2018年の終わりに

2018年も残りわずか数時間となった。以下のエントリーからすでに一年がたった。 2017年12月31日現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』 2018年は、年初から米朝関係が大きな動きを見せ、2月・3月からは米中間の対立が激化し貿易戦争が開始され、現在では冷戦とも思えるような様相を見せはじめている。現在もカナダにおいてHuawei創業者の娘でHuawei副会長の孟晩舟氏が逮捕され拘束されており、中国においても複数のカナダ人が逮捕され拘束されている。 フランスではイエロー・ベスト集団による革命的ともいえる抗議デモ=騒乱が発生し、マクロン政権は年明けに予定していた燃料税増税を中止した。イエロー・ベスト運動は、アイルランドや台湾にも波及しているという。 また、日本国内でも日産のゴーン代表が逮捕され、フランス・ルノーとの対立姿勢を見せており、ルノー・日産・三菱との同盟関係にも変化が出てきている。 これらはあたかも相互に結びついた問題にもみえる上に、あるいはサイバー戦争や日産コンツェルン創始者・満州重工業開発株式会社総裁の鮎川義介と岸信介との関係なども想起される。 一方...

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『音楽が終わった、その後で』

誰かに気持ちを許すことは油断すると甘えてしまうことに繋がりやすい。甘えは芯の方からじわじわと蔓延し、やがて全てを食い尽くす。なんてね。 思いやりを持った自立した人間でありたいと思うよ。一応は。未来を思うと吐き気がするし、今を思っても寒気がする。思考を捨てて過ごすのが精神衛生上は宜しいというのはわかるんだけど、それもちょっとちがう。 一生戯言を抜かしたいので、そのために精一杯体裁を整えよう。 “小さな旅”のはじまり、「ぼくらが旅に出る理由」 魔法がかかる、という表現についての聴覚的回答 病院 W.G.ゼーバルト『アウステルリッツ 』について ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』について IN THE CITY River’s Edge アナログ・ミュージック 山田かまちを巡って 村上春樹について 〈知覚の扉〉を叩いて 絶対的な瞬間について 滝口悠生『愛と人生』を読んで考えること あの頃、僕らが夢中になったのはこんなレコードだった。 “小さな旅”のはじまり、「ぼくらが旅に出る理由」 2017年3月9日 by 宝田 とまり これは何度も懲りず無謀な旅に出る前の“小さな旅”のはじま...

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柄谷行人と村上春樹-デカルト、フッサール、サルトルと構造主義からの批判

デカルトのコギトにしても、フッサールの超越論的自我にしても、サルトルの無の自由にしても、それらは超越論的主観である。 そして、それは形式的であり人間中心主義だと構造主義から批判される。 超越論的主観による形式化に対する批判が構造主義からなされたのだとすれば、なぜ、フランス現代思想はある種文学的な文体を持つ文章なのかということは確かに理解できる。 他方で、日本のポストモダン文学史の中での柄谷行人による村上春樹批判はその超越論的主観を問題視した。 また、フランス文学者の蓮實重彦もサルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』の翻訳を15年に渡り放置した言われ、そこにはある種のサルトルフォビアがあったのではないかと考えられている。 そう考えてみると、文壇における村上春樹批判というのはむしろ文芸批評家による哲学的コギト批判にも思える。 だが、他方で柄谷行人はデカルトを評価している。デカルトは哲学界の悪役でコギト的であると評価されているが、しかし、常に共同体の外で考えようとした人間だと評価するのだ。 この共同体は言語ゲームを互いに共有する人々であろう。であるならば、柄谷行人による村上春樹批判は何を意味...

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『東方のラビリンス』

以下は、過去636日間における14の文章である。 順序としては、もっとも新しい2018年9月21日の文章から順番に並び、2017年1月27日が終わりの文章にあたる。 これらの文章が何を意味しているのかはわからない。 ただ、最近、熱帯魚のベタを飼いはじめたことが関係しているように思う。 タイトルはベタの「ラビリンス器官」による。 タイ(バンコク・アユタヤ)を旅する ― 聖なるものと俗なるものの濁流をさまよう 哲学 – 賭け – 愛するということ 西洋コンプレックスとアジア的意識 – 近代/一神教/自由の意味 – アイデンティティとナショナリズム 日本語のエクリチュール/パロールと中国語 現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』 『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて – 〈都市教養〉というキーワード=コンセプトについて 台湾を旅行する。- 中華民国台湾省台北市的小旅行 – 若者の街とユース・カルチャー ~ 渋谷,音楽,ファッション ~ 存在探求のためのメモランダム/言葉をめぐる冒険/浮遊への逃避行 左右対立のねじれについ...

