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レコードやカセットで音楽を聴くこと、その意味 – ゆらぎ性と物語 –

レコードやカセットで音楽を聴くこと、その意味 – ゆらぎ性と物語 – Posted on 2017年3月19日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

村上春樹の『騎士団長殺し』を読み、その中で音楽を聞くことの描写に関心を抱いた。
それは、主人公や友人がレコードやカセットテープといった時代遅れのメディアで音楽を聞くことが描かれている点である。
村上春樹は、そこに(”時代遅れのメディアで音楽を聞くこと”)どんな意味を込めて描いたのだろうか。そう感じたのだ。

ここ数年、レコードの復権やカセット・リバイバルがささやかれてはいる。
しかし、今さら、時代遅れのレコードやカセットテープで音楽を聞いてどんな意味があるのだろうか。

そこには、僕らがいつの間にか失ってしまった何か、なくしてはいけない何かがあるのだろうか。
あるいは、レコードやカセット・テープで音楽を聴くというのは、ある意味何らかの価値観の提示・アティテュードの表明だろうか。
では、それはどのような価値観・アティテュードの表明なのだろうか。

そして、最近、僕自身思わずカセット・プレイヤーとカセット・テープのライブラリを購入してしまった。
これはどんな意味を持っているのだろうか。

■ ゆらぎ性を持つレコードやカセット・テープの音の響き

まず、カセットについていえば、聴き始めてわかったのだが、カセット・テープの音の響きにはどこか絵画的な印象がある。そこには、ある種二次元的でありつつ、現実を浮遊した、いわば印象派の絵画のようなフィーリングがある。
レコードは臨場感があり生々しく写実的な絵画なのだが、カセットは中音域の音にフォーカスし背景は多少ぼやかされているので“印象派”的な印象を得るのだろうか。
そこに独特の柔らかさやスムースさを感じる。

あるいは、レコードがフィルム・カメラによる写真で、MP3がデジタル・イメージだとしたら、カセットはフィルム式のトイ・カメラやポラロイド・カメラに近い質感のフォトグラフだといえる。
トイ・カメラやポラロイド・カメラの質感をデジタルに再現して、若者に人気があるのがInstagramなどのiPhone/Androidアプリだが、そのような感覚で現在ではカセットが注目されているのかもしれない。

ところで、レコードやカセットの音とデジタル音楽では、何が異なるのであろうか。
その違い、メディア毎の音の響きの差は、記録の方法(方式)によるものが大きいのではないだろうか。

レコードやカセットは、音の波をそのまま記録する。
レコードは、音の波を物理的な溝として、カセットは電磁的なコードとして記録する。
それらは、音そのものを描画するという点でアナログなメディアである。
この音そのものが描画されていることが、音に豊かさを持たせているのだ。

他方、デジタルメディアは音そのものを描画するのではない。
音の波を、切り取り棒グラフに変換して描画して、その数値を01で記述する。
この音の波を切り取り棒グラフに変換するときに多くの周縁的な隙間が抜け落ちてしまうことが問題であり、さらに01への変換は全てを有と無に変換することであり、ゆらぎ性が失われることが問題である。

こういった記録の方法によって、“やわらかさ”や“ゆらぎ”に違いが出るのだ。

■ A面・B面の物語性

もうひとつ重要なのは、物語性である。
かつて、音楽は物語を持っていた。若者は、音楽で社会を変えられると信じていた。
しかし、現代の音楽にかつてのような物語性・思想的な意味が内包されているかは疑問がある。

現代はクラウドにある音楽をシャッフルで再生するような時代、
あるいは提供されたプレイリストの音楽を気分に合わせて聞く時代である。
そのような文脈に物語は成立しえない。
それはファスト・フードのように、何らかの欲求を満たすための、ファストな何かにすぎないだろう。

あらゆるものをデータベースからピックアップしてキュレーションする社会。
キャピタリズムとエンジニアリングの成れの果て、物語を失い真実の喪失に動揺する社会。

そういった状況の中で、レコードやカセット・テープで音楽を聴くことは、カウンターとしての意思の表明である。
つまり、それは「動物化するポストモダン」化した社会へのアンチテーゼではないだろうか。
それは、物語の喪失への異議申し立てであり、コンテンツのデータベース消費へのNoであり、全てが相対主義化した社会への批判だ。

もちろん、音楽は曲自体がひとつの物語を描いているものかもしれない。
しかし、レコードやカセット・テープは、シャッフル再生することはできないメディアである。
そして、そのことがより大きな意味を描き出している。

それらにはA面とB面があり、それぞれがその作品全体の前半と後半の構成として展開されていて、
作品全体として、その中に大きな物語が描かれているのだ。

2015年のグラミー賞を覚えているだろうか。
プレゼンターを務めたプリンスのスピーチが評判を呼んだ。
‟Albums, Remember Those? Albums still matter. Like books and black lives, albums still matter. ”
(アルバムって皆覚えてるかい? アルバムはまだ大事だ。本とか黒人の命と同じようにアルバムって重要なんだよ)

僕はいまカセットテープでプリンスの音楽を聴いている。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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村上春樹『騎士団長殺し』を読む。~ イデアとメタファーと、ポスト・トゥルースのその先へ ~

村上春樹『騎士団長殺し』を読む。~ イデアとメタファーと、ポスト・トゥルースのその先へ ~ Posted on 2017年3月14日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

自分の好きな作家について語るのは難しい。
また、偉大な作家の作品に不要な批評を書くことは愚行かもしれない。

にもかかわらず、文章を書きたいと思う。

村上春樹の『騎士団長殺し イデア篇/メタファー篇』を読んだ。

いうまでもなく、傑作だったといえる。
もしかしたら、村上春樹の最高傑作といえるようになるかもしれない。

まず、視覚的な絵画を小説のなかで描いたこと挑戦的な試みだったといえる。
また、村上春樹作品の特徴である有と無とをこえたゆらぎの存在論、物語の構成には大きな深みを感じた。

しかし、これまでの作品との、もっとも大きな違いは主人公が「“父親”になった」ことかもしれない。

■ イデアとメタファーについて

まず、表題に付加されているイデアとメタファーについて考えてみたい。
これは、ある種、哲学的な概念である。

イデアは絶対観念であり、メタファーは言語による差異化の遊戯性だといえる。

村上春樹の小説がこれまで描いてきたものはそれであった。
それはイデアの喪失と自己修復の小説であり、メタファーによる闘争/逃走であったともいえる。
そこから、いかなる物語を紡ぎ出すか。それが問題であった。

村上春樹という作家は、ポスト・モダンを代表する作家であるといって間違いない。
そして、その登場は60年代末のマルクス主義的学生運動の敗北と三島由紀夫の自決を通過したものだった。

「僕」は機動隊員に前歯を折られズキズキしたり、学食で三島由紀夫の演説をテレビジョンで眺め、
1978年神宮球場でヤクルト対広島戦を観戦中に突然小説を書くことを思い立った。
そして、80年代以降、そのポスト・モダン的作風と独特の文体と物語で文学界を席巻することとなる。

それは、絶対性<大きな物語>の喪失から物語を再構築する大いなる歩みだったといえる。

初期の作品である『風の歌を聴け』や『1973のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ノルウェイの森』は、イデア喪失のその言いようのない悲しみを深く感じさせるものであった。
羊抜けがそうだ。

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『ダンス・ダンス・ダンス』には、ポスト・モダン的なある種の可能性世界や高度資本主義経済との関係性が比喩的表現巧みに描かれていた。
それはスキゾ的な逃走の宣言であった。

「踊るんだよ」
「でも踊るしかないんだよ」
「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」
オドルンダヨ。オンガクノツヅクカギリ。

