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以下は、過去636日間における14の文章である。
順序としては、もっとも新しい2018年9月21日の文章から順番に並び、2017年1月27日が終わりの文章にあたる。
これらの文章が何を意味しているのかはわからない。
ただ、最近、熱帯魚のベタを飼いはじめたことが関係しているように思う。
タイトルはベタの「ラビリンス器官」による。
- タイ(バンコク・アユタヤ)を旅する ― 聖なるものと俗なるものの濁流をさまよう
- 哲学 – 賭け – 愛するということ
- 西洋コンプレックスとアジア的意識 – 近代/一神教/自由の意味 –
- アイデンティティとナショナリズム
- 日本語のエクリチュール/パロールと中国語
- 現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』
- 『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて –
- 〈都市教養〉というキーワード=コンセプトについて
- 台湾を旅行する。- 中華民国台湾省台北市的小旅行 –
- 若者の街とユース・カルチャー ~ 渋谷,音楽,ファッション ~
- 存在探求のためのメモランダム/言葉をめぐる冒険/浮遊への逃避行
- 左右対立のねじれについて ‐ あるいは革新右翼,ハイデガー,三島由紀夫 ‐
- 僕らが旅に出る理由 – 日常の外の日常 –
- 思考の袋小路
タイ(バンコク・アユタヤ)を旅する ― 聖なるものと俗なるものの濁流をさまよう
2018年9月21日
2018年9月14日~18日、タイ〈バンコク・アユタヤ〉を旅行した。
微笑みの王国、タイ。
かつて「クルンテープ」(天使の都)と呼ばれ「東洋のヴェネツィア」と讃えられる水の都バンコク。
あるいは、世界遺産にも登録された古都アユタヤ。
アジアの雑踏。崇高な超越へのあこがれと、猥雑な風俗が雑多に混じりあった東洋の王国。
バンコクを流れるチャオプラヤー川の濁流は聖俗浄穢を飲み込むタイの風土を象徴しているかのようだ。
それは、同じアジアの王国でも、日本の列島全土を流れる清流や神道的な穢れの思想とは対称的である。
初日
ぼくら(友人とぼくの3人)は、9月13日(木)の夜に羽田空港に集まり、9月14日(金) 00:30 東京・羽田発 → 9月14日(金) 04:50タイ・バンコク行きのフライトで旅行を開始した。
旅行初日はトラブルの連続であった。バンコクの空港に降り立つと、友人がひとり行方不明になった。iPhoneのSIMカードはwifi環境でのアクティベートが必要ですぐには使えなかった。ぼくらは、とりあえず、なかば諦めて入国審査カードを記入した。
どうにか、ようやく友人と再会し、電車や船を乗り継ぎながら朝8時ころホテルにチェックインすることができた。
観光を開始すると、王宮前ですぐに詐欺グループに絡まれた。友人たちは気のよさそうな(ぼくにはそう思えなかったのだが)タイ人の親父相手に会話を楽しみ、言われるがまま通りすがりのトゥクトゥクに乗り込んでいた。正直に言って、ぼくは友人たちの素直さにうらやましさを感じた。
もちろん、トゥクトゥクの運転手はぼくらと会話していたタイ人の親父の顔見知りであった。どうやら、彼らは言葉たくみに観光客を誘導し、大金をだまし取る詐欺グループだったらしい。タイの有名観光地でのこうしたトラブルは数十年前から存在するという。
しかし、さすがに、初日から詐欺にあうわけにはいかない。彼らの前を立ち去り、ぼくらは王宮、タイ料理屋でのランチ、ワット・ポーの見学とタイ式マッサージ、その後、射撃クラブとナイト・マーケットを楽しんだ。三島由紀夫の『暁の寺』に登場するワット・アルン、一番の楽しみでもあったが時間の都合で今回は省略した。次回、その暁の姿を見たい。
だが、問題はその後であった。ぼくらは、終電のバスを乗り過ごした。
フライトからぶっ続けで遊び続けた疲労困憊のぼくらは、いくつもの失敗を繰り返した。
まずは、バス停で待ちながら所定の路線(25番線)のバスを見過ごした。ふたつめに、バスに乗り込むとそれは逆側方向へのバスであった。道を渡って、Googleマップでバス停の位置を探す。それが最後のチャンスだった。スコールが降っていた。ぼくらは雨の中バスを待ち続けた。
かすかに、そこが本当にバス停なのだろうかと不安を抱いていた。なぜなら、そこにバス停の標識が見られなかったからだ。友人はぼくに「雨宿りしながら、少し離れた場所でバスを待とう」と言った。
だが、ぼくはその最終バスを逃したくはなかった。ぼくはこのまま待つと答えた。
バスが現れた。ぼくらは手をふった。バスは通り過ぎて、200メートル離れたところで停車し、また走り出した。バス停はぼくらのいたところには存在しなかった。ぼくらは現実と地図をはき違えていた。
24時過ぎ。ぼくらは最終バスのないバスの停留所に座り込んだ。タクシーは観光客には冷淡だった。
彼らは深夜のぼくらを乗車させてくれなかった。疲れたぼくらはそこで15分ばかりぼんやりと過ごした。スコールは、その雨脚をいっそう強いものにしていた。だが、その雨音の向こうにかすかに大型車のブレーキの音が聞こえた。雨脚の向こうに、バス停のすぐ手前に、バスがいままさにそこに停車しようとしていた。それは25番線だった。バスは時刻表を30分以上遅れて運行していた。ぼくは奇跡という言葉の意味がわかった気がした。
ホテルに戻ると、浴槽のないバスルームでシャワーを浴び、シンハー・ビールを飲んで、ぼくらは朝までゆっくりと眠った。
二日目
二日目は、チャイナ・タウン、カオサン・ロード、電車移動をして古代遺跡アユタヤ、そしてナイト・クラブを巡った。
アジアにおいて、中華文明というのは特異点であり、タイにおいても中国文化の影響は色濃い。
一説には、そもそも、タイ族は中国南方から移動してきた人々だともいわれている。
タイ各地においても中国風の寺院や漢字が見られるところは多い。そんなタイのチャイナ・タウンで朝食をし散策をしながら二日目ははじまった。
チャイナ・タウンを散策すると、トゥクトゥクで15分ほど移動してカオサン・ロードに移動した。
バックパッカーの聖地。マクドナルドのキャラクター、
ロナルド・マクドナルドがワイ(合掌)している姿も見られる。カオサン・ロードはシルバー・アクセサリーの名店街でもあるらしい。SILVER
FACTORYなどの看板が多く掲げられていた。
午後は、バンコク駅(フワランポーン駅)に移動し、そこから鉄道で古都アユタヤに移動した。
バンコク駅と鉄道移動で見た景色はもしかしたら今回の旅でもっとも印象深かったものかもしれない。
バンコク駅ではイスラームの衣装を着た女の子たちが離れ離れになるのだろう、抱き合って涙を流している姿を見かけた。仏教国タイにも少数ながらイスラーム人口はあるということらしい。近年の統計では、約400万人、4.6%がイスラム教徒であるという。
それから、弁当の売り子、ペプシのポスター、サバ缶の看板。色とりどりのタイがバンコク駅にはあった。
鉄道が出発してしばらくすると、バラック建ての家々が立ち並び、アユタヤ周辺まで移動したころには広大な農地がその姿を見せるようになった。タイは非常に都市と地方の差が大きく、また、貧富の差も大きかった。
古都アユタヤは、王朝の滅亡とかつての仏教の繁栄をよく示していた。日本でいえば、平家物語や奥州藤原氏を思わせる栄枯盛衰を想像させた。あらためて、一日かけてゆっくり見たいと感じた。
今回は駆け足でトゥクトゥクでツアーを行い、その後、河上のコテージ風のレストランでタイ料理とシンハー・ビールを飲むと、また鉄道でバンコクに戻った。
そして、ナイト・クラブを楽しむことにした。
バンコクでもっとも有名な歓楽街のひとつナナプラザ。ゴーゴーバーやバービアが多く集合するモール型の歓楽街。多くの日本人が訪れるという。
正直に言えば、セクシーな女の子が舞台の上に並んでるのを眺めながらアルコールを飲むところと聞いていて、Disco Trainみたいないわゆるclubを想像していた。だが、それとは違っていた。ステージの上の女の子たちは踊ってはいなかった。彼女たちは、ただステージに立ち、音楽に合わせてポージングする。
それを見つめる男たちの熱狂、熱い視線。対して、見られる彼女たちは、彼女たちの肉体は熱狂とは遠く、冷たい肉のようにも見えた。仏教国のタイでは、人々は輪廻転生を当たり前のことのように考え生きているという。あるいは、肉体と精神の乖離した彼女たち。肉体は現世における魂の牢獄にすぎないだろうか。
タイでは売春は違法ではない。厳密にいえば刑事的な処罰はない。だが、それらは合法でもない。それらは、双方が法的に守られた関係でもない。そこには、ただ、微笑みがあった。ぼくらはどこか醒めた気持ちを感じながらジントニックを飲み干した。
三日日
三日目はサムットソンクラーム県のメークロン市場(折り畳み市場)とバンコクの水上マーケットを観察し、エラワン美術館を巡った後で、サイアム・スクエアのモールでお土産を買い、ホテルに戻った。
そして、浴槽のないバスルームでシャワーを浴び、シンハー・ビールを飲んで、空港行きの朝4:30のシャトル・バスまで少しのあいだゆっくりと眠った。
そして、ぼくらのタイ旅行は終わった。朝7時半、タイ・バンコク発 → 東京・成田行きのフライトでぼくらは日常に戻った。
きっと、いつかまたぼくらは、タイの街を訪れるのだろうという予感を残して、上野駅でぼくらは別れた。
哲学–賭け–愛するということ
2018年3月3日
パスカルは神の実在に賭け、アインシュタインは神はサイコロを振らないと言い、カエサルは賽は投げられたと行動し、ハイデガーやサルトルは企ての中に身を投じることをエンドースした。
哲学的な認識と実践のあいだには決定的な亀裂があって、それらは二元論的に制御すべきで一元論的に統合することは出来ない。
しかし、認識と実践のあいだにある飛躍、死を覚悟した跳躍というのは?