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映画『少女邂逅』を観る。

いじめをきっかけに声が出なくなった小原ミユリ(保紫萌香)。自己主張もできず、周囲にSOSを発信するためのリストカットをする勇気もない。そんなミユリの唯一の友達は、山の中で拾った蚕。ミユリは蚕に「紬(ツムギ)」と名付け、こっそり大切に飼っていた。「君は、私が困っていたら助けてくれるよね、ツムギ」この窮屈で息が詰まるような現実から、いつか誰かがやってきて救い出してくれる──とミユリはいつも願っていた。 ある日、いじめっ子の清水に蚕の存在がバレ、捨てられてしまう。唯一の友達を失ったミユリは絶望する。 その次の日、ミユリの通う学校に「富田紬(つむぎ)」という少女(モトーラ世理奈)が転校してくる───。 映画『少女邂逅』公式サイトより http://kaikogirl.com/ 映画『少女邂逅』。すごく良かった。これは間違いなく傑作だ。 イノセント&フラジャイルなティーン・エイジャを描いた作品として、目がくらみ意識が遠のくような作品であった。 手取りやiPhoneでの撮影による映像や視点、光や色の美しさ、夢と現実のあいだをゆききするようなマジックリアリズムのような世界観とそれを強化する音響効果。...

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メモ書き『サリンジャー的、サルトル的ーあるいは村上春樹と柄谷行人、ポストモダンの文学精神』

本稿では、20世紀の米文学界を代表する作家J.D.サリンジャーとフランスの哲学者・思想家で作家のジャン=ポール・サルトルの作品・作家および日本における受容と影響を比較することを通して浮かび上がってくる日本文学の思想・精神史を読みときたい。 Ⅰ. サリンジャー的、サルトル的 〈サルトルの倫理、サリンジャーの倫理〉 Ⅱ. サルトル的ー超越へと駆動する力   (三島由紀夫、大江健三郎、吉本隆明、柄谷行人) 〈三島由紀夫の場合(時間)ー行動の究極地点、テロリズム〉 〈大江健三郎の場合(空間)ーサルトルとの対話〉 〈吉本隆明(空間・時間)・柄谷行人(空間)の受容と差異〉 〈サルトルの倫理〉 Ⅲ. サリンジャー的ー自己修復の物語   (村上春樹、村上龍、高橋源一郎、加藤典洋) 〈サリンジャーーイノセント&フラジャイルな作家〉 〈三つの翻訳、三つのサリンジャー〉 ・α.戦争神経症的なサリンジャーー『危険な年齢』〉 ・β.分裂的なサリンジャーー『ライ麦畑でつかまえて』〉 ・γ.解離的なサリンジャーー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』〉 〈ポスト全共闘のサリンジャー革命からのロスト〉 ...

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現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』

2017年も残りわずか数時間となった。 今年は近年稀に見る激動の年であった。 アメリカではポピュリズム的な現象を背景にトランプ政権が発足、フランスではマクロンに敗れたがマリーヌ・ル・ペン率いる国民戦線が躍進。 ヨーロッパでは、イギリスのメイ首相がEUに離脱を通知、スペインのカタルーニャ地区は独立を宣言した。 中東ではイスラム国は事実上の崩壊。 しかし、アメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定したことから多数の抗議活動が起きている。 アジアでは、フィリピンのドゥテルテ大統領が麻薬撲滅キャンペーンを実施し超法規的殺人が行使され、マレーシア・クアラルンプール空港では北朝鮮の金正日総書記の長男である金正男が暗殺され、ミャンマーはかつての民主化運動の旗手アウンサンスーチーによる新政権のもとロヒンギャは混乱に陥っている。 そして、日本では飛翔体が定期的に飛び越えている。 他方、経済面は数値の上ではバブルとも思える好調であった。 世界的に各国の経済は軒並み好調、日経平均もかつて1992年のバブル崩壊前の水準に上昇。 また、仮想通貨の価格は10倍にも100倍にも高騰した。 そのよう...

