏教国タイにも少数ながらイスラーム人口はあるということらしい。近年の統計では、約400万人、4.6%がイスラム教徒であるという。
それから、弁当の売り子、ペプシのポスター、サバ缶の看板。色とりどりのタイがバンコク駅にはあった。
鉄道が出発してしばらくすると、バラック建ての家々が立ち並び、アユタヤ周辺まで移動したころには広大な農地がその姿を見せるようになった。タイは非常に都市と地方の差が大きく、また、貧富の差も大きかった。

古都アユタヤは、王朝の滅亡とかつての仏教の繁栄をよく示していた。日本でいえば、平家物語や奥州藤原氏を思わせる栄枯盛衰を想像させた。あらためて、一日かけてゆっくり見たいと感じた。
今回は駆け足でトゥクトゥクでツアーを行い、その後、河上のコテージ風のレストランでタイ料理とシンハー・ビールを飲むと、また鉄道でバンコクに戻った。
そして、ナイト・クラブを楽しむことにした。

バンコクでもっとも有名な歓楽街のひとつナナプラザ。ゴーゴーバーやバービアが多く集合するモール型の歓楽街。多くの日本人が訪れるという。
正直に言えば、セクシーな女の子が舞台の上に並んでるのを眺めながらアルコールを飲むところと聞いていて、Disco Trainみたいないわゆるclubを想像していた。だが、それとは違っていた。ステージの上の女の子たちは踊ってはいなかった。彼女たちは、ただステージに立ち、音楽に合わせてポージングする。
それを見つめる男たちの熱狂、熱い視線。対して、見られる彼女たちは、彼女たちの肉体は熱狂とは遠く、冷たい肉のようにも見えた。仏教国のタイでは、人々は輪廻転生を当たり前のことのように考え生きているという。あるいは、肉体と精神の乖離した彼女たち。肉体は現世における魂の牢獄にすぎないだろうか。
タイでは売春は違法ではない。厳密にいえば刑事的な処罰はない。だが、それらは合法でもない。それらは、双方が法的に守られた関係でもない。そこには、ただ、微笑みがあった。ぼくらはどこか醒めた気持ちを感じながらジントニックを飲み干した。

三日日

三日目はサムットソンクラーム県のメークロン市場(折り畳み市場)とバンコクの水上マーケットを観察し、エラワン美術館を巡った後で、サイアム・スクエアのモールでお土産を買い、ホテルに戻った。
そして、浴槽のないバスルームでシャワーを浴び、シンハー・ビールを飲んで、空港行きの朝4:30のシャトル・バスまで少しのあいだゆっくりと眠った。

そして、ぼくらのタイ旅行は終わった。朝7時半、タイ・バンコク発 → 東京・成田行きのフライトでぼくらは日常に戻った。
きっと、いつかまたぼくらは、タイの街を訪れるのだろうという予感を残して、上野駅でぼくらは別れた。

2017年9月1日

台湾を旅行する。- 中華民国台湾省台北市的小旅行 –

8月24日から8月28日にかけて、台湾を旅行した。
台湾旅行を振り返ると、文化あるいは歴史的な流れにおける気づきが大きかった。

また、この旅は4泊5日だったのだけれど、予想していたよりも台北は大きかった。
旅の全体像は、以下のような日程であった。

前日深夜から羽田空港で過ごし、LCCのタイガーエアで05:30に離陸。
1日目、西門駅周辺の昆明街にあるホテルに到着。龍山寺周辺や台湾総督府周辺を散策。
2日目、世界三大博物館の故宮博物館や誠品書店をめぐる。夜は士林夜市を散策。
3日目、鼎泰豊の本店で食事、夕方からは九份を散策、台北101 にてナイトビュー。台湾式マッサージを試す。
4日目、夏休みらしく白沙湾のビーチで過ごす。足裏マッサージを試す。
5日目、昼過ぎの便で帰宅。日常に戻る。