90年代以降、作風は深みを帯びていく。
地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災の影響から社会へのコミットメントを宣言する。

2009年には、イスラエル文学賞の授賞式にて『卵と壁』のスピーチを行い、小説の社会的意義を説く。

そして、本作においては、そこから一つパラダイムが進み、あらたな物語を紡ぎ出したというのが僕の見立てである。

■ 村上春樹によって描かれる父性 – あらたな物語構築のためのエチカ –

今回の作品で、関心を惹いたのは、主人公が父親となったことである。
それも、「実の子」であるかどうかがわからない子の、父親となったのだ。

村上春樹氏に子どもはいないはずである。
また、これまでの村上春樹の作品を振り返ると、主人公が父親として描かれた記憶はない。

もちろん、『国境の南、太陽の西』の主人公は妻子ある男性であったし、『1Q84』では青豆と天悟の間で、青豆が妊娠し子どもができたはずである。そして、天悟とNHK集金係であった父親との関係の中で、父親というものが描かれていたようにも思う。

しかし、村上春樹の物語といえば、独身の主人公が事件に巻き込まれながら女性と出会いセックスをするという展開の方がイメージに近いだろう。
今回の作品は、単に、そうではない。(そうではあるのだが。)

この点は、今回の作品とこれまでの作品との大きな違いである。

そして、これは「イデアの喪失/メタファーによる闘争/逃走」から、ひとつの新たなる物語を紡ぎ出したといえると思う。

結論からいえば、本作では、「実の子」かわからない子と“本当の親子”になることによって、
真実としてのイデアの獲得ではなく、メタファーによる世界観の転換でもなく、
他者との関係性の中で“真実を超えた本当の物語”の構築に辿り着いたといえる。

加えて、これまでの作品では、現実と可能性世界との関係で物語が紡ぎ出されていた。
しかし、今回は、その関係を乗り越えた上で、現実世界の中で、物語を紡ぎ出したといえる。

現実の世界の中に、真実は存在しない。しかし、その中に、本当の物語を見出すのだ。
これは、ポスト・トゥルースなどという安易な言葉で片付けてはいけない、物語の創造であると思う。

本作は、村上春樹の過去の作品の各要素が散りばめられて構成された大長編であった。
ある意味で、これは村上春樹の総決算的な作品になるのではないか。

■ レコードやカセット・テープで音楽を聴くこと

本作で、あらためて気になったのが、音楽を聴くことの描写だ。
もちろん、音楽について描かれているのは、いつものことである。

今回、気になったのは、レコードやカセットテープといったアナクロで非合理なメディアで音楽を聞いていることだ。
もちろん、ここ数年、レコードの復権やカセット・リバイバルがささやかれてはいる。

しかし、今さら、時代遅れのレコードやカセットテープで音楽を聞いてどんな意味があるのだろうか。
すると、レコードやカセット・テープで音楽を聴くというのは、ある意味何らかのアチチュードの表明ではないかと考えられる。

つまり、それは「動物化するポストモダン」化した社会へのアンチテーゼではないだろうか。
それは、物語の喪失への異議申し立てであり、コンテンツのデータベース消費へのNoであり、全てが相対主義化した社会への批判だ。

すべてが等価値であり、無価値である世界。
あらゆるものをデータベースからピックアップしてキュレーションする社会。
キャピタリズムとエンジニアリングの成れの果て、物語を失い真実の喪失に動揺する社会への批判であろう。

もちろん、音楽は曲自体物語を内包しているものである。
しかし、レコードやカセット・テープは、シャッフル再生することはできないメディアである。
そして、そのことが意味をつくりだす。
それらにはA面とB面があり、それぞれがその作品全体の前半と後半の構成として展開されていて、
作品全体として、その中に大きな物語が描かれているのだ。

ちなみに、私事であるが、この本の影響を受けてカセット・プレーヤーと大量のカセット・ライブラリを購入してしまった。
物語が現実に与える影響の大きさを感じざるをえない。やれやれ。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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村上春樹『職業としての小説家』/『騎士団長殺し』を読む。

村上春樹の『職業としての小説家』を読み終わった。驚いたのは数年前に出たばかりの比較的新しい本の内容なのに既知に溢れていたこと。monkeyで書いていたのがもう少し前ということもあるのだろうが、村上春樹を語る上で多くの人間がここから引用してるということが良く分かった。

僕の印象では、彼は小説の創作や個人の話をそれほど語ってこなかった。それは彼の特異な部分だし、それを望んでいるファンもいるのだろう。だけど、僕はこれはアンフェアだと思う。海外の知らないところで書いて、具体的な声明もないまま新刊が出て、本当に読まれてるのか分からないが売れている。

よく言えば読者に委ねると表現できるが、僕は彼のテーマとは別の態度としてのデタッチメントに付き合いきれないと思っていた面が大きいということが分かった。人間臭くなるけど、もっと苦労したとか性描写ってくせになるよねとかそういったありふれた声と共に作品が届いて欲しかったのかもしれない。

間接的ではあるものの今回この『職業としての小説家』を読んで村上春樹の人間的な部分に触れることができ、それが新刊をおおいに面白く読んでいる結果につながっているようで、嬉しいし楽しい。

新刊『騎士団長殺し』を200ページ辺り読み始めて、感じたことをざっと書くと、改めて村上春樹は虚構の作家だ。冒頭の20頁は要らない。思った以上に売れてない。(あくまでポイント)

物語がしっかりあるし、現段階では設定もシンプルで読みやすい。
村上春樹が売れなくなったら日本の小説界は終わるというのは紛れもない事実で、だから普段本読まない人とか馬鹿もカッコつけて買ってくれないと困る。

僕はかれこれ15年村上春樹という作家がいいと思えず来たけど、村上春樹が祭りにならないとダメなんだよね。

たぶん、今回の本あんまり売れないという懸念から書いてます。

コンテンツ買い叩きの波の皺寄せが村上春樹にまで来るなんてと哀しいです。
僕は二時間半立ち読みして、今のところすごく面白いので絶対買って損はないです!

1Q84とか絶対みんな理解できてなかったじゃん。今回は、読めるから!

まだ途中でこんなこと言うの何ですが、村上春樹『騎士団長殺し』は面白いです。
みんな買って読みましょう。

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村上春樹『風の歌を聴け』『ノルウェイの森』を読む。

村上春樹『風の歌を聴け』『ノルウェイの森』を読む。 Posted on 2017年1月7日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

『ノルウェイの森』をはじめに読むと、村上春樹が苦手になるといわれる。

ある空間への「入射角」というのは大事だ。
角度が浅ければ反射してしまうし、角度が深すぎるとすぐに失速してしまう。
乱反射するのも悪くはないが、できればスッと屈折することなく進むのが理想的だ。

その意味で、村上春樹の作品を『風の歌を聴け』から読み始めたのは幸運だった。
個人的には、小説を読む場合には、デビュー作から入り、次に代表作を読む、という流れがベストだと思う。

村上春樹でいえば、『風の歌を聴け』から入り、『ノルウェイの森』を読んで、それから『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』と読んでいくのがいいと思う。

実をいえば、村上春樹の作品は大体読んでいる。
「ハルキスト」という言葉があり、熱狂的な信者を冷笑する人もいるが、それもあながち誤った解釈ではない。

聖書の膨大なテクストを、創世記、ヨシュア記、ルツ記、サムエル記、イザヤ書、エレミヤ書、詩篇、箴言と読み込んでいくように、気がつけば大体の作品は読んでいた。
同じような友人とは、冗談半分でこんな話をすることがある。
「もう村上春樹の新刊は慌てて読む必要はないよね。だいたい何が書いてあるのかわかるから。」