それは、まさに賭けというものなのではないだろうか。
賭けは、人間にとって強烈で不思議な魔力を持っている。ギャンブラーであれば、赤のカードが5回続いた次には黒が来るのではないかと流れを感じ取ってしまうはずだ。
奇妙な話ではある。確率的にいえば、これからの出来事とこれまでの出来事には因果関係はない。しかし、人はそこに流れを見出してしまう。あたかも、ヒューム的な違和感というか、有らぬものをあたかも有るかのように感じるのだ。
ある意味では、人生自体、賭けと言えなくもない。もちろん、僕らはディーラーではないからほとんどの場合には、はじめから負け戦だけれど。
他者を愛するということも賭けである。
僕らに、彼女らの気持ちは解りえない。応えてくれるだろうか?あるいは裏切らないだろうか?
無償の愛ならどんな愛でも良いだろう。しかし、もし相手に求めるところがあるなら?
サルトルの言った、投企=アンガジェは、エンゲージ(リング)=婚約=愛するということと同じ語源である。
愛することは自らを投げ入れること、それは賭けと言わざるを得ない。
とはいえ、賭けというものは、状況把握と確率のコントロールと可能性への前進であり、それは主体性の問題であるといえる。
それはある意味では、コミットする機会を逃さぬことでもあるが、他方で良くないゲームは続けずにすぐに降りなければならない。
つまるところ、賭けで最も下手なやり方は、ロマン主義であることと冒険主義であることだ。
まずは、心を落ち着けて、クールにゲームを楽しむことだ。そのうちに流れも変わる。あるいは、チャンスが巡ってくるかもしれない。
君のゲームにボーナス・ライトが灯ることを願って。
Have a nice play !!
西洋コンプレックスとアジア的意識 – 近代/一神教/自由の意味 –
2018年1月27日
最近、アジア的なものに関心がある。
基本的に自国や他国に対する強い思い入れはないのだが、なぜアジアについてとらえ始めたのかと考えているうちに、自分の中に強い西洋コンプレックスがあるのではないかと気づいた。
アジア人として生まれたことに対する、非西欧的であることへのコンプレックス。
一見すると、かなり奇異なことを言っているように思われるかもしれないが、やはり現在の世界は西欧中心の価値観で構成されていると考えていいのではないだろうか。
世界的なグローバル化はある意味で文化的なアメリカナイズという側面が強く、世界中どこへ行ってもある程度の都市ではSTARBUCKSやMcDonaldやGAPの店に出会うだろうし、道行く人々の手の中にはApple製のiPhoneかGoogleのAndroidのスマートフォンが握りしめられている。彼らが休日を過ごすのはローマ-イギリス-アメリカ起源のショッピング・モールだし、日記代わりに記録を残していくのはシリコンバレーで開発されているFacebookやInstagramやTwitterにである。
精神的にも経済にも、マックス・ウェーバーが語ったところの西洋におけるプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神に覆われたシステムの中に僕らは生きていると言っていいだろう。
そもそも、普段からジャケットやパンツ(ズボン)やシャツを着て生活し、ローマ字入力のキーボードを叩いているのだから、西洋化された世界に取り込まれていないと考えるのは難しいのではないだろうか。
正直に言えば、近代化以後の日本人の中には強烈な西洋コンプレックスがあったのではないかと思う。
福沢諭吉の脱亜論もある意味でそうだが、現在でもある中国・韓国・朝鮮への強烈なヘイトや反発の基底にあるのは、西洋コンプレックスそのものではないだろうか。
一方で、ある種のヒエラルキーの中で、彼らよりも近代化を先んじたから上にあるという不遜。他方で、伝統ある大陸の東洋文化を無知蒙昧で未開で下品なものとして見る態度。
強い一神教的西洋とか弱き多神教的東洋
とはいえ、西洋コンプレックスというのは、結局のところ一神教的理念を持たないアジア・東洋におけるある種の弱さから来るものではないかと思うのだ。
それは、近代化を確立し得たのが一神教的理念を持つ西欧(西洋)であったこと、いまだにその近代モデルの中に世界があるということから由来する。
もちろん歴史的には例外もあった。多神教的な世界観が良い結果をもたらすのかと期待された時代だ。
80年代は日本にとってはミラクルな時代でJapan As No.1/エコノミック・アニマルとしての経済的成功と、ポスト・モダン的な思想の潮流に後押しされた乗った時代だった。
それは再評価されたコジェーブがいったところのスノッブな形式主義な日本と、ロラン・バルトがいったところの空虚な中心としての皇居〈コーラ〉という言説が輝いて見えた時代だった。
それは、結局のところアニミズム-汎神論-多神教的なイメージにつながるものだ。その意味でスピノザ-ドゥルーズにも連なるものだった。
とはいえ、90年代になってみれば強力なリーダーシップ不在の日本企業は没落し、リベラル的な多様性の尊重と承認の言説からは結局十分な多様なる個人が満たされることはなかった。
加えて、21世紀は一神教 対 一神教の戦争からはじまって、現在は相対主義の反動から強烈に一神教的ともいえるポスト・トゥルース的状況に至っている。
これでは、多神教的なものに弱さを感じざるを得ない。
他方で、僕は現在この瞬間の中国という国に注目しているところがある。
それは、現在の中国の状況が80年代の日本とよく似ていて、大衆の時代精神としてはエコノミック・アニマル=爆買い、Japan As No.1=強い中国経済のようには見えるからだ。
とはいえ、中国はアジアの特異点で、一神教的なところが強い。
もともと、天-皇帝-王朝という天帝-天子による民衆とのある種の世俗化した信仰的意識が強い。それは、天-毛沢東-共産党という体制として今も受け継がれている。
アジア的に土着化されていて、帝国主義的だけれど、ある種の一神教であるのが中国という国だ。
今後、アメリカ-中国という西洋-東洋のコンフリクトが激化していくのは、まず間違いないだろう。
世界第1の大国としての西洋のアメリカと世界第2の大国としての東洋の中国の対立ともいえる。
ある意味で、かつて日本が天皇-西田哲学-近代の超克-八紘一宇-満州国で東洋代表として西洋文明に対抗していたことの反復のようにも思える。
中国にも勿論日本と同様近代化を先んじた西洋に対するコンプレックスは根強くあるだろう。
中国の政治的・経済的な成功によって、アジアは西洋コンプレックスを克服できるのだろうか。
アジアに自由と民主主義はあり得るか
シンガポールは「明るい北朝鮮」と呼ばれているらしい。それは、経済的に高度に発達しながらも独裁的な政治であることを示唆している。
ある意味で、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』が現実化された世界だといえるだろう。
それは、ジョージ・オーウェルの『1984』的な監視社会と揶揄される中国が経済発展の中で目指しているような世界像でもあるだろう。
最近、インド映画の『バーフバリ』を見た。
それは理想的な王の到来を描いた神話的超大作であった。
そこで思わず気付かされたのは、アジアにおいては民主主義という理念は現実味がなく、むしろ王→民という統治意識が強いのかもしれないということだった。
しかし、アジアの国々のそのような統治意識を単にアジアの未開性と切り捨てるわけにもいかないだろう。
アジア各国には、近代史的経験、ヨーロッパがそれぞれ闘争を通してリバティを獲得して近代化したのとは異なり、帝国列強の植民地であったトラウマの記憶があるのだ。
それゆえに、支配された経験のあるアジア各国が自由でリベラルな国民主権ではなく国家としての強固さ権力システムに有利な国家主権に重きをおくのは自然なことだろう。
例外はタイと日本だけだ。むしろ、例外的に被植民地ではなくむしろ列強であった日本、外交により難局をやり過ごしたタイも王国であったのである。
他方で、自由という言葉にはリベラル的なリバティという理念だけではなく、リバタリアン-自由主義-ハイエク的な(ハイエクはリバタリアン的ではないのだが)自由競争の自由という意味もある。
この自由の概念はアジアにも行き届いた。中国では改革開放の中でハイエクが大きな影響力を持ったらしい。
アジアの人々は権利としてリバティとしての「自由」は獲得できずに、西洋的「自由」競争の世界の中で生きているといえる。
未だ複雑な思いを抱えて生きざるを得ないだろう。
アイデンティティとナショナリズム
2018年1月12日
人間には否応なく認めざるを得ない暴力性というのがあるのではないか。
それは、ある種アイデンティティの維持と関わるものだと思われる。
暴力性は、他者を攻撃したり人を支配するという欲望と同質のもので、特に自己の危機において顕著に立ち現れる。