香港旅行のように気軽な散策という感じでは十分ではなく、満喫するにはもう数日いてもよかったように思う。

正統なる「中国」としての台湾

台湾は思いのほか中国であった。あるいは、失われた故郷としての中国であった。
そこには、連綿と連なる中国王朝とその芳醇な文化の香りが漂っていた。
そして南国の風土がそのその香りを包んでいた。
台湾は、彼らからしてみれば、むしろ正当なる中国である。

故宮博物館では、古代王朝から受け継ぐ文化が語れていた。そこでは漢民族の歴史だけではなく、モンゴル民族国である元や満州民族の国である清の歴史も多く語られていた。
また、その歴史の流れと強く結びつきながら語られていたものは仏教についてであった。古来、中国は仏教が大盛した国であった。

特に、自らの解脱だけではなく他者の救済をもふまえた仏教、衆生を救おうとする菩薩の御心を示した大乗仏教は中国で大きく栄えた。
そして大乗仏教は各王朝の皇帝の治世と結びついたのではないだろうか。台湾には数多くの仏教寺院が存在した。もちろん中国らしい、道教に影響を受けた寺院であるが。

それら寺院で目を引いたのは、多く関羽や孔子あるいは道教の神々や帝が同時に奉られていることであった。
台湾には多くの宮も存在した。宮とは帝を祀る宗教施設である。

日本では、古来から天皇と仏教との繋がりがあった。
また、春日大社など数々の神道と仏教が結び付きながら神仏習合を果たしていたといわれる。

しかし、日本のそのような文化はまったくのオリジナル、東方の僻地のガラパコス・カルチャーではなかったようだ。
中国においては、仏教は道教と結び付きながら受容され、また儒教と結びついた王朝文化がまた、皇帝による大乗仏教的な治世として仏教と結びついていた。
それが文化の中心、中国だった。

博物館では、中国の文化としての仏教は、インドのみならず密教で有名なチベットやその興隆地モンゴル民族の文化と結びついていることが語られていた。
くしくも、それらは中国共産党から弾圧され対抗した地域であった。

他方、台湾(中華民国)を見ると高砂族の存在があった。
彼らは音楽の音色で農耕作物をねぎらう優しい原住民であったという。
台北も中心地から少し離れると(といっても台北は東京で暮らすわれわれのイメージよりもはるかに広い)、高砂族だろうと思われる日に焼けた素朴な表情の人々ともすれ違った。

台湾と日本

しかし、振り返れば明治28年(1895年)、日清戦争の後に交わされた下関条約により日本は台湾を領有していた。
時代は帝国主義の時代であった。

1919年に完成した台湾総督府は現在も公務で使用されている。
総督府の周辺にはいまだに当時の面影を残す建物が多く建ち並んでいる。

また、かつて日本軍が使用していた軍事施設は、現在では中華民国国軍により利用されている。
ガイドの男性によると懲役の任期中にはこのような怪談話も囁かれるという。
“夜中見廻りをしていると軍靴の音が聞こえた。”
“見廻り中に居眠りをしてしまったら、上官らしき声に日本語で怒鳴られ起こされた。”

総督府付近を散策しながら商店街の中で趣のある寺院を見つけ入ると意外にも空海が祀られていた。
西門駅周辺にある台北天后宮である。
ふと、その像を眺めながらカメラのシャッターを切っていると日本語で人の良さそうなおばあさんに話しかけられた。

彼女は昭和4年生まれ、現在88歳。かつて、日本が統治していた時代に国民学校に通っていたという。
あまり普段は話さないという日本語で語る彼女は、そこはかつて弘法大師を祀っていた日本の神社であったと語った。
第二次大戦後、台湾を統治した国民党によりその寺院は改められ天号宮とされたという。