おそらく村上春樹の作品を初めて読んだのは、高校2年生の夏のはじまり、6月の文化祭のすぐ後だったと思う。
いつもどおり授業をエスケープして、高校の裏山の高台にある駐車場のベンチで、コカ・コーラを飲みながら、ケータイの電子メールで女子校の生徒とデートの約束を取り付けると、キャメルのタバコを吸いながら『風の歌を聴け』を読んだ。
強い日差しが文庫の白い紙の表面で反射し少し目にしみた。
駅ビルのスターバックスでの待ち合わせまで2・3時間ひまを持て余していた。
「まずデニーズで軽く腹を満たして、その後はホテルSUNに行こう。今日は彼女、何色の下着だろう。部屋で、冷蔵庫のビールで乾杯するのもわるくないな。」
そんなことを考えながら、軽く文章に目を通していた。やれやれ。

ところで、『風の歌を聴け』をはじめに、次に『ノルウェイの森』を、そしてその後で『1973のピンボール』という順で読んだことは、
村上春樹は1960年代の革命闘争・学生運動とその終焉を経験し、その後で喪失感の中を生きていく生活を描いたポスト・モダンな作家という印象を強く抱かせた。

フランス現代思想の旗手であるフーコーやアルチュセール、ドゥールーズが5月革命を経験して登場したように、日本のポストモダン作家の村上春樹もあの革命闘争・学生運動を経験して登場したんだというのが僕の感じ方だった。

たしかに、最近の著書には、ノンセクト・ラジカルであったことが示唆されている。
上記の順で本を読むと、その当時の作者の心象が、より鮮やかに想起されると思う。

日本におけるポストモダン。
80年代、浅田彰は『構造と力』や『逃走論』で「シラケつつノル」姿勢や「逃走」を提示した。
田中康夫は『なんとなくクリスタル』ですべてが商品・ブランド化した資本主義社会のライフスタイルをコマーシャルでビビットな表現で皮肉った。
法政大学の中核派だった糸井重里は「スカッと爽やかコカ・コーラ」「おいしい生活」というコピーを量産し、資本主義の内部で新たなライフスタイルの改革を試みた。

一方、村上春樹は、ただ社会とシステムに拒否をした。
新しいシステムに飲み込まれながら、社会については沈黙した。
そして、1995年の阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件まで、社会とのデタッチメントをつらぬいた。

デタッチメント、沈黙、それは強烈な否定だ。
作家の仕事は語ることである。その作家が語らないことを選択した。
それは単に、距離を置くというのとは違う意味を持っていたはずだ。

デートの最中で、彼女が黙ることがある。
昨日まで上目遣いで話しかけてきた後輩がある日、突然無視してくることがある。
そこには、怒り、嫌悪感、いきどおりが満ちている。

『風の歌を聴け』にはこんな文章がある。

それにもかかわらず、文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単だからだ。
十代の頃だろうか、僕はその事実に気がついて一週間ばかり口も聞けないほど驚いたことがある。少し気を利かしさえすれば世界は僕の意のままになり、あらゆる価値は転換し、時は流れを変える…そんな気がした。
それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。僕はノートの真ん中に1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったも のを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっくに見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの…僕はそれらを最後まで書き通すことはできなかった。

1960年代~1970年代、時代は大きな変化を見せた。
「意味」に大きな転換がおこり、あらゆる価値や世界観を書き換えたのだ。
人間の理性を信頼してきた近代が終わり、ポストモダンに時代は転換した。

ベトナム戦争を横目にニクソンは周恩来と握手を交わし、学生集会に集まった学生たちは就職が決まって髪を切った。
もう若くはないさと言い訳をしながら。

モダンは自ら滅んでいった。
三島由紀夫は天皇万歳を叫んで自決し、学生たちは山岳ベースの内ゲバを通して自滅した。

社会主義の神話は崩壊し、マルクスの権威は失墜した。
「革命」は希望から虚構になった。神は二度死んだ。

世界はコード(意味)を書き換えていた。
そして1980年代に、新たな価値体系である高度資本主義というシステムは完成する。

そのあいだ、村上春樹は、ただシステムを拒否し続けた。
変化する社会とのデタッチメントが村上春樹のノンだった。

そして、作り出された「価値」から形成される社会に「言葉」と「物語」を武器に一人で闘争/逃走を開始したのだ。

『ノルウェイの森』にはこんなエピソードでソサエティへの不信感があきらかにされている。

夏休みの間に大学が機動隊の出動を要請し、機動隊はバリケードを叩きつぶし、中に籠っていた学生を全員逮捕した。(‥‥中略‥‥)大学は解体なんてしなかった。大学には大量の資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくらいで「はい、そうですか」とおとなしく解体されるわけがないのだ。そして大学をバリケード封鎖した連中も本当に大学を解体したいなんて思っていたわけではなかった。(‥‥中略‥‥)
ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように教室に出てきてノートをとり、名前を呼ばれると返事をした。これはどうも変な話だった。なぜならスト決議はまだ有効だったし、誰もスト終結を宣言していなかったからだ。大学が機動隊を導入してバリケードを破壊しただけのことで、原理的にはストはまだ継続しているのだ。そして彼らはスト決議のときには言いたいだけ元気なことを言って、ストに反対する(あるいは疑念を表明する)学生を罵倒し、あるいは吊るしあげたのだ。(‥‥中略‥‥)彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。そんな連中が大学解体を叫んでいたのかと思うとおかしくて仕方なかった。そんな下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ。
おいキズキ、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ。

この後、村上春樹はセカイ系に影響を与えたという『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『ねじまき鳥のクロニクル』まで、社会とデタッチメントの関係を保ちながら、無意識/意識と自己/世界との境界線の物語を描いてくことになる。

そして、ある時、革命闘争・学生運動の反転したラジカル、超越と聖を求める倒錯した狂気の集団と交差するのだ。
そして1995年の事件以降、村上春樹はコミットメント(アンガージュマン)に向かっていくことになる。

重要なことは、二つある。

ひとつは、ずっと村上春樹がシステムへの拒否の姿勢を示し続けているということだ。
村上春樹はひとりで闘争/逃走を続けていた。
それが、沈黙という暗示であるか、明らかなかたちであるかを問わず、システムへの抵抗を続けていた。

そして、もうひとつ。
いずれコミットすべき時は来るということだ。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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辻仁成『そこに僕はいた』『音楽が終わった夜に』を読む。

辻仁成『そこに僕はいた』『音楽が終わった夜に』を読む。 Posted on 2017年1月4日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

辻仁成について語るのはムヅカシイ。
まず、辻仁成のキャラクターが奇異だからだ。
元ECHOESのボーカル、中山美穂の元ダンナ、バラエティ番組に出ている「中性化」した長髪のいい年をした大人。

ただ、それでも僕にとっては、10代のある時点で、辻仁成の本を読み、ECHOESのサウンドを聴き歌詞カードを読んだ、そして精神的な何かを形成した、そのことにはどうしても否定できないものがあった。

辻仁成の本では芥川賞を受賞した『海峡の光』や『サヨナライツカ』『冷静と情熱のあいだ』がよく読まれているのだろうか。
小説では『グラスウールの城』『母なる凪と父なる時化』『ニュートンの林檎』を楽しんだ記憶がある。

けれど、僕にとって特に新鮮な刺激だったのは、エッセイの『そこに僕はいた』『音楽が終わった夜に』だった。
 

内容紹介
大人になった今、毎日楽しみにしていた学校はもうない。でも友達は、僕が死ぬまで大切に抱えていける宝物なんだ――。少年時代を過ごした土地で出会った初恋の人、けんか友達、読書ライバル、硬派の先輩、怖い教師、バンドのマドンナ……。僕の人生において大いなる大地となった、もう戻ってはこないあの頃。永遠に輝きつづける懐かしい思い出を、笑いと涙でつづった青春エッセイ。