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存在探求のためのメモランダム/言葉をめぐる冒険/浮遊への逃避行

存在探求のためのメモランダム ハイデガーの『存在と時間』を手にしている。 古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することをめざしている。 ハイデガーは言う。「哲学や形而上学の本来問うべき問いは『存在とはいかにあるのか?』ということである」と。 けれども、これは単に論理形式上あるいは実体化された「有・無」や「揺らぎ」としての「存在」ではない。 むしろ、「在り方」への問いであるし「有意味とはいかなることか?」という問いである。 もし神がいないのならば、全てが許される。 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』イワンの台詞だ。 もし神がいないのなら 実存が本質に先立つ。 このような言葉でサルトルは語った。 あるいは三島由紀夫の「豊饒の海『天人五衰』」のラストシーン。 しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば……それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。…… 近代はルネッサンスの人文復興が嚆矢となり、神との決別からはじまった。 しかし、だからこそ、デカルトは神の存在証明を行なったし、カントは理論理性によってはいかなる方法によ...

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2017-7月のメモランダム

7月1日 今日は高尾山で木の根を見つめながら、リゾームとツリーは別個なものとして対比されるべきものでなく不可分でそれらが総合されたところがネイチャーであると謎のインサイトを受けた。 7月2日 コカ・コーラが好きだ。 フタを開ける時の音の響き、香りや炭酸の刺激、夏の爽やかな海岸やクリスマスのホーム・パーティのイメージ、夏期講習の帰りに自販機で買って飲んだ記憶、スノーボードのゲレンデで飲んだ記憶。 僕は「生産」や「労働」よりは「消費」の方が好きだ。 そこにはマテリアル感、身体性、シンボル、物語性、記憶、文化的なもの、ライフスタイルとの一体感が総合されていると好ましい。 社会性(他者との関係)の中での、承認の獲得,アイデンティティの確立,あるいは上位ヒエラルキーへの指向を目的とした消費は好きではないし、そのための「表象の操作」や「シンボルの獲得」のための消費というのは難しい問題。 原則としては、人は快楽のために消費すべきと思うし、それは文化的かつ身体性に根ざしたものだといいというのが僕の個人的な偏見。 快楽=「何かがステキだ,楽しい,クールだ」と感じることであるとする。 他方、「何かがステキ...

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映画『アルタード・ステーツ / 未知への挑戦』~ 知覚の扉の先にあるもの ~

ヒッピーやビートニクにあこがれていたことがある。 社会〈ソサエティ〉の外にある、ある種の超越的な何か。 それは、イデアか実存か、あるいは剥き出しの真理のようなものだろうか。 そんなものを、自らの目で見つめてみたいと思っていたし、触れてみたいと思っていた。 20才前後までの話だ。 今思うと不思議なのだけれど、当時の首都大学東京の都市教養学部には、不思議なコミュニティ感があった。 ガラパゴス式の携帯電話とiPodClassic、あとはアレン・ギンズバーグの詩集やジャック・ケルアックの『地下街の人びと』の文庫あるいは村上春樹や伊坂幸太郎の小説だけを持ってキャンパスに通い、テラスに集まっては、みんな気分が悪くなるまで煙草を吸っていた。 みんな痩せて咳ばかりしていたが、服だけはお金がかかっていた。コム・デ・ギャルソンやZUCCaなどのDCブランドや、ジル・サンダーやBALLYのインポート、古着屋のビンテージや、アレクサンダー・マックイーンやジョン・ガリアーノなどのハイ・ファッション。 解放区のような、どこか現実離れした空間だった。 そんな雰囲気があったからかもしれない。 当時の僕は自由な空間の中...

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『ゲンロン5 幽霊的身体』を読む。

『ゲンロン5 幽霊的身体』を読んでいる。 個人的に「幽霊」・「身体」というキーワードには以前から興味があった。 それは、20代のあいだずっと「絶対」の存在と可能性(「絶対」が成立し得ないことだけが絶対的に存在するという現実をどう捉えればよいのか)について思いを巡らしていたからであるし、またオルダス・ハクスリーやティモシー・リアリーやジョン・C・リリーのような言語的論理の外部に興味を持ち続けていたからだ。 ところで、自分の見立てとしては「幽霊的身体」というのを考えてみると、それはある種の弁証法への反省と再度の実践を踏まえた話ではないかと思う。 たとえば、ユートピアを目指した左翼が連合赤軍みたいなところに行き着いたという現実があった。そこにはテロルの現象学のような課題があった。それに対置する形でアソシエーションやマルチチュードが提起されたが、しかしそれは否定神学的な概念だから有効性を持たないため、ある種の「存在の揺らぎ性」を基盤にした思想が必要なのではないかということだ。 それはこう言いかえることもできて、アドルノの否定弁証法のように近代の啓蒙理性はその理想に反してその極で非人間的なもので...