中国国民党の台湾

国民党はその後、国共内戦で中国共産党との戦いにより台湾に撤退することになる。
台湾や国民党といえば、孫文というイメージがあったのだが、蒋介石も国民党の党首として語り継がれているように感じた。
硬貨の絵柄を見ると、50元や10元は孫文、10元と5元,1元は蒋介石の肖像が描かれていた。

また、国民党の歴史も見たいと思い国軍博物館にもいったのだが、記念展設営の改修のため休業であった。また機会があればよりたいものだ。
台湾には、現在でも徴兵制があるということだ。
街中にはいくつも軍警用品店というミリタリーショップがあった。
また街中に、監視カメラが設置されていた。

陶磁器と漢字の文化

故宮博物館では、仏教のほか陶磁器と漢字の文化が大きく取り扱われていた。
中国の文化のたよらかな風合いは、この陶磁器と漢字の文化によるところが大きいのではないか。

陶磁器は、古代から続く代表的な工芸・芸術である。
それらはもちろん職人が作るのだが、それはあまりに自然な雰囲気を持っている。
陶磁器はあくまで土であり、泥である。それを捏ね、造形し、焼き、色合いをつける。
しかし、それらは土であり、形を崩せばいずれそれらは土に戻るであろう。
われわれもまた、土であり泥である。われわれもまた、土に戻る芳醇な自然の一部の存在であるのだ。

あるいは、漢字文化。それらは、ラテン語やギリシャ語から影響を受けているヨーロッパの言語とは大きく異なる。ヨーロッパの言語は表音文字である。たとえば、ローマ字には1文字1文字には意味がない。デリダが批判したように、ヨーロッパの言語は音声中心主義であり語りを中心に作用する。

言いかえれば、ヨーロッパの言語には読み手による解釈の幅、遊びの要素が広くない。
きわめて論理的なのである。
他方、漢字文化はもともと象形文字由来の表意文字である。
それらは、1文字1文字がシンボルでありなんらかを象徴し表している。
他方、それゆえにそれらには厳密な論理構築には適さない。

それはこういう風にも言えるだろう。漢字はシンボリックなメタファーの遊びであると。漢文の古典を考えてみればあきらかだが、それらはいくらでも解釈の余地がある。しかし、それゆえにそれらは芳醇なのである。
それらは、論理により語り尽くすのではない。語りと語らぬ中に、別の語りを含むのだ。

それから

その他、色々と過ごした。
誠品書店ではカバーがリデザインされた洋書を買った。
白沙湾では地元の女子高生と男子たちの戯れと日差しに目が眩んだ。
士林夜市ではその喧騒のムードに飲まれたのかストリート風のTシャツとキャップを買ってしまった。
九份帰りの相乗りタクシーではサンフランシスコ出身のバリーと仲良くなった。
女の子たちは、みんな可愛かった。

女の子がみんな素敵な台湾ガールならね……。

2017年5月31日

僕らが旅に出る理由 – 日常の外の日常 –

僕らが旅に出る理由はなんだろうか?

とはいえ、旅にも色々あるかもしれない。

ある意味、旅はある形での自由(自我の拡大)の追求だろう。
ヘーゲルの絶対精神の弁証法の旅やゲーテの自由を求めるビルドゥングスロマン、コリントスから逃れたオイディプスの悲劇の旅。

他方、旅は他者との邂逅や出会いと別れ、ヒューマンを感じるものかもしれない。
東浩紀の「観光客の哲学」や川端康成の「伊豆の踊り子」、あるいは市川崑の「木枯し紋次郎」「股旅」。

僕は以前から「旅」「旅行」「観光」といったキーワードには違和感を持ち続けていた。
そこには、ある種の憧れと軽蔑、アンビバレントな感情があった。
なぜ、旅をするのか?目的は何か?何をどう楽しむものだろうか?
そもそも、社会人の男性をターゲットとした旅の目的地はあるのだろうかという疑問(風俗や酒場は別として)。
あるいは、物理的に移動する意味はあるのか?旅行とインナートリップはどちらがより遠くまで行けるのか。