批評空間の「明治批評の諸問題」を読んでいる。
そこでは、日本語の言文一致はむしろ根本的に翻訳が起源だと書かれている。
二葉亭四迷のツルゲーネフ翻訳や漱石の翻訳的言文一致的な文章が起源だというのだ。
言文一致とナショナリズムは大きな補完関係にある。
ナショナリズムについて書かれた著作には、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』がある。
そこによれば、ナショナリズムが起因する近代国家〈ネーション〉は、成員が「共同幻想」を共有することによって成立するとされている。
アンダーソンは近代国家〈ネーション〉成立の要因を出版資本主義の発展に求め、新聞が〈ネーション〉の公用語の普及に大きな役割を果たし、世俗語の言文一致をあまねく至らしめるとともに「想像の共同体」の形成に大きく寄与したとする。
翻って日本の言文一致の起源を考えると、言文一致の翻訳起源を否定するような日本ナショナリズムがあれば、それは翻訳が起源の言文一致により生まれたナショナリズムによるという現象が起こるということになる。
これは奇妙なパラドックスではある。
ナショナリズムというものが求めるのは、ミクロコスモスたる〈私〉とマクロコスモスたるネーション・ステート〈国家〉の合一で、それはウパニシャッドのアートマンとブラフマンの梵我一如や、プラトンの一者合一と同じものであろう。
あるいは、ヘーゲル=キリスト教的な弁証法による神の国への救済。
つまり、救済だ。
ナショナリズムについて別の見方をすれば、近世以降、宗教国家から世俗国家へと権力による支配形態が変わる時に正当性として〈宗教〉から置き換えられたものが〈ナショナリズム〉の起源だろう。
そして、その後、正当性となるものは国家の論理〈ナショナリズム〉から資本の論理〈資本主義〉へと移行した。
19世紀後半から20世紀にかけて、上記の動きが行き過ぎた結果をもたらす。
20世紀は、それへの対抗としてソビエト型社会主義〈共産主義〉・ファシズム〈国家社会主義〉・ケインズ主義〈修正資本主義(国家資本主義)〉が台頭した。
そして、それぞれが20世紀の内に自壊した。
1990年代以降は、純粋資本主義の独壇場であった。
それは情報技術と交通技術の発展によりグローバル化を果たした。
あたかも国家や宗教は死滅してゆくように思われた。
しかし、グローバル化はむしろ紛争など民族同士の対立をもたらした。
そして、21世紀は宗教国家と資本主義国家との対立から始まった。
20世紀は、社会主義-国家
対 資本主義-国家のイデオロギーの対立があった。
21世紀は、イスラム-国家
対 キリスト教-資本主義-国家との対立から始まった。
あるいは、この時、宗教-資本-国家の結びつきが再接続されたと言われるのではないだろうか。
日本語のエクリチュール/パロールと中国語
2018年1月12日
少し遅れたが、すでに、2018年がはじまっている。
個人的には、今年、少し語学を学習しようと考えている。
これまでの興味の対象は概念であったが、ある種の言語的転回(展開)が沸きあがってきたというところだろう。
昨年わずかに英語・中国語・PHPを学習しはじめたが、今年はそれをどれだけ蓄積できるだろうか。
ところで、中国語を少し勉強してみて、とてもよくわかったのは、むしろ日本語についてで、日本語は書き言葉(エクリチュール)と話し言葉(パロール)がまったく別の流れを持った別々の言語だということ。
日本語と中国語は、漢字という共通の基盤を持つためエクリチュールは眺めればかなり内容の想像がつく。
しかし、にもかかわらず音声言語においては、相互に輸出入された単語はあるが、基礎的な音からまったく異なっていて学習しなければ聞き取ることができない。
考えてみれば、日本語は古代の漢字の輸入以前からあったわけで、音声言語としては別の流れにあるわけである。
中国語は構造的な性質を持ち、日本語は叙情的な性質を持つ。
古代、日本に輸入された頃から漢字は官僚機構によるシステム運用にりようされた。これが日本の書き言葉の始まりだろう。
他方、もともと存在した日本語は話し言葉としてそのまま残る。これが記録に残ったのは、詩、和歌においてだ。
平安の時代、遣唐使の派遣事業の終了と並行して、国風文化が栄える。その時、日本的な風土をもとにしたかな文字が生まれる。そういった意味では、ひらがなこそが日本的な日本語であろう。
源氏物語や平家物語などその後の文学に大きな影響を与える。
とはいえ、もののあはれを体現したような言語はあまりに自然でシステム運用には向かない。
そのため、ながく公用語としては中国由来の漢文が用いられ、漢文は江戸時代においてもヨーロッパにおけるラテン語のような教養の地位を占めていた。
ここから想像されるのが、近代における言文一致運動の不徹底だ。日本語は、書き言葉と話し言葉が一体となっていない。
これは哲学の構築にも影響を与えている。ドイツやフランスなど西洋おいては、日常言語と哲学書の文体が接続されているという。しかし、日本語はそうではない。
西欧における近代哲学の果たした役割を日本では文学や批評のシーンが担っていた部分が大きい。これは、日本語の言文の不一致ゆえ、構造と叙情性のはざまで揺れ動く言語であることにあるだろう。
そして、その由来は書き言葉と話し言葉の源流の違い、中国-大陸の漢字と日本-島の音声言語からなる言語であることにあるのではないかと思うのだ。
現代中国を描く大河ドラマ
小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』
2017年12月31日
2017年も残りわずか数時間となった。
今年は近年稀に見る激動の年であった。
アメリカではポピュリズム的な現象を背景にトランプ政権が発足、フランスではマクロンに敗れたがマリーヌ・ル・ペン率いる国民戦線が躍進。
ヨーロッパでは、イギリスのメイ首相がEUに離脱を通知、スペインのカタルーニャ地区は独立を宣言した。
中東ではイスラム国は事実上の崩壊。
しかし、アメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定したことから多数の抗議活動が起きている。
アジアでは、フィリピンのドゥテルテ大統領が麻薬撲滅キャンペーンを実施し超法規的殺人が行使され、マレーシア・クアラルンプール空港では北朝鮮の金正日総書記の長男である金正男が暗殺され、ミャンマーはかつての民主化運動の旗手アウンサンスーチーによる新政権のもとロヒンギャは混乱に陥っている。
そして、日本では飛翔体が定期的に飛び越えている。
他方、経済面は数値の上ではバブルとも思える好調であった。
世界的に各国の経済は軒並み好調、日経平均もかつて1992年のバブル崩壊前の水準に上昇。
また、仮想通貨の価格は10倍にも100倍にも高騰した。
そのような状況の中で、ひときわ存在感と彩色を放っていたのは一帯一路国際フォーラムや中国共産党第十九回全国代表大会を開催した中国であったかもしれない。
現在の中国は、かつてのソビエト連邦-第三インターナショナルや日本の夢見た満州国-大東亜共栄圏のような、東の中心・大国としての存在感を増している。
今年、自分にとって大きな影響を与えたのは前半は香港や台湾(中華民国)など東アジアを旅行したこと、後半は中国本土出身の女の子と友人になったことだった。
彼女は、ほぼ同世代の1988年の中国生まれ。僕は、1987年の日本生まれ。その世界観・パースペクティブには大きな差がある。
一方で、改革開放と天亜門事件以後の社会主義市場経済とその発展の中で育った彼女には(実際には中国の同世代の彼ら・彼女らには)明るい未来が見えるだろう。
他方で、1987年の日本生まれの僕らは、バブル崩壊、オウム事件、失われた20年の中を生き、リーマン・ショックや年越し派遣村の報道を見ながら就職活動を行い、社会人になると東日本大震災や福島第一原子力発電所事故を見てきた。
それは見えるものは異なるだろう。
とはいえ、個人的な関係は、文化・制度・国家を超えたところにある。
はじめは好奇心から始まり、次には差異を感じながら、次第に共感を抱くようになる。
その中で、今年はいくつか現代の中国を描いた作品を読んだり観た。
特に印象的だったのは、余華の小説『兄弟』とジャ・チャンクー監督の『山河ノスタルジア』だった。
余華『兄弟』
カンヌ映画祭で鮮烈な印象を残した張芸謀の『活きる』。
その原作者である中国文壇の気鋭、余華が十年ぶりに発表した長編小説『兄弟』は、中国に大議論を巻き起こした。軽薄! ソープドラマ! ゴミ小説! 文学界の猛批判をヨソに爆発的なヒットとなった本書は、文化大革命から世界二位の経済大国という、極端から極端の現代中国四十年の悲喜劇を余すことなく描ききった、まさに大・傑・作。
これを読まずして、中国人民(と文学)を語るなかれ!