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TVドラマ評 2017年4月クール作品の紹介

4月クールのドラマが始まりだしました。特に初回は出来るだけ全て見ようと忙しくしてるのですが、今回は非常にバリエーションに富んだ良作揃いです。 そんな中でネットではこういった記事が散見しますね。 http://www.asagei.com/excerpt/79263 http://biz-journal.jp/2017/04/post_18710.html ライターも書き手だから、ある程度過激な事を求められているという立場を踏まえての記事なのでしょう。 ただ最も問題なのは、この記事だけを読んで「今回のドラマも総じてつまらないんだね」と見てもない人間が思ってしまう事です。いくらネットの三文記事とはいえ、その影響力や捉えられ方を想像して書かれない記事は良くないなと思ったりします。 「犯罪症候群」「クライシス」 両者とも刑事モノとミステリーという割と万人受けする形式です。 前者はwowowと東海テレビというドラマフリークが否が応でも期待を寄せるタッグですし、後者は公安という使い尽くされたネタを、初回だけで2つ事件を用意しキレよく処理していく中でチーム内キャラや立ち位置をスマートに説明する技量は...

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レコードやカセットで音楽を聴くこと、その意味 – ゆらぎ性と物語 –

村上春樹の『騎士団長殺し』を読み、その中で音楽を聞くことの描写に関心を抱いた。 それは、主人公や友人がレコードやカセットテープといった時代遅れのメディアで音楽を聞くことが描かれている点である。 村上春樹は、そこに(”時代遅れのメディアで音楽を聞くこと”)どんな意味を込めて描いたのだろうか。そう感じたのだ。 ここ数年、レコードの復権やカセット・リバイバルがささやかれてはいる。 しかし、今さら、時代遅れのレコードやカセットテープで音楽を聞いてどんな意味があるのだろうか。 そこには、僕らがいつの間にか失ってしまった何か、なくしてはいけない何かがあるのだろうか。 あるいは、レコードやカセット・テープで音楽を聴くというのは、ある意味何らかの価値観の提示・アティテュードの表明だろうか。 では、それはどのような価値観・アティテュードの表明なのだろうか。 そして、最近、僕自身思わずカセット・プレイヤーとカセット・テープのライブラリを購入してしまった。 これはどんな意味を持っているのだろうか。 ■ ゆらぎ性を持つレコードやカセット・テープの音の響き まず、カセットについていえば、...

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村上春樹『騎士団長殺し』を読む。~ イデアとメタファーと、ポスト・トゥルースのその先へ ~

自分の好きな作家について語るのは難しい。 また、偉大な作家の作品に不要な批評を書くことは愚行かもしれない。 にもかかわらず、文章を書きたいと思う。 村上春樹の『騎士団長殺し イデア篇/メタファー篇』を読んだ。 いうまでもなく、傑作だったといえる。 もしかしたら、村上春樹の最高傑作といえるようになるかもしれない。 まず、視覚的な絵画を小説のなかで描いたこと挑戦的な試みだったといえる。 また、村上春樹作品の特徴である有と無とをこえたゆらぎの存在論、物語の構成には大きな深みを感じた。 しかし、これまでの作品との、もっとも大きな違いは主人公が「“父親”になった」ことかもしれない。 ■ イデアとメタファーについて まず、表題に付加されているイデアとメタファーについて考えてみたい。 これは、ある種、哲学的な概念である。 イデアは絶対観念であり、メタファーは言語による差異化の遊戯性だといえる。 村上春樹の小説がこれまで描いてきたものはそれであった。 それはイデアの喪失と自己修復の小説であり、メタファーによる闘争/逃走であったともいえる。 そこから、いかなる物語を紡ぎ出すか。それが問題であった。 村上...