しかし、5月は思いがけずに何度か遠出をした。
香港・マカオへの旅行、ブラジル街大泉町の散策、伊豆大島の旅行、御岳山登山。

住めば都というが、出れば旅も悪くない。
たしかに、日常の想像の外の世界に触れることができる。

たとえば、香港の乾物の匂いの漂う路地裏。
マカオの下町で猫のように暮らす老人たちの飲茶をする姿。
ブラジル人労働者たちのアパート暮らしと、ソウルフード、そしてカトリックの教会。
踊り子たちが暮らしていただろう島の風景。

それは、僕らの日常の外にあるものだ。
しかし、それは僕にとってであり、かれらにとっては日常だ。
僕はここにいて、かれらはそこにいて。
もしかしたら、彼らは僕らなのではないか。
そんな想いすらよぎる。

あるいは、真っ暗で底が見えやしない休火山の噴火口。
まるで人のいない18時の登山道。
沈みゆく黄昏が映る。日没が迫る。頂上まで辿り着けるのだろうか?

いや、それは日常そのものじゃないか。

2017年3月9日

“小さな旅”のはじまり、「ぼくらが旅に出る理由」。

これは何度も懲りず無謀な旅に出る前の“小さな旅”のはじまりについてのことだ。 

先日突如として、小沢健二の19年ぶりとなるニューシングルが発売された。
発売を機にテレビなどメディアへの出演も果たし、近年表舞台での活動を控えていた小沢健二のカムバックに歓喜するファンの声がネットを中心に話題となった。
言わずもがな、僕もその一人である。

彼の代表曲の一つに「ぼくらが旅に出る理由」という歌がある。のちに数多くのアーティストにカバーされテレビCMにも使用されるなど、発売から20年以上が経つ現在もその人気は絶えない。
僕がこの曲に深い思い入れを抱くきっかけとなった出来事がある。それは2010年2月にとあるラジオ番組が行った「小沢健二とその時代」という放送だった。

当時まだ大学生だった僕は就職活動も終わり4月から新社会人として働くことが決まっており、残りわずかな大学生活でやり残したことはすべてやってしまわねばと焦燥感に駆られていた。内定していた会社は希望していた業界や職種とはかけ離れているにも関わらず、大学時代のようにいくらでも自分の好きなことに時間や労力を割ける生活が望めないことは自明だった。毎日一緒だった友人たちと離れることを考えると、焦りというより絶望的な気持ちの方が強かったかもしれない。本当にぼくらに旅に出る理由などあるのだろうか。誰か理由くらい教えてくれてもいいだろうと「ぼくらが旅に出る理由」の歌詞を追った記憶がある。
  

遠くまで旅する人たちに あふれる幸せを祈るよ
ぼくらの住むこの世界には 旅に出る理由があり
誰もみな手をふっては しばし別れる

上記は、「ぼくらが旅に出る理由」の歌詞の一部の引用だ。
歌詞を最後まで読めば明らかなのだが、この曲の中で「旅に出る理由」というのは明示されない。
具体的な理由に触れられないものの、人は旅に出ることがあるし旅に出ることは即ち“しばし”の別れが訪れるものだということが象徴的に歌われている。
答えのないこの歌詞に当時はもどかしさを感じていたかもしれない。

あれから8年、社会に出て働くことや転職に伴ういくつかの旅と別れを経験してきた。
時間が経つにつれ、旅についての心境の変化があったようにも思う。当たり前のことなのだが、旅に出ることは視野や行動範囲を格段に広げ、一方で永久の別れを生み出すようなことはない。理由についてもそうだ。旅に出る瞬間にはこれといった具体的な理由にこだわる必要はなく、振り返った時初めてその理由を見出せたりするのも旅の面白さなのかもしれない。そう考えると当時の自分が可愛らしくもあり、これからの旅にも思いを馳せることができる。

今日は良く晴れている。天気読みの必要はなさそうだ。

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