内容(「BOOK」データベースより)
コンサートが始まる直前の、あの昂ぶりが心地よかった。生活のささやかな出来事を呪文のように並べた歌が好きだった。やがて音楽が終わり、アンコールの手拍子に呼び戻される瞬間が嬉しくてならなかった。みんな、革ジャンの下は素肌で生きていた。夢だけは手放さなかった。ロックの輝きに無垢な魂を燃やして…。’80年代のロックシーン、ひたむきな情熱の光と影を、等身大に活写する。

 

そこには「子ども」の頃の、そして「若者」であった頃の繊細な心理があざやかに描かれていた。
それは過去を振り返るテクストであるから、そこに描かれているものはスローモーションのミュージックビデオのように象徴的で美しい瞬間として描写されていたが、描かれている<映像>には読み手の心の柔らかな部分に触れるものがあった。

不器用で、まっすぐで、傷つきやすいナイーブな少年。
孤独でくたくたでいつもお腹をすかせた痩せっぽちの青年。
忘れなれない彼女との思い出、友人を傷つけてしまったあの事件。

そんな生活と心の動きが描かれていた。
僕にとっては、まるで、サリンジャーやジャック・ケルアックのようだった。

思えば、The Policeやニュー・ウェーブの音楽、ジャック・ケルアックのオン・ザ・ロードについて知ったのは村上春樹を介してではなく、辻仁成のエッセイを通してであったかもしれない。
ECHOESのちょっと恥ずかしくなるような歌詞も最高だった。

 

 

リアルタイムで聞くことはできなかったが、辻仁成のラジオ番組もティーン・エイジャーの頃に聴きたかった。
 

Hello Hello、This is Power Rock Station!こんばんはDJの辻仁成です!
真夜中のサンダーロード、
今夜も押さえきれないエネルギーを探し続けているストリートのRock’n’Rider、
夜ふけのかたい小さなベッドの上で愛を待ち続けているスウィートリトルシックスティーン、
愛されたいと願っているパパも、
融通のきかないママも、
そして、今にもあきらめてしまいそうな君も、
今夜はとびっきりご機嫌なロックンロールミュージックを届けよう。
アンテナを伸ばし、周波数を合わせ、システムの中に組み込まれてしまう前に、
僕の送るホットなナンバーをキャッチしておくれ。
愛を!愛を!愛を!今夜もオールナイトニッポン!!

 

辻仁成の言葉のいいところは、それが繊細な「少年のつぶやき」であること、そして背景にサウンドが流れ続けているところなのかもしれない。

結局、青春は終わらないし、僕らは繊細な少年のままなのだ。
耳をすませばビートが聞こえるだろう。音楽は鳴り止むことはない。
 

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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僕はこんな本に影響を受けてきた

僕はこんな本に影響を受けてきた Posted on 2017年1月3日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

本には不思議な力がある。
それは、想像をかき立てるからであるし、思考をつかさどる言葉の性質によるものだと思う。
そして、本こそがもっとも思想を形成するものではないかと考えている。

僕は思想というものを、人間のOSだと考えている。
コンピューターでいうところのWindowsやLinux、UNIXといった意味でのOSである。
優れたOSは優れた処理をすることができるし、柔軟なOSは様々な状況に対応する姿勢を持っている。

人間にとって、OSの役割を果たすのが思想なのだ。
優れた思想は行動を後押しし、状況に対応する力を与えてくれる。
そして、強い思想には人を動かす力がある。

キリスト教は聖書の力により2000年の歴史を作ってきた。
マルクス主義もマルクスやレーニンの著書による功績は大きい。清濁併呑。
イスラム教のコーランや原理主義書の『道しるべ』もそうであろうし、
ジーン・シャープの『独裁から民主主義へ』もそうだろう。

僕はどんな本を読んできただろうか。
そして、その本からどんな影響を受けてきただろうか。
今から振り返れば、恥ずかしいものもあるだろう。
けれど、必死に読み込んだ本があったはずだ。
まるで、擦り切れて音が飛ぶまでレコードを聴くように。

僕は今年30才になる。
いままでそれほど多くではないが本を読んだ。
10代・20代に本を読み、感じたことは、どんな意味を持ちうるだろうか。
あるいは、何の意味もなかったことかもしれない。
あらためて振り返り、思い返すとどうだろうか。
何か見えるものがあるだろうか。

以下の本について振り返ってみたい。

◆ Ⅰ.水源篇 15才~22才
1.石原莞爾『世界最終戦論』『戦争史大観』
2.辻仁成『そこに僕はいた』『音楽が終わった夜に』
3.山田かまち『山田かまちのノート』
4.村上春樹『風の歌を聴け』『1973のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』
5.オルダス・ハクスリー『知覚の扉』
6.三島由紀夫『豊穣の海』
7.ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』
8.プラトン『ソクラテスの弁明』
9.トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』
10.苫米地英人『洗脳原論』

◆ Ⅱ.展開篇 27才~29才
11.カント『純粋理性批判』『実践理性批判』
12.孫武『孫子の兵法』
13.岡倉天心『茶の本』
14.レーニン『哲学ノート』『何をなすべきか』
15.サルトル『実存主義とはなにか』『嘔吐』
16.三島由紀夫『行動学入門』/小坂修平『思想としての全共闘』/重信房子『わが愛 わが革命』/山本義隆『わたしの1960年代』
17.村上春樹『職業としての小説家』
18.浅田彰『構造と力』
19.中沢新一『チベットのモーツァルト』『虹の階梯』
20.ジーン・シャープ『独裁から民主主義へ』

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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最近の村上春樹について書かれた文章で「おっ!」となったものを紹介。

今年ノーベル文学賞1週間遅れてるんだけど
果たして村上春樹が取るのだろうかというところで、
僕個人としては村上春樹という作家には何の思い入れもないのだが(刊行された小説は全部読んでいて何の思い入れもないのだからおもしろい)もしかすると今年あたりさらっと取る可能性があるのではないかと思っているので、
最近の村上春樹について書かれた文章で「おっ!」となったものを紹介。
※完全なる引用・転載です

もし明後日取ったらみんないいねしてね。
それまではしなくていいから。

➀「ノルウェイの森」と「君の名は。」 東浩紀

【雑感】

これ少し漠然としてますけど、社会現象としての「君の名は。」を未だにちゃんと解って読んでるやつ一握りだろうと思いながら新しい小説が出るたびに大ヒットする村上春樹の社会現象の先駆けとなった「ノルウェイの森」を重ねる部分に個人的にピンと来た

② 村上春樹総論 坂上秋成

@ssakagami

【雑感】

春樹論でよく使われる「デタッチメントからコミットメントへ」という説明の中で、彼のコミットメントのスタンスが複雑かつ非現実ゆえに一見上手くいっていないように感じる事実と、それでも彼が向き合ってきた悪の正体の説明が優れている。
それを踏まえての「田崎」評にも納得。

どうして僕が割とすんなり「田崎」を読めたのかもこの構造があったからだろうと気づかされました。

「希望」「革命」としての「オーバーフェンス」と「村上春樹」
このテーマで飲み屋で4~5時間管を巻けるおっさんが近くにいるが割と僕の人生で好位置につける幸せですね。

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27歳からの読書のすすめ

27歳からの読書のすすめ Posted on 2015年4月26日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

