原風景としての郊外

都市に生きるというのは根なし草として生きることなのかもしれない。人波に流され根なし草として彷徨い、それでも心の底にある邂逅への淡い期待。ぼくはやり直せるかもしれない。また、あたらしくはじまるものがあるかもしれないという淡い期待。 あるいは、ぼくらがアーバン・リベラル・アーツとかポストモダンなシティ・ボーイらしくどんなにうそぶいてみても、きみは根なし草で、きみの原風景は風の吹く乾いた地方の郊外じゃないか?という事実を友人と共有したことから2019年のはじまった。 他方で、郊外に残された者、戻った者。そこにはかつて存在したという神話のような共同体は存在しない。血縁だってほとんどないかもしれない。 そこにあるのは記憶だけだ。商店街は死に絶え、駅前のレコード・ショップや古着屋や雑貨屋はもうない。ティーン・エイジャの頃のイノセントな記憶と気配。 人々は国道沿いのモールに車を走らせ、日常性を補充する。食品(パンや牛乳あるいは冷凍食品)や日常雑貨(歯磨き、トイレットペーパー、LEDの蛍光灯)あるいはZARAやGAPなどのファッション、家電、自転車、ペット用品。休日のレジャーもそこにある。映画館、ヨガ...

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2018年の終わりに

2018年も残りわずか数時間となった。以下のエントリーからすでに一年がたった。 2017年12月31日現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』 2018年は、年初から米朝関係が大きな動きを見せ、2月・3月からは米中間の対立が激化し貿易戦争が開始され、現在では冷戦とも思えるような様相を見せはじめている。現在もカナダにおいてHuawei創業者の娘でHuawei副会長の孟晩舟氏が逮捕され拘束されており、中国においても複数のカナダ人が逮捕され拘束されている。 フランスではイエロー・ベスト集団による革命的ともいえる抗議デモ=騒乱が発生し、マクロン政権は年明けに予定していた燃料税増税を中止した。イエロー・ベスト運動は、アイルランドや台湾にも波及しているという。 また、日本国内でも日産のゴーン代表が逮捕され、フランス・ルノーとの対立姿勢を見せており、ルノー・日産・三菱との同盟関係にも変化が出てきている。 これらはあたかも相互に結びついた問題にもみえる上に、あるいはサイバー戦争や日産コンツェルン創始者・満州重工業開発株式会社総裁の鮎川義介と岸信介との関係なども想起される。 一方...

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柄谷行人と村上春樹-デカルト、フッサール、サルトルと構造主義からの批判

デカルトのコギトにしても、フッサールの超越論的自我にしても、サルトルの無の自由にしても、それらは超越論的主観である。 そして、それは形式的であり人間中心主義だと構造主義から批判される。 超越論的主観による形式化に対する批判が構造主義からなされたのだとすれば、なぜ、フランス現代思想はある種文学的な文体を持つ文章なのかということは確かに理解できる。 他方で、日本のポストモダン文学史の中での柄谷行人による村上春樹批判はその超越論的主観を問題視した。 また、フランス文学者の蓮實重彦もサルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』の翻訳を15年に渡り放置した言われ、そこにはある種のサルトルフォビアがあったのではないかと考えられている。 そう考えてみると、文壇における村上春樹批判というのはむしろ文芸批評家による哲学的コギト批判にも思える。 だが、他方で柄谷行人はデカルトを評価している。デカルトは哲学界の悪役でコギト的であると評価されているが、しかし、常に共同体の外で考えようとした人間だと評価するのだ。 この共同体は言語ゲームを互いに共有する人々であろう。であるならば、柄谷行人による村上春樹批判は何を意味...

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『東方のラビリンス』

以下は、過去636日間における14の文章である。 順序としては、もっとも新しい2018年9月21日の文章から順番に並び、2017年1月27日が終わりの文章にあたる。 これらの文章が何を意味しているのかはわからない。 ただ、最近、熱帯魚のベタを飼いはじめたことが関係しているように思う。 タイトルはベタの「ラビリンス器官」による。 タイ(バンコク・アユタヤ)を旅する ― 聖なるものと俗なるものの濁流をさまよう 哲学 – 賭け – 愛するということ 西洋コンプレックスとアジア的意識 – 近代/一神教/自由の意味 – アイデンティティとナショナリズム 日本語のエクリチュール/パロールと中国語 現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』 『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて – 〈都市教養〉というキーワード=コンセプトについて 台湾を旅行する。- 中華民国台湾省台北市的小旅行 – 若者の街とユース・カルチャー ~ 渋谷,音楽,ファッション ~ 存在探求のためのメモランダム/言葉をめぐる冒険/浮遊への逃避行 左右対立のねじれについ...

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『判決、ふたつの希望』を観る。

『判決、ふたつの希望』を観る。歴史的であり局地的であり普遍的でもある問題。それに観る者の目を開かせ、葛藤を共有させ、そして希望を提示する。多面的な描写、平板ではない物語の進行、様々な人物のぶつかり合いによる変化、ハリウッド的に洗練された構図等、テーマとエンタメ性が巧みに絡み合っている。 裁判シーンの言葉の応酬はこの映画の見どころだ。一方で、自体を引き起こし人々を振り回すのも、言葉というものが本質的に持っている過剰さである。言葉は、それを発した本人の意思を超えて力をふるってしまう。「クズ野郎」「シャロンに抹殺されていればよかった」言葉を発端にした争いは、言葉を武器にする弁護士を介し、言葉でやり合う法廷に持ち込まれたことで、国を巻き込む一大事になってしまう。二人の主人公、夫と妻、息子と父、弁護士と弁護士(父と娘)、民族と民族、男性と女性、右派と左派、老人と若者、様々な対立が飛び火し、拡散し、露見する。 誰にも歴史があり否が応でもそれを背負わざるを得ない。裁判は歴史と傷と罪が暴かれる場でもある。主人公二人だけでなく、関わった者は皆痛みを負い、変化していく。始まりの地点と同じ場所に居る者はいな...

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『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観る。

『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観る。ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』を現代にアップデートして映像化したかのよう。イメージの洪水に悪酔いを起こす、凄まじい迷宮映画だった。しかしながらそこには歴史も対抗文化ももはや無く、自ら築いた迷路には消費とポップの悪夢だけが広がっている。 街中の看板、テレビ番組、流行曲、お菓子の景品、壁の落書き、動物の死骸、シンクロニシティ。氾濫するメッセージに「真相」などなく、解読は誤読にしかなり得ず、読み取った物語は自身の映し鏡である。意味も黒幕も限りなく空虚だ。 そこには、あたかも身体性は無いけど生理的というのだろうか、肉体を持たないまま五感だけが鋭敏になっているような感覚がある。 作中で言及される大衆文化についての知識合戦や隠喩についての考察合戦がおそらく繰り広げられるのだろうけど、撒かれたピースから各々が解釈を組み立ててしまうこと自体が作品と相似している。...

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