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村上春樹『職業としての小説家』/『騎士団長殺し』を読む。

村上春樹の『職業としての小説家』を読み終わった。驚いたのは数年前に出たばかりの比較的新しい本の内容なのに既知に溢れていたこと。monkeyで書いていたのがもう少し前ということもあるのだろうが、村上春樹を語る上で多くの人間がここから引用してるということが良く分かった。 僕の印象では、彼は小説の創作や個人の話をそれほど語ってこなかった。それは彼の特異な部分だし、それを望んでいるファンもいるのだろう。だけど、僕はこれはアンフェアだと思う。海外の知らないところで書いて、具体的な声明もないまま新刊が出て、本当に読まれてるのか分からないが売れている。 よく言えば読者に委ねると表現できるが、僕は彼のテーマとは別の態度としてのデタッチメントに付き合いきれないと思っていた面が大きいということが分かった。人間臭くなるけど、もっと苦労したとか性描写ってくせになるよねとかそういったありふれた声と共に作品が届いて欲しかったのかもしれない。 間接的ではあるものの今回この『職業としての小説家』を読んで村上春樹の人間的な部分に触れることができ、それが新刊をおおいに面白く読んでいる結果につながっているようで、嬉しいし楽...

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村上春樹『風の歌を聴け』『ノルウェイの森』を読む。

『ノルウェイの森』をはじめに読むと、村上春樹が苦手になるといわれる。 ある空間への「入射角」というのは大事だ。 角度が浅ければ反射してしまうし、角度が深すぎるとすぐに失速してしまう。 乱反射するのも悪くはないが、できればスッと屈折することなく進むのが理想的だ。 その意味で、村上春樹の作品を『風の歌を聴け』から読み始めたのは幸運だった。 個人的には、小説を読む場合には、デビュー作から入り、次に代表作を読む、という流れがベストだと思う。 村上春樹でいえば、『風の歌を聴け』から入り、『ノルウェイの森』を読んで、それから『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』と読んでいくのがいいと思う。 実をいえば、村上春樹の作品は大体読んでいる。 「ハルキスト」という言葉があり、熱狂的な信者を冷笑する人もいるが、それもあながち誤った解釈ではない。 聖書の膨大なテクストを、創世記、ヨシュア記、ルツ記、サムエル記、イザヤ書、エレミヤ書、詩篇、箴言と読み込んでいくように、気がつけば大体の作品は読んでいた。 同じような友人とは、冗談半分でこんな話をすることがある。 「もう村上春樹の新刊...

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辻仁成『そこに僕はいた』『音楽が終わった夜に』を読む。

辻仁成について語るのはムヅカシイ。 まず、辻仁成のキャラクターが奇異だからだ。 元ECHOESのボーカル、中山美穂の元ダンナ、バラエティ番組に出ている「中性化」した長髪のいい年をした大人。 ただ、それでも僕にとっては、10代のある時点で、辻仁成の本を読み、ECHOESのサウンドを聴き歌詞カードを読んだ、そして精神的な何かを形成した、そのことにはどうしても否定できないものがあった。 辻仁成の本では芥川賞を受賞した『海峡の光』や『サヨナライツカ』『冷静と情熱のあいだ』がよく読まれているのだろうか。 小説では『グラスウールの城』『母なる凪と父なる時化』『ニュートンの林檎』を楽しんだ記憶がある。 けれど、僕にとって特に新鮮な刺激だったのは、エッセイの『そこに僕はいた』『音楽が終わった夜に』だった。   内容紹介 大人になった今、毎日楽しみにしていた学校はもうない。でも友達は、僕が死ぬまで大切に抱えていける宝物なんだ――。少年時代を過ごした土地で出会った初恋の人、けんか友達、読書ライバル、硬派の先輩、怖い教師、バンドのマドンナ……。僕の人生において大いなる大地となった、もう戻ってはこないあの頃。...

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僕はこんな本に影響を受けてきた

本には不思議な力がある。 それは、想像をかき立てるからであるし、思考をつかさどる言葉の性質によるものだと思う。 そして、本こそがもっとも思想を形成するものではないかと考えている。 僕は思想というものを、人間のOSだと考えている。 コンピューターでいうところのWindowsやLinux、UNIXといった意味でのOSである。 優れたOSは優れた処理をすることができるし、柔軟なOSは様々な状況に対応する姿勢を持っている。 人間にとって、OSの役割を果たすのが思想なのだ。 優れた思想は行動を後押しし、状況に対応する力を与えてくれる。 そして、強い思想には人を動かす力がある。 キリスト教は聖書の力により2000年の歴史を作ってきた。 マルクス主義もマルクスやレーニンの著書による功績は大きい。清濁併呑。 イスラム教のコーランや原理主義書の『道しるべ』もそうであろうし、 ジーン・シャープの『独裁から民主主義へ』もそうだろう。 僕はどんな本を読んできただろうか。 そして、その本からどんな影響を受けてきただろうか。 今から振り返れば、恥ずかしいものもあるだろう。 けれど、必死に読み込んだ本があったはずだ...