あるBarでの会話

店主「どこでこの店知ったんだい?」
男 「店のまえを歩いていたら、ブコウスキーのポスターが貼ってあったので。それで、実は前から興味を持ってたんです。」
店主「そうかい。ブコウスキー好きなの?」
男 「好きですねェ。ブコウスキーは、だいたい読んでます。」
店主「ブコウスキーじゃ、何が1番好き?」
男 「1番ですかァ。そうですね。僕はやっぱり『ありきたりの狂気の物語』かな。」
店主「なるほどねェ、俺は『ポスト・オフィス』っだなァ。俺のね、おすすめのブコウスキーの読み方はね、自分の齢の時に書かれた本を読むってことだね。それが1番見るべきものが、はっきり見える頃あいってもんなんだ。若いやつにはね、若い奴の気持ちがわかるし、ジジイにはジジイの気持ちが1番よくわかるもんなんだよ。」

今日、渋谷のBarで耳にした会話です。
ブコウスキー好きが盛り上がる渋谷というのも、なんとも意外なものだなと思います。

店主の見解によれば、小説というものは、例えば 自分が27歳・28歳のなら、作家が27歳・28歳の時に書いた作品を読むと身に染みてよく理解できるということです。

僕も来月28歳になるのですが、
せっかくなので近現代の作家が27歳~31歳の頃に書いた作品をピックアップしてまとめてみました。

普段仕事で忙しいアラサーのみなさんも、これからの長期休暇は、ぜひ小説を読んでみてはいかがでしょうか。

 

日本文学

芥川龍之介(30歳頃)『トロツコ』(1922)
太宰治(30歳頃)『皮膚と心』(1940)
三島由紀夫(29歳頃)『潮騒』(1954)
安部公房(27歳頃)『壁 – S・カルマ氏の犯罪』(1951)
大江健三郎(29歳頃)『個人的な体験』(1964)
村上春樹(30歳頃)『風の歌を聴け』(1979)
村上龍(28歳頃)『コインロッカー・ベイビーズ』(1980)

アメリカ文学

ウィリアム・バロウズ (30歳頃)『そしてカバたちはタンクで茹で死に』 (1945)
ジャック・ケルアック (30歳頃)『地下街の人びと』 (1953)
カート・ヴォネガット (30歳頃)『プレイヤー・ピアノ』(1952)
トマス・ピンチョン  (29歳頃)『競売ナンバー49の叫び』(1966)

フランス文学

マルグリット・デュラス (29歳頃)『あつかましき人々』(1943)
アラン・ロブ=グリエ(27歳頃)『弑逆者』(1949)
ミシェル・ビュトール(30歳頃)『時間割』(1956)
ル・クレジオ (29歳頃)『逃亡の書』 (1971)

ドイツ文学

ハインリヒ・ベル (29歳頃)『汽車は遅れなかった』 (1957)

ラテンアメリカ文学

ガルシア・マルケス(30歳頃)『悪い時』
バルガス・リョサ(27歳頃)『都会と犬ども』 (1963)

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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小阪修平の哲学 – 全共闘、三島由紀夫、吉本隆明、村上春樹 –

小阪修平の哲学 – 全共闘、三島由紀夫、吉本隆明、村上春樹 – Posted on 2015年4月19日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

かつて、いわゆる「オルガン派」「マルクス葬送派」という思想家の中心的人物として、小阪修平がいた。
僕は、現代思想の入門書を小阪修平の著作を通してはじめて読んだ。

小坂修平は、東大全共闘を経験した世代で、三島由紀夫と討論を行った人物の一人であった。
そして、世代の責任として「連合赤軍」の問題を総括し続けた稀有な人であった。
彼らの世代で、「連合赤軍」の問題をきちんと総括し続けたのは、村上春樹と小坂修平くらいだろうと思う。

一般に、全共闘世代や団塊の世代は敬遠されがちである。
しかし、僕は全共闘世代が自己否定と解放区の中で辿り着いた地平というのは、むしろ思想的に重要なところまで到達していたのではと思っていて、けれども、結局それを総括して語ることができず次の世代に引き継げなかったのは残念ではあった。

三島由紀夫vs東大全共闘

言葉をめぐる冒険

村上春樹の『羊をめぐる冒険』の羊は、西洋哲学・現代思想の言葉でいえば「形而上学」そのものなのだろうと感じている。
人に幻想を抱かせ操るもの。

だからあの物語は『言葉をめぐる冒険』と名付けることもできる。

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね

形而上学の果てともいえる「1960年代」近代の終焉に起こったのが若者たちの”知性の叛乱”だった。
それは形而上学=哲学=理性を、=現実たらしめるための進歩主義的革命だった。
しかし、「僕」はその中で彼らイデオローグたちの「言葉」の欺瞞に気づき、それとの闘争/逃走を開始する。

村上春樹と同世代、全共闘世代の小阪修平は言っている。

同世代の一番優秀な奴は滅んだか、半ば廃人になった

「羊抜け」だ。

小阪修平もなかば離人症のようになったという。
誰もが、語る言葉を失った。

歴史の終焉、革命の終わり、宴の後。
1970年代はさめざめとした殺伐とした風景を思わせる。

1970年「よど号ハイジャック事件」、1971-1972年「連合赤軍事件」。
文化面では、1972年『木枯らし紋次郎』、1973年『氷の世界』、1974年『傷だらけの天使』、1975年『僕たちの失敗』、1976年『いちご白書をもう一度』。

イーグルスによる『ホテル・カルフォルニア』が歌われた次の年、「ダッカ日航機ハイジャック事件」の翌年、1978年に村上春樹は処女作『風の歌を聴け』の執筆を開始する。

その小説は、歴史の終わり=観念の王国の崩壊=羊が離れた年、1970年の8月8日からはじまる18日間の物語だった。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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村上春樹と三島由紀夫

村上春樹と三島由紀夫 Posted on 2015年4月18日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

三島由紀夫から村上春樹へ

『羊をめぐる冒険』の羊は、西洋哲学・現代思想の言葉でいえば「形而上学」そのものなのだろうという思いが、ふと湧いてきた。人に幻想を抱かせ操るもの。
だからあれは『言葉をめぐる旅』と名付けることもできる。

“完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね”

形而上学の果てともいえる「1960年代」近代の終焉に起こったのが若者たちの”知性の叛乱”だった。
それは形而上学=哲学=理性を、=現実たらしめるための進歩主義的革命だった。
しかし、「僕」はその中で彼らイデオローグたちの「言葉」の欺瞞に気づき、それとの闘争/闘争を開始する。

村上春樹と同世代、全共闘世代の小阪修平は言っている。
“同世代の一番優秀な奴は滅んだか、半ば廃人になった”
「羊抜け」だ。小阪修平もなかば離人症のようになったと言っている。

革命の終わりの時代、1970年代の雰囲気は想像がつく。
1970によど号ハイジャック事件、1971-1972には連合赤軍事件。
文化面では、1972『木枯らし紋次郎』、1973『氷の世界』、1974『傷だらけの天使』、1975『僕たちの失敗』、1976『いちご白書をもう一度』。

イーグルスによる『ホテル・カルフォルニア』が歌われた次の年、「ダッカ日航機ハイジャック事件」の翌年、1978年に村上春樹は処女作『風の歌を聴け』の執筆を開始する。

その小説は、歴史の終わり=観念の王国の崩壊=羊が離れた年、1970年の8月8日からはじまる18日間の物語だった。


1960年代~1970年代、時代は大きな変化を見せた。
「意味」に大きな転換がおこり、あらゆる価値や世界観を書き換えたのだ。
人間の理性を信頼してきた近代が終わり、ポストモダンに時代は転換した。