1966年――文化大革命が毛沢東の手ではじまった。
隣人が隣人をおとしいれるこの恐怖の時代に、出会ったふたつの家族。
男はやさしい男の子を連れ、女はつよい男の子をつれていた。
男の名は宋凡平。子どもの名は宋鋼。
女の名は李蘭。子どもの名は李光頭。
ふたつの家族はひとつになり、宋鋼と李光頭のふたりは兄弟になった。
しかし、時代はこの小さな家族すら、見逃しはしなかった――。
『山河ノスタルジア』
第68回カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式出品!
『長江哀歌』(ヴェネチア国際映画祭金獅子賞)、
『罪の手ざわり』(カンヌ国際映画祭脚本賞)の名匠ジャ・ジャンクー監督最新作!
時代を越えて変わらないもの―母が子を想う気持ち、旧友との絆、そして生まれ育った故郷の風景。
その全てが愛おしくも哀愁に満ち溢れ、世界が賛辞を贈った壮大な叙事詩。
過去、現在、そして未来。ずっとあなたを想いつづける。
急速に発展する中国の片隅で、別れた息子を想いひとり故郷に暮らす母。
息子は異国の地で、母の面影を探している。
母と子の強い愛から浮かびあがる、変わりゆくこの世界。変わらぬ想い。
1999年、山西省・汾陽(ルビ:フェンヤン)。
小学校教師のタオは、炭鉱で働くリャンズーと実業家のジンシェンの、二人の幼なじみから想いを寄せられていた。
やがてタオはジンシェンからのプロポーズを受け、息子・ダオラーを授かる。
2014年。タオはジンシェンと離婚し、一人汾陽で暮らしていた。ある日突然、タオを襲う父親の死。
葬儀に出席するため、タオは離れて暮らすダオラーと再会する。
タオは、彼がジンシェンと共にオーストラリアに移住することを知ることになる。
2025年、オーストラリア。19歳のダオラーは長い海外生活で中国語が話せなくなっていた。
父親と確執がうまれ自らのアイデンティティを見失うなか、中国語教師ミアとの出会いを機に、
かすかに記憶する母親の面影を探しはじめる―。
現代の中国を描く2つの大河ドラマ
大きな意味では二つの作品には重なるところがある。
ひとつは、このどちらの作品も中国の現代を壮大に描いた大河的作品であったということだ。
『兄弟』は文化大革命〜現代までの中国の姿、『山河ノスタルジア』は1990年代〜2025年の中国の姿が描かれている。
中国の発展のスピードはヨーロッパや日本の現代とは異なる圧倒的な展開とスピードで歩みを進めている。その発展は、新しくより良い未来を手に入れるということは、しかし同時に、古いものを捨てることをともなっている。
この2つの作品の中で描かれるのは、中国の発展が勝ち取ったその栄光と古き良き家族との離別であった。
それはかつて、木下恵介監督が『日本の悲劇』で描いたような、ある種の悲劇である。
もうひとつ、この2つの作品に共通していたのは作品のモティーフとして三角関係が描かれていることだった。2人の男、1人の女。
2人の男は友人であるが、1人の女を同時に好きになる。強い男と、優しい男。女は最終的に強い男を選ぶ。(あるいは選んでしまう。)
言われてみれば、これは文学的にはよく見られるモティーフかもしれない。夏目漱石の『こころ』に見られる先生とKとお嬢さんの三角関係。村上春樹の『風の歌を聴け』や『ノルウェイの森』に見られるような三角関係。
そこで描かれる2人の男は「近代化・高度経済成長の時代」と「古き良き時代(ノスタルジー)」を表しているのだろう。
近代化や高度経済成長にはある種の喪失とノスタルジーが必要なのだろうか。
『山河ノスタルジア』のラストシーンはとても美しく印象的であった。
それでも、音楽は鳴り、人々は踊り続け、時代は流れる。
『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』を読む。 – 再び、ヒューマニズムと本来性を求めて –
2017年9月17日
時代が大きく変化している情況において、より大きな動きが見られるのはもっとも開発されもっとも進んだ先進国ではない。
むしろ、ある種のつまずきを抱えてその遅れを取り返そうとしている国において、大きな動きが見られる。帝国主義時代のドイツ・ロシア・日本がそうであったろう。
そして、今のロシアはまた同じようにつまずきを抱えて、それを乗り越えようとしている。
であるならば、これからの21世紀の相貌の一端がまた見られるのは、ロシアの現代思想からなのかもしれない。
現代思想としての哲学は、20世紀に取り残された1つの課題を抱えている。
それは、しばらくのあいだ忘れ去られていた課題、「近代の超克」の問題だ。
思想史的な現代の情況をみたてると、ヒューマニズムにより近代を超克しようという熱病が再燃しているのが現在だろう。
近代哲学の完成がヘーゲルだというのは意見の一致するところだが、そこからの超克を目指して19世紀後半から20世紀前半に展開されたのがニーチェやマルクス,ハイデガーやラッセルなどいわゆる反哲学=現代思想としての哲学だった。
19世紀の近代化された世界は問題を抱えていた。
それを乗り越えるために20世紀に企画・実施された壮大なプロジェクト、反哲学的な思想をふまえて近代の超克を目指して提起されたのが、⑴マルクス=レーニン主義によるソビエト型社会主義(共産主義),⑵ナチスなどのファシズム的な国家主義(国家社会主義),そして⑶ケインズ的な修正資本主義(国家資本主義)だった。
ざっと20世紀を振り返れば、上記の⑴マルクス=レーニン主義と⑵ファシズムが倒れたのは自明であった。
そして、現在は⑴・⑵の体制が崩れ去ったその後で、⑶の修正資本主義(国家資本主義)だけが残りはじめの意図を超えて爆進しているというのが実情だろう。
しかし、その課題をきちんと見つめ捉え返さなければいけない時が来ているのではないか。
そもそも、マルクス=レーニン主義やファシズムが現れたのは、ヒューマニズムからであった。
理性的な人間を中心とした近代的な思考と社会システムが、かえって人を疎外し抑圧するものとなる。その阻害に対してのノン、異議申し立てから湧き上がったのが、マルクス=レーニン主義やファシズムであったのだから。
それらがヒューマニズムから湧き上がったものであれば、現在の問題であるヘイト・スピーチやテロリズムの問題が、またヒューマニズムを源泉としていることは明らかだろう。
彼らは、本来的な人間のあり方を訴えるナロードニキでありボリシェヴィキであるのだ。
ヘイト・スピーチやテロリズムがヒューマニズム?ナンセンス!