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最近の村上春樹について書かれた文章で「おっ!」となったものを紹介。

今年ノーベル文学賞1週間遅れてるんだけど 果たして村上春樹が取るのだろうかというところで、 僕個人としては村上春樹という作家には何の思い入れもないのだが(刊行された小説は全部読んでいて何の思い入れもないのだからおもしろい)もしかすると今年あたりさらっと取る可能性があるのではないかと思っているので、 最近の村上春樹について書かれた文章で「おっ!」となったものを紹介。 ※完全なる引用・転載です もし明後日取ったらみんないいねしてね。 それまではしなくていいから。 ➀「ノルウェイの森」と「君の名は。」 東浩紀 ひと月ほど考え続けた結果、ぼくは、「君の名は。」はたいへんな傑作であり、ぼくがいままで擁護してきた価値観を見事に体現した作品でもあるが、いまのぼくとしては絶対肯定できない作品だという結論に達した。言い換えれば、この作品に行き着いたセカイ系の想像力を肯定できないという結論に達した。 — 東浩紀 (@hazuma) 2016年10月5日 連動して呟けば、ぼくはいままで村上春樹を高く評価してきたし、それ自体はまちがいでもないと思うが、かつて1990年代、「ノルウェイの森」の後の春...

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27歳からの読書のすすめ

あるBarでの会話 店主「どこでこの店知ったんだい?」 男 「店のまえを歩いていたら、ブコウスキーのポスターが貼ってあったので。それで、実は前から興味を持ってたんです。」 店主「そうかい。ブコウスキー好きなの?」 男 「好きですねェ。ブコウスキーは、だいたい読んでます。」 店主「ブコウスキーじゃ、何が1番好き?」 男 「1番ですかァ。そうですね。僕はやっぱり『ありきたりの狂気の物語』かな。」 店主「なるほどねェ、俺は『ポスト・オフィス』っだなァ。俺のね、おすすめのブコウスキーの読み方はね、自分の齢の時に書かれた本を読むってことだね。それが1番見るべきものが、はっきり見える頃あいってもんなんだ。若いやつにはね、若い奴の気持ちがわかるし、ジジイにはジジイの気持ちが1番よくわかるもんなんだよ。」 今日、渋谷のBarで耳にした会話です。 ブコウスキー好きが盛り上がる渋谷というのも、なんとも意外なものだなと思います。 店主の見解によれば、小説というものは、例えば 自分が27歳・28歳のなら、作家が27歳・28歳の時に書いた作品を読むと身に染みてよく理解できるということです。 僕も来月28歳になる...

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小阪修平の哲学 – 全共闘、三島由紀夫、吉本隆明、村上春樹 –

かつて、いわゆる「オルガン派」「マルクス葬送派」という思想家の中心的人物として、小阪修平がいた。 僕は、現代思想の入門書を小阪修平の著作を通してはじめて読んだ。 小坂修平は、東大全共闘を経験した世代で、三島由紀夫と討論を行った人物の一人であった。 そして、世代の責任として「連合赤軍」の問題を総括し続けた稀有な人であった。 彼らの世代で、「連合赤軍」の問題をきちんと総括し続けたのは、村上春樹と小坂修平くらいだろうと思う。 一般に、全共闘世代や団塊の世代は敬遠されがちである。 しかし、僕は全共闘世代が自己否定と解放区の中で辿り着いた地平というのは、むしろ思想的に重要なところまで到達していたのではと思っていて、けれども、結局それを総括して語ることができず次の世代に引き継げなかったのは残念ではあった。 三島由紀夫vs東大全共闘 言葉をめぐる冒険 村上春樹の『羊をめぐる冒険』の羊は、西洋哲学・現代思想の言葉でいえば「形而上学」そのものなのだろうと感じている。 人に幻想を抱かせ操るもの。 だからあの物語は『言葉をめぐる冒険』と名付けることもできる。 完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶...