ベトナム戦争を横目にニクソンは周恩来と握手を交わし、学生集会に集まった学生たちは就職が決まって髪を切った。
もう若くはないさと言い訳をしながら。

モダンは自ら滅んでいった。
三島由紀夫は天皇万歳を叫んで自決し、学生たちは山岳ベースの内ゲバを通して自滅した。

社会主義の神話は崩壊し、マルクスの権威は失墜した。
「革命」は希望から虚構になった。神は二度死んだ。

世界はコード(意味)を書き換えていた。
そして1980年代に、新たな価値体系である高度資本主義というシステムは完成する。

そのあいだ、村上春樹は、ただシステムを拒否し続けた。
変化する社会とのデタッチメントが村上春樹のノンだった。

そして、作り出された「価値」から形成される社会に「言葉」と「物語」を武器に一人で闘争/逃走を開始したのだ。

『ノルウェイの森』にはこんなエピソードでソサエティへの不信感があきらかにされている。

夏休みの間に大学が機動隊の出動を要請し、機動隊はバリケードを叩きつぶし、中に籠っていた学生を全員逮捕した。(‥‥中略‥‥)大学は解体なんてしなかった。大学には大量の資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくらいで「はい、そうですか」とおとなしく解体されるわけがないのだ。そして大学をバリケード封鎖した連中も本当に大学を解体したいなんて思っていたわけではなかった。(‥‥中略‥‥)
ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように教室に出てきてノートをとり、名前を呼ばれると返事をした。これはどうも変な話だった。なぜならスト決議はまだ有効だったし、誰もスト終結を宣言していなかったからだ。大学が機動隊を導入してバリケードを破壊しただけのことで、原理的にはストはまだ継続しているのだ。そして彼らはスト決議のときには言いたいだけ元気なことを言って、ストに反対する(あるいは疑念を表明する)学生を罵倒し、あるいは吊るしあげたのだ。(‥‥中略‥‥)彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。そんな連中が大学解体を叫んでいたのかと思うとおかしくて仕方なかった。そんな下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ。
おいキズキ、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ。

この後、村上春樹はセカイ系に影響を与えたという『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『ねじまき鳥のクロニクル』まで、社会とデタッチメントの関係を保ちながら、無意識/意識と自己/世界との境界線の物語を描いてくことになる。

そして、ある時、革命闘争・学生運動の反転したラジカル、超越と聖を求める倒錯した狂気の集団と交差するのだ。
そして1995年の事件以降、村上春樹はコミットメント(アンガージュマン)に向かっていくことになる。

重要なことは、二つある。

ひとつは、ずっと村上春樹がシステムへの拒否の姿勢を示し続けているということだ。
村上春樹はひとりで闘争/逃走を続けていた。
それが、沈黙という暗示であるか、明らかなかたちであるかを問わず、システムへの抵抗を続けていた。

そして、もうひとつ。
いずれコミットすべき時は来るということだ。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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文化系トークラジオLife「フィジカルの逆襲」に対する考察

文化の日ということで、軽いコラム的なものを書いてみました。
出自というか大体のベースは先月26日の文科系トークラジオLife(トークテーマ「フィジカルの逆襲」)の感想になります。
ポッドキャスト配信されているので気になる方は、こちらから。
http://www.tbsradio.jp/life/20141026/

個人的には珍しくカレンダー通りの3連休で、AKBの劇場公演が奇跡的に当たったり、1日の映画の日にあわせて「ニンフォマニアック」前後編まとめて見るとか、大学祭のトークイベントに行く等々、予定を詰め込んでいた訳です。
そして三連休も終わる今この瞬間ふと思い返してみると、僕のこの休みの予定って全部「コンテンツ消費」に割かれていた訳です。
そして、少し疲れています。
別に心地よい疲れだとかの曖昧なものではなく、それは身体に直接影響を及ぼす程度、実体を伴ったくらいに。数にも因りますが、本読んだり映画観たりラジオ聴いたりドラマ観たりしても案外疲れるものです。
そんな僕の事例は一旦置いておいて、最近の僕と近しい世代の人々は「コミュニケーション」つまりソーシャルな関係に疲弊しているという事が今回のラジオでのテーマの一つになっていて、もちろん薄々は勘づいていましたが、これが最新の若者の動向のようです。
個人的にはこの三連休コンテンツ消費に疲れて、でも一般的にはコミュニケーションに疲れる同世代の人々がいるという事実。
そこで見えてきたのが、今年の社会学のトレンドの一つとなった「コンテンツ」と「コミュニケーション」の対比です。

この話を一から追っていくと長くなるので簡単に説明すると、ネット上で「コンテンツ」より圧倒的に重視された「コミュニケーション」が実はリアルにも浸透していて、結局現実においても若者は「コミュニケーション」を最も重要視しているということです。

たとえば、Facebookで「どこどこ行った」という写真に見られる、その環境下でしか機能しない特殊な恰好(ハロウィンのコスプレやバブルサッカーの被り物、カラーランでカラフルに染まった全身)。その時の盛り上がりのピークの表情が見事なまでに切り取られガンガンにシェアされていくわけです。
僕とかはあまりピンときませんが、最近では近所の催しや平日夜の友人との飲み会に行ったとかだけではインパクトが足りず、いかに非日常で稀有な体験を興じその幸福をたくさんの人たちにシェアする(/してもらう)かみたいな恣意性を装った意識的な行動が当たり前のように連日展開している訳です。しかし、若者はそのシステムにあろうことか疲れ初めているらしいのです。
上記のようなFacebookやTwitterをはじめとするSNSでの過剰なまでのコミュニケーションが軋轢となり(生活を垂れ流しにしてる分、今誰と一緒に居て誰が誘われなかったなどといったような赤裸々な状況が判明し)自分でも全てを把握しかねる複雑な関係性に実生活が囚われてしまうという事案が頻繁に起こっているようです。
結果、SNSの中でもオープンな繋がりをベースにしているFacebookよりも、より密に且つ予め人間関係の輪を自分たちでコントロールできたり(グループ機能)、自分の言いたい事を上手にぼやかしセンシティブな人間関係を円滑に進めるツール(スタンプ)に富んだLINEが最も重宝されている訳です。
つまり、LINEというのはコミュニケーションに疲れた若者が近視的な関係性を緩く保つための重要な役割を担っていて、それこそが昨今のコミュニケーション疲れの若者のコミュニケーションにおけるトレンドという訳です。

このように、コミュニケーション疲れを他のコミュニケーションツールで補うという(僕からしたら些か悲惨な)状態、さらに昨今そこに「フィジカル」という新たな視点を取り入れだした、つまり一筋縄ではいかなくなったコミュニケーションを補完するための演出としての「フィジカル」という行動傾向についての分析が今回のラジオでの本旨だったと思います。

話が少しそれますが、僕がこのラジオを聴くまでの間で最も最近口にした「フィジカル」という単語は、タバコと酒の摂取量が尋常じゃなく僕が知ってるうちでも2回ぐらい死にかけてる大学の友人がタバコと酒をすぱっと辞め、空いた時間に毎日7キロとかカメラ持って散歩しだしたんだよという話を聞いた時です。
休みの日には鎌倉から横浜とかまで歩いたという友人のフィジカルさは三島由紀夫とか村上春樹に由来するもので、これは僕の中では極めて「コンテンツ消費」に近いフィジカルさなんですが、実際ラジオで扱っていた新たな傾向としてのフィジカルさというのはジョグやトレッキングなど、道具を揃えるところから帰って来てからの「行ってきました!」報告までを含めた「コミュニケーション」性が強く、コミュニケーションにおける疲れを視点をずらしたコミュニケーションて解決しようとする、まさにLINEと同じような話であるように思えてしまったのです。
そこで僕はふと思いました。
「何でコミュニケーションに疲れた人間は、それでもコンテンツに向かっていかないのか?」と。
語弊が生まれそうなのでまず断っておきますが、これは決してコミュニケーションに疲れてるにも拘わらずコミュニケーション取ろうとか考えないで映画とか観に行けって話ではなく、コンテンツを消費することで、それをリアルのコミュニケーションに活用できないかということです。