確かに、ナンセンスと思われるかもしれない。
しかし、たとえば代表的テロリストとしての日本人、重信房子の言葉を引用してみよう。
“隊伍を整えなさい。隊伍とは、仲間であります。仲間でない隊伍がうまくゆくはずがないではありませんか”
届くならちぎれるまで手を差し伸べたい。
革命に向けて、同志たち、友人たち。燃える連帯を込めて、勝利の日まで。さようなら。
『週刊読売』1972年4月15日号 赤軍派アラブ代表 重信房子
見誤ってはいけないのは、彼らは単に憎悪に燃えた人間ではなく、抑圧されたシステムからの解放を願う本来的なあり方を求めるヒューマニストそのものなのだ。
そこでは右翼や左翼といったイデオロギーの方向は大きな意味を持たない。
個別具体的な事例ではあるが、重信房子の父親が血盟団事件に関わった右翼組織の門下生であったことは有名な話だ。
むしろ、「小さな親切運動」に熱心に取り組むような人情に篤い少女であったこと、このヒューマニズムが反転したところでテロリズムに至ったと考える方が自然なのだ。
だが、問題はロシアだ。
東方正教会の信仰とツァーリへの崇拝が一体となったヨーロッパの反動ロシア。大衆のためのインテリゲンチャ、ナロードニキによるテロリズムの国ロシア。
そして、レーニンにより領導され理想のユートピア国家ソビエトを建設したロシア。
そのユートピアの夢はスターリンにより悪夢へと変わる。ディストピア国家、赤い帝国。
しかし、ソビエトは70年間でその歴史を終える。
後に残ったのは、意味も価値観も何もない戦後思想のような、フロイト的超自我としての父を持たないロシアだった。
「ゲンロン6」 共同討議で感じたのはある種のイデオロギーと神秘主義の国ロシアだった。
ロシアにおけるイデアとマテリアルの結びつき、象徴的なものの壁を突破して聖なるものに触れたいという欲望、あるいは父のいないロシア=カルフォルニア的な神秘思想。
しかし、これは、どこかで見たような景色だ。
オウム真理教の身体への直接刺激による超越への跳躍、捨てられた子供としての教祖・麻原彰晃と繋がるものを感じるのだ。
1995年の事件、20年以上前の話だ。
今では、95年をめぐる心暖まる伝説のひとつに過ぎない。
これはオウム以前の類似現象としての連合赤軍。1972年のあの事件にも似たものを見い出せる。
あのリンチ事件も単なるヘゲモニー争いからの暴力ではなく、森恒夫による「殴ることによる総括。殴られ気を失うことにより、次に目覚めた時に共産主義化された人間として生まれ変わる。」という超越への跳躍だった。
そして、父なき時代、丸山眞男が殴られる時代の帰結だったのだ。
“暴力を包み込む保護者不在”
たが、これも今では些細なことかもしれない。
結局のところ、それらは、エルンスト・レーム率いる突撃隊のように、あるいは北一輝と二・二六事件のように時折歴史の舞台の上に現れる何かなのだろう。
だが、乗松享平さんの「敗者の(ポスト)モダン」にもあるように反体制的ナショナリストとソ連の「ロシア性」が結びつく様相、哲学者アレクサンドル・ドゥーギンとラディカルな若者たちの動きはあるいは同じような構図にも見える。1930年代的な様相。本来的なあり方を求める志向性。一気に革新に進もうというそのラディカルなスタイル。
反復される普遍性だろうか。
しかし、本来的なあり方があるなら、非本来的とされるあり方は?ここでは、言うまでもなく、米国式リベラリズム=グローバリズム=リバタリアニズムだろう。
新たなる本来性の物語
しかしながら、本著の特集の中心とされているアレクサンドル・ドゥーギンの思想は確かに人を納得させ魅了するだけの力があるのではないか。
そのチャート式やポストモダン的なスタイルはわかりやすく、またブラヴァッキーのような神智学的な世界認識は、世界に対して違和を抱いているものに真実を与えるものだろう。
他方、ザハール・プリレーピンは、戦後何もないところの虚無主義から舞台で演ずる役者となった三島由紀夫の再来のようだ。
流石に世界文学の国のポスト・トゥルース・ストーリーといって良いように思う。
〈都市教養〉というキーワード=コンセプトについて
2017年9月9日
よくわからない名称の大学や学部というのがある。
例えば、首都大学東京にある「都市教養学部」がそうである。
「都市教養学」とは何か?あるいは「首都大学東京」という名称をファルスのように感じる人もあるかもしれない。
これは都政の改変にもとづいてつけられた名称だ。その名称には疑問の声も多い。
そして、今現在、それらの名称は変更が検討されているという。
しかし、あらためて現在という時代を眺めてみれば、今の時代に本来的に必要なのはまさに〈都市教養〉というキーワード=コンセプトではないだろうか。
そして、これは学的な分野ではなくもっと普遍的に志向されるべきキーワードだろう。
「教養」とは?それが社会に出た時に役にたつだろうか?経済性は?
「教養」という言葉自体、すでに批判の対象だろう。
古典的な「教養」が古くさいもの,ホコリを被ったもの,無用の長物,賞味期限切れ、これは確かにそうだ。自明である。
必要のない役に立たない教養こそ重要だという議論など欺瞞に過ぎない。
では、「教養」は不要なのか?そうではない。
もし、行動や信仰をむしろ良きものとする反知性主義の道を選択するのであれば、僕らは20世紀からすら何も学んでいないし、近代を超克することなどできやしないだろう。
むしろ、僕らは近代に培ったものを20世紀の経験をふまえ止揚すべきではないか。
では、それはいかにということになる。
現在をながめ未来を志向した時に、経験としての過去を振り返り、僕らの抱えている課題はなんだろうか。
移民問題やヘイトスピーチ、多文化共存やLGBT、テロリズムや観光、ブラック企業の労働問題や「日本死ね」問題。ポストモダンの末に消えゆく地域性。
僕らが抱えているのは都市の問題である。
世界は都市化している。地方ですら都市化している。
イオンを見てみればわかる。スターバックス、GAP、ルイヴィトン。東京,大阪,台北,香港,ニューヨーク,ロンドン,ミラノ,バンコク,リオと何が違うだろうか。
僕らはどこにいてもすでに都市にいる。
であるならば、僕らは都市の問題を真摯に見つめ、移民問題やヘイトスピーチあるいはテロの時代の次の世界を想像するべきではないか。
そして、そのために使うのは統計学やAIだけではない。
むしろ、歴史的な経験に裏打ちされた「教養」こそが強度をもった道具となるだろう。
もちろん、教養そのものを具体的な計画や方法論として形作ることは難しいかもしれない。
しかし、仮にそうだとしても、少なくとも「政策=都市政策=総合政策」の基礎あるいは前段階理念としての〈都市教養〉の価値は否定すべきものではないだろう。
なお、〈都市教養〉の対象とする問題は明確で、それは他者(自己ではないもの)とどう生きるべきかという問題に限りなく接近したものだろう。
それは、社会問題としては、移民問題,多文化共存,格差,労働問題,都市犯罪,テロリズムとして現れる。
それらとどのように接するのかというのが問題であり、これらを拒否するという反応をとるのか、あるいは受け入れるのか。もし、受け入れるとすればいかに受け入れるのか。
しかし、この問題の根深いところは社会的な現実がある一方、これらがアイデンティティや承認欲求の問題と深くかかわってつながっているということで、それこそが宗教やイデオロギーに偏りやすいところだ。
だからこそ、歴史や文学あるいは思想史的な展開など教養的な諸成果の上に立つ必要がある。
台湾を旅行する。- 中華民国台湾省台北市的小旅行 –
2017年9月1日
8月24日から8月28日にかけて、台湾を旅行した。
台湾旅行を振り返ると、文化あるいは歴史的な流れにおける気づきが大きかった。
また、この旅は4泊5日だったのだけれど、予想していたよりも台北は大きかった。
旅の全体像は、以下のような日程であった。
前日深夜から羽田空港で過ごし、LCCのタイガーエアで05:30に離陸。
1日目、西門駅周辺の昆明街にあるホテルに到着。龍山寺周辺や台湾総督府周辺を散策。
2日目、世界三大博物館の故宮博物館や誠品書店をめぐる。夜は士林夜市を散策。
3日目、鼎泰豊の本店で食事、夕方からは九份を散策、台北101 にてナイトビュー。台湾式マッサージを試す。
4日目、夏休みらしく白沙湾のビーチで過ごす。足裏マッサージを試す。
5日目、昼過ぎの便で帰宅。日常に戻る。
香港旅行のように気軽な散策という感じでは十分ではなく、満喫するにはもう数日いてもよかったように思う。
正統なる「中国」としての台湾
台湾は思いのほか中国であった。あるいは、失われた故郷としての中国であった。
そこには、連綿と連なる中国王朝とその芳醇な文化の香りが漂っていた。