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村上春樹と三島由紀夫

三島由紀夫から村上春樹へ 『羊をめぐる冒険』の羊は、西洋哲学・現代思想の言葉でいえば「形而上学」そのものなのだろうという思いが、ふと湧いてきた。人に幻想を抱かせ操るもの。 だからあれは『言葉をめぐる旅』と名付けることもできる。 “完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね” 形而上学の果てともいえる「1960年代」近代の終焉に起こったのが若者たちの”知性の叛乱”だった。 それは形而上学=哲学=理性を、=現実たらしめるための進歩主義的革命だった。 しかし、「僕」はその中で彼らイデオローグたちの「言葉」の欺瞞に気づき、それとの闘争/闘争を開始する。 村上春樹と同世代、全共闘世代の小阪修平は言っている。 “同世代の一番優秀な奴は滅んだか、半ば廃人になった” 「羊抜け」だ。小阪修平もなかば離人症のようになったと言っている。 革命の終わりの時代、1970年代の雰囲気は想像がつく。 1970によど号ハイジャック事件、1971-1972には連合赤軍事件。 文化面では、1972『木枯らし紋次郎』、1973『氷の世界』、1974『傷だらけの天使』、1975『僕たちの失敗』、1...

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文化系トークラジオLife「フィジカルの逆襲」に対する考察

文化の日ということで、軽いコラム的なものを書いてみました。 出自というか大体のベースは先月26日の文科系トークラジオLife(トークテーマ「フィジカルの逆襲」)の感想になります。 ポッドキャスト配信されているので気になる方は、こちらから。 http://www.tbsradio.jp/life/20141026/ 個人的には珍しくカレンダー通りの3連休で、AKBの劇場公演が奇跡的に当たったり、1日の映画の日にあわせて「ニンフォマニアック」前後編まとめて見るとか、大学祭のトークイベントに行く等々、予定を詰め込んでいた訳です。 そして三連休も終わる今この瞬間ふと思い返してみると、僕のこの休みの予定って全部「コンテンツ消費」に割かれていた訳です。 そして、少し疲れています。 別に心地よい疲れだとかの曖昧なものではなく、それは身体に直接影響を及ぼす程度、実体を伴ったくらいに。数にも因りますが、本読んだり映画観たりラジオ聴いたりドラマ観たりしても案外疲れるものです。 そんな僕の事例は一旦置いておいて、最近の僕と近しい世代の人々は「コミュニケーション」つまりソーシャルな関係に疲弊しているという事が...

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【2013年】総括

今年も気付けば後数時間となり、今年しておこうと思ったこともほぼ出来たし、後は紅白を見ながら年明けを待つばかりとなりましたが、Facebookに今年を振り返ろうというメッセージがずっと出続けているので、それに乗っかって2013年をまとめておこうと思います。 今年も嬉しいことにたくさんの物語に触れて、豊かな経験をたくさんすることが出来ました。例えばそれを、今年のコンテンツトップ10のような形で紹介するのもいいかなと思うのですが、敢えて今回はランキング等を付けずに、雑文のような形でさらっていこうと思います。 これが僕の思い出の2013年です。 それに伴ってまず断っておきたいのが、今年は「音楽」と「映画」というジャンルに深くコミットすることが出来ず、その分野の話が極めて薄くなってしまうということです。音楽は僕の友人の最高の2013音楽評をそのまま流用させていただこうと思います。莫大な音楽というジャンルの大海でセンシティブな取捨選択をしてくれる人なので信頼を持ってここに載せさせてもらいます。 http://nakamegurofishingclub.tumblr.com/ 併せて、2014年はも...

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映画 「村上春樹『風の歌を聴け』」(1981年製作の映画)

村上春樹の処女作「風の歌を聴け」の実写化作品。 ストーリーとしては原作に沿って作られているけれど、部分的に映画オリジナルの場面も加えられている。 はっきり言って映画として前衛的で実験的な作風だから好き嫌いは大きく別れると思う。 原作に思い入れのある人は、配役、特にジェイと鼠に対して激しく不満を持つかもしれない。 けれど、それはかつて村上春樹と同窓生であった監督の、極めて現実的で、とてもリアルな描写なのだろう。 作品の完成度は決して低くない。 一見の価値ありというより、見返すと価値を再発見することが出来るタイプの良い作品だろう。 ちなみに小指のない女の子役の真行寺君枝は村上春樹の短編集「カンガルー日和」のタクシーに乗った吸血鬼で血の美味しそうな女優にその名をあげられていた一人である。...

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