これは最近の僕の実体験なんですが、会社のフロア内で親しくしゃべったり一緒にご飯に行ったりしてない一見繫がりが見えないような先輩同士が付き合ってるという事を僕が言い当てて(言いふらしたとかではなく両人の確認を取って聞き出した)その時に周りの先輩や後輩、当人たちから「何で分かったの?」と聞かれたんです。
そこで僕が、「小説やドラマにおいての登場人物のキャラクター分析や物語の進捗に伴う人物配置や展開の仕方、一つの意味深なシーンなどから人と人との関係性って大体分かるようになって、それって現実にも通じる部分多いんすよね」的な割とマジレス発言をしたところ、
「それはない」みたいに全員から真剣な顔で否定された訳です。
個人的に物語と想像力の力舐めんなと思いつつも、マジでこの文脈伝わんないんだなと実感しました。
ただ事実として、僕のようなコンテンツ厨がコミュニケーションに命かけてるようなリア充(言い過ぎだけど)すら気づかなかったような人と人の関係性を言い当てる事が出来た訳です。
僕はテレビドラマ見るのが好きで、ただ最近のテレビドラマはあり得ないほどの大当たりをする作品以外ほぼ話題にもならず気づいたら新しいドラマが始まっていたという状態が繰り返されています。
勿論これには理由があって、それはテレビドラマがリアルのコミュニケーションに役立たないから、つまり単なるコンテンツに留まり続けているからです。
ただ、僕が思うのは単なるコンテンツに過ぎない小説や映画や連ドラも、いつどのタイミングでかは分かりませんが必ずコミュニケーションの足しになるという事です。
コミュニケーションで人々が上手くいってるなら僕はこんなこと書いたりしません。
ただ、コミュニケーションに疲れている人が多くいるならば、その解決法として代替するコミュニケーションツールばかりではなく、たまにはコンテンツを消費してみるのもいいのではないかということです。
だんだん寒くなってきて、みんなで出かけるのも億劫だなと思う日が今後来るかもしれません。そんな時、たまには仮病使って予定をすっぽかし、ぼーっと家で連ドラ見るのとかもいいと思います。
一緒に行かなかった事であなたの友達はLINEで楽しさの頂点を切り取った写真を送ってきてくれるはずです。それってもう実際行ったことと大して遜色ないじゃないですかね。
ただ、その日行った友達だけで新しいLINEのグループが出来るのは間違いないんですがね。

僕がここに書いて読んでくれた人に言いたいことはここで終わりです。

ただ僕には今日これを書いた真の意図があって、それは観劇予定だったAKBの公演を寝坊して見ることが出来なかったという事を決して忘れないための戒めとしてです。
時間の不可逆性への嘆きというのは、三連休最後の夜には付き物ですね。