そして南国の風土がそのその香りを包んでいた。
台湾は、彼らからしてみれば、むしろ正当なる中国である。
故宮博物館では、古代王朝から受け継ぐ文化が語れていた。そこでは漢民族の歴史だけではなく、モンゴル民族国である元や満州民族の国である清の歴史も多く語られていた。
また、その歴史の流れと強く結びつきながら語られていたものは仏教についてであった。古来、中国は仏教が大盛した国であった。
特に、自らの解脱だけではなく他者の救済をもふまえた仏教、衆生を救おうとする菩薩の御心を示した大乗仏教は中国で大きく栄えた。
そして大乗仏教は各王朝の皇帝の治世と結びついたのではないだろうか。台湾には数多くの仏教寺院が存在した。もちろん中国らしい、道教に影響を受けた寺院であるが。
それら寺院で目を引いたのは、多く関羽や孔子あるいは道教の神々や帝が同時に奉られていることであった。
台湾には多くの宮も存在した。宮とは帝を祀る宗教施設である。
日本では、古来から天皇と仏教との繋がりがあった。
また、春日大社など数々の神道と仏教が結び付きながら神仏習合を果たしていたといわれる。
しかし、日本のそのような文化はまったくのオリジナル、東方の僻地のガラパコス・カルチャーではなかったようだ。
中国においては、仏教は道教と結び付きながら受容され、また儒教と結びついた王朝文化がまた、皇帝による大乗仏教的な治世として仏教と結びついていた。
それが文化の中心、中国だった。
博物館では、中国の文化としての仏教は、インドのみならず密教で有名なチベットやその興隆地モンゴル民族の文化と結びついていることが語られていた。
くしくも、それらは中国共産党から弾圧され対抗した地域であった。
他方、台湾(中華民国)を見ると高砂族の存在があった。
彼らは音楽の音色で農耕作物をねぎらう優しい原住民であったという。
台北も中心地から少し離れると(といっても台北は東京で暮らすわれわれのイメージよりもはるかに広い)、高砂族だろうと思われる日に焼けた素朴な表情の人々ともすれ違った。
台湾と日本
しかし、振り返れば明治28年(1895年)、日清戦争の後に交わされた下関条約により日本は台湾を領有していた。
時代は帝国主義の時代であった。
1919年に完成した台湾総督府は現在も公務で使用されている。
総督府の周辺にはいまだに当時の面影を残す建物が多く建ち並んでいる。
また、かつて日本軍が使用していた軍事施設は、現在では中華民国国軍により利用されている。
ガイドの男性によると懲役の任期中にはこのような怪談話も囁かれるという。
“夜中見廻りをしていると軍靴の音が聞こえた。”
“見廻り中に居眠りをしてしまったら、上官らしき声に日本語で怒鳴られ起こされた。”
総督府付近を散策しながら商店街の中で趣のある寺院を見つけ入ると意外にも空海が祀られていた。
西門駅周辺にある台北天后宮である。
ふと、その像を眺めながらカメラのシャッターを切っていると日本語で人の良さそうなおばあさんに話しかけられた。
彼女は昭和4年生まれ、現在88歳。かつて、日本が統治していた時代に国民学校に通っていたという。
あまり普段は話さないという日本語で語る彼女は、そこはかつて弘法大師を祀っていた日本の神社であったと語った。
第二次大戦後、台湾を統治した国民党によりその寺院は改められ天号宮とされたという。
中国国民党の台湾
国民党はその後、国共内戦で中国共産党との戦いにより台湾に撤退することになる。
台湾や国民党といえば、孫文というイメージがあったのだが、蒋介石も国民党の党首として語り継がれているように感じた。
硬貨の絵柄を見ると、50元や10元は孫文、10元と5元,1元は蒋介石の肖像が描かれていた。
また、国民党の歴史も見たいと思い国軍博物館にもいったのだが、記念展設営の改修のため休業であった。また機会があればよりたいものだ。
台湾には、現在でも徴兵制があるということだ。
街中にはいくつも軍警用品店というミリタリーショップがあった。
また街中に、監視カメラが設置されていた。
陶磁器と漢字の文化
故宮博物館では、仏教のほか陶磁器と漢字の文化が大きく取り扱われていた。
中国の文化のたよらかな風合いは、この陶磁器と漢字の文化によるところが大きいのではないか。
陶磁器は、古代から続く代表的な工芸・芸術である。
それらはもちろん職人が作るのだが、それはあまりに自然な雰囲気を持っている。
陶磁器はあくまで土であり、泥である。それを捏ね、造形し、焼き、色合いをつける。
しかし、それらは土であり、形を崩せばいずれそれらは土に戻るであろう。
われわれもまた、土であり泥である。われわれもまた、土に戻る芳醇な自然の一部の存在であるのだ。
あるいは、漢字文化。それらは、ラテン語やギリシャ語から影響を受けているヨーロッパの言語とは大きく異なる。ヨーロッパの言語は表音文字である。たとえば、ローマ字には1文字1文字には意味がない。デリダが批判したように、ヨーロッパの言語は音声中心主義であり語りを中心に作用する。
言いかえれば、ヨーロッパの言語には読み手による解釈の幅、遊びの要素が広くない。
きわめて論理的なのである。
他方、漢字文化はもともと象形文字由来の表意文字である。
それらは、1文字1文字がシンボルでありなんらかを象徴し表している。
他方、それゆえにそれらには厳密な論理構築には適さない。
それはこういう風にも言えるだろう。漢字はシンボリックなメタファーの遊びであると。漢文の古典を考えてみればあきらかだが、それらはいくらでも解釈の余地がある。しかし、それゆえにそれらは芳醇なのである。
それらは、論理により語り尽くすのではない。語りと語らぬ中に、別の語りを含むのだ。
それから
その他、色々と過ごした。
誠品書店ではカバーがリデザインされた洋書を買った。
白沙湾では地元の女子高生と男子たちの戯れと日差しに目が眩んだ。
士林夜市ではその喧騒のムードに飲まれたのかストリート風のTシャツとキャップを買ってしまった。
九份帰りの相乗りタクシーではサンフランシスコ出身のバリーと仲良くなった。
女の子たちは、みんな可愛かった。
女の子がみんな素敵な台湾ガールならね……。
若者の街とユース・カルチャー
~ 渋谷,音楽,ファッション ~
2017年8月21日
自分が大人になると、若者の姿を見ることがなくなる。
もしかすると僕らの知らないところで「若者」はひっそりと絶滅してしまったのかもしれない。
そんな気分になることがある。
もちろんそれは何かの勘違いのようなものだろう。
インターンをこなしている大学生、リクルートスーツの就活生、しっかりと勉学に務めている大学院生の話は聞くことがある。ありきたりでつまらない、たまらない話。
「実学」重視の就職予備校や職業人養成学校となった学園で職業訓練者たち学生らは、そのモラトリアムをどのように過ごしているのだろうか。
(実学なんて、糞食らえだ。雑学の方が、まだましだ。と、思うこともある。教養はどこに行った?時代の流れには逆らうまい。せいぜい、社会のために働くと良いと思う。)
もちろん、下の世代の若者に対して批判をしても仕方がない。
はたして、いわゆる「若者」はいまでもいるのだろうか。
むしろ、かつての「若者文化」はまだ生き残っているのだろうかというのが、気になるところだ。
おそらく、若者像自体大きく変わっている。
皮肉な言い方だが、変わるべきものが変わり、変わるべきでなかったものが変わっているのだろう。
若者の街
渋谷、原宿、下北沢。
「若者の街」と呼ばれる場所がある。いや、「あった」なのだろうか。
ストリートはいまや決してランウェイではない。
ストリート?むかしむかし、かつて、みゆき族や竹の子族のように、ファッション感覚で街にあふれることがあったらしい。
もはや、フォークロアに近い感覚だ。
渋谷はすっかりオフィス街の様相を見せている。
原宿からはファッション文化の象徴としての栄光はすでに失われてしまった。
また、かつて住みたい街ランキング常連であった下北沢からは急激に人が離れているという。
多くのファッション・ブランドが、展開を終了した。
撤退戦だ。
「何か」が終わった。
あの憧れはなんだったのだろう。
ユースカルチャーのアイコンとしての「渋谷」
それでも、僕らはやはり「渋谷」をまだ求めてるのではないかと思う。
渋谷のショップで流れるサウンド、流行のマジックナンバー、街角に溢れるシーン。アルコールで漂う中飛び込んでくる電飾。深夜の交差点を行き交う人波、誰かのクラクション。
「また会おう、それじゃ」 「少し歩こうか」 「もう一軒、飲み直そうよ」
「もう帰る?それとも、今日はあの坂を登って、泊まろうか?」
音楽は止まらない
忘れた人たちは忘れているだろうし、忘れられない人たちはきっと忘れられない。
パーティは終わった。音楽は鳴り止んだのだろうか?
夜の渋谷をさまよう人びと、淡さと切なさが交差する都会的なグルーブ感、それから。
存在探求のためのメモランダム/言葉をめぐる冒険/浮遊への逃避行
2017年8月17日
存在探求のためのメモランダム
ハイデガーの『存在と時間』を手にしている。
古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することをめざしている。
ハイデガーは言う。「哲学や形而上学の本来問うべき問いは『存在とはいかにあるのか?』ということである」と。
けれども、これは単に論理形式上あるいは実体化された「有・無」や「揺らぎ」としての「存在」ではない。
むしろ、「在り方」への問いであるし「有意味とはいかなることか?」という問いである。
もし神がいないのならば、全てが許される。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』イワンの台詞だ。
もし神がいないのなら 実存が本質に先立つ。
このような言葉でサルトルは語った。
あるいは三島由紀夫の「豊饒の海『天人五衰』」のラストシーン。
しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば……それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。……
近代はルネッサンスの人文復興が嚆矢となり、神との決別からはじまった。
しかし、だからこそ、デカルトは神の存在証明を行なったし、カントは理論理性によってはいかなる方法によっても神の存在証明はできないとしながらも道徳・実践的見地から神の存在を要請した。
ここで言う神は多神教の神ではない。それは一神教のGODである。
神はこう言いかえることもできる。神‹創造主›=客観=絶対法則。
ふりかえれば哲学の歴史はギリシャ悲劇のようであった。
プラトンからはじまりヘーゲルに至る形而上学の神殿はくしくもその根底から崩れさった。
アポロンの神殿はディオニュソスの叫びに飲み込まれた。
潮騒香る風景はその景色を一変させる。
その上、ひょっとしたら、この私ですらも…。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった。
などてすめろぎは人間となりたまいし
神は死んだ。
他方、神なきユダヤ人のマルクスやレーニンは、客観的でもっとも正確な科学や歴史を信じた。
自由で自律した人間のユートピアを夢みて。
そして牧師になるという母の夢のために神学信徒であったスターリンも、神を棄て共産主義に傾倒する。
ブハーリンは呟く。
コーバよ、なぜ私の死が必要なのか?
言葉をめぐる冒険
村上春樹の『羊をめぐる冒険』の羊は、西洋哲学・現代思想の言葉でいえば「形而上学」そのものなのだろうと感じている。
人に幻想を抱かせ操るもの。
だからあの物語は『言葉をめぐる冒険』と名付けることもできる。
完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね
形而上学の果てともいえる「1960年代」近代の終焉に起こったのが若者たちの”知性の叛乱”だった。
それは形而上学=哲学=理性を、=現実たらしめるための進歩主義的革命だった。
しかし、「僕」はその中で彼らイデオローグたちの「言葉」の欺瞞に気づき、それとの闘争/逃走を開始する。
村上春樹と同世代、全共闘世代の小阪修平は言っている。
同世代の一番優秀な奴は滅んだか、半ば廃人になった
「羊抜け」だ。
小阪修平もなかば離人症のようになったという。
誰もが、語る言葉を失った。
歴史の終焉、革命の終わり、宴の後。
1970年代はさめざめとした殺伐とした風景を思わせる。
1970年「よど号ハイジャック事件」、1971-1972年「連合赤軍事件」。
文化面では、1972年『木枯らし紋次郎』、1973年『氷の世界』、1974年『傷だらけの天使』、1975年『僕たちの失敗』、1976年『いちご白書をもう一度』。
イーグルスによる『ホテル・カルフォルニア』が歌われた次の年、「ダッカ日航機ハイジャック事件」の翌年、1978年に村上春樹は処女作『風の歌を聴け』の執筆を開始する。
その小説は、歴史の終わり=観念の王国の崩壊=羊が離れた年、1970年の8月8日からはじまる18日間の物語だった。
浮遊への逃避行
僕はむかしから幻覚にすごい関心を持っていて、それは世界の認識とか在り方と係わっているものだと思っている。
そして、オルダス・ハクスリーやティモシー・リアリー、ヒッピー・ムーブメントはそれを予見したものであったのだろう。
ところで、看護師の姉から聞いたのだけれど、手術後、人は一般的にせん妄を抱く傾向があるらしいという。
そういう意味では、人間の意識というのはきわめて不安定で浮遊したものだと思う。
この意識の不安定さというのは本来ぼくらが世界とつながりを持つ上で忘れてはいけないものだと思っていて、この浮遊を捨てて理性(論理)による固定に偏るとある種の抑圧や理性の暴走につながるのではないかと考えている。
だから、この意識の不安定さというものこそが、ヒューマニズムそのものといえるだろう。
また、 この意識が浮遊した意識状態というのは経験≒論理による既成概念の固着をなくした状態、エポケーに近いものではないだろうか。
そして、その状態において、身体性に重心をおいて捉えればヨーガになどにつらなるものとなり、他方言語的な方向に重心がかかれば詩的なものになるのだろう。
それは、ある意味でポスト・モダンが思い描いていた状況によく似ているものではないだろうか。
かつて解放区で行動していた小坂修平は、そのポスト・モダンの重みを後年語っていた。
しかし、欲望は、リゾーム化したバベルの塔を夢視たいのだ。
左右対立のねじれについて ‐ あるいは革新右翼,ハイデガー,三島由紀夫 ‐
2017年8月4日
”右翼と左翼の言説が反対になっている” “右翼が改革を目指し左翼が保守的になっている” という〈左右対立のねじれ〉を問題にして、いかにして勢力図式はこう変更されたのかという問題提起がある。
たしかに、それはそうだ。右翼=保守,左翼=革新というのが一般的な見立てである。
しかし、1960年代や1970年代における新左翼の運動や冷戦構造の転換を通して、その勢力図式が塗り替えられたと語られている。
しかし、ここでは別の側面から、この〈左右対立のねじれ〉について、あるいは〈それ以後〉について捉えてみたいと思う。
それは、大正~昭和に興隆し展開した革新右翼をとおしてある時代の流れを捉えるということかもしれない。
現在からおよそ一世紀前に、革新右翼というものが登場した。
代表的な人物としては、後にイスラーム研究者となった大川周明や『日本改造法案大綱』を記した北一輝などがいるだろう。
考えてみると、彼らは僕らが “ヘイト・スピーチ” でイメージするような右翼像ではないのかもしれない。
たしかに、彼らの中にはむしろ社会主義的な主張を含むものが少なくなかった。
しかし、彼らはまさしく右翼であった。
そして、彼らを支持した一方の人々は、三陸大津波や世界恐慌、昭和東北大凶作・大飢饉に生活の煽りを受けた貧困農家の出身の青年たちであった。
大正~昭和の時代をふり返ると、そこにはロシア革命や第二次世界大戦があり、関東大震災があった。
その時代に描かれた光景は、9・11,東日本大震災=福島原発事故を通過し、イスラム国(IS)の登場とポピュリズムの台頭を目撃する現在と通底するものがあるのかもしれない。
すると、ある方向が想い描かれないだろうか。
ある段階まで、グローバリズム(帝国主義)が進んだ時代に、その時代が孕んだ問題を解決するために台頭するのは革新右翼なのではないだろうか。
少なくともそのような状況で、論理性があり、かつ行動力/実行力がある存在としての右翼が成長するというのは、不思議でないだろう。
そして、これに関連して思い出すことがある。三島由紀夫の『わが友ヒットラー』という戯曲だ。
その戯曲は(あるいは歴史の中では)、ハイデガーのドイツ民族主義的な突撃隊(SA)が親衛隊(SS)によって粛清された事件が描かれている。
これと似たような事件は日本でも起きていた。それは、勃興していた北一輝や皇道派が統制派に粉砕されたということであった。
思えば、三島由紀夫には、ハイデガー的な実存哲学に似たものがあった。
晩年の長編小説『絹と明察』には、ハイデガーの思想に傾倒しヘルダーリンの詩を好む「岡野」という人物が登場する。彼はシニカルな傍観者としての役割であったが、作品の最後で社会へのコミットメントに向かうこととなる。
あるいは、『豊饒の海』を読むとよく実感できるのだが、そこで描かれていたテーゼは、存在の偶然性と不条理な無であった。三島由紀夫の中心には空虚があった。
『豊饒の海』を書き上げた三島は市ヶ谷の自衛隊の駐屯地に乗り込むことになるが、三島由紀夫がそこで演じたのは戯曲『わが友ヒットラー』における突撃隊のレームのようなハイデガー的な愛国心を持った人間の破滅と悲劇だったのかもしれない。
レームに私はもつとも感情移入して、日本的心情主義で彼の性格を塗り込めた
また、そこには二・二六事件で銃殺刑に処せられた青年将校や北一輝に重なるものがあった。
二・二六事件により、皇道派の壊滅は決定づけられた。
一方、統制派の政治的発言力は強化されることになる。そこから時代は加速した。
知識人、理論家が左翼の方にひきつけられるように、しぜん、官僚、実際家は右翼にひかれる。したがって右翼は理論に弱く、理念わ獲得し得ないことが常に苦の種なのである。左翼の特徴的な弱点は、その理論を実際にうつすことができないことにある。
E・H・カー『危機の二十年』1939年
左翼⇔右翼,革新⇔保守という〈左右対立〉のねじれの問題を考えていたのだけど、「左翼⇔右翼」という対立イメージ自体がすでに見せかけの虚飾に過ぎないのではないかと感じた。
むしろ、アクチュアルなのは、ヒューマン⇔システム、政治的にいえば格差是正 – 平等⇔優勢性保持 – 自由ではないだろうか。
たしかに、E・H・カーの話はわかるのだけど、あまりに古典的で、それは1つのシステムの外部たる理論家や知識人というポジションが存在した時代の話であって、そこがいわゆるモダンと現在の違うところだろう。
あるいは、この状況を打開する方法はあるのだろうか。
飛躍するのだけど、多数のカルト/セクトの生成・乱立こそがむしろシステムのあり方を変えるのではないかと思った。
そして、それをつくるメディア・プラットフォームは豊富にある。
そうゆう意味ではポスト・モダンのツリー→リゾーム図式は正しくて、むしろ、それらの問題は核なき相対主義の肯定であったわけで、しかし、人はそれほど強くないということにあった。
それゆえに、アイデンティティの源泉たる物語・神話が必要なのだけれど、それを作り出せるのがポスト・トゥルース的状況ということがある。
だから、むしろポスト・トゥルース的状況をあまりに否定してはいけなくて、もちろんシステムもこの状況を利用するわけだけど、規制は逆説的にシステムによる統制だけを肯定するわけだろう。
僕らが旅に出る理由 – 日常の外の日常 –
2017年5月31日
僕らが旅に出る理由はなんだろうか?
とはいえ、旅にも色々あるかもしれない。
ある意味、旅はある形での自由(自我の拡大)の追求だろう。
ヘーゲルの絶対精神の弁証法の旅やゲーテの自由を求めるビルドゥングスロマン、コリントスから逃れたオイディプスの悲劇の旅。
他方、旅は他者との邂逅や出会いと別れ、ヒューマンを感じるものかもしれない。
東浩紀の「観光客の哲学」や川端康成の「伊豆の踊り子」、あるいは市川崑の「木枯し紋次郎」「股旅」。
僕は以前から「旅」「旅行」「観光」といったキーワードには違和感を持ち続けていた。
そこには、ある種の憧れと軽蔑、アンビバレントな感情があった。
なぜ、旅をするのか?目的は何か?何をどう楽しむものだろうか?
そもそも、社会人の男性をターゲットとした旅の目的地はあるのだろうかという疑問(風俗や酒場は別として)。
あるいは、物理的に移動する意味はあるのか?旅行とインナートリップはどちらがより遠くまで行けるのか。
しかし、5月は思いがけずに何度か遠出をした。
香港・マカオへの旅行、ブラジル街大泉町の散策、伊豆大島の旅行、御岳山登山。
住めば都というが、出れば旅も悪くない。
たしかに、日常の想像の外の世界に触れることができる。
たとえば、香港の乾物の匂いの漂う路地裏。
マカオの下町で猫のように暮らす老人たちの飲茶をする姿。
ブラジル人労働者たちのアパート暮らしと、ソウルフード、そしてカトリックの教会。
踊り子たちが暮らしていただろう島の風景。
それは、僕らの日常の外にあるものだ。
しかし、それは僕にとってであり、かれらにとっては日常だ。
僕はここにいて、かれらはそこにいて。
もしかしたら、彼らは僕らなのではないか。
そんな想いすらよぎる。
あるいは、真っ暗で底が見えやしない休火山の噴火口。
まるで人のいない18時の登山道。
沈みゆく黄昏が映る。日没が迫る。頂上まで辿り着けるのだろうか?
いや、それは日常そのものじゃないか。
思考の袋小路
2017年1月27日
ある時に、ふと袋小路に迷い込むことがある。どこから入り込んだのか、出口が見つからない。物理空間であればまだ救いはある。壁を乗り越えることができるなら。
情報空間でのエラー。繰り返しのリダイレクト、503 Error Service Unavailable。思考の袋小路。
哲学的な問いは、ある意味で薮知らずの森だ。そして、それは足を踏み入れるまでもなく、気づけば僕らを取り囲んでいる。 存在への問い、価値への問い、客観への問い。本質とは何か、美とは何か、人間とは何か。
答えはあるだろうか、ないだろうか。
思考の袋小路に迷い込んだことがある。きっかけは、すべての現象は言葉によって、善にも悪にも自由に解釈できると気づいたことから始まる。すべては人間の解釈によって定義される。つまり、世界そのものには価値は存在しない。すべては相対化されるから。
世界に価値が固定されていないのであれば、人間の論理や認識が世界を定義づけることになる。 では、人間にとって、定義の基礎は存在するのか?何か絶対的なものがなければ定義の基礎づけはできないのではないだろうか。絶対性は存在するだろうか?
絶対性は存在するだろうか?日常的には、絶対性が存在するようには思えない。しかし、絶対性が存在しないとすれば、それは絶対的な否定が存在すると肯定することとなる。論理矛盾。
あるいは、人にとって死は絶対不可避であるといえる。これこそが絶対的なものであると、人は言う。 しかし、死とは認識や解釈の無を意味する。絶対的なものが無であるのであれば、すべては無である。基礎づけはできない。
それらは観念的な妄想かもしれない。科学的に観察をすれば、客観的な事実を獲得できるはずである。客観的な事実を基礎づけに置けばいいというのが、現実的だろう。
しかし、何が客観を基礎づけるのか?客観を認識するのは主観に過ぎない。客観を観察する客観を客観的に把握しうるだろうか。
この森に出口はないように思える。 優秀な大人は、はじめからこのような問題には取り組まないという利口な態度でやり過ごす。 常識的な人間は妥協点を知っている。彼らは日和見主義だが賢い。
では、愚かな僕らはこのような問題にどのように取り組むべきだろうか。
おそらく方法はいくつもある。だから、これは僕の意見だが、重要なことは、思考の二項対立に第三項・第四項を追加することだろう。
たとえば、絶対性の存在の有無は、絶対性が有るか無いかという二項対立である。二項対立は罠だ。第三項・第四項を検討することを忘れてはならない。有かつ無、非有かつ非無。
そして、論理はつねに矛盾を内包していることを忘れてはならない。二律背反(アンチノミー)、不完全性定理。むしろ、論理は固定化できるものではなく、ヘーゲルが言うところの絶対精神の弁証法と同様に、ダイナミクスの中にあるものだろう。
加えて言えば、サルトルのように無であることを受け入れ、むしろ自由を手に入れることだ。世界には価値がない。僕らにも価値がない。すべては相対的で恣意的だ。だからこそ、すべてを定義づけられるのは、僕自身だけであるし、自由に定義づけることができる。
その時、袋小路はすでに存在しない。それは虚構の空間であった。偽物の論理は粉砕された。すべての抑圧は解き放たれた。OSはその時再起動し、人は再び語ることができる。