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【2013年】総括

【2013年】総括 Posted on 2013年12月31日

今年も気付けば後数時間となり、今年しておこうと思ったこともほぼ出来たし、後は紅白を見ながら年明けを待つばかりとなりましたが、Facebookに今年を振り返ろうというメッセージがずっと出続けているので、それに乗っかって2013年をまとめておこうと思います。
今年も嬉しいことにたくさんの物語に触れて、豊かな経験をたくさんすることが出来ました。例えばそれを、今年のコンテンツトップ10のような形で紹介するのもいいかなと思うのですが、敢えて今回はランキング等を付けずに、雑文のような形でさらっていこうと思います。
これが僕の思い出の2013年です。
それに伴ってまず断っておきたいのが、今年は「音楽」と「映画」というジャンルに深くコミットすることが出来ず、その分野の話が極めて薄くなってしまうということです。音楽は僕の友人の最高の2013音楽評をそのまま流用させていただこうと思います。莫大な音楽というジャンルの大海でセンシティブな取捨選択をしてくれる人なので信頼を持ってここに載せさせてもらいます。
http://nakamegurofishingclub.tumblr.com/
併せて、2014年はもっと映画を観るとことと、恒例となっていた「フジロック」の復活を実現すると宣言しておきます。
さて、まずは何から触れようかとと思うのですが、やはり一番筆が乗り易いSKEのことからスタートしようと思います。読んでくれてる人の半分以上がここで脱落すると思うので、ここにこれから挙げていく主なコンテンツをあらかじめ書いておきましょう。本とかドラマとかラジオ、2013年個人的に面白いなと思えたことです。自分が興味ある部分だけ読んでみてください。
総評として、だから2013年はこうだったとか書くことはないあくまでも雑文なので。
今年のSKEは目に見えるような転換期で、春先に主力メンバーを含め13人が一気に卒業するという事もあって、その卒業したメンバーの自力で成り立っていたといってもいいAKBの他のグループと差異化が図られていた「SKE的なもの」が、その後ゆっくりと減退していくのを見ているようでした。他のグループよりもなぜか圧倒的にライブが少なく、彼女達もライブがしたいと常々言っていたの事もあり、今年は美浜での野外ライブをやり遂げ(彼女達の今年のベストアクトでした)ドームツアーがあり、来年になるのですがナゴヤドームでのライブも決まっているので、来年は彼女達の頑張りを一歩引いた形で見守っていきたいとなと思います。あと一つSKEに関しては、先述した春先の卒業とは別に11月にあるメンバーの卒業が決まった時に、そのメンバーが残した言葉は印象的でした。「卒業が決まった今でも、この2年間は楽しかったという実感がありません」文章で自分を表現することが上手だったメンバーであったので余計に気になった一言でした。説明の運び方からもSKEに在籍していた事に対するネガティブな思いではなく、自分が芸能という分野に不得手だったというニュアンスがこめられていたのは容易に想像できましたが、この言葉の持つ意味は「ファンは元来あるファンの位置に戻らないといけない」という事だったのかと思います。アイドルとは人間が演じている偶像であって、人間の持つ複雑性を極端に削ぎ落としている部分に商品としての価値は生まれるのですが、近年その複雑から単純への商品の変換を可視化するということを運営が売りにしていて、少なくとも僕はこの簡単な構造に騙されていたなと思う訳です。でもやっぱり、それは間違っていて、アイドルが持ち始めていたと思っていた身体性は実は全くの架空のものであって、結局ただ単にその生身を演出する技術の方がここ数年で格段に進歩したという事だけなんだと実感しました。そんな事を卒業する彼女はとても素直に氷柱のような言葉でもってそれをファンの心に突き付けて去っていきましたが、これは不器用な彼女なりの誤解の解き方だったのかなと思います。それをファンの僕らはきちんと心に留めておかなければいけないと思います。SKEの今年最後の舞台である紅白を皆で見てあげで下さい。(書いてたら終わっちゃいましたね。)
次は紅白つながりで、あまちゃんいきますか。
紅白でのリアスの一幕でのショートドラマ、マジでかっけーって思いました。あれを一番楽しそうに見てるクドカンに本気で惚れました。
あまちゃんは、間違いなく今年のテレビドラマの中でいやここ数年のテレビドラマでも圧倒的な存在感。あまちゃんについては切れ切れに色々なところに感想などを書いたり、個人的にクドカンのドラマを一気に見返したりしてましたが、まとめるなら、「あまちゃん」という作品自体が批評であり、これがおそらくクドカンの代表作になったということです。ただ、個人的に惜しいと部分もあり、あまちゃんは主に二つの関係する物語から作られていて(あきと春子、春子と夏、春子と鈴鹿ひろみ、そしてあきとゆい)最終回までに一つを除いてはすべて回収されたのですが、あきとゆいの関係だけが最後までぼやかされたままで終わり(2人の未来は希望であふれるだろう的エンディング)ここに、クドカンがずっと敢えて解らないとしてきたテーマの「アマチュアリズム」の回答が提出できなかったと思います。そこをクドカンは今後どうしていくかそんな事に期待を混めて書いておきます。
併せて、今年のナンバー1女優は有村架純でしょう。あの透明感に目を奪われた、同じ空間(3メートルぐらいの距離)にいれた奇跡は、個人的なビッグイベントとなりました。
と書いたのが20時ぐらいだったのですが、今ちょうど紅白でのあまちゃんスペシャルステージがあり、そこでようやく東京の舞台に立ったアキユイ(潮騒のメモリーズ)が編集無しで1曲のパフォーマンスを行い(半年間で1回もここまで長尺でやったことなかったです、故意にと思わせるくらいに)、これがクドカンなりのアマチュアだった2人があのトンネルの先の希望を信じて日本の頂点に立つというという最後の演出だったのかと思うと、つまり今日までがクドカンが作った「あまちゃん」だったという事に、その瞬間の紅白のステージの雰囲気も含めて(田舎に帰ろうまで)、物語(虚構)が多くの者の救済になったというあられもない証明がなされたと僕は思いました。身体が震え涙が出ます。悲しい事も多かったですが、僕は今日あのステージに救われました。
さて、気を取り直して次も紅白つながりで、今副音声で紅白の解説もしている、東進ハイスクールの講師・林修先生です。今年も新しく色々な作家の本や社会学者の話を聞きにいったり、テレビでもたくさんの人を知ることになりましたが、その中でも一番面白いと思えたのが林先生でした。「今でしょ」を「居間でしょ」と言って紅白でもさっきもひと笑い取りましたが、その「今でしょ」の一人歩きがもったいないと思えるくらい本当に魅力にあふれる方で、今年林先生が出した本もほぼ読ませてもらいましたし、テレビも林先生の出る(主にバラエティ以外のものですが)番組をたくさん見させてもらって、僕も林先生からいくつもの事を学び、実践させてもらっています。
紅白最後まで解説盛り上げてくれることでしょう。
次は「本」いきます。今年もたくさん本が読めて幸せでした。本といっても小説なんですが、今年の文学界は、村上春樹と大江健三郎の新刊に尽きると思います。他にも古川日出男の「南無~」や田中慎弥の「燃える家」など、かなりの分量を誇る大作が次々と上梓されましたが、個人的には、オムニバス形式の短編集に入ってる3本が印象に残ってます。川上未映子の『愛の夢とか』収録『お花畑自身』、舞城王太郎『キミトピア』収録『美味しいシャワーヘッド』、阿部和重『deluxe edition』収録『スクラップアンドデストロイ』。どれも単純に良かったとかではなく、この時代に生まれるべくして生まれた物語という印象を受けたという事になります。来年も本たくさん読めるかな。
次は「ダークツーリズム」について。今年の流行語にも選ばれたダークツーリズムですが、それに伴って古市くんの「誰も戦争を~」とか東さんの「福一観光地化」という本が出て、朝生で若手を含めての「戦争」テーマの回も夏にありましたし、今年は「戦争」とかについても少し考えてみたりする機会がありました。玉音放送も生まれてて始めて聞いたし、安倍ちゃんの靖国参拝で日本って本当に半世紀前まで、世界から何を仕出かすか解らない怪物(というより気違い)として恐れられいたのだという事も、参拝直後の隣国の反応とかで知ることが出来ました。僕が思う日本ってずっと平和ボケできるぐらいの安全で安心という印象だったので、かつて世界から恐れられていた日本というイメージを新たに持つことが出来たのも印象的です。改めて、誰も戦争を教えてくれなかった。と思います。
古市くんに関連してもですが、今年は若手言論人の活躍が著しい今年でした。千葉雅也『動きすぎてはいけない』、國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』、黒瀬陽平『情報社会の情念』など。それを含めて東浩紀主催のゲンロンカフェではトークイベントが頻繁に繰り広げられました。僕はそのどれにも行くことが出来なかったのですが、ニコ生とかで断片的にみたりしていても、僕が好きだったゼロ年代批評の復活を強く感じました。残念ながら東さんとは決別しましたが宇野さんもオールナイトニッポンのレギュラーを務めたり、荻上チキがTBSラジオの3時間帯でニュース番組持ったり、岡山でも活躍していたNHKアナウンサーの堀潤もNHKを勇退?後、活発に活動されているので、それを含め2014年も若手言論人には期待です。
あとはAKBの恋するフォーチュンクッキーに見る、「つながり」に固執する若者の時代という、指原莉乃論としての批評性にあふれたモンスターコンテンツであって、でもそれとは全く違う意味で消費されているということが実に面白いと思うところで、家のパソコンにはそれに関する文章が入っているのでここにそれを載せようとしたのですが、今実家でこれを書いているので、ちょっと一からは書けないし、取り合えずここでそれに触れ「恋するフォーチュンクッキー」も今年のベストコンテンツの立派な一つだったとしておきます。
そして今優子が卒業を発表しました。優子の笑顔ずっと忘れません。あのひまわりのような笑顔に流れた一筋の涙は彼女の存在の証明です。優子ありがとう。
なんか楽しく紅白見ながら書いてるのでぼろぼろですが、紅白がそれだけ面白いということでいいかなと思ってます。まさか、ガキ使なんてみてないよね?泉谷のおやじ最高だね。彼女と初めてカラオケに行ったとき泉谷の「春夏秋冬」(さっき紅白で歌った曲)を歌われた時の衝撃は凄かったけど、それでも、泉谷は常に弱者を見てる。弱者もみられてるんだ。
最後ですが、今日朝に急な訃報が舞い込んできました。
「大滝詠一・急死」
目を疑いました。本当にずっと好きだった大滝さん。僕だけじゃなく、僕の大学の友達もツイッターで触れていました。僕らの大学時代をおかしくしてくれた大滝さん。一緒に仕事してた教授も細野さんも幸宏さんも佐野さんも大貫さんも達郎さんもっといっぱい皆大好きだけど、僕は大滝さんに一番共感できたな。この時代に「働かない事がクリエーティブ」といった、ゆったりとした呼吸の持ち主です。長い休みが大好きだった、大滝さん。僕はずっと大滝さんの音楽を忘れません。
最後少し暗い話題になりましたが、今年もあと少し。
みなさん、良いお年を。また、来年またお会いしましょう。

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映画 「村上春樹『風の歌を聴け』」(1981年製作の映画)

映画 「村上春樹『風の歌を聴け』」(1981年製作の映画) Posted on 2007年12月10日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

村上春樹の処女作「風の歌を聴け」の実写化作品。

ストーリーとしては原作に沿って作られているけれど、部分的に映画オリジナルの場面も加えられている。

はっきり言って映画として前衛的で実験的な作風だから好き嫌いは大きく別れると思う。

原作に思い入れのある人は、配役、特にジェイと鼠に対して激しく不満を持つかもしれない。

けれど、それはかつて村上春樹と同窓生であった監督の、極めて現実的で、とてもリアルな描写なのだろう。

作品の完成度は決して低くない。

一見の価値ありというより、見返すと価値を再発見することが出来るタイプの良い作品だろう。

ちなみに小指のない女の子役の真行寺君枝は村上春樹の短編集「カンガルー日和」のタクシーに乗った吸血鬼で血の美味しそうな女優にその名をあげられていた一人